偽書 第18.8弾 東方禍福宴~The world of justice and evil. 作:加賀アスナ
第6話
守矢神社の下社秋宮へようやく辿り着いたのは紅葉の神である秋静葉とその妹で豊穣の神の秋穣子。それからニワタリ神の庭渡久侘歌、そして三人に運び込まれた茨木華扇だった。華扇の包帯に巻かれた右腕からは視認できるほどの黒い邪気が漏れている。華扇の二つのお団子に纏めた髪を覆っている被布は敗れ、普段は隠している角が伸びている。それは辛うじて右側だけだが左側の被布からも僅かにその角の先が見えている。華扇の失われた右腕は霊夢に封印してもらったはずで腕が戻った際の鬼としての茨木童子にはもうならないと安心していたのだが。
その失った箇所は悪意あるものにすれば絶好の要所になる。失ったものへ成り代わろうとすることで本人に取り入りじわじわと汚染していく。失った腕があった場所へ悪意が寄り付いていくのだ。仙人である華扇は方術で悪意を遠ざけようとしていたのだが、単なる誰かの思惑の悪意であるのなら邪気として払えただろう。しかし振り撒かれた悪意は原初の悪神のものである。生まれ持った領分を超えた思いは強欲に当たる。強欲は罪であり悪となる。華扇は本来鬼として生を受けている。鬼の領分を超える思いは罪と見なされる。しかし華扇は自身に憑りついたそれが異質なものであると判断し精神まで悪意に汚染される前に居を構えている仙境の屋敷を脱し地獄へ出勤する庭渡久侘歌に助けを求めたのである。久侘歌の元には秋姉妹が既におり、幻想郷に充満している悪意をどうするべきかと相談していた最中だった。久侘歌は秋姉妹には神域である守矢神社へ向かうように指示を出し自身は四季映姫の元へすぐに向かおうとしていた所であった。
華扇は汚染されていない肉体を一時的に封じる事で身を守る事にし後の事を久侘歌へ任せたのだが。
一方的に任せられた久侘歌は目の前の華扇を放っておくこともできず遅刻が確定し映姫のペナルティに心の中で涙を流しながらも華扇を守矢神社の下社秋宮まで運んだのだった。
鳥居を潜った際に清浄に保たれている神域にほっとした三人の前に空間から溶け出るように現れたのは八坂神奈子だった。
「ああ、八坂様、不浄を持ち込む事をご容赦ください」
久侘歌は申し訳なさそうに頭を下げる。
「これは、ニワタリ神ではありませんか。それに静葉と穣子も。それから――――茨木華扇、ですか」
「見ての通り邪気に蝕まれています。しばらくこちらで看て頂く事はできませんか?」
「引き受けましょう。ニワタリ神はこれから地獄へ?」
「ええ、閻魔様へ事情を伝えなくてはならないので」
「そうですか。僭越ながら除災を祈らせてもらいます」
神奈子は久侘歌の前に膝を着き地獄までの道中に災いが降りかからないように簡易的なものではあったが祈りを捧げた。
「心遣いに感謝します。八坂様。では後の事はお任せします」
踵を返した久侘歌は急いで神社から去っていった。残された静葉と穣子は横たわる華扇を看ていた。境内に入ってから腕から漏れ出ていた邪気はなりを潜めている。
「あの、私たちは……?」
静葉が不安そうに神奈子へ顔を向ける。
「二人はここにいていいわ。私は華扇の邪気を祓ってくるから。何だったら上社本宮まで送るわ。向こうには諏訪子がいるし、どうする?」
静葉と穣子は顔を見合わせた。相談の結果、本宮へ行くと決めたらしい。
神奈子は華扇を抱き上げて秋宮の本殿へ運び込んだ。それから秋姉妹を本宮へと送り、再び秋宮へ戻ってくる。
華扇の右腕の包帯は依然と邪気が詰まっていた。まずは華扇自身が掛けた封印を解き、次に祓詞を唱え、華扇に憑りついている邪気を体外へ放出する。続けて浄化を行う。祓を終えた所で華扇の身を改めて清らかにし新たな邪気が寄り付かないように加護を施す。本来仙人は神を信じていないが神はあまねく者に平等である。一通り祓の儀式を終えた所で華扇が目を覚ました。
「…………ん。ここ、は」
「心も体も楽になったでしょう」
ゆっくりと顔を動かし神奈子の方へ向けてその姿を認識する。どうやら自身は守矢神社へ上手く来る事ができたらしい、と華扇は安心した。
悪意によって蝕まれていた包帯の右腕は元通りになっている。鬼の邪気と共に切り離した右腕に成り代わろうと悪意が寄り付いてきたことは誤算だった。それも払っても払いきれないとは。
上体を起こして改めて神奈子へ頭を下げる。それから何が起きているのかを訊ねた。
聞けば幻想郷に悪意が満ちているという。何故急激に悪意が発生しているのかは原因までは分からないらしい。だが不浄である悪意、邪気は人の心の内、あるいは華扇のように悪意にとっての絶好の要所を抱えている者に憑りつきよくない事を起こそうとしているみたいだ、と神奈子は語った。一先ずは清浄の地である守矢神社か博麗神社へ避難してもらうように動くつもりであるという。
「――――悪意、か」
実態のあるものならいざ知らず心の内に入り込む悪意となるならさしもの華扇も手の打ちようがない。そもそもが自身からも悪意は発生しているとなるとできるのは自分自身を封じることくらいだ。出来る事がない。その事実に項垂れる。
「――――く。私では動く事ができないというのか……」
そこまで考えて華扇ははっとして顔を上げる。
「八坂様、霊夢、霊夢は今どうなって⁉」
「安心なさい。霊夢は巫女よ。博麗の神の加護がついているわ。それに私の加護もあるから大丈夫よ」
「では悪意からは守られているのですね?」
「ええ」
心を撫で下ろした華扇だったが今、妙な事を聞いたと怪訝そうな顔をする。
「どうして守矢の神である貴方の加護が霊夢に?」
「彼女が私の分霊が宿ってる御守りをもってるからよ」
「御守り?」
「もちろん博麗神の邪魔にならないようにあくまで補佐ではあるけど」
「何故です? 貴方にとって霊夢は同業他社のはず。相応しい言い方ではありませんが何故、敵に塩を送る真似を?」
「敵に塩……」
神奈子は思わず苦笑した。なるほど部外者から見ればそういう見方にもなろうか。
「貴方の身がもう少し安定するまでちょっとした話をしましょうか」
「話?」
「ええ。私達神にとって巫女という存在は特別でかけがえのないものなの。それにうちの早苗がそうだったけれど巫女は小さい頃はね、私達が見えることがあるのよ。普通の人には見えない私達がね」
そこまで言って、ああ外の世界ではね、と神奈子は付け加える。
「それだけじゃなく不思議な力を持っていたりするのね。けれどね小さい頃って本人にとってはそれが当たり前なのよ。だけど他の人からすれば、そういう理解できないものはおかしなものと思われる事が多くてね。随分と早苗もそれで苦労したの。私からすればそれは特別な事で素晴らしい力を持っている事になるけれど他人はそうはいかない。特別ではなく異常で、素晴らしい事とは思われない。本人は何も悪い事なんてしてないのにね。初めて霊夢に会って、それからそこそこの付き合いになったけれどあの子、自分の事は言いたがらないじゃない。それに巫女の修行も積極的じゃあないしね。まあ霊夢の性格もあるとは思うけど。今だって神社で一人暮らしだし、紫が顔を出す事はあるけど妖怪退治を生業にしている神社の巫女と妖怪の賢者が一緒にいるのが好ましくないのは分かるでしょう。今でこそあんな感じだけどあの子が一番苦労した時に、あの子を助けてくれた人がいるのか、褒めてくれた人がいたのか。杞憂であればそれでいい。だけど幻想郷の秩序を保つ為だけに博麗の巫女という役職を押し付けて、まるで歯車のように使う事は断じて許さない。――――華扇。巫女は神にとって特別なのよ。神を祀り、社を生かしていく巫女に私は感謝している。それは早苗も霊夢も変わらない。祀られる神は私ではないけれど分社も置いてくれたわけだし、だったらできる限り守ってあげたいじゃない。納得した?」
「――――すみません。軽率な言葉でした」
「いえ。普通はそう思うから気にしないでいいわ。と、華扇。もう貴方の体は大丈夫よ。神社にいる限りは悪意には汚染されることはないから」
そう言って神奈子が立ち上がった。これからもう一人御守りを持っているにとりの元へ向かうのだという。加護がついているから汚染はされていないはずだが、天狗の事といい、河童も汚染が進んでいる可能性がある。
華扇はその話に一つの光明を見出した。
「八坂様。その御守りがあれば悪意からの汚染は防げるのですね?」
「ええ。そうね」
「助けて頂いた上で厚かましいお願いではありますが、その御守りを一つ譲っていただく事はできませんか?」
「それはできるけど、今うちにある御守りと神札は二十一体しかないの。一体は天魔に渡すから残りは二十体。さらに一体を華扇に渡すとなると貴方にはいろいろと手伝ってもらわないといけないのだけど……」
「はい、それは構いません。必ず役に立ちます」
華扇の真剣な表情を見返したあと、神奈子は少し待つように言うと空間に溶けるように姿を消した。
一、二分くらい経ってから再び神奈子が現れた。神奈子から御守りを受け取った華扇は一先ずにとりの元へ向かうという彼女へ同行を申し出た。にとりは御守りをもっているので直接にとりの元へ移動できるらしい。神奈子に言われるまま彼女の力の範囲に入ると華扇は神奈子と共に秋宮から溶けるように消えた。