弓道部を見学した帰り道に頭にあったのは諸々の費用についてだった。流石に弓だの矢だのは貸し出してもらえるにせよ、維持費はつまり部費だ。それなりの額になる。防具も貸し出して貰えるだろうか。あとは道着と専用の足袋や手袋もあるか。新しいことを始めればそれなりに入り用なのは仕方ないけれど、それはきちんと長く続ける気がある場合に限る。万が一妹が自分を真似て弓道を始めたならきっと私はまた逃げ出すだろうと思えば、実際にお金を出すことになる両親に申し訳ない。それに高尚さも純粋さもない動機は、精神修行ともされる武道に対して冒涜的にすら感じる。結局、鞄にしまっていた白紙の入部届は沈めたままで帰途についた。
午前で終わり部活も決めていない生徒の帰りは早い。誰もいない通学路、まだ固い制服のスカートはそよ風に靡かず、背中に溜まった春の湿度が気持ち悪い。目線が落ちていることに気付いて意識的に顔ごと上げると、薄ら雲でくすんだ青空がどことなく近い。届きそうな気がして手を伸ばす。しとり、こそぐ感触。白々しい月がぽつんと浮いたままだった。
描かれた弧は細くちっぽけで、弓というより遠く羽ばたく鳥に見える。
「……『白鳥』は、恋の歌だったかしら」
国語の便覧にあった解説。若山牧水の名句──白鳥は悲しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ。育った環境の差で教育水準も価値観も大きく違う、求めても届かない相手への恋の歌なのだという。ふたつの青に溶けることなくひとり浮かぶ白に悲しくないはずがないと歌うのは、どういう気持ちなのだろうと今も思う。慰めるのは自分だとでもいうのか、あるいは染まらぬ強い白であってほしいのか。
それはときに女性の横顔を模すという。真昼の月は双子の妹に重なった。やることなすこと全て影法師のように私を真似て、そのまま私を呑んでより高みへ飛び出していく天才。一を聞けば十を知り五十を成して九十九を叩き潰す。百番目の私はいつも潰れ損なっては違う何かに逃げ出して、後を追ってきた彼女が勝手に一を知ってまた繰り返し。いつからか私は自分が本当に氷川紗夜なのかすら疑うようになっていた。妹の才能の肥やしか、あるいは毒味役か。影武者にはなれないだろう。愛嬌ある丸い二重の彼女と違って、私の目付きは恨みがましい腫れ瞼だ。毎朝鏡で見る堅物そうな暗い顔は彼女と大きく違うところだけれど、これも結局は彼女への鬱屈でできたものだからどうしようもない。
私は、欲しい。恋しい。
青空に呑まれない月が。
妹の影に怯えることなく、無邪気に追い求められる何かが。
浅ましくも伸ばしたままだった腕を折り抱える。白日の下、実に今更。
「……ただいま」
「あら? おかえりなさい紗夜! 早かったわね」
玄関を開けると、リビングから出てきた母と鉢合わせた。今日は休みが取れたと嬉しそうに言っていた母は昨晩、私達が帰ってきてすぐに出迎えられることを父に勝ち誇っていたっけ。こうも嬉しそうに迎えられると、同じく愛情を受ける半身に強烈なコンプレックスを抱えている身としては少々気まずいものがある。
「言ってくれたら車くらい出したのにぃ」
「いいわよ、まっすぐ帰ってくるかわからなかったし……」
それにもしも妹が早めに帰ることを選んでいたら、密閉空間で隣り合って座る羽目になっただろう。勘弁してほしい……とは言わず、自分の左頬を指差した。
「食べかす」
「えっ」
「仕事の整理でもしているんじゃないかと思ったのよ。家で仕事してるときはいつも食べてるでしょう? 徳用のチョコチップクッキー。今朝戸棚を見たら買い足されていたから」
「……ふ、ふふ……面白い推理ね探偵さん。末はノーベル文学賞かしら」
「普通そこで小説家呼ばわりなら貶しているのよ。褒めてどうするの」
まったくもう、なんて実の母に言うことではないだろうけれど、これでも軽んじるどころか娘としては尊敬して止まない。
双子を育てるのにかかる費用の概算はしたことがないけれど、都内の分譲でそれなりの生活を維持しながらという条件がついた時点でなんとなく想像はつく。その上で一切翳りないまま不自由なく育ててくれただけでも尊敬するには十分だろう。学費の心配はするなと笑い飛ばしてくれたのは記憶に新しい。
稼ぎ相応に忙しい身分で、定時退社とか働き方改革だとかで制御しきれないフレキシブルな仕事をしているそうだ。労働基準法は遵守しているようで休みの日に疲れて倒れているようなことはないけれど、簡単なメールのやり取りやちょっとした書類仕事(らしい)をラップトップで片付けているところは度々見かけている。
「紗夜に隠し事はできないわねぇ……そうだ、紗夜も食べる? ちょうどコーヒーも淹れたところなのよ」
職場で黒角砂糖なんてもらっちゃってね、と微笑む母は既にドリッパーを取って私の分を注ぎ始めていた。角砂糖も、ひとつでお願い、と言う前に一粒、ティースプーンを添えて支えながらゆっくり沈められる。私がたまにはブラックがいいと言い出したらどうするのだろうと思うものの、少しナイーブな気持ちだったのを見抜かれたのかもしれない。テーブルに着き、受け取って一口。いつも通りが心地よかった。
「入りたい部活はあった?」
「弓道部がいいかと思ったのだけれど……なんだか今一歩」
「あら、似合いそうじゃない。姿勢も良いしキリッとしてるし、きっと素敵ね」
こう、びしっと、びしっとしてて……と言いながら弓を引くような真似をする母は如何せん語彙が乏しかった。でも、褒められて悪い気はしない。
……だからこそ、後を追いかけてくる妹がどうしても恐ろしい。
このささやかな喜びすら奪われたとき、両親は私にどんな言葉を向けるだろうか。いや、想像はできるのだ。きっとこれまでの努力を認めてくれるだろう。心から褒めてくれるだろう。優しく抱きしめてくれるかもしれない。妹より優れた立派な姉でいられない自分を慰めてくれるかもしれない。
それら全てを正直に受け止めることすらできなくなったら、私は一体何になり果てるだろう。
「紗夜、この後はどうする? お母さんはもうちょっとダラダラしてからごはんの用意するけど」
「……出かけるわ。ちょっと、興味のあるものがあって」
「え、そうなの!? なになに教えて教えて!」
「始めるかどうかもまだわからないけれど……」
「お金が必要ならいくらでも援助しちゃうわよ」
「……じゃあ、秘密よ」
「えー!」
気になっていたのは、ギターだ。
制服からシンプルなデニムワンピースに着替えて、とりあえずA4ノートくらいしか入らなさそうなトートだけ肩に引っ掛けて駅前に繰り出した。実際に買う気は正直ほとんどなくて触るだけのつもりとはいえ、楽器をやる人と言ったらもっとパンクな格好のイメージだ。店で浮きやしないだろうか。こんな心配も少し滑稽だけれど。
弓道部に顔を出したのだって妹はやりそうにないジャンルだからで、ギターもそうだ。あの子はあまり芸術や音楽といった精神的活動に関心がなさそうに思える。要領がいいと曖昧な表現さえ答えのあるつまらないものになるのだろうかと邪推するのは幼稚かもしれないけれど、あらゆるすべてに逃避のために触れようとしている自分はもっと低俗だから結局は返ってくる刃だ。内心で自嘲自虐する分には好きにさせてほしい。
しかし、妹がやるはずもないジャンルであると同時に、格好ひとつとっても偏見がある私もまずやらないジャンルである。それでもこうして足を運ぼうと思うほどに興味が湧いたのは、どうしてだろう。もう、氷川紗夜という一人間であることも疲れてしまったのかもしれない。妹はどんな世界でも輝かしく光を放つだろう。海に白く、空に白く。私は、自分の裡に抱え込めるものが手に入るならもう、青く染まっていいかもしれない、なんて。
実際に楽器店に来てみると、思ったより清潔で洒脱な雰囲気で面食らった。入口からずらりと並ぶギター、ギター、ギター。何か(いえ、音楽関係に決まってるわね)の雑誌とどこかのバンドのPV、それからやかましいほどに鳴り響く楽器の音。一瞬レコーディングでもしているのかと思ったけれど、テンポに均一性がないあたり適当に弾いているらしい。試し弾きだろうか。
「……アコースティックギター、は家だとうるさいかしら。買うならエレキ……?」
簡単に調べた限り、アンプという専用のスピーカーにでも繋がらなければ大きな音は出ないそうだ。趣味……まあ趣味としてやるなら、無暗に周りに迷惑をかけることなく細々と続けていきたい。それなら、夜中でも押さえる練習くらいは気兼ねなくできそうなエレキが良い。
手持ちは……ああ、10万か。ここ数か月、お小遣いを口座に入れ忘れていた。お金だけ手渡しでしまうのは各々の口座にいれなさいというのは、思えばどういう教育方針なのだろう。本か筆記用具か、ときどき季節の服を買うくらいでろくに使っていないから、財布の中身を今日使い切ったところで困りはしないけれど。
ネットで見てみた限りでは、初めて買うギターはどうせ買い替えるから安いものでいいという意見と、長く使えた方が練習に良いからそれなりのものを買うべきという意見で分かれていた。しかし共通していたのは見た目を気に入ったら迷わず買えというもの。いわく、運命だから。
「……特にやりたい音楽があるわけでもなし、なんでもいいと言えばなんでもいいのだけれど」
くびれた胴にふたついかり肩のようなもの、小さく片手を上げたような形に白い半月のプレートが大きく張り付いたもの。ヒョウタンのような形に美しい木目の浮いたもの、様々ある。流石に「ギターはキンキンとうるさい音をかき鳴らしているだけのもの」なんてステレオタイプなロックミュージック嫌いのような偏見はないつもりだけれど、それでも予想以上の種類の多さに目が回りそうだった。弦が4本あるのは低音用だったか。そっちでもいい気はしたが、弾き語りのひとつでも……いや、歌は少し恥ずかしいが、伴奏くらいはできた方が楽しいかもしれない。じゃあ、やっぱりギターだ。
あちこち歩き回りながら段々と「何をしているのだろう」と我に返り始めた頃、ふと足が止まった。
今日の下校中に見上げていた空のような青。木目のない、照明を反射するつるりとした塗装。持ち手……ネックは日に焼けた様子もない艶のある淡い木の色。ボディに埋め込まれた白い装置……ピックアップは二列一組のものがふたつと、その間に一列だけのものがひとつ。この装置が多いと出せる音色のパターンが増えるのだったか。鮮やかな色合いに多彩な音色、どこか妹のようだった。
(これを……
ほの暗い欲望が首をもたげる。どんな分野でも私を飛び越えていく妹を道具として従える悦び。疑似的にでも、それを味わえるとしたら──
「──すみません、試奏をしたいのですが」
店員を呼びつけた。浮ついた気分は熱病にでも罹ったようで、いつの間にか適当なアンプの前に座ってギターを渡されていた。初心者であること、持ち合わせはあることくらいは喋った気がする。店員はせっかくだからとアンプのボリュームをそこそこに上げて、音源で聞くような音色に調整してくれた。
「左手はこうするとドミソの和音で……ピックの持ち方わかります? こう、人差し指と親指を交差する感じで摘まんで……」
「なるほど……こうでしょうか」
「そうそう! ……そんなにがっちり握りしめなくても大丈夫ですよ、リラックスリラックス!」
笑われてしまった。顔が赤くなる感覚と同時に、自分の鼓動が早まっているのも自覚する。柄にもなく、緊張……いえ、ドキドキしている、かしら。新しい扉の前に、私は、今。
店員にアイコンタクトをすれば笑顔で頷かれる。左手は今教わった和音の形で。右手は、弦の少し上に。
ゆるやかに、右手を滑らせて──
──ドキドキが、キラキラ、はじけた。
弦を押さえつける指先の痺れるような熱さ。太い木材から腕まで伝うギター本体の振動。音が観念や些細な心理効果ではない物理現象であることを突きつけてくるこれは、体を通じて、魂を揺さぶって、その奥の心に沈んだちっぽけな栓を掴まれた。
「……、……」
「どうですか、じゃきっとして良い音でしょ!」
「…………ぁ、あの……」
「はい! あ、音変えてみます? リバーブかけたりとかも」
「……もう一回……鳴らしてみても、いいですか」
どうにか絞り出した声があまりにもか細くて、店員の女性どころか自分自身にすらまともに届いていなかった。
しかし、彼女はどうしてか目を丸くすると優しく表情を崩して「……ええ、もちろん!」と答えてくれた。
今のはおっかなびっくり撫でただけだった。時折テレビで見かけるミュージシャンたちはどんな風に奏でていただろう。勉強ばかり詰め込んだ自分の堅物さを今、生まれて初めて強く恨む。
記憶に薄っすら残った数多のポップスの欠片が重なって天啓を編んだ。
音楽は、気持ちを表わすものらしい、から。
力任せになりそうな逸る手を全身全霊で抑えて……いや。
奏でたい気持ちに、丁寧に、慎重に寄り添わせて。
この鼓動のままに強く、閃かせて。
「────…………はぁ」
店員の彼女の粋な計らいか、先ほどより強く鋭く、煌びやかに爆発した音が甲高い余韻を残しながら散っていく。まぶたの裏に白く星が散る。月が砕けて夜が晴れる。
「……このギター、買います。買わせてください」
私はきっと、いま、生まれた。