偽書 第18.8弾 東方禍福宴~The world of justice and evil. 作:加賀アスナ
第21話
ミラーユニバースによる時間の巻き戻しという存在を脅かす力を見せた神奈子は永琳の猛攻に防戦一方となっていた。時間の逆走に永琳が焦燥感を募らせているのだと推測していたが、それは残念ながら間違っていた。時間が戻るのにつれて永琳の力は全盛期へと近づいていく。十重二十重の攻勢を瞬時に構築し神奈子を追い詰めていく。
手が出ない――――。
一つの攻撃を対処し次なる行動へ移る前には既に相手の策に嵌まっている。反撃の機会を見事に封じられ、どうにか致命傷を避けてはいるもののこのままではじわじわと消耗していくだけだ。
どこかで被弾を覚悟して接近し活路を開くしかない、そう思うほど神奈子もまた焦燥を感じていた。間合いは完璧に永琳に支配されている。それが永琳が焦っての猛攻ではなく全盛の力が復活しているからだとは神奈子はまだ気づいていなかった。
その永琳も優勢を保つ傍ら意図していない事態に陥っていた。
それは永琳自身も読み切れなかった誤算の産物。
ミラーユニバースによる時間の逆走は確かに永琳を全盛の時代へと巻き戻していく。それによって神奈子を追い詰めている事は間違いない。
だがしかし。永琳も、そして神奈子もまた把握していなかったことが永琳自身の中で進行していたのである。
それは力が全盛期へと戻っていくのであれば。
永琳の――――失われたはずの神性もまた復活するという事に。
神の特権といっていい神性は常に清浄である事を保とうとする。全盛期へ戻りつつあった永琳は復活の兆しを見せていた神性によって重度に汚染された悪意を自力で浄化し始めていたのである。
その所為で神奈子と戦っている中で永琳は戦闘中にあるまじき思いが脳裏を過ぎってしまった。
――――私は何故、こんな所で戦っているのかしら?
という事を。
その一瞬が分水嶺。苛烈な猛攻が途切れる。何らかの策か、あるいはアクシデントか。神奈子の軍神としての直感が後者だと告げる。一瞬の隙を突いて二重三重の弾幕を掻い潜り間合いを支配していた永琳との距離を詰めた。
刹那の隙を突かれた永琳だったが咄嗟に弓を盾にした。弓幹を掴まれたがどうにか直接触れられるのを防いだ。
荒船山の決戦でタケミカヅチとフツヌシ二人を相手に戦って生き残っている神奈子である。組みつかれたら流石に永琳とて勝ち目はない。
先ほどの隙をアクシデントと踏んだ神奈子はさらに永琳の動揺を誘うべく口を開く。無論彼女の気を引き動揺を誘うなら話題はたった一つしかない。
「――――永琳。何故そこまで蓬莱山輝夜に拘る?」
そう。
彼女が仕え、守っている主である輝夜を引き合いに出したのである。
しかしそれは復活しつつあった神性により浄化されかけていた悪意を盛り返してしまう結果を招いた。再び悪意に染まった彼女の意識が改めて神奈子を敵対者として認識する。
「貴方には関係のない事よ」
やはり乗ってきたか。
そう神奈子は感じ間髪容れず続ける。動揺を誘うならば詰まった時点で神奈子の負けだ。
「いいえ、私の想像している通りなら関係ないとは言い切れないのだけどね? 蓬莱山輝夜の出自には謎がある。貴方と同じ神世時代から生きていれば相当な歳月を経ていることになるけれど――――私の推測通りなら輝夜はもっと若いはずだ。少なくとも月の姫と呼ばれる以上、ツクヨミ神より若い。ツクヨミ神の氏族は多く、その系譜に連なる姫神もまた多かった。そのはずね?」
「ふん。余計な事を良く覚えている」
「ただそれだけでアマテラスの伯母上の懐刀だった貴方がツクヨミ神の氏族の娘に入れ込むとは到底思えない」
「だからなんだというのかしら? 私が自分で選んだ事をとやかく言われる筋合いはないわ」
「私の想像が違っていればね? 私の思っている通りなら輝夜は私にとっても重要な存在なのだから」
射殺すほどの視線で睨む永琳に神奈子は手ごたえを感じていた。動揺まではいかないが話に乗ってきている。ここで別の角度からアプローチを掛けてみる。
「ねえ永琳。どうして私がお空に八咫烏を降ろせたと思う?」
「何の話だ?」
「八咫烏はイワレビコを助けた言わば天孫方の存在。出雲方で戦った私が降ろす、考えてみれば不思議じゃない?」
果たして神奈子は一体何の話をしているのか、永琳には見当がつかなかった。輝夜の事を詮索されていたと思えば霊烏路空の事を語り出す。
これはただの時間稼ぎか、と思った矢先である。
「私にはね、頼りになる兄神がいたのよ」
八咫烏。
兄神。
神奈子の正体は海神族の娘だ。それで兄といえばホダカミになるが八咫烏との関係は薄い。ならば神奈子が語る所の兄神はオオクニヌシの子という事になる。
そこで永琳は気づいた。たったそれだけの言葉で。
「――――アジスキタカヒコネか!」
アジスキタカヒコネ。
オオクニヌシの子にして出雲を出奔した神。
さらに迦毛大御神と呼ばれる神である。アマテラスと同等の、大御神と敬称される神。
そしてアジスキタカヒコネは八咫烏と深い関係とされる神でもある。
国譲り前に出雲から姿を消したが彼は最終的には天孫族へ身を寄せている。それは彼の義兄弟であったアメノワカヒコの弔いでアジスキタカヒコネは高天原へ昇った事があるからだ。葬儀が切っ掛けではあったがこの時に天孫族との繋がりをもっていたのである。
八咫烏といえばカモタケツヌミが真っ先に想像されるが彼を主祭神にしているのは下鴨神社である。そして下鴨神社を含めた全国のカモ系神社の総本社が高鴨、葛城御歳、鴨都波神社になるのだが、その一つ、高鴨神社の主祭神こそがアジスキタカヒコネなのである。さらに鴨都波神社にはアジスキタカヒコネの妹であるシタテルヒメと異母兄弟であるコトシロヌシ、さらに配祀されているのがタケミナカタなのである。そして葛城御歳神社にはシタテルヒメの別名であるタカテルヒメ、それからスサノオの四男であるオオトシとその御子神のミトシが祀られている。
つまり。オオクニヌシ、スサノオの系譜が占めているのである。
そんな彼は鴨都波神社に配祀されているようにタケミナカタこと神奈子とは仲が良かった。国を譲った後でも体を張り信濃で第二出雲王朝を打ち立てた神奈子を彼は大きく評価していた。諏訪の領土は事実上の治外法権を持ち、戦国時代に甲斐の武田信玄が諏訪頼重を自害に追い込み領地を掌握するまで独立していたのだから。その信玄も諏訪明神として崇敬を集めた神奈子を崇拝していたのだから複雑な思いはあったのだが。けれど国土は奪われても神事は継承されていた。頼重の辞世の句――おのづから枯れ果てにけり草の葉の主あらばこそ又も結ばめ――は自分が死んでも主がいるのならまた枯れた草の葉もまた芽吹く、という願いであり家が絶えなかったからこそ実際に諏訪家は再興を果たしている。それは出雲を譲った後に一人信濃で王朝を打ち立てた神奈子とよく似ている。
アジスキタカヒコネは当然ながら神奈子の出自を知っていた。出雲方へ味方した海神族の娘。外様の姫神なれど出雲の為に力を振るった事に好感をもっていたのである。だからこそ地上をアマテラスが治めるようになってからも事実上の独立を貫いた信濃国の神奈子と交流をもっていたのだ。その縁があればこそ霊烏路空へ八咫烏を降ろす事ができたのである。
そして神奈子の言葉通り八咫烏は天孫方へ味方している。即ちアジスキタカヒコネは天孫方とも通じていたのだ。そもそも八咫烏をイワレビコへ遣わしたのはタカギ神である。タカギ神――――つまりはタカミムスビ、永琳の父が派遣しているのだ。天孫方と通じているアジスキタカヒコネは永琳の父と直接の繋がりを持っていた。彼から齎されるアマツカミ側の情報は正確であり神奈子は十二分に高天原の情勢を知り得ていたのである。
「私の考え通りなら蓬莱山輝夜は重要な存在になる。アマテラスの伯母上の懐刀でありツクヨミ神に請われた月の賢者たる貴方が守るに値する唯一の存在。何故なら――――彼女の正体は三貴子の血を引いたたった一人の姫神だったのだから」
三貴子――――アマテラス、ツクヨミ、スサノオ。
その血を引くという事は高天原、月、地上の全てを統べる資格があるということである。
永琳は苦々しい表情を浮かべたまま口を開かない。この状況では沈黙もまた答えだった。
「貴方はあらゆる薬を作ることが出来たはず。輝夜の記憶を改竄する事は容易かった、と思うのだけどね? そうでなければ本来三貴子の血を引いた唯一無二の姫神であった彼女が月の姫程度の位に収まっている訳がない。そして三貴子の血を引いているのならスサノオ神の血が入っている。ならば私にとってもその存在は守るべき存在になる」
日本最古の物語である竹取物語のモデルこそが蓬莱山輝夜本人なのであるがそのラストシーンにヒントが隠されていた。
物語のかぐや姫は老夫婦に月へは帰りたくないと嘆くのだが帰る事は免れないという。そして月からの迎え人がかぐや姫に天の羽衣を着せた途端に寂しいという感情も地上で暮らした記憶も消えるのだ。
つまり。竹取物語が事実を元に書かれた事であるのなら作中のかぐや姫――即ち蓬莱山輝夜は記憶を失っている筈なのだ。その失われた記憶こそが三貴子の血を引いているという真実だったのではないか、と。そしてそんな事ができる人物は世界広しと言えども目の前の人物を除いてはいない。
黙っていた永琳が弓柄を強く握る。
「そこまで分かっているのなら私に力を貸せ、八坂。輝夜の存在は高天原にも月にも目障りになっている。莫迦共が権力に執着した結果だ。もはや地上にしか居場所がない。けれどスサノオの血を引く以上輝夜にも葦原中つ国に留まる権利がある。違うか?」
「その通りね。この地上に於いては確かに輝夜は王になる資格がある」
「ならば!」
「ただ唯一――――私の国を除いてだ!」
「な……に?」
「私はタケミカヅチともフツヌシとも戦ったわ。アマテラスの伯母上に直談判だってした。信濃の国で狩りができるのはその為だ。私が作り、繋いだ国だ。名は地に落ち惨めな歴史を刻まれたとしても私は生き残り、国は続いた。私を祀った民にとってはそれで充分だった。我らが神は屈さず、国を譲らなかったと。我が国で生きた者はその真実を知っている。だからこそスサノオ神の血を引こうとも私の国は譲る訳にはいかない」
「素直に力を貸す気がない――――というわけね」
「そうなるわ。貴方に輝夜がいるように私には早苗がいる。あの子はまだ私が傍にいてみてあげないといけないのよ」
「自らの巫女が大事なのは理解してあげるわ。けれどね、血の尊さを考えなさい。輝夜の代わりは何処にもいない。三貴子の血を束ねた姫は輝夜一人。貴方は守るべき相手を履き違えているわ」
その言葉に眉を歪めたのは神奈子だった。
輝夜と早苗。
血の尊さ。
それは言われなくても分かっている。
だが。だがしかし。
「それを分かった上で言っているのよ、永琳。私は輝夜より早苗を選ぶとね!」
現人神といっても輝夜に比べたら新米も新米の早苗ではその格は大いに違う。理屈の上では本来ならば神奈子もスサノオの血を色濃く引く輝夜へ仕えねばならないだろう。
けれど。
感情がそれを許さない。
外の世界を捨て幻想郷までついて来てくれたのは早苗だ。彼女を選ばないという選択肢はないのである。
「愚かね。流石はワタツミを裏切った叛逆神ッ!」
「なッ――――!」
永琳が弓柄を引いた瞬間に神奈子は絶好の機会を得たと判断した。けれどそれは永琳のフェイントであり、あろうことか永琳はそのまま弓を手放した。僅かに身を引いて神奈子の間合いをずらした永琳に致命的な隙を見せてしまった。
――――この間合いでなお、この判断!
「墜ちなさい八坂!」
永琳の一撃は神奈子を撃ち抜き竹林へ撃墜した。けれど墜とされる刹那、神奈子は永琳へ向けて手を翳した。
瞬間。
何かに押しつぶされるかのように永琳もまた間をおかずに竹林へと墜落する。ミラーユニバースに於ける重力を操作した神奈子によって度を越した圧迫を受けたのである。
◆
もうもうと黒煙を上げていた竹林が大炎上しなかった訳は運が良かったからではなかった。
因幡てゐを始め、兎たちがいない竹林に於いて一人せっせと消火活動を行っていた者がいたからだ。
竹林に住むルーガルーこと今泉影狼である。彼女は誰もいなくなった竹林で健気にも妹紅が出火元の火災の消火を行っていたのだ。
無論彼女も悪意に汚染されてはいたのだが己の棲み処が燃えていく現状に消火活動をせざるを得なかったのである。
小川から水を汲み、直接火に水を掛けるのではなく周囲に水を撒いて燃え移らないようにし、竹を切り延焼も防ぎ、その上で直接火元へ水を掛けて冷却消火を行っていた。彼女の消火活動によって竹林が大火災に陥ることがなかったのである。
そんな彼女のすぐ近くに何かが勢いよく落ちてきた。
凄まじい衝撃と土煙。思わず尻もちをつく程の衝撃。
「……けほッ……な、なに?」
瞬く間に視界が土気色の煙に覆われて何が何だか分からない状態であった。まるで何かが爆発でもしたかのような感じである。
ゆっくりと影狼が立ち上がった瞬間。
土煙の切れ間に赤と青の靡く裾が見えた気がした。
そうして――――影狼の視界は真っ赤に埋め尽くされた。
◆
博麗神社はやや落ち着きを取り戻していた。無論、神奈子と永琳の戦いに気を割いているパチュリーは敷設した魔法壁の発動のタイミングをずっと待ち続けていたし隠岐奈より境界の解放の連絡が来る紫はいつでも能力を行使できる状態を保ちつつ、妹紅からの連絡で蘇我屠自古の回収も行っていた。屠自古の悪意も霊夢の手により祓われたが布都、衣玖、わかさぎ姫と戦闘を重ねていた彼女もまた負傷しており奥の座敷での看病リストに名を連ねた。
パチュリーの補佐を頼まれている魔理沙はパチュリーが一息入れる際に代わり魔法壁の状態を常時確認していた。
紅魔館の妖精メイドやホフゴブリンの手を借りて霊夢が悪意を祓ったリグル、ラルバ、メディスンは小康状態まで持ち直していた。美鈴が外した輝夜の肩はパチュリーが正しい位置へどうにか嵌め直し後はてゐに任せている。
負傷具合では幽香と咲夜が一番酷く、彼女達はあうんが担当して看ていた。幽香は戦傷が酷く安静が必要であったし咲夜は輝夜との時の戦いの影響で未だ気を失っている。肉体の負傷は手当を行い、呼吸、脈拍は通常まで戻っていたのでこちらも安静にしていればおそらく大丈夫ではないかとあうんは判断していた。祓いを受けた者は奥の座敷の間に収容されていたので奇しくも依姫が輝夜と顔を合わせる事がなかった。
その依姫は社務所の縁側へ腰を下ろしその隣に霊夢がさらに隣に紫が座り神奈子と永琳の戦いの推移を見守っていた。
そこへ――――。
鳥居を潜る影が一つ。
赤白青の目立つ色合いのワンピースとタイツ。紫地に水玉の帽子。
それは旧地獄で亡者を相手にしていたクラウンピースであった。彼女は亡者の大群を星熊勇儀が殲滅した後に細心の注意を払って少しずつ移動を開始した。旧地獄は大混戦に陥っていたからだ。畜生界より饕餮尤魔の解放した旧血の池地獄を経由した鬼傑組組長、吉弔八千慧がその力をもって逆らう気力を失わせた亡者を扇動し独自の勢力を形成して地底へ進出していた為である。八千慧も当然ながら悪意に汚染されてはいる。しかしこの亡者の反乱に於いて利害の一致から饕餮と驪駒早鬼の二人と畜生大連合を結成し、ある意味純粋に地上を目指している亡者達とは違う意図を持った勢力としてその偉容を見せつけていた。
また地霊殿へ移動していた霊烏路空の存在によって地霊殿が地底唯一の神域と化した事でさらに事態は変わった。お空はその身に太陽の化身である八咫烏を宿している。その為、歩く分社であり彼女が認識している範囲が神域と化している。そもそも星熊勇儀が間欠泉センターのエレベーターを無断で使う事ができたのはお空がいなかったからだ。さらにお空が地霊殿に移動していた事で本来なら灼熱地獄跡で彼女に殲滅されるはずだった亡者が地底に溢れているのである。ただし古明地姉妹、火焔猫燐の悪意は浄化された。これによってさとりが悪意から解放され、お空を中心にして地霊殿より出撃したのである。
悪意に汚染された妖怪と相対する亡者をお空の炎で浄火していったのだ。その中にキスメ、黒谷ヤマメ、水橋パルスィも含まれており彼女達の悪意を燃やし尽くし――――炎のダメージがあるものの――――汚染を祓う事に成功していた。
中でもパルスィの意識が清浄化した事が大きく、彼女が番人をしている旧都と地上への縦穴への道を繋ぐ橋を確保できたことが大戦果と言えた。何故なら地底へ侵攻している反乱軍が目指しているのがパルスィが番人をする地底橋だからだ。是非曲直庁から動員されている死神部隊や獄卒達も地底橋を最終防衛線として防衛部隊を配置していた。
結果として星熊勇儀が間欠泉センターのエレベーターを選んだのは運が良かったのである。死神と交渉すれば地獄谷を上がる事もできただろうが悪意汚染に晒されていた彼女である。交渉前に一悶着を起こしていただろうことは想像に難くない。もっとも無意識にパルスィが陣取る橋へ向かう事を避けたのかもしれないが。
地底橋を占拠したさとり率いる地霊殿組は死神部隊と共同戦線を張る事に成功した。こうして地底を舞台に地獄の反乱軍、吉弔八千慧が率いる畜生大連合傘下の亡者達、死神部隊及び地霊殿組と三つ巴の勢力争いへと泥沼化していたのである。
そんな中、死神に協力していたクラウンピースは地霊殿組が合流した事で死神と交渉し地獄谷を上がって地上へ脱出したのである。博麗神社及び地上へ通じる全ての間欠泉は死神部隊に封鎖されており解放できないと言われて通る事ができなかったのだ。
随分と時間が掛かったが映姫に教えられた通り魂魄妖夢を呼びに来たのである。
クラウンピースの姿を見た霊夢が駆け寄っていく。彼女もまた亡者との戦いで少なくない傷を負っていた。致命傷はないようだがそれでも疲労は見て取れた。
「ちょっと、どうしたってのよ?」
「れ、霊夢。ここに妖夢……魂魄妖夢っている?」
「妖夢? アンタ、タイミングが悪いわよ。妖夢なら白玉楼へ向かったわよ?」
「そんなぁ……」
クラウンピースは霊夢の前でへたり込んだ。霊夢としては彼女が辿ってきた経緯を知らないので事情は分かり兼ねたが疲労と負傷具合から相当苦労して博麗神社へ辿り着いたであろう事は想像できた。少し泣きべそを掻いている所からも紆余曲折あって妖夢が博麗神社へいると情報を得て、そして疲労と負傷を鑑みるに亡者達と交戦してきたのだろう。
霊夢はクラウンピースの手を引いて手近にいた妖精メイドに声を掛けた。クラウンピースの手当と何か温かい食べ物を出してと言付ける。
霊夢が彼女を連れて縁側へ戻ると依姫が恐ろしい形相でクラウンピースを見ていた。それは誰がどう見ても睨んでいるとしか形容の出来ないものだった。
「よくも私の前に顔を出せたものです。地獄の妖精」
底冷えのする依姫の声にクラウンピースは本能的に霊夢の背中に隠れた。
「な、なにさ……あんたなんか知らないよ」
「貴方達地獄の妖精には大変な目に遭わされました。よもや忘れたのは言わせません。霊夢、そこを退きなさい」
立ち上がって今にも鞘走りそうな依姫に彼女とクラウンピースの間に漂う剣呑な空気を感じ霊夢は間に立ったまま頭を掻いた。
「何が何だか分からないけれど。依姫もクラウンピースも落ち着いてってば。何があったかは知らないわ。でもこんな時にいがみ合うのはやめてもらえる?」
依姫がいきり立っているのは以前、純狐がヘカーティアと手を組んで月へ地獄の妖精を大量に送り込み侵略した事があるからだ。その尖兵たる妖精のリーダーであったクラウンピースの事は当然月の使者である依姫は知っていた。あの時は月の賢者達が知恵を出し夢の世界へ月の民を避難させ実際の月の都を凍結させるという手段を用いた。そうして膠着状態へ持ってはいったがそれは実に半年の期間も続いた。依姫も夢の世界へ避難を余儀なくされた一人であり、月の使者として辛酸を嘗めされられた遺恨がある。本来月の都の防衛を請け負う彼女が夢の世界へ避難という撤退しかできなかったことはこの上ない屈辱だった。
結果的にではあるが月の民が幻想郷へ移住計画を立てた事で純狐らを撤退させるに至ったわけだが、それは霊夢達が異変として認識し月へ向かい純狐らと相対して得た結果なのである。
無言で睨む依姫に霊夢の背に隠れるクラウンピースという光景にそれを見ていた紫がくすくすと笑みを溢した。
「ちょっと紫。面白がってないでアンタも二人を止めるのを手伝いなさいよ」
「あら。地獄の妖精にも月の使者にも慕われるなんて成長したわね、霊夢」
「あのねぇ」
「その二人にどんな因縁があるのかは分かり兼ねるけれど。確かにこの状況下でそれも幻想郷において、しかもそれが博麗神社で揉め事を起こされるのは困るわね」
扇子で顔を隠す紫の表情は相変わらず読めないが声音から面白半分真剣味が半分といった様子が窺える。本気なのかそうでないのか、霊夢にとって紫の一番嫌な部分である信用ならない胡散臭さを匂わせる辺り結局は霊夢自身が動かざるを得ないだろうと悟った。こういう時の紫は当てにできない。
「とにかく。依姫も落ち着いてってば。前に何があったかは分からないけど今は悪意に関係ない揉め事はやめてもらえる? アンタもよ、クラウンピース」
柄へ手を掛けていた依姫も霊夢の顔を立てたのか長い溜息をついて縁側へ座り直した。ちょうどそのタイミングで妖精メイドが二人やってきてクラウンピースの前に温かいスープと俵型に握られたおにぎりを持ってきた。依姫と距離を取りつつ――もちろん霊夢が間が入っている――クラウンピースの手当を妖精メイドがしている中、依姫が怒った理由を霊夢は聞き出していた。
霊夢自身も経験した月の都での異変、引いては月の民に利用されて異変解決の駒として動かされていた事。
原因はそれだった訳だが純狐とヘカーティアが起こした侵略そのものは幻想郷には関係ないものであり幻想郷を巻き込んだのはあくまで月の民である。
依姫の立場からすればクラウンピースは侵略者の尖兵であり許せる相手ではないのだろう。
逆にクラウンピースの立場からすれば純狐へ協力した彼女の主人であるヘカーティアの命令を実行しただけであり純狐にしてもヘカーティアにしても月へ侵略するに値する怨みがあったわけで。
互いの事情の大本を考えると根は深そうである。深掘りすることはやめた霊夢は現状の悪意蔓延による被害の大きさを改めて説明しここは休戦にしてはと提案した。依姫は尚も言いたいことがある様子ではあったが霊夢の提案に乗った。手当てを受けながらおにぎりを頬張っていたクラウンピースもそれに同意し休戦は実現した。
霊夢がほっとしたのも束の間で手当てを受けたクラウンピースはおにぎりを食べ終えると妖夢を探しに行くと言って立ち上がった。今にも神社を飛び出しそうな彼女を引き留めて事情を聞きだすとクラウンピースも詳しい事は聞かされていなかったが彼女の主人であるヘカーティアから呼ぶように指令を受けたからという。地獄の女神が白玉楼の庭師に一体何の用があるのか、その意図は全く分からなかったが首を傾げたクラウンピースは命令を受けた際のヘカーティアの言葉を思い出すように霊夢へ言った。
なんでも―――――万が一を考えて妖夢を手元へ置いておきたいのよん――――と、あくまで軽い口調ではあったものの言っていたという。
万が一?
万が一とはどういう事だろうか。
地獄の女神ヘカーティアは一体何を考えているのか。クラウンピースの話を聞くに彼女がヘカーティアから命令を受けたのは悪意が蔓延する直後だ。
続けて。
クラウンピースはとんでもない事を口にした。それは彼女が命令を受けてすぐにヘカーティアの領域である地獄界の最下層である第九圏コキュートスにアラディア・アーリマンが突如出現し地獄の女神対原初の悪神の戦争が勃発した、と。
コキュートスは四つの円状に区切られている。
第一円カイーナ。
第二円アンテノーラ。
第三円トロメーア。
第四円ジュデッカ。
地獄の中心に位置するジュデッカのそのまた中心にかつて神に叛逆した魔王が永久凍土の中で永遠に罪を償い続けている。
嘆きの氷地獄、それも最も重い罪を犯した大罪者を収監するジュデッカへアラディアは現れた。厳重に管理された地獄の最深部へ造作もなく。まるでヘカーティアへの当て擦りのように。
簡単に入り込めたぞ、と態度で示しているかのように。
クラウンピースが齎した、アラディアがコキュートスに出現した情報はそれを聞いていた紫と依姫に苦々しい思いを抱かせた。
ヘカーティアの管理する地獄界は是非曲直庁に入庁している者でもそうそう足を踏み入れる事ができない場所だ。そして何より地獄の門を超えたとしてもその先の地獄前域と呼ばれる場所が先へ行くのを阻む。何故ならそこは無為に生きて善も悪も為さなかった者が過ごす事になる場所だからである。それはつまり地獄界へ入る事も許されない事を意味しているのだ。
地獄前域と地獄第一層――第一圏、辺獄の間にはアケローン川が流れており地獄界とを隔てている。渡河するには冥府の渡し守カロンの死霊を獣皮で縫い合わせた死霊船でなければ通れない。その上、渡し賃として一オボロス貨を支払わなければならない。冥銭を持っていない者は二百年待ってからでなければ乗れないのだ。当然ながら生者は絶対に乗る事はできない。
にも拘わらずである。
アラディア・アーリマンは直接最下層のコキュートスへ侵入を果たしヘカーティアへ戦争を吹っかけたのだ。
その戦いは一進一退であり悪意という無限の供給がヘカーティアの足止めを可能にしていた。その為に三途の川へ押し寄せた亡者の反乱軍の殲滅にヘカーティアが現れなかったのである。
アラディアのコキュートス出現の情報は欲しかった情報でもあった。しかし霊夢にとっても紫にとってもそして依姫にとっても手出しが全くできないヘカーティアの領域というどうしようもないものだった。霊夢は当然生者である為、紫と依姫も生者である事と紫の場合は仮に境界を操作しても辿り着く場所はよくて地獄前域にしかならないからだ。それはヘカーティアの領域の地獄界は三位一体の力で創造されたものであり境界を挟む余地がないのである。だからこそ地獄の門の碑文の最後に――――汝等ここに入る者一切の望みを捨てよ――――と記してあるのだ。境界を挟めるかもしれない、という希望はないのである。次いで依姫の場合はもっと直接的だ。地獄界は穢そのものだからだ。月人となった彼女が侵入すれば二度と月の都へは帰れなくなる。そんな場所に原初の悪神は現れたのだ。
この状態ではアラディアの事はヘカーティアに任せざるを得ない。となればクラウンピースが受けている命令はヘカーティアにとって必ずプラスとなる意図があるに違いない。
そう考えた紫は自ら境界を操作し白玉楼へクラウンピースを送ると提案した。クラウンピースは紫の態度に怪訝なものを感じながらも礼をいって開かれた切れ間に飛び込んでいった。
「あいつ……とんでもない事を喋って言ったわね」
クラウンピースが消えた切れ間の方を眺めていた霊夢が言う。
「地獄か……厄介な場所に」
忌々しそうに呟いたのは依姫だった。文字通り手も足もでない場所に出現しているのだから。
「ともあれ。相手の首魁は地獄界にいるわけね」
依姫の呟きに応えた訳ではないだろうが紫が口を開いた。
「どの道、アラディアに対し今のままでは私達に出来る事はないわ。私達がやるべきことは地上の悪意を消し去ることよ」
神妙に答えた紫に霊夢も依姫も硬い表情だった。
そこへ――――。
「動いたぜ!」
魔理沙の大声が響いた。
振り返って神奈子と永琳の戦いへ目を向けると竹林の上空で死闘を演じていた彼女達の姿がなかった。
◆
妖怪の山の混戦はようやく終わりが見え始めていた。
大天狗の飯綱丸龍、山姥の坂田ネムノ、大蜈蚣の姫虫百々世は鬼の星熊勇儀の前に倒れ伏している。九尾の妲己もまたその首を掴まれ敗北寸前だった。
個々の力では決して星熊勇儀に引けを取らぬ猛者たちが彼女の前に倒れたのはそれは勇儀の持つ――怪力乱神を持つ力に寄るところが大きかった。ただでさえ鬼という種族が強靭な肉体を持つ。その上で勇儀は図抜けた怪力を誇っている。それでも単に腕力が強いだけでは飯綱丸たちを下すには厳しいものがある。それを可能にするのが怪力乱神を持つ力である。これがどういった能力であるのか、真に理解している者は同族である鬼以外の妖怪はいない。
この力は多くの妖怪が勘違いしているが勇儀自身の力を底上げするようなものではない。怪力乱神とは理解を超えた現象存在を意味する。この場合、理解できていないのは勇儀と相対する者である。即ち、怪力乱神を持つ力の本領は鬼である星熊勇儀をどこまで真に理解できているかによって勇儀から受ける力が理解できない超常的なレベルまで跳ね上がるか、あるいは全く変わらないかまで振れ幅がある力なのだ。
そして。
鬼である星熊勇儀の事を正しく理解できているものはいなかった。怪力乱神の力の前に大天狗も山姥も大蜈蚣も、今、九尾も下された。
「ふん。やはり八雲藍とは違うんだねぇ。あれの方がもっと賢い戦い方をするよ」
「あ…………がッ」
首を掴んだまま大地へと叩きつける。
ただそれだけの行為が怪力乱神を持つ力によって勇儀を理解できない妲己は叩きつけられる以上の力を受け取った。
大地に沈められた妲己はそのまま無造作に持ち上げられて麓へ向けて投げられた。
「――――さあて」
勇儀は顔をあげて天に向かって叫んだ。
「出て来な、天魔!」
咆哮一喝。
それだけで空気が震えた。
勇儀の咆哮は守矢神社本宮にいた天魔にも十分すぎるほど届いていた。
大混戦の行方を見ていた諏訪子と華扇、文は視線を天魔に向ける。その天魔は長い息を吐いた。
「どうやら指名が入ってしまったようですね」
「天魔様、出ていかれるので?」
思わず問いかけた文に天魔は制止を掛けた。
「これは山の問題だ。勇儀様が現れたのも悪意に晒されたとはいえ、今の山に思う所があったのだろうな」
「で、ですけど、勇儀さん相手では天魔様だって……現に飯綱丸様だって」
「その飯綱丸が体を張ったのも全ては山を思っての事だろう。なれば長である私が出ない訳にはいかぬだろうよ。それに――――勇儀様といえど今の山は私が治めているのだ。ここで出なければ天狗族の名折れというもの。止めてくれるなよ、文」
そう言った天魔は諏訪子と華扇へ頭を下げた。
「では申し訳ありませんが後の事はお願いしても?」
「天魔、あなた。本気で勇儀と戦うつもり?」
「もちろんです、華扇様。出て行かぬ道理はないでしょう」
「いいじゃない、行ってきなよ天魔」
天魔を肯定するように諏訪子が口を開いた。
「ここは、今は妖怪の山なんでしょ? だったら責任者が出なくっちゃ話にならないよ。それに先方は天魔を指名している訳だしね。骨は拾ってあげるから説得なり力比べなり、けじめをつけてくればスッキリするじゃない」
あっけらかんと告げる諏訪子に天魔は笑った。
「その通りですね諏訪子様。今は妖怪の山で私が長。責任者は責任を取る為にいるわけですし。ですが一つだけ」
「どうしたの?」
「私に何かあれば後は頼んでもよろしいですか?」
「うん、いいよ。今は私達も山に住んでるんだし。それは華扇も同じでしょ?」
「それはそうですが……」
「ま、いよいよとなったら何とかするよ」
「お心遣い痛み入ります。では失礼」
目礼をして天魔は守矢神社の境内から飛び出し勇儀のいる山腹へ向かった。
そうして――――。
旧山の支配者対現職の山の支配者の一騎打ちが始まった。
◆
緋色の襯衣が赤黒く染まる中からそこにあってはならないものが飛び出しているのを影狼は理解が追い付かない状況下でぼんやりと思った。
影狼の目には虹色に輝く球体のように見えるものがある。もし魂というものが見えるのならきっとこんなものに違いない、と場違いな事が脳裏に浮かんだ。
その虹色の魂が襯衣から飛び出ている手に握られている。鮮血に彩られた真っ赤な手。
時間にして一分くらいのものだったが影狼は全く認識できていなかった。まるで寝起きの頭で物事を見ているようなそんな感覚。あるいは目の前で起きた事を本能が拒否していたのかもしれない。
もし。
緋色の襯衣を纏った人物が影狼の前に立ち塞がらなければ、その腕が貫通していたのは影狼自身だったかもしれない。
「……相変わらず、容赦がない。加減というものを……貴方は知った方がいいわ――――ねえ、オモイカネの叔母様」
「随分と懐かしい名で呼ぶのね」
永琳に撃墜された神奈子は重力を変化させ永琳も道連れにして地上へ落下した。
その落下場所には運の悪い事に消火活動をしていた今泉影狼がいたのである。影狼にとっては気の毒なことこの上ないものだった。さらに神奈子が撃墜された位置と永琳が落下した位置が影狼から見て正面に永琳、右手側に神奈子だった事、そして神奈子が落ちた方が風上であったことがこの状況を作り出していた。
落下した衝撃で巻き上げられた土煙は影狼と永琳の方へ流れていた。永琳からすれば土煙の中で立ち上がった人物は神奈子である筈だった。
――――そこに影狼がいなければ。
だから土煙の中で誰よりも早く動いた人物である影狼に対して永琳が向かっていったのはある意味必然であったのだ。
風上にいた神奈子は影狼と永琳の姿を先に落ちた事で――――ほんの僅かな差ではあっただろうが――――認識できていた。
永琳が自身と影狼を見誤っている事に気づいた彼女はぎりぎりの所で影狼と永琳の間に体を滑り込ませたのである。
それが永琳に胸を貫かれるという結果を招いた。
「愚かなことをしたわね。その狼女を見捨てていれば私を倒せたでしょうに」
影狼が目にした虹色の魂と形容したものは神奈子の神核である。神の神たる所以の核。それを永琳が握っている。
「そう、なっていれば……貴方はまた居場所を探すことになる……霊夢や……紫も、黙ってはいないでしょう」
「そうなればその時よ。この地上で輝夜を守れるのは私だけだ。幻想郷が住みにくい場所になるのなら住めるようにすればいいだけのこと」
それは暗に暴力的な手段も辞さないと告げているようなもの。
それを神奈子は哀れに思った。
「永遠というのも、存外……神であっても猛毒だった、ようね」
「――――なんだと?」
「新生をなくした……貴方にはその喜びは、分からないでしょうね」
「そんなものなくとも輝夜が生き続けてくれるのなら必要はない」
「そう。だから輝夜で終わり。もう……続かない。ねぇ永琳。貴方は一体輝夜をどうしたかったの?」
「――――なに?」
「三貴子の血を――――束ねた唯一の、姫神だった輝夜。貴方は輝夜を生かし続け守ると、いうけれど……輝夜はそれで、幸せなのかしら?」
「ッ! 黙れッ!」
「貴方の叡智は……多くの者を導いた。けれど幸福だけは……欠落していたみたいね」
「――――素直に私へ力を貸せばよかったものを。ここでさよならね、ヤサカ」
そう告げた永琳は神奈子の神核を握りつぶした。
瞬間、虹色に輝く閃光が辺り一面に広がった。
それは竹林の上空まで届き博麗神社、人間の里、紅魔館、命蓮寺、輝針城、妖怪の山からもその光は見えた。
光の意味を知っているのは神だけだ。
摩多羅隠岐奈、玉造魅須丸、天弓千亦、秋静葉、秋穣子、依神女苑、依神紫苑、綿月依姫はそれが一人の神の終焉であることを悟った。また疫病神の側面を持ち妖怪の一部でもある鍵山雛もその意味を理解していたし、聖人にして尸解仙の聖徳王こと豊聡耳神子もまた太子信仰の神である為、やはり光の意味を正しく読み取っていた。
その中で。
洩矢諏訪子だけがだれにも聞こえることなく呟いていた。
――――あの光を見るのは随分と久しぶりだねぇ、と。
事切れたように動かなくなった神奈子の手が神奈子自身を貫通している永琳の腕の二の腕あたりを掴んだまま動かない。死後硬直のような状態だ。直に信仰によって受肉している体も消えるだろうと推測した永琳は一息ついた。
――――だが。
二の腕を掴む手により力が入っていく。
「――――なんだ?」
おかしい。
明らかにおかしい。
神奈子の神核は潰した。現に終焉の光が散っていった。では何故、残された肉体に力が入るのだ。
目まぐるしく永琳の頭の中で多くの予測が立てられ正解を導くべく動く。しかし未だかつてこんな事態には立ち会ったことがない。
これは一体どういうことなのか。
永琳が戸惑っている中、神核を潰されたはずの神奈子がゆっくりと顔をあげた。
「――――何故だ、たった今、神核を潰したのに……」
「ええ、諏訪子に、いえフツヌシ以来かしら、潰されるのは」
「どういう――――」
神核を潰された神奈子が何故まだ生きているのか。
それこそが彼女がタケミナカタと名乗る理由でありまた呪いでもある。
――――あの日。
海神族の神事である御船祭の日に神奈子は竜宮城を抜け出した。豊姫や依姫を始めとして御付きの神たちから聞かされた外の世界を自分の目で見てみたかったからだ。
竜宮から一人飛び出した神奈子は新潟の姫川を遡上し地上の国へ上陸した。初めて見る地上の世界だった。あらゆるものが新鮮であらゆるものが輝いてみえた。
地上の国を行楽していた彼女だが当時の神奈子は体が弱かった。それが祟り、動けなくなってしまった。体が言う事を聞かず竜宮へ戻る事もままならなくなった。もう駄目かもしれないと死を覚悟した時である。
そこへ――――。一人の美丈夫が訪れた。
新潟と長野で黒曜石と翡翠を管理していたオオクニヌシの本当の息子神であるタケミナカタがやってきたのである。彼は神奈子の様子を見てすぐに体の異常を見抜いた。オオクニヌシと違い医療の神ではないが水の神の側面を持つ。地上へ出た事で水が合わない事を見抜いたのである。
そのまま彼は信濃国へ神奈子を連れていき諏訪子の国である洩矢の王国へ入国し諏訪湖へ浴したのた。
オオクニヌシの国造りは全国を行脚して行っていたものだ。その際に先住の土着神や土地神とも交流を深めていた。後に父神の造り上げた葦原中つ国の諸国漫遊に同行したタケミナカタもまた育ての母神であるヌナカワヒメの越の国を中心にその周りの国々との繋がりがあったのである。タケミナカタが信濃国、そして洩矢の王国へ入国できたのはその為だ。
洩矢の王国の諏訪湖は神湖でもあった。ここの水であるならば神奈子の不調を癒せると踏んだのだ。
元々が海神族の神奈子である。それも体が弱かった彼女が竜宮という神水のある場所ではない地上での行楽によって衰弱してしまったのはある意味では当然の結果だった訳だ。
神奈子が十全に回復するまでタケミナカタは献身的に看病してくれた。それは実に半年にも及んだ。
諏訪湖を自在に泳げるまでに体調が戻った頃には二人は打ち解けており気心を知る仲となっていた。
それは神奈子が本来地上で行きたかった葦原中つ国の中心である出雲のオオクニヌシの息子が目の前におり多くを語ってくれたからだ。タケミナカタは父神オオクニヌシ、兄神コトシロヌシと全国を行脚したという。それはいずれオオクニヌシの跡を継ぐために開拓の何たるかを学んでいたのだという。
タケミナカタの話を聞くのは楽しかったし、ますます出雲へ行ってみたいとも思ったが神奈子の容態が快方に向かい海神族の里である竜宮城へ帰るのも近いと指摘されて現実的な問題に直面することになった。
まず竜宮へ戻ったとして未だかつてない叱責を受けるだろうこと。叱責で済めばいいが海神族の神事である御船祭に抜け出しているのだ。何らかの罰はあって然るべきだろう。
そもそも父であるオオワタツミは神奈子の体が弱い事を慮って竜宮から出ては駄目だと言いつけていたのだ。箱入り娘にされていたことは不満だったが今となってはそれが正しかったのだと思い知らされた。もしもタケミナカタが通りかからなければ野垂れ死んでいたかもしれない。文字通りタケミナカタは命の恩人なのである。
このまま礼を述べて竜宮に帰ったならば命の恩人に対する感謝の念が足りないとこれまた怒鳴られるだろう。海神族は御礼もまともに言えないのかと大目玉を食らう事は目に見えている。そうとなれば体を治してもらってそれでさよなら、という訳にもいかない。
そこまで考えて最初の思考に戻った。
何らかの罰を受けるだろうということ。もしかすると自身はもう二度と竜宮城から出してもらえなくなるのではないかと脳裏を過ぎった。体の弱い己が御船祭に抜け出し、おそらく父を筆頭にいなくなったことで大騒ぎになっただろう。しかもそれが半年に渡り連絡の一つない。ではその間、自身は何をしていたかというと地上へ上陸して死にかけた挙句、オオクニヌシの息子神に付きっ切りで看病してもらっている訳である。
――――巫山戯ている。
神奈子は自分でもそう思った。そしてお陰で復調したので帰りますでは余りにも身勝手だ。いよいよをもって神奈子は己の仕出かした事の大きさに項垂れた。
海神族はまだいい。オオワタツミにも姉である豊姫と依姫にも謝り倒せばいい。下げる頭ならいくらでもある。
だが。
出雲族のタケミナカタは違う。半年の期間、付きっ切りで看病とは大迷惑もいい所だ。本来ならばタケミナカタにも何らかのすべきことがあったはずで、それを棚上げして神奈子に付き合ってくれていたのだ。彼の話でもあった黒曜石と翡翠はその貴重さからしっかりと管理してなければならず、その責任者としてタケミナカタはいるのだというではないか。
体の容態もよくなりもう三日もすれば竜宮城へ帰っても大丈夫だと告げるタケミナカタへ神奈子は決心した事を伝えた。
それは竜宮城からは無断で地上へ訪れた事から始まり、出雲族のタケミナカタへ迷惑を掛けた事。戻れば罰として二度と竜宮城からは出してもらえないかもしれないという事。そして最後に命を救って貰った恩人に対して海神族として何の御礼も出来ていない事。
静かに話を聞いていたタケミナカタは御礼などいらぬ、といい、これを機に海神族とも交流を深める嚆矢となれればそれでいいと告げた。
しかしそれでは神奈子の気が収まらない。
だからそれを口にした。
――――タケミナカタ様はヤサカの命の恩人です。なればこの命は貴方様へ尽くそうと決めました。お慈悲を与えて下さるのであれば不束者ではありますが、このヤサカをどうか娶ってください――――と。
困ったのはタケミナカタである。相応の手順も踏まず海神族の娘を娶る訳にもいかないからだ。しかし神奈子の言う通りおそらく竜宮城へ戻れば二度と出ることは叶わなくなるだろうことは想像がついた。半年の期間、看病してきた相手である。気心も知り、有り体に言えば好ましい姫神なのは間違いない。
熟考の末に彼は神奈子の申し出を受けた。こうして神奈子はタケミナカタの妻神となったのである。
妻神となったのはいいがタケミナカタは半年も神奈子についていた為に多くのすべきことが山積みになっていた。父神オオクニヌシと生みの母神スセリビメ、そして育ての母神ヌナカワヒメに報告するのは全てが片付いてからとなった。けれど元々胆の据わった性格の神奈子である。父神にも母神にも夫婦神となった誓約ができていない現状に不満を募らせていた。これでは形だけの婚姻ではないのか、と。
タケミナカタの手伝いをしながらどうにか夫婦の証を立てられないかと考えていた彼女はある程度の職分を片付けた彼に言ったのである。夫婦であるからには婚ぐべきである、と。
確かにそうかもしれないとタケミナカタも思っていた。彼の父神であるオオクニヌシは多くの女神を娶っており御子神は百八十を超える子を為しているのである。
妻神を娶ったわけであるし一人二人の御子神がいてもおかしくはない。
そうして婚いだ二人だったが。
結果からいえば神奈子は二十五柱の御子神を生んだ。しかし出産、子を産むというのは命がけの大偉業である。それが母体にどれだけの負担がかかるのかタケミナカタも神奈子も分かっていなかった。火の神カグツチを出産したイザナミはその時の負傷が悪化し病になり命を落としている。
本来体の弱い神奈子に出産は耐えられなかったのである。その負担が肉体の限界を超え死に瀕してしまったのだ。
妻神の命はまさに風前の灯火であり、一刻の猶予もない状況でもタケミナカタは冷静だった。
子を為すというのは次代へ繋げる事である。それを彼はよく知っていたのである。
末子相続の出雲ではタケミナカタがいずれオオクニヌシから国を継承し兄神コトシロヌシが神事を継承する事が決まっていた。
そうであるのならば自身に子ができた今。
次代へ繋ぐ事は果たされたのである。それを妻神となった海神族の姫神が成し遂げたのだ。その大偉業を死という終わりで締めくくってはならない。
イザナミは病に倒れ亡くなり、その原因を作った子であるカグツチは父のイザナギに殺されたがそんな終局は認めない。
タケミナカタは意識も朦朧としている神奈子へ手を差し伸ばし己の子を産んだ偉大なる妻に最大の賛辞とその子らと神奈子の未来へ祝福を送った。それは彼の神徳である国土安寧と子孫繁栄だ。
そして。
彼は彼の神核を神奈子へと譲り渡したのである。
そもそもの所。
神奈子の体が弱かったのには原因があった。タケミナカタはそれを見抜いていた。
それは彼女の持つ乾を創造する力に対して彼女自身の神核が耐えられるものではなかった事に起因していたのである。
竜宮城の神水がある場所や諏訪湖のような神湖ならばその神域が神奈子を支えてくれる。だから不調を来たすことがなかったのだ。しかし一歩神域から出たならば神域の庇護から離れ自身の力に圧迫された肉体が悲鳴を上げ始めるのである。
ならば根本的に神奈子の不調を治療するとなると力を封じるか力に耐えうるだけの神核を移植するかのどちらかしかない。
タケミナカタは後者を選んだのである。
自身の神核を明け渡す――――それはタケミナカタ自身の消滅を意味する。ただ神核は神奈子の中で存在し続ける。
次代へ繋ぐ子がいるのならば。
妻と子の未来があるのならば。
何の恐れもあろうはずがない。
喜んで神核を捧げよう。
タケミナカタの神核は彼と婚いだ神奈子にはよく馴染んだ。まるで初めから己の一部であったかのように。だが肉体には己の脆弱な神核が居座っている。ならば鎮座できるのは肉体と同等の場所である魂だけだ。神奈子の魂にタケミナカタの神核は収まった。元が軍神の神核である。乾を創造する力に耐えうる強靭な神核は神奈子の体の弱さを克服し力そのものを自在に操れるまでのものだった。
そしてなにより。
神奈子の中には神核が二つも存在することになり、それはまるで両儀のような状態となったのである。
即ち、陰陽互根――――陰中の陽、陽中の陰を体現してしまったのだ。陰が神奈子の神核であり、陽がタケミナカタの神核となっている。
これがどういう結果を齎したか。
それは神奈子と戦ってきた歴戦の神々が嫌というほど味わった。国譲りの際にタケミカヅチが、諏訪大戦で洩矢諏訪子が、荒船山の決戦でフツヌシが神奈子の神核を幾度破壊したことか。
――――だが。
神奈子は消滅しなかったのだ。何故ならタケミナカタの神核が
魂に鎮座していたのだから。そして彼の軍神の神核があるということは陽中の陰――――陽の中にも陰がある。陰があるということは神奈子自身の神核は何度でも復活するのである。
つまりは。
神奈子を真に消滅せしむるには二つある神核の同時破壊しかありえないのである。
神核を譲られた神奈子はタケミナカタの消滅を嘆き、彼の亡骸を――――タケミナカタは龍体となり――――一番思い出の詰まる諏訪湖へ弔った。それはまるで水面に映る星々に吸い込まれるように消えていった。
神奈子はそれからヌナカワヒメへ経緯を説明しに行き彼女に一度出雲へ行くようにと進言を受けた。
そこでオオクニヌシと出会い彼の義娘となり、夫神であるタケミナカタの名を名乗ってもよいと言われたのである。
神奈子はタケミナカタという神がいたのだと後世に残す為に二代目タケミナカタとなったのである。
そして。
この神核が二つあるという事実を知っているのは出雲族だけなのである。天孫族はもちろん、土地神や土着神も知らない秘密。
当然ながら、天孫方についていた永琳が知る由もなく。
神奈子に掴まれた腕はびくともしない。
歌に詠まれた――――関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮とあるように日本三軍神の一柱に組みつかれたのだ。
さらにいうのならば。
その筆頭はタケミカヅチでもフツヌシでもない。
日本第一の軍神と呼ばれたのはタケミナカタなのである。
そう――――夫神であるタケミナカタの名を神奈子は天下に轟く大軍神として刻んだのである。
「この瞬間を待っていたわ。まさか、一度殺されるとは思わなかったけれど」
「――――神核も無しに……これが地上唯一たる叛逆神の所以か」
永琳は何かを悟ったかのように神奈子を睨みつけた。
「そうか。信濃には神無月はなかった――――貴方を祀った民たちは貴方をアマテラスより上位に位置付けていた事を忘れていた」
「懐かしい話ね」
そう。
神無月とは伊勢神宮に居するアマテラス以外の全ての神が出雲へ集まる月だ。
だが神奈子が平定した信濃国、そして諏訪の地に神無月はない。何故ならアマテラス以外で唯一出雲へ行かない神が諏訪の地に鎮座しているからだ。
それがタケミナカタ――――神奈子である。
それについて国譲りの際にタケミカヅチと諏訪の地から出ないという約定を結んだとも言うが、神を祀るのは人である。信濃国に打ち立てられた第二出雲王朝の臣民が例えオオクニヌシと出雲を失えど新たな国と継承した神が坐すぞ、とアマテラスに従わなかったからこそ、神奈子は諏訪の地に鎮座していたわけだ。故に事実上の独立国足り得たのだ。
それが永琳の口にした地上唯一たる叛逆神という訳である。
「敢えて言わせてもらうわ、八坂。――――この、化け物め……!」
「私に言わせれば貴方の方こそ余程怪物染みてるわ、永琳。軍神の軍略を知恵一つで出し抜くなんて後にも先にも貴方だけよ。きっと私に終わりがきても貴方は変わらずにいるのでしょうね。けれど私の終わりは――――それは、今じゃない」
刹那。
神奈子と永琳の僅かな間に切れ間が走る。
摩多羅隠岐奈の要請で八雲紫が切れ間を開いたのだ。
「博麗で会おう、永琳」
切れ間の中に観音開きの扉がある。既に扉は開け放たれており魔法陣が見えた。
永琳の意識が途切れる前に見えたのはその魔法陣の強烈な発光だった。
◆
博麗神社の負傷者が寝かされている奥の座敷で蓬莱山輝夜は目を覚ました。
見覚えのない天井。意識はまだぼんやりとしている。
ゆっくりと視線を動かしてみると衝立があり部屋を仕切っているらしい。この衝立の隣には風見幽香が寝かされている。
――――と。
驚いた顔の因幡てゐがいた。
「……姫様」
「――てゐ」
「目が覚めたんですね。気分はどうですか?」
「最悪よ。酷い夢を見た気分だわ」
あの謎の気配との会話から随分と気分が悪くなった。それからの記憶も当然ある。ただあの時に脳裏に過った事も憶えている。
――――永琳。
輝夜にとって永琳は一体どういう存在だったのか。
確かに彼女を全てを知っている訳ではないし彼女は彼女の思惑があるのも分かる。
考えてみればそれは当然な事。なのに何故、己は騙されていたなどと思ったのだろうか。蓬莱の薬の解毒薬だって頼めば永琳は作ってくれるはずだ。
万が一あの気配の言う通りだったとしても身から出た錆だ。甘んじて受け入れよう。それはそれで悲しい事ではあるけれど。
ただ――――それだけの事。
「それを……」
「姫様?」
思い出すだに情けない。永琳に騙されていたと思った際に出会ってしまった妹紅に救いを求めてしまった。ずっと傍にいた永琳よりも殺し合いをする妹紅に縋ってしまったのだ。
不意に笑みが零れた自嘲的な。
「愚かなのは私、ね」
「どうかしたんです?」
輝夜は己にあったことを始めからてゐへ訥々と語った。輝夜の身に起こった事、それから輝夜が起こした行動、結果を口にする。全てを聞き終えたてゐはどう返答するべきかを迷った。何も言わない事が正解なのかもしれないと思ったからだ。ただ謎の気配に関してはてゐも身に覚えがあった。声だけの気配。あの言葉は魔性だ。あの声にてゐも心を掻き乱され妖怪の山へと向かったのだ。やや間を開けてからてゐも気配に纏わりつかれていた事を伝える。すると輝夜は瞼を閉じて小さく息を吐いた。
「長く生きていても信頼や信用には鮮度があったってわけね。人付き合いをしてこなかったツケが回ってきたということ……。この分だと永琳にもあの気配は纏わりついていたでしょうね。私が永琳の事で動揺させられたみたいに永琳も似たようなことを囁かれたはず。ねぇ、てゐ。永琳は今、どこに……?」
てゐは気配がどういうもので現在の幻想郷に何が起こっているのかをゆっくりと説明した。
原初の悪神が齎した悪意。それによって輝夜を含め多くの者が悪意汚染され、悪意に燻られた行動をとっている。
またてゐが知り得た月、地獄、地上で起きている事態を語り、解決に多くの者が動いている事、その中に輝夜の事も入っており永琳もまた含まれていた。
「ただ平穏と暮らす――――それは永遠の中にあると思っていたけれど……朽ちず錆びず腐らず、そんな変化のない場所にいても心の在り様で変わるなんてことは当然のはずだったのに」
いつだったか輝夜は霊夢と語った事を思い出した。
死という終わりがある有限の時間の中で人は多くを望み時には身を滅ぼすような夢を見る事もある。ただ月人のように寿命が延びればいずれ彼らも月の住人と同じように原始的で生活するにあたってある程度の水準さえあればよくなると輝夜は考えていた。例え超高度な技術体系が確立されていたとしてもそれを無暗にひけらかすようなものではなく適材適所に使われ、人の暮らしは飽く迄ある程度で止まる。
そう思っていた。けれど霊夢は言ったのだ。延びに延びた寿命を今度は減らす技術を作るのではないか、と。それは生死があるからこそ、死という終わりの意味を誰よりも身近に感じる幻想郷の住人だからこそ言えた言葉だと。
月人は結局のところ死を恐れている。いや生きる事すら恐れている。穢れを嫌うとはそういう事だ。だが死が当たり前の者からすればどう生きたかが肝要になるのだろう。だから霊夢は心が腐った時に生き続ける事がないようにと言ったのだろう。
輝夜自身、己の心が腐っているとは思わないが、人付き合いもなく偶に妹紅と殺し合いをして日々を退屈だと感じながら過ごしていた部分も少なからずある。それはきっと心が曇っていたのだろうと思う。長い時の中で擦り減った所だってきっとある。
心とは水に似ていると輝夜は思う。
清涼な川の水は常に循環し川の環境――土手や岸辺、河原も綺麗なものだ。しかし何らかの要因で川の水が循環しなくなったらどうなるか。時間が経てば水は徐々に濁っていくだろう。濁れば川底にヘドロが溜まる。水は汚染され川は汚濁に塗れていく。そうなれば川の水で助けられていた草木も病気になったり育たなくなったりするだろう。また水の流入そのものが止まれば川は干からびていく。
輝夜は己の心はどうだろうかと思う。清涼な川のように循環しているだろうか。濁ってはいないだろうか。水が減り川そのものが渇いてはいないだろうか。
永遠は不変であるが変わらないのならこんなに心一つで動揺などしない。永遠を操る輝夜だからこそ人がいかに脆弱であるのかを知っている。それは月の民も地上の民も同じこと。所詮長命か短命かの違いでしかない。その中で短いながらも鮮やかなまでに生きた証を立てられるか、それとも無限に無価値で無意味な時間を経るのかは生き方――――引いてはどうありたいかという心の在り様で決まる。
思い返せば輝夜は地上で多くの経験をしたと思う。
随分と昔、五人の公家から求婚もされたし帝とも手紙のやり取りだってした。拾ってくれた翁と媼の夫婦には良くしてもらっていたしその時の記憶はずっと鮮やかなままだ。
決して負の記憶なんかではない。地上への流罪から始まった事ではある。けれど見るもの聞くもの全てが新鮮だった。中には人を騙し盗みを働く下賤な者だっていた。それには酷く嫌悪した事も憶えている。
けれど。
それが全てではなかったはずだ。老夫婦を始め、その日を生きる為に畑を耕し山へ菜を取りに行き、汚れた衣服は冷たい川水で洗い、家の掃除をし一生懸命生きていたではないか。老夫婦の知り合いから収穫できた野菜のおすそ分けをもらったこともあった。生きる事に全力だった。月の都では生きる事、死ぬ事を穢れといった。生も死もない事が美しいのだと。
しかし。
あの時を精一杯生きていた翁と媼、良くしてくれた村の人たち。確かに時の流れは全てを死に導いた。もうあの時の時代は来ないしあの時の彼らはいない。けれど輝夜を思って綺麗な着物を持ってきてくれたことや、手を掛けて作ってくれた食事、寒い冬には火を起こしてくれたし暑い夏場では削り氷に甘葛を掛けてくれた菓子を食べさせてくれた事。
――――憶えている。輝夜の記憶の中で永久に輝く想い出として残り続けている。
その全てを美しくない、と断じる事は輝夜にはできなかった。それはそうしてくれた彼らの心まで否定してしまうことになると思ったからだ。
心の在り様に月の民も地上の民も違いはない。
そう思えばこそ。
今の永遠亭で暮らし始めてからの事が蘇る。
最初は永琳と輝夜の二人暮らしだった。だけれど鈴仙が、てゐが加わった。
ともに生きる家族になった。そう、思っていた。いや今でも思っている。
――――ああ。
ふと気づいた。
あの気配に言われた事が仮に事実だったとしても。
それは永琳の問題であり輝夜の問題ではない。
永琳をどう思うかなど輝夜だけの気持ちではないのか、と。
輝夜の心は輝夜だけのものであるからだ。
――――ああ、そうか。
――――私は永琳が好きなのだと気づいた。
長い時を共に生きてきた。家族だと思っている。その心に嘘はなく正真正銘、輝夜だけの気持ち。永琳がどう思おうとその心は変えられない。だってそれが輝夜の心なのだから。
気づけば輝夜は思っていた事をてゐへ語っていた。それをてゐが真剣に聞いている。
それが輝夜は嬉しくなった。きっとてゐにとっても家族である輝夜だから耳を傾けてくれているのだと思ったからだ。
事実、てゐは家族だと語る輝夜の言葉に引き付けられるものがあった。それはてゐだって同じことを思っていたから。
だから輝夜が喋り終えるとてゐは言った。
「姫様」
「なあに、てゐ?」
少し間延びした輝夜の声。
その声色にはどこか優しさを感じる。悪意が祓われた事で憑き物が落ちたかのような。
「お師匠様が戻ってきたら。今の話、耳に胼胝ができるくらい聞かせてあげて欲しいです。私も同じ事を思ってたから」
その言葉に輝夜はくすくすと笑った。
「そう。そうね、そうしましょう」
自然に笑みが零れる。
それはてゐが初めて永遠亭へ行き輝夜と出会った時に見せてくれたような優しい笑顔だった。
「そういえば――――」
思い出したかのように輝夜は言った。
「あの毒のお人形さんと花の妖怪はどうなったかしら?」
輝夜が気の向くままに戦ったメディスンと幽香の事が気になったのだ。果たして彼女達はどうなっただろうか、と。
彼女達も神社へ救助されたとてゐは説明した。ただし衝立の向こうにいるとは言わずに。なんとなくではあるがてゐは二人を会わせない方がまだいいと思ったのだ。
しかし、続けて輝夜は思いがけない事を口にした。
「あの花の妖怪とは仲良くできそうだと思ったんだけど」
「え?」
「……雰囲気とでも言えばいいのかしら、長い時を生きた者だけが纏う雰囲気があったわ。似てると思ったのよ」
「姫様と花の妖怪が?」
「そう思っただけだけど。お茶にでも誘えば来てくれるかしら」
あの風見幽香を誘って無事に済むのだろうか、とてゐは思った。
――――と。
境内の方が騒々しくなる。
何か事態が動いたのかもしれない。今のてゐにできることはただ輝夜を心配させないように何事もなかったかのように振舞う事だけだった。
◆
ソレは竹林の三分の一の面積を薙ぎ倒し大地を抉り取り幻想郷全域に地震を引き起こした。そのままソレは空中に飛び上がり雲を引いた。外の世界の戦闘機と呼ばれる飛空できる乗り物が可能とする音速の壁を遥かに超えていた。凄まじい速さで一気に成層圏を突き抜け表面境界外気圏まで届いた。
そして。後は落ちるだけとなったソレはある一点に着弾するように初めからプログラムされていた。
竹林の大破壊から始まって空へ撃ち上がったソレは幻想郷のあらゆるところから視認できた。しかし、その危険性にすぐさま気づいたものは三人だった。
一人はパチュリー・ノーレッジ。
一人は八雲紫。
一人は綿月依姫。
パチュリーはソレを目の当たりにした瞬間、己の才能に気が遠くなった。想定以上に育ったソレは敷設した魔法陣では耐えきれない。どう見ても明らかに育ちすぎている。このままでは博麗神社はクレーターになるだろう。
ほぼ同じ答えに紫も辿り着く。用意した魔法防御壁では足りない。
二人とは違う観点から依姫はそれが危険なものだと気づいた。竹林に甚大な被害を出しそのまま空に撃ち上がったソレは明らかに幻想郷の技術水準ではない仕組みが使われている。
地上から物資を宇宙へ輸送する為の装置。
――――マスドライバーである。
そう。
神奈子が提案しパチュリーと紫と隠岐奈に作成を依頼したものがこれだったのだ。紫へ何もない空間を開いてもらい、その中にパチュリーに構築を頼んだ長距離の加速上昇距離レールを敷設してもらい、隠岐奈の力でそのレールを扉によって繋げループ構造にし、最後に神奈子が御柱を一柱装填した。御柱が弾となってレールを滑り加速していく。さらにパチュリーが仕掛けた魔法により隠岐奈の扉を通過する度にエネルギーが御柱へと蓄積されていく。
本来は適切な場所を確保し宇宙へ打ち上げるものである。それを紫の切れ間から撃ち放ったのである。
宇宙への物資輸送装置を質量兵器として用いたわけだが地上で使うにはあまりにも場違いな使い方だ。
永琳を止める為だけに神奈子は幻想郷仕様の質量兵器と化した
言うなればオンバシラドライバーを持ち出したのである。
撃ち出された御柱は完璧に永琳を捉えた。後は博麗神社へ落ちて来るだけの状態だ。
咄嗟にパチュリーは周囲にいる全員へ向けて叫んだ。
「みんな! ここにいるみんな! 負傷者以外の全員! 力を貸して頂戴!」
「パ、パチュリー、何を言ってるんだ?」
状況に理解が追い付かない魔理沙が説明を求めるものの、パチュリーにそんな余裕はなかった。説明する一秒が何よりも惜しい。
「魔理沙! ここにいる全ての者の魔力を魔法壁へ供給する魔法陣を作成! 数は四層! それから神社に防御結界陣を展開! 急いで!」
落ちて来るまであと何分ある?
おそらく十分ないくらいだろうか。いやそれでは駄目だ。五分以内に待ち受ける状態を完璧にしなければ終わる。
頭の中でカウントを回しながらパチュリーはやるべき事だけを魔理沙へ有無を言わせずに伝えた。
「わ、分かったぜ」
パチュリーの号令で紅魔館の妖精メイド、ホフゴブリンは魔力の供給に従った。
魔理沙が急造ではあるものの魔力の供給魔法陣を敷設する。陣に入った者達から魔力を根こそぎ奪っていく。続いて魔理沙は神社へ防御結界陣を展開した。これは祓いを受けた負傷者を思ってパチュリーが命じたのだが御柱を受け止めきれなければ意味がない事も分かっていた。
「八雲紫! 第四防壁の更なる強化は可能!?」
「もうやっているわ。こうなるのが分かってたから慎重にといったのだけど」
「それはお友達の賢者に言ってあげなさい。山の神の提案に乗ったのはアイツでしょう」
「アレはこういうのが好きだから仕方ないわ。あの思考は生まれ持っての病気みたいなものだから治らないのよね」
軽口を叩きながらもその表情に余裕はない紫だったが第四防壁のさらなる強化は完璧に行っていた。
さらに魔法壁の意味を瞬時に理解した依姫が打ち上がった御柱の威力と魔法壁の防御力を見比べてパチュリーの行動の真意を読み取る。足りないのだ。
このままでは博麗神社は――――崩壊する。
「霊夢! 神降ろしを行え!」
立ち上がった依姫は言いながらパチュリーの元へ近寄る。
「魔法使い。この魔法防御壁ではアレに対抗できないのでしょう?」
「月の……ええ、残念ながらその通りよ。私の想定以上の威力になってしまっているの。いえ、元から厳しいとは思っていたのだけれど」
「その魔法陣で魔力の底上げか。それでも厳しいと見るが、どう?」
「おそらくそうでしょうね。クレーターがほんの少し小さくなるだけでしょう」
「でしょうね。不本意ですが、手助けしましょう」
依姫の元へ霊夢もやってくる。
「神降ろしって、それにアレって……パチュリー! 紫! アンタ達の作戦ってどうなってるのよ!」
苛立たし気に捲し立てる霊夢にパチュリーが簡潔に教え、依姫が落ちてくる御柱を防ぐには魔法壁では足りないから神の力を借りる為に神降ろしを行うと告げる。
「ええと、じゃあなんの神様ならいいのよ?」
「とにかく力の強い神様だ。私達は落ちてくるアレを受け止めるのだから。そうだな、アマツカミで力の強い神様と言えばタケミカヅチ様だ。霊夢はタケミカヅチ様を降ろせ」
「依姫はどうすんの?」
「私は神様一力持ちと呼ばれるタヂカラオ様を降ろす。もう一刻の猶予もない、急げ!」
「わ、分かったわ!」
霊夢と依姫は急ぎ神降ろしを行う。
御柱はプログラムによって速度を落とすことなく外気圏で放物線を描き、そのまま地上へ向きはじめる。完全に下へ向いたらそのまま一直線に博麗神社へ落ちてくる。
瞬時に神降ろしを成し遂げた依姫の体から空気が揺らめいて見えるほどの闘気が湧き上がる。
依姫に遅れて数秒。
霊夢の体に雷光が走る。
「来るわ!」
パチュリーの声が響く。五分のボーダーは超えた。
それでも。
万事は尽くした。後は受け止めるだけだ。
成層圏から落ちてくる御柱の先端には二重に魔法陣が展開されている。その一層目の魔法陣は博麗神社の座標位置を認識する陣でありこれによって着弾箇所を決めている。次に二層目の魔法陣は拘束の効果を持つ陣である。これは永琳を御柱に固定する役目と同時に音速の壁を遥かに超えて成層圏を突き抜けるだろう事が予測されていた為に彼女を保護する役目も兼ねている。いくら永琳が元神の月人にして蓬莱人だとしても第三宇宙速度にまで達している御柱に固定されたままでは肉体は圧壊してしまうだろう。そうなっては意味がないのだ。あくまで生身のまま博麗神社へ連れてきて悪意を祓わなければならない。その為の保護魔法陣だが拘束も兼ねているので決して楽な状態ではない。
パチュリーは第一層の魔法陣の位置から御柱そのものがどのあたりにあるのかを大体把握している。ただし早すぎて彼女が認識した時には既にその場所にいない。先読みではあと二十秒もすれば落ちてくる。
そしてその読みは当たった。流星めいた御柱が目にもとまらぬ速さで再び雲を引いて博麗神社目掛けて向かってきている。
「全員、衝撃に備えて! 魔理沙、神社の防御結界陣に第一、第二の魔力を回して! 神社が倒壊したら意味がないわ!」
「分かってる!」
激突まで残り五秒。
――――と。
「おちおち寝ていられないじゃない」
魔理沙の背後から大極光が迸った。日傘を天へ向け一直線に御柱へ向かっていく。
「幽香!」
それは霊夢の声か、魔理沙の声か。あるいは両方だったかもしれない。
「少しは速度を削れるでしょう」
御柱へ大極光が衝突する。
――――しかし。あまりの速さに光を切り裂いて落下してくる。けれどそれによって四秒稼げた。
「病み上がりじゃこの程度ね」
「十分よ! 防御結界の中に!」
幽香はパチュリーの言葉に従わず魔理沙が敷設した魔力の第一層の供給魔法陣へ足を踏み入れた。
「ちょっと幽香、アンタなにやってんの!」
その行動に今度は霊夢から声が飛んできた。けれど当の幽香は涼しい顔だ。
「なけなしの妖力でも役に立つと思うけど? それに。思いがけない所からお茶の誘いがあったから、有耶無耶になるのは困るのよね」
「お茶ぁ?! ああもう! わけわかんない事ばっかり!」
「みんな踏ん張れ! 来るぞ!」
魔理沙が叫ぶ。
瞬間。
第一防壁である防御魔法壁六十四層が砕け散った。
凄まじい衝撃が襲い空振を引き起こす。社殿や社務所は防御魔法陣に守られているがそれでも直撃ですらないのにたった一度の衝撃でひび割れている。
「くっそぉ……! 六十四層もあんのに一撃かよッ!」
「第二防壁も駄目ね。もう第三防壁よ。あの秘神がどこまで力添えしてくれているか、ね」
言いながらもパチュリーは心の中で隠岐奈へ謝罪していた。御柱がここまで育ったのはパチュリーが魔法を掛けたからだ。
――――同時刻。
竹林で神奈子の様子を見に後戸の国から現れていた隠岐奈は膝を着いていた。
第三防壁である秘神守護・七曜魔法陣が突破されかかっていたからだ。既に六層までが砕け散った。その砕けた反動が隠岐奈へフィードバックしていたのである。
実の所、御柱がここまで高威力を持ったのはパチュリーだけの所為ではなかった。この作戦が失敗できない事は隠岐奈自身が一番よく分かっていた。故にパチュリー同様に隠岐奈も御柱が加速上昇距離レールの扉を潜る度にエネルギーが蓄積されるように仕組んでいた。パチュリーの想定以上の威力を持ってしまった真の原因は秘神にあったのである。
「ちょっと、隠岐奈?」
貫通した胸の表面をようやく治癒させた所で神奈子は頽れる隠岐奈へ近寄った。
「これは……少々やり過ぎたようだね」
隠岐奈へフィードバックしてくる力は彼女自身の力でもある。やり過ぎたと自重してみるが、その反動に押されてしまっているのも確かだ。
隠岐奈の言葉が御柱を受け止めるパチュリー達へ向けた言葉である事を神奈子は察した。
「受け止めきれない……そういうこと?」
「その可能性が大いにあるという事さ。念を入れ過ぎた事が仇となったかな?」
「だとしても今は信じるしかないわ。何とかしてくれることを祈りましょう」
「そうしよう。私の結界は突破されたよ、たった今」
言いながら苦痛に顔を顰める隠岐奈に相当なフィードバックがあったことが窺える。
出来る事ならすぐにでも博麗神社へ帰投したい所ではあったが神奈子も隠岐奈も直ちに動ける状態ではなかった。
――――時を同じくして。
博麗神社では第四防壁が御柱の勢いを防いでいたがそれでもまだ止まりそうにはなかった。
隠岐奈同様、七層の魔法陣が砕け散る度に紫の顔が歪む。
こちらも隠岐奈に負けず劣らずのフィードバックを受けていた。しかも追加強化までしている分、反動も大きかった。
紫が倒れれば最後の砦は霊夢と依姫しかいない。ここまでくれば後はもう目に見えている。第四防壁の突破は避けられない。だが霊夢と依姫へバトンを渡す前にできる限り勢いを殺す。
「魔理沙! 第二の魔力をこちらへ回して頂戴!」
紫の結界守護・七曜魔法陣は残り二層。だが二層あるならまだ魔力の供給で耐久力をあげられる。防御結界陣が薄くはなるが御柱の直撃よりかは被害は少ないはずだ。そう考えた紫の指示だった。
「だけど防御結界も一杯一杯だぜ!? 第二の魔力を回したら割れちまうって!」
「いいえ魔理沙、彼女の指示に従って! 魔法陣が砕けたら魔力の供給先がなくなってしまうわ!」
「ああもう! どうなっても知らないぜ!」
第二の供給魔法陣も第四防壁へ切り替える。刹那、神社の防御結界陣の罅が侵攻していく。第一魔法陣だけで賄っているのだから当然だ。しかしそれでもぎりぎり耐えきっているのはそこに風見幽香がいるからだ。
だが無慈悲にも第四防壁の残った二層の内、一層が砕ける。残り一層。魔法陣を支える妖精メイド達、ホフゴブリン達も限界だった。
「魔法陣が砕けるッ! 霊夢! 後は頼んだわよッ!」
第四防壁が持たないと見た紫から最後の砦である霊夢へと託される。
「今度ばかりはアンタも隠岐奈も神奈子も、それにパチュリーも! みんな同罪よッ! 人の神社になんてことしてくれてんのよッ!」
そしてついに第四防壁を突破した御柱を霊夢と依姫が受け止める。御柱の先端に展開されている着弾位置の認識用の魔法陣を支えるように手を伸ばす。
「くッ! なんで私がこんな目に……! 終わったら憶えてなさいよッ!」
タケミカヅチの力を宿している霊夢は全身から雷気を迸らせ渾身の膂力で御柱を受け止めていた。
その隣でタヂカラオを降ろした依姫もまた身を纏う闘気が蜃気楼の如く揺らめいて見えるほど全力で支えている。
「泣き言は後で聞く! ん!?」
魔法陣を支える中、依姫はその魔法陣の奥に拘束されている赤と青の特徴的な衣装が目に入る。
「や、八意様ッ!?」
依姫はパチュリーたちの作戦の全容を知らなかった。無論この御柱が作戦の何らかの役目を買っている事は分かっていたがまさか永琳を縛り付けて博麗神社へ振ってくるとは流石に予想していなかった。
「気を抜かないでッ! こっちの負担が増えるでしょうが!」
悪態を吐きつつも霊夢の言葉は真実だった。事実、彼女の踏ん張る足は地面に沈んでいる。それは依姫も同じであったが、二人の力を合わせてどうにか支えられているのだ。
「私としたことが、まさか霊夢に指摘されるとは」
「何よ!?」
「いいえ。何でも。それよりも神降ろしでは私に一日の長があります。神の力を引き出すというのはこういうことを言うんだ、霊夢! 天岩戸すら抉じ開ける力の神髄を見よ!」
全身から漲る闘気が飛来した御柱を僅かに押し返す。力の神として名高いタヂカラオの剛力を完璧に使役していた。
その押し返しで徐々に御柱の勢いはようやく収まってきた。
それでもパチュリーと紫と隠岐奈が用意した防壁と妖精メイドとホフゴブリンの魔力を総動員し魔理沙のサポートと幽香の乱入がここまでの勢いを殺したからこそ最後の砦であった霊夢と依姫で受け止められているのだ。
勢いの減った御柱からの圧力が収まっていく。それは支えている霊夢と依姫は一番実感している。
「ねぇ、これ。もういいんじゃないの!?」
誰ともなく訊ねた霊夢にパチュリーが答えた。
「魔法陣の外へ出て。地面に着弾すれば御柱は消えるわ!」
依姫と霊夢は顔を見合わせてタイミングを図り魔法陣の外へ脱出した。
「全員、着弾衝撃に備えて!」
パチュリーの指示が飛ぶ。
同時に。
御柱は最後の落下をして着弾した。
瞬間、局地的な台風が通りすぎたかのような衝撃が周囲に走った。ぎりぎり耐えきっていた防御結界が割れたが、衝撃そのものは相殺し神社への被害は抑え切る事に成功していた。
しかし魔力を供給していた妖精メイドとホフゴブリン達、また防壁の間近にいたパチュリーたちはその最後の衝撃をもろに受けた。飛ばされる、まではいかないが屈んで耐える者や耐えきれないものは尻もちをついた者が大半だった。
それでも皆、御柱へ釘付けになっていた。
神を降ろしている霊夢と依姫でさえ未だ警戒を解いていない。結局、御柱の最後の落下は境内に半球状の凹みを作るほどの威力が残っていた。御柱はパチュリーの言った通りに着弾してから細氷めいた輝きを放ちながら消えていく。
御柱が消えた凹みの中心に魔法陣から解放された永琳が倒れている。
――――そこへ。
博麗神社の鳥居の下に神奈子と隠岐奈、そして影狼が転移してきた。
竹林で僅かな休養を取った二神は腰を抜かしている影狼を回収し、また彼女が一人健気に消火活動を行っていた事を落ちている桶と桶から零れた水、濡れた地面から推察した。
破壊してしまった竹林の箇所は後日に諏訪子の力を借りて再生するしかないが、取り急ぎ影狼が行っていた消火活動は完遂させた。
神奈子が手を天に翳すと恵みの雨がしとしとと降ってきた。しばらく降らせていれば燻っている火は消えるだろう。
隠岐奈の方も動けるくらいにはフィードバックから立ち直っていた。
「――――時間があれば君の神核の謎を暴きたい所なのだがね。己が命まで戦術に組み込んでいたとは流石に思わなかったよ」
秘神の興味を引いてしまったらしく、眇められた視線を向けられて神奈子は肩を竦めた。
「詮索は遠慮してほしいのだけれど」
「これでも私は仏教側の神だ。神核が潰されてなお、存在できるということにいくつか理由は考えられるが終焉の光が散った際に私はそれに陰性を感じた。そして君の中からは陽性を感じた。さて。これは一体どういうことか」
「発言は控えさせてもらうわ」
口を噤んだ神奈子へ隠岐奈はそれでも意に介さず続けた。
「密教に玄旨帰命壇という一派と彼の法集団という一派があってね。それらは廃絶したもので東密、台密と違いはあるんだが、まあそれはいい。問題はその教えがなかなかに面白い事だ。理趣経の解釈も独自の見解をもっていた。女人禁制の概念の多い仏教において男女交合を肯定している。ただその考えはそこへ辿り着く過程や意味を省かれ淫祀邪教として弾圧されてしまったがね。しかし太極より生じた両儀に於いて陰と陽、即ち胎蔵界と金剛界を和合する事で真理を体現する。分かたれた陰陽を再び一つへ。その過程、修行は過酷なものだが男女が互いに高め合う事でたった一つの真理へ導き涅槃を得る。その考えは実に先進的だ。――――八坂神奈子。君の中にもし、陰と陽の神核ともいうべきものが存在しているのならば、先ほどの終焉の光の陰性と今の君から感じる陽性に説明がつくと思ったのだがね。私の考え過ぎかな?」
ちらりと様子を窺うように視線を投げかける隠岐奈だったが神奈子の態度に変化はなかった。けれど神奈子は内心、原理としては言い当てた隠岐奈に改めて秘神の底の知れなさを感じ取った。
「目を瞠る考察ね。秘するということは暴くこともまたできるということ。その慧眼には敬意を表するけれど個人の秘め事を暴きたてるのならカストリの聞屋と変わらないわよ、隠岐奈」
「これは手厳しい進言だ。その言葉、努々肝に銘じておこう。だがね、君は毘沙門天の弟子に普賢菩薩と言っていたね? 密教では菩提心の象徴だ。普賢は悟りを得てなお人々の為に動く者でもある。悟りとは即ち真理に他ならない。今の君と符合すると思うんだがね?」
「重ねて言うけれど。私にだって知られたくないことくらいあるわ。けれど、そうね。貴方がよく密教で祀られていたことは分かったわ。だからそれに免じて一つ答えましょうか」
「ほう。それは面白い」
「私は初めからこうだったわけじゃない。こうなったのは――――ん。何といえばいいかしらね。身も蓋もない言い方をすれば――――結婚してからになるわ」
「結婚…………惚気られても困るのだがね」
「惚気じゃない!」
妙な方向に意味を取られてしまった神奈子は咳払いを一つして博麗神社の方角へ顔を向けた。
「私の方はどうにか傷の表面は治癒したわ。隠岐奈、あなたのフィードバックはどう?」
「全快とは言えないが動くのに支障はないよ。そろそろ私達も博麗神社へ向かおう。――――そこで腰を抜かしている彼女も連れてね」
二人は顔を見合わせると不安を湛えた表情の影狼を連れて博麗神社へ転移したのである。
神社の境内は御柱の落下の衝撃で凹んでいるものの社殿や社務所には目立った被害は見当たらなかった。どうやらパチュリーが上手く対処してくれたらしい。疲弊している紫や雷気を纏っている霊夢、闘気を発している依姫を見るに彼女達も相当な力添えをしてくれたに違いない。
神奈子は最後の仕上げを行う為に永琳へと近づいていく。その際に霊夢の様子に顔を顰めた。
「何よその顔は?」
明らかに不快な表情を浮かべた神奈子に霊夢も胡乱な視線で答えたが軍神は哀れなものを見るように言った。
「霊夢。悪い事は言わないわ。その力はとても縁起が悪いから二度と使わない方が身の為よ。その力を使うくらいなら私の力を使ってくれた方がいい。遠慮はいらないわ。その力はとにかく駄目よ」
「――――はぁ? 縁起が悪い……?」
霊夢が降ろしたのはかつて神奈子が対峙したタケミカヅチである。身に纏う雷気が彼の雷神である事を神奈子は瞬時に把握したのだ。霊夢としては何だか分からないままに言われたものだから隣に立つ依姫へ縁起が悪いとはどういう事かを訊ねたものの、その依姫は苦笑を浮かべている。
凹んだ縁に立った神奈子が永琳を見下ろし小さなクレーターめいた中心に降りていった。
◆
瞼を開ければ茜色に染まりつつある空が目に入った。
――――全身が痛い。
強制的に途切れてしまった思考が徐々に回復していき直前までの出来事と現在の状況を繋げていく。
八坂神奈子の神核を潰した所までははっきり覚えている。
その後だ。
八雲紫の切れ間が現れ、その中に摩多羅隠岐奈の扉があり、パチュリー・ノーレッジの魔法陣が展開されていた。
ようやく永琳は一対一で戦っていたわけではないのだと気づいた。それも自分を相手に中々の面子が揃っているではないか。
――――体が痛い。一体何のために私は戦っていたのだろうか。
この時。
永琳はミラーユニバースの効果によって神性を取り戻しかけていた。そのお陰で原初の悪神が齎した重度の悪意汚染を幻想郷でただ唯一自力で浄化していたのである。
永琳が依姫と、そして続いて神奈子と戦わざるを得なかった理由はたった一つしかない。
――――輝夜の為に。
ただそれだけ為に。
戦っていたのだと。
――――と。
視界の端に見知った顔が入った。
先ほどまで戦っていた相手だ。何かを言おうとして声が出ない。体へのダメージが思ったより大きく、蓬莱の薬の効果は十全に働いているが臓器を始めとした優先度の高いものから回復しているからまだ声が出ないのだと気づいた。
「ようやく。ゆっくりと話ができるわ」
言いながら神奈子が降りてきて無造作に永琳の胸元を掴んで上体を起こしてきた。
――――全く。重傷人に対する扱いがなっていないわ。
一瞬怪訝な顔を浮かべた神奈子が口を開いた。
「驚いた。悪意を自力で浄化したのね。なら話は早いわ。ねえ永琳。今こうなっていることに、その原因はもう分かっているわよね? 貴方を汚染していた悪意はなくなったのだから。ただ――――」
ぐっと顔を寄せてきた神奈子が永琳の瞳を見据える。
「貴方が輝夜を思っていることは痛い程伝わったわ。けれどね、貴方を思っている者がいることも忘れないで」
永琳を見る神奈子の瞳はやや怒気が宿っている。
謂れのない怒りを向けられて永琳は掠れる声で答えた。
「――――なに、を……」
「貴方の。貴方の家族が泣いてたんだ。貴方の事が好きだから。だから――――一言いいに来たのよ」
言葉を切った神奈子は、永琳へ向けてたった一言告げた。
「――――ちゃんと愛されている事を知りなさい、この……馬鹿ッ!」
何故、こんなことを言われねばならないのか。
なんだか無性に腹が立ってきた。
何かを言い返してやろうと思った瞬間に別の声が耳に入ってきた。それはどこか随分と懐かしく感じる声だった。
「そこまでにしてもらえるかしら?」
神奈子が振り向くと――――そこには蓬莱山輝夜と因幡てゐが立っていた。
「それ以上は永琳への侮辱と受け取るわよ。相手が神様でも容赦しないわ。それに――――」
輝夜の目が眇められる。
「私を誰だと思っているの、頭が高いんじゃなくて? ――――控えなさい、ヤサカ」
今度は神奈子の目が開かれる。
「まさか――――」
「私が誰であるかなんて、当の昔に知っていたわ。だってそうでしょう? 私一人に造化三神の娘が付きっ切りだなんておかしいと思わない方がどうかしているわ。だから調べたのよ。この体に流れる血には感謝している。だって永琳と出会えたのはこの血のお陰だもの。それに。貴方の事も知っているわ。なら、全てを言わなくても分かってくれるわよね?」
輝夜の言葉には迷いがない。何よりも当人が正体を知っているのならばこれ以上は神奈子の出る幕ではない。
「永琳をこちらへ。貴方の役割はここまでよ」
「――――御意のままに」
神奈子は言われた通り永琳を抱き上げて輝夜の前にゆっくりと降ろした。
それから一歩引いて輝夜に臣下の礼を取ったのである。
横たわる永琳へ輝夜が屈み顔を覗き込んだ。
「大変な目にあったわ。私も貴方も」
「……ひ、め……」
声が出ない事がもどかしい。どうにか言葉を伝えなければと思っていると、そのまま輝夜はしがみつく様に抱き着いてきた。
「――――おかえり。永琳」
――――ああ。
ただそれだけの言葉で伝わった。
先ほど愛されていることを知りなさいと言われた事。
全て考えてきた通りに生きてきた。輝夜を守る為にどうするべきか最善だけを考えて。世界には目にしたくない事も多くある。だから自分だけが知っていればいいと何も伝えなかったこともある。それもこれも全ては輝夜の為に。己の選んだ主の為に。
そこに情がなかったというのなら嘘になる。
永琳だって輝夜を思っていたのだから。
――――なんだ。とうに伝わっていたんじゃないか。
不意に。
目頭が熱くなった。この感じは随分と久しく忘れていた。
――――ああそうだ。嬉しくとも涙は流れるのだ。
だから。
答えるのなら、この言葉しかない。
掠れる声でもどうしても口にしたかった。
「――――ただ……い、ま……輝、夜」
口に出せた刹那。
瞳から涙がひとしずく頬を流れていく。
その涙は茜色の日差しを浴びて、まるで宝石のようだった。