偽書 第18.8弾 東方禍福宴~The world of justice and evil. 作:加賀アスナ
第26話
悪意の除染が早いか深淵の浸蝕が早いかの勝負の中、参拝所の手前に立てられた陣幕の中で永琳は考え続けていた。
何故、黒い孔は七つなのだ、と。もしアラディアが本気で幻想郷を浸蝕するつもりなら七つに拘らずありったけの孔を開ければいい。しかし、そうなってはいない。つまりは七つの孔が限界なのだろう。となると七つなら七つの理由がある筈だ。
例えば。
アラディアの力で世界を繋げている訳だが黒い孔が独立している訳ではおそらくないだろう。あの孔はいうなれば門なのだ。門を固定し深淵と繋げている。ならばアラディアの力が注がれて門の固定をしていると考えるのが自然である。その力が注がれる楔のようなもの、その役目になるものが七つしかなかったならば黒い孔が七つなのも頷ける。その七つの楔を消す事ができれば深淵の浸蝕は止められる。
問題はその楔が何か、ということなのであるが。フランドールの力で破壊できなかった時点で楔がこちらにない事が分かっている。まだ向こう側にある。
それが何を意味するものなのか。永琳は既に仮説を立てていた。それが大きく外れている事もおそらくない。
楔が幻想郷にない間はまだ孔が見えるだけで済んでいる。だがもしも。楔がこちらに現れた場合は――――。
――――その時が深淵の浸蝕が始まる。
まだ玉造魅須丸たちから除染が完了したという報告はない。
天を穿つ黒い孔を睨みつけるように見据える。
蠢く蜥蜴たち。
悪意の集積場。
進化の終着点。
永遠と不変とは違った形で存在している場所。
――――それ即ち、静止。
もう終わりなのだ。
何も動かない。何も進まない。何も起こらない。
そんなものが幻想郷を浸蝕するとすれば。
――――蓬莱人となった私でも思考停止に陥るかもしれない。
死にはしない。生きたまま停止する。
永遠の時間が、不変の未来があるのではない。終わるのだ。ただ終わる。止まることで。
焦燥が胸をじりじりと焼いていく。
「お師匠様、大丈夫です~? 随分怖い顔してますよ」
控えていたてゐが言った。
「――――てゐ」
「お師匠様は最善の方法を選んだ。みんながそれを実行してるんです。だったらそれが最高の形にならないわけがないんです。それに――――幸運はお師匠様についているんですよ?」
気を利かせたてゐの言葉だったが、そういえばと永琳の脳裏にある事実を思い出させた。てゐは一度オオクニヌシに助けられている。そのオオクニヌシへヤガミヒメが結婚する相手はあなたである、と予言を残し見事に的中させている。
最高の形にならないわけがない、とてゐは言っている。
追い風は永琳を後押ししてくれているという訳だ。ましてやてゐは動かないはずだった永遠亭の歴史を動かしている。永琳も何故それが可能なのか具体的な説明ができない。しかしてゐはそれをやってのけたのだ。
この幸運の兎は気まぐれで気付いたらいなくなっているが肝心な時には必ず姿を見せる。
ならば。
論理的な根拠もないがどうにかなると信じてみてもいいかもしれない。この時間との勝負の中、軍配はこちらに上がると賭けてみてもいいのかもしれない。
――――私も焼きが回ったかしらね? 根拠のない可能性に賭けるなんて。
あるいは。
それだけ幻想郷に染まってしまったのかもしれないが。
思わず笑みが浮かんでしまう。この考えは八雲紫には絶対に気づかれては駄目だ。きっといつまでも酒の肴にされてしまうだろう。
あの八意永琳が、すっかり幻想郷の色に染まってしまったと、言われ続けるに違いない。
しかし。
てゐの存在は永琳に根拠なき絶対の自信を齎した。士気が上がると思えば決してデメリットではない。
「ええ。最高の形になることに賭けてみましょうか。幸運の兎がいるわけだし、ね」
――――永琳が改めて黒い孔を見上げた頃。
同じく孔を見上げている者がいた。
少名針妙丸である。
彼女は運よく悪意に晒されず異変の経緯を知れたわけだが、それから周囲は目まぐるしく動き、共に輝針城から下りて来た依神女苑は神域外で悪意除染の確認に駆り出され、堀川雷鼓達は摩多羅隠岐奈に頼まれ演奏を行っている。こうも慌ただしく皆が動いている状況では後から合流した針妙丸たちは誰かに役を振ってもらわなければやる事がない。一人手持無沙汰になってしまった彼女はせめて邪魔にならぬように参拝路の端っこにいたのだが。
背後から伸ばされた何者かの手で簡単に持ち上げられてしまった。
「わぁあ!? 何?」
じたばたと暴れてみるもののどうにもならなそうな力強さだ。
「こいつは驚いたねぇ。あんた、小人族だろ?」
「勇儀。いきなり掴むのはどうかと思うんだけど」
針妙丸を掴んだのは星熊勇儀だった。その隣に茨木華扇がいる。
「か、華扇さん、助けて……」
針妙丸は一時期博麗神社で過ごしていた時期がある。その時に華扇とは顔見知りになっていた。
勇儀も華扇も既に永琳の策で天狗族を率いる将としての役目を受けている。悪意の除染が完了するまで待機となっている今、天狗達に声掛けして回っていた所だった。流石に旧山の支配者の貫禄か、声を掛けられた天狗達は皆、背筋を伸ばしていた。それと同時に鬼が味方でいるという頼もしさも滲み出ていた。あらかた回り終えた所でぽつんと佇んでいた針妙丸を見つけたのである。
「なあ、小っちゃいの。あんた、やる事がないんだろ? だったら私に付き合いなよ。これからあの孔から邪魔者が出てくるらしい。そいつをぶっ叩くんだ」
「勇儀、いきなり過ぎよ、それは」
「華扇だって知ってるだろ? 小人ってのは私ら鬼にだって立ち向かう勇気を持ってる勇敢な奴らだ。それをこんな所で遊ばせておくのはもったいない」
「それは、まあ。そうだけど」
「という事だ。私は星熊勇儀。あんたは少名針妙丸っていうんだろ? 華扇から聞いてるよ」
針妙丸が声を挟む間もなく彼女は勇儀の肩に乗せられた。
「華扇さ~ん……」
「ごめんなさいね、針妙丸。今は一人でも手が欲しいから」
そういって永琳の策で部隊別に分かれ、山の何処をどの部隊が担当する事になっているか、などを教えてくれた。
勇儀と華扇は山の真正面での迎撃を受け持っている。おそらく一番激しい攻防が行われるであろう場所だ。
そこへ。
「ここにおられたのか」
天魔だった。どうやら勇儀と華扇を探していたらしい。
「こいつが総大将の天魔だ、針妙丸。――――いいかい、天魔、あんたがこの戦の総大将だ。しっかり締めな」
「それはもちろん。声を掛けていただいた天狗達がここまでしゃきっとしているのは随分久しぶりに思えます。まさかまた肩を並べて戦う日が来ようとは」
懐かしみが滲みながら天魔は言う。
が、それを否定する自称仙人が一人。
「わ、私は違いますからね?」
「あー、えー。そうですね。今の華扇様とは初めてですね」
「今も昔も初めてですからね?」
そのやり取りが面白かったのか勇儀が笑う。
「鬼気を失ったとはいえ、奸佞邪智とまで呼ばれたあんたも変われば変わるもんだねぇ」
「奸佞邪智?」
針妙丸が訊ねる。
「ああ、そうさ。ずる賢くて、悪知恵が働くって意味さ。ま、自分の知恵をどう使うかはそいつ次第だし、自分の為に使うか、他人の為に使うかの違うでしかないと私は思うがねぇ」
説明を聞いた針妙丸に視線を向けられた華扇はどうにも居心地が悪かった。暗黒時代を掘り返されたような気分だ。
「ともかくです。私は天道を目指す仙人ですから。そりゃあ私だって昔は未熟な時分があったかもしれませんが、今は違います」
「そいつは心強いねぇ。仙人様が味方でいてくれるってのは。まるで大船に乗っている気分だよ」
「勇儀ッ!」
「はははははッ。いつぞやに杯を貸してやったろ? その借りを返してもらわなくちゃねぇ」
これは旗色が悪いと見た華扇はお手上げとばかりに溜息を吐いた。
しかし。
これはこれで悪くない、と、そう思う己がいたのも確かだった。時は流れ、昔とは当然違う。生き方は既に変わってしまったのだ。それでもその全てを暗黒時代として蓋をするには輝かしかった思い出も残っているのだ。それが己でも甘いと思うのだが華扇はその部分を切り捨てることはできなかった。切り捨ててもいい甘さと捨ててはならない甘さというものがある。その線引きを見誤っては駄目なのだ。でなければ他人の心を平気で踏み躙る事にもつながる。天道を目指すなら人を知り、己を知り、天理を知らなければならない。個々の思惑が天の定める摂理を捻じ曲げることはできない。だからこそ天道に沿う生き方をしようと思ったのだ。
ならば今こうしてかつての同族である旧友と肩を並べた戦友達と共にいるのもそういう時の流れなのかもしれない。
――――華扇が己の立場を改めて認識していた頃。
地獄、三途の川の攻防は激化の一途を辿っていた。死神獄卒部隊の大部分が入れ替わり野戦病院と化した陣地に幾人も収容されている。
疲労困憊と負傷によって退却した映姫の手勢だった死神と獄卒
達の代わりに現れたのは十王によって移動の命を受けて新たな死神獄卒部隊を率いて地獄の関所からやってきた庭渡久侘歌だった。さらに地獄の黒い孔の担当として協力を要請した埴安神袿姫が増産した埴輪兵を引っ提げて現れた。
これで戦力の立て直しと黒い孔より現れるであろう深淵の蜥蜴たちの迎撃準備を行える。
そう判断した映姫は自陣に収容されている西行寺幽々子の傍で待機している魂魄妖夢とその妖夢を連れてくるように命を受けたクラウンピース、妖夢の加勢をする為についてきた鈴仙へ一つの命を下した。
そもそもクラウンピースはヘカーティアの指示に従い妖夢を追いかけてここにいるのだ。修羅亡者達の所為で足止めを食っていたが迎撃態勢が整えられるこの時を於いてヘカーティアの元へ行く機会はないだろう。
まず魂魄妖夢とクラウンピースにはこれよりヘカーティアの領域である地獄界へ向かってもらう。無論、道中は険しい事が懸念される為、映姫が同行する。次に鈴仙には久侘歌の補佐を担当してもらう。彼女は医療の知識がある為、衛生兵長の役割を負って貰うのだ。
ようやく主人の命を実行できる段階に入った事でクラウンピースは安堵に胸を撫で下ろした。妖夢はなぜ己がヘカーティアに呼ばれたのか正直分かっていないのだが、地獄の女神の命では逆らえるものでも固辞する事もできないだろう。
鈴仙はすぐに久侘歌の元へ向かってもらい既に収容されている死神たちの容態を診て欲しい言付ける。医療に関しては永琳から手ほどきを受けている鈴仙だが己の知識がどこまで役立つものかは自信はなかったが出来得る限りの事はします、と映姫に告げて久侘歌の元へ赴いた。
最後に映姫は能力の使用過多により倒れて休養を取って寝かされている西行寺幽々子へ向かっていった。
「さて。いつまで狸寝入りをするつもりですか、西行寺幽々子。もう目が覚めている事は承知しています」
「え?」
驚いた妖夢が幽々子を凝視すると、
「流石に閻魔様相手ではバレるわね」
と体を起こした。
「貴方が何故、ほぼほぼ悪意汚染されていなかったのか、本来ならその事を追及するところですが時間がありません。手短に言いますが、西行寺幽々子、貴方は戦線に復帰しなさい。今は少しでも戦力が必要です」
諏訪子による溶岩流の流入はまだわずかながらも継続されていた。三途の川の地形が一時的に変わった事で天然の要害を築いた死神たちはそこを最終防衛ラインとして防備を固め、萃香の百鬼夜行、袿姫の埴輪兵団、久侘歌の死神獄卒部隊が戦線を維持し、現在は攻勢へと持って行っている。村紗水蜜が一部の死神たちを借り受けて遊撃隊として水底へ沈めているのも多大な効果をもたらしている。
しかし。
映姫が抜けるとなるとそれを補填する者が必要だ。そこで映姫の代わりの役目を幽々子へ託そうというのである。
「ふ~ん? 私が閻魔様の代わりにね。務まるかしら?」
「務めてもらわねばなりません。ですが、私も理不尽に言いつけるだけではありません。見事、私の代わりに戦線に復帰しこの戦いに終止符を打てた暁には、この度の貴方の行動における罪は不問にしましょう。春を奪う行為は罪に問われて然るべきものですが、情状酌量の余地もあります。悪意に晒される事態、という事もですが、貴方の悪意汚染のない状態から鑑みて、何らかの手を打つ為に春を奪う行為に走った、とも考えられます。今は時間が惜しいので私の当て推量ですが、中らずと雖も遠からずだと思っているのですがね。ともかく貴方の罪を不問にできる材料はあるのです」
「そこまで、閻魔様に慮ってもらうのなら、辞退はできませんわねえ」
「幽々子さま、お体はもう大丈夫なんですか?」
「ええ、もう大丈夫よ、妖夢ちゃん。妖夢ちゃんも頑張ってきなさいね。地獄の女神の御指名なんだから」
ふふふ、と笑う幽々子に、その思わせぶりな態度に、妖夢はいつもの幽々子が戻ってきたのだとようやく安心する事ができた。
「では幽々子、準備が出来次第、久侘歌と合流してください。――――さて。クラウンピース、妖夢。行きますよ」
二人を連れて自陣から出ると映姫は小町に連絡を入れた。小町は地底にいるはずで、映姫が三途の川からいなくなれば地獄の状況を知らせる手段がなくなるからだ。小町に帰投命令を出したが同時に嬉しい誤算もあった。
それは悪意除染の為に各地を回っていた物部布都と比那名居天子が地底にいるので地底とも連絡をつけられる手段があるということ。
既に二人は古明地さとりと合流しており、除染作戦の骨子を伝えていた。小町が一部補佐もしたが、黒い孔対策はもう整っているらしい。杖刀偶磨弓も合流し迎撃態勢は万全であるという。
小町は映姫からの命で三途の川へ向かわねばならなくなった旨をさとり達に話してからすぐに向かいますと言って連絡を切った。布都と天子も幻通機を持っている為、地底に留まってもらうとも言っていた。話が終わり次第小町の能力ならばすぐにでも三途の川へやってくるだろう。
映姫は先頭に立って亡者達を殲滅しながら妖夢をヘカーティアの元へ送り届けるというクラウンピースへの命令を遂行させるべく力を振るった。
「さて。閻魔が直々に黄泉路を開きましょう。好きなだけ私に挑みなさい亡者共。閻魔を前に、その狂おしいまでの妄念がどこまで続くか、見せて頂きましょう」
相変わらず亡者に対して凄まじい威力を発揮するラストジャッジメントによって亡者の海が真っ二つになる。真ん中に開いた道を三人は通り抜ける。
斬り込み役となって先導する映姫は思う。
――――閻魔を地獄の案内人とは贅沢なものです。ヘカーティア様には何が何でも勝って頂かなければ。
第六圏まで退いた地獄の女神。
なにが地獄界であったかは知らないが、この戦いに敗北は許されない。映姫もまた地獄に従事する一人としてまた、亡者に判決を下した閻魔としての威信をかけて戦っていた。
◆
何故だろうか。
神社というのはこんなに妖怪の巣屈であっただろうか。
首を傾げながら綿月豊姫は周囲を見渡した。
霧雨魔理沙に教えられた守矢という神社はおそらくここであっている筈だが、果たして永琳がいるのか。
辺りを見ると警戒、というより殺気すら向けられているような気もする。主に天狗と呼ばれる妖怪だったか。
「あんた、何者だい? 八雲紫みたいな現れ方をする奴がいるとはねぇ」
少名針妙丸を肩車した星熊勇儀であった。
天狗たちに比べて殺気までは放っていないが注視されているようだ。
「ああ、貴方――――鬼ね? 貴方は無遠慮に殺気を向けないだけ話ができそうね」
「天狗の連中か。まあアレはそういうもんだ、割り切ってくれ。縄張り意識が高いんだ。で、あんたは誰なんだい?」
「その前に。貴方、八意永琳という名をご存知かしら?」
「あれ、お姉さん、永琳先生の知り合い?」
勇儀に肩車された針妙丸から声を掛けられ、豊姫は一瞬固まった。小人族は随分久しぶりに見た気がする。
が。
小人と鬼は仲がよかったか、と脳裏を過ぎる。
「小人族とは。スクナヒコナ様の苗裔かしら?」
「え? びょうえい? 分からないけど私の祖先は鬼と戦ったって残ってた」
「そう。勘違いだったかしらね。ともかく八意様を知っているのね? 霧雨魔理沙からこの神社にいると聞いてきたのだけど」
「なんだい。魔理沙からの紹介だったか。永遠亭の薬師なら向こうの陣幕にいるよ」
勇儀が指した方向――――参拝所の前に陣幕が立てられている。どうやらそこに永琳がいるらしい。
礼を述べて陣幕に向かうと日の丸と諏訪梶の葉の神文が描かれた幕が視界に入る。日の丸の御旗と諏訪神号旗が正面に立てられいる。
「失礼致します。八意様、おられますか?」
豊姫が入ると目を瞠る永琳と後に控えたてゐ、奥に用意された椅子に腰かけている輝夜が振り向いた。
「――――豊姫。話は魔理沙から聞いているわ」
とはいうものの流石の永琳も豊姫の登場には僅かな動揺が走った。彼女は確かに弟子ではあるが立場を考えればあまり会うべきではない。それはお互いに。
けれど彼女がいるという事は月の都に何かが起きたのであろうことは想像に難くない。
「貴方がここにいるという事、そのものが答えね。月の都で何があったの?」
「いえ、むしろ何もなくなったのです」
今の月はもぬけの殻なのだ。
何が起きたのか豊姫は手短に伝え、現在魔法の森の上空で八雲紫と緱婉姈による弾幕勝負が行われている事を告げた。さらにこの弾幕勝負には純狐も関わっている。霧雨魔理沙の機転により幻想郷のルールに引き摺り込めたのは大きかった。
「神仙の女神――――緱婉姈……厄介なものを引き入れたのね、アラディアは。ただ話を聞くに直接的な脅威の段階は終わっているようね」
「はい。緱婉姈に関しては八雲紫が引き取ってくれたので今回の件で緱婉姈が月に対してこれ以上の脅威になる事はないと見ていいと判断致します」
「そう。では月は悪意だけが漂っている状態という事ね。それに招待と言ったのなら確かにアラディアが月に何らかの害を与える事は優先順位で言えば低いでしょうね。後、月の住人は夢の世界へ避難していると依姫から聞いたけれど?」
「ええ、そうです。サグメさんが陣頭指揮を取られています。レイセンを小間使いに使ってと傍においておりますし、ドレミー・スイートも夢の支配に支障を来たしていたのを保護されてますから、相互扶助の関係ですね」
「夢の支配に支障?」
「何でも夢は夢でも悪夢が暴走していたらしいのです。サグメさんが迅速に浄化と保護を行ったので夢の世界を避難場所にすることができたのです」
悪夢を介して夢の支配まで脅かしていたとは。原初の悪神を少し甘く見ていたかもしれない。ただ初期段階でサグメが動いた事で被害は最低限で済み月の民の避難場所として夢の世界を使えている。そして現状、月は悪意のみが漂っているだけ。
悪くはない。月の幹部や重鎮たちはたった一つでも瑕疵があれば責め立てるだろう。特に旧八意派と称されている綿月姉妹には。己が弟子の置かれた立場を鑑みると胸が痛むが永琳が選んだのは輝夜なのだ。それにどの道、月へ帰る事などできない。せめて最善の行動を取った彼女を労うことくらいはしてやろう。
「よくやってくれたわね、豊姫。我が弟子として誇らしいわ」
「ありがとうございます」
「ただ、貴方がここにいる事が私達にとってどういう事かは察してくれるわね?」
「もちろんです。それに私は能力を使って幻想郷に来たわけではありませんから都の上層部の者達に咎められる点はありませんので大丈夫です」
アラディアによる強制的な招待。悪神は悪意によってあらゆる世界を繋げ、その繋がれた世界の中心の座標を幻想郷にしているのだろう。
「それで。霧雨魔理沙はここを救うと言っていましたが……」
「ええ。今は時間との勝負なのよ」
黒い孔を永琳に示される。
合わせて視線を向けると詳細を語ってくれた。
永琳が仕掛けた悪意除染。
七つの黒い孔。
深淵。
いろいろと欠落していた情報をようやく聞く事ができた豊姫が依姫に関して訊ねると彼女は夜空を示した。そこで悪神の仲間と思われる者と戦っているらしい。
まだ姉妹揃って月へ帰還することはできないようだ。
久方ぶりの師匠との再会がこんな状態になってしまったが決して嬉しくないわけではない。けれどそれを表に出すほど豊姫は甘くない。除染が早いか、深淵の浸蝕が早いかを待つしかないことは分かっている。思えば悪意の蔓延から緱婉姈の登場と豊姫は待つ戦いを強いられている。
――――大丈夫。必ず好機は来る。
心内で豊姫がそう思っている頃。
博麗神社で黒い孔を見据える霊夢は後々の事を考えて一旦神社の守りを藍へ託した。紫が緱婉姈の元へ向かってしまったので霊夢が離れるのは大きな不安があったが彼女に押し切られる形で藍は神社の守護に就いた。それに聖白蓮もいるし、嬉しい誤算ではあるが射命丸文と犬走椛もいる。また全幅の信頼は置けないが実力には信用の置ける霍青娥とそのキョンシーである宮古芳香もいる。本来なら彼女達はそれぞれの持ち場にいなければならなかったのだが成り行きで博麗神社に来ることになり、黒い孔に対する博麗神社の迎撃要員としてカウントされていた。レミリア達が無縁塚へ向かう事を考えると白蓮を命蓮寺に、文と椛を山へ、青娥と芳香を神霊廟の道場へ帰還させるのは非常に困るのだ。
――――と。
そこへ霊夢が戻ってきた。鳥居を潜って藍へ変わりはなかったかを訊ねてきた。状況は膠着したままであると告げると霊夢は嘆息して黒い孔を見上げた。
景色は確かに変化はない。蜥蜴たちが蠢いているのは相変わらずで幻想郷を高い所から見下ろしている。
気に入らないわね、と霊夢が思っていると幻通機に反応が来た。相手は永琳でありフルオープンで発信されている。
『こちら八意永琳よ。たった今、魅須丸、静葉、穣子、女苑から悪意の除染成功の報告を受けたわ』
その言葉を。
その言葉を待っていた。
博麗神社にいながら遠くで歓声が上がっているのが聞こえた。もちろん博麗神社でもだ。
『各黒い孔の迎撃担当は速やかに現地へ向かって頂戴。到着後は臨戦態勢を維持しておく事。相手はいつでも侵攻できる状態だと思いなさい。では各自の健闘を期待するわ』
通信が切れると無名の丘へメディスンと妹紅が、無縁塚へレミリア達が出立した。咲夜は病み上がりではあったが主であるレミリアの出撃とあっては大事をとって休んでいる訳にはいかなかったらしい。
ややすると各地から持ち場に着いたと幻通機を通して報告が上がった。全ての黒い孔の迎撃態勢が整ったのだ。
そしてそれは――――まさに紙一重の差だった。
各地の黒い孔から幻想郷にとうとう顕現してしまったのだ。
◆
無名の丘では風見幽香が悪意除染の為に能力を使用していた影響で四季折々の花々が咲き乱れていた。この花々たちから悪意を除染する陽気が発していたのだ。
妹紅とメディスンも到着した際にはあまりの艶やかさに目を奪われたほどだった。
しかし。
ソレが現れた瞬間から咲き乱れていた花たちが萎れ始めた。
幽香達が黒い孔を見上げると孔の傍に一人の女性が佇んでいる。葉っぱを何枚も重ねたような生地に何らかの植物の蔓が巻き付いたスカートを履き上半身は骨と髑髏の装飾の付いたローブを羽織っている。また長い緑髪を左のサイドテールでまとめ赤と黄のリボンを付けている。
彼女は地上の幽香達を認めると声高に叫んだ。
「我こそはアラディア六大魔王が一人、渇きのザリチュなり! 枯朽の前に平伏すがいい!」
明らかな見下した言動に幽香は顔を顰め、妹紅は呆れたように頭を掻き、メディスンは腹を立てていた。
「おいおい、どうするんだアレ。また頭のネジが外れた奴が出て来やがったぞ」
面倒臭そうに妹紅が口にする。
「ええそうね。けれど、どうやら力だけは本物のようよ?」
「あ?」
幽香が辺りを見るように告げると萎れて立ち枯れする花が広がっていく。
「ヤバいじゃない! スーさんも枯れちゃう!」
焦ったようにメディスンがいうものの幽香はザリチュだけを見据えていた。
「来るわ」
「え?」
黒い孔を見るとザリチュに続いて蜥蜴の大群が落ちてきていた。そして萎れる花を食い荒らし始めた。
進化の終着点の生き物が終焉を齎し始めたのだ。
「悪いけど、メディスン。それと竹林の案内人さん」
「なんだよ?」
「幽香?」
見れば風見幽香は嗤っていた。
「蜥蜴は任せるわ。私はあのザリチュとかいう巫山戯た奴をやる。邪魔したら殺すから」
言い切ると返事も聞かずザリチュへ向かって飛び立った。
「一人でやるってのか。まあいいさ。私達は蜥蜴をどうにかするぞ」
「ああもう! スーさんを全部食べちゃったら許さないんだから!」
妹紅とメディスンは蜥蜴の群れを突き進んでいった。
――――数舜遅れて魔法の森でも同じような光景が起こっていた。
黒い孔から出てきた女性。
ザリチュとは色違いで燃えるような赤髪を右のサイドテールで束ね、青と黒のリボンを付けている。またローブもスカートも色違いでほとんど同じ。
「我こそはアラディア六大魔王が一人、熱のタルウィなり! 極熱の前に跪くがいい!」
魔法の森の瘴気を放つ化け物茸がタルウィの熱の力の前にひなびていく。水分が蒸発していっているのだ。
同時に蜥蜴の群れが侵攻を開始する。
アリスは除染維持に務めている為、魔理沙とにとり達が応戦に入る――――が。
蜥蜴の余りの悍ましさに先に手を出したのは純狐だった。
純化の力で殲滅を図ったのだ。
――――しかし。
「ほう? これは面白いモノですね。確かに死穢の匂いが薄いとは思いましたが」
蜥蜴は確かに大きなダメージを与えられている。地面に倒れ伏すものもいる。けれど。即死はしていないのだ。
何故純化の力で即死しないのか。
純化は名前が付く事で縛られ、何らかの色が付いた力とは異なり名無しの状態の色が付く前の純粋な力である。故に死穢を纏う人間は死穢を純化させられる事で無条件に殺せるのだ。
ならば蜥蜴が即死しない理由とは何か。
それは蜥蜴が進化の終着点の生き物であることが関係している。進化の終着点という事は生まれてすぐの状態の正反対に位置している事になる。つまり対極に存在しているのだ。けれど対極という事は絶対値が同じという事でもある。進化を遂げ切った地点にいる蜥蜴たちは純化の状態と非常に似通っているのだ。だからこそ純化の力で即死しなかったのだ。
しかし。純狐は月を相手にする仙霊としての力がある。そもそもの地力が違うのだ。それは純化の力による死穢を純化させるという属性での即死が効かないとしても単純な力そのものとしては絶大な威力を誇るという事である。
「相変わらず容赦のない攻撃だぜ……」
隣で見ていた魔理沙も一歩引く程の影響力だ。
「けど。あんたがいてくれるってのは心強いぜ」
「あんな悍ましいもの、見ているだけで穢らわしい。アレが悪神の策だというのならこの世でもっとも醜い策です」
「まあな。美しくないのは確かだぜ。あんなもんは焼き払っちまうに越したことはねえぜ」
八卦炉を構えてマスタースパークを放つ。焼き払われた蜥蜴たちを乗り越えて次から次へと後続の蜥蜴が湧いてくる。
「っち! なんて数だ! おいにとり! そっちはどうなってる?!」
妖怪の山から援軍に来たにとり達河童族だったがこちらはこちらでタルウィの熱の力で蒸発していく草木――植物の為に玄武の沢のアジトから放水銃を持ってきていた。
「水が足らないよ! どんどんひなびてってる! 森が枯れちゃう!」
「ちくしょう! なあ純狐、この蜥蜴は任せていいか? 私ゃ、あんの野郎をやる」
「いいでしょう。八雲紫と緱婉姈の勝負がまだついていませんし」
黒い孔の隣で派手な弾幕勝負が続いている。だが緱婉姈のスペルカードはもう後がない。紫が被弾しなければ勝負は決するだろう。
「そいつは助かるぜ! じゃあ、ここが正念場ってやつだ! 気合入れていくぜ!」
箒に飛び乗り中空から熱の力を揮うタルウィへ魔理沙が突撃していった。
――――無名の丘、魔法の森に続き、無縁塚も蜥蜴の侵攻が始まっていた。
パチュリーによる木属性の魔法陣敷設で陽気が拡散されている中、その魔法陣へ一歩たりとも踏み入らせないようにフラン、美鈴、咲夜、小悪魔が迎撃に当たっていた。
無縁塚の黒い孔の隣でも一人の少女が地上を睥睨している。
「初めまして、未だ中途に位置する世界の者達よ。私はアカ・マナフ。人々を悪の道へ誘う使命を受け持ち、アラディア六大魔王の一人。以後お見知りおきを」
恭しく頭を垂れる少女は青緑の地に赤い、血管のような筋が入ったレースとフリル、リボンがふんだんにあしらわれたドレスを纏い、同じ意匠のカクテルハットをかぶり紅い宝玉の付いた杖を携えている。
「これはこれはご丁寧に。私は紅魔館の主、紅い月のレミリア・スカーレット。アカ・マナフと言ったわね? 貴方随分と面白い事をいうのね?」
「何処が面白かったでしょう?」
「人々を悪の道へ誘う――――違うな。人々を誘惑するのは悪魔だと相場が決まっているのよ。このスカーレットデビルを前によくもそんな巫山戯たことを口にできる事」
「御冗談を。それとも本気で仰っているのなら悪魔の質も随分と落ちたものですわね?」
「あら? 本気に決まっているじゃない。悪魔は夜の眷属。そして私は夜の王である吸血鬼。貴方は魔王を謳い誘惑の使命を持つという。王は二人もいらないのよ。そう思わない?」
「なるほど確かに、その通りですわね。では申し訳ありませんが、消えて頂けますか?」
宝玉の杖をレミリアへ向ける。それはまるで宣戦布告のようである。その姿を見たレミリアは静かに嗤う。
「ああ、こんなに楽しい夜はいつ振りかしら。私を消すというのなら試してみればいいわ。紅い月が誰に微笑むのか貴方は知る事になるのだから」
レミリアも神槍をアカ・マナフへ向けた。次の瞬間に両者は激突した。
――――無名の丘、魔法の森、無縁塚、と続きに次に黒い孔から顕現したのは妖怪の山だった。
現れた女性は首元や手首、足首に金環を嵌めてワンピースの上から袈裟を着たような恰好で金の装飾が至る所に為されている。
「我が名はサルワ! アラディア六大魔王が一人にして秩序を破壊するもの! この地に無秩序と混沌を齎そうぞ!」
サルワに呼応するように依姫と神奈子と戦っていた禍那が距離をとって合流した。
「遅い。アラディアは何をしていたんだ?」
「申し訳ありませぬ、禍那様。悪意の総量が整わず」
「この除染の所為か。まあいい。それよりもここが一番数が多い。アレはここに投入しろ」
「はッ!」
禍那とサルワの会話は明らかに更なる何かの出現を暗示している。阻止する為にも依姫と神奈子は星の神と大魔王へ立ち向かった。
「ヤサカ! 星の神は任せるッ!」
その言葉の後に続くのは当然現れたサルワは依姫が受け持つという事。それを神奈子は瞬時に理解し禍那へ肉薄する。
けれど二人を待ち受けていたのは黒い孔より噴出してきた蜥蜴の群れだった。多くの蜥蜴は山へ降下し交戦状態に入っていた。
「邪、魔だァッ!」
間断なく掃射された御柱によって蜥蜴の群れを撃墜し禍那へ向かうが、当然相手も懐へ飛び込んでくる神奈子の事を読んでいた。待ち構えるのではなく逆に飛び出してきた禍那に蜥蜴を打ち落としていた直後の隙を突かれたのだ。体勢は崩れていたが禍那の一撃を防ぐことは出来た。
が。その威力までを相殺することができず神奈子は地上へ落とされた。神湖へ落水し派手な水飛沫が上がる。水中で体位を変えて浮上すると空には巨大な翼を持ち三つ首の――蛇とも、あるいは龍とも言える怪物が出現していた。
「……アレはなんだ?」
降下してきた依姫が神奈子の傍へやってきた。
「奴め、おそらく虎の子を出したに違いない。あの怪物はアジ・ダハーカというらしい。それよりも――――怪我はない?」
「ええ。まだ戦えます」
ずぶ濡れになった神奈子を見やった依姫は己の髪を束ねているリボンを外すとそれを差し出してきた。
「せめて髪くらい纏めておきなさい。みっともないわ」
頭に着けていた注連縄の冠は落水時に外れてしまったらしい。
黄色いリボンを受け取ると神奈子はそれで髪を一括りに結った。リボンも濡れてしまったが水を含んだ髪をそのままにしておくよりかはこちらの方が遥かに良かった。
「気を使わせてしまいましたね。感謝します」
「いや、それはいいけれど」
――――と。
「二人とも大丈夫かしら!?」
神湖を低空飛行でやってきたのは豊姫だった。
「――――姉様? どうして……」
「話せば長くなるから簡潔に言うわ。全てはここで、幻想郷で決着がつくの。だからここにいるのよ」
そういうと豊姫は視線を神奈子へ向けた。
「随分と久しぶりね。息災だったかしら、ヤサカ」
「全く。こんな時だというのに懐かしい顔を見るなんてね……。本当に久しぶりね、豊姉様」
「こんな時だからこそでしょ。貴方は地上で、私達は月で暮らすと決めた。だけどお父様はともかく。私達は袂を分かったつもりはないわよ?」
「あんなことを仕出かした私をまだ妹としてみてくれるのね」
それはかつての罪。
竜宮を抜け出した罪。
けれど豊姫はあっけらかんと告げた。
「もちろん。それに貴方、自分で言ったじゃない。私を豊姉様って。ほんのさっきの事よ」
くすくすと笑いながら言う豊姫を尻目に依姫はこんな状態だというのに複雑な思いに駆られていた。
――――何故、姉様は豊姉様で、私は依姫様なんだ……。どうして私には他人行儀なんだ……。
それは依姫の固い性格に神奈子が合わせた所為であるのと荒船山の決戦の仲裁に来たのがニニギであったことが大きく影響していた。ニニギは豊姫の夫神であるホオリの父である。神奈子がニニギの仲裁を受け入れたのは彼が神奈子の主張を慮りアマテラスへの直談判に際して口添えしてくれていたからだ。その時にニニギより豊姫が妹を案じていると教えてくれていた。
そう。彼だけはタケミナカタの正体がワタツミの三女神の消された三女である事を最初から見抜いていたのである。
それを裏付けるのが長野県松本市島立三ノ宮にある沙田神社だ。天孫海神族系の神社であり主祭神は豊玉姫、彦火火見――――つまり豊姫とホオリなのだ。
天孫海神族系でありながらこの神社は諏訪の祭祀である御柱祭がある。アマツカミとクニツカミが地上を巡り対立し最後まで抵抗し叛逆神とされたタケミナカタ――――神奈子が鎮座した諏訪の祭りである。それを行うのがこの沙田神社なのだ。
即ち――豊姫は当の昔から知っていたのである。二代目となったタケミナカタの正体が己の妹であるということを。だが父であるワタツミは高天原へ帰順した。安易に接触など図れない。そこで諏訪の祭祀を取り入れることで暗に伝えていたのである。その事を当然神奈子ももしかしたらと汲み取っていたのだ。天孫海神系の神社なのに御柱祭があるという意味、そして主祭神が豊玉姫であるということ。
もしや豊姫は神奈子の事を今でも憶えているのではないのか、と。
それは今こうして証明された訳だ。
「それは……」
意識せずにかつての呼び方で呼んでしまった事、それがまるで答えだとでもいうように豊姫は続けた。
「貴方にとって私は姉であり、私にとって貴方が妹である事はどれだけの月日が経とうとも変わらないの。だから妹たちがピンチの時はお姉ちゃんが助けに来るものなのよ。さあて、反撃開始と行きましょう。いいわね、依姫、ヤサカ」
二人は豊姫に頷き、天上の叛逆神に、六大魔王、そして顕現した巨竜アジ・ダハーカを見上げた。戦いの大一番はまだ始まったばかりだ。
――――妖怪の山にサルワとアジ・ダハーカが顕現した次に黒い孔の浸蝕が始まったのは地底、旧都だった。
黒い孔の傍に現れた女性は修道着のようなチュニック、シンクチャー、スカラプリオ、ウィンプルを着込んだ上に逆様の五芒星が連なったレイを首に掛けている。しかし目立つのはチュニックの背中の面だけざっくりと切れており、そこから鳥のような羽毛の黒い翼が生えていることだ。
「惑え、疑え、心を乱せ! 信じるものに裏切られるがいい! 私はアラディア六大魔王の一人――心に災いを生む背教者タローマティ! 猜疑心を、不信感を募らせろ! 己以外は全てが敵だ!」
タローマティの出現と同時に蜥蜴があふれ出してきた。終焉の生き物は旧都の住人だけでなく亡者の反乱軍まで見境なく食い散らかし始めた。
その光景を目の当たりにしたさとりは顔を顰めた。蜥蜴には心というものがない。あるのは本能じみた思考のみであったからだ。アレは生き死にもどうでもよく、目の前のモノをただ貪るだけの生き物だ。さとりが顔を歪めたのを八千慧もよく分かっていた。心がないという事はアレは考えるという行為がないのである。つまり逆らう気力を失わせるという八千慧の力とは相性が悪かったのだ。まだ現世に返り咲くという意識をもった亡者の方がやりやすい。
さとりと八千慧とは違う意味で蜥蜴を睨んでいる者がいた。杖刀偶磨弓だった。
彼女は埴安神袿姫に作られた埴輪であり、病気も掛からず休息も要らず破壊されてもすぐに修復する。対して蜥蜴はどうだ。亡者を食い散らし、家屋すらも齧り、共食いまでしている。
無尽の埴輪と言えど無限に涌きだす蜥蜴に嫌悪を覚えている。何故、そう思うのか磨弓はすぐに思い至った。彼女は忠誠心の高さが強さになる力を持っている。つまりは創造主である袿姫に対する忠義の厚さが磨弓を強くするのだ。だが蜥蜴にそんなものはない。磨弓から見て蜥蜴は、その全てが同じモノとしか思えなかった。制限なく溢れ出す蜥蜴一匹一匹ごとに差異は一切ないように思えた。磨弓たち埴輪には袿姫の創造思想が入っている。だから忠誠心という心がある。けれど蜥蜴は違う。終焉の生き物として本能のような決まりきった行動しか取らない。否、取れないのだ。きっと誰かの為でもなければ自分の為に捕食しているわけではないのだろう。ただただ目の前に喰えるものがあったから、それだけ。それだけの行動をしているのだ。そんなものが世界を浸蝕していく。創造ではない。破壊でもない。強いて言えば腐っていくような変化だろうか。それをあの蜥蜴の群れは行っている。
――――あれは間違った存在だわ。きっと最悪の時を刻んで終着点へ至った……その産物があの蜥蜴。なんと忌まわしい。
杖刀を構えて磨弓はタローマティの前に立つ。
「我ら埴輪兵団の忠誠の心、心に災いを齎す貴様の相手としては丁度いいだろう。さあ掛かって来なさい!」
「作られた心に真実があると思うのか? 愚か愚か。忠誠という名の偽造された心では何も見えはしないぞ!」
タローマティの号令により蜥蜴の群れが一斉に磨弓へ首を向ける。本能しかない蜥蜴へ磨弓が存在を脅かすと植え付けたのだ。
「食い散らかせ! 終焉の魔物たちよ!」
磨弓目掛けて飛び出してくる蜥蜴へ彼女もまた埴輪兵団の長として命令を下した。
「我らに恐れなどない! 殲滅せよ!」
埴輪兵と蜥蜴が旧都を舞台に切り結ぶ。
その様子を亡者を相手にしながらさとりはしかと脳裏に刻む。敵は修羅亡者と蜥蜴の群れ。亡者軍はお空と八千慧が居ればそこまで脅威ではない。だがあの蜥蜴は拙い。埴輪兵団に十分な戦力があるうちに加勢し叩きたいところだ。出来ればお空を蜥蜴側へ回したい。しかし相手は何より数に物を言わせている。
血の池地獄を経由し現れていた亡者達は何故か数が激減した。
無論それは饕餮尤魔が悉くを沈めているからなのだが、流石にさとりもそこまでは読めなかった。
ただ。
地獄の関所を正面突破して旧都へ流れ込む亡者が増えているのだ。
こちらは十王たちが関所を放棄し庭渡久侘歌を三途の川へ向かわせた所為である。もちろんこちらの事情もさとりに分かる筈もなく。
――――もう一押しの戦力が欲しい所です。遊撃隊として天人と尸解仙が居ますが数を誇る相手に個人の武威が効く相手でもありませんし。
そうさとりが思っていると――――。
「あっはっはっはッ! 脆いぞ、亡者共! 天馬の疾走を止められるものなら止めてみせよ!」
それは畜生界から亡者の流れを追って関所を破り勁牙組を率いて現れた驪駒早鬼だった。血の池地獄を経由するのが密入国だとするならば関所を突破して入ってくるのは堂々とした不法入国だ。
「おっと! こんなところにいたか吉弔。アレは袿姫のとこの埴輪か。相変わらず賢しいな。畜生界に私だけを残し亡者に疲弊した所を奇襲でも掛けるつもりだったのだろうが、残念だったな。私はここにいるぞ! さあ今度は何を企んでいる?」
早鬼の様子から八千慧はうんざりしたような表情を見せた。早鬼は今の今まで畜生界と他の六道で亡者たちと戦っていた所為でアラディアの悪意が残ったままなのだ。
この状況を読めていない彼女に嘆息する。
「何も分かっていない貴方に語る事などなにもありませんね。貴方もろとも殲滅させてもらいますよ」
「っは! 言うじゃないか。だったら見せてもらおうか?」
早鬼が八千慧に構えた瞬間である。
「おおおおおおっ!? お主、驪駒ではないか!? そうであろう? そうであろう!」
遊撃隊として回っていた物部布都が早鬼の姿を認めて空中から降下してきた。
「ああ!? 誰に物を言ってるんだ――――!?」
八千慧と早鬼の間に降りた布都に早鬼が目を瞠った。
それも当然だ。早鬼は聖徳王こと豊聡耳神子の愛馬だったからだ。もちろん布都の事も知っている。
「な、布都様か! 何故こんなところに!」
「我は尸解仙として蘇ったのじゃ。もちろん太子様もだ」
悪意に汚染されていようともかつての主人の、それも側近だった布都との遭遇は予想だにしていなかった所為で早鬼の動きが明らかに止まった。
それを好機と見たさとりはお空に浄化の炎を放てと命令を下した。まずは悪意を祓わなければまともな話にはならないと踏んだからだ。敵の敵は味方、驪駒早鬼を味方に引き入れることが出来れば亡者に吉弔八千慧と驪駒早鬼を、蜥蜴とタローマティに磨弓とお空を当てられる。
炎に焼かれた布都と早鬼が幾ばくかのダメージを負いながらさとりへと迫る。
「なにをするのじゃ、さとり殿……何故、我ごと……厄日じゃ……」
早鬼へ放った浄化の炎のとばっちりを受けた布都は煤けた吐息をつく。布都の動きを思えば彼女は悪意に晒されることなくこの禍福宴を戦い抜いており、さらに永琳の悪意除染の要として動いている。もっと褒められても罰は当たらない活躍ぶりだ。
が。
どうにも余計なとばっちりを受けるらしい。放火未遂の報いなのかもしれない。
「地霊殿の、覚悟はできてるんだろうな!?」
対して早鬼は浄化の炎に耐えた体でさとりへ凄む。
その二人にさとりは涼しい顔を答えた。
「悪神の悪意は落ちたようですね、勁牙組組長――驪駒早鬼。この明らかにおかしな事態に貴方は疑問を持たなかったのですか?」
「なに?」
重要な個所を掻い摘んで早鬼へ説明するも納得のいかない表情を浮かべる彼女へさとりは布都を利用する事を思いついた。
驪駒早鬼は物部布都、引いては聖徳王、豊聡耳神子と深い繋がりがある。かつての主と言えどその影響力は大きいはずだと。布都へ豊聡耳神子へ連絡を入れるよう頼み、早鬼の説得へ当たってくれるよう進言した。
お空に黒焦げにされた布都は渋々幻通機で連絡を入れ、早苗の持つ幻通機を通して神子をコンタクトを取った。
『そこにいるのですか、早鬼』
「こ、この声は……」
幻通機から届くその声は確かに――――忘れるはずがない懐かしい主の声。
『姿を見せられないのが残念だが、声だけで私だと分かる当たり、やはり貴方は素晴らしいな』
「それは……」
『早鬼、話はさとり殿から聞いた通りです。今の貴方にも立場というものがあるでしょう。ですが、私に免じて力を貸して頂けませんか』
神子の声から申し訳なさが伝わってくる。きっと姿が見えたなら頭を下げている事だろう。
埴輪兵団と蜥蜴の群れが戦っている光景に目をやる。
亡者の軍勢をお空達が食い止める光景が広がっている。
さとりも神子も早鬼に協力を求めている。
既に八千慧も協力しているようだ。
「なあ、地霊殿の」
「なんでしょう?」
「私が力を貸せば、絶対に勝てるのか?」
その言葉を待っていた。
後は早鬼のやる気を焚きつければいい。
「もちろんです。貴方を必要としているのは私達だけではありません。神子さんの言葉からも分かる通りです。この光景は旧都だけではなく、地上でも地獄でも起きている事です。畜生界なら亡者も反乱を起こしている事でしょう。そして地底を含め、どこか一つでも敗北は認められないんです。だからこそ貴方の助力が欲しいのですよ。勁牙組組長、驪駒早鬼の力が」
テンガロンハットを深く被り直した早鬼は言った。
「…………太子様の顔もある。――――仕方ない。今回は力を貸してやる。私は何をすればいい?」
『早鬼、貴方が居れば力強い。地底の事はさとり殿が一番分かっている筈です。彼女に指示を仰いでください。今度何か埋め合わせをしましょう。では武運を祈ります』
通話が終わり、早鬼の協力を取り付けたさとりは言い方はともかく内心神子と話せた事で高揚している早鬼の心を読み、笑みを溢した。
「なんだよ?」
「いえ。心強いと思ったのですよ。地底はもともと地上を追われた者や荒くれ者達の力こそが全ての場所ですが、こんなに滅茶苦茶にされたのは初めてかもしれないですからね。力は使う者が知ってこそ力足り得るものです。畜生界の組長ならば力の扱いはよくご存じでしょう」
「っは! 良く回る口だ。だが、いいだろう。乗せられてやる」
「では――――」
早鬼を味方に引き込めた。
後は、亡者の軍勢へ早鬼と八千慧を。
蜥蜴の群れに磨弓とお空を割り当て、最大の効率で殲滅するだけだ。
――――地底には地底のやり方があります。無法地帯の地底に殴りこんでくるのなら殴り返されても文句は言えないでしょう。
八千慧の力で亡者を無力化し早鬼が蹴散らしていく。
埴輪兵に食い止められた蜥蜴の群れをお空が焼き尽くす。
背信の魔王タローマティを埴輪兵長である磨弓が相対する。
さとりの采配は完璧以上に完璧だった。
――――旧都に出現した黒い孔の浸蝕の次に顕現したのは地獄の孔だった。地獄の孔は三途の川や白玉楼からでも見えるほどであった。
その黒い孔の隣に黒いローブのような服――腰より下から蠅の翅を模した意匠になっている――を纏い、首にストラのような帯を掛けている。足は膝まである革靴を履いている女性が眼下を睥睨していた。
「いい匂い。地獄はこうでなくちゃあね。――――拝聴せよ! わたくしはアラディア六大魔王の一席に座す、ドゥルジ・ナアス。虚偽を司り、不浄を愛するわたくしにこの地獄は相応しい。終末の醜い化け物に食い荒らされるがいいわ!」
ナアスの宣言は地獄へ轟いた。彼女の言葉は地獄に従事する者を逆撫でする最悪の言葉だった。わたくしに相応しいと述べたその言葉の裏は間違いなく地獄を明け渡せと言っているのも同然だったからだ。誰もが腹に据えかねる中、彼女に言い返したのは庭渡久侘歌だった。
「威勢がよろしいのは構いませんが、少々口が過ぎますね。地獄がお好みのようですが、生憎と地獄にも選ぶ権利というものがあります」
「あら、あらあらあら? これは異な事を。死の不浄、死の穢れを司るこのわたくしに選ばれて喜ばない者はいないというのに。たかが家禽程度が偉そうなことを」
「浅薄な知識の持ち主にうちの地獄は任せられませんね。鶏は昔から闘鶏として戦う鳥でもあるのですよ。それに――――常世長鳴鳥として最高神アマテラスを呼び出す役目を与えられたのは鶏なのです。その程度の事も知らない者では力量不足も甚だしい」
「こ……この、言わせておけば……鶏らしく口うるさい事を……!」
「同感ですね。死体に群がる蠅の如く耳障りな言葉ばかりです。地獄とは死を清算する場所なのですよ。霊魂を導き、生前の罪を償い、新たな生への旅立ちを助け、送り出す。それを貴方は死者を冒瀆する事だけで完結している。道標になれない貴方にはお引き取り願いましょうか!」
「わたくしをここまで虚仮にしたのは貴方が初めてですわ! 終末の化け物の贄にして差し上げます!」
「虚仮にして何が悪いのです? 鶏はコケコッコーと鳴くものでしょうに!」
「お黙りなさい! 鶏肉風情が!」
地獄の番頭神と不浄の魔王が対立する中、地獄へ浸蝕を開始した蜥蜴の群れに袿姫の埴輪兵が立ち塞がった。
修羅亡者の軍勢には萃香の百鬼夜行が対処していたが、蜥蜴の群れと修羅亡者は味方同士ではない為、蜥蜴に亡者が食われたり修羅亡者に首を圧し折られたりする蜥蜴と滅茶苦茶な様相を呈していた。戦い好きの鬼でもこの戦いはまったくそそられない。萃香は機転を利かせて最終防衛ラインまで一部の百鬼夜行を撤退させ、残りを袿姫の埴輪兵団の補佐に付かせた。こんな楽しくない戦いならば蜥蜴と修羅亡者でやりあってくれた方がマシだ。勝ち残った方を処理して終わりにすればいい。
本体の萃香が距離をとって飛び移ったのは村紗の舟だった。
「うおっと!? 危ないなぁ!」
「そいつは悪かった。あの蜥蜴を見ろよ。楽しくない相手だよ全く」
嘆息する萃香に村紗も同調した。
「楽しくないってのは同感だね。アイツら水の中にも順応してるみたいなんだ。沈めても生きてるからさ、首を刎ねないと駄目みたいだ」
「面白くないねぇ。修羅亡者と戦ってた方が遥かによかった。面倒な相手を出してきたもんだ。この責任は取ってもらわないとねぇ」
そういって萃香は上空を見上げた。久侘歌とナアスが戦火を交えている。
「奴をぶん殴らなきゃ、腹の虫が治まらねえ!」
言うが早いか萃香はまた飛び立っていった。そこへ今度はふわりと幽々子が飛び降りてきた。
「それじゃあ私達は亡者の相手をしましょうか」
「うわッ、いつの間に」
村紗の反応をなかったかのように幽々子は続けた。
「進化を遂げているあの蜥蜴は厄介なのよ。死の概念が薄いのね。私の力でも即死しないの。だから私達は亡者を相手にする方が効率がいいのよ」
「じゃああの蜥蜴や魔王だって自称してるアイツには鬼と神様に相手してもらうってこと?」
「そういうことになるかしらねぇ」
あまり緊張感のない声音で言う幽々子であるが彼女の喋っている事は説得力があると村紗は感じていた。村紗とて水の中にも順応している蜥蜴相手は骨が折れると思っていたからだ。
「ま、私のやる事は変わらないよ。舟幽霊は水に沈めてナンボだからね。それに、閻魔様は亡者は沈めてもいいって言ってたけどあの蜥蜴の事は何も言ってなかったからね。後でそれを咎められても困るし。けど、巻き込まれたら仕方ないよね」
「そうそう~。出来る事をすればいいのよ~」
何処か楽しそうな表情を浮かべている幽々子が扇を開き口元を隠す。すっと開いた瞼から覗く瞳は鋭い視線を湛えている。
「ここは地獄だもの。本来は死者のみが訪れる事ができる場所。そんな場所に乗り込んでくるなんて自殺志願者だと思われても仕方ないわよねぇ。というより招かれていない者がここにいる時点で死と同義なのよ。私達は精々、その意志を汲んで眠らせてあげましょう」
死を操る彼女のその言葉は事実上の死亡宣告であった。
◆
無名の丘、無縁塚、魔法の森、妖怪の山、旧都、地獄。
その六ケ所にある黒い孔は蠕動を開始し蜥蜴の群れを幻想郷へせっせと運んでいる。
だが一か所だけ起動していない孔がある。博麗神社上空の黒い孔だ。
各地の情勢を幻通機を通して聞いていた永琳は霊夢へ連絡を取った。
『何よ、こっちはいつ来てもいいように準備してるんだけど?』
少し棘のある口調で言葉が帰ってきた。
「なら単刀直入に言うわ。博麗神社の黒い孔なんだけど、おそらく――――アラディア本人が現れる確率が高いわ」
『――はぁ?』
各地に現れたアラディア六大魔王を名乗る者達。彼女達こそが黒い孔を繋ぎ止めている楔なのだろうと永琳は推察した。そして博麗神社の黒い孔だけは誰もいない。六大魔王と肩書を持つ彼女達が楔であるならば、彼女達と同等以上の力がなければ黒い孔を維持することはできない。六大というほどなのだから七人目がいるとは思えない。となれば残る可能性は六大魔王以外に楔の役目を持つ者、または物があるのか、あるいは――――アラディア本人か、だ。しかしこの状況で七人目が現れず、楔の役割を持つ物体がなく、それでも黒い孔の維持ができているというのならそれはもうアラディアが楔を兼ねていると考えた方が自然だ。
「相手は悪の化身、悪の権化、絶対悪の神アラディア・アーリマン。決して一筋縄ではいかないわよ?」
『アンタがそれ言う? これまで異変を起こした奴の中で癖のない奴なんかいなかったわ。もちろんアンタもよ永琳。でもね、どんな奴が来たって解決してきたわ。それが博麗の巫女の役目なんだしね』
何でもないように口にする霊夢に拍子抜けしたのは永琳の方だった。霊夢はどこまでいっても人間だ。顔に出さずとも恐怖や不安はあるだろう。
それでも。
博麗の巫女という役目から来る責任もあろうが、きっと彼女自身が異変を解決する事で平穏な時間を過ごしたいだけなのだろう。そしてそれは自分の事だけでなく幻想郷の意義として妖怪達が存在できる為に解決する意味もあるのだろう。
月の頭脳と呼ばれた永琳が恐れるとしたらそれは知らない事、無知である事が筆頭に上がるだろう。しかし恐れたとしても対応措置を講じ、なんらかの方策の処方箋を出す事はできる。けれどどうしようもない脅威が一つだけある。
それこそが人間の執念染みた意思だ。
人間は決して強くはない生き物だ。けれど描いた思いを作り上げる意思がある。途方もない年月をかけて人類はとうとう宇宙へと進出までしたのだ。月に旗を立てた人類を月の都の者達は身の丈を知らぬ下賤で野蛮な地上の者だと蔑んだ。確かにその気持ちは永琳も理解できるものがある。だが同時にえもしれぬ脅威も感じ取れた。
たぶんおそらくきっと。
人類はいつか。いつか月をも越えて火星にも至るだろう。そして火星すらも越えていく。そういう意思が人間にはある。
霊夢にはその意思の強さがある。霊夢が異変を解決すると言ったのならば、あとはもう必ず解決するという意思の下に動くだけ。絶対悪の神が相手だとしても退くことはないのだろう。いつも通り異変へ立ち向かうだけだ。
――――何故だろうか。
こんな状況だというのにそれが頼もしく感じるのは。
「そう。心配は無用のようね。安心して任せられるわ」
『でも、他が早く終わったならすぐに手伝いに来させなさいよ』「それはもちろん」
『ならいいわ。こっちはいつ戦いになるかわかんないから切るわよ……って、こっちでも始まったわ。とうとう蜥蜴が下りて来たようよ』
どうやら黒い孔から蜥蜴の群れが溢れてきたらしい。
「各地の戦いに進展があったら連絡するわ。じゃあ勝利を期待しているわよ」
『当然よ』
当たり前のように霊夢は言って通話は終わった。
六大魔王もアラディアも現れずに蜥蜴が侵攻を始めた。楔になっているのは誰か、何か。
何処かの黒い孔の魔王を倒せば分かるかもしれないが、戦いはまだ始まったばかりだ。
永琳も妖怪の山で指揮を執らねばならない。上空の甕星禍那とサルワは綿月姉妹と神奈子がいれば引き付けられるだろう。問題は巨竜アジ・ダハーカだ。凄まじい硬さの鱗に並大抵の威力では傷一つ付かず、傷が付いても重度の穢れが噴出するのだ。その度に豊姫が浄化の風で消し去っているが下手に切り捨てられないのだ。さらにこの巨竜はどうやら魔法が使えるらしい。驚くべき事だが不死に限りなく迫った生命力を保持しており浄化の風にも耐え得る肉体なのだ。考えたくない事だが蓬莱の薬に似た効果のある魔法を行使できるのかもしれない。
依姫が虎の子と評したのも頷ける。けれどこちらも出来得る限りの用意はした。後は全ての者の想いが悪意を超えるかどうか。
人知れず笑みが浮かぶ永琳の様子を見逃さず輝夜が言った。
「楽しそうね、永琳」
「そう見える?」
「ええ、とっても。目一杯頭を使える舞台だものね」
とんとん、と輝夜は自らの頭のこめかみ辺りを指で突く。
「で。どうなの? 勝てそう?」
「さあ」
「さあ……って」
「戦いに絶対なんてないもの。持ち得る手札をどうやって最大限使うか。限られた中で動員できる者は十分に用意したわ。勝利の為の手は打った。後は――――」
「後は?」
言葉を切った永琳はじっと輝夜を見つめてくる。楽し気ではあるもののその表情からは何も読み取れない。永琳は何を考えているのか。
固唾を呑んで輝夜は続きを待つ。ゆっくりと輝夜の下へ近づいて手を伸ばせば触れられる距離まで迫った永琳は言った。
「――――神のみぞ知る、とでも言えば満足?」
そのまま踵を返した彼女の背中を見ながら輝夜は思った。
タカミムスビの子にして高天原の叡智と謳われ、知恵の神としての神格を持っていた永琳だ。その彼女が神のみぞ知る、と言うのだ。
――――勝利しか見えてないじゃないの。
長い事彼女と共にいる輝夜だが久しぶりに肝が冷えた思いだった。