バイトの演奏が増えて、二年生になってからはほぼ毎日スタジオへ行くようになった。
シフトを増やそうともどうしようとも成績を一切落とすことなく……むしろ一位をキープしつつ点数をどんどん高めて大体満点を保っていたのが良かったのかもしれない。たまにギターを背負って早退すると先生から激励してもらえるようになって、今日なんて「頑張ってね! あ、よかったらこれ、先生が残業のときに愛用してるガム! 気合入るよ!」とサイダー味のガムをもらった。成分表にはガムにしては多めのカフェイン量、教員の過酷さが偲ばれる。私はギター弾きでよかった。
新学期早々授業に出る機会は減りつつあるものの、勉強の効率化によって余裕はまだまだある。スコアの暗記・理解のために身に着けたノート術で丸山さん用の勉強用テキストを作ってあげねば、と頭の片隅で考えながらスタジオのコントロールルームに入ると、いつも通り大和さんが先に来ていた。
安イヤホンを引っこ抜いてギグバッグに雑に放り込む私に「あ、紗夜さん! おはようございます!」と元気な挨拶が返ってくる。
「おはようございます、大和さん」
「なにか音楽を聴いてたんですか?」
「いえ、メトロノームを」
「……はい?」
「メトロノームです。一定のBPMの刻みの上で、三連符やポリリズムがときどき重なってくるようなトラックを作りまして」
リズム感というかプログレ的なテンポチェンジの感覚に乏しい気がしたので、そのあたりを養いたかったのだ。スコアの上では特に指示がなくともフレーズ的にそういうニュアンスが欲しいのだろうな、という曲はそこそこ見かけるので、頭の中にある種の尺度を持っておきたい。ミニマルファンクなどの割合を増やそうか……とスマートフォンを見ながら楽器を置く私に、大和さんは「いやぁ、なんか、進級しても相変わらずと言いますか……」と眼鏡を直していた。
「前から大物っぽいところはありましたが、最近は一層マイペースになりましたね……」
「ソファに座らずそれと机の隙間に挟まっている大和さんも大概なのでは」
「狭いところが落ち着きまして……それに、突っ伏すならこちらの方が心地良いので」
よく見ると目元に隈が浮いている。最近はドラム演奏のみならず、打ち込みで出来るようなリズムマシンやパーカッション系の編曲にも携わっていて大変らしい。私も編曲というか、ギターリフを軸にイントロを作曲してくれと頼まれることが出てきたので気持ちはわかるけれど。あれは楽しくて睡眠時間が減る。
「……あの、大丈夫ですか? 少し寝た方が……」
「仮眠自体は一応さっき取りまして。良い感じに頭も休まりましたし、今のところ大丈夫です! お仕事を頑張ったら早めに就寝しますが」
「……そこの自販機でココアを買っていたのですが、よろしければ」
「えっ、でも悪いですよ」
「いいんですよ、もう一本買っていますので」
もちろん嘘だけれど。
言いながら、スカートのポケットで保温していたココアを大和さんに差し出した。一瞬ぎょっとされたがどうしたのだろう。気にせずギターを取り出して自前のマルチエフェクターを準備する。電源ときちんとしたヘッドフォンを繋ぎながら、私はあの日から変わらずときめいていた。
──今日はどんなギターを弾こう。
そればかり考えている。寝ても覚めても。
一年以上弾いてなお底の見えないギターの深淵はずっと遠いけれど、少しでもたくさん味わえるようになりたい。タッチパネルで作りながら爪弾いた音が頭の中の理想に近づいていく喜び。新しく取り入れたテクニックが曲にぴったりハマった時の達成感。新鮮な曲に手を引かれるように知らないフレーズを紡ぎ出せた時の陶酔。ギターがもたらしてくれる全てが私の幸福を形作っていた。
「紗夜さん、本当にギター好きですね……」
「ええ。去年の……ちょうど今頃でしょうか、なにも知らないまま楽器店に行ってこのギターに一目惚れした私の直感だけは、きっといつまでも自画自賛すると思います」
結局私が日菜に勝てたものなんて身長くらいのものだけれど、あの日の選択と幸運だけは誇ろうと思う。お陰で今、人生がこんなに楽しい。興が乗って流行りの爽やかな春ソングを逸脱してインプロに入ってしまう私に大和さんがパッドで付き合ってくれていると、コントロールルームの重い扉がのっそり開いた。
「あっ紗夜ちゃん! おはようございまーす! さっきぶり!」
「丸山さん? おはようございます」
事務所では今日初めてだからと律儀に挨拶する彼女に返しながら、頭の中でスケジュール表を確認する。ふたりきりだと守秘義務なんのそのという口の軽さなので、丸山さんの予定は私も大体把握してしまっていた。
「えへへ……さっきマネジメントチームの人がね、第二会議室で緊急のミーティングするから来てくれって」
「私にですか? どうしてまた……」
「紗夜ちゃんにっていうか、にも、かな。私も呼ばれてるの。紗夜ちゃんと仲良いの知ってるみたいでさ、よかったら連れてきていただけませんかーって」
「はぁ……」
もう少し弾きたいしなんならレコーディングギリギリまでやっていたいけれど、丸山さんがここに来たということは後に響かないくらい手短に済むかアイドル(研究生)人生がかかっているかのどちらかだろう。それなら断るのも忍びない。渋々ギターをしまった。
「……大和さん、すみませんが」
「大丈夫ですよ、他のスタッフさんが来たら伝えておきます! それに紗夜さん真面目ですし、たまに事務所に呼ばれて遅れるくらい笑って許してもらえますよ」
そうだろうか。欲望のままに生きている自堕落ギター弾きの私は首を傾げながら、丸山さんに手を引かれて部屋を出た。
「丸山さん、私があなたの人生の責任を取りますと言ったら行かなくてよくなりませんか」
「んぇ゛っ!? えと、待って……スゥー……ダメだよ! ちゃんと顔出さなきゃ! ……ちなみに責任って?」
「これをすっぽかして丸山さんが事務所にいられなくなったら、私が仮歌シンガーとして雇ってコンビで活動する目があるかもしれないと」
「もー!」
会議室の目の前でなお往生際の悪い私に丸山さんが怒りだした。それはそうだ。「おかしなこと言ってないで入ろ!」と手を掴まれたまま入室するもまだ無人。ギターを置いてこなければよかった。鞄がないので勉強もできない。なにか聴いていようかと思ったものの、ただ音が鳴るだけの安いイヤホンで新曲を掘ろうという気にはならなかった。丸山さんの声を聴いている方が音楽的に有意義だろう。
「何の要件かはご存じなんですか?」
「や、実は知らなくて……露骨にうんざりしないで紗夜ちゃん! 帰ろうとしないで!」
本当に戻りたい。
適当なことを言っては困り果てる丸山さんの声に脳内でギタートラックを当てながら指のストレッチだけしていると、扉が開いて見慣れた顔が出てきた。
「……あら、あなたは……紗夜ちゃん?」
「白鷺さん……お久しぶりです」
テレビでたまに見かける顔……らしい、元子役の女優が入ってきた。それだけならドッキリのような状況だけれど、私にとっては嬉しさや驚きより先に懐かしさと、ほんのり気恥ずかしさがあった。
彼女は目を丸くしたが、すぐに穏やかな笑顔を作ってくすりと息を漏らした。
「あなたに捕まって以来ね。半年ぶりくらいかしら」
「その節は申し訳ありませんでした……」
「さ、紗夜ちゃん紗夜ちゃん、この子、白鷺千聖だよね……!? なにしたの一体!」
泡を食って小声で叫ぶ丸山さんに肩を揺さぶって詰問される私は、なるべく言い訳じみた調子にならないよう努めて弁解した。
「……彼女が一度、登校できないはずの日に仕事の変更で朝から来られた日があったのですが。不勉強なもので有名人だと気づかず」
「風紀委員として遅刻のチェックをしていた彼女に見つかっちゃったのよ」
「紗夜ちゃん!」
あの丸山さんに怒られるのがあまりにもショックで二の句も継げない私を見かねてか、白鷺さんが説明を続けてくれた。
「午後からいけるかもしれなかったから制服は持っていたけれど、現場近くの駅から向かったら少し迷ってしまって……容赦なく取り締まられたわ」
「紗夜ちゃん! どうしてそんなことしたの!?」
いくらなんでも真面目に委員会の活動をこなして怒られる筋合いはない。おかしなテンションになってきた丸山さんはどうしたものかと思いつつ、とりあえず付き合ってあげることにした。
「仕事だからですよ」
「仕事と私どっちが大事なの!?」
「仕事ですよ」
「さ、紗夜ちゃん……」
「委員会の仕事を蔑ろにしたことで友人から悪影響を受けたなんて言われたら、丸山さんの将来に瑕がついてしまうかもしれないじゃないですか」
「紗夜ちゃん……!」
「なにを見せられているのかしら……」
茶番に付き合わせているのに少しだけ申し訳なさはあるものの、今は見逃してほしかった。
──アイドル研究生としての丸山さんは今、かなりの崖っぷちにいる。
アイドルになるのが夢なのだと教えてくれたのは彼女と知り合ってすぐのことだ。宿題の終わっていなかった彼女にノートを見せてあげたついでの世間話で、夢の発端──Marmaladeというアイドルについて語る目に親近感を覚えた。歌の練習にときどき付き合うようになったのもこの日から。
少しずつ上達していく彼女なら大丈夫だろうと思っていた私に教えてくれたのは、高校卒業までに芽が出なければおしまいというタイムリミットと、できることはすべてしたいという決意、情熱。
今日の呼び出しは胸を潰したに違いない。もしかしたら最後通牒かと怯えたかもしれない。スタジオに来たときからやたら名前を呼ばれるし、さっきのジョークだって普段なら「仕事と千聖ちゃん」と言っていたはずだ。明らかに不安がっている。
そんな友人の心を和らげられるのなら、茶番くらい安いものだった。
「なんとなく、風紀委員の真面目なイメージがあったのだけれど……意外とノリがいいのね。というか、この事務所の子だっていうのも知らなかったわ」
「スタジオミュージシャンとしてアルバイトしているんです。ギターの演奏だったり、作家さんと共同で作曲したり」
「え、すごいじゃない。……ある意味同業者かしら」
「演者という意味では、確かにそうかもしれませんね。光栄です」
こちらとしても少し意外だ。ペルソナでもあるのだろうけれど存外に気さくで、朗らかな調子はついつい口も軽くなってしまう。何故か話に入ってこようとしない丸山さんが難しい顔で腕組みしながら頷いているのを尻目に、一対一の会話が続く。
「始めてどれくらいになるの?」
「一年と少しです。まだまだ若輩ですね……」
「……ごめんなさい、聞き方が悪かったわ。スタジオミュージシャンじゃなくて、ギターを始めてどのくらいなの?」
「ですから、一年と少しです」
「……え?」
「おはようございます!」
「ああ揃ってますね、よかった。氷川さんも来ていただいてすみません」
「いえ」
「…………え?」
スタッフさんと、それから綺麗な銀髪を三つ編みにした美人な女の子が部屋に入ってきておしまいになった。
白鷺さんはなんだか物言いたそうにしているけれどどうしたんだろう、もしかして歴が浅すぎて業界をナメるなとか怒られるのかもしれない。実際浅すぎるし、私のギターも聞いたことはないだろうからなくはないだろう。
……そう考えたところで、はたと思い当たる。
業界の常識だとかなんとか、下らない理由でギターを弾けない状況に陥る事態を考えたことがなかった。
そんなことがあったらどうしようかなどと、目の前で始まったミーティングを他人事のように思いながらスタッフさんの言葉を待った。
「本日はですね、これから始める新しい企画──アイドルバンド『Pastel*Palettes』のメンバーになっていただきたくて召集をかけました」
「バンドですか!?」
「はい。丸山さんがボーカル、氷川さんがギターで白鷺さんがベース、こちらの若宮さんがキーボードの担当になります」
「わぁ……!」
続いた説明に丸山さんが色めき立った。私と一緒に練習しながら音楽ユニットみたいだとはにかんでいたこともあったっけ。
それにしても、こっちの二人も楽器を弾けるのか。ピアノを習っていたりする人をどこからから連れてきたのだろうけれど、白鷺さんはベースか。多才なものだ……と感心した矢先、銀髪の女の子──若宮さんが眉をハの字に萎ませた。
「キーボード……私、楽器の経験ありません」
「私も、新しく楽器を始める余裕はあまり──」
「もちろんアテフリですし大丈夫ですよ」
「………………は?」
そんなことがあってしまった。
「……確認します。事前のキャンペーンやコンテンツの用意もなくいきなり、一万人規模のキャパシティがある会場で、パフォーマンスとして楽器を持たされるのではなく『全員が生演奏している』という体で……アテフリでライブをするんですか?」
「え? ええ。別におかしなところはないかと思いますが……」
スタッフの男は別段こちらを侮る様子もなく、本当に不思議そうにそう返してきた。
信じられない。
……え、は? 信じられない。
「丸山さんはピンボとしても、少なくとも演奏においての素人がふたりいるのですが」
「ですからアテフリですってば。ガワくらいどうとでもなるでしょう?」
「……曲はバックで流すんですよね。機材トラブルが起きた場合はどうなりますか」
「万に一つもありません。自社で押さえてる会場ですし、整備くらい万全ですよ」
「……全員がプロの、一線級アーティストの集まったライブでさえ機材トラブルがあるのに?」
「そのアーティストたちは自分で会場を保有してるんですか?」
ダメだ、そもそもどこが問題なのかもわかっていない。
アテフリは案外わかりやすい。顔や手元のよく見えるような近距離でなくても、腕の振り、肩の動き、所作の節々に違和感は現れる。きちんと弾けるアーティストのMVでだってそうなのだから、素人のやることなんか知れている。
機材にしたってそうだ。ステージに置かれたアンプにそのまま線が通っていることは今時少ないそうだけれど、大抵裏にきちんとアンプが用意されている。急な故障や結線の不具合があっても裏で即座に対応できるようにするためだ。ストリングスや多様なシンセのトラックなど、バンドの中にメンバーのいないパートを流すためのPCだってメインとサブが用意されているのが常のはず。
それでも、不具合は起こる。万に一つ、億に一つ、兆に一つをそこで引き当てたらショーが止まる。警戒するのは当然の話なのに、このスタッフの男はまともに考えようともせず言い返してきた。彼だけが楽観視しているならもっと上に言えばいい。しかし、これが上も含めた総意なのだとしたらあらゆる意見は無駄でしかない。
ギターを弾いてるふりだけしてお金をもらうくらいなら、こんなバイトやめて──
「……でも、これが最後のチャンスなら……」
──あぁ、ダメだ。
丸山さんを見捨てられない。
寝ても覚めてもギターのことばかりの私を好きだと、一緒にいて楽しいと言ってくれた彼女を見捨ててしまったら、私はもう人間でいられない。
「それではこちら、詳しい企画内容とスケジュールです。よろしくお願いしますね」
「……はい」
スタッフの男は私たちが引き受けて当たり前のような態度で資料を放り出して、足早に部屋を出て行った。取り残されたのは迷子のような顔をした若宮さんと、仮面の下が読めない白鷺さんと、悲愴な面持ちの丸山さんと……ギターしか能のない私だけだ。
重い空気の中、堪えきれないと言わんばかりに若宮さんが呟く。
「アテフリ……演奏してるふりで、お客さんにウソ、つくですか……?」
「若宮さん……」
「アイドル、キラキラしてて、みんなに夢を与えるお仕事って聞きました。でも、こうなんですか。これでいいんですか……?」
途方に暮れた声色がぽろぽろと崩れ落ちる。あまりにも強引な状況への、私たちの総意を代弁していた。
でも、白鷺さんだけはわからない。スタッフと同じような考えを共有しているのか、丸山さんや若宮さんのように困惑しているのか。彼女のナチュラルな仮面とニュートラルな態度を見て、私は自分のこれからを決めた。
「白鷺さん、五分でいいです。時間はありますか」
「……仕事の準備があるけれど、そうね。五分なら問題ないわ。ここで待っていればいい?」
「はい。──一週間で一曲通せるようになれるマニュアルを取ってきます」
返事も待たずに全力で走りだした。
目指すはスタジオ。私のギグバッグの中にある、ルーズリーフをファイルに入れただけの簡素な小冊子──ギターを始めてからやってきた練習の全てをまとめたマニュアル。
走りながら考えるのは音響スタッフへの根回しとプレゼンの段取りと白鷺さんの説得材料と、なにより、丸山さんの悲愴な顔だった。
ふざけるな。
アテフリなんて見えている崖に、みすみす向かわせてなるものか。
なにがなんでも丸山さんの将来を拓いて、ステージで生演奏してやる。