偽書 第18.8弾 東方禍福宴~The world of justice and evil. 作:加賀アスナ
第24話
風向きが変わった。
それを肌で体感していたのは星熊勇儀だった。先ほどまでの戦闘で勇儀にダメージはほとんど入っていない。
怪力乱神の力とは相手が勇儀を理解できていなければ彼女から受ける力は超常的なまでに跳ね上がる。
そして同時に。
勇儀へダメージも通らない。理解できなければ攻撃は一切通らない。ただでさえ鬼は強大な力を持つ。その上に怪力乱神の力と来ては何者もダメージを与えられない。
その勇儀が眉を歪めた。
――――何かが変わったねぇ。私相手にここまで保ったのは流石に神か。それは認めるがねぇ。
それでも。
肉体へ通るダメージがないのなら意味はない。
「――――素直に称賛するよ、神様。ここまで戦えるとは思ってなかったよ。だがね、アンタにこれ以上の手がないなら、勝ち目はないよ」
息が上がっている神奈子を見据え勇儀は言う。
その神奈子は直撃こそ受けていないがダメージは結構なものだ。しかし表情には笑みが零れている。頬を伝う汗を拭って大きく息を吐く。
「いいえ。風向きが変わったわ。ようやく同じ土俵に立てた」
「なに?」
「人間に言わせれば私は相撲の神様でもあるらしいわ。同じ土俵で戦うからこそ通る話もあるということよ」
「――――何が言いたいんだい?」
「貴方は意地を通す為にここにいる。それも正面切って堂々と。ならば搦め手で足を掬った所で遺恨が残るだけ。貴方を真に止めるのなら同じ土俵に立って戦う時だけでしょう。だって――――鬼に横道はないのでしょう?」
まさか神からその言葉が飛び出るとは。
鬼の正道を神が説くとは。
これを笑わずにいられようか。
――――ああ。こんなに愉快なのはいつ振りだろうか。
「貴方は最初から言っていたわね。怪力乱神、と。……全く。厄介な事この上ない力ね。しかも鬼の貴方が持っている。こちらの手は通らないのに貴方からは通る。本当に厄介だったわ」
「それで? 降参って白旗でも上げるのかい?」
「まさか。言ったわよね。同じ土俵に立ったと。――――怪力乱神。ようやく理解したわ。貴方はこうして話せる口を持っているけれど、貴方の拳はもっと饒舌だったわ。何に諦観したのかは知らないけれど随分と、悲しい拳ね。態度からは感じ取れなかったけれど拳は嘘を吐かないからね。意外と不器用なのね貴方」
神の言葉に鬼は息を呑んだ。今の今までこの神は鬼を――勇儀を理解する事だけを考えて戦っていたらしい。おそらく語っていることは本当であろう。怪力乱神の力は理解される事で突破される。風向きが変わった事はそれを表している。
――――思えば。
怪力乱神は人知では計り知れない事だ。だが目の前にいるのは人ではない。神である。なれば説明できないような理不尽な力にも、理屈の通らない不条理な力でも把握し認識できるのかもしれない。受けた拳を介して勇儀の心の一端に触れてくるという御業を見せたのだから。
「――――本来なら怒るのが筋なんだろうけどさ、あんた相手だとそんな気にもならないな。不器用か、まあ私にもいろいろあるのさ。鬼が悩みを持ってたって不思議じゃないだろ?」
「ええそうね。その通りだわ」
「で? これからあんたは何を見せてくれるんだい?」
「ああ。私はこれから鬼狩りを始めるよ」
勇儀の双眸が眇められる。随分と懐かしい言葉を耳にした。
鬼狩りとはまた。
「私相手に鬼狩りとは、大きく出たな神様。それが嘘じゃない事を祈ろうかね」
人間達にはその言葉で何度も騙された。真剣勝負の鬼狩りではなく姑息な手段で首を斬られた鬼をずっと見てきた。
「安心なさい。鬼神は邪無しというでしょう」
――――かつて。
神奈子は諏訪明神として鬼を討伐した事がある。
しかし。
鬼狩りの技は多くあれど神奈子を代表するならば、それは。
「これより祭事を始める。――――御射山御狩神事を」
神奈子自身のスペルカードの名にも付けた神事。
その祭事は奥州で猛威を振るった悪鬼、悪事の高丸を討伐した事が起源となっている。
時の帝から高丸の討伐を命じられた将軍へ神奈子が手を貸し、高丸を射落とした事が決め手となり将軍に止めを討たせたのだ。
そして神の恩に報いる為に始まったのが、この。
――――御射山御狩神事なのだ。
どこからともなく諏訪梶の葉が舞う。
「構えた方がいいわ」
「忠告痛み入る。だがね、それは私の流儀じゃない」
「そう。流石は鬼、ねッ!」
無数の鏃が出現し雨の如く勇儀へと降り注ぐ。
正面から打ち破るのが鬼の是。受けきってみせよう。
鏃に向かい地を蹴る勇儀は腕を振るって弾き飛ばそうとする――――が。
刺さる筈のない鬼の肌に。
「――――づッ!?」
焼けるような熱さ。
それは己が流した血の熱さだと久方ぶりに実感する。
怪力乱神を理解された事は本当だったらしい。理解されるはずのないそれを理解されてしまった。
――――なるほど。これが神の鬼狩りか。どうやら嘘ではなかったようだ。
「ああ。いいねぇ。これはいい。駄目になるまでやろうじゃないか!」
能力は突破された。
だがまだ鬼としての力が残っている。
同じ土俵に立ったと神は言った。確かにその通りだった。
懐かしい痛みに心が高揚する。
そうだ。
この痛みこそ待ち望んだもの。記憶の彼方にしかない真剣勝負の戦場だ。
「そうね。それもいい。鬼の意地、見せてもらおう!」
愉快だ。
鬼の言葉にこの返し方。真剣勝負とは――――こうでなくてはならない。こうでなければ面白くない。
拳を握った勇儀と神奈子が再び激突する。
しかし今回は神奈子はいなすことをせず打ち合った。拳と拳がぶつかりそれだけで衝撃が走る。大地が抉られ、空気が揺れる。
「能力に頼らず、この力ッ! 見事……!」
「良く受け止めたッ! 全く驚かされる事ばかりだよッ!」
「ええ、鬼の身でここまでとは。――――けれどね、アレを引き合いには出したくはないけれど、タケミカヅチにはまだ届かないッ!」
続けて神が振るった拳を鬼は受け止める。
軍神の本領発揮か、それは守らなければと鬼が思うほどの力。
しかも彼の雷神と比べられ、届かないと評される。だが勇儀はそれを誉め言葉として受け取った。
タケミカヅチといえば高天原のアマツカミの中でも最も強いと挙げられる神の一柱である。
そんな神を比較の対象にしなければならない事自体がいかに勇儀の力が規格外であるかが窺える。
「彼の雷神と比べられるたぁ、私の力も捨てたもんじゃないらしいねぇ!」
「ええ! 鬼狩りの技がなければ貴方には毛筋ほどの傷もつかないでしょうね!」
裂帛の気合と共に両者の拳が繰り出される。もはや策も謀略も必要のない単純で愚直な真っ向勝負。
鬼の意地と神の威厳の壮絶な衝突。
ただ一撃でいい。
相手を黙らせる事が出来る、会心の一撃を。
己の持てる力を込めて、何打交わし合ったのか。それを見ている妖怪たちは妖怪の身であっても果たして両者の応酬についていけるものかと思う事すらできなかった。
一度振り抜けば大地を穿つ鬼の拳を寸での所で避け、鬼の躯を貫く神力の宿る御柱を撃ち放つ。低い体勢から御柱の側面を蹴り上げ、続く第二の御柱を半身ほど躱してこれまた側面を殴りつけ、四方八方から降り注ぐ神聖な柱を悉く力づくで弾く。
それらがほんの数舜で行われ、何度目だろうか両者は互いに肉迫し拳を交わし合う。何十、何百と打ち込み合う。
急所となる部分を絶妙に避け、受けたダメージを流し、そのまま踏み込んで何度も渾身の一撃を加える。
地は鬼の威容に平伏し風は神の掌で唸る。もはや誰にも介入を許さない二人だけの世界がそこにはあった。
純粋な力の奔流が具現している。
さながら神話の再現――――否、新たな神話の発露だ。
この戦いを見た者が後に語るだろう。伝えていくだろう。
それは当事者である二人もまた感じるほどの境地。
もはや言葉はいらない。拳が語り、体が叫ぶ。
まだ戦える。まだ相手は立っている。
再び十、百――と交わし合った拳はまだ相手を大地に沈めるまで届かない。
――――これが軍神……独立不撓とはよく言ったもんだ。
目の前の神が倒れるビジョンが浮かばない。だが。だからこそ倒し甲斐があるというもの。焦燥はない。しかし心の奥に擡げてくる感情がある。明らかに不要だと分かっているのにそう思わずにはいられない。
勇儀が驚嘆を感じているのと同時に神奈子もまた感じていた。
――――鬼の四天王……力の勇儀。見事に体現している二つ名ね。
己の拳一つでここまで世界を相手にできるとは。それは素直に称賛せねばならないだろう。奇策でもない。呪術でも魔術でもない。単純な実にシンプルな事。己が体で大地に刻み天空へ叫ぶ。
そうして我を張り、ここにいる。立ち塞がる者を踏み越えていく。ただそれだけの事。そんな相手を前にしているのだ。決して退けない。手も抜けない。全力で応える事こそがそれに対する唯一の礼儀。
何度目かの距離が開いた両者は――それでも戦意は一向に落ちる事はなく、むしろこの段階に於いて最高潮ともいえた。
次はどう動く、どう捌く、どう躱す。何処に打ち込む。
極限の中で相手を測るそれはある種の未来視の領域まで高められていた。それは八意永琳があらゆる可能性を予測して未来予知をしてみせたのとは逆に直感的に把握する、言わば戦う者の超感覚によって理論を超越して齎されたもの。
ひりひりと肌を焦がすような圧を受ける神の双眸。
いつの世も人間達の前に立ち塞がった鬼の威容。
これこそ鬼が戦うに相応しい真剣勝負。
なんと楽しいのだろう。これほど充実した時間はない。
――――だから。
それが分水嶺となった。
既に抉れて久しい大地を渾身の膂力で跳び出した両者は互いに拳を振り被り――――。
勝負の帰趨が決した事を彼女はさも当たり前のように受け入れた。
全身に突き刺さる鬼殺しの鏃。
長い事流した事のない血に全身が濡れている。
懐かしい戦場だ。記憶の彼方にある人間達との真剣勝負。
地上で君臨した妖怪達の頂点に立ち恐れられた鬼の。
そのかつての夢を夢見て、今。
妖怪の山で星熊勇儀は笑っている。
「ああ。これを……これを求めてたんだ、私は――――」
口から血を吐き出す。
下っ腹を突き抜けた軍神の拳。
会心の、一撃を受けてしまった。
「貴方――――楽しもうとしたでしょう」
冷静に告げられる神の声。
そう――星熊勇儀はこの戦いに楽しみを見出してしまった。
もしかしたら今後二度とないかもしれない戦いに。
――――鬼とは。
人間達の前に立ち塞がる最強の妖怪である。
そんな鬼に対抗する為に人間は祈り縋った。
人外に対する加護を。外敵を討ち滅ぼす力を。
それが鬼狩りの力が籠った刀であり、神便鬼毒酒であり、文字通り神仏の加護。
そうだ。人間達へ味方していたのはいつだって神や仏だ。
なればこそ。
星熊勇儀の前に八坂神奈子が立ち塞がったのはきっと必然だったのだ。
「あぁ……悪い癖が出ちまった、ねぇ」
鬼が地上を去ったあの瞬間を勇儀は今も憶えている。
ぼんやりと脳裏を掠めるその光景に寂謬の念が広がった。
あの時。
人間達が縋るべき存在である博麗の巫女は世代交代の最中で不在。妖怪の賢者である八雲紫は冬眠中で摩多羅隠岐奈は後戸の国から出てこない。
人間が加護を求める存在がなく、妖怪を諫める賢者も不介入。
だから人間達は騙し討ちに走ったのだ。鬼との真剣勝負を止めて嘘を嫌う鬼を確実に葬れる騙し討ちへ。
――――もし。
もしもあの時、人間達が縋れる神がいたのならば――――。
「…………なあ神様。どうしてもっと……早く幻想郷に来てくれなかったんだ……。そうすれば、私達は……地上を去ることはなかったのかもしれないってのに……」
神奈子の鬼狩りは本物だ。
鬼に対して容赦がない。これなら人間達はきっと救いを求め、加護を得て鬼との真剣勝負を続けただろう。
気づけば辺りがとても静かだ。会心の一撃を受けた際にこれ以上なく神力が全身を駆け巡った。それは勇儀を蝕む悪意をも浄化して、今も身体が言う事を聞かないでいる。しかし鬼の意地は貫いた。仁王立ちで立ち往生なら十分だろう。
「でも。こんなに楽しかったのは随分……久しぶりだったねぇ」
「そう。良かったわね。けれど楽しい時間というのは限りがあるものよ」
「名残惜しい……ってのはこういう時に言うんだろうねぇ」
だがいい夢を見させてもらった。もう夢想することはない。
深く、深く息を吐きだして真っ直ぐに神奈子を見据えた勇儀は言った。
「あんたの勝ちだよ。この首、持っていけ」
ここまで楽しんだのなら文句など有ろうはずがない。
日ノ本第一の軍神の鬼退治とあればずっとずっと語り継がれていくに違いない。その伝説の中で星熊勇儀の名は燦然と大軍神を追い詰めた鬼の名として輝くだろう。
しかし――――神は首を振る。
「人間ならそうかもしれないけれど。生憎と鬼の生首を捧げられてもうれしくないわ。それに――――」
言葉を切って神奈子は勇儀へ向き直る。視線が交差する。そこにはただ全力で戦った者同士しか分かり得ない空気を湛えていた。
「貴方はもっと早く来てほしかったというけれど、私は今で良かったと心底思ったわ。だから礼を言わせてもらう。私は――――私は今度は間違わなくて済みそうだから」
勇儀には分からない。鬼が素直に敗北を認めたというのに礼を言われる意味が。だから神奈子が次の言葉を発するのをじっと待つ。そこに答えがあるはずだと考えて。だが飛び出た言葉はまたも理解が追い付かない言葉だった。
「貴方は――――まるで鬼王のようだったわ、勇儀」
と、神は言ったのである。
神奈子は読み聞かせるように語った。
その昔。ある鬼を討伐した時の話を。
鬼の名は官那羅。鬼王、官那羅。
人の遊びを良く知る粋な鬼だったという。特に鬼の秘宝の雲化の笛で奏でる音色は見事なものであったという。
ある時である。貴族であり歌人でもある在原業平がその笛の噂を聞き官那羅の元へやってきた。業平は笛の名手でもあり、雲化の笛を借りて秘曲を吹いた。官那羅はそれを物静かに聞いていたらしい。やがて夜も更けてきて鶏の鳴き声が聞こえる頃になった。そろそろお暇するので笛を返して欲しいと官那羅は言ったそうだが業平は返すのが惜しくなり自分の笛とすり替えて渡した。しかしそれが雲化の笛ではない事は一目で見破られる。業平の態度を不信がった官那羅だがとうとう鶏が鳴いてしまったので笛を預けたまま官那羅は帰ってしまった。まんまと笛を手に入れた業平はそれを帝へ献上した。
しかし官那羅も黙ってはいない。帝に対し鬼王が代々伝えて来た秘宝の笛であるので返して欲しいと内裏を訪ねた。
だが。
笛を惜しいと思った帝は返さなかった。
官那羅は怒り、都で暴れ大被害を齎しその上、帝が寵愛していた后を二人捕えて戸隠山へ帰ったのだ。帝はすぐに鬼王追討の勅命を下した。命を受けた将軍は信濃の戸隠へ向かった。
将軍はその道中、武者支度をしていた神奈子と出会う。話を聞いたところ鬼王の討伐の勅命で戸隠へ向かっているという。戸隠は信濃国の山だ。力添えを申し出て戸隠山の鬼の城へ将軍と共に向かったのである。
そこで真の姿を見せた官那羅と戦い、これを捕縛した。都へ上洛し官那羅は三条河原で斬首される事になるが斬った傍から首が治ってしまうのでそこで神力を働かせ再生することなく斬首させたのだ。
将軍は世話になった諏訪明神こと神奈子へ感謝したという。
だが。
後で何故官那羅が討伐される事になったか、全容を知り神奈子は多いに悩んだ。
鬼の秘宝の雲化の笛。
それを欲した人間が騙し取り、その報復で都に被害を出した官那羅を討伐するよう命を出す。
そもそもの話は人間の欲から始まっている。将軍は追討の命を受けただけで詳細までは知らなかったのだろう。都に被害を出した鬼の退治を命じられただけと思ったのだろう。
果たして。
鬼王官那羅の討伐は正しかったのだろうか、と。
人の遊びをよく知り、女遊びも、芸事も楽しんでいたという。
特に笛は名手と云われるほどだったという。
ずっと。
それを思っていた。
そして――――今。
目の前にかつての官那羅と同じく人の遊びをよく知る鬼がいる。鬼が意地を張る為にここにいる。
名を星熊勇儀。
彼女はここで首を差し出していい存在ではない。高潔さは見事だがその首は絶対に受け取れない。
「……あんたは私を鬼王と重ねて見ていたってのかい」
「他人の印象を重ねていたのは謝るわ。貴方に侮辱と取られても文句は言えない。ただ――――それだけ私には強く残っていたのよ」
「いいや。むしろ光栄さ。鬼婆国の乱婆羅王の子孫――鬼王、官那羅。会った事はないが名は知っているよ。そうか。あんたが討ち取ったのか」
「首を落とした時、神力を使ったのは私だからね。鬼王は筋を通す為に報復したに過ぎなかったのに。貴方が意地を通したのと同じ。やはり鬼に横道はなかった。それをどうして首を狩る事ができるというの」
神の言葉に勇儀は心の奥底で思っていた事を訊ねた。
「なあ神様。一つ訊かせてくれ。鬼は……とうの昔に忘れ去られ地上からはいなくなった。それでもまだ、人間にとって恐れを感じる存在だと思うかい?」
常に人間の味方をしてきたのは神だ。その神は一体何と答えるのだろうと。
「無論ね。鬼とは人間にとって畏怖の存在。だからこそ私達は人間が忘れたとしても憶えているのよ――――鬼狩りの術をね。いつか人々が救いを求めた時に手を差し伸べる為に」
神は躊躇なく口にした。
人間の側に立ち、加護を与えてきた神が言ったのだ。
鬼とは対岸に立つ存在の神が鬼の事を憶えている。
鬼は畏怖の存在であると。
――――そうであるならば。
ここで神と戦った意味は確かにあった。
「あぁ――――そうかい……安心した」
意地を通した甲斐は十分にあったと言えよう。
「……だが、ね」
しかしこれで終わりでは鬼王とまで言わしめた神に失礼だ。
鬼王官那羅は粋な鬼だったという。
ならばこの戦いの幕引きは勇儀なりの粋な計らいで締めようではないか。
「ここまで神様に言わせちゃ、鬼が廃るってもんだ。あんたの勝ちだと言ったのは撤回するよ。だって――――私はまだ土が付いていないんだからね」
それは相手が神奈子だからこそ通用する煽り言葉。
土が付く――――それは相撲で負けた事を意味する言葉だからだ。そして勇儀は一度として倒れなかった。今もまだ。
だからこそ。
最後に土を付けてみろ、と相撲のルールで勝負を持ちかけたのである。
「そう。黒星が付かなきゃ負けを認めないというのね。その立っているだけでもやっとの満身創痍な体で白星を取れると?」
やや呆れながらも勇儀の煽りに神奈子は乗ってきた。
そうでなくては面白くない。この神は分かっている。
「取れるさ。そのぐらいの算段は付いてるよ――――ほら掛かってきなよ」
とは言いつつも勇儀は立っているだけでもやっとなのは確かだ。だから神奈子が近づいてきて勇儀に対して差す為に手を伸ばし――おそらく上手投げか下手投げで決めるつもりだろう――だが。その瞬間を待っていた。
真正面の神奈子へ勇儀は前のめりに倒れ込んだ。その際に胸元を掴む。どうにか組もうと手を伸ばしたと思わせられればいい。手を取るのならそれでもいい。取らずに勇儀が倒れるのを見送るのであれば――――。
果たして。
神奈子は勇儀の手を取らなかった。そのまま自滅すると思ったのだろう。
そこにこそ勇儀が勝機を見出した唯一の機会がある。
相撲とは互いにぶつかり合う激しさを持つ武道である。故に真剣な勝負の際に偶発的に廻しが外れ局部が露わになる事がある。
勇儀が伸ばした手は飽く迄満身創痍の身体を押して勝つ為に組もうとしたものだ。だがそれを神奈子は取らなかった。だからそうなったのは偶然というしかない。
勇儀の指先は神奈子の襯衣を破り、豊かな乳房が零れ落ちた。とほぼ同時に勇儀が地面に倒れ込んだ。
それは一瞬の出来事だったが乳房が露わになるのと倒れたのは僅かに差があった。土が付く方がほんの少し遅かった。
相撲に於いて廻しが取れてしまい局部を晒した場合、それは不浄負けという反則負けになるのである。
大地に伏した勇儀を見下ろした神奈子は額を押さえて静かに笑った。
――――最後の最後に、こんな勝ち方をするなんて。一本取られたのは私の方ね。
乳房を晒してしまった以上、不浄負けは認めねばならないだろう。
廻しが取れた場合、故意にした結果であればそれはした側が反則になる。
しかし。神奈子はこれを反則とは取らなかった。勇儀は組みにきていたのだし、自滅するとその手を取らなかったのは神奈子だ。
「――――全く。やってくれる。まさに天晴れだわ。幻想郷の鬼王は、随分粋な計らいをしてくれたものね」
倒れた勇儀を抱き上げ肩を貸す。これだけ戦っても意識があるのだから鬼とは大したものである。その鬼が口を開く。
「……私が鬼王か。萃香にいい自慢話が出来たよ」
何せ神のお墨付きである。
「……なあ神様。あんた、酒は好きか?」
肩を借りる神へ鬼は問いかける。
「もちろん、好きよ。酒は私達――神と人間を繋ぐものだからね。御神酒って言葉くらい聞いた事があるでしょう?」
「愚問だったねぇ。――――あんた、地底にはよく下りてきてるんだろう? 今度下りてきたら旧都に来なよ。いい酒があるんだ」
「へぇ。それは興味があるわね」
「美味さは保証するよ。それと――――一つお願いを聞いちゃくれないか? それとも鬼は門前払いかい?」
「聞くのは構わないけれど、叶えられるかどうかは別よ」
「それは大丈夫さ。いつかでいい。また私と戦ってもらえないか。こんなに楽しかったのは久しぶりだったんだ。あんたとは何のしがらみもなくやり合いたい」
「それぐらいなら、まぁ。いいわ」
「ああ、礼を言う」
そういった二人の表情には笑みが浮かんでいた。
辺りは夜の帳が下りており月が煌々と光っている。
――――余談だが。
この口約束が元で後にある催しが開かれる事になる。
その催しの名は――――旧都闘技大会。
能力の使用に制限や一定のルールこそあるが真剣勝負には変わらない。
鬼と神はその決勝で相見える。
例によって熾烈な試合様相を呈し決着は判定へと持ち込まれた。結果はスプリット判定――――二対一によって優勝は勇儀に決まる。地元の勇儀の優勝によって旧都闘技大会は一躍話題になり、定期的に開催される事が決定された。またそれに付随して商売をする者も現れ、初代王者の勇儀に関したグッズまで出回る始末。番付まで作られ名実ともに勇儀は鬼王の二つ名が定着することになる。
守矢神社まで勇儀を運んだ神奈子だったが、これで全てが終わったわけではなかった。
「御苦労さん」
諏訪子から労いの言葉をかけてもらった直後である。
まだ悪意の浄化が間に合っていない天狗達と蜈蚣衆が本宮上空へ殺到した。目的は山を荒らした鬼への報復に他ならない。
しかし。天狗の長である天魔は初めから戦意はなく、蜈蚣衆の首領である姫虫百々世は前宮に収容されている。
それぞれのトップが片や協力的であり方や不在なのだ。
天魔から天狗達を諫める声が飛ぶ。けれど縦社会であり天魔の命は絶対である筈の天狗達はそれを拒んだ。重度の悪意汚染が深刻な状態へと入っていた。そしてそれは蜈蚣衆も同じだった。
溜息を吐きつつ諏訪子が撃ち落とそうとした瞬間である。
「天狗達、蜈蚣衆よ! 山の争いは終結した! 守矢の名に免じて矛を抑えてもらいたい!」
空へ向けて神奈子が叫んだ。
だが。
天狗は羽団扇を構え、蜈蚣はツルハシを振り被る。
――――と。
つ、と。神奈子の頬に一筋の切傷が走り、血が滲んだ。天狗の一人が羽団扇を振るった結果だった。
尤も。
それは神奈子が狙っていたものであったが。
――――これで大義名分が出来た。
「……天魔。先に謝っておくわ。大丈夫、死にはしないでしょう」
その言葉を聞いた天魔は諦めたように肩を竦めた。
「致し方ありませんね。手心は加えて頂きたいのですが」
「すまないわね――――諏訪子」
「あいよ。全くやり方が恐ろしいねぇ。ま、先に手を出したのは向こうなのは事実だしいい加減鎮まってもらわないと困るのも事実だもんねぇ――――じゃあ久しぶりにやるかな」
神同士の会話に不穏な空気を感じ取った天魔は己の予想が外れている事に気づいた。
初めは神奈子が武力制圧するものだと考えていた。しかしこれは何かが違う。ただ一つだけ分かる事があった。
妖怪の山の混乱は必ず終わる。
「――――祟りを始めるよ」
諏訪子の言葉がそれを示していたからだ。
祟りが始まる。それがどういう事か訊ね返す間もなく。
まず動いたのは神奈子だった。彼女は天狗達よりも遥か高く飛び上がり対流圏と成層圏の狭間くらいで静止した。
地上を睥睨し能力を開放する。
妖怪の山ではその影響が既に現れていた。上空に集まっていた天狗達、蜈蚣衆は唐突に具現した強烈な重力に屈して大地に縫い付けられる。さらに誰の目からみても明らかに異常と言える季節外れの雪が降ってきていた。急激な冷気が雪山へと変えていく。月夜を灰色の雲が覆い猛烈な気流が渦巻き始めている。
続いて諏訪子が動いた。まるで水へ潜るように地面へと沈みその姿が見えなくなる。諏訪子がいなくなって間もなく妖怪の山の木々、草花が急激に枯れていく。
辺りはもう真冬そのものを呈している。異常気象そのものだった。そして季節が目まぐるしく変わっていく。
春が来て、夏が来て、秋が来て、また冬が来て――――滅茶苦茶な循環を、妖怪の山にいる者は目にしていた。
――――これが祟りか。
誰かが口にする。こんな滅茶苦茶な環境では適応できない。生きていけない。
この異常気象を感じて守矢神社本宮にはレティ・ホワイトロックとリリーホワイトが現れていた。
彼女達――レティは冬、リリーは春と活動時期以外は己の領域で過ごす事が多いのだが、この無秩序に訪れる季節に異様さを感じて、その中心地である妖怪の山に現れた訳である。彼女達は悪意汚染が広がる幻想郷に於いて一人で過ごしていた為、汚染度は非常に軽度で守矢神社に入った際にほぼほぼ浄化されていた。
さらにこの異常気象は天空にある輝針城の面々にも把握され、少名針妙丸、依神女苑、堀川雷鼓、九十九姉妹、プリズムリバー三姉妹も守矢神社本宮へ降りてきていた。
レティやリリー、針妙丸たちは幸か不幸かアラディア・アーリマンの悪意汚染とは無縁のまま現在の幻想郷に起こっている異常を知る事ができた。
――――そして。妖怪の山が神の祟りを受けている最中であるという事も。
季節が七巡した所でようやく元の季節に戻った。しかし空はさらに猛威を振るう。曇天の灰色が渦を巻きながら地上へと降りてくる。さらに神鳴りが轟き、一閃――――山に落ちる。雷気を伴う渦は竜巻を生成し視界を埋め尽くす勢力へと拡大する。
守矢神社は神域である為、祟りの影響は受けずに済んでいるが山肌に縫い付けられた者達は容赦なく受けた。
神奈子が創った竜巻は外の世界に於いて指標――FスケールのF5級に相当する規模の物だった。超壊滅的被害を齎すこれを外の人間達はこう言い表した。
――――神の指、と。
人間の理解を超えたその規模に神が指で大地を削り取るというイメージを重ねたのだ。
風を操る天狗族であってもこの災害、否、大災禍は手に負えなかった。ならば大地を掘り潜る事ができる蜈蚣衆はというと、こちらも逃げ場はなかった。
蜈蚣たちは気づいていた。妖怪の山が少しずつ揺れているのを。
神の指による山の蹂躙が終わると妖怪の山の上空だけ嘘みたいな快晴となった。本来ならば夜であるはずの時間帯なのに。
真夜中であっても太陽が沈まず明るいままの現象を白夜という。創ったのは言うまでもなく神奈子である。
何もなかったかのような青空に誰も声を発する事ができなかった。晴れているというのにこんなに不気味であるとは思わなかったからだ。そしてその想像は当たっていた。
天の祟りが終わったならば次は地の祟りが待っている。
山の振動は誰もが気づく程の揺れになっていく。
何が来るのか考える間でもなく気づいてしまった。
――――地震が来る。それも巨大地震だ。
もはや誰にも止められない。
天魔は嘆息し、華扇と勇儀は顔を伏せた。九十九姉妹やプリズムリバー三姉妹は呆気に取られ、雷鼓は天を轟かせていた神鳴りに感嘆していた。
揺れはどんどん増していき、大地の唸りが聞こえる。
数舜後。全てが止まる。不安を煽る――――間。
そして。
けたたましい轟音とともに山が鳴動し黒煙が裏側から上がった。その黒煙の中に熱く滾った溶岩が噴出している。
妖怪の山が噴火したのだ。さらに噴火活動による地震が山にいるもの全てを襲った。
天の祟りが終わった際に重力が元に戻っていたお陰で神社の神域外にいるあらゆる妖怪が、生き物が山から逃げ出していく。
青空は煙と死の灰で覆われて視界は黒に染まる。火山塵が全てを閉じ込めていく。
山の地中に陣取っていた諏訪子は外の世界で地震の規模の指標となる震度階級十二の絶望的と呼ばれる巨大地震を起こしていた。溶岩は大地の流す血であり、産声でもある。冷えて固まれば新たな大地を形成する。坤を創造する力の通り、諏訪子は大地を創っている。だが。創造の前には破壊が必要だ。祟りの両側面を同時に表していたのである。
地の祟りが終わった時には新たな天地の創世が為されているだろう。
ここに。
悪意によって齎された妖怪の山を舞台にした妖怪決戦は幕を閉じた。
勝者も敗者もいなくなった山の怒りに触れて。
◆
時は少し遡る。
神の祟りが山を襲う前。
霧の湖での攻防は美鈴達が優勢に立っていた。とはいえ九尾の妲己は四面楚歌の状態でありながら、美鈴、妹紅、白蓮、青娥、芳香と五人も相手にしながら未だ戦闘を続行しているのだから大したものである。霊獣としての力は健在であり仙狐としても仙術に精通している所から青娥の仙術、白蓮の魔法、妹紅の炎を始めとした妖術にも対抗できていた。
笑みを立てながらも舌を巻いたのは同じく仙術を扱う青娥である。彼女は独学とはいえ仙術を修め仙人へとなった。その後にさらに修行を重ねている。その過程で道教の聖地である五岳――泰山、衡山、嵩山、崋山、恒山――にも赴きそれぞれの派閥の仙術を身に着けている。
――――流石は女媧の元にいただけの事はありますわね。
同じく同郷の妖怪として顔を歪ませていたのは紅美鈴だ。
妲己の立ち回り、身の熟し、それは間違いなく。
「妖狐の貴方が、嵩山派少林拳とは――――」
「恐れいるか、華人小娘。しかして妾には武人の心など宿らなかったでな。所詮は真似事の套路に過ぎぬが、なれらには通じるのぉ」
武術の達人である美鈴をしてその実力は総伝並みである。
さらに嵩山派の仙術に体を鋼以上の硬さにする技がある。仙孤にして、また拳士として、さらに策士として妲己には隙がなかった。それを思うと妖怪の山で相対したあのデタラメな鬼に対して腸が煮えくり返って仕方がない。何をどうした所でこちらの攻撃手段が何一つ意味を為さない。それは怪力乱神をこれっぽっちも理解できなかった、というより理解する気のなかった妲己には相性が悪すぎた相手である。
だが。
こちらは違う。多勢に無勢という状況。さらに劣勢である。
しかし。不思議と自身が負ける絵は浮かばない。むしろこの状況が楽しいくらいだ。何とも愉快な所へ主は召喚してくれたとすら思っていた。
――――しかし。
その油断が足元を掬う。
それは急に空から落ちてきた。
「藍様ああぁぁあぁぁ――――ッ!」
何の脅威も感じないそれはただの化け猫――橙である。
橙は妲己の首元へしがみ付いた。
「藍様を返せッ!」
続いて空から犬走椛と射命丸文が降り立ち戦闘態勢を取る。
「ああもう。だから目を離してはいけないと言ったではありませんか、椛」
「誰の所為で離したと思ってるんですか。私の所で油を売ってた文さんの所為でしょ」
文と椛が口喧嘩をしながら妲己への警戒を強める。
そもそも文が守矢神社本宮へ帰ってこなかったのは椛へ連絡を伝えにいったまま戻らずあろうことかそのまま椛と行動を共にしていたからだ。――命令を伝えにいけとは言われたが、行動を共にしてはならないとは言われていない、というのが文の主張である。というより、本宮には天魔に華扇がいて、秋宮には龍ら大天狗が収容されている。どこにいても気が重たかったのでこれ幸いと椛にくっついてきたのである。
「なんじゃ、威勢のいい化け猫よのお」
「お前が、お前が藍様をッ!」
「妾もその藍とやらも今や同じ式にすぎん。この体、妾が使おうとも誰が使おうとも変わりはせんというに」
「違う、お前は藍様じゃないッ!」
「ほお、何故違う、どこが違う。藍とやらも妾も式にして同じ九尾、さあ申して見よ!」
妲己の問に一瞬だが橙は戸惑った。
その戸惑いを見逃さなかった妲己はこの状況を利用した。
「動くなよ、各々方! これは妾とこの猫の問答じゃ! 邪魔立てするなら猫は斬って捨てるぞ! ――――さあ言うてみい!」
橙を引き剥がし首元を掴んだまま人質にし美鈴達の動きを封じたのである。
「これでは禅問答ではありませんか! 橙さん、答えてはいけません!」
美鈴は気づいた。妲己と藍はいうまでもなく違う。しかし式であること、九尾であることが前提である以上違いを指摘する事はできない。そこには人格というものが欠落しているからだ。そして今の橙は妲己の意図は分かっていない。
「まるで南泉斬描ですわね」
美鈴の隣で同じく気づいていた青娥が呟く。
「暢気に言っている場合ではありませんよ、青娥さん」
「――――私がいく」
低い声で妹紅が言う。焼失して妲己に憑依するつもりらしい。
――――が。
それをも目敏い妲己は見ていた。
「姿が消えれば即座に斬るぞ。大人しゅうしておれ」
視線を橙に戻すとその橙は妲己を睨みつけて口を開いた。
「お前なんか、お前なんか、藍様とは全然違うッ! 藍様を返せぇッ!」
「違わぬなぁ! さあ裁定といこうではないか」
橙に向けて双刀の一振りを突き刺した。
――――しかし。
「――――なんじゃ……?」
刀の切っ先は橙の頬を切り裂いただけで串刺しにはならなかった。刀を持つ妲己の右手が揺れている。僅かに痙攣しているような。それどころか刀が握れなくなるほど震え出した。
そして右腕は妲己の意思に反するように橙を掴む左手に組みついた。
妲己の様子が明らかにおかしい。
それは誰の目にもそう映った。その中で真っ先に動いた者がいた。
犬走椛である。
彼女は妲己の焦った表情を油断を誘う演技ではなく実際に右手が言う事を聞かないのだ、と感じ取ったのだ。
左手で掴まれていた橙を抱き込みながら妲己から解放する。
「おのれ……小癪な犬め」
その瞬間。
妲己を中心として陣が浮かび上がった。それは魔法でもなく仙術でもなく妖術でもない。
陰陽の式神の陣である。
同時に姿なき声が聞こえてくる。
『私の身体を返してもらうぞ』
それは本来九尾の狐に付いていた八雲藍の声。
「なに、なれは、なれは消えたはず……何故」
『何故も何もない。お前は橙を傷つけた。それだけで万死に値する』
「ほざけ……東の果ての田舎の妖怪風情に仕える九尾が居てたまるか、九尾弧狸精の風上にも置けぬ奴が」
『ああ。そうだな。その通りだ。お前は女媧に仕えていたのだったな。だが妲己よ、そんなお前の最期を知らぬと思うか』
「何を――――」
『虎の威を借る狐――――耳が痛い言葉だな。女媧の命を都合よく解釈し己の愉悦の為に利用したお前は粛清された。先ほどの言葉、そっくりそのまま返してやろう。主に見放され粛清されるなど九尾の風上にも置けぬ。それどころか性懲りもなく日本へやってきて玉藻の前に化け上皇に気に入られ同じことを繰り返した。そして最後は上総介に斬られてなお毒石に変化し玄翁和尚に砕かれた。恥を知れ』
「貴様ッ! 妾を愚弄するかッ!」
『女媧が不憫でならないな。お前のような九尾を配下に持ったことに憐憫の念を禁じえない』
「妾は言われた通り、殷周革命を成し遂げた! ……それをあの方は……女媧は目障りになった妾を縛妖索で捕えよった。なれもいずれ分かろうよ。どれほどの主かは知らんが、できる者は上に立つ者にとっては脅威そのもの。きっとなれを殺すぞ」
『その時はその時だ。そうなった時は私はそれを甘んじて受け入れよう。そう主が判断したのだから。その判断に従うのみだ』
「そこまでの主か、なれの主というのは」
『主を最後まで信じなかったお前には仕える我が思いなど分かろうはずもないがな。さて――――我が身体返してもらうッ!』
陰陽の陣が九尾の身体から妲己を追い出すように輝き始めた。
「おのれぇ! いつか、いつかなれも妾と同じ目に遭うぞ、忘れるでないぞぉおおおッ!」
黒く染まっていた道袍に角袋が白くなっていく。
その中で藍は言った。
『我が主はこの幻想郷を創った賢者、八雲紫だ。憶えておくがいい!』
夜の闇を切り裂くような光と共に妲己は九尾の狐の身体から引き剥がされた。そこへ八雲藍が再び式として定着した。
肉体は悲鳴を上げている。
ここで美鈴達と戦う前は妖怪の山で勇儀や龍たちとも戦っていたからだ。
実は八雲藍は今の今まで橙にくっついていたのだが――橙はそれに気づいていなかったが――彼女が妲己へ突撃した事で九尾から妲己を引き剥がす術を掛ける事ができたのである。
しかし一歩間違えば橙は串刺しになっていたのだ。まさに紙一重の勝利をもぎ取ったわけだ。
「――――藍さん、でいいんですよね?」
警戒しながらも恐る恐る声を掛けてきたのは美鈴だった。
「ああ、すまない。迷惑をかけた」
「いえ。――――って! 橙さんは大丈夫ですか?」
美鈴が振り返って椛を見ると――――。
「はい。大丈夫です。無事ですよ」
椛がちょうど地面へ橙を降ろしていた。その彼女へ藍が近寄って膝を着く。
「橙、心配かけたね。もう大丈夫だ」
いつもの藍へ戻っている事を認めた橙は先ほどまで妲己に痛めつけられていた事も忘れて滂沱の涙を溢していた。
「藍様ッ……藍様……よかった、よかったぁ……!」
藍へ抱き着いた橙の姿に一つの片が付いたと誰もが安堵していた。
一先ず落ち着いた事を確認した妹紅が霊夢へ連絡を取っていると――――。
妖怪の山に雪が降り始め、天候が無茶苦茶の様相を呈していく。霧の湖は山の麓に近い為に影響はそれなりにあったがそれでも山中で起こっている祟りに比べれば遥かに軽度であった。
「――――山が……」
誰ともなく呟いたのは白蓮だった。
天の祟りが終わると地の祟りが起こり地震の余波は霧の湖にも十分に届いた。誰もが動けず地震が治まるのを待ったが、山の大噴火を目の当たりにし警戒をそのままに――――妹紅が霊夢へ連絡したお陰で――――紫の切れ間が開き、全員が博麗神社へ退避する事ができた。
レミリアとフランの姉妹喧嘩から始まり天子と衣玖、布都と屠自古、わかさぎ姫を巻き込み、美鈴達も駆けつけ、最後に妲己が現れ、椛と文、橙と藍まで参戦した霧の湖の畔での戦いはこうして終結したのである。