偽書 第18.8弾 東方禍福宴~The world of justice and evil. 作:加賀アスナ
第17話
地底、旧都にクラウンピースの姿があった。それも地獄から脱獄してきた亡者群を死神と獄卒達に協力して鎮圧していた。
本来ならヘカーティアから受けた命令を遂行することを最優先に考えなければならない。にも拘わらず旧都の歓楽街に溢れてきた亡者共を相手にしているのは白玉楼から地上――――冥界と顕界の結界の穴を通って無縁塚へ向かう際に出会ってはいけない存在と出会ってしまったからだ。
白玉楼へ至るには長い階段を通る事になるのだが、その階段の中程にある踊り場を占拠しているものがあった。濃度の深い青黒い霧、靄のような悪意の壁と形容すべきものがそこにはあった。
一目見た瞬間にそれが触れてはならない、ヘカーティアが相手をしているアラディアと同じ物であるとクラウンピースは感じた。もし地獄の女神の加護がなければ重度の汚染に晒されていたのは間違いない。
その悪意の壁の中で蠢く何かが見えた。むしろ見えてはいけなかったのかもしれない。少し近づくと唸るような怨嗟の声が微かに聞こえてくる。悪意の壁からは強大な妖力が漏れ出てきていた。なんらかの妖怪がいるのか。
じっと目を凝らして様子を窺っていると真っ赤に光る瞳がクラウンピースを見返してくる。
生唾を飲んで後じさりし距離を取ると悪意の壁から僅かに赤い瞳の人物が乗り出してくる。黒い二つの角袋がある頭巾、黒い道袍に赤い前掛けとどこかで見た事があるようなそんな服装。だがそんな特徴よりもはるかに目立つ金色の九つの尾がその人物が誰かを物語っていた。
「――――あ、あんたは八雲紫の式神……?」
それは八雲藍――――九尾の狐だった。
しかし八雲紫が憑けていた式神八雲藍ではなかった。悪意を持ってその式神を外し、別の式神を憑けられているのだ。
式神を外した術者、緱婉姈が八雲藍の次に憑けた式神の名は――――妲己といった。
しかし九尾の狐自体が強力な妖獣である為、式神妲己が定着するまで時間が掛かっているようだ。時間が掛かる理由はただ一つ、八雲藍が外れたとしても九尾の意識は最大限の抵抗をしていたのだ。それは式神妲己は八雲藍と違って九尾の意識そのものさえも塗り替えるものであったからだ。
悪意の壁の中に押し込まれているのは定着するまで抑えておく必要があるからだろう。言うなれば悪意の牢獄に捉えているのだ。どのくらい捉えられていたかは分からないが式神の定着はほぼ完了しているらしい。
クラウンピースには知る由のないことだったが妲己というのは外の世界の古代中国の殷王朝を滅ぼした藍と同じ狐――――九尾狐狸精であった。それ故に藍が外れた九尾の狐とは非常に相性が良かった。妲己本人は斬首され最期を迎えている。その魂を回収し式神としたのが緱婉姈だった。アラディアに悪意の道を開いてもらう代わりに事態を引っ掻き回す約束をした結果がこれである。
九尾の狐は妖怪の中でも最上位の種族である。さらに八雲紫の式神が憑いた九尾は八雲藍により強化された状態にある。
緱婉姈はアラディアの悪意に藍を飲み込ませた後、不意打ちで式神を外したのである。そしてその後にこの白玉楼の階段で妲己を憑依させていたのだ。冥界に寄り付く者はそもそもが少なく白玉楼の階段という半端な場所を選んだのも邪魔が入らないと踏んでの事だった。その思惑が見事に嵌まったのがクラウンピースの目の前にある。定着した式神の術式を解除する方法などクラウンピースが知るわけもなく。ましてや壁に見えるほど濃度の深い悪意をどうにかできる手段もない。本当ならここを抜けて地上へ向かうはずだったが引き返さざるを得なかった。
そして旧都を経由する羽目になったのだが、こちらには無視できないほどの亡者が溢れていた。仕方なく行政連中の死神と獄卒に協力し亡者の鎮圧に協力することになってしまったのだ。
何故亡者がこれほど溢れてしまうことなったのか。これは旧血の池地獄の管理をしている饕餮尤魔が少しずつ経路を解放していたからだ。饕餮は畜生界を制圧できればそれでよかったのだがそのためには吉弔八千慧と驪駒早鬼が率いる鬼傑組と勁牙組が障害となる。だからこそこの悪意に影響された亡者、怨霊、魑魅魍魎を利用し驪駒早鬼を他の六道へ向かわせ、吉弔八千慧には地底への影響力を得るチャンスとカワウソ霊たちにそれとなく伝え地底へ流れるように仕向けたのだ。そうなれば後は埴安神袿姫をどうにかできれば畜生界のシェアを奪取できると策を巡らせていた。だが悪意に関しては饕餮は非常に敏感でこれを喰らう事は身の破滅である事を一早く察した。彼女は袿姫の埴輪をいくらか喰らい袿姫が有する神性を一時的に身に着けこれを凌いでいたのである。あまり埴輪を喰らい過ぎるとその特性上袿姫の言いなりになる可能性もあると踏んで神性が失われる際に喰らうことを繰り返していた。畜生大連合としては既に地獄にも地底にも地上にもその力を十分見せつけられている筈でそれだけでも他の勢力に対する牽制作用は有益となっている。饕餮が目下心配しているのは血の池地獄の解放をしている事について摩多羅隠岐奈がなんらかのペナルティ――――おそらくフランドールをまた送り込んでくるだろうが――――を課すことだった。もっともこの悪意が満ちている状態では情状酌量の余地もあるだろうと踏んではいるのだが。
饕餮率いる剛欲同盟と埴安神袿姫率いる埴輪軍団と悪意に晒された反乱軍の残党の実質三つ巴になった畜生界は膠着状態に入りつつあった。畜生界に残っている反乱軍残党は次から次へと補充されていくので切りがないが剛欲同盟の敵ではない。それは袿姫も同じであったが。
問題はいつまで悪意が続くのか、ということだ。
こればかりは饕餮もそして袿姫もまったく分からないものだった。饕餮としては霊長園を袿姫へ割譲する代わりに畜生界のトップシェア組織として同盟を認めさせる交渉を行いたいところであったがそんな余裕は互いになかった。
◆
地底、旧都の歓楽街は荒れていた。旧血の池地獄から押し寄せる亡者、魑魅魍魎、そして妖怪には厄介な怨霊が地上へ脱出せんが為に立ち向かってくるのである。
地獄より死神部隊、獄卒達が水際で応戦しているが趨勢はやや地獄の反乱軍へ僅かに傾きつつあった。それは無論、饕餮尤魔が経路を開いている所為なのだが饕餮を説得する為の予備戦力などない。
地獄としては埴安神袿姫が饕餮を鎮圧してくれるのを期待しているのだがそれが薄い希望であることは分かっている。饕餮を武力でどうこうするにはどれだけの戦力がいるのか、閻魔たちは考えるだけでも頭が痛い問題だった。むしろ畜生界を袿姫が一人で担当してくれているのだからそれで充分だと割り切った方がいいだろう。浮いた戦力を地底に回せているのだから。
とはいえ。
地獄の反乱軍に荒らされる地底の住人は溜まったものではなかった。意外な事に悪意が蔓延する中、地底の住人の悪意は月や地獄は元より地上に比べても遥かに増長率は低かった。自ら地上を去った鬼たちが独自の社会を築き上げ、嫌われ者の妖怪や地上を追われた者を率先して受け入れた経緯がある。地上とは違い地底都市は地上の協定を除けばルールは非常に緩い。何よりここでは身も蓋もない言い方をすれば強い奴が偉い、これが全てである。腕力は言うに及ばず知略であったり種族の特性であったり能力であったり、誰よりも優れた部分こそが強さを証明するのだ。
鬼ならば種族としての怪力に敵う者はほぼほぼいないが、それ以外にも旧地獄を都市として築き上げた力がある。都市の創設者の側面は社会的にトップクラスの肩書なのだ。
また妖怪に対して脅威を持つ怨霊を管理できる古明地さとりは地霊殿に事実上の独裁体制を敷いて、地底都市の中で治外法権を獲得している。それは彼女の能力とやはり怨霊の管理者としての肩書が周囲の者に認めさせているといえる。何せさとりが怨霊を嗾けるだけで妖怪を変質させ死に至らしめる事が可能であるからだ。低級の怨霊ならある程度の力を持つ者だったら対応は可能だ。だが最上級クラスの怨霊ともなれば大事件を引き起こす事もできる。反獄王こと宮出口瑞霊が仕出かした憑依事件は記憶に新しい。さとりが骨を折り確保し旧地獄に残された十六小地獄の奥深くに収監した事で事件は収束したわけだが。
さとりのファミリー以外で怨霊に耐性があるのは鬼くらいなものだ。鬼は是非曲直庁に入庁できるポテンシャルがある。獄卒ともなれば魑魅魍魎から怨霊、亡者の扱いは慣れたものだ。もちろん入庁の際に悪意や善意に惑わされないように中立である為の薫陶を閻魔たちから受ける。そこが入庁しているいわゆる行政連中と呼ばれる鬼と旧都に住み込んで社会を築いているアウトローの鬼達との違いである。
その地底の住人たちは各々で亡者どもに対抗し殲滅しているが如何せん数が桁違いなのだ。死神や獄卒達のように連携した戦い方ならば効率よく排除できただろうが、元が嫌われ者の彼らは嫌われ者同士という共通点があれどだからといって慣れ合う性質でもない。利害が一致した場合や不利益が降りかからない場合のみ手を組む事がある程度だ。無論一部には気の合う同士でつるんでいる者達もいるにはいるのだが。
またそうした利害の一致によって組織立って活動する輩もいる。歓楽街や温泉街を構成している自治会、組合などがそうだ。そして当然それを統括している元締め達がいる。
かつては妖怪の山で山の四天王に数えられた鬼の一人――――星熊勇儀も旧地獄温泉街の元締めを務めている。
彼女は非常に苛立っていた。普段は明朗快活で勇気に満ちた者や正直者を好み、軟弱で狡賢いものを嫌う、分かりやすい性格の持ち主だ。
その彼女が苛立っている理由は三つある。
一つ目は地底都市に侵攻してきた地獄の反乱軍。鬼の築いた街を無遠慮に破壊、蹂躙していく輩に腹が立たないはずがない。
二つ目は地獄からやってきた死神部隊と獄卒達。特に獄卒の鬼達とは同じ鬼でも仲間意識があまりない。というよりならずものながら閻魔に扱き使われる彼らを認めたくない。彼らは互いの自治権の拡大を巡り常に対立し事実上の内戦状態を引き起こしている。
三つ目。
それはアリス・マーガトロイド、霧雨魔理沙、藤原妹紅、また永遠亭の面々、フランドール・スカーレット、飯綱丸龍を始めとした天狗達、そして幻想郷のあらゆる人物の前に現れた姿なき悪意の気配。
それがずっとまとわりついていたからだ。それも悪意の籠る呪詛めいた言葉をついて。
苛つきを乗せた拳が亡者の集団を大地に沈める。
勇儀の立つ温泉街への入口の拱廊から後には亡者の姿はただの一人もない。だが勇儀の前には討ち果たされた亡者の山が積み上がっている。
「君にとってそんな雑種を何体屠ったところで面白くもなんともないのじゃないか?」
勇儀の周囲から反響するような声が届く。声と気配だけの姿を見せない勇儀の嫌いなタイプだ。しかしそれを知ってか知らずか、おそらくは知った上でのことだろうが気配は勇儀が口を開く前に声を響かせる。
「ああ、君は堂々と姿を見せない者はあまり好まないのだったね。だがその認識は改めた方がいい。私のように体がない存在もあるのだからね」
それは今となっては虚偽の情報だ。
気配――――アラディアの本体は集積した悪意の塊によって受肉し地獄でヘカーティアと戦争中だからだ。世界中の意志ある者から発生した悪意を三分割し月、地球、異界に体を持つヘカーティアの相手をしているのである。しかし三分割している為、各地獄にいるヘカーティアの足止めをするのが精々といった所であった。
月、地球、異界の意志ある者が持つ悪の総意とも言えるアラディアにして地獄の女神は別格だった。
けれど悪意の浸透した世界に於いて常時新たに悪意が生まれている。兵糧の無限供給という支援がヘカーティアに対して足止めを可能としていた。その上で勇儀を含め多くの者へ気配を纏わりつかせて悪意を煽っているのだ。
気配は体がないという欠陥を伝える事で姿を見せない狡賢い者ではないと勇儀の思い込みを先に否定したのだ。それがまた彼女を苛つかせることになると分かっているのだがら性質が悪い。
「どこの誰だか知らないがねぇ。体がないってのが免罪符になると思っているのかい? この騒動、あんたもどうせ噛んでいるんだろう? それじゃあ、あんたも私の敵だよ。あんたは怨霊とは違うようだけど性質の悪さは似たようなもんさ」
「これは異な事を言う。人の持つ悪意は所詮その人物が持ち得ていたものに過ぎない。この亡者共は多かれ少なかれ地底を含めて怨みがあったのだろう。それをまるで私が襲わせたかように言われるのは心外だな、星熊勇儀」
「違わないさ。そいつは詭弁だろう。こう見えて私ゃ今、大分頭に来てるよ。あんたをぶっ飛ばしたくてね」
「それを逆恨みというのだよ、星熊勇儀。そもそも怨みを持たれるような歴史があるだろう、君たち鬼は。亡者共の中には鬼に襲われた者もいるはずだ。その鬼が地上を去り、地底でぬくぬくと生きる姿を面白く思わない者もいる、ただそれだけの事ではないのか? 鬼が作ったもの、鬼が築き上げたもの、そのあらゆるものを壊し、汚し、その誇りに泥を塗る為に。――――尤も。それは亡者共だけはないらしい」
「何?」
「かつて君たち鬼は地上で妖怪の楽園を築いていた。妖怪の山といったかな? 鬼が頂点に立ち、強い妖怪も弱い妖怪も生きられる妖怪の社会を作っていた。だが、今やそれは見る影もないな。頭を失って誰もかもが楽園のルールを守らず無法地帯になっている。何故か? もう鬼は恐れられる存在ではなくなったからだ。もはや御伽噺の中でしか存在しなくなった者、それが君たち鬼だ。確かに人妖問わず鬼は恐れられただろう。だがそれももう昔の話だ。君たちは地上の人間からすればもういなくなった存在だ。地上の妖怪からしても勝手に人間に失望し勝手に地上に見切りをつけ勝手にいなくなった存在だ。そんな存在が作った物など過去の遺物に過ぎない。妖怪の山は天狗が頂点に立ったが鬼のようにはいかなかったらしい。相争う事を良しとしているようだぞ」
「――――言ってくれるねぇ。天魔がそんなヘマをするかい。私らがいなくてもありゃあ上手くやるさ。そういう輩だよアレは。それよりも。まるで鬼が滅び去ったみたいな言い方だねぇ。ますます気に喰わない」
「事実地上からは姿を消した。人間達は退治方法すらも忘れてしまった有様だ。人里で鬼を知る者はほとんどいないだろう。今となっては鬼とは伊吹萃香を指す言葉ですらあるぞ。全く、哀れなものだ。伊吹萃香はただ一人、地上から去った鬼達を戻そうと異変を起こしたにも拘わらず呼応する者はいなかったのだから。仲間意識が高いと思っていたのだが存外そうでもないらしい。所詮、退治される事を恐れ地底へ逃げた鬼という訳だ」
直後。
けたたましい轟音を立て地面が裂ける。勇儀が踏み鳴らした結果だった。
「あんた、くたばりたいらしいね。それが望みならすぐにでも浄土の地を踏ませてやるよ」
「事実を述べただけで逆上されるとは鬼もその程度か。それとも星熊勇儀、君には伊吹萃香に呼応しなかった心当たりでもあるのではないかな?」
「は、何を言うかと思えば。私らは地上との盟約がある。都市を築く代わりに怨霊どもを管理するってね」
「それこそ言い訳ではないか。何のための地霊殿だ。古明地さとりが何故いる? 彼女がいれば怨霊の管理など事足りるではないか。君には明確に呼応しなかった理由があるというのに、欺瞞だな」
「理由だって? だったら聞かせてほしいね、私が一体どんな理由で呼びかけに答えなかったのか」
「ほう。では言ってやろう。君の心を暴いてやろう。伊吹萃香に呼応しなかったのは、君が――――嫉妬しているからだ。そんなに妬ましいか、鬼の仲間に応えないほどに」
「――――ッ!」
それは誰にも語った事のない勇儀の心の奥底にある感情。
彼女が伊吹萃香に嫉妬しているという――――唯一古明地さとりだけがその能力で知り得ている――――真実。
そう。地上で暮らしていた頃から、地底へ行った時も、伊吹萃香は常に星熊勇儀の一歩先を行っていた。そして鬼の誰もがいずれは地上で返り咲く事を夢見ていた時があった。しかし鬼を罠に嵌め騙す術を憶えた人間達は次々と再度地上へ進出する鬼を葬っていった。
――――神便鬼毒酒。
対鬼神用の呪酒である。飲めば鬼の力を封じる事ができる、本来は神々の醸造による逸品だ。人間達はこれを模倣したランクの下がった酒を多く醸造した。例えランクが下がったとしても効果はある。力を封じる事はできなくとも一時的にも力を失わせる事ができたのだ。ならばあとは人間が拵える事が出来る対妖怪の武器、日本刀をもって首を切り落とせばいい。童子切や鬼切丸が有名だろう。酒好きな鬼に真剣勝負を挑むと招いて飲ませ、粛々と排除していく。
この騙し討ちでどれだけの鬼が葬られたか、そしてそんな人間達にどれだけ失望したか。それでも伊吹萃香だけはいずれは地上へ、そんな夢を見続け自ら異変を起こし鬼を呼び戻そうとしたのだ。その頃では勇儀も諦めていた一人だった。むしろ地底での暮らしに馴染んでいた。力こそが全ての地底では鬼の天下だった。自らを脅かす者など皆無の世界。それはある意味安全地帯という事でもありまた悪い言い方をするのなら微温湯に浸かっているようなものでもある。それに慣れてしまったのだ。もはや地上などどうでもいいとそう思ってしまっていた。
なのに。伊吹萃香だけは地上への思いを貫き通した。事実彼女は地上に自分の居場所を作りとうとう天界にまで居場所を作った。その姿はいつかの勇儀が思っていた夢そのものだ。再び地上で返り咲き堂々と真正面からの真剣勝負を行える事が。
伊吹萃香はそれをやってのけたのだ。
星熊勇儀ができなかった事をやってのけた。これを嫉妬するなという方が無理からぬ話だ。いつだって萃香は勇儀の前を歩いている。だが勇儀は地底で都市を作り居場所を作り、他の忌み嫌われた妖怪を受け入れ、いつの間にか旧地獄温泉街の元締めにまでなっていた。それを放り投げて萃香のように振舞う事もできたはずだ。だがそれができないのが星熊勇儀なのだ。
なんと不器用な生き様だろう。豪放磊落を描いたような勇儀の誰にも見せない心の奥底の思い。
あろうことかこの気配はそれを言い当てた。
誰にも語った事のない思い。
誰にも触れられる事がなかった思い。
それを直接言い当てられた。それも伊吹萃香と比べられるという勇儀が最も突き付けられたくない事実とともに。
「事実を言い当てられて言葉もないか。なれば所詮君はその程度
ということなのだ。君は伊吹萃香のようにはなれない」
「――――黙れ」
「恐れられる鬼というのは堂々としているものだ。そう、伊吹萃香のように」
「――――黙れ!」
「ああ、そういえば。ここには同じく嫉妬深い妖がいたな。確か水橋パルスィといったか。彼女とよく共にいるのは他者を妬む彼女の姿で己の無聊を慰めていたからかな?」
「――――やかましいッ!」
力一杯握り締めた拳を虚空に振るう。拳圧が大気を震わせ地面を抉る。積み上げられた亡者の山が文字通り木端微塵に粉砕され勇儀の前方に犇めいていた亡者が海を割るように消え去った。
「よくもまあ、言いたい放題言ってくれたねぇ。こうも虚仮にされたのは初めてだよ」
「虚仮になどしていない。先ほども言ったが事実を述べただけに過ぎないというのに。虚仮にされたと感じたのなら心当たりがあったという事だろう? 鬼として恐れられていないという現実を知っていたという事だろう? それに鬱憤を感じるのなら知らしめてやればいいのだよ、鬼の畏怖を。簡単ではないか。今まさに無法地帯となった妖怪の山はそれを統べる頭がいない。頭があればいいのだよ。分かるか? まさか、かつての君たちにできた事ができないなどとは言うまいな?」
「――――私に地上へ行けっていうのかい? 巫山戯た妄言だよ全く。盟約を反故にしてまで向かうとでも?」
「それならそれで構わない。盟約を盾にできないと答える事は想定できていた。畏れをなくした君に地上の空気は吸い難かろう」
「それを決めるのはあんたじゃない。私さ。本当に、どこの誰だか知らないがいちいち癇に障る事をべらべらと。どうやってかは分からないがねぇ、心の中まで見透かして触れられたくない事を喋り立てて。胸糞が悪いったらありゃしない。だがね、あんたにも腹が立つがそんな事で動揺してる私自身に一番腹が立ってんだ。ああもう、隠し事なんて鬼の私にゃ似合わないってのは分かってたはずなのにさ。それであんたみたいなのに付け入れられる。全く情けないねぇ。だから、あんたの口車に乗ってやる。鬼の畏れってのを感じさせてやるよ」
勇儀はその場で地面へ向けて拳を振り下ろした。局所的な地震が襲ったかように、ある所は大地が裂け、ある所は衝撃に地面が隆起する。ゆったりと、だが確かな足取りで温泉街の入口から歩き出し隆起した地面を――――驚いた事に持ち上げ――――拱廊前に積み上げる。亡者共が侵入できないようにバリケード代わりにしているのだ。尤もそれはバリケードなどと生易しいものではなく防塞といっても差支えのないものだった。
向かうのは霊烏路空が働く間欠泉地下センターだ。地獄谷を登るのでもいいが整備されているセンターには地上へ繋がるエレベーターがある。妖怪の山の麓に出口があり最短で向かう事が可能だ。
亡者の反乱軍が犇めく旧地獄街道を拳一つで闊歩していく。勇儀の後には夥しい数の亡者が大地に伏していた。
◆
守矢神社の下社春宮で河童たちの手当を一通り終えて華扇が救助した兎の介抱に回っていた秋姉妹は一息ついた。
守矢神社には山城たかねを始めとする山童たち、豪徳寺ミケ、駒草山如、また天魔と文に捕縛された姫海棠はたて達一部の鴉天狗が運び込まれていた。またこの異様な状態を看過できなかった玉造魅須丸、天弓千亦ら神様も守矢神社へ合流していた。
境内に並べられた、悪意に翻弄され戦闘沙汰へ発展してしまい
怪我を負ってしまった者達。
鍵山雛や軽傷であったお陰で悪意を祓ったのちに介抱に回ってくれた山如たちもやや疲れが見えている。
静葉と穣子は諏訪子から炊事場を使っていいと了解を得ており介抱に尽力している彼女達に休憩を促しお茶を淹れた。
――――余談だが。
守矢神社は元は外の世界から来たため、台所には冷蔵庫があり、いわゆる生活家電と呼ばれる機械類が揃っており調理器具等も非常に水準が高かった。水道設備も整っており蛇口を捻れば水が出るという画期的なものだった。これは当初幻想郷へ越してきた際に外の世界での生活と幻想郷での生活の差が大きく特に炊事に関して危機感を持った神奈子がにとり達と相談し整えた結果だった。
炊事が楽に行えるというのは非常に魅力的だったが何よりも静葉が感じたのは、
「社っていいなぁ。四つもあるんだから一つ譲ってもらえないかなぁ」
と、社そのものだった。
そもそも守矢神社が四宮もあるのは当然神奈子が湖ごと移転してきたからだが、では外の世界の守矢神社に相当した神社はどうなっているのか。それは諏訪の大社と呼ばれる神社でありこちらも二社四宮が鎮座している。そして諏訪の大社には本殿がないのである。上社前宮には本殿があるにはあるが本格的ではない。幣拝殿と片拝殿のみがある。本来あるべき本殿がないのは御神体そのものが霊山であったりイチイの木、スギの木であったりするからだという。だが真実は神奈子が幻想郷へ持ってきたからである。これは諏訪子の王国を平定した際に祟り神を束ねる諏訪子の神社を手にした神奈子がタケミナカタと祭神の名を立て神社名を守矢神社と変えた事が発端となる。王国内では守矢神社と外では諏訪の大社と使い分けをした結果、時代が進むにつれて王国内外で人々が代を重ねたり土地を離れる者、外から入ってくる者と入れ替わりいつしか対外的に使っていた諏訪の大社という名だけが残り王国内での呼び名である守矢神社という言葉そのものが忘却されていった。
二社四宮の本殿は拝殿と同じ敷地内に建立はされておらず霊山の中など然るべき場所に鎮座していた。
本殿と共に宝殿や神長官の居館、大祝の神殿、通常の神社が備える社殿が拝殿とは別に造られていた。しかし険しい山中を登り本殿まで来る者は時代が移り変わり行く中で数を減らし明治到来の波での神社改革、二度の世界大戦を経てもはや記録の中の長物と化してしまったのである。その最中でも早苗の生家である東風谷家は居館の現代改装など本殿と本殿周りの管理に力を注いできたが激動の時代では東風谷家とて食べていくだけで精一杯な時もあった。戦争が始まれば男手は徴兵に取られ本殿の管理などできない時期もあった。東風谷家の最後の息女であった早苗は神の血を引く現人神でもあり、その力が信仰の衰退とともに失われていく事を危惧した両親は早苗を通して神奈子が幻想郷へ旅立つ事を知り、現代の諏訪の地で神を存続させる事ができなくなるのならいっそのこと早苗を連れて行ってほしいと告げたのである。
皮肉な事に人々が本殿の存在を忘れていたが故に、そして現人神という存在を空想の産物だと思っている人々になってしまったが故に早苗の存在感を限りなく薄くし神奈子は両親の願いを受け――――無論、早苗の意志を何度も確認した上で――――早苗を連れて本殿施設を丸ごと幻想郷へ持ってきたという訳だ。
当然当時の東風谷家が心血を注ぎ管理していた本殿施設は改修するような劣化した部分などなく見事に維持されていたのである。
静葉が羨ましくなるのも頷ける話なのだ。
お茶を啜りながら穣子へ語りかけるもののその穣子は何故か空の一点へ視線を向けて固まっていた。
「…………穣子?」
怪訝そうに彼女を見るが全く言葉が届いていない。それどころかにとりや雛たちもある一点を見つめている。嘆息して彼女達が見ている方向へ顔を向けるとそこには――――。
「……黒い……穴?」
空に黒い穴が空いていた。黒い真円が。
いつのまにできていたのか、それともたった今ぽっかりと穴が空いたのか。
見れば。誰もがその穴に目を奪われていた。
明らかに異質。
明らかに異常。
これはいかなる現象が齎したものか。けれど黒い穴を見た全ての者が抱く思いがあった。そう、これは。
良くないものだ。絶対に良くないものだ。それだけは悪意に晒された者も、正常を保っている者も共通して感じたものだった。
「なに、あれ」
ぽつりと静葉が呟く。
――――と。
穴から赤い雫が滴り落ちていく。まるで血のような赤黒い雫が。それは大地に触れる前に血煙めいて散っていく。それは空が流しているような不吉な光景。さらにそこから金色に輝く――――卵のような――――球が覗く。
「…………生まれようとしているの?」
固唾を呑み、絞り出した静葉の言葉は的を射ていた。
黒い穴は産道であり赤い雫は分娩の出血だ。金色の卵がその半分が姿を見せた時、みしみしと罅が入る音がやけに大きく耳に届く。蜘蛛の巣状に入った罅は今にも割れそうである。
――――そして。
罅から殻と同じ金色の光が漏れ出て――――。
金色の卵が崩壊しその中から札弾が雨の如く降り注ぐ。
それは八千万枚護摩のような。
たっぷり一分は降り注いだ札弾に山にいる妖怪たちは防御の構えを解くことなく警戒し金色の卵を凝視している。
守矢神社に避難していた者達は諏訪子の領域にいる為、札弾を受けることはなかった。けれどやはり警戒を緩める事はなく。
そこへ。
全てを侮辱するような陰惨な嘲笑が響く。
「小さいのぉ、小さいのぉ。哀れ哀れ、哀れよな。妾が手に取ったのは大陸の国ぞ。東の果てのそのまた僅かな領地とは盗りがいがないのぉ。ともあれ主様の命とあっては致し方なし。しばし戯れに興じるのも面白い」
黒い道袍に赤い前掛け。
黒い二つの角袋がある頭巾。
金色の九つの尾。
色が違うがそれは確かに八雲藍。だが八雲藍ではあり得ない笑いとその口調。
「八雲藍!? 八雲の式神が。ここが我ら天狗の領域と知ってのことだろうな?」
札弾を凌いだ飯綱丸龍が八雲藍らしき者へ三脚を向け詰問する。竹林の兎狩りを断行していた天狗達は文字通り山狩りを行っていたが因幡てゐの薫陶を受けた兎たちはなかなか捕まらず虹龍洞近くや山姥の縄張りまで侵入していた。既に茨木華扇によって過半数の兎たちは救助されており、天魔と射命丸文の活躍で龍の配下となっている天狗達も多く捕縛されていた。下手に龍と衝突しない為に天魔と文は木々に隠れながら捕えていた。その事が徐々に配下が減っていく龍を苛立たせていたとは知る由もなく。
苛立つ龍よりさらに高所に陣取る九尾は鼻で笑い欠伸交じりに口を開く。
「八雲、藍? 知らぬ知らぬ、知らぬなぁ。妾のことを存ぜぬとはとんだ田舎者よ。嘆かわしいのぉ、ええ?」
「貴様、何者だ?」
「ふふん。よいよい、よいぞ。知るがよい。妾は妲己! 殷を滅ぼせし九尾の凶獣なるぞ。どうだ、恐ろしかろう!」
言いながら妲己は袖から柳葉刀を滑るように取り出し両手に一刀ずつ握る。ただしこの柳葉刀は左右対称で刀身から柄まで真っ二つの形になっている。双刀と呼ばれる二本で一組の刀であり一つの鞘に収まる双剣士の刀だ。
「どれ、まずはものを知らぬ天狗風情よ。妾と戯れてもらうぞ」
「引っ込んでな、余所者が!」
三脚を握り締めた龍が降下してくる妲己の双刀を受け止める。
「なんと面妖な武器か。刀の扱いも知らぬとな?」
「はッ! 存外、こいつの怖さを知らないな?」
言ってしまえば龍の三脚は鈍器も同然の代物である。武器とは程遠い見た目と違い合金製のこれで本気で殴られれば十分な威力を持つ。
「東の果ての蛮族妖怪が持つには相応しいのぉ」
軽口を叩きながらもひらひらと演武の如く舞う妲己を龍は冷静に観察する。手を抜ける相手ではない。また至近距離で切り結ぶにはなかなかの剣術である。中、遠距離辺りで戦うのが上策か、と思っていると――――。
爆削された岩石の欠片が無数に地上から飛んできた。龍はそれを見切り器用に躱し妲己は双刀で切り落としていく。
この爆発と無数の欠片。龍には心当たりが当然あった。
地上へ視線を落とすと蜈蚣の大妖怪、姫虫百々世がシャベルを担ぎツルハシを向けていた。
「百々世、余計な真似を。虹龍洞に引っ込んでいろ!」
「うるせえ! 天狗どもがわらわら鬱陶しいんだ! 俺の邪魔ばっかしやがって! 九尾もろとも食ってやる!」
「なんと粗雑な輩よ。汚らわしいのぉ」
中空にいる龍と妲己を見据える百々世の傍に近寄る影が一つ。
容赦なく振り下ろされる大鉈を読んでいたようにシャベルで受け止める。甲高い音が周囲に響く。
「うちの縄張り、荒らすとはいい度胸だべ。相応の覚悟はあるんだべな?」
縄張りを荒らされた山姥――――坂田ネムノが厳しい表情で百々世を睨んでいる。
「俺に言うな! こっちだって天狗と九尾に迷惑かけられてんだ!」
「知るもんかい。掻っ捌いて干してやるべ!」
「上等だ! お前から食ってやるぜ!」
啖呵を切って百々世がシャベルとツルハシの二刀流で大鉈と切り結ぶ。
山姥は山に入った女が妖怪となったものだが意外と怪力でもある。山姥の話として有名なものと言えば金太郎であるが怪力を持つ金太郎を相手に育てるのだから山姥も相応の力持ちであるのは想像に難くない。当然ネムノも結構な腕力の持ち主という訳である。
「ほほほほほッ! 汚らわしいのがわらわらと。だが許そう。力自慢は祭りの花ぞ。血湧き肉躍る宴で身分を語るなぞ無粋無粋。さあ各々方、今宵は無礼講よ! 聖人の心臓は見応えがあったがうぬらはどうかのぉ!」
妲己の挑発が龍を、百々世を、ネムノを逆撫でさせた。さらに龍の命を受けて竹林の兎の捕縛を任されていた腹心の管狐、菅牧典と警邏の白狼天狗、犬走椛、未だ悪意に汚染されている天狗達、そして虹龍洞採掘を行う百々世の部下の蜈蚣衆を激昂させるのに十分だった。
式神妲己の出現により妖怪の山はさらなる混迷極める戦いに突入していった。