偽書 第18.8弾 東方禍福宴~The world of justice and evil. 作:加賀アスナ
第23話
焦燥感を一番感じていたのは勇儀の相手をしている天魔だった。分かり切っている事だが力押しでは絶対に勝てない。鬼より天狗が優れる点はその速さである。で、あるならば最善の必勝法は一つだけ。勇儀の拳を躱し、隙を突くしかない。天魔の速さならばそれ自体は可能だ。幻想郷最速の文ならばもっと難易度は下がるだろう。だがそれは直撃だけ、という前提があってこそだ。命削る戦いの中で直撃だけを避けたとしても無傷で居られるわけではない。例え勇儀の拳の直撃を躱せても振るわれた際の拳圧まで避けられるわけではない。ひとたび勇儀が拳を振りぬけばそれだけで衝撃波が生じる。そしてその威力は生半可なものではないのだ。直撃こそ避け続けていた天魔だったが――――その戦闘手腕も絶技の域ではあるのだが――――致命傷にはならないだけで体力も気力も削られダメージは増えていく一方だ。生傷は絶えず、だからといって自身以上に勇儀へ有効なダメージを与えられているかといえばそうとも言えない状況で。
元より勝ちを得るのは難しいと思っていた。だがせめて痛み分けくらいまでは引き摺り下ろせると考えていたが、甘かった。
消耗は遥かに天魔の方が上だ。地上から鬼が去ってからどうやら鬼の強さを忘れていたのは天魔も同じだったらしい。
――――やれやれ。天狗の長も交代か。私も衰えたものだ。
しかし無様な終わりは許されない。天魔の失墜は全天狗の失墜に他ならない。
そこへ。
一柱の御柱が天魔と勇儀の間へ降ってきた。神通力の宿った御柱は地面に突き刺さってもなお近寄るには脅威的な力を波打たせている。
一拍早く後ろへ退いた天魔と勇儀が空を見上げるのはほぼ同時だった。
「天狗の長が膝を屈するものではないわ、天魔」
「――――八坂様、これは」
「要請があったのよ。加勢を頼むとね。だけど――――ここからは私が受け持つわ」
「誰が加勢を申し出たか、想像は付きますが。しかし私が退くとでも?」
「そういうと思ったから、しっかりと口説き文句を考えて来たわよ。私達は筋を通したけれど、穏便に事が済んだのは貴方のお陰よ。だから借りを返しに来た――――どうかしら? これ以上ない口説き文句だと思うのだけれど」
「神の恩返しという訳ですか……なるほど。これほど分かりやすい信仰の恩恵はないでしょうね。では一旦退かせて頂きます」
そう言った天魔は翼を広げ戦場から離脱した。残ったのは勇儀と天魔と入れ替わった神奈子だけである。御柱を消失させると首を押さえて左右に振る勇儀の姿がある。相手の交代劇にも動じず事態を見守っていたらしい。
「――――で? 天魔の前にアンタが私の相手をしてくれるってのかい? なあ山の神様?」
「そうなるわ。尤も。貴方が何を思って妖怪の山へ現れたのかは分かり兼ねるけれど。一つ言えるのは今ここで揉め事を起こされるのは困るのよ。だから大人しくしてもらえるなら手は出さないのだけど」
言いつつも悪意に汚染されている事は見て取れた。それがどのような影響を齎したのかは判じ兼ねたが地底へ移り住んだ勇儀が地上へ現れ妖怪の山にいる時点で現在の山に対して思う所があったことは推測できた。問答無用で襲ってこない事から何か強い思いに突き動かされているのだろう。その思いに火をつけたのが悪意だった可能性は大いにある。
神奈子の言葉に勇儀は額を押さえてくっくと笑った。大人しくしてもらえるならと言ってみたものの従ってくれることはないだろう。
「大人しくだって? 楽しくない冗談だねぇ。私はね、妖怪の山の天辺が誰だろうが構わないよ。だけどね、自分たちで決めたルールは守ってもらわなきゃ駄目なんだよ。それが今はどうだい? この有様はさ。私らはいつだって人間と争ってきた。この山はね、そんな人間達から切り取った妖怪の、妖怪だけの山なんだよ。人間のルールから外れた私らが自分達でルールを敷いたんだ。だからここは妖怪の山なのさ。それなのに己の敷いたルールすら忘れてる。古の約定を守ったのは結局私ら鬼だけだったのさ。泣けてくるじゃないか。そうは思わないかい、山の神様」
「私の立場から言わせてもらえば。――――そのルールとやらが時代にそぐわなくなってきた、それに尽きる話ね。ルールを作った貴方達は山から姿を消し、残された者に押しつけた。番人無き法ほど脆いものはないわ。貴方達が地上を去った時に法もまた過去の遺物になったのよ。ただそれだけ。今は今の、言うなれば天狗の法で山は成り立っているのよ。それを覆されては困るから私がここにいる」
「なるほど新しい法かい。天魔の、天狗の法ね。だからアンタみたいな奴が山に住んでるわけだ。私らの時では考えられないねぇ。だってそうじゃないか。アンタのような余所者が我が物顔で居座ってる。山を切り取った際に血を流してもいない、命張った奴らに従う事もない。見る限り天狗達をぶちのめして頂点に立ってるわけでもない。そうだったら頭の奴が真っ先に体張らなきゃ示しがつかないからねぇ。そりゃあ山の秩序は乱れるさ。人の世ならそれでもいいさ。だけどここは妖怪の山なんだよ。私にとってルールってのは鬼の法だけだ。人間の法も天狗の法も知った事か。アンタが退かないっていうのならコイツで黙らせるだけだ」
握った拳を突き出す勇儀に嘆息する。
勇儀の言葉は彼女にとって、いや妖怪の山に住む妖怪にとっては真実であろう。
だが、唯一天魔だけがそれが覆る事を知っている。
守矢神社が幻想郷へやって来た時。
突然現れた湖に二社四宮の社。
博麗の巫女である霊夢と一悶着を起こした後に幻想郷の賢者たちは守矢の面々を受け入れた。そこでどういう協議が行われたのかは知らない。しかし山へ戻ってきた神奈子は言ったのだ。
山に居を構えるのなら山の住人と話し合いをしろとの事で急遽守矢神社と天狗族の会談が開かれた。
天魔とて素直に受け入れるつもりはなかった。しかし神の到来は決して悪い事ではない。だが天狗の利益となるにはどう立ち回るべきか。実直に言えば、どう活用するべきか。面従腹背はお手の物だ。お飾りになってくれれば一番いい。何せ山の頂点を飾るのだ。そして飾るのなら立派で豪奢なのがいい。その点で言えば守矢の神は合格だ。
会談へ向けて天魔を始め大天狗達が揃い、守矢神社上社本宮参集殿に集結した。正面の奥には神奈子、諏訪子が座している。二柱の前に長机が置かれており参集殿の入口から向かって左側に座っているのは早苗だ。彼女が交渉役なのだろう。早苗の対面が開いておりそこが天魔の座る場所として空けられている。
表面上は穏やかに進んでいた会談ではあるが中身は何も進んでいない話し合いが続いていた。
天狗にしても守矢にしても武力衝突は望んでいない。しかし最大の利益確保は至上命題である。ある程度は天狗の要請に応えて貰えるよう、有り体に言えば傀儡になってくれるのがいい。
神の神徳を享受しつつも自在に要請を出せれば完璧だ。必要な時に必要な神徳を。
話し合いに於いて天狗は先住民という有利なカードがある。
そこからどれだけ譲歩させるかを念頭に早苗と交渉を続けたが、なかなか色よい返事にならない。早苗にしても譲ってはならないラインを叩き込まれている。その上、幻想郷の賢者たちから幻想郷に受け入れられている。
埒の開かない会談が半刻も過ぎると一旦休憩が挟まれた。
腹芸の出来る天狗達は涼しい顔をしていたが上手く事が運ばない早苗は明らかに焦燥と困った顔を表情に出している。二柱の神からの助言はなしで飽く迄巫女――風祝と言ったか――に任せている。
――――これでいい。
天魔は思う。もう半刻もすればこの巫女は必ず焦れて譲歩する。そうすれば天狗は安泰だ。
――――だが。
ここで神が動いた。初めに諏訪子が早苗を連れて参集殿を後にした。続いて神奈子が席を立ち、参集殿から出ていき酒樽と酒杯を二杯もってきた。そして天魔との差し飲みを提案した。
――――仕掛けてきたか。
天魔の指示で大天狗達が退出していく。
酒を酌み交わして神の出方を窺う。どういった手練手管で挑むのか、それを聞いてからでも天狗の優位は揺るがない。万が一交渉決裂して武力衝突となれば話は変わるがそうなれば妖怪の山の頂点に立ったとしても天狗の信仰は得られない。この状態、覆せるものか。必ず譲歩と妥協がある筈だと確信していた。
しかし。
口を開いた神奈子に覆されてしまった。
天狗の優位は変わらないはずだった。だが前提が崩れてしまったのだ。
そう。
筋を通すだけの理由が守矢の神にはあったのだ。
天狗を相手にできるだけの武力、筋を通すだけの大義名分が相手にある。そのどちらかでも崩せる反論を模索するが決定打を打ち返せる手段は天魔にはなかった。
会談の内容で言えば守矢の神に利を取られた形となった。その上で山を治めるのは現状のまま天魔であること、飽く迄、住人として受け入れてもらうことが提案された。反論ができなかった以上、その提案を蹴る事もまた天魔にはできなかった。そこがこの会談の着地場所となった。
会談終了後に早苗、諏訪子、大天狗達が参集殿へ再び集まり、神奈子と天魔による守矢神社と妖怪の山との共同宣言が出された。大天狗達は目を瞠っていた。天狗の優位が覆っていたのだから当然といえば当然である。しかし天魔の命令は絶対である。これをもって解散となった。その後、天魔が天狗達の説得に回ったのは言うまでもなかった。しかし神奈子の話は語らなかった。妖怪の山の歴史が変わる、それだけ何もかもが覆ってしまう爆弾であったからだ。
その爆弾が再び落ちる。
かつての山の支配者へ向かって。
「貴方は大きく勘違いをしているわ。かつての天魔もそうだったけれど。――――人の世? 鬼の法? そんなものがよりにもよってこの私に通用するとでも思っているのかしら? ――――妖怪や人間が足を踏み入れる遥かな以前。ここは富士の山より高かった日ノ本一の山だった。その名は八ヶ岳。コノハナサクヤヒメとイワナガヒメの姉妹喧嘩でその名に合わせて八つの峰にされてしまったけれどね。この八ヶ岳はね、もともと私の国である信濃の山。――――そう。この私が、この手で、一から開拓した山なのよ。イワナガヒメとは知らない仲ではないし外の世界では八嶽神社を始め、共に祀られる事が多くてね。彼女も酷い逸話を持つし同情を誘う姫神でもあるのだけど、それでも姉妹喧嘩で日ノ本一の山を砕かれたのは、まあ。悲しかったわ。それをまさかサクヤヒメに砕かれる前の姿を幻想郷で目の当たりにするとは思わなかったけれどね? つまり私が開拓した山を隠岐奈か紫か、まあ紫でしょうけど、かつての日ノ本一の姿で引き摺りこんで幻想郷の一部にしたんでしょう。全く。所有者に断りもなしに好き勝手してくれたわ。それを幻想郷の人間達も貴方達も勝手に奪い合ってたわけ。――――さて。貴方は私を余所者といったけれど。ことこの山に限るならば私は誰よりも先にこの山を開拓したわけだけれど、自分で開拓した山に住んで何が悪いのかしらね? 言っておくけど早い遅いで語るなら私は誰よりも早いわよ? 諏訪子だって手を付けてなかったんだから」
諏訪子は土着神ではあるが開拓の神ではない。神奈子が平定した後に信濃国の繁栄の為に手付かずの土地を開拓していったのだ。その一つがこの八ヶ岳。イワナガヒメの座す日ノ本一の高さを誇った山である。神奈子がタケミナカタとして開拓した繋がりから八嶽神社などで共に祀られている。
――――後に幻想の形となった最も高かった頃の八ヶ岳は幻想郷に引き摺り込まれ妖怪の山になったのである。
妖怪の、人間の、法、ルール――――そのどれもが山があってこそだ。
では山そのものを開拓した者がいるとしたらどうだろうか。
開拓者の知らぬ間に勝手に見知らぬ者が取り合っていたとしたらどうだろうか。
山での攻防など開拓者には関係ない。意味もない。
ただその開拓者が筋を通すのならば――――山への帰還は誰にも止められない。だからこそ天魔は神奈子達を受け入れたのだ。
山の開拓者――――それが何を意味しているか流石の勇儀でも直後には理解ができなかった。その反応はかつての天魔と同じであった。
妖怪の勢力圏に山を置き、そこで妖怪の、鬼の法を敷いて妖怪の山の創設者となった鬼であっても山そのものの開拓者が相手ではその筋は通せない。通すべき相手が違うのだから当然だ。
たっぷり一分は掛かっただろうか。徐々に神奈子の言葉が浸透した勇儀は大きく溜息をついた。
「…………なるほどねぇ。天魔が受け入れたって事は本当の事なんだろうねぇ。それならアンタがここに住むのは間違っちゃいないね。アンタは筋を通したわけだ。そうなるとアンタと事を構えるのはお門違いになるわけだが、ここまでやっちまってる以上私も後には退けなくてねぇ。何、元々山を奪ったのは私らだ。だったら最後まで鬼の意地を張るだけさ。アンタも退かない、私も退けない。となれば結局やる事は一つだ、そうだろう?」
「こちらには貴方とやり合う理由は、まあ……ないのだけれどね。ただ最初に言った通り大人しくしてもらえないのなら仕方ないわ。鬼が鬼の流儀を通すと言っているのだから相手になるけれど……全く。割に合わない戦いなんてしたくないのだけどね」
「その割には楽しそうじゃないか」
言葉とは裏腹に神奈子は笑みを浮かべている。
「ええそうね。こう見えて私、貴方みたいな実直で真っ直ぐに物を言う相手は好きよ。筋が通せなくても意地を通すっていうのなら、そりゃあ退けないわよね。その気持ちはよく分かるのよ。だったら迎えてあげるのが礼儀ってものでしょう?」
神奈子の言葉に勇儀も口元に笑みが零れた。
「いいねぇ。私もそういうのが好きな性質でね。鬼を前に怯まないその度胸、流石は神ってところか。だがね、私に勝とうなんて思うのは、随分と舐められたものだねぇ」
「おかしなことを言うのね? いざ戦うって時に負けるかも、なんて思う者がいるとでも? 当然勝つ気でいるのが当たり前だと思うのだけどね?」
「はははッ! 違いない。だったらそろそろやるかい?」
「鬼を相手に戦うのだもの。相応の手順を踏ませてもらうわ」
「なに?」
「名乗りなさい、戦の作法くらい心得ているでしょう? こちらには迎え撃つ理由がある。そして貴方は意地を通す覚悟がある。その為に戦うわけでしょう?」
戦う気が溢れていた勇儀にその言葉は意外だったらしく額を押さえて大きく笑った。こんな正面から堂々と名乗り合う戦いなど記憶の彼方にしかない。ますます好感が持てる。そして名乗るなら絶対に負けられない。
あまりにも想定外過ぎて腹を抱えるほど笑った勇儀は改めて神奈子を見据えた。
「悪いねぇ。別に侮辱したわけじゃない。アンタ、山の神だと言うけれどどういう神なんだ? 名乗れなんて面白い神様だよ、本当に。だけど、いいね。アンタには出し惜しみは無しだ。見せてやるよ、鬼の力をね」
一拍言葉を切った勇儀の雰囲気が変わる。周囲に張り詰めた闘気が溢れていく。
「いいか! 耳の穴かっぽじってよぉく聞きな! 鬼の四天王が一人、怪力乱神! 力の勇儀たぁ、私の事だ! 人が最も恐れた鬼の怒り、存分に思い知れ!」
凄まじい咆哮が山に震撼する。
その名乗りを聞いた天狗や蜈蚣たち、前宮や春宮、秋宮にいた河童たちや他の妖怪たちは身を竦ませた。
だが相対する神奈子は真正面から受け止めていた。
――――そして。
ごう、と旋風が巻き起こる。
「その気概、見事なり! 守矢の祭神が一柱、独立不撓、山坂と湖の権化、八坂神奈子が受けて立つ! 日ノ本第一と呼ばれた軍神の荒御魂、その身をもって味わうといい!」
負けず劣らずの名乗りを返した。空に雷雲が立ち込め神鳴りが響く。その音が合図となったのか、前触れもなく両者が激突した。
妖怪の山での戦いはついに鬼と神による頂上決戦へと持ち込まれたのである。
◆
人間の里――鈴奈庵と寺子屋へ向かった四人は途中から別れ魔理沙と正邪は大通りを避けて鈴奈庵の裏側から表に回り、なるべく里人の目に留まらぬように素早く鈴奈庵の戸を叩いた。
恐る恐る顔を出した小鈴に魔理沙が手を上げて答えた。隣の正邪の姿も認めて小鈴が入るように促した。天邪鬼である正邪を先に押し込んで続けて魔理沙がさりげなく辺りを確認してから足を踏み入れた。
先ほどまで人里の不穏な空気に気を張っていた正邪があからさまに脱力しているが魔理沙はまだ安堵が出来なかった。店頭をざっと見まわしたが目的の人物は一人しかいない。もう一人は別室にいるようだ。
「なんだ。思ったより寛いでるみたいだな、香霖」
店頭の隅に椅子を置いて邪魔にならぬように彼は座っていた。
魔理沙を一瞥して開いている和綴じの本へ視線を落としながら香霖こと森近霖之助は口を開いた。
「焦って事態が変わるなら僕だってそうしよう。だがね、これはそういうものではないだろう。原因となっているものを排除した所で元通りとはいかないものだよ、これは。いうなれば一種の病のようなものだろうね。正しい薬を処方しなければ巌のように広がり続ける」
巌とは古い言い方であるがようは癌の事である。
魔理沙も里人の様子は実際に見てきたので、ある程度は把握している。霖之助の例えは言い得て妙だと思った。伝道された教えを何の疑いもなく信じ込み、喜んでいる。それだけだったならまだ分かる。だが自分の家財を喜捨して嬉しがっている様子は流石の魔理沙も不気味さを覚えた。正邪とマミゾウが辟易としていた訳である。
魔理沙は霊夢から受け取った神札と御守りを小鈴へ渡し霖之助が持ってきた神札を彼に返すように告げた。小傘の姿が見えないが彼女も別室にいるのだろう。
「霊夢から、か。こういう時の仕事はしっかりしてるね、彼女は」
「香霖はどう思う?」
「どうもこうもないさ。巌に全身を覆われれば最後はどうあがいても死ぬ。しかし今回のはそういう病魔ではない。肉体ではなく精神に作用する中毒に近いだろう。巌のように広がるのが早く、次々に障害と言っていいのかは微妙な所だが通常状態とは違う伝道された教えが思考の中心に居座る。だからといって死ぬわけではないし家財を捨てた所で困るのは捨てた本人であって僕達じゃない。祈祷師たちが奪っている訳でもないから財産目当てではないのだろうがね」
冷静に語る彼の推測は中らずと雖も遠からずだろう。中っていないのは祈祷師たちの目的だ。教えを広めて何をする気なのか。考えに耽りそうになった所で霖之助が本を閉じて顔を上げた。
「魔理沙。師匠なら奥にいる」
「え、――――う」
「君たち親子の確執は知っているつもりだ。しかし、こういう時ぐらいは顔を見せても罰は当たらないと思うんだがね。行くならさっさと顔を出してきたまえ」
二人の会話を聞いていた正邪が小鈴に出されたお茶を啜りながら口を挿んできた。
「なんだお前、訳あり家族ってやつか」
「うっせえ。いろいろあんだよ。私はお前と違って繊細なんだぜ?」
「繊細が聞いて呆れるな」
「まあまあ、その辺で」
小鈴に仲裁されて正邪も興味を失くしたのか三和土に腰かけていたが座敷側に仰向けになる。
気を利かせた小鈴が魔理沙の父親の様子を語ったのでようやく魔理沙も安堵する事ができた。
魔理沙の父親は小鈴の両親と同じ部屋で過ごしてもらっているようで稗田阿求と奥野田美宵が食事の用意などを手伝ってくれているらしい。
清蘭と鈴瑚、赤蛮奇と小傘は書庫の方に移ってもらっていた。
赤蛮奇はタダで本を読めるので納得していたが、清蘭と鈴瑚は途中から暇に飽きて餅を搗き始めていた。どうせやれる事はないのである。出来た餅は半分を美宵たちへ、もう半分を店頭の小鈴たちへ差し入れてくれていた。
「清蘭達も大変だな。と。忘れてた」
魔理沙が帽子の中から幻通機を取り出しその使い方を小鈴と霖之助に教えた。霖之助にはその能力によって何をするものなのかはすぐに分かってしまったようだが使用方法までは分からなかったらしい。
「幻通機――――か。面白いアイテムを作成したものだね」
「これがあれば離れてても連絡が取れるからな」
霖之助は小鈴と話して幻通機は彼が持つ事になった。
「それで。魔理沙はどうするんだ?」
「そうだ……な」
魔理沙は外の様子を窺い日が没していく大通りを確認する。
人々は喜び、教えを守っている。魔理沙自身は御守りの加護があり何なら外へ出る事は可能だ。今しばらくは人里の状態を監視しておくべきか。
「ちょっと私もここにいるぜ。何かあれば力を貸せるしな」
「店の中で暴れるのはだけはやめてくれよ?」
「そうならない為に私がいるんだぜ?」
不敵に笑う魔理沙に霖之助は思う。
――――やれやれ。逞しくなったものだ。
そこへ書庫の方から清蘭が顔を出した。その清蘭の顔の下から小傘も出している。手に持っているのは搗き立ての餅である。
小傘へマミゾウから預かった御守りを返す――――と同時に駄賃代わりに貰うぜ、と餅を取った魔理沙に小傘から抗議が上がる。ひょいと口に入れると搗き立てらしい柔らかな餅の食感に、中には餡子まで入っている。重たい餡子ではなく程よい甘さのこし餡である。これが食えたなら来た甲斐はあったな、と満足気な魔理沙に対して餅を取られた小傘は頬を膨らませている。そんな彼女に奥から鈴瑚が新しい餅を持ってきてくれた。しかしその光景を見ていた――いつの間に近寄っていたのか――正邪が素早く奪い去る。
まだまだあるよ、と鈴瑚がいうものの食い物の恨みはなんとやら、餅を巡って急に賑やかになる。
店頭の隅でそのやり取りを眺めながら霖之助はこの元気さを見ると何とかなると思わせてくれると誰知らず笑みを溢した。
正邪の帰還と魔理沙の来訪は鈴奈庵に新しい風を吹き込んでいた。
◆
魔理沙と正邪の二人とは途中で別れ、寺子屋へ向かった屠自古とマミゾウであったがこちらもこちらで異様な光景を目の当たりにしていた。
マミゾウは一度見ている光景ではあったがやはり異様と思わざるを得ない。
人間へ化けたマミゾウと彼女に化かしてもらい足をあるように見せている屠自古は群衆から離れ遠巻きに状況を見ながら寺子屋へ歩を進めていた。また息が詰まっているであろう慧音たちへ差し入れをするべく信者となっている里人の商家で食料を仕入れた。寺子屋となると里の子らがいるか、と考えたマミゾウは菓子類を多めに買い込んだ。怪しまれぬように同じく信者のふりをして――化ける事が十八番のマミゾウには造作もなかった。
なるべく目立たないように裏通り小道を駆使して偵察をしつつ魔理沙達がそうであったように寺子屋の裏側にある勝手口へ向かう。
「おい。あいつら頭がどうにかしちまったんじゃないのか?」
「滅多なことをいうもんではないぞ。里人も被害者じゃ。ま、儂らにとっては加害者でもあるがな」
屠自古達が主に目撃したのは反妖怪を声高に叫ぶ集団だった。
魔女狩りこそ行っていないが抗議の集会はあちらこちらで起こっていた。
伝道された教えで喜んでいる里人たちも見てはいたが、どちらにしても異様である。
「まるで先導者がいるみたいだ」
屠自古もかつては豊聡耳神子と共に為政者として辣腕を振るった過去がある。人々を先導するには綺麗事だけではない事を知っている。
仏教を巡って勃発した丁未の乱では物部布都と共謀し彼女の氏族を滅亡へ追いやった。全ては神子が国民を束ねて導いていく為には仏教が都合がよかったからだ。己が氏族の滅亡を目の当たりした布都には――彼女が言い出した事とはいえ――酷であっただろう。それが尸解仙として復活する際に屠自古が選んだ壺をすり替えた事に繋がったのかもしれない。
余談だが。
滅亡した物部氏ではあるが蘇我氏と対立した物部守屋の次男である武麿は神代より神奈子の支配する信濃国へ逃れ現人神を補佐する五官祝の筆頭職にして神長官を務めた守矢氏が養子にとり二十七代目の神長官となっている。排仏派であり古来日本の神々の神祇祭祀を行ってきた物部氏としては本懐だったのかもしれない。さらに物部氏の始祖はスサノオの四男であるオオトシであり大和を取ったニギハヤヒ、その子であるウマシマジである。系譜こそ違うがタケミナカタもまたスサノオに連なる神であり――神奈子はその妻神ではあるのだが――物部氏からすれば遠い親戚となる。ある意味では戻るべき場所へ戻ったと言える。
里人の様子を観察し、そう呟く屠自古へ煙管を燻らせるマミゾウが言った。
「それは間違ってはおらんな。下手人は二人。一人は橘迦玖能。こやつが祈祷師じゃな。主に伝道を行っておるのはコイツじゃ。そして、もう一人が六天主。どうやらこの者が反妖怪を吹き込んでおるらしい。橘迦玖能を崇拝している者から少しずつ抗議を上げる人間を増やしているようじゃ。派手に動く橘迦玖能と違い目立たんように振舞ってはおるが、反妖怪派も崇拝者もどちらもこの二人が先導しておるわい」
「どうして分かる?」
「儂は博麗へ向かう時に一度見ておるからの。初めは教えを広める主犯と従犯の役割分担かと思っておった。あくまで反妖怪を叫ぶ連中は悪意に中てられたからじゃとな。――――しかし」
言葉を切りマミゾウは信者が群がっている所と妖怪への抗議を上げる集会を開いている場所とを煙管を向けて指し示す。
家屋の角から顔を出して屠自古も確認する。どちらもやはり異様な熱気を帯びている雰囲気がある。
「悪意に汚染されて反妖怪を訴えるならまだ分かる。長閑に見えても心の内では妖怪を畏れる者は多いからの。それが悪意によって発露したとな。じゃがな、そうであるなら何故信者となった者には悪意は効かぬのじゃ? 信者となった者は加護を得るのか? しかしそうじゃと態々悪意をばら撒いとる――アラディアか、そやつの邪魔をすることになるじゃろう? それが、まあ気になっての。具に見て見れば、ほれ。反妖怪を叫ぶのは必ず信者になった者からじゃ。つまり悪意を利用した上で教えを擦り込み信者となった者の心を妖怪排斥へ向けておるのじゃろうな」
しばし信者の集団を眺めていると家財を喜捨する為に家に戻る信者の中に一人、二人と抗議を上げる集会へ合流する者が確認できる。
「奴らは何が目的なんだ?」
純粋な疑問を自問するように屠自古が呟く。元来彼女は戦場へ出て大立ち回りをするタイプではない。神子と布都と政を司っていた事からも計画立案に真価を発揮する参謀役である。神子が司令官であるなら屠自古は幕僚である。
「さあてな。信仰を得たい部分もあるにはあるじゃろうが、それをも真の目的の為に思えなくもない……奴らも一枚岩ではないじゃろうし互いに利用しておる関係なのかもしれん」
「ったく。何がしたいんだ奴らは」
「まあ。いずれ分かる事じゃわい」
悪意に翻弄される里人を尻目に二人は寺子屋の裏側へ辿り着く。表側にはまるで監視をしているかのように抗議を上げる里人らが遠巻きではあるが陣取っており寺子屋へ表から入る人間を見張っている。
どの道、裏側の勝手口から入るつもりではあったがこうも衆人環視が行われているとなると中にいる慧音達の気苦労が窺い知れるというもの。囲い柵を越えて勝手口の戸を叩くと、やや間をあけて声が掛かった。何者かと問い質される。明らかに警戒しているようだ。声からして慧音だろう。マミゾウが名乗り周囲に誰もいない事を告げるとゆっくりと戸が開いた。そこには構えた慧音と神子が立っていた。
「神子様、ご無事ですか?」
随分と久しぶりに神子の姿を見たような気がする。無事ではあるようだが流石に少し疲れているように見える。
「おや、屠自古もいたのですね? てっきり彼女だけかと」
警戒し七星剣の柄を握っていた手を神子が離した。
「博麗で合流してな。ともかく中に入れてくれんか。裏口とはいえまごまごしていては人目につくでな。それにほれ、土産もある」
「ああ、それは助かる。すまないな、二人とも入ってくれ」
慧音に促されてマミゾウと屠自古はようやく寺子屋へ足を踏み入れた。最後に慧音が周囲をざっと見回して戸をゆっくり閉める。心張棒を掛けることも忘れずに行っていた。
持ってきた食料を慧音へ渡し学習座敷へ案内されると早苗達が緊張した面持ちを崩した。
早苗の近くには里人の子供が集まっており少し離れてチルノ、大妖精、ルーミア、ミスティアが固まっている。人妖問わずの光景にマミゾウは苦笑を浮かべた。
「何とも賑やかな事じゃな。しかしこの状況下で妖精に妖怪とは目の敵にされるはずじゃ」
誰ともなく呟いて手近な座布団に腰を下ろした。
マミゾウに遅れて屠自古と神子、慧音がやってくる。
「里の子供たちに妖怪とは何か、妖精とは何かを教えていたんだ。ミスティアも相談があるというし、早苗が手伝いに来てくれるっていうから丁度いいと思ってな。妖怪や妖精の事を知れば、もう少し身近に感じて何が怖いと思うのか、そういう分別をつけられるようにな」
慧音は差し入れられた食料の内、中に入っていた菓子類を子供たちへ配りつつ語る。寺子屋へ向かうなら、と考えたマミゾウと屠自古が子供たち用に菓子を多く見繕っていた分である。
「それはまた、面白い試みじゃな?」
「妖怪は恐れによってその存在を認められる。ただ何を恐れるかでその性質が変わる事もある。例えばルーミアだ」
饅頭を頬張るルーミアが名前を呼ばれて慧音へ寄ってくる。
「呼んだ~?」
ルーミアの頭へ手を乗せて撫でつつ慧音は続ける。
「ルーミアは宵闇の妖怪と呼ばれている。そうだったな?」
「ん~」
もごもごとしながらも肯定の返事をしたつもりらしい。
「宵闇の妖怪と呼ばれているのにルーミアは同時に人食い妖怪とも言われている。それそのものは確かに矛盾しない。だが本来闇を操る事と人食いは区別されるべき特徴でもある。闇に閉ざされるというのはそれだけで恐怖だ。人間が得る事ができる情報の半分以上は眼に映った景色から得ている。それを封じられる事そのものが人間にとっては脅威となる」
「それはまあ、そうじゃろうな」
相槌を打ちながら、饅頭からはみ出た餡子を嘗めるルーミアを見ると慧音の言う脅威は余り感じないのだが。
「では人食いとなるとこれはその名の通り人間には脅威だろう。人間を食う、つまりは殺されてしまうことを簡単に連想できる。多くの妖怪は雑食でもあるからルーミアが人を襲うこともあるだろう。不運な人間が食べられてしまう事だってあるかもしれない。だがそれだけで人食い妖怪と名指しされると妖怪としての性質が変わってしまうわけだ。現にルーミアは率先して人間を襲うタイプじゃない。たまたまルーミアと出会ってしまった相手を襲う、どちらかというと受け側のタイプだ。待ち伏せなんかもしないしな」
「だって面倒だもん」
「ほらこれだ。だから辻斬りや通り魔に近いんだな。無論ルーミアに襲われた人間もいるだろうが、そういった人間より例えば山の麓に山菜なんかを採りにいった帰りに不慮の事故で亡くなった人間の方が多いだろう。川に落ちて溺れたり、小高い切り立った崖から滑落してしまったり。あるいは野犬や熊なんかに襲われる方が多いかもしれないな。場合によっては持病が悪化してその場で亡くなってしまう事もあるかもしれない。そうやって亡くなってしまった人間の死因の多くがルーミアの所為になったりもするんだ。そうすると暗闇に引き摺り込んで恐怖を与える宵闇の妖怪に人食いという要素が追加されるわけだ。そうなるとルーミアの性質が少し変わってしまうんだ。もちろん人食いである事は厳密には間違いではないからそこまで劇的な変化はしないだろうがな」
「む~慧音の話は小難しくてつまんない」
饅頭に夢中かと思いきや拗ねた顔をするあたり一応話は聞いているらしい。
「とまぁ、こういった事を子供たちに教えていたわけだ。この子たちが大人になった時により妖怪の事が身近に感じられるようにな。上手く付き合っていく為の勉強というわけだ」
「なるほどのぉ」
慧音のこの試みは一朝一夕に成果が出るものではない。だが確かに慧音の教えを受けて育った子らが大人になる頃にはもっと妖怪との付き合いが上手くなっているだろう事は確かだ。
それは外の世界で人間と折り合いをつけて生きてきたマミゾウだからこそ言える。
しかし言い終えた慧音は表情に影を落とした。
「いい機会だと思って…………いたんだがな。それがこんなことになるとは思わなくて。余計な事だったのかもしれないな」
「と、いうと?」
「外の、里人たちが叫んでいただろ? 妖怪は出ていけやら……まあ。いろいろと」
そこで言葉を切った慧音は大きく息を吐いた。
「ああも真っ向から否定されると流石にな。ルーミアやチルノたちには悪い事をした。今日じゃなければ、あんな心無い言葉を聞く事にはならなかったのに」
肩を落とした慧音は一回り小さく見えた。それほどまでに里人の抗議の声が彼女に与えたダメージは大きかった。
言葉は心を抉る刃である。
未来の幻想郷を思い、里の子供らと比較的無害であるルーミアたちを呼んでの勉強会は予期せぬ事態によって中断されたのだ。それも悪意のある言葉によって。
「その事じゃがな」
いつ間にやら静かになっていた空気の中、マミゾウがその沈黙を破った。
彼女は神社で聞いた悪意に関しての全てを語った。時折り屠自古が説明の補強に口を開き、より詳しく、また分かりやすく伝えた。
原初の悪神による悪意汚染。
それに与する者達。
人里の人間達がそうであるように、幻想郷の多くの妖怪もまた悪意に汚染され、博麗の巫女である霊夢を始め、賢者である紫や隠岐奈たちがこの大異変を解決する為に奔走しており神奈子やパチュリー、妹紅や萃香らの力も借りて対抗しているという。
少し前に軽度の地震が起きたのもその一つだとマミゾウは語った。八意永琳を止める為に賢者と神と紅魔の魔法使いが一計を案じたらしい。
そして今、マミゾウと屠自古、それから魔理沙と正邪が人里へやってきた。無論、それは人里で起きている異常に対抗する為にである。
まずは何が起きているかを正しく把握し決して負けぬように力を合わせる事が大事なのだ。
奇しくも寺子屋には早苗がいた事で清浄な空間を保持する事が出来ていたし悪意に関してある程度の情報を得ていた。マミゾウが当初身を寄せていた鈴奈庵では森近霖之助が重い腰を上げてくれたお陰でこれまた清浄な場所を確保していた。現在鈴奈庵には魔理沙と正邪が何が起こっているかを説明しに行っている筈だ。
人里には寺子屋と鈴奈庵という二か所に拠点を持っている事になる。それを活用しなくてどうするのか。
また慧音が里の子らを集めて勉強会を開いてくれたお陰で子供らの悪意汚染は防げたのである。同時に勉強会に招いたルーミア達の汚染を防げたことでもあるのだ。
慧音が行った勉強会はその趣旨こそ外れてしまったものの決して無駄ではなかったのだ。それは誇っていいものだと最後にマミゾウは言い結んだ。
――――無駄ではなかった。
その言葉が今の慧音にはとても救いになった。
日が落ちるまで抗議と罵倒を受け続けていた彼女の心を救ったのだ。それは思わず涙が滲むくらいに。
「……すまない。ちょっと席を外す」
目頭を押さえて慧音が学習座敷から出ていく。
その背中は震えていた。
彼女の背を見届けた神子が口を開く。
「多くの者から抗議や罵倒、批判を浴びる事は慣れていなければ心が摩耗する。彼女は教鞭を執る立場です。多少は子の両親から物言いがあったでしょうが、今日ほど苛烈な非難を受けた事はないでしょう」
「ほお? まるで知ったような口ぶりじゃな?」
「当然です。私は政治家ですから批判も非難も野次も浴びるほど受けました。ですがそれに答えるのもまた政治家という職。批判も非難も結局は民の訴えに過ぎないのですから、その不満を解消する事が良き治世に繋がるのです。しかし此度の里人の決起は言わば扇動されたもの。意図的に差し向けられたといっていいでしょう。良くも悪くも結束した民衆というものは力があります。今回は悪意ですか、それが里人達の心に巣食い行動を促している。となれば口から出る訴えは悪意に塗れたものになるのは必然と言えます。慧音殿にとっては気の毒としか言いようがない」
「ほっほ。流石は聖徳王。人民の事をよお分かっておるな」
「悪意汚染。これほど不愉快なものだとは正直思っていなかったもので。本来の性質を悪意で塗り潰している里人の欲など聞いたところで何の意味もありませんしね。ですが厄介な事には違いないのが腹立たしい」
マミゾウと屠自古の説明を聞いた神子は橘迦玖能の伝道活動に苦言を呈した。
それは奇しくも八雲紫が風見幽香へ語った懸念と同じであった。下手に祈祷師を始末すると教えだけが独り歩きしてしまい伝説化する可能性がある事。今ならまだ信者といえども一過性の流行に乗っている程度で済むがこれが根付くような要因を作る事が一番まずいのである。外来の宗教である仏教を取り入れた神子だからこそ宗教の怖さを良く知っている。それも突然流行る様な新興宗教の怖さを。
「あの。ちょっといいですか?」
話を聞きながら黙っていた早苗が言った。彼女は神子へ視線を向けている。
思い悩むような表情は何か心当たりがあるのだろうか。
「私?」
「はい。話を聞いていて思った事があるんですけど……」
歯切れが悪い。
言葉を選んでいるというより言うべきかどうかを迷っている口ぶりである。
「その……確信が持てない、不確かな話ですのでまずは神子さんだけに聞いてもらいたいんですけど」
「それは構わないけど、何故私?」
「たぶん神子さんなら分かると思うんです」
「ふむ。いいでしょう」
早苗と神子は裏口の方へ向かった。
入れ替わりに慧音が戻ってくる。
落ち着いたようで表情に生気が戻っている。
「すまない。少し落ち着いた。――――ん? 早苗と神子は?」
「守矢の巫女が神子様に話があるんだとよ。何か考えがあるようだったが自信がないのか、それともいい加減な事を言わない為か、神子様だけに相談中だ。ま、神子様を選んだのは正しい選択だな」
己の主を頼った事に納得している屠自古の様子に慧音も相談相手に神子を選んだくらいにしか思わなかったがマミゾウは違った。悪意に関して説明している最中から早苗が考えだしていたのをしっかりと見ているのだ。何かに気づいたと見るべきだろう。
――――問題は。
神子を選んだという事はおそらく神子ならば早苗が気づいた事に理解を示してくれる可能性が高いからと考えるのが自然だ。
万が一早苗の気づいた事が真実に触れていた場合、その話を聞いて憤るのは誰か、それは言うまでもなく子供たちだ。
神子だけに相談するのは確かに理解してくれる可能性があるからという点もあろうが一番は子供たちに聞かせない為だろうとマミゾウは推測した。
マミゾウと屠自古が持ち込んだ菓子を慧音が配ってから嬉しそうにしていた子供たちだが、座敷に足を踏み入れた際の不安な表情を浮かべて身を寄せ合っている光景を抜け目なくマミゾウは見ている。
――――ま。無理もなかろうな。自分の親が豹変して先生の慧音に抗議をぶつけておるのじゃからな。
一人に一個ずつ配られた饅頭はもう彼らの腹の中である。それが引き金となったのかより空腹を自覚してしまったらしく、低学年の筆子の女の子や男の子がお腹が空いたと口に出している。
日が没するまで慧音たちは抗議の集団に気を配っていたのだから当然昼食も食べていない。それは子供たちも同様だ。
そんな子供らの声を聞いた屠自古が立ち上がった。
「なあ先生。寺子屋っていっても炊事場くらいあるんだろ?」
「え? まあ、あるにはあるが……」
寺子屋には所謂家庭科を教える為の調理場がある。それは寺子屋が実用教育を重視しているからだ。
だが慧音はどちらかというと座学をメインに教え、幅広い知識を身に着けることに重きを置いていた。
下校も八つ時――午後二時であり基本的に寺子屋では昼食は取らない。
従って調理場はお茶を淹れたりお茶請けの菓子を準備するくらいしか使用していなかったのである。
「食料を買い込んで正解だったな。何か作ってやるよ。ガキ達も腹が減ってるみたいだからな」
そう言った屠自古へミスティアが近寄ってきた。
「あの、ご飯を作るなら私も手伝います」
「……確か夜雀の。ああ、八目鰻の女将か。手伝ってくれるなら助かる」
「いえ、みんな、お腹空いてるから」
ミスティアの言う通り皆、腹が空いていたのである。
そこへ差し入れの食料はとてもありがたかったのだ。
「と、いう訳だ。先生、炊事場を借りるぞ」
屠自古とミスティアは買い込んだ食料を持って炊事場へ向かった。
「腹が減っては何とやらじゃ。ここは大人しく相伴にあずかろうではないか、なあ先生」
「そうだな。腹が減ると判断も鈍る」
「――――と。忘れておったわ」
そういって懐から幻通機と守矢の御守りを四体、神札を一体取り出した。
「これは……先ほど言っていたものか」
神札を受け取った慧音はそれを寺子屋の大黒柱へ貼り付けた。
また御守りは慧音が預る事になった。
「これで早苗の負担を減らせる。助かったよ」
寺子屋が神域と化していたのは今まで早苗が結界を展開、維持していたからだ。だからこそ彼女は寺子屋からは離れられなかったのだ。
「何、持たせてくれたのは博麗の巫女じゃ。この異変が終わったら巫女に礼を言うといい。果物の盛り合わせでも持っていけば喜んでもらえるじゃろうて」
「ああ、そうするとしよう。それで。そっちの機械は何をするものなんだ?」
「コイツかの。これは守矢の巫女に渡せばいいものでな。ま、いいもんじゃ」
――――と。
そこへ神子と早苗が戻ってくる。
「いい所に戻ってきたな、守矢の巫女。こいつをお主に渡すように頼まれた」
「これは……幻通機ですね? どうしてマミゾウさんが?」
聞き覚えのない単語を口に出した早苗に慧音が幻通機について尋ねると遠くにいる者と会話ができる機械だという。
神奈子とにとり、鈴仙によって開発された経緯を早苗も知っていたし何より開発段階の試作品には何度も触らせてもらっていた。外の世界では当たり前となっている携帯電話が幻想郷には普及していないので――――河童の一部はそれに似た機械を持っているらしいがあくまで河童内の話である。また紫と藍のような式神使いとその式の関係ならば離れていても連絡を取れるようだが万人が使える手段とは言い難い。鈴仙や清蘭、鈴瑚のように種族的に離れた距離をテレパシー能力によって会話できる者もいるがこれも大衆が真似できるものでもない。
そこで離れていても会話ができる幻想郷仕様の通信装置の開発に着手したのである。
幾度かの試作品を経て完成したと聞いてはいたが既に納品されていたとは知らなかった。
幻通機の用途、使用方法を簡単に説明した早苗は耳に装着した。
「マミゾウさん。これは神奈子様からですか?」
「いや。博麗の巫女に渡されたものじゃ。お前さんなら使い方を知っとるいうてな」
そう聞いた早苗は霊夢へチャンネルを繋げた。
「――――もしもし、霊夢さんですか?」
『は? もしもし? ――――このチャンネルは、早苗ね? どうやらマミゾウと屠自古は寺子屋へ着いた様ね』
「はい。ちょっと前に到着しました」
『なら、今起こっている事は伝わっているわね?』
「ええ。マミゾウさんと屠自古さんから教えてもらいました。悪意に関しては私も知っていましたけど、どこで何が起きているのかは分からなかったので助かりました」
『そっちは大丈夫なのよね?』
「はい。慧音さんと神子さんとなんとか。子供たちとチルノちゃん達の悪意汚染は防げました。里の方達はちょっとまだ手を尽くせていないですけど」
『ああ、橘迦玖能と六天主とかいう奴らね。そっちでどうにかなりそう?』
「まだなんともですね。何かあっても大丈夫なように手は打つつもりですけど」
『そう。じゃあそっちは任せるわ。神子達もいるし大丈夫よね?』
「はい。それはいいんですけど、ちょっと訊きたいことがあるんですが」
『何よ?』
「今使っている幻通機ですけど、マミゾウさんは霊夢さんから受け取ったと言ってたんですが、そこに神奈子様います?」
『神奈子はいないわ。少し前までいたけど。今は守矢の神社に帰ってるはずよ。それでこれは神奈子からいくつか受け取ったのよ。必要と思ったら渡してくれってね』
「守矢神社に? そうですか。まあそれはいいんですが。じゃあ霊夢さんが必要と思った人に渡しているんですね?」
『そうなるわね』
「ならこれ、隠岐奈さんにも渡してますか?」
『は? 隠岐奈?』
「はい。隠岐奈さんとちょっと話がしたくて。というか博麗神社に隠岐奈さんいます?」
『隠岐奈も少し前まではいたけど今はいないわ。けど隠岐奈もこの幻通機を持ってたはずよ。神奈子が渡していたから。何、アンタ、あいつに用があるの?』
「ええ、まあ」
『ふうん。ま、いいわ。何か考えがあるようだし。じゃあそっちは任せるから。切るわよ』
「はい。では」
通信が切れる。
早苗は視線を神子へ向けると彼女は無言で頷いた。それに頷き返すと断りを入れて席を立った。
通信会話を見ていた慧音は珍しいものを見たように感心していた。
「幻通機か。離れていても、こうも普通に会話ができるものなんだな」
「ま、不思議に見えるじゃろうな。外の世界ではもっと進んだ機械もあるんじゃが」
「そうなのか?」
「機械文明を極めた結果じゃな。流石に幻想郷は進んだ文明が違うからの。外の世界の機械を持ち込んでも使えんがな」
「それは残念だな。親御さんと連絡を取るのに便利だと思ったんだが」
もったいないな、と早苗の消えた後へ視線を向けていた慧音だったが不安そうにしている子供たちに気づき傍へ近寄り元気づけるように声を掛けていく。そのお陰か暗い表情を浮かべている子らに笑顔が戻る。
「――――いい子たちですね」
その光景を目を細めて穏やかな眼差しで眺めて神子は言った。
神子の言葉を聞き咎めたらしいチルノが彼女に向かって指を差した。
「あたい達だっていい子だよ!」
「チルノちゃん」
困ったような苦笑を大妖精は浮かべている。
「ほっほ。確かにの。お前さんらも良い子じゃわい。じゃからの――――」
言葉を切ったマミゾウは慧音と子供らを一瞥する。それからチルノたちへ顔を向けた。
「もし、慧音どのがまた勉強会を開くと言ったら協力してやっとくれ」
「もちろんだぞ。慧音は協力するならって菓子をくれたんだ。前払いってやつなんだ」
「なるほどの。労働対価じゃな」
「そうそう。ロードータイカってやつだ」
うんうんと頷いているがおそらくチルノは理解していないだろうが慧音に協力的なのは嬉しい事である。
折角開いた勉強会だ。悪意の所為で台無しになってしまったが慧音のやらんとしている事は確実に幻想郷の為になるだろう。
――――いらん老婆心じゃったかな?
そう思っていると炊事場の方から漂ってくる夕餉の匂いが鼻を掠める。
そこへ早苗も戻ってきた。
美味しそうな匂いですね、と心なしか表情が明るい気がする。
やはり腹が減っては駄目だ。
まとまるものもまとまらない。
早苗に限らず夕餉の匂いが子供たちとチルノたちへ笑顔を齎している。
屠自古とミスティアが腕を振るっているのだ。
今はそれを待つとしよう。
煙管を燻らしマミゾウは座敷の雰囲気が前向きな明るいものへと変化していく様子に自身もまた笑みが零れている事を自覚した。
◆
地底を舞台とした三つ巴の戦いは大きな変化を迎えていた。
地獄の反乱軍。
吉弔八千慧が率いる畜生大連合傘下に収めた亡者達。
死神部隊及び古明地さとり率いる地霊殿組。
反乱軍は次から次へと投入され切りがない状態なのは変わらなかったが吉弔八千慧と古明地さとりが邂逅した事で地底の勢力図が変わる事になる。
八千慧の能力――逆らう気力を失わせる力は亡者に対し絶大な効果を発揮し、それを扇動して――自らの手を汚すことなく――勢力の拡大を行ってきた。その力はさとりや死神たちも例外ではなく影響を与える脅威的なものだった。
彼女の前に立つだけで敵対行動に見なされ何もできなくなる。
天邪鬼である鬼人正邪のように生まれ以って反対行動を取れる者や人間達に反抗し続けた反骨精神を持つ鬼族の伊吹萃香や星熊勇儀、アマツカミへ叛逆した逸話を持つ八坂神奈子、また元より相手より自身を卑下し嫉妬心を力に変える事ができる水橋パルスィや、そもそも逆らう気力があるのかすら分からない、正体が不明の封獣ぬえ、そして八苦を滅し救いの立場から動く事ができる聖白蓮など、反抗、叛逆が存在に根付いている者と初めから逆らわずに行動を取れる者でなければ対応は難しい。
その点で言えば。
さとりの傍には八千慧の能力を掻い潜れる者がいたのである。
一人は妹の古明地こいし。
彼女は無意識で動ける。無意識であるという事は逆らう気力で動いている訳ではないという点から対抗できている。
もう一人は霊烏路空。
お空の場合は八千慧の力の影響をもろに受けていたのだが逆らう気力を失うという事はそれはこいしの事を考えても意識に強く作用している力でもあるのは明白だ。つまり逆らえないと意識させられてしまうのだ。
だがお空は違った。
悲しい事に違ったのだ。
能力の影響を受け、逆らえないと思わされても数秒後に逆らう気力を失った事そのものを忘れてしまうのだ。お空の興味のない事には致命的な記憶力のなさによって能力の影響は事実上のリセットをされてしまったのである。
八千慧にとっての最大の誤算はお空があまりにも鳥頭だったことだ。八千慧の鬼傑組はインテリ集団だ。老獪でいかに己が手を汚さずに他人を利用し利益を得るかに長けている者達である。
利口、聡明である事が是である鬼傑組、八千慧にとってお空はその対岸の暗愚の極みのような存在だったのだ。
この致命的なまでに噛み合わない相性の悪さはお空に軍配が上がった。
逆らう気力を失った事を忘れたお空による浄化の炎を最大火力で放射されては八千慧といえども対抗できなかった。何せ八咫烏――最高神アマテラスの使神が齎す太陽の力である。
亡者もろとも悪意を浄化された八千慧はいくらかのダメージを受けつつも自身に何が起こっていたかを正確に把握していた。
畜生大連合を結成し畜生界の大半を制圧し旧地獄、地底に強い影響を齎す為に侵攻した。
無論悪意に関しての詳細を知っていたわけではなかったが普段の己ならば取る事のない行動がいくつかある。
まず八千慧本人が軍勢を率いて出撃する事は滅多にない。自身が出る事で相手を騙す、あるいは相手に行動を促す事が出来る場合ならば表舞台に上がり演技もしよう。
しかし今回の場合はどうだ。
現にお空からダメージを受けている。無意識に動けるこいしに拘束されている。
普段ならばここまで深入りはしない。最大の利益を確保できた時点で安全圏まで退避し後は下っ端に相手の許容を超える所まで先行させるだけだ。そして相手が手を出してきた際に乗り込み愚を犯した下っ端を始末すればそれで手打ちにできる。相手の許容限界も知る事ができる。
それがどうしてここまで深入りしてしまったのか。
何らかの要因によって――――それこそが悪意なのであるが――――己の行動を己の知らぬ間に促されていたという事。
――――何たる失態。
大きく溜息を吐いて八千慧はさとりを前に上辺の言葉で取り繕う腹芸をした所で無駄であると見切りをつけた。どうせ心内を読まれるのだから。
同時にさとりの読心を逆手に取り、口と心で別々の会話をするという交渉を行った。
それは口ではそもそも畜生大連合は剛欲同盟、同盟長の饕餮尤魔が発案した事で全ての責任は彼女にあるとし、鬼傑組としては地底勢力及び死神部隊と衝突するつもりはない事、また亡者の反乱に関して鬼傑組は地底勢力との協力する用意があると告げたのだ。
だが心では全く別の事をさとりへ囁いていた。
八千慧の能力は亡者に対し絶大な効果を持つ。その上で協力に応じなければ更に亡者を動員し地底へ向かわせる事もできると恫喝したのである。既に反乱軍として統制の取れていない亡者が旧地獄の歓楽街を滅茶苦茶にしているのだ。地底都市の至る所で住人が対抗しているとはいえ数が違い過ぎる。しかも相手は既に閻魔の裁きを受けている為、失うもののない連中である。
さらに八千慧は恐るべき言葉を心の中でさとりへ投げかける。
それは例え亡者を殲滅した所で畜生界を含めたあらゆる地獄の淵から亡者の次には無念を残して彷徨い果てた末に魑魅魍魎となった者と尽きず群がる蛆までも動員する事も辞さないというものであった。
口での交渉ではここまで地底でやりたい放題しておいて虫のいいことを言うな、と死神たちは反発していた。
しかし死神たちは飽く迄地獄が管轄である。地底の盟主はさとりである為、八千慧はさとりに口での交渉を飲ませればいい。そうなっても全責任は饕餮に向かうし鬼傑組は剛欲同盟に巻き込まれたという形を取れる。さとりにしてもこれ以上地底を荒らされるのは本意ではないだろうし協力に応じるならば少なくとも八千慧と鬼傑組はこれで地底とは手打ちにする事は確約している。その上で地底に蔓延った亡者の殲滅に手を貸すのだ。
さらなる戦乱を地底へ呼び込むか、あるいは八千慧の交渉に乗り表面上は停戦し講和を結び亡者を追い出すか。
やや逡巡したさとりではあるが八千慧の本心を見抜いているのはさとりだけであるし八千慧としてもさとりたちとこれ以上交戦した所で利がないのは分かっている。さらなる亡者の投入と魑魅魍魎まで動員するとは言っているもののそこまでして得るものは八千慧にはない。
死神たちに抑えるように告げたさとりは八千慧と講和し協力体制を取ると宣言した。反発もあるにはあったが地底の盟主の権限で黙らせる。
共同戦線を張る事になり八千慧へ悪意に関する情報が伝えられた。現状はお空に浄化されているので汚染は消えたが彼女から離れると再び汚染される可能性がある事まで。
八千慧が考えている以上に事態は厄介な事になっていたらしい
。だが協力すると宣言した以上、まずは亡者の殲滅に全力を尽くすだけだ。
八千慧を戦力に加えた事で亡者の殲滅はより容易になった。
何せ彼女の能力は亡者には絶大な効果がある。八千慧を前に身動きが取れなくなった亡者達をお空が片っ端から消し炭にしていく。えげつないほど一方的な根絶だった。しかし地底全域に侵攻していた地獄の反乱軍はこれによって速やかに排除する事に成功していく。
八千慧が掌握していた歓楽街、都市内部を解放し反乱軍が占拠している地域の三割を奪還した。
――――けれど。
そう上手く事は進まないらしい。
旧血の池地獄を経由し地底へ溢れている反乱軍だがその第三波とも言える軍勢が迫ってきていた。八千慧の能力をもってしてもその影響下に入るまでにさとりたちまで迫るほどの数だ。
反乱軍第三波が現れた原因は実は畜生界にあった。
他の六道の制圧に向かっていた驪駒早鬼、その早鬼を埴輪兵団を連れて追撃していた杖刀偶磨弓さえも畜生界まで下がらざるを得ない状況になっていたからだ。
修羅界攻略に入っていた驪駒早鬼だったが戦い争う苦しみに血を流し続ける亡者達は他の六道と違った。単純な話、強いのである。そこへその修羅亡者を率いる存在が現れたのだ。
早鬼と対峙しても一歩も退かぬそれに心躍った彼女ではあるが修羅亡者までもいるのだ。徐々に押し切られとうとう杖刀偶磨弓ら埴輪兵団と挟み撃ちになり仕方なく畜生界までの撤退を決意した。それでも殿を務め上げた早鬼は大したものである。
――――だが。結果的に畜生界へ修羅亡者と共にソレをも引き入れる事になった。
輝星めいた白い肌に黒曜石のような艶を持つ黒い癖のある長髪。豊かな胸部を覆う装飾のある被布に二の腕には多くの飾り紐の付いた腕輪を嵌めている。
腰から下には外套めいた腰巻布に袴、足袋、脛巾、臑当に貫と武者を思わせるような出で立ちだ。
腰巻布の上から前掛けが下がっており小北斗七星が描かれている。
けれど、何より特筆すべき異様な点がある。それは顔を覆う仮面である。大きくノーティカルスターが描かれた仮面によって表情は分からない。
しかし修羅亡者を引き連れるだけの実力はある。
この仮面の女の出現により修羅界を含めた六道より亡者の数が激増してしまっていたのだ。
修羅亡者の軍勢は畜生界を手中に収めたい饕餮にとっては痛い状況だった。それに何者かは分からないが驪駒早鬼と渡り合える実力を有している。何より激増してしまった亡者に流石にこれ以上血の池地獄を経由させ八千慧に戦力を供給している場合ではないと判断した。饕餮の直感がこれ以上は摩多羅隠岐奈のペナルティを買うラインだと告げているのだ。
そう結論付けた饕餮は埴輪をいくつか食らって神性を維持しそのまま持てるだけ埴輪を奪取して血の池地獄へ向かった。埴安神袿姫や驪駒早鬼には恐れをなしたと思われるだろうが、別にそれで構わない。むしろ血の池地獄に来る亡者を沈めて燃料にすれば儲けものではないか。反乱を起こした亡者だ。さぞや憎悪、怨嗟が溜まっているに違いない。血の池地獄のいい肥やしになってくれる。きっと良質な石油の一滴になる筈だ。元より閻魔の裁きを受けた連中だ。血の池に落ちた所で文句は出ないだろう。
笑いが止まらない中、急ぎ饕餮は血の池地獄へ急ぐ。血の池の経路を閉じれば地底にいる八千慧へ亡者の増援はできなくなるがそれでいい。騙し騙され、裏切り寝返りはお互い様だ。
無論、八千慧の方も既に畜生大連合を裏切っている事は饕餮には知る由もないが考える事は同じである。
血の池地獄へ向かう中、ただ一つ饕餮は気がかりがあった。
それは、あの仮面の女である。
――――あいつ。どこかで、会ったことがあるような。
そんな気が饕餮はしていたのだ。だがあんな仮面の女など一度会えば忘れそうにはない。となれば仮面の女と似た者と会ったことがあるということだろうか。
どちらにせよ、面倒事は驪駒早鬼と埴安神袿姫に押しつければいい。
同盟長、饕餮尤魔はこの事態においても強欲だった。
◆
仮面の女が齎した反乱軍第三波の影響は地底だけではなかった。地獄全域は元より中でも彼らの大半が向かったのはやはりというべきか三途の川だった。
反乱軍の第二波を凌いだ映姫達であったが第三波の到来に顔を顰めた。だが潤美や瓔花、村紗達と違い映姫と小町は別の意味で眉を歪めていた。それは第三波の亡者が修羅界から来ていたからだ。
「あれはまた、とんでもないのが来ちゃいましたね。修羅亡者とは」
第二波の亡者の首を狩り切った小町が呟く。その隣で映姫が険しい表情を浮かべている。
「阿修羅王達が手を拱いている筈はありません。となると彼らの邪魔をした存在がいるという事です」
修羅界に存在する阿修羅王は四人。
羅睺阿修羅王。修羅界第一層の光明城を根城にしている。
婆稚阿修羅王。第二層の双遊城を居城としている。
佉羅騫駄阿修羅王。第三層の修那婆の鋡毘羅城に鎮座している。
毘摩質多羅阿修羅王。第四層の不動の鋡毘羅城に腰を据えている。
それぞれ百千の眷属を持ち亡者を管理している。
映姫が懸念した戦闘神足る阿修羅王達を邪魔した人物。
実はそれは修羅界攻略を行っていた驪駒早鬼と修羅界第四層に現れた仮面の女であった。
修羅界での大反乱を主導したのは仮面の女であるが阿修羅王達の前に立ち塞がったのは驪駒早鬼だ。
アラディアの影響か最悪のタイミングでその二つが重なった。
無論その事を理解できている者はいなかったのだが。
しかしその結果が修羅亡者の修羅界脱出による大反乱を引き起こした。
畜生界、地底、そして地獄。
地獄の反乱軍は新たな軍勢を得、更なる混沌を齎していた。
「あれは骨が折れそうですねぇ。獄卒達も死神部隊も疲れてる中、相手をしなきゃなんないとは」
「愚痴ならタダですからいくら溢しても構いませんがやる事は変わりませんよ。三途の川を渡らせる事は何としてでも阻止しなければなりません」
「分かってますって」
小町の視線の先、彼岸の河原は修羅亡者の軍勢が今にも渡河を開始しようとしている。
元が修羅界を戦い抜いた亡者共である。戦闘神である阿修羅に与えられた苦しみと怒りによる戦闘苦行を繰り返すのである。
勝ち続けなければ苦しみが増していく。故に修羅亡者達は戦闘という行為だけが蓄積されていくのだ。
修羅亡者の一体が三途の川へ足を踏み入れる。
「さあ。賽は投げられました。行きますよ小町」
「はいはい。こうなりゃどこまでも着いていきます――――って! 四季様あれあれ!」
大鎌を肩に担いだ小町が振り返った先にいたのは伊吹萃香、魂魄妖夢、矢田寺成美、鈴仙・優曇華院・イナバ、そしてクラウンピースであった。
切れ間を通って白玉楼へ辿り着いたクラウンピースは萃香一行が殲滅した亡者の骸で彩られた道を辿りようやく妖夢と会う事ができたのである。
彼岸の河原を埋め尽くさんばかりの修羅亡者を目の当たりにして元月の兎である鈴仙、また地獄を知っている妖夢とクラウンピース、地蔵として死者の救済の役目を持つ成美はその光景に息を飲んだ。白玉楼を彷徨っていた亡者の比ではない。しかも戦闘行為に特化した修羅亡者である。
けれど。
たった一人だけ心を躍らせてその光景を見ていた者がいた。
――――伊吹萃香である。
「こいつはどうもやる気に満ちた奴らがごまんといるじゃないか」
萃香の姿を認めた映姫が彼女の前に立つ。
「なんだ、閻魔じゃないか。裁かれる筋合いはないぞ」
怪訝そうに見る萃香に、クラウンピースからは妖夢を見つけるまで時間が掛かった事に対する抗議が上がり、その妖夢からは幽々子の事を問われる。成美は地蔵から閻魔になった映姫へ羨望の眼差しを向け、鈴仙は穢れの権化とも言える修羅亡者に目が釘付けとなっていた。
手を上げ彼女達の発言を制止した映姫はそれらを棚上げし現状の説明を手短に行い、萃香を筆頭に協力を要請した。
萃香の能力――密と疎を操る力――は多くの応用が利くが映姫が期待しているのは能力を利用した分身だった。
修羅亡者に対するには同等の兵力が喉から手が出るほど欲しかったのだ。
話を聞き終えた萃香は口の端を吊り上げる。
「面白いじゃないか。閻魔直々に協力たぁ、滅多にお目に掛かれないなぁ」
「無論、善行とカウントさせて頂きます。私が裁く際には有利になるでしょう」
「いいねぇ! その口車に乗せられてやるよ。それにさ、奴ら、修羅界からやってきた亡者なんだろう? 阿修羅に鍛えられた亡者と戦えるなんて金輪際ないだろうしやってやろうじゃないか」
「協力要請を受諾して頂き感謝します」
「いいって。堅苦しいのは苦手なんだ。要は奴らをぶっとばしゃあいいんだろ」
肩を回しながら萃香は躍り出ていく。
――――そうして。力を解放する。
萃香の半分ほどの大きさで分身が次々と現れる。その数は修羅亡者にも匹敵するほどの群隊にまで広がった。
「さあ修羅界の亡者共よ。川を渡る夢は今、破れる。貴様らの前に立ち塞がるのは我が軍勢、我が群隊、我が百鬼夜行! 鬼の萃まるこの場所で、何人たりとも居れるものか!」
渡河を開始した修羅亡者達へ無数の萃香が向かっていく。
萃香の様子を見ながら小町が自前の小舟を使い死神部隊、獄卒達、それから村紗水蜜へ萃香の邪魔にならないように彼女の戦闘領域へ入らないようにと檄を飛ばす。
萃香と戦闘領域を交代したいくつかの死神部隊が陣地へ戻ってくる。流石に疲労困憊である。映姫としても休息を命じた。同時に陣地へ戻る部隊についていくように妖夢へ告げる。そこで幽々子が休んでいるからだ。幽々子に悪意汚染は見られなかったが能力の使用過多で倒れてしまった事を伝えると医療に心得のある鈴仙と二人で陣地へ向かった。その妖夢にクラウンピースもついていく。彼女は最初から妖夢を連れてくるようにヘカーティアから言付かっているのだ。残った成美には潤美と瓔花の加勢に入るように頼んだ。頷いた成美が戦線に合流していく。
一通り指示を終えた映姫も一息ついた。最前線で終わらない亡者の殲滅をずっと行っているのだ。けれど映姫が弱音を吐く訳には行かなかった。それは彼女の下についている小町を始めとした死神部隊と獄卒達に申し訳がないからだ。
だから決して弱音は吐かないし辛そうな様子は見せない。映姫がその姿を見せれば士気はぐっと下がる事は目に見えている。
己に喝を入れ、もう一度最前線へ映姫は向かう。
――――修羅界の亡者が何するものぞ、我は泣く子も黙る閻魔なり。阿修羅王の元へ送呈してあげましょう。
三途の川攻防戦はここにきて大きな山場を迎えていた。
だがしかし。
修羅界の亡者の軍勢よりも遥かに深刻な一報が映姫の元へ届けられた。
映姫は一度意味が理解できず、その報を届けた死神へもう一度訊ねた。
その死神さえも自ら報告に上がっているというのにまるで虚偽の報告をしているのではないかという面持ちである。
最前線へ向かおうとしていた映姫は踵を返した。陣地へ向かったクラウンピースへ会うために。
齎された一報は現場の混乱を避ける為に映姫を含む部隊を率いる長だけにしか伝わる事がないよう既に箝口令が敷かれていた。
映姫へ届けられたその一報は――――。
――――ヘカーティア・ラピスラズリのコキュートスから撤退という報告だった。
◆
妖怪の山を揺るがす鬼と神の戦いは山に住んでいる者達にとっては今後を左右する事態として皆、不安を抱えていたが、それとは別に気を揉んでいた者もいた。
春宮には華扇の救助した竹林の兎たちと同士討ちをした河童たちが収容されていたし、秋宮には主に天狗族が収容されていた。
前宮には蜈蚣族を割り当て秋姉妹を始め駒草山如や山城たかね達にそれぞれ手当を行って貰っていた。
本宮には現在諏訪子と天魔、華扇らが中心となって指示を出している。
その中で天弓千亦は自ら秋宮へ赴き回収された天狗達の介抱を行っていた。
神楽殿、幣拝殿を開放し多くの天狗が寝かされている。
だがそこに彼女――――飯綱丸龍はいなかった。
飯綱丸を始め大天狗達は社務所と斎館に収容されていたからだ。斎館の和室を一つ衝立で区切った所に飯綱丸は寝かされていた。衝立の隣には彼女の腹心である菅牧典がいる。
複雑な気持ちを抱えながらも負傷し手当を受けた飯綱丸を千亦は見つめる。
妖怪の山の為に、天狗族の為に立ち上がり戦った彼女。
かつて千亦は信仰心を、龍は天狗に利益へ齎す為に手を組んだ。共に利用し利用し合う関係であると分かっていた筈だった。
千亦にとって市場は神事の場でありそこへ集う者は信仰を齎す者達だ。
龍とっては市場は商売の場であり儲けを生む稼ぎ場に過ぎなかった。
だから最初から破綻する運命だったのかもしれない。
そうして最後は博麗の巫女たちに介入されてしまった。
けれど飯綱丸のお陰で市場を開く事ができたのも事実であり一瞬とはいえ賑わいを取り戻せたのも事実。そうして今、千亦はここにいる事が出来ているのだ。
龍と結託しなければ未だに燻り続けていたかもしれない。
神たるもの。儲けに走る龍に対してもう少し寛大な心を見せてもよかったかも、と思わなくもないのだ。彼女は彼女で天狗族に利益を齎す為だったのだし。今回の事でそれが良く分かった。
それがこれでは張り合いがないというもの。
次は龍の方から参加を申し出るような市場を開いてやる。
そう思いながら千亦は彼女と天狗達の介抱を買って出ていた。
強かな天狗達だ。鬼が勝とうが神が勝とうが山での立ち回りはそう変わるまい。むしろその振る舞いこそ千亦が参考にすべきなのかもしれない。千亦にとって開かれた市場は神事、祭事であるけれど訪れた人々は何か掘り出し物を探しに来て満足できるものを手に入れる為に来ているのだから。
欲しいものを欲しいだけ。
流通を回してこそ市場の神だ。千亦がオーガナイザーだとしたら龍はプロモーターである。
人を揃えて、人を集めて、それで初めて市場は完成する。
千亦に足りなかったモノ。
それが龍を通してようやく――――分かったような気がした千亦はふっと笑みを溢していた。
天弓千亦が飯綱丸龍の介抱を行っていた頃、兎と共に救助され本宮の左片拝殿に収容されていた橙が拝殿通路を隠れるように進んでいた。目に見えた負傷こそ無かったが悪意に汚染された天狗に強く拘束されていたのだ。本宮へ移動し悪意を祓われ軽く手当も受けた彼女だったが黒い穴から落とされた金色の卵の中より生まれた妲己の姿を見て大きなショックを受けた。
乗っ取られた藍の姿は余りにも禍々しく余りにも痛々しく見えた。それからほどなく山の実力者たちと死闘を繰り広げ、地底から現れた星熊勇儀に山裾へ投げられた。中身が藍ではないとはいえ、その肉体は藍の物だ。どうにか取り戻そうと橙なりに考え、悪意を防ぐためには御守りか神札が必要であるらしい事を知り得たまでは良かった。諏訪子に訊ねた所それはどうも社務所にあるようだ。
――――が。
天魔と華扇に全力で止められた。天魔には天狗の所業の謝罪も貰ったが妲己の付いている九尾を追う事は危険だと制止され、華扇からも神社の神域から出るには確かに神札か御守りが必要だが数に限りがある点と橙一人で妲己をどうにかできる算段もない以上大人しくしておくようにと釘を刺されたのである。
しかしそれで引き下がる橙ではない。橙は藍の式なのだ。主の緊急事態に手を拱いているつもりはないのだ。
社務所に忍び込めれば御守りか神札を二つほど借りるだけだ。とはいえ社務所と続いている斎館に月の使者と永遠亭の面々が籠っている所為で一部の天狗が目を光らせている。社務所に侵入しようものなら監視役の天狗から天魔へすぐに声が掛かるだろう。
そこで橙は拝殿通路を回り参集殿の方から社務所に入ろうとしていたのである。そしてその考えは運がいいのか悪いのか、功を奏してしまった。本宮に避難したほとんどの者達が鬼と神の戦いへ目を向けていた事も味方した。
そうして橙は人知れず――――実は諏訪子は勘付いていたが――――社務所から神札を失敬し、妲己が投げられた麓へ飛び出していった。
橙の下山を把握していた諏訪子は彼女が上手く下りられたタイミングで華扇と天魔にそれを告げた。
天魔は溜息を吐き、華扇は呆れていた。勇儀から相当なダメージを受けたと言えども九尾の妲己から藍を取り戻すのは厳しいと言わざるを得ない。ましてや橙一人では。
やれやれと嘆息した天魔が文に訊ねる。それは千里眼を持つ犬走椛は出撃できそうか、という事。
言われた文は秋宮へ確認を取るべく飛び去った。
それから五分も経たない内に戻り、出撃が可能である事を告げた。それを聞いた天魔が諏訪子へ神札を一体預けてもらえないかと頭を下げる。
橙の下山を容認した事もあって諏訪子はすんなり神札を預けてくれた。そしてもう一度文に秋宮へ神札を持って向かって貰い、橙を見つける事、その監視を行い、単身妲己に挑むようであればその援護及び橙を連れての撤退を命じるよう言付けた。
再び大きく溜息を吐く天魔はまるで一回りも二回りも老け込んでしまったかのような気がしていた。山を巡って天狗族が悪意に振り回され、天魔自身も勇儀と戦い、決して軽くはないダメージを負っているのだからある意味当然なのかもしれない。
それに。
天魔と交代し勇儀と死闘を演じる事になった神奈子を見ると余計に精神的な負荷が掛かっているように思えてならない。
確かに天魔よりは勇儀を相手に戦えていると言えるだろう。それは実際に戦った天魔が良く分かっている。天魔はとにかく勇儀の拳を躱し、避け、僅かな隙を突いてダメージを与える戦法を取っていたが神奈子は違った。真正面に立ち塞がり、打ち合う事こそしてはいないが勇儀の拳をいなし直撃のみを避けている。しかしそれでも勇儀へ明確なダメージが入っているようには見えず、むしろ押されているのは神奈子の方に思える。交代した手前ではあるが神奈子が下されては困るのだ。鬼が去った後、天狗は上手く山を運営してきた。そのつもりだった。だからこそここで勇儀に屈したならば彼女の道理が正しかった事になる。
故に後を託した神の敗北は非常に困る。
そしてそれは隣に立つ華扇も同じようで、眼下の戦いを厳しい表情で眺めている。地底から現れた鬼が妖怪の山を制する。
その事実は地上の妖怪のパワーバランスを崩壊させる事になりかねない。だから華扇も息が詰まるような状態なのだろう。
だが。ただ一人あっけらかんとして見ている者がいる。
誰であろう、守矢の真の祭神こと洩矢諏訪子だ。
危なそうな場面でもぎりぎり避けた事に感嘆したり隙を突いて放った拳が当たってもダメージが入っていない事に――なかなかやるねぇ――などと完全に他人事で見ているのである。
「諏訪子様。八坂様が押されているというのに、随分余裕があるのですね? 何か別の策でも御有りで?」
第三者として観戦している守矢の祭神へ焦る気持ちを抑えて天魔が訊ねる。振り向いた諏訪子の調子は変わらず少しも悩む素振りもない。
「うん? ないよ? う~ん、そうだねぇ。神奈子が押し切られちゃったら、まあ。不味いかもねぇ」
「そんな悠長な事を言っていていいのですか?」
天魔へ加勢するように華扇が厳しい視線を向ける。
「地底の鬼が地上の妖怪、天狗を制圧する事は力の均衡を崩しかねないんですよ? 八坂様に加勢をするべきでは?」
「といってもねぇ。私が加勢してもねぇ。ほら私って神奈子に一度敗れてるし?」
おどけた様子で肩を竦める諏訪子に華扇の加勢を得て天魔が続けた。
「失礼を承知で述べますが八坂様は国譲りにて服従した過去が御有りだ。それも御自身が仰れた通り随分惨めな結果を残されている。その八坂様一人では……」
「ふ~ん。神奈子一人だと荷が勝ちすぎているって言いたいんだ、天魔は」
「いえ。そうは言っておりませんが、現状厳しいのは確かでしょう」
「そうだねぇ。国譲りを引き合いに出されちゃあね。ま、そうかもしれないけど」
「なればこそ諏訪子様が加勢なさるべきでは?」
眼下の戦いを一瞥した諏訪子は天魔へ向き直る。それでも焦った様子はない。しかし一瞬鋭い視線で天魔を見据えた。すぐに表情は戻ったがその一瞬を天魔は見逃さなかった。
果たして今の顔は一体、そう思うのも束の間、諏訪子が口を開く。
「それはまあ、考えるけどさ。所で天魔は、それと華扇もだけど」
一旦言葉を切った守矢の神は全く関係のない話を続けた。
「二人はさ、何か勝負事があったとして。目の前に神奈子を祀った神社とタケミカヅチを祀った神社があるとしたらどっちに武運を祈願する?」
彼女が一体何を言っているのか天魔も華扇も首を傾げざるを得ない。けれど決して巫山戯て言っている訳ではないのは分かる。それでは何か意図をもって訊ねているのは間違いない。
天魔にしても華扇へ顔を向けるが互いに諏訪子の意図を掴めずにいる。となればまずは諏訪子の問に答えるべきだろう。
やや思案した後に先に口を開いたのは天魔だった。
「言いづらい事を言われますな、諏訪子様は」
「まあまあ。どの神様に祈願するなんて自由なんだからさ。好きに選んでよ」
「ならば、私は、まぁ。タケミカヅチ様に参るでしょうか」
「うんうん。いいね。――――じゃあ華扇は?」
華扇は二人のやり取りをじっと見た上で諏訪子を見つめる。
「おそらく何か、考えがあっての質問なのは分かるのですが。まあ敢えて言うのならば私も天魔と同意見になりますね。少なくとも今は」
「ん? 今は?」
「ええ。実際に参るとなれば勝負事の種類にもよりますし八坂様とタケミカヅチ様の神徳にもよるでしょう」
「まあそれはそうだよね。じゃあ天魔はどうしてタケミカヅチを選んだの?」
「と、言われましても国譲りの話を知った今となっては、験を担ぐにはタケミカヅチ様の方が良いかと」
「だよねぇ。天魔の言い分も華扇も言い分も正しいよ。どうせ参るなら勝った方に祈願するよね。で。それは昔の人間も同じだったんだよね」
再び眼下の戦いを眺めて諏訪子は言う。
「タケミカヅチって国譲りの後は常陸の国に鎮座して鹿島の神宮で祀られたんだよね。それで鹿島の神様にあやかりたいって人間は多くてね。日ノ本中に勧請されたんだ。鹿島の信仰――――その数は六百以上の社にね。摂末社も含めれば千は超えるんじゃないかなぁ。すごいよねぇ。たった一柱の神様がそこまで崇敬されるってさ。私からすれば羨ましい限りだよ。私は土着神の頂点にはいるけどトップに立っているだけで多くの場所に祀られたわけじゃないからね」
「――――では」
口を開いた天魔を諏訪子は手を上げて制止した。まだ話は続くらしい。
「まあ待ちなよ。確かに人間達はタケミカヅチにあやかりたいって勧請したわけだけど神奈子だって決して少ないわけじゃないんだよ。この私に勝ってるわけだしそれは当然なんだけどね」
「といいますと、八坂様は五百、多くて六百あたりでしょうか? 確かにそれでも十分な数と思えます」
「惜しい。ちょっと違うねぇ。神奈子は私の国を引き継いで信仰を増やしたから諏訪の信仰と言われるんだけど神奈子を勧請して諏訪の信仰にあやかりたいって社はね――――」
諏訪子は笑顔を浮かべて言った。
「その数――――二万五千社以上」
なんと諏訪子は言ったのか。
天魔も華扇も理解ができなかった。
タケミカヅチが全国で六百以上。
それは理解できる。国譲りの結果からすれば勧請したいと思う社が多いのも当然だ。
だが神奈子が全国で二万五千以上。
桁が違うではないか。これが逆なら理解もできよう。しかし服従を示した神奈子の方が圧倒的に多い。
「――――は?」
と、天魔。
「――――それはどういう事です?」
どうにか華扇がその理由を訊ねられた。
「簡単な事だよ。国譲りには続きがあったってことさ。ま、その続きは綴られる事はなかったんだけどね。詳細が知りたいなら竹林の案内人か聖徳王に聞けば分かると思うけど。ただ本当の、全ての決着は荒船山の決戦で決まったんだ。それを知る者は少ないけどね」
――――荒船山の決戦。
それは餓える民達を食わす為に海に出られる関東へ神奈子が侵攻しそれを迎撃する為に鹿島のタケミカヅチと香取のフツヌシが出陣し荒船山を舞台に繰り広げられた神戦である。
諏訪子は神奈子が侵攻した事を知っている。だが諏訪から出ないという約定を持った神奈子は諏訪子との共同名義である諏訪明神を名乗り戦ったのだ。
そうして三軍神の仲裁役として送られたのがオオクニヌシから国を譲り受け日ノ本の総督とも言える立場にいた、あのニニギだったのだ。神奈子がいかに激戦を仕掛けたのか推して知るべしである。
荒船山の山中には皇朝古修武之地という石碑が建立されている。そして荒船山の長野側――佐久市にある荒舩山神社里宮に祀られているのはタケミナカタであり、荒船山の群馬側――下仁田町にある荒船神社里宮の祭神はフツヌシである。荒船山で行われた国譲り最後の決戦の名残を今でも見て取れるのだ。
結果、鹿食免を勝ち取った神奈子は要求を押し通した訳だ。
帰還した神奈子は諏訪子に言ったという。明日から獣、野の物を狩って食べてもよくなった、と。
食べられる物が増えて民は餓死をせずに済んだ。それを民は憶えている。子々孫々と伝え残している。例え惨めな歴史を刻まれたとしても民の為に戦い食べられる物が増えた事で生きられた者は知っている。
神奈子が二柱の軍神を相手に戦って要求を押し通した事を。それがその民たちの真実。だからこその信仰数。
「ちなみになんだけどね? 私ね、外の世界にいる時に調べてみた事があるんだよねぇ。うちは諏訪信仰を民に広めたんだけどさ。一番信仰されているのってなんだろうってね。一番は八幡神の八幡信仰だったよ。で、気になったから次も調べてみたんだよね。二番はまあ、当然といえば当然のアマテラスの伊勢信仰。三番が天神の天神信仰。それで四番は神奈子の親戚になるのかな? ウカノミタマの稲荷信仰。五番も親戚というか始祖? スサノオとイザナギ、イザナミの熊野信仰だったんだよねぇ」
うんうんと懐かし気に語る諏訪子はさらに続ける。
「それでさ、ここまで調べたらうちはどれくらいなのかなーって気になるじゃない。そしたら吃驚しちゃってね。なんとなんと六番目がうちだったんだよねぇ。神奈子の信仰病も大したもんだよねぇ。だってさ八幡神は……ま、いろいろあって今は応神天皇だし天神も菅原道真でしょ。どっちも人からの神格化だから、となると神代からの神で神奈子の上にいるのってアマテラス、ウカノミタマ、スサノオ、イザナギ、イザナミになるんだよねぇ。ねえ。本当に弱かったならこんなことになると思うかい? なる筈がないんだよ。だって庶民がいくら字が読めなかったりあるいは読む機会がなかったとしても勧請するのは神主や宮司だからね。彼らは知ってたのさ。神奈子――――タケミナカタが本当は強い神様だってことをね。その点で言えば中臣一族や藤原不比等の思い通りにはいかなかったってワケ。彼らの信奉神はタケミカヅチだからね。悔しかっただろうねぇ。ま、現代の人間はこれだけの信仰差がありながらもあの惨めな国譲りの顛末だけでタケミカヅチを強いって思ってるんだから時を超えて中臣一族の悲願は達成したのかな?」
諏訪子の表情を見るにどうやら彼女は神奈子に対し全幅の信頼を置いているようだ。
「……解せませんね。それだけの信仰がありながら、何故幻想郷へ?」
怪訝な顔を浮かべて華扇の視線が諏訪子を見据えた。
当然の疑問だよねぇ、と諏訪子は苦笑を漏らす。
「まあ。認めたくないけど。私の為……なんだろうねぇ」
何処か哀愁めいた面持ちで守矢の祭神は答える。
「私はさ。外の世界ではもうほとんど信仰が得られなくなってね。時代が移ろいでいって諏訪明神といえば、それはもう神奈子だけを指すようになってったのね。私の事でもあったんだけど私だと思われなくなった。まぁ。人間達の成長だと思えば神様を引退するのもやぶさかじゃないかなぁ、なんて思ってたんだけどね。だけど神奈子はそれを認めたくなかったんだよねぇ。だから幻想郷に引っ越してきた。――――神奈子はさ、普段えっらそうにしてるけど、ああ見えてそりゃもう超弩級のバカなんだよねぇ」
懐かしむように語る諏訪子の声音はどこか優しさが籠っている。
「昔。遥かな昔に神奈子は私の国を奪ったよ。日ノ本をアマツカミ、大和の名の元に統一する為に。その神奈子だって国を明け渡して大和に組み込まれて大和の神としてうちに来た。どんな気持ちだったのか聞いた事はないけど、今でも覚えてるよ。もうこれ以上は国が持たないから私は降伏の使者を送った。全ての民に武器を捨て戦闘行為の停止を呼びかけ敗戦を表明した。後は私の首一つで全国民の安全を保障してもらえるかどうかだけ考えて降伏調印に向かったよ。そしたらさ信じられるかい? 勝ったっていいうのに今にも泣きそうな顔した小娘が立ってたんだよ。まるで勝ったのは私で負けたのが神奈子なんじゃないのってくらいの顔でさ。淡々と戦後の統治について語って私にはあれこれしてもらうって言うだけ言ってすぐにいなくなるし。あの時は困ったよねぇ。――――でも。本当はさ、たぶん謝りたかったんじゃないのかなって時々思う事があるんだ。まあ、立場上それは口が裂けても言えないんだろうけどさ。それからしばらくして私の娘がさ神奈子の息子と結婚する事になって、ますますコイツ何考えてんのかな、とか思った事もあったし。自分の子供を敗戦したトップの娘と結婚させるか、普通ってね。そのお陰で家族になっちゃうし当時は理解に苦しんだなぁ。多満留もなんでよりにもよって神奈子の息子に惚れたかなぁ。あ、多満留って私の娘なんだけどさ。言いたかないけど神奈子って黙ってれば美人でしょ? だから息子も結構な男前だったんだよねぇ。しかもなかなかに人当たりもよかったし、神奈子からアレが生まれたってのが信じられないくらいだったよね。そりゃあまあ多満留も惚れちゃうよね。それをさ神奈子の奴、歓迎してるわけ。それから、いろいろ。本当にいろいろあってどんどん変わってってさ。人間達が神様より科学とか情報とかを信じるようになって諏訪の信仰は相変わらずだけど私みたいな土着の神は忘れ去られていったんだよね。私はそれでもいいかって思ってたけど。神奈子はそれを認めたくなかった。アイツはさ、きっと今でも私に負い目を持ってるんだ。流石に私ももう気にしてないっていうのにね。あのバカはずっと抱えてるんだよ。あの戦いだって不本意だったんだろうね。だから幻想郷に来た。ここでなら再起ができるって考えてさ。お陰でセカンドライフを楽しんでるけどね。外の世界の信仰より私を優先したんだよ、日ノ本第一の軍神様はさ。でもま、それを莫迦な事をしたな、とは思ってないよ。だっていくら幻想郷が結界で隔離されているとはいえ、日ノ本の一部であることは変わらない。八雲紫が結界を張るまで、それから博麗大結界が創られても、ここの人間達の中には古の神々を憶えている、知っている者は必ずいると思ってたからね。だから私達が移り住んだ時でも信仰が零よりも減る事はなかった。そういう所は抜け目なく考えてるんだよ、神奈子はさ」
しみじみと守矢の神が語る中、ある事に気づいた華扇が神妙な表情で諏訪子を見ていた。
「――――諏訪子様。先ほど八坂様を諏訪明神、と言いましたね?」
「ん? そうだね。あれは神奈子も良く思いついたよねぇ。共同名義を作る事で私への信仰も神奈子が得た信仰も共に恩恵を受けられる。ま、基本は神奈子が国の外へ出る際に使うのが主だったし、時代が下っていくと神奈子だけを指すようになっちゃったけど」
「八坂様が……諏訪明神……」
神妙な表情が深刻なものへ変わっていく華扇にただ事ではないと天魔が声を掛ける。
「華扇様……?」
そこで華扇は気づく。
神奈子が出て行った時、勝算がないわけじゃないと言った意味。
華扇は眼下で繰り広げられる戦いを見る。
その視線の先――――勇儀の姿を。
「――――勇儀ッ……!」
華扇が気づいた事実。
それは。
諏訪明神ことタケミナカタ、引いては神奈子は。
――――鬼殺しの術を持っているという事。