偽書 第18.8弾 東方禍福宴~The world of justice and evil. 作:加賀アスナ
第19話
太陽の畑での激闘を終えてダメージの溜まる妹紅や現状行動不能に陥った咲夜達を労う暇もなく次にやるべき事が差し迫っていた。運ばれた輝夜と幽香、そしてメディスンの悪意は霊夢によって祓われたが次は本命の八意永琳の捕縛である。
八雲紫、摩多羅隠岐奈、八坂神奈子、パチュリー・ノーレッジがこちらを担当する。
しかし神社へ帰還した各々にも本命がある。
紅魔館組はレミリアとフランを助ける事が本来の目的であるし、妖夢は幽々子を止める事が目的なのだ。
とはいえ。
輝夜の捕縛の為に費やした人員のダメージは軽くはない。風見幽香とも交戦したのだ。
けれどもそれで動きを止める者達ではない。
妖夢は幽々子に仕える従者であるし紅魔館の面々もレミリアに対する忠誠は本物だ。
輝夜と時を争って倒れた咲夜、幽香と接近戦を演じ競った美鈴の損耗は大きい。疲労度でいえば妖夢、妹紅、鈴仙、てゐ、小悪魔も気力体力を相当に削られている。
妖夢達は幽香を止める為に魔理沙のマスタースパークに力を譲渡していた事も重く圧し掛かっていた。
――――それでもなお。
妖夢は幽々子の為に。
美鈴、小悪魔はレミリアの為に。
倒れた咲夜をあうんへ預けて美鈴は小悪魔とともに紅魔館へ戻るといい、妖夢も幽々子の下へ向かうという。
ただ――――。
それをただ見送る者はこの場にはいなかった。
レミリアとフランを助ける為に妹紅が力になるといい、幽々子を止める為に鈴仙が立ち上がった。
さらに地獄の惨状を聞いていた伊吹萃香が妖夢へ加勢すると申し出てくれた。地獄に従事している鬼も多く、その鬼達が手を焼く程の騒動を見て見たいという好奇心からではあったが鬼の萃香の助勢は非常にありがたかった。
妹紅にしても鈴仙にしても受けた被害は決して軽いものではない。だが妹紅は乗り掛かった舟だといい、鈴仙は紅魔館組や妖夢に輝夜を止めるのを手伝ってもらっておきながら自分の用が終われば手伝わないのは気が済まないからという。
――――と。
幽々子組とレミリア組へ分かれる中、悪意を祓ってもらい適切な治療を施されて事情を聞いていたアリス・マーガトロイドと矢田寺成美が協力を名乗り出た。
アリスはレミリア組へ、成美は幽々子組へと入る。
二人とも事情は把握しているので博麗の神札を受け取っていた。
それを見ていた魔理沙が口元に笑みを浮かべていた。
「魔法使いが見事に分かれたな。私とパチュリーは永琳組だろ? アリスがレミリア組で成美が幽々子組なわけだ」
それを聞いていたパチュリーが半目で魔理沙を眺めている。その視線に気づいた魔理沙が何かを感じ取ったか口を開く。
「なんだよその目は」
「いいえ何も。魔力が空っぽの貴方が永琳組にいて心強いと思っただけよ」
魔理沙の魔力が空なのは幽香に対して全力でのマスタースパークを放ったからだ。本来なら博麗神社へ敷設した魔法壁の運用をパチュリーがメインで担当し魔理沙が補佐して行うはずだったのだが、現状では魔理沙は回復まで待たねばならない状態だった。それだけ幽香との撃ち合いに全力を尽くす必要があったわけだが。それでもパチュリーの皮肉に嫌味がないのは彼女も魔理沙の状態を把握しているからだ。
「虐めんなって。幽香にゃ全力で行っても足りなかったんだ。小悪魔の機転がなけりゃ押し負けてたのは私の方だったんだぜ? 流石パチュリーの下にいるだけはあるぜ」
無論、輝夜と幽香戦の顛末を聞いているパチュリーも小悪魔の奮闘を知っている。彼女も疲労困憊の身でありながら美鈴とともに紅魔館へ戻ろうとしている。全てが終われば盛大に労わなければなるまい。
しかし今はまだだ。神と賢者そしてパチュリーが相手をするのはあの八意永琳だ。終わった後の事を考えるのはそれからだ。
紅魔館へ向かおうとする美鈴、小悪魔、妹紅、アリスにパチュリーが声を掛ける。
紅魔館へ向かうのならば転移魔法で送ると提案する。そこへ神奈子が合わせて誰か一人、幻通機を持って行って欲しいと続けた。現状では紅魔館組は幻通機を持っていない。連絡を取れる手段はあった方がいいのである。美鈴達は顔を見合わせて代表して妹紅が持つ事になった。
さらに幽々子組の鈴仙にも幻通機を渡した。鈴仙は幻通機の開発に関わっているので扱いには長けているからだ。
それぞれが幻通機を受け取ったところでパチュリーの転移魔法で美鈴達が紅魔館へ転移する。
続いて妖夢達が彼岸へ向かおうとするが、これまたパチュリーが白玉楼までなら転移させてあげられると言った。これは以前咲夜が白玉楼まで訪れた事があるからで場所が割れている為と冥界と顕界の結界が綻びがそのままになっている為に転移魔法での場所に指定できるようになったのだ。
パチュリーの申し出に妖夢が礼を言って転移させてもらう。
これでレミリア組と幽々子組が神社を発ち残ったのは永琳組、霊夢と魔理沙、輝夜とその看護で残ったてゐ、倒れた咲夜と運ばれたメディスンを看るあうん、そして小町とナズーリンと共に来たリグル・ナイトバグとエタニティラルバ、先ほどまで激闘を繰り広げ魔理沙と撃ち合った風見幽香だ。
パチュリーの視線は竹林のやや中空あたりで止まる。
未だ輝夜と妹紅の死闘の影響が残り黒煙が上がる中、一部の竹林が異様に揺れ動いている。あの中で永琳と依姫が熾烈な戦いを演じていると思うと気が重い。矢面に立つのはパチュリーではないが問題は神奈子が注文した作戦だ。
パチュリーは考える。考えるが何をどう考えても敷設した魔法壁では――――足りない。
気が重い。
しかし。当然興味もある。作戦自体は神奈子の発案であるがそれを形にしたのは紛れもないパチュリー自身なのである。それに神奈子のオリジナルではなく元になるアイディアが存在し、神奈子はそれを応用したに過ぎない。無論戦いに転用するという発想は見事なものだ。
が、それを形にするならさらにオリジナリティを付加するのがパチュリーのやり方である。パチュリーが手を加えた結果、紫が空間を作り隠岐奈が扉を開き、その中に神奈子が装填した御柱は確実に――――育っている。
想像するだにとんでもないものを製造してしまったと思う反面、成功が見たいと思う己もいるのである。
――――全く、魔法使いというのは因果な生き物ね。
こんなにも気が重いのに結果が見たくてたまらないのだ。
「さて。そろそろ私達の出番じゃないか?」
相変わらずこの事態でも余裕が崩れない隠岐奈が皆を見渡して言う。
「やれやれ。体を張るのは私なのだけどね」
腕を回しながら神奈子が相槌を打った。
「依姫を移動させるまでは私はここに残るわよ。説明をする役目の者が必要でしょうから」
隠岐奈の隣に立ったのは紫だった。
幽香と輝夜の様子を確認した霊夢がその前に立つ。
その表情は硬い。霊夢は紫に釘を刺されている。こんな異常が起こっているのに博麗の巫女が動けない。
相手は悪神アラディア・アーリマン。
賢者の一人である隠岐奈へ直接宣戦布告を行っているのだ。こんな真っ向から喧嘩を吹っかけてきた奴がいただろうか。黒幕の正体が初めから分かっているとなるとその影響を受けた者に対して巫女の調停はやや違う。異変ではなく妖怪同士の揉め事でしかない。規模が大きくなるのなら紫や隠岐奈が手を打つだろう。故に博麗の巫女の出番ではない、そう暗に紫に釘を刺されている。
霊夢が出撃し相対するはアラディア・アーリマンでなければならないのだ。
「しっかりやりなさいよ。胡散臭くとも賢者でしょ」
「あら霊夢、心配してくれるの?」
「そんなんじゃないわよ。私が出るのを止めたんだからちゃんとしなさいって事よ。分かってる?」
「はっはっはッ。巫女から注意をもらうとはね。紫、気は抜けないな」
気楽に答える隠岐奈であるがその双眸には油断も隙もない。隠岐奈は知っている。第二次月面戦争の顛末を。
八意永琳を幻想郷側に引き込むために大掛かりな策を弄し自らをも道化の真似事までして彼女に妖怪の恐怖を見せつけた。
隠岐奈からすれば永琳や輝夜が月と幻想郷、どちらを重視していようがあまり興味はない。秘神たる彼女は必要があれば新たな妖怪でも生み出せるし不必要なものを秘する事もできる。それは究極的なところ、幻想郷そのものでも作り直せるという事だ。
永琳や輝夜の存在が現行の幻想郷に不都合になるのならいっそのこと――――と思う部分もなくはない。その辺りは同じ賢者でも妖怪である紫と秘神である隠岐奈との違いと言える。
けれどもここまで育った幻想郷を安易に手放すつもりもない。
それに。
悪意に汚染されているとはいえ、あの八意永琳が自ら戦場に出てくるのだ。こちらの策にいかな手段で対抗するのか興味が尽きない。無論、最終的にはこちらの用意した策が永琳を上回る事を想定しての事だ。そもそも隠岐奈が神奈子の策に乗ったのは神奈子がパチュリーに作らせたものが明らかに使用用途を間違っているが為に永琳の想像を超えるだろうと考えたからだ。ならばその対策を講じる術はなく永琳は隠岐奈たちの策を見る羽目になる。この瞬間だけを隠岐奈は期待しているのだ。
その瞬間に持ち込むことが神奈子に課せられた目標でその瞬間を見逃さずタイミングを合わせる事が隠岐奈の役割である。
霊夢の心配も理解できるし納得もできる。それは彼女達にとってはここが唯一の幻想郷であるからだ。その点で言えば隠岐奈は霊夢たちほど真剣味が足りないのかもしれないが彼女は彼女なりに愛すべき幻想郷を憂いているのだ。
何よりこんな楽しい事が起こり得る幻想郷を手放すなどあまりに惜しいではないか。
「霊夢、博麗の巫女として君はこの状況にやきもきしているかもしれないが、なに。幻想郷はそんなにやわではないよ。それは私も紫も保障しよう。君は必ず現れるアラディアの対抗策でも考えていればいいさ」
隠岐奈の言葉に眉根を寄せて霊夢は見据える。
「アンタは紫より信用できないんだけど?」
「酷い言い草だね。私ほど幻想郷を思っている慈悲深い者はいないというのに」
「だぁーッもう! そういう言い方が胡散臭くて信じきれないのよッ! 紫、本当に大丈夫なんでしょうね!?」
「おや、私は信じない割に紫は信じるのかい? 私も同じ賢者だというのに悲しいね」
芝居がかって肩を竦める隠岐奈は事実霊夢を揶揄っているのだろうが、その真意は切羽詰まって余裕のない霊夢に余裕を持たせるという意味が入っているのだが。紫は隠岐奈の真意を汲み取って霊夢を諭す役目を負って出た。
「霊夢。隠岐奈はこんな風でもやるべきことはしっかりと踏まえているわ。それに貴方は依姫を移動させたら説得に力を貸してもらうのだから、しっかり頼むわね?」
「それはアンタの仕事じゃないの? 自分で説明するって言ったじゃない?」
「一人より二人の方が説得力があるでしょう? そういうことよ」
隠岐奈に負けず劣らず余裕をもって答える紫に霊夢もようやく納得したのか取り敢えずは矛を納めた。
「分かったわよ。じゃあ頼むわよ」
霊夢の言葉に紫、隠岐奈、神奈子が頷く。
神奈子が竹林へと飛び立ち、隠岐奈は扉を開いて姿を消す。紫は切れ間を僅かに開き依姫を移動させる瞬間を狙っている。
これで永琳捕縛の作戦が静かに始まったのだ。
◆
竹林の遥か上空まで移動した神奈子は地上の竹林の惨状に顔を顰めた。
輝夜と妹紅の戦闘の影響で一部にまだ火の手が見える部分もあるが永琳と依姫が争っているであろう地帯の竹林が無残に切り倒されている。そしてまた一本と倒れていく。
乱入するのならできれば上空に飛び出してきた瞬間が望ましい。
その時をじっと待つ。彼女の乾を創造する力の一端を使い上空に待機している気配を天候不順を装って消す。
依姫の戦闘行動から永琳と戦う事が本意ではないことは読み取れる。ならばインファイトに持ち込まれれば依姫は必ず距離を取る筈だ。
高層雲の中から地上を睥睨する神奈子の紅蓮の双眸がその瞬間を捉える。
その刹那、雲より突き抜け急降下していく。
竹林が激しく揺れ動く中、一つの影が飛び出してくる。
上空から落ちてくる存在に気づいた依姫は背後の永琳よりそちらに気を回す。
永琳に与する者だとするならば依姫にとっては挟撃される事になる。非常に危うい状態に陥る、と刀を握り締めた――――が。
降下してきた存在を認めた時、僅かだが依姫の動きが止まる。
それを八雲紫が見逃すはずもなく。
八坂神奈子が依姫の隣を通り過ぎる。確かに依姫はその人物を目に焼き付け紫の切れ間に捉われた。
依姫の気配が消え、代わりに違う気配が肉薄している事を永琳は気づく。
追撃を踏みとどまり相手を見据える。
――――八坂神奈子か。
矢を番えて撃ち放つ。
彼女が使うスペルカードにオモイカネディバイスというのがある。渦を巻きながら広範囲を狙うものだ。
八坂神奈子が何を考えて永琳の元へ来るのかは分からない。だが、あの様子では友好とは言い難いだろう。
全く。
依姫といい神奈子といい、何故こうも邪魔ばかり入るのだ。
苛つく気分を抑え思考を冷静に保つ。
オモイカネディバイスによって勢いを削られた神奈子が距離を保ったまま永琳を見下ろしている。
「永琳。聞こえているのでしょう。大人しくしてもらえるのなら悪いようにはしないのだけど」
神奈子と同じ目線になる場所まで上昇した永琳が不機嫌そうにしている。
やはり一筋縄ではいかないわね、と神奈子は心の中で呟く。
「何を言っているのか、理解できないわ。貴方も私と輝夜の邪魔をするのね。しかもよりにもよって次は貴方が」
永琳の表情は氷のように冷たい。輝夜は既に博麗神社に収容している。だが永琳を見るに彼女が輝夜に固執しているのは明らかだ。しかしこうも敵意を向けられるとは。
仮にではあったが依姫の次に来たのが神奈子ではなかったならこうはならなかったかもしれない。
幻想郷に於いて八坂神奈子の正確な正体を知っているのは八意永琳くらいだろう。次点では洩矢諏訪子が勘付いているかどうかという所だ。
この幻想郷で、ある意味では最も誤った認識をされている人物こそ、八坂神奈子だ。
永琳がまだアマテラスの陣営にいた頃の話になる。出雲の国譲りを成し遂げたフツヌシ、タケミカヅチよりその顛末の報告を受けた際に彼女はこれほどの侮辱はないと感じた事を憶えている。
オモイカネと名乗っていた彼女は国譲りに関してオオクニヌシとの知恵勝負で二度敗れ、一引き分けという結果を残した。
一度目はアメノホヒを派遣すると決定を下した。だがそのアメノホヒは三年経っても戻らずそれどころかオオクニヌシに惚れ込んで仕えてしまった。
二度目はアメノワカヒコを派遣するように決定を下したが八年経っても戻らず永琳はどうなっているのか雉を送りアメノワカヒコの真意を質した。そのアメノワカヒコはあろうことかオオクニヌシの娘であるシタテルヒメと結婚していたのである。当時アメノワカヒコに仕えていた稀神サグメ――――アメノサグメは雉の声は不吉であると進言した。この時点ではサグメの主人はアメノワカヒコである為、それはある意味正しい進言だったのかもしれない。しかしそれを聞いたアメノワカヒコはその雉を弓矢で射殺したのだ。その矢が高天原まで届き永琳の父、造化三神の一柱であるタカミムスビに拾われた。そしてある呪いをかけて矢を投げ返した。それは悪の心をもって射たものであるのならアメノワカヒコに当たるという呪いである。結果、投げ返された矢はアメノワカヒコを貫く事になる。
二度の派遣は失敗し三度目の派遣でフツヌシとタケミカヅチを送る事になるのだが始めはフツヌシのみの派遣だった。しかし異を唱えた雷神タケミカヅチを送るように進言したのは永琳である。
結論を言えば三度目の派遣にて国譲りは成功する。だがそれは永琳にとっては納得のいかない成功だった。
それは後に語られる歴史書にも記される事になるのだが、問題の個所はタケミカヅチが武力を背景に国譲りを迫った際の記述だ。
オオクニヌシは子に聞いてくれといい、子の一人であるコトシロヌシはすんなりと承諾した。しかし抵抗したもう一人の子が当時タケミナカタと名乗っていたこの八坂神奈子である。
歴史書に綴られたそれは国譲りに赴いたタケミカヅチへ向かってタケミナカタこと神奈子が国を譲るのなら力比べをしようと提案する事に発する。
神奈子がタケミカヅチの手を掴んだ瞬間に雷神の手は氷に変わり、それを恐れた神奈子が手を離すと次は剣に変化させた。
これはタケミカヅチの圧倒的な神力を表現しているのだ。しかしこれが良くなかった。
怯んだ神奈子を投げ飛ばした事で彼女――――タケミナカタとタケミカヅチの諏訪の国までの逃走戦が始まるのである。
だがこの記述にはおかしな点がある事を知る者は少ない。それは武力を背景に迫ったタケミカヅチに対して神奈子が力比べで決めようと言った事。そしてタケミカヅチの対応である。
神奈子は飽く迄力比べで決めようと提案している。これは勢力規模の大戦争に発展する事を避ける為だ。だがタケミカヅチは手を掴まれた瞬間に氷に変えている。つまり握られたくなかった事を意味している。何故なら神奈子がタケミカヅチの前へ現れた時、指先で千引石を弄びながら現れているからだ。千引石とは千人集まってようやく引く事ができる大きな岩の事である。イザナギが黄泉の国から帰る際に黄泉比良坂に置いて塞ぎイザナミから逃れた時の岩もまた千引石だ。
現世と黄泉を分かつほどの巨石を神奈子は指先で弄んでいるのである。あまり剛力の印象のない神奈子ではあるが軍神らしく力は強かったのだ。
腕を氷に変えたタケミカヅチは続いて剣へと変化させている。永琳が最も気に入らないのがここである。剣へ変えたというのは剣を抜いた事に他ならず、それは即ち――――殺し合いを吹っかけている事を意味しているのである。
つまり国譲りは飽く迄禅譲でなくてはならなかったのがこの所為で簒奪になってしまったのだ。
神奈子は力比べを提案したがそれを放棄したタケミカヅチが殺し合いを仕掛けたのである。だから神奈子は逃げたのだ。力比べではなく殺し合いをするような話の通じない相手に国を譲るなど有り得ないからだ。
さらに永琳が気に入らないのは神奈子が生きている事実だった。何故ならタケミカヅチは殺し合いを吹っかけた以上、相手を殺さなければ筋を通せないからだ。にも拘わらず神奈子は生きている。それが意味するところはタケミカヅチは神奈子を殺しきれなかったという事である。即ちタケミカヅチをもってしても神奈子を制する事ができなかった事が歴史に綴られてしまっているのだ。事実彼女はアマツカミへ帰順した後に大和の神として信濃を平定し事実上の第二出雲王朝を興している。信濃――諏訪の地が特殊である理由がこれである。神奈子が支配した諏訪の地を侵せる者がいなかったのだ。それは先住神であり土着神の頂点でありミシャグジもソソウもチカトもアラハバキでさえ統べた洩矢神こと洩矢諏訪子を下してなお、生かし共存を選んだ彼女の強さである。その行動は奇しくもスサノオの四男であり大和を取ったニギハヤヒことオオトシと同じ行動であった。彼も大和の指導者であったナガスネヒコを下しているが配下に遇している。
古今東西、服従しない相手というのは殺害が絶対条件である。にも拘わらず生きている事実は殺し合いを仕掛けた側の譲歩した講和があったという事を意味している。タケミカヅチは神奈子を殺さない代わりに和睦を結び帰順を取り付けたのである。しかしそんな事実を歴史に刻む訳にはいかず神奈子からの命乞いがあったという記述にするしかなかったのである。それならば寛大な心を持つアマツカミという演出ができるからだ。尤もそれも苦肉の策であるのは間違いないが。何故なら出雲で受け継がれた口伝にもミナカタトミノミコトことタケミナカタ引いては神奈子は信濃に第二出雲王朝を築いたとあり出雲に住んでいたスサノオの嫁神クシナダヒメの親であるテナヅチとアシナヅチもまた長野にある手長、足長神社に祀られている。それは神奈子が平定し開拓した信濃の地に越してきた事を意味している。出雲を譲り国を失えども住み慣れた文化風習を持つ新たな国の方が住みやすかったのである。
二人の子の恭順を持って国譲りは成った。しかし想定通りの国譲りではなかった。アマツカミの偉大さで平服させ差し出してもらうはずが思わぬ抵抗に遭い、殺し合いを仕掛けておきながら殺しきれず譲歩した挙句に今よりの繁栄と豊かで平和な国へなる事を約束して譲られた。
天孫降臨の際にニニギが宮崎へ降り立ったのは神奈子とタケミカヅチの逃走戦により出雲に残っていたオオクニヌシとフツヌシの間で国譲りに於ける条件の約束を結んでいたからだ。
オオクニヌシは神奈子が最終的に譲る事を知っていた。だからある程度の抵抗をしたならば服従するはずだったのだ。しかしタケミカヅチが殺し合いを吹っかけた事により逃走を余儀なくされた。けれどこの逃走により時間が稼げたオオクニヌシはフツヌシへ国は譲る事になると告げ、まずは宮崎の高千穂へ下られるのがいいでしょうと言葉巧みに出雲を避けたのである。フツヌシにしてもタケミカヅチが逃走した神奈子を追いかけてしまった事により国譲りの使者の役目を果たすのに支障をきたしていた。故にオオクニヌシが神奈子の真意――――譲る用意がある事を伝える代わりに宮崎へ天下る事がいいでしょうという言葉は都合が良かったのである。そもそもタケミカヅチが殺してしまったならば合意なき国譲りになる。神奈子がどこまで逃げたのか出雲では知る由もなく殺し合いがいつ終わるのかも不明なのだ。そして目の前のオオクニヌシは子の真意を伝えている。フツヌシは先に承諾を得て高天原へ国譲りが成った事を伝え、急ぎ宮崎へ天孫降臨するように求めたのである。詳細はタケミカヅチが帰還した際に報告すると告げて。これが出雲ではなく宮崎の高千穂へニニギが下った真相だったのだ。それからタケミカヅチより神奈子の恭順と和睦の報告を受ける事になる。
余談だが。
タケミカヅチ、フツヌシ、タケミナカタこと神奈子の因縁はここでは終わらない。長野と群馬の境にある荒船山を祀る神社にその伝承は残されている。
タケミナカタは狩猟の神の側面がある。これは諏訪の狩猟が盛んである理由でもある。では何故狩猟神の側面があるのか。
それは諏訪を平定した後も神奈子は律儀にもアマツカミの方針に従っていたが、そこに無理が生じたからだ。海のない信州ではアマツカミの方針である野菜と魚以外は殺生して食してはならない、という決まりではとてもではないが生きていけなかったのだ。特に寒さの厳しい冬では口にできるものはかなり限られた。
そこで信濃より海へ出られる関東へ領地を広げるべく戦の準備を始めた。西の出雲は譲ったので東へ向かうしかなかったのである。生きる為に、民の為に誰かがやらねばならなかったのだ。だが関東も既にアマツカミの勢力下に入っていた。よりにもよって香取にフツヌシ、鹿島にタケミカヅチが居を構えていたのである。神奈子の動きを察知した二神は安中の咲前神社に陣所を構えた。そのまま妙義山を経由し長野の佐久平まで押し寄せた。神奈子と二神は再び相見え、激戦を繰り広げる事になる。出雲の国はオオクニヌシに従い譲ったが信濃国は神奈子の国なのだ。一切退く気はなかった。ましてや民の命が掛かっているのだ。このままでは餓えで死んでしまう。生きるか死ぬかの瀬戸際だ。
この戦いは熾烈を極め、神戦と呼ばれた。千曲川が七日間血に染まったという。そうして舞台は荒船山に移り最終決戦が行われた。その凄絶な戦いにアマツカミは急ぎ使者を送った。国土が荒れ果てるのも時間の問題だったからだ。
アマツカミの使者によって三軍神は和議を結んだ。アマテラスは再三野菜と魚以外の殺生を慎むよう戒めるように語ったが神奈子は頑としてはねつけた。
そうして――――結果、神奈子は狩猟の権利を勝ち取ったのである。その証が諏訪の大社が発行する鹿食免、滅罪の唱文としての諏訪の勧文なのだ。
後に香取と鹿島――鹿島は香島であり、二つの香を背にして諏訪へ帰陣した神として名が広がる事になる。
国譲りの結果を知った時、してやられた――――これが永琳の感じた事だった。
二度も使者を誑かし、三度目も条件付き、しかも出雲ではない場所への天下りという譲歩を引き出しての国譲り。
オオクニヌシ。流石はスサノオとアマテラスの末娘であるスセリビメを娶っただけはある。
そのスセリビメの二人の子がコトシロヌシとタケミナカタとされているが、本来二人の子は息子である。しかもタケミナカタに関しては越の国のヌナカワヒメが母神であるとされている。
けれど出雲は末子相続の国なのだ。国譲りの際、子に意見を聞いてくれとしたオオクニヌシはタケミナカタの名をあげている。つまりスサノオから続く出雲の血を受け継いでいるのは明らかなのだ。けれどこの絡繰りは簡単に説明がつく。オオクニヌシはヌナカワヒメへの求婚の話がある。俗にいう妻問いである。
だがこの話には裏がある。ヌナカワヒメへの求婚の代わりにいずれ生まれるだろう正妻であるスセリビメの子を養子に出すという取引があったのである。
妻問いでスセリビメは激しく嫉妬したとあるが、これは強烈な猛抗議だったのだ。オオクニヌシは国を盤石にするためにどうしても越の国が欲しかった。越の国は翡翠の産地だからだ。だから越の国の女王であるヌナカワヒメと婚姻を結ぶ必要があった。その条件が正妻の子を養子に出すという事で、これは有り体に言えば人質も同然だった。
だからこそタケミナカタの母神がヌナカワヒメと呼ばれるのだ。しかし実際に血がつながっているのはスセリビメである。ゆえに国譲りの際に末子であるタケミナカタが呼ばれているのだ。
ならばなぜ兄であるコトシロヌシが呼ばれているのか。それは国の継承者が末子のタケミナカタならば神事の継承者がコトシロヌシであったからだ。国譲りの際に二人の子が現れているのはその所為だ。
けれど――――である。
オオクニヌシの子が息子であるならば神奈子がタケミナカタであるのは明らかにおかしいのである。
となると、神奈子は偽りのタケミナカタ、あるいは二代目タケミナカタというべき存在ということになる。
ならば神奈子は一体どこの誰でいつオオクニヌシの子――正確には義娘になったのか。
その正体を永琳は知っている。
八坂神奈子――――その真の系譜は本来なら抹消されており記録には残らないはずだった。だが人の口に戸は立てられぬ。人の記憶にだけ留まり続けその正体は伝承に残っている。
曰く、その神は海神族の一柱、ホダカミの妹であるという。
曰く、長野にある川會神社へ受け継がれたそれは海の神オオワタツミの娘であるという。その川會神社の祭神もオオワタツミである。
即ち、海の神に連なる者であり、オオワタツミの逆鱗に触れて存在を抹消された海神の三女である。
その名は――――ヤサカトメ。またはヤサカヒメ。
神奈子が八坂を名乗る理由がこれなのだ。
そして永琳が依姫の次に来た神奈子を厭わしく思ったわけでもある。
――――何故なら。
綿月依姫。
かつての名はタマヨリヒメ。
彼女も海神に連なる生まれである。オオワタツミら海神族は国譲りに於いて高天原へいち早く恭順を示し、依姫はそんな彼らの居城である竜宮の姫の一人だった。もう一人の姫が姉である豊姫であり所謂乙姫様だ。
月の都が竜宮と呼ばれる所以がここにある。国譲りでアマテラスへ帰順したオオワタツミ率いる海神族は後にツクヨミの要請で永琳が創設した月の都へ移住している。だからこそ月の都は竜宮城でもあったのだ。
けれど唯一海神族より離反しオオクニヌシ率いる出雲族へ身を寄せた者がいた。それがヤサカトメ――――八坂神奈子だ。
そして神奈子の真の父と依姫の父は海神の長であるオオワタツミだ。それが意味するところはたった一つ。即ち、八坂神奈子は綿月依姫の実の妹なのである。本当ならば綿月の姓を戴き、坂姫と名付けられるはずだった海神の娘。
何故神奈子が出雲方へ身を寄せることになったのか、そして何故タケミナカタを名乗るようになったのか、それは永琳にも分からない。しかしある時である。
竜宮に於いて海神族の神事である御船祭の当日に当時の神奈子は姿を消した。
そうして国譲りが成るまでその存在は表に出てくることはなかった。タケミカヅチと和睦した彼女がアマテラスの前に現れるまでは。
オオワタツミは一目で分かったのだろう。何せ実の娘である。それがアマツカミへ最大の抵抗を見せたとあれば身内の恥どころではない。アマツカミへ恭順した海神族から叛逆神が出てしまった事になる。それがオオワタツミの逆鱗に触れ、一族からの抹消に繋がった。海神の怒りは治まらずさらに神奈子を匿っていたオオクニヌシを封印するべきだ、と主張した。その上、神奈子を名指しして帰順した事を証明するために、未だアマツカミへ恭順を示さない土着神の長である洩矢神を下し信濃の平定をさせるべきである、とアマテラスと永琳へ進言した。その進言が聞き入れられ神奈子は後に諏訪大戦と呼ばれる国盗り合戦を起こすことになる。オオワタツミにしてみれば一族の潔白を証明しなければならず神奈子を一族から抹消する事は避けられなかったのだ。あるいは高天原と出雲、どちらにも己が娘がいる事で何があっても海神族の血脈が残るように仕向けた――――のかもしれない。穿った見方なのかもしれないが、オオワタツミの真意は測り兼ねるところだった。何故なら彼の息子神であるホダカミを主祭神とした穂高神社は信濃国三宮である。しかも左殿には父神であるオオワタツミが祭神となっている。二宮は小野神社であり一宮は言わずと知れた諏訪の大社である。二宮一宮は共に祭神はタケミナカタなのだ。あまりにも近い。そして諏訪の大社の下社には諏訪は海から遠いのにも関わらず神事として御舟祭がある。そう、海神族の神事である御舟祭があるのだ。その繋がりを見れば娘であるヤサカトメ――――神奈子の存在が浮上するのである。
永琳にとって海神族を含め神々というのは複雑怪奇だ。それは高天原にいた時もそれから月の都にいた時も同じだ。――――そして今も。
それを象徴するのが月の姫、地上ではなよ竹のと言われた蓬莱山輝夜の処遇である。月の姫である輝夜は蓬莱の薬を服用した罪で地上への流罪となった。月の姫と呼ばれるには当然輝夜はそれ相応の身分がある。にも拘わらず月の上層部は薬の製造者である永琳には咎めがなく服用した輝夜だけを処罰した。不死の誘惑に負け穢れが生じたという理由で。
――――醜いと思った。
――――醜悪であると感じた。
心に色があるのならきっと汚泥に塗れている。月の姫である輝夜を容赦なく切り捨てた。だが永琳は残された。自分たちに有益となる永琳の知識を保有していたいという欲であるのは間違いない。
だから。
かつてはアマテラスに請われて仕え、ツクヨミに要請され仕えた。
もういいだろう。もう。
永琳は自分が人の上に立つ器ではない事を知っている。それはアマテラスやツクヨミ、引いては父であるタカミムスビを見ればわかる。生まれや血筋ではない。存在の尊さが圧倒的に違うのである。
それは輝夜を初めて見た時にも感じた。あるいはそれ以上だったかもしれない。この方こそ終生己が仕えるべき御人なのだと。
だから永琳は初めて。初めて己の意志で仕える主を選んだ。最初で最後の選択。
なればこそ。依姫が、神奈子が邪魔立てするのなら一切の容赦はない。
八意永琳は蓬莱山輝夜を主と選んだ。主の間違いを正すのもまた従者の役目である。
神奈子が何かを言っているようだがそんな戯言はどうでもいい。八意永琳にとって大事なのは主である蓬莱山輝夜を守り仕え、その存在を残し続ける事だ。輝夜の存在の尊さを理解しているのは己だけなのだから。
もはや言葉は不要だった。永琳の放った矢は真っ直ぐに神奈子へ向かう。
それは言葉なき宣戦布告。
依姫との戦闘を見るに話し合いができる段階ではないのは分かっていたがここまでとは。
神奈子は身を捩り矢を躱す瞬間に矢の篦の部分を掴む。
――――いいでしょう。
永琳の宣戦布告は確かに受け取った。そのまま矢を圧し折る。
これが神奈子の返答であった。
◆
竹林上空へ立ち込める焦げた臭い。普段なら因幡てゐら兎たちが消火に当たるのだろうがこの異常事態によって兎は今竹林にはいない。
八坂神奈子は八意永琳の脅威さを身をもって体験していた。彼女のスペルカードに壺中の天地という術技がある。ターゲットの周りに光球を設置し逃げ場を無くし攻め立てる。
実際に受ける事で永琳の怖さの何たるかを思い知っていた。
伊達に天才と称されるわけではない。神奈子にとっての最適な間合いがインファイトに対して永琳にとってはアウトレンジこそその真価を発揮する。二人が激突してから神奈子は永琳に接近することが許されないでいた。先を想定し読み切るにあたって永琳の予測はそれを超え、ある種、未来予知の領域にまで達していた。次に神奈子がどう動くかをほぼ完全に掴んでいた。いくら威力の高い攻撃手段があろうともそれが来ることが分かるのならば躱す事など容易い。言うは易く行うは難しのその絶技を永琳はやってのけているのだ。
――――と。
幻通機に反応があった。
誰が発信してきているのか判断する余裕もなく神奈子はチャンネルを確認する事もせずに受けた。
『あの――――』
「ごめんなさいッ! 取り込み中だから霊夢へ掛けて! 以上ッ!」
永琳を相手にしている状態で他に気を回す事などできなかった。先手先手を取られる以上、神奈子は雨の源泉を延々と降らし永琳から速射される発光弾の嵐を相殺し続けていた。これがスペルカードルールでの弾幕勝負ならグレイズできる穴を用意しなければならないが、この戦いはスペルカードルールではない。
僅かな隙さえあれば痛み分け覚悟で肉薄する準備はある。しかし永琳は常に距離を保ちほぼ一方的な勝負に持ち込んでいる。とはいえ永琳からしても確実に神奈子を仕留められるとは思っていなかった。距離があるという事は発射から着弾までのタイムラグ
がどうしてもある。それがほんの少しの時間だとしても神奈子には十分すぎる時間だ。だからこそ全ての速射弾を相殺し僅かな隙を伺う事ができているのだ。
神奈子から見て永琳の戦術は詰将棋に近い。相手がどうしようもなくなる状態へ詰めていく。壺中の天地もライジングゲームも躱せる場所を限定した上で止めの発光弾を容赦なく浴びせてくる。必ず自分が有利になるように戦局を進めているのだ。それは本来彼女が戦場に立つものではなく戦場を構築する立場にいるからだろう。自ら戦場に赴く神奈子とは正反対なのだ。
しかしこれでは埒が明かない。しびれを切らしているのは神奈子の方だった。時間がない中、時間に追われているのだ。
雨の源泉を降らし続けながら目処梃子乱舞を見舞った。もっともそれは永琳を狙っておきながら真の狙いは別にあった。
乱舞で放った御柱は永琳には軽々と躱されてしまったがそれでいい。永琳の戦闘領域であるアウトレンジよりもさらに外側にそのまま御柱を残しておく。永琳と神奈子を囲むように上空と地上に打ち立てられた、その数二十二本の御柱。これが神奈子の準備した作戦の二つ目。
――――人類の夢である。
御柱によって囲まれた空間は今、神奈子の力――――乾を創造する力によって別の世界へと作り直される。
彼女の乾を創造する力を幻想郷に於いては天候を左右できる力であると思っている者は多い。それは間違いではないが正しいとはいえない。晴れの日を作る、雨を降らす、風を吹かせる――――あらゆる気象を動かすのは飽く迄力の一端でしかない。
乾とは天であり、序卦伝においては『天地ありて然る後万物生ず』とある。
神奈子と対となる力を持つ洩矢諏訪子は坤を創造する力がある。坤とは地を表し大地の創造、操作は造作もなく行える。この能力の究極的なところ、大地を生む事は即ち、地球を誕生させる事ができるという事だ。
で、あるならば。
神奈子の乾が創造するのは天空の果て、即ち――――宇宙である。だからこそ自然の猛威を揮えるのだ。
そして。
この乾を創造する力を総動員し御柱で取り囲んだ空間に一種の宇宙の創造を行う。
自然界には四つの力が存在する。
電磁気力。
弱い核力。
強い核力。
重力。
万物の理論に基づいてこの統一された純粋なエネルギー――――いうなれば根源力を用いて光の速さを実現し時間と空間に介入する。
力を全開で使いながら神奈子は思う。神奈子がここまで力を尽くしてようやく時間へ介入できている事に対し幻想郷には時間を手足の如く扱う者がいる。
――――十六夜咲夜と蓬莱山輝夜である。
時間を扱うという事がいかにデタラメな力であるのか時空を作る神奈子は知っている。まさに規格外の力だ。
だが神奈子が作るのは似て非なる世界。
外の世界では未だ夢物語であり、幻想であり、想像の産物である仕組みの違う時空を創世する。
相対性理論を守り、幻想郷のルールを守り、因果律を守ったこの宇宙は人類の夢そのものを実現する。
――――ミラーユニバースという言葉がある。
その世界では時間が逆走しているのである。
神奈子はこの発想に至った時、摩多羅隠岐奈に確認を取り、そして聖白蓮の存在から乾を創造する力であるならば造り上げる事が可能だと確信した。
ミラーユニバースは人類の夢であり未だ存在が確認されていない幻想のもの。つまり、ないものと同じなのだ。
聖白蓮は魔法の力で若返りを果たしている。若返りとは己の時間が戻っていく事だ。白蓮個人という限られた存在の時間ではあるが逆走が可能である事を証明している。だから神奈子は白蓮に礼を言ったのである。
隠岐奈と白蓮により実現したこのミラーユニバースによる時間の逆走が何を齎すか。
それは即ち――――永琳の時間を巻き戻すという事である。永琳とて生まれたという個が発生した原因がある。不老不死であり未来永劫が約束されている蓬莱人の永琳であっても時間が逆走し過去に戻るのならば因果律に則って必ず生まれた原因へ向かう。
神奈子はこの作用を利用して永琳の時間を誕生まで巻き戻すという荒業を行ったのである。
それはつまり、死のない蓬莱人である永琳が生まれていない瞬間、存在しない過去の状態を作り出せる事ができるということ。
時間の逆走に於いては過去から未来へと使われたエネルギーに増減はない。過不足なく同一のエネルギーだ。よって蓬莱人の変化を拒絶する性質に抵触しない。
これは究極的なところ、死という概念では存在が消えるはずのない永琳を生まれる前に戻すという存在そのものをなかった事にする反則技である。
これが神奈子の用意した人類の夢だ。
永琳も始めは何が起こっているのか理解しがたかった。だが僅かに妙な感覚に囚われる。その僅かな感覚を頼りにたった数分で神奈子の用意した空間がミラーユニバースであり永琳の時間を巻き戻すものであると看破した。
――――時間の巻き戻しッ! こんな方法で私の存在をなかったことに…………!
流石はオオクニヌシの薫陶を受けた海神族の娘だ。豊姫と依姫の妹なだけはある。
しかし。この策には大きな欠点があることを神奈子は失念していた。逆に永琳はその欠点に気づいている。
このまま時間が戻るのならば――――。
それは――――それは永琳の全盛期だった頃が必ずやってくるという事に。
◆
妖怪の山の激戦は地面を穿ち大木を切り倒し星弾に爆撃された痕を生々しく作り出している。
緱婉姈の式神――――妲己を飯綱丸が、ネムノが、百々世がそれぞれ狙う中、互いが互いを敵とも認識している為、四つ巴の様相を呈していた。
器用にも双剣で三脚とシャベルを受け止める妲己をネムノの大鉈が襲う。だが妲己は追い詰められると演武のようにするりと抜け出し双剣を重ねて大鉈を受け止める。甲高い金属音を立てながらもネムノの腕力で振り下ろされた大鉈に怯みはしない。
抜けられた飯綱丸と百々世は互いに攻め切れなかったのは相手の所為だと言わんばかりに星弾とマインブラストを撃ち放つ。
山への被害でいうのならそれはもう悲惨な状態といえた。復興にはある程度の時間を要するだろう事は間違いない。
飯綱丸たちに気づかれないように兎を回収していた射命丸文は超低空で華扇が救助した兎を守矢神社へ運んでいた。
秋宮へ辿り着く手前で上昇した時である。
その姿を。
山から下りたはずのその姿を。
だが決して忘れる事のないその姿を目の当たりにしてしまった。
何故、という疑問が脳裏を埋めると同時に幻想郷最速の名をほしいままにしている文であっても震えを禁じえなかった。
文は半ば本能、あるいは無意識に幻通機を触っていた。
幻通機はチャンネルによって掛ける相手を決められる。だが一定の人数へ同時に連絡を入れる事もできる機能もある。文はチャンネルを山にいる者で幻通機を所持している全員へ連絡を入れた。
「射命丸文です。単刀直入にいいますが、勇儀さんが山に現れました! 繰り返します! 勇儀さん、星熊勇儀が出現しました!」
その報告は一方的なものだった。天魔を始め、華扇、にとりは表情に険しさを刻み、諏訪子も眉根を寄せている。
地底へと移り住んだ鬼達。その中でも四天王と呼ばれた鬼の一人が星熊勇儀である。
かつての山の覇者の出現に悪意に晒された者であっても山に住む者ならばその身に恐怖を滲ませる。
妖怪と一括りに言えども人間達に最も恐れられたものを挙げるのならばそれは言うまでもなく鬼族である。
伊吹萃香のかつての名、酒呑童子を始め、星熊勇儀もかつては星熊童子と恐れられた。
さらに。
鬼神魔王と異名を取った鈴鹿山の大嶽丸、鬼婆国からやってきた戸隠山の鬼王官那羅、奥州で猛威を振った悪事の高丸、天皇四代に渡る死闘を繰り広げた温羅一族、陸奥国で金品財宝人攫いの限りを尽くした悪路王一党、紀伊国の鬼ヶ城を本拠に海を荒らし回った鬼の大将金平鹿、丹後国で多くの鬼を従えて民を苦しめた三上ヶ嶽の英胡、軽足、土熊の三鬼――――。
人間達が語り伝えた鬼の伝承は枚挙にいとまがない。妖怪の強さとは人間の恐れの深さでもある。鬼がいかに恐れられたか、同じ妖怪ならばすぐにわかる。
星熊勇儀の出現は山の混戦を塗り替えるだけの衝撃があった。
飯綱丸を始めとした大天狗達から下知を受け取っていた哨戒天狗達はそれでも闖入者である勇儀へ向かっていく。妖怪の山を運営しているのは天狗族なのだ。それを今更、現れてどうするというのだ。
さらに勇儀へ向かっていったのは天狗だけではない。百々世の部下の蜈蚣衆も勇儀を取り囲む。
蜈蚣妖怪は嫌われる妖怪ではあるがそれでも山に残ったのだ。それは大蜈蚣とは今でこそ格を落としているがかつては鬼とも並ぶ大妖怪の一角だったからだ。その実力は赤城山と日光山の伝説に語られる通り大蛇とも互角に戦えたほどである。栃木の戦場ヶ原こそ大蜈蚣と大蛇の戦った場所なのだ。その伝説では――――老神温泉に伝わる話では深手を負った大蛇が傷を負わされた矢を抜き赤城山麓へ刺すと湯が沸きだし傷を癒したという。そうして悔しい限りだが大蜈蚣は敗れてしまったのだが。それでもあと一歩まで追い詰めたのは間違いない。
百々世を始めとして蜈蚣衆は蜈蚣妖怪としての誇りがあるからこそいくら嫌われようと山へ居続けているのである。
にも拘わらず勝手に人間に失望し山を去った鬼が現れるなど言語道断である。妖怪の風上にも置けぬ。
蜈蚣衆の、鬼の存在はこの山には相応しくないと思っている感情が悪意汚染により剥き出しになっていた。
全く歓迎されていない、そう勇儀は感じた。それももっともな話か、と心の中で自重する。自分勝手に山を去ったのは鬼達の方だ。
――――それでも。
山そのものには興味は失せている。だがそれでも。
鬼の残した妖怪の妖怪による妖怪の為の妖怪の山のルールは守られていると思っていた。
鬼の数々の伝承に語られる通り、鬼は常に排斥されてきた側の存在であり同じ境遇の者を招き入れ自らの力で生きる場所を作ってきたのだ。それは最終的には人間の為政者たちの目障りな存在となり幾度となく人間と戦ってきた。
妖怪の山とは、そんな排斥されてきた鬼が妖怪の楽園として築き上げた一種の聖域だったのだ。ここにいる限り妖怪たちは好きなように生きられる。一つの勢力として里の人間たちに恐れられる存在になったのだ。
それが。
あの気配が言う通りこんなことになってしまっている。
形あるものはいずれ壊れる。物を作る事が得意な鬼はそれを知っている。けれど形がないからこそ残るものもある。それは文化であり風習であり生きていくためのルールでもある。
鬼の作ったルールは――――見る影もなくなっていた。
胸に込み上げる思いはどこか哀しみがある。鬼はもはや畏れられていない。それを目の当たりにした。
妖怪の、自分たちの、引いてはたくさんの妖怪たちが暮らしていけるルールを作り上げたはずだった。褒め称えよとは言わないがそれでも。大切にされていると思っていた。
「――――悲しいねぇ。忘れ去られるっていうのは。本当に……悲しいねぇ」
天狗に蜈蚣に囲まれる。
勇儀の心は既に決まっていた。
天狗の長刀が、蜈蚣のシャベルが勇儀目掛けて殺到する。前も後も包囲されている中、拳を握り締める。
「――――金剛螺旋」
大気を震わす振り上げた拳の周りに黄金と輝く旋風が巻き起こる。目で捉える事が出来るほど濃縮された黄金の風は無慈悲な威力を見せつける。天狗も蜈蚣ももろともに大地も草木も捻じ曲げていく。大木の幹が軋みをあげて為す術なく倒れ伏す。地面が巨人に掻き回されたかのように抉りとられていく。
巻き込まれた天狗と蜈蚣たちはただただこの理不尽で不条理で出鱈目な力の奔流に晒される事しかできない。
黄金の暴力が収まると勇儀の立っている場所を中心とした、まるでクレーターめいた痕が出来上がっていた。圧倒的な暴力に屈して天狗と蜈蚣たちが伏している。
山へ帰還した鬼は山の中腹よりさらに上を見据える。そこで名だたる山の実力者たちが衝突しているらしい。
だが――――お前達は忘れている。この山は一体誰が築き上げたのかという事を。
星熊勇儀はゆっくりと登り始める。急ぐ必要はない。
その背中はかつての山の覇者の威容を見せつけていた。
◆
守矢神社上社本宮へ帰投した茨木華扇は顔を顰めていた。竹林の兎は全て救助できたはずだ。天魔と文が天狗達も次々に回収できている。大天狗も数人は収容できた。
だが飯綱丸龍、姫虫百々世、坂田ネムノ、そして妲己。
妲己の体は九尾の狐だ。妖怪の山に於いてトップクラスの実力を持つ者たちの争いは終わりそうにない。
華扇は山を住処としているが実際に居を構えているのは独自に開いた仙界である。
かつては華扇も山に実際に住んでいた。だが仙人として天道を目指すと決めた時から妖怪にも人間にも偏らず幻想郷のバランスを維持し、天の理を体現する事を目指している。
その華扇が妖怪の山で妖怪として力づくで事態を収める事はどうしてもできなかった。
そこへ旧地獄から星熊勇儀が現れてしまった。
いよいよをもって華扇にとってやりにくい状態へ陥ってしまった。何故勇儀が現れたのか、その理由は知る由もないが悪意汚染が影響しているのは間違いない。
諏訪子の領域である境内から大乱戦を苦い顔で眺める。
そこへ諏訪子がやってくる。
「難しい立場だよねぇ」
同じく乱戦を見据えながら声を掛けてきた。
「諏訪子様は祟り神を統べていた存在でもありながら人々の信仰を受けていた。畏怖と崇敬、祟られると畏れられる事と祀られて信じられる事。その違いの折り合いはどうつけられたのですか?」
「ん? それはまた面白い質問だねぇ。私の場合は純粋な信仰から生まれたからねぇ。人々が求める形によって畏れられた祟り神でもあり祀られた守護神でもある。祟りとは本来の神の形でもあるんだよね。病とか天災とかね。そういうものが神の顕現なんだよ。人の身ではどうしようもない災厄だね。それを畏れたり祀ったりすることが神を意識することなんだ。あるがままを受け入れる。言うのは簡単だけどそれに納得する事は難しい。私はそういう存在だからね、折り合いをつけるんじゃなく受け入れた――――っていうのが実情なのかな?」
眼下を眺めながら諏訪子の言葉を吟味する。
鬼である自分、仙人である自分。
なるほど、受け入れるのはなかなか厳しい。
流石は神の言葉だ。
「老婆心から言わせてもらうとね。仙人ってのは結局自分の為に鍛錬を行うものでしょ? 他の事に気を取られるのは修行不足って事だよ。茨華仙の号を名乗るなら狼狽えちゃあ名が廃るよ?」
からからと笑いながら言われると悩む自分がことさら修行不足である事を思い知らされる。
諏訪子の生きた年月を考えればそう言われるのも仕方がないとも思う。そもそも聞けば外の世界から来た諏訪子達だがそれは信仰を求めての事で、それを意識していたのは神奈子であり諏訪子は信仰がないならないで構わないというスタンスだったらしい。それは自身の消滅――神に対して消滅という言葉が正しいのかは不明だが――を意味しているのだが諏訪子はそれで構わないと思っていたという。
人々に望まれて生まれ、人々が忘れて消えていく。
勝手だ、と華扇は思う。人間の身勝手さで生まれ消える。
しかし諏訪子はそれを良し、としている。種族が違うからなのか、あるいは考え方が違うからなのか、華扇が諏訪子の立場ならば納得できない。どうしても人間を悪し様に見てしまう。
だがそれは華扇の生まれが鬼であるからなのか、判断がつかない。
――――けれど。
「確かに。狼狽えるのは修行不足と言われても仕方がありませんね。これでは霊夢に向ける顔がないですね」
「仙人の最終目標は天の理を理解して真理を悟り、タオを具現させること、だったかな確か」
「そうですね。大方合ってます」
「だったらさ、結局生涯を通じて修行を重ねる事が仙人の本質ってことじゃない? 今の迷いも悩みも自分の為にできるかどうかで変わってくるんじゃないかな?」
「そうかもしれませんね」
諏訪子と話しながら一体この神はどこまで分かっているのかと勘繰りたくもなったが、ふと気づく。
今の華扇を見て諏訪子は話しているのだ。
華扇の様子と眼下で広がる戦いと星熊勇儀の姿と見比べて。
全くよく見ている。
「――――だけど」
「なんです?」
見れば諏訪子は華扇の方を向いていた。
何故か嬉しそうな表情で。
「いいんじゃないかな? そんな仙人がいたとしてもさ。前例がないのなら華扇がなってみせればいいのさ。中国には仙狐っていう妖狐が道士を目指して仙術を会得している妖怪もいるんだ。華扇だってなれるさ。いうなれば仙鬼ってところかな? そんな存在にさ。そうなれば華扇を目標にして続く者が出てくるよきっと」
「今の私を是とする、と?」
「もちろん。どうして否としなければならないのさ。私はいったよ? 受け入れたってね。それでいいんだよ。今を是として、さらに前に進む事ができるなら」
諏訪子は改めて眼下を眺める。
「何も体を動かすだけが修行ではないんでしょ? 丹だっけ? 気を漏らすのは駄目だって聞いた事あるよ。この状況でも揺るがない精神を保つ事も立派な鍛錬になるんじゃないかな?」
つられるように華扇も乱戦へ視線を向ける。
大天狗の飯綱丸、山姥のネムノ、大蜈蚣の百々世、九尾の妲己を相手に旧知の勇儀が一歩も退かず鬼の本領を発揮している。
猖獗を極めるとはまさにこのことだった。杯を持っていない勇儀は一切の手加減をしていない。
こんなことならいっそのことあの中へ乱入した方が気が楽なのではないかと華扇は思う。だが今の立場ではそれは難しい。
――――と。
戦いを見据える諏訪子の爪先がちょっとずつ動いている。
それもよく見れば戦いの中で大地を揺るがす衝撃を受ける度に爪先を動かしている。
これはもしや。
「――――諏訪子様」
「ああ、流石にわかるよねぇ。大蜈蚣が掘削するだけでも山へのダメージがあるのに鬼まで来ちゃあね。誰も彼も加減無しなんだから山が崩れるよ全く。山体崩壊なんて起きた日には神奈子がまた卒倒するよ。だから大地の生成と操作をちょっとね。古い地層まで被害が届かないようにしてるのさ」
「確かに。これだけ激しく戦っていれば山崩れが起きても不思議じゃない。では諏訪子様が?」
「まあね。派手じゃないからほとんどの人は分からないと思うけど、こういう所で幻想郷に貢献してるってわけ。ま、という事だから私は直接体は張らないけどね? それに神社を守る結界を維持しないといけないからさ。まずは天魔達に任せるかな。山の運営は天狗達の領分だからね。華扇も取り敢えずはそれでいいんじゃない?」
地味だと言うが山の崩壊を防ぐべく大地を生成している事はかなり大掛かりな事だ。諏訪子は山と言っていたがこの分だと山を含めて麓や地底の方まで大地の操作を行っているだろう。
悪意汚染の影響は深刻であり収束は遠く、この戦いに終わりの兆しは未だ見えなかった。