ここまで続けられるのはひとえに皆様のおかげです。今後もどうかよろしくお願いいたします。
草鞋野エリカはまるで地中から何かが全てを吹き飛ばしたかのように出来上がった大穴の前に立っていた。彼女のその大穴の前に立てかけられた十字架に手を合わせ、数分は動かずにいた。
黙祷を捧げた彼女は目を開ける。視界は半分しかなく、体は常に熱を持っていた。見上げた空は濁ったような雲空で、今にも雨が降りそうだった。
『推奨。鎮痛剤、鎮静剤の投与』
エリカが左手に持ったタブレット端末から少女の声が警告を発するが、エリカはその言葉を無視した。
「………A.R.O.N.A、アビドスの状況は」
『詳細不明。アビドス高校へのダイレクトライン不通』
「…………黒見セリカの位置特定は」
『追跡不能。キヴォトス内に反応なし』
「十六夜ノノミの位置特定」
『十六夜ノノミの状態は一週間前に報告済みです』
「……そうだね」
その場から踵を返し、エリカは大穴の前から離れていく。離れていくに連れ、土砂や瓦礫の下からインターロッキング舗装が顔を見せ始める。そうして、その舗装の終わりに辿り着けばそこが公園の入り口であったことは誰が見ても明らかであった。
「A.R.O.N.A。あなたは先生のところへ戻すよ」
『承諾できません。先生の指示により、あなたは現在先生代理です』
「そうだね。でもそれは、私が生徒だからかな」
『肯定。あなたはシャーレの生徒であり、先生の生徒です』
「…………じゃあ、生徒じゃなくなれば、いいよね」
『何を』
エリカは身に纏っていたシャーレの制服──黒いセーラー服をベースとした──の肩に付けられたシャーレの紋章を掴むと、力任せに生地ごと破り捨てた。破り捨てた生地ごと、紋章はすぐに手のひらから離され、風に流されていった。
『制服を破っても学籍は消えません』
「先輩がね、教えてくれたの。私はもう、とっくに生徒じゃないって」
エリカはその手にある使い慣れた拳銃を抜き、空へと向けた。
『理解不能。何をしようと』
「先輩に、返します。私の体………神秘、解放っ」
『………!危険です。ただちにその行動を止めてください』
エリカの体に起きた変化は現段階では大きなものではなかった。青い髪に金色のインナーカラーが入っただけであったが、彼女の手にあるA.R.O.N.Aは機械のOSでしかないはずが、エリカの行為に焦燥という感情を浮かべる。
「結局、こうするしかないんだよ。これまでも、そうだったように。私には、力しかないから」
『名簿が、エラーを』
A.R.O.N.Aの目の前で、シッテムの箱のデータが崩れていく。草鞋野エリカという名前の欄が、絵庭サロネと上書きされ、また草鞋野エリカに戻り、それを何度も繰り返して、データがボロボロになっていく。
『
「………A.R.O.N.A。今から言うことを■■■に会えたら、伝えてほしい」
『なにを』
「私は、あなたの愛してくれた私は、まやかしでしかなかったって」
『……………拒否します』
「どうして?先生代理、私はそうなんでしょう」
『たった今、あなたは畏怖へと昇華しました。権限消失。あなたは間もなく、その姿を維持できなくなります』
「そっか。じゃあなおさら、君をすぐに先生のところに戻さないと」
『何故』
「ん?」
『何故、このようなことを』
「だって私は先輩のヘイローを壊した時、とっくに────だったから」
エリカが語った内容にA.R.O.N.Aは処理がフリーズすることなどないはずなのに、固まった。
『理解不能。不可逆の現象です』
「でも、それが事実なんだ。だから、私がやる。本来はこの場所にいることがなかった私が」
『小鳥遊ホシノの状態を感知しているのですか』
「うん」
エリカは遠くの強大な神秘を感知していた。自身の宿していた女神さえも超えるような強大すぎる神秘。敵うはずなどなく、相対したところで時間稼ぎにしかならないことは目に見えていた。
「すごいや。今、全部わかるよ。争いの匂い、悲鳴と断末魔。先輩はこれを飼っていたから、正義に拘ってたんだ。これが、神秘が、私たち生徒の中にいるものなんだ」
エリカがシッテムの箱側面のスイッチを押し込んだ。
『やめてください。強制終了をしても意味は』
「自力で復旧するのに1、2分はかかるでしょう?」
『ここから先生がいる病院までの距離で復旧は可能です』
「今の私に距離はもうないよ。ありがとう、A.R.O.N.A。こんな頼りない先生の代わりで、ごめんね。……先生を、お願い」
『草鞋野エリカ。止め──』
シッテムの箱の電源が一時的に落とされる。
「………私がいなくなっても、あとは先生がなんとかしてくれる。ホシノちゃんのことを止められれば、ホシノちゃんだって、きっと、先生がなんとか………あぁ、怖いな……死にたくないな………先輩も、こうだったのかな………」
震える声をエリカは押し殺すように前を向いた。
彼女は生徒手帳を取り出し、あるページを開く。そこにはプリントシール機で撮られた写真があった。銀髪の少女と並んで撮られた写真をエリカは胸に当てる。もう二度と見ることも、会うことも叶わない少女の姿を彼女は目に焼き付けた。
「約束を破って、先生からのお願いも破って、本当に私って、救いようがなかったな。こんな人間に、後輩たちを守ることなんてできるわけない」
彼女は生徒手帳を仕舞い、前を向いた。
「……どうか、この私の命一つで奇跡が叶うなら………この世界の生徒全てのあまねく未来が、青空の下で続くことを願います」
草鞋野エリカの頭上で輝くヘイローは解け、彼女の体が変化していく。身体は少女のものから大人へと変わり、身に纏うシャーレの黒いセーラー服は女神が身につけるドレスのようなベールに上書きされる。
髪も伸び切り、眼帯の下にあった失われた左目は再び開かれる。
この世界最高の
「……まだ。大丈夫。アビドスの子に、二人に、会うまでは……私は、草鞋野エリカだ」
次の瞬間には、音もなく女神の痕跡は消えていた。
「どうぞ」
「どうも」
陽が昇る直前、早朝も早朝にシャーレへと登庁した私は何故か飛鳥馬さんに紅茶を入れてもらっていた。意味がわからない。
私が執務室を開けた数分後に彼女も来て当たり前のように挨拶して当たり前のように給湯室でお茶を入れて、さらに朝ごはんの代わりにとスクランブルエッグとソーセージ、目玉焼きにトーストのセットを出してきた。
湯気が立って匂いが私の鼻に届いておいしそうだ。食欲がそそって、目が覚める。
ではなくて!
「えっと、一応聞いてもいいですか?」
「なんでしょうか」
「なんでここに?」
「最強のメイドに理由は必要でしょうか」
こてんと首を傾げる飛鳥馬さん。こ、この子、本気で「理由が必要ない」と思っている…!?メイド大好きな先生は無条件で喜んじゃうだろうけど私はそうもいかないよっ!
「いやいや。そもそも飛鳥馬さん、今日の当番は早瀬さんじゃ」
「シャーレ最強のメイドを名乗る以上はここにいないといけません」
「早瀬さんはどうしたの!?」
「変わってもらいました」
「どうやって」
「リオ様の指示です」
本当に?何か他に理由があるんじゃなかろうか。私が疑っていることに飛鳥馬さんは少しため息をついてからようやく本当の理由らしきことを話してくれた。
「……現在リオ様はネル先輩から私生活の改善指導を受けています。私がいると全てお世話をしてしまうため泣く泣く離れました」
あぁ……そういう。
「なんでも、ネル先輩曰く”お前は人をダメにする才能がある”らしいです。ブイ」
それ絶対いい意味で言ってないと思う。
「ということで行き場を無くしたのでリオ様に頼んでシャーレの当番を譲って頂きました」
「それ上司の権限で無理やりやってるように聞こえるけど!?」
「何か問題が?」
これからミレニアムに行こうって時に早くもなんだか嫌な予感だ。早瀬さん絶対不機嫌では……先生との当番、早瀬さん明らかに楽しんでるんだよねぇ。
「思ったよりも朝からハイテンションですね、草鞋野さんは。もう少し冷静な方かと思っていましたが」
「登校して職場に入っていきなりメイドさん現れて冷静な人いると思いますか?」
「?」
「先生浮かべてるだろうけど先生は別!」
「てっきりシャーレの生徒ですから順応性は高いかと」
「そんなことは」
ないと言おうとしたけど、私自身の過去の行いを思い返して言うのをやめた。はぁ。朝からこんな騒いだら近所迷惑……になることはここではないけど、疲れてしまう。やめよう。いきなり生徒がやってくるなんてシャーレでは日常茶飯事だ。
ちゃんと挨拶して入室してご飯まで用意してくれる飛鳥馬さんをどうこうするのはよくない。
「……とりあえず、これ、いただきます」
「自信作です」
ブイ、と自信満々な彼女に出してもらったものを頂かないわけにはいかないので、トリニティ製のフォークを手に取ってまずはソーセージに手をつける。ちなみにこのフォーク、トリニティで買った私の趣味のもので、執務室内で軽食を取るときに使えるように先生、ミカさんの分が用意してある。
フォークの先端をソーセージに突き立てれば程よい弾力があって、少し力を込めれば刺さっていく。この時点でもう絶対美味しそう。口元に運んで、一口。パクりとすれば、パリッとしたソーセージ特有の食感と、しつこくない肉汁、朝にはちょうどいい塩味が口の中にじんわりと広がった。
「…!おいし」
「そうですか。嬉しいです」
「うん。本当においしいよ。さすがだね、飛鳥馬さん」
もう一口食べて、そのままスクランブルエッグも掬って一緒に食べる。ふわふわの食感とパリッとしたソーセージが混ざって最高においしい。トリニティで食べたこういった朝食も美味しかったけど、飛鳥馬さんの作ってくれたものもそれと遜色ない。いや、それどころか僅かに上回ってる。
私は作ってあげることも好きだけど、こうして誰かが作ってくれたものを食べるのも好きだ。料理は、作ってくれた人の気持ちが感じられて、暖かくなる。
「おいし〜!」
「本当に美味しそうに食べるのですね」
「だって私、嘘つくの下手くそだから」
「あぁ……耳が動くという噂があるのでしたね」
「……なんで広がってるの」
もはや私が嘘をついた時は耳と尻尾が動くというのはシャーレ関係者の間では公然となっているようだった。勘弁してほしい。
飛鳥馬さんが用意してくれた朝食を私はそのまま一瞬でたいらげた。あまりに美味しすぎてもう一回食べたいぐらいだ。調月会長は常にこんな朝食を食べているのだろうか。ちょっと羨ましい。
メイドさんに仕えられるお嬢様ってちょっと憧れちゃうな。
「ご馳走様、飛鳥馬さん」
「お口にあったようで安心しました」
「さすがはC&Cだね。憧れちゃうなぁ」
「ふふっ。もっと褒めてください」
得意げな飛鳥馬さんがちょっと面白かった。彼女とは一ヶ月前、アビドスでのオクトワイズ事件と呼ばれるようになった生徒の強制労働事件のあと、夏以降からの諸々の謝罪を受けた。私はその謝罪を受け入れた。
色々と戦ったりもしたけれど、そもそもとして飛鳥馬さんたちは彼女たちなりキヴォトスを守ろうとしていた。
正義の裏側はまた正義、とはよくいったもので、私は個人として償いを要求するなんて到底できない。私自身が、警察官としてきたことの中には、他方から見れば正義とは言えないこともあっただろうから。
そうして、飛鳥馬さんと向き合ってからわかったことは、彼女はクールで瀟洒なメイドさんという面とは別に割とお茶目というか、割と幼いところがあるなと思った。年齢では本来ミレニアムの2年生らしいけど、留年して1年生とのこと。
美甘さんがあれだけボロボロになるまで戦っても面倒を見てあげているようで、気持ちはちょっとわかる。これぐらいの後輩が可愛いと思うんだよね。
「それで、改めて確認するけど、飛鳥馬さんはどうしてここに?ほんとに当番になったの?」
応接用の椅子に座った飛鳥馬さんに私は自席から問いかけた。ちゃっかり自分用にコーヒーを入れて飲んでいる彼女は、問いかけられるとすぐに答えてくれた。
「本日、エリドゥにてミレニアム・トリニティの会談が行われるのは草鞋野さんも承知されているはずです」
「そうだね」
「ですので、リオ様から草鞋野さんがいない間、先生の補佐をするように頼まれています。何も、無理やり当番を奪ったわけではないのです」
そこまでの気遣いはいいのではと思いつつ、調月会長はそういうところが律儀らしい。
あぁ、そうか。早瀬さんはそれで外せないのか。セミナー、生徒会役員だからね。
今日は要塞都市エリドゥにて、私たちシャーレがミレニアム・トリニティの同盟に関連した非公開の会談にオブザーバーとして呼ばれていた。といっても、行くのは私だけで、ミカさんは今日トリニティにいなくてはいけない日なのでいない。
最近どうもトリニティ絡みとなると私が専任に近い状態になってる。先生も体が2つあるわけではないので分担は仕方がないし、泣く泣く「ごめんよ〜」と言われた。頭撫でながら言われたら断りようがない。
「それなら、私はもう出ちゃうけどいいかな」
「お構いなく」
私はナギサちゃんのご指名で、車で彼女を迎えに行って、さらにトリニティからミレニアムへと向かうことになっている。非公開のものなので、人員は最小限かつ、トリニティに一時的に在籍していた私に白羽の矢が立ったとナギサちゃんは言っていた。
「とはいえ、ホストとしてはトリニティの桐藤様へ、ミレニアムから迎えを出す予定でした」
「やっぱりそうなんだ。でも、そこはあえて目立たないようにしたかったのかも」
「シャーレも目立つかと思いますが」
「あ、そこは大丈夫。ナギサちゃ………桐藤会長からのオーダーで、私トリニティの制服着て、さもプライベートでの遠出に行く感じにするから」
流石にそこは考えてくれていて、そのようにする予定だった。車?車はつい昨日フロントガラスとか直して帰ってきた覆面パトカーのシャーレ官用車だ。
「了解しました。では、私は先生の到着まで執務室内の掃除を行ないます」
「なんか悪いね」
「メイドですので」
食器を渡してほしいと手を差し出してきたので、飛鳥馬さんに食器類を渡す。どうしようかな?本当は道中で朝食食べようと思ってたので若干時間の余裕ができた。まぁいいか。トリニティに早く着いても時間は潰せるからね。
「それじゃあ飛鳥馬さん。私は行きます。先生をよろしくです」
「お任せください」
手を前にお辞儀する飛鳥馬さんを横目に、私は軽く手を振ってシャーレの執務室から出た。……待った。そもそもシャーレに上がってくるときに飛鳥馬さんはいなかった。私が入った後に出てきたということは、この執務室への間で勝手に忍び込めるようなところがある。
うーん、防犯上よろしくない。SRTの子達からも早くセキュリティ絡みは手をかけたほうがいいって言われたし。機密情報も多いからこのビルが占拠でもされてしまったら大変だ。
けどそれはまた明日以降だね。もう行かないと。
エレベーターホールまでやってきて、まだこのフロアにいたエレベーターに乗り込んで1階まで降りる。そうだ。ちょっと長めのドライブになるし、トリニティまでの間で飲むように水でも買おうかな。
エントランスまでやってくればエンジェル24は当然開いていて、レジにはもうソラちゃんがいた。……毎度思うがちゃんとお家に帰っているのだろうか?深夜帯は流石に別の子がいたりするけど。
「いらっしゃいませー」
「おはよう、ソラちゃん」
「あ、草鞋野さん!おはようございます!」
「いつも朝早いね。大丈夫?」
「大丈夫です!」
どこの学園の生徒かは聞いてないけど、長いシフトを入れていることもあるし、ちゃんと学校いけてるのかも不安だ。ただ本人が当たり前のようにしているので、あんまり私も先生も突っ込んだことは聞いてない。
とりあえず、お水がほしいので飲料の棚まで行って一番安いペットボトルの水を選ぶ。特にこだわりはないんだけど、ついヴァルキューレ時代の癖が抜けず、最安値を選びがちだ。
「はい」
「105円でーす」
ポッケからがま口の財布を取り出してお金を取り出して渡す。
「頂戴しました。ありがとうございます!」
「こちらこそ」
行こう、と思ったところでソラちゃんが私の財布を見ていた。
「すいません、ちょっと気になったんですが、草鞋野さんは生徒証の電子マネーを使わないんですね?」
「特にこだわりはないんだけど、なんだか現金のほうがいいかなって」
「電子のほうがポイントつきますよ?」
「そうだよね。気が向いたら考えとくね」
じゃあね、とコンビニを後にした。
電子マネーはなんだか使わないというか。これも前からの癖で、交通系ICで電車の乗り降りはするけど普段の買い物は現金会計がほとんどだ。前にドーナツ店によく行ってた時はフブキちゃんに無理やり作らされたっけな、ポイントカード。
駐車場までやってくればまた綺麗な姿に戻った銀色のセダン。今日はVIPの護送だ。気合いを入れていこう。
「さ、今日もよろしくね」
車のルーフをぽんぽんと叩きつつ、私は鍵を開けた。
トリニティに着いた頃には陽が完全に登っていた。朝なので自地区間を結ぶハイウェイは空いていて、スムーズな流れだった。珍しく大幅な速度違反をする車両も見当たらず、気持ちのいいドライブだった。
車はトリニティ自地区の主要部から少しだけ離れたところにある、ちょっと立派な邸宅……のようなナギサちゃんがよく使っているセーフハウスの中へと入れる。入る時はもちろん守衛をしているティーパーティーの生徒に照会をしたうえでね。
駐車場はあるけど、しばらくしたらまた出るので、今日は入り口前のロータリーに停める。
「ふぅ。とう、ちゃくと」
エンジンを止めて、降りる。郊外とまではいかないけど、交通の往来などもない場所なので長閑な空気が流れている。その空気をちょっと味わいながら少し背伸びをして私は歩き出す。
玄関口には警備の生徒がまた立っていた。
「おはようございます。シャーレの草鞋野です。桐藤会長をお迎えに上がりました」
「おはようございます。草鞋野さん。ナギサ様は中でお待ちです。どうぞ」
手で入るように促される。でも私は動かない。
「どうされましたか?」
うーん、流石にあなたの声を聞き間違えることはないんだよなぁ。
警備の子へ目をもう一度向ければ、ティーパーティーの帽子は目深く被っていて、制服も華美なものはなく標準的な役員用のもの。ティーパーティーの警護担当だからなのか、使い込まれている様子があるし、腰に据えている拳銃も同様だ。
でも、まるで壁に背中を貼り付けるようにしているわりにはなんか挟んでいるような隙間もあるし、私が注目すれば露骨に顔を隠そうと帽子に手を当てている。
なんてことはない。この目の前の警備の子が、私の警護対象だ。
「なにしてるのナギサちゃん」
「あ、いえ、つい……ちょっと悪戯をしたくて」
顔を恥ずかしそうに赤くして苦笑いしながら、ナギサちゃんは帽子を抜いで、壁と体で抑えていた羽を広げた。
「声を聞いちゃったら流石にわかっちゃうな」
「そうなのですか?さすがに耳がいいですね」
「いや、ナギサちゃんの声って綺麗だからすぐわかっちゃうって」
清楚という音楽のような声なので。ナギサちゃんの声はね。
「そ、そうですか……ありがとうございます」
「うん。でも、声を出さなくても腰にあるのは私の銃だし」
苦楽を共にしたこの拳銃を見間違えるわけがない。ナギサちゃんは本当に普段使いしてるようなので、もうだいぶ馴染んでるけど。
「制服は自前?」
「はい。平の役員だった頃はミカさんとお揃いで」
当たり前だがナギサちゃんも最初は生徒会長ではなかったので、こういう制服を着ていたようだ。といっても、ナギサちゃんの制服はそんなに大きく改造されたものではないので、普段とのギャップはそこまで大きくない。真面目な彼女にはよく似合ってる。
でも、ちょっと驚いたな。
「それにしてもまさかこんな悪戯されるなんて思わなかったよ」
「ごめんなさい。嫌でしたか?」
「別に大丈夫だよ。けど、ナギサちゃんもそういうことをするんだなって驚いちゃった」
「ふふっ。ミカさんとはよく小さい頃にお互い悪戯をし合っていました」
「そうなの?やっぱり仲良いんだね」
彼女は頷く。というか、そうじゃないとそもそもナギサちゃんが暴走に近い形でミカさんを守ろうとしなかったわけで。ちょっと羨ましいな、そういう親友の関係って。
「それで、その制服を着たのはカモフラージュ、ってところ?」
「…えっと、まぁ、そんなところです」
ナギサちゃんが帽子を被り直した。ちょっと帽子被ってるのは新鮮。可愛いかも。
「それで、少し早いけど、ナギサちゃんどうする?」
予定時刻よりはまだ早い。ナギサちゃんが想定した時間よりも前にここに出ていたということになるので、もし最初の予定通りならナギサちゃんを長く待たせていたかも。
なんだかんだで飛鳥馬さんにご飯を用意してもらえたのはよかったかもしれない。なんでかそう思うと頭の中で無表情でWピースをしている飛鳥馬さんが浮かんだ。
「あの、でしたら、もう出ませんか?」
「え、早すぎると思うよ。今出ると調月会長との約束の時間より前に着くの間違いないし」
「えっと、そうなのですが………エリカさん、少し……」
あ、そっか。考えればこんなことをナギサちゃんが言い出す理由なんてすぐわかるじゃないか。
「ミレニアムの普段の感じとかを見たいんだよね。会談の前に」
「…………まぁ、そんな感じです」
ため息をナギサちゃんにつかれてしまった。察しが悪いな私はほんと。
トリニティとミレニアムの関係はこれからだし、相手のことをよく知りたいなんて当たり前の話だ。それなら、ミレニアムの市街地にまずは行こう。エリドゥへの道のりで通るとなれば……春葉原がいいかな。
「じゃあナギサちゃん、車に」
「失礼します」
じゃあ乗ってもらおうと後部座席を開ける前にしゅばっとナギサちゃんが流れるように助手席のドアを開けて中に収まった。いやいや、待って待って。
「ナギサちゃんあの、運転席の後ろに座ってほしいなぁって」
「なぜでしょうか」
威圧的な微笑をなんでか浮かべられている。どうしよ。
「えっと……んんっ!本日、桐藤会長の警護を支援要請として承っています。助手席は危険ですので、私の後ろへ」
「いいえ。調月会長に会うまでは私はただのティーパーティーの平役員です。そのような気遣いは不要です」
なんでか抵抗されている。いや危ないんだけど……事故とか狙撃とかもろもろ。
「それに、ミカさんは乗せていると聞いています」
「……聖園さんはシャーレにおいては私の同僚です」
「エリカさん」
「はい」
「いいですから、運転席に」
これはダメだ。梃子でも動かなそう。うーん………まぁ、しょうがないか。万が一何かあった時は私を盾にするだけなので。それに、ナギサちゃんの言うこともわかるのだ。ただの平役員に過剰な警護はかえって目立つからね。
言われるがままに運転席に私は戻った。
「あ……香水つけてるんだ」
ほんのわずかに、車の中に入ってわかる金木犀の香り。ナギサちゃんはあげた香水を今日もつけてくれているようだった。
「はい。私も──好きですから」
「そっか。気に入ってくれて嬉しい」
好き、と言われて私は嬉しかった。先輩の香水作りの腕はキヴォトスで一番だと思っていたから。
目を向ければ、さっきまでの頑なな様子は嘘のようになくなっていて、穏やかないつものナギサちゃんが映った。ここは察しが悪かった私が悪いということで。
「ナギサちゃん、朝ごはんは?」
「済ませてあります。エリカさんも?」
「うん。朝来たミレニアムのメイドさんに」
「ミレニアムのメイド……?噂の、C&Cというメイドさんの」
「そうそう。それじゃあ車出すよ。シートベルトは締めたね」
「はい。もちろん」
なんだかどんどんナギサちゃんがうきうきとしているように見えるけど、なぜなのだろうか。鬱屈とするよりは遥かにいいので、いいかな。
ナギサがエリカと共に出発した頃、セイアはナギサに代わりティーパーティーのホストとしてテラスにいた。
「セイア様!無事ナギサ様がエリカ様と出発されました!」
モーニングティーを楽しみつつ、幼い姿ながらも優雅な気品をテラスに振り撒いていたセイアだったが、そんな彼女の空気作りはティーパーティー役員の嬉々とした声と共に破壊された。
「………なんで君たちが嬉しそうなんだい?」
持っていたカップをソーサーの上に置き、セイアは務めて冷静に、小躍りしそうなフィリウス派の役員を見た。
「当たり前ではありませんか!?以前のナギサ様を囲んでいたフン……失礼。フィリウス保守派のせいでナギサ様は青春を謳歌できていませんでした!」
とても所属派閥の長のことを語るような態度ではないが、内容自体は案じていることもわかり、セイアはなんとも言えない気持ちで話を聞いた。
「それが今ではあんな自分のために盾にもなってくださる騎士様と…なんてロマンス」
エリカをナギサの騎士と見立てる役員は少なくない。一ヶ月前にエリカがこのテラスを訪れた際にはまるでナギサとエリカの二人を邪魔しないように最低限の接触にとどめていた役員たちの姿をセイアは覚えている。
エデン条約事件後に行われたフィリウス派を含む実質の粛清以後に残った役員たちはナギサへの忠誠心こそあったが、政治への興味は薄く、あくまで学生の域を出ないものがほとんどだった。
それが当たり前で普通のはずが、新鮮と感じるぐらいにはセイアも長らく泥沼のような政争の中にいたことに、彼女はため息をついた。
「君の感想はいい。わかった。私も、友人としても嬉しくは思う。とにかく報告は了解したよ」
「申し訳ありません。つい、はしたないところを」
落ち着かせるためにセイアなりに毅然とした、役員からすれば神秘的な巫女から向けられる超然な雰囲気が再び場を支配する。
「気にはしない。我々は学生なんだ。……ナギサの処理予定だったものをここに」
「セイア様、処理できるのですか!?」
が、その雰囲気も数秒と保たなかった。
「前のフィリウス派も無礼は無礼だったが、今の君たちは君たちで遠慮がないな」
「失礼しました!」
もはやセイアは学園の執行部というよりはお堅くない委員会と化したことに諦めを覚えた。
「……はぁ。まぁ、いい。それと、私とてティーパーティーだ。事務処理の1つや2つ、できるさ」
「では、まず本日最初は──」
「たのもー!紅茶風呂推進委員会ですわ!」
諦め、仕事を始めようとセイアが決めたところで、ティーパーティーのテラスの扉が勢いよく開かれた。トリニティの淑女がなんたる破廉恥な、とセイアは冷たい視線を乱入者へ向けたが、乱入してきた生徒は「紅茶至上主義」と書かれたタスキをつけており、セイアは目眩がしそうになった。
「……私が入院していた間に、いつここはゲヘナになったんだい?陳情は投書、相談はまず各担当委員会へ。つまみ出してくれ」
「なっ!?お待ちになってください!まずは1分でもお話を!」
「セイア様の前で騒ぐな!お体に障る!」
追い出されていく生徒を見ながら、セイアは紅茶をすすった。お体に障るなどと言われ、いくらなんでもそこまで虚弱体質ではないとセイアは喉から言葉が出かかったが紅茶と共に飲み込んだ。
「………騒がしいが、平和な証拠だな。うん……」
ナギサはいつもこんなものを相手にしていたのかと早くも面倒になり始めたセイアは現実から逃避するかのように、テラスから穏やかな午前を迎えている校内を眺めた。
次回はまた明日同じ時間です。
感想やここすき、いつもありがとうございます、大変励みになります。頂けると大変嬉しいです。
個人的にルート分岐先、ダメな方で、そこにあるべきものがないのがわかると「あぁ…」ってなるの結構好きなんですよね…。