涙を流す彼女は――ボクの知らない彼女
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――バーリント市内 地下
西国情報局対東課〈WISE〉支部――
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「―――はぁ!?ユーリ・ブライアと"破局"!?」
「はい。すみません、報告が遅くなって。」
地下に轟く女の声。それに応える冷静な女の声。
驚きのあまり呆気に取られ、大きな口を開けたままのハンドラー。そして彼女のデスクの前に真っ直ぐと姿勢よく立つのは
そんな二人の間に暫く沈黙が流れた。WISEの諜報員達は"一体何事だ?"とヒソヒソと様子を伺うも只事では無いらしい。あのハンドラーが、あの"朝顔"に向けてあのような余裕の無い態度を見せるのは初めてだったからだ。(ちなみに黄昏にはよく見せている。無茶苦茶な経費、領収書の件で。)
「ならここ最近の秘密警察関連の機密情報はどこで手に入れたんだ?」
「ユーリ・ブライア以外の秘密警察の関係者からですよ。適当に関係を作って上手く情報を嗅ぎ回ったんです。心配せずとも変装してましたし、顔も名前もバレてません。」
「……お前な、そういう事は早く報告しろ。全く……」
"はぁ~~"と盛大なため息を漏らすと同時に椅子の背もたれに体を大袈裟に預けるハンドラー。
そもそも朝顔の任務は"秘密警察のユーリ・ブライアに接近し、あわよくばハニートラップを仕掛けて都合の良い関係性に成って情報を抜き出す"――というものだった。
その標的と破局したのはさておき、ここ数週間滞りなく朝顔は任務をこなしていた。だからこそハンドラーはそこまで問題認識をしていないのだが"まさか破局していた"とは。
「本当に申し訳ございませんでした。……そもそも私の力不足です。」
「お前にハニートラップはまだ早かったか?」
「どうやらそのようです。先生のようには上手く立ち回れませんでした。」
「……まあいいだろう。仕方ない。少なくともこの数ヶ月間、お前のおかげで秘密警察の機密文書は諸々手に入った。それに東国のVIPとの繋がりもな?期待以上、十分すぎる働きだ。」
「……はい。」
オペレーション〈
ここまで特に何も問題は発生していない。
結局ユーリは"ティファニー"という人物を秘密警察に漏らしていない様子だ。ティファニー・ラドナーは西国の人間であること。戦争孤児で東国の汚点と言われていた"
例えユーリが自分を売っていたとしたら既にハンドラーや黄昏にバレていたに違いない。"実はユーリが私のことを西の諜報員だと知っている"という事実を。WISEの仲間たちはその事を一切知らないのだ。その点に関してはほんの少しだけ罪悪感さえ感じている。
「――それでハンドラー。今日私を呼んだ理由は何なのでしょうか?新たな任務ですか?」
朝顔は本題を切り出す。そもそもユーリとの件は雑談程度で終わらせるつもりだった。
そんな切り替えの早い彼女に再びハンドラーは諦めたようなため息を漏らすと背もたれに預けていた体を起こしデスクの引き出しからファイルを取りだした。
「……お前に新たな通達がふたつある。」
「何でしょうか。」
手渡されたふたつのファイル。朝顔はそれを丁寧に捲ると中の文書を直ぐに頭に叩き込んでいく。
「まずひとつ目。黄昏と夜帷、そして朝顔。3人を主軸にした大きな任務がある。相手は秘密警察も絡むものだ。心してかかれ。」
「はい。」
「そして2つ目―――」
朝顔はふたつめの任務のファイルに手をかける。中の書類に目を通した瞬間、微かに碧眼が揺れる。
見慣れない地名に地図。
次の標的であろう人物たちの顔写真――
「……来月末からお前は海を渡ってもらう。バーリント総合病院の有望な外科医。赴任という"てい"で"ノルダトメア海洋国"にな。」
「……"ノルダトメア"って……確かデズモンドが…」
「さすが情報が早いな?
"ノルダトメア海洋国"
西国と東国を中立するような立場の海洋国だった。
昔は西国と主に友好な関係を築いていたが先の戦争でその関係は破綻。もともと資源に困っていないノルダトメアは数十年独立国家を築いていた。
しかしここ数ヶ月、東国の国家統一一党総裁のドノバン・デズモンドはノルダトメアと関わりを持とうと動き出していた。まだメディアにも露出されていない内容だがWISEは既にその情報を握っていたのだった。
「……どうもあちらの動きがきな臭くてな。黄昏は動けん。夜帷はバーリントでの任務が長い分、離れられると困る。―――そこでお前だ。向こうで単独任務にはなるが、梟において重要な仕事をしてもらうぞ。」
ノルダトメアでの単独任務。
今度は向こうで情報収集。万が一武器の取引等があった際には体当たり……か。バーリントンよりも危険度が遥かに高い任務に違いない。
「バーリント病院での手続きも既に進めている。急で悪いがそういう事だ。」
「了解しました。」
「……まさか標的のユーリ・ブライアと破局してたとはな。まあタイミングは悪くなかったな。」
「ですね。」
ハンドラーの言う通りタイミングはちょうど良かった。あのストーカー気質のあるユーリとはいずれ別れるシナリオだった。遠方の概要国に赴任となれば会うこともない。ここでの関係性を絶って新たな地に行くのはベストタイミング。
――きっとこれでユーリに会うことは無いだろう。
「まあ、まずは先の任務だ。また概要はおって説明する。以上。」
ハンドラーの言葉に会釈で返す朝顔。
そして直ぐに踵を返すと足早に部屋から出ていくのであった。
「……アイツ……前よりも笑わなくなったな。」
机に肘を立て"どうしたものか"と、まるで娘を心配するかのような様子で眉を顰める。
体の一部から大切な何かが抜け落ちたような、どこか虚ろな朝顔の姿がハンドラーの脳裏から離れないのであった。
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――翌日
バーリント総合病院にて――
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午後の診察を終え、ちりじりになる医者や事務官たち。そんな彼らの話題は"彼女"の事で持ち切りだった。
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「なぁ!?聞いたか!?ティファニーちゃん!!ノルダトメアに赴任って話!!」
「しかも理事長の指名らしいぞー。」
「マジかよ。……ノルダトメアって船で何日もかかる場所だろ?」
「噂だと例の外務省の男と別れたって話だぜ?」
「遠距離はさすがに辛いわー。でも可能性あるなら……声かけるか?」
「……寂しくなるわね。ラドナー先生が居なくなるなんて。」
「いつも食堂で声掛けてくれて嬉しかったのよね。外科とか内科とか科とか関係なく、皆の名前覚えてくれてたし。」
「気が利くいい子だったのに……」
「医局長、ショックで倒れるんじゃない?」
「既に昨日から体調不良で休んでるわよ。」
「マジで!?引くわー。」
院内ではティファニーの赴任の件で大騒ぎだった。当の本人はそれに気づいていたものの特に触れることなく、迅速に正確に仕事をするのみ。皆が気にかけてくれるのはとても嬉しいことだ。だがここで悲しんでいる訳にはいかない。
これから先、自分がやるべきこと。
ただそれだけに執着するのだ。
感傷に浸っている場合では無い。
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仕事を終え、病院のエントランスを抜けるティファニー。なんだかんだまだここでの仕事はあと数日残っている。挨拶回りはまだ早いだろうし、菓子折の準備くらいはそろそろ進めておこう――なんて事を考えていたその時。
「"ファニー"。」
「……"ティフィー"お疲れ様。」
病院の門付近で手を軽く振るう二人の姿。
"黄昏と夜帷"。大好きな先生と先輩。
まさかこの二人が帰りを待ってくれているなんて初めての事だった。
「先生に先輩まで!お疲れ様です!」
鞄を抱え、嬉しそうに笑みを零しながら二人に走り寄るティファニー。するとロイドとフィオナはティファニーを真ん中に挟むようにして歩き始めた。
「今日一日、院内はお前の話で持ち切りだったな?」
「"鬱陶しい"くらい貴女の話ばかりでした。疲れました。」
「……フィオナ君。言い方……」
「……っ……」
相変わらずの物言いのフィオナに対して呆れ笑いのロイド。しかし彼は分かっていた、なんだかんだフィオナも悲しんでいることに。
「"大仕事"が終わったら最後に食事でも行こう。」
「((……先輩、それは私も含まれてますよね?))」
「先生ってば、大袈裟ですよ?」
「これからはそう簡単に会える距離じゃなくなるんだ。……俺も寂しいんだよ。」
「……先生。」
「…………((…私もそんなこと言われたい!!明日ハンドラーにファニーと任務交代できないかお願いしてみようかしら…。))」
ロイドとティファニーの会話。それは深い絆で結ばれているものだった。
それに敏感に反応し、嫉妬するフィオナ。問題なくそれはいつも通りの事だった。
「ところで"彼"は?」
「ユーリさんですか?"あれから"会っていません。先生のご自宅には何度か伺われているのでは?」
「いや、それが全く。ヨルさん曰く連絡はとってるみたいだが。仕事が忙しいみたいで。」
「……そうですか。」
大好きなヨルにも会いに来ない。それはかなり珍しい事だ。今までだったらどんなに忙しくても、残業で夜遅くなったとしてもめちゃくちゃ非常識な時間に花束を抱えてフォージャー家に現れていたのに(ロイド談)。
秘密警察もバタバタなのだろう。スパイ狩りも大変そうだ――
「……ねえ、ティフィー。」
「はい?フィオナ先輩。」
そんな時、口を閉ざしていたフィオナが途端に口を開く。相変わらず表情は無表情で真っ直ぐと前を見据えたままだが、微かに声色に感情が乗っている気もしなくはない。
「……貴女。本当は彼のこと好きだったんでしょう?」
「…………」
「彼のこと。」
「……え……?」
思いがけないフィオナからの台詞に思わずピタリと足が止まってしまうティファニー。それに釣られるように、遅れてロイドとフィオナも足を止めると、二人の視線はティファニーへと向けられた。
「何言ってるんですか。彼は"仕事"で仕方なく…」
「「…………」」
「ちょっとお二人とも?そんな顔しないでくださいよ。」
ロイドとフィオナの瞳に悲しい色を含んだ影が過ぎっていた。フィオナはあまり表情に出さないものの心配しているのは明白だった。
「いいのか?本当に会わなくて。」
「らしくないですね?先生がそんなこと言うなんて。」
「私も先輩と同意見よ。このまま会わないつもり?」
「フィオナ先輩も何言ってるんです?あくまでこれは"仕事"なんです。別れなんて惜しくありませんよ。」
あの"黄昏と夜帷"がそんなことを言うなんて誰が予測できただろう?きっとWISEの人間は誰も予想できない。スパイである以上"そのような感情"を持つことは御法度だ。それを散々目の前の二人から学んできたはずなのに一体どうしたものか。
「((……朝顔の微細な本音。))」
「((私と先輩は分かってるわ。貴女と過ごした時間は誰よりも多い私たちだからこそ――))」
きっとそれだけ、二人にとって"朝顔"という存在が大切なのだ。
WISEの凄腕スパイといえど"彼女はまだ子どもだ"。
「そんなことより!先ずは赴任前に大仕事がありますよね?久しぶりに"三人"が主体の!」
ティファニーは空気を帰るように再び笑顔を零すと二人の背を叩く。そして歩くように促せば三人は肩を揃えて歩き出した。
「……まあ幸いにも、あの男はこの件に関して一切関わっていないみたいですね?」
「確かにそれはそうだが……」
「関わっていたとしても仕事はきちんとやりますよ。絶対に……何があってもやり遂げます。」
例の"大仕事"。朝顔、黄昏、夜帷が主体となって動く任務のことだ。相手は秘密警察。西国の要人が秘密警察に狙われているらしく、その護衛を行うのが今回の任務だった。
そこで既にWISEで手に入れた資料。その任務に関わる秘密警察の人間のリストを見ると"ユーリ・ブライア"の名前はなかった。
不幸中の幸い、彼はこの任務に関わらない。鉢合わせることも無ければ"
その事実に、ティファニーは密かに安堵していた。
「先生、先輩。私頑張ります。」
「「…………」」
「何があっても、私は成すべきことを成し遂げます!」
どんなことが起ころうとも。私は必ず成し遂げる。
撃たれようが、刺されようが、目玉を抜かれようが――
"そう誓ったのだから、あの時に"
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――"ティファニー・ラドナー"
ノルダトメア海洋国 赴任発表から一週間後――
――WISE諜報員"朝顔"
対秘密警察 重要任務一日前――
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「((せっかくの久しぶりの休日だったのに、結局一日中雨だったなぁ……))」
バーリント市内、某カフェにて――
暇を持て余していたティファニーは昼過ぎからお気に入りのカフェで読書をしていた。パラパラと頁を捲る音、美味しい紅茶の香り。いつもの優しい店員の姿、同じく休みを堪能する客たちの姿。本当に心地良かった。
さすがに夕方頃には雨も止むだろう、なんて思っていたが止む気配は無い。むしろ雨風は強まっていくばかり。余計に外に出たくないし、幸いにもカフェもそこまで混雑していない。だったらせめて、ほんの少しでも雨風が弱くなるまでいつものこの場所で時間を潰させてもらおう――と考えていた。
「((せっかく市内の"ワスレナグサ"も綺麗に咲いてたのに今日の雨と風で一気に散っちゃいそう。……あ、そうだ。家の花瓶の水、今日変えてない!帰ったら直ぐに入れ直さないと――))」
本を片手に脳内でグルグルと様々な事を巡らせるティファニー。たまに纏っていたお気に入りの花柄のワンピースの裾を直す仕草を見せたり、新たに注文したフルーツタルトを口に運んだりと――己の時間を十分に満喫していた。
しかし……窓の外の大荒れの光景を見ると気分が沈んでしまう。晴れ晴れと青空が広がっているときなら何も思わないが、こういう時にひとりは寂しい。
…………ひとりは……
……寂しい――
ティファニーは本をテーブルへと置くと両肘を立て顎を乗せる。ぼんやりと黄昏れるように瞼を閉じ、カフェの穏やかな音を静かに鼓膜に流し入れる。
――扉が開く音、来店を知らせる鈴の音、客を迎える店員の声。
規則正しく鳴り響く足音。
椅子を引く音。
背後に席に座る人の気配。
微かにふわりと漂う"彼の匂い"。
「――誰かと思ったら、ユーリさんじゃないですか。」
ティファニーは瞼を閉じたまま、ゆっくりと口を開いた。後ろの席に背中合わせに座る人の気配。店内奥のこの席にはティファニーと"彼"以外姿は無かった。
「前は全く来なかったくせに。こんな時に来るなんて薄情な男ですね、本当に……」
「……あ、すみませーん!ホットコーヒーをお願いします。」
注文する呑気な声に腹が立つ。
ボソリと呟かれたティファニーの言葉は間違いなく彼の耳に届いているだろうに。暫く返答はなかった。
暫く続く沈黙。
しかしそれは店員が彼にコーヒーを運んできた後に打ち砕かれる。
「――お前こそ、何で今日はここに居るんだ。」
やはりユーリだ。
姿を見なくても分かる。
「お休みだからですよ。いつも来てるって手紙に残してましたよね?」
「嘘をつくな。"ここ数週間"来てなかっただろう。」
彼の口ぶりからして、ユーリはこのカフェに数週間通ったらしい。
"いつものカフェに居るから"と前の手紙に残していたのを律儀にも覚えていたそうだ。あの時は来なかったくせに。今更何なのだ。
「……"ノルダトメア"、赴任だってな。」
「へぇ、情報が早いですね。院内の人しか知らないのに。」
「姉さんから聞いたんだ。」
「ふふっ。ヨルさんったら……ということは先生が言ったんですね。」
ヨルさん、心配しているだろうな。
最後にちゃんと謝らないと。アーニャちゃんにも。
「ノルダトメアは船で二日。着く前に船酔いで倒れるなよ?せいぜい客室は二等だろう?」
「お言葉ですが私船酔いした事ないんですけど?しかも客室は二等でも一等でもなく特等客室です。快適な船旅になりそうで楽しみです。」
そもそも大きな客船だ。この男はフェリーかなにかの小型船舶で行くとでも思っているのか?
「向こうの医療体制は軟弱らしいな?バーリント病院みたいに何でもかんでも揃ってるわけじゃないんだろうし、お前みたいなチンチクリンがまともに働けるのか?」
「あれ?まさかお忘れですか?ライトロンゲンの姉妹院もかなり軟弱な医療体制でしたが余裕でしたよ?痴呆進んでません?ユーリさん。」
「……こンのチンチクリン……」
ていうか、なんでそんな事まで知っているのか?今更彼がそんなことを知る必要はないでしょう?私の赴任先の事なんて――
「ち、チワワ娘はどうするつもりだ!?まさかボクひとりで家庭教師……」
「アーニャちゃん、前よりも物覚えもいいし古語なんてこの前満点だったんですよ?もう家庭教師は二人も要りません。」
「ぼ、ボクの家にお前の私物がまだ残ってるんだ!いい加減取りに……」
「逆にまだ残してたんです?さっさと捨ててください。処分費用が必要なら別途送りますから。」
「~~~っ!」
一体この男は何がしたいのか。理解できない。
そんなことを言うためにわざわざ雨風の中、このカフェに来たのだろうか?
「……本当に。貴方って人は子供です。」
「な……なんだよ。」
「"行くな"って言えばいいのに。…ま、もう何を言っても無駄ですけど。私はここには残りません。"本当にお別れなんです"。」
ゆっくりと瞼を持ち上げるティファニー。相変わらずお互い背は向けたままだ、表情も姿すらも分からない。
ただ間違いなく彼は後ろにいた。多分彼も背を向けたままだ。
"まさか"彼にまた会えるなんて予想外だった。
…最後に賭けに出てみた自分が馬鹿らしい。
このカフェに来たら
――もしかしたらユーリさんが現れるかも、なんて。
「……最後にユーリさんの声が聞けてよかった。」
「っ……」
「私の賭けは当たったみたいです。……なんて、バカみたいですね、"私たち"。」
その時、ティファニーは財布から硬貨と紙幣を取り出しテーブルに置くと手早く荷物をまとめ始める。そして直ぐに上着を手に取ると立ち上がった。
変わらずユーリに背を向けたまま、出入口方面へと体を向ける。
「それでは、お元気で。」
言葉を残し、踵を返す。
顔見知りの店員に会釈をして足早にカフェから飛び出したのだった。
――しまった。片側の椅子に立てかけていた傘を忘れてしまった。
「待っ……!待って!ティフィー!!」
慌ててポケットからコーヒー代金を取り出し、テーブルへ乱雑に置くとユーリは彼女を追いかけた。
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「ハッ、はっ、…はァっ…」
午後から雨風が落ち着く――なんて大嘘だ。あの気象予報士め…飛んだ大嘘だ。
「………ッ…寒…」
飛び出したのはいいものの傘を忘れてしまった。お気に入りの青い傘…、しかも今日来ているワンピースもお気に入りなのにずぶ濡れだ。パンプスも酷く濡れているし…
……って、私。
本当に馬鹿だ。
なんで彼が好きだと言ってくれた花柄のワンピースなんて着てきたのだろう。靴も……たしかデートの最中にヒールが壊れて、彼と選んで買い直したものだ。
あの傘も……あの青い傘も
"ティフィーの目の色と同じ"だなんて言われて――
刹那、自身の体に降り注ぐ雨が止む。
正確に言うと遮られた。
青い傘がティファニーの体を雨から防ぐ。
「はぁ…はぁ……ッ…はぁ…」
「…………」
「ッ…ティ…フィー…っ…」
「…………」
「……"行かないでくれ"。」
「…………」
傘の柄の部分を持ち、息を切らすユーリの姿が目に入った。
彼もまたずぶ濡れだった。酷く息を切らし、必死に追いかけていたのがひと目でわかる程に。
「ボクが悪かった。本当に…ッ……だから……」
「…ごめんなさい。」
「頼むよティフィー……"リスト"の件は、まだ何とかなりそうなんだ!」
「……何言って……」
「君のデータを改竄している最中なんだ!だから分かってるだろう!?ノルダトメアに赴任する事が上手く進んでるのも、君が秘密警察のリストから抜け落ちたからなんだ!」
――彼がずっと忙しかった理由。
最愛の姉にも姿を見せなかった理由――
「そもそもマークされている人間を友好国に送り出す訳が無い!……分かってるだろ?ティフィー。」
滑稽だ。
この人は東国を守るべき秘密警察の人間なのに。
西国のスパイの情報を改竄するなんて――
「ふふっ…何言ってるんです?矛盾してるじゃないですか!離れたくないなら…ノルダトメアに赴任させたくないならずっと秘密警察にマークさせていれば良かったのでは?」
「…………ティフィ」
「マークされている限り、私はバーリントンから逃れることはできない!永遠に秘密警察の監視下に置かれて、何かあれば尋問されて、"死"――」
理解…できない――
「それ程に……"君の命が大切なんだ"。」
ユーリは傘を持っていない右手でティファニーの手を掴んだ。
彼女の手は震えていた。ユーリはそれを包み込むように優しく触れる。そして真っ直ぐと目を見すえる彼の赤が光っていた。
「だからッ…"最後"だなんて言わないでよ。……"ティファニー"。」
「……ッ…」
「お願いだよ。……お願い――」
懇願する彼の顔を見る。雨に濡れた彼の顔は泣いているようにも見えた。真剣に必死に訴える彼の表情は……
…ダメだ、ダメだ"朝顔"。
「っ!」
それに対し、ユーリに顔を見られまいと背けるティファニー。唇をかみ締め、必死に自分に言い聞かせる。
――私は何者だ。何のために生きている?
死んだ家族、戦時中に見てきた屍の数々。
――何者だ。
黄昏、夜帷、ハンドラー…仲間たち。
…私は何者?――
脳裏に浮かぶ彼との思い出の数々。
疑い合った過去、探りあった過去。
美しい夕日が見えるあの場所で誓い合ったあの時。
彼の手の感触、優しい赤い瞳。名前を呼ぶ声。髪を撫でる大きな手。
"私の全てを受け止めてくれたユーリさん"
「ぁ……は…っ……はぁ…」
必死に泣き声を抑えているつもりだ。
きっと今、彼の顔を見たら耐えられなくなってしまう。
「……ごめん、なさい。」
「ッ…ティフィ…」
「離してください。……お願いします。」
「嫌だ!離すもんか!!」
「いいからッ…離してください!!!」
ティファニーは最後の力を振り絞って手を振り払った。
青い傘は宙を舞い、風に吹かれ飛んでゆく。
「はぁ…っ……う…」
碧眼がゆっくりとユーリを捉える。
「ティフィー…」
「…ユーリ…さ」
細い金の髪の毛が顔に数本まとわりつき、顔は雨と涙でぐちゃぐちゃだ。酷く醜い姿だろう。
「うっ……うう…」
左の腕を口にあてがち、思いきりかみしばりながら泣き沈む。
その姿はまるで子供だった。
「…"さようなら"。」
そう口にした時の"彼女"。
それはユーリも知らない人物だった。
――西国のスパイでもない。
ティファニー・ラドナーでもない。――
別の誰か。誰も知らない"本当の少女"。
ユーリは最後に本当の彼女を目にしたのだった。
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「ハハッ!!やっぱりだ!!ビンゴ!!」
ムカつく部下の呑気な声が轟く。
「――"尋問"。よろしくお願いしますね?」
「"せーんぱい"?」
震える手。
銃口から上がる煙。
血に濡れ、足元で震える彼女の姿。
弱った碧眼が、ボクを哀しげに見上げていた。
※※※※※※※※
ピクシブには話に合わせた表紙もあります。
是非ご覧ください。
…そして次回から幸せゼロが続く予定です。