心底馬鹿げたことに、資料には「ドラマー:勧誘予定」などとふざけた文言が記してあった。二週間後に本番があるのに、だ。
そう、あのスタッフは言わなかったけれど、本番はほんの二週間後だ。無謀な条件の羅列に動揺してその場で確認できなかった私の落ち度でもあるから、ここに関してはあまり引きずりたくないけれど。
半月。今の私なら問題なくこなせるだろうけれど、魅了されたばかりのあの日の私なら流石に厳しい……はず。ましてや、鼓動のたびに星の煌めくようなあの喜びをまだ知らない白鷺さんたちでは、おそらくモチベーションが保たないだろう。この状態で更に最後のドラマーまで初心者だったらいよいよおしまいだ。
なので大和さんを捕まえることに決めた。
「大和さん──アイドルをやりませんか」
「出会い頭に眼鏡を奪いながら言うことではなくないですか!?」
それはそうだけれど、とりあえず持ち物のひとつでも押さえないと逃げられそうだったから仕方がない。
アテフリバンドに巻き込まれた二日後のスタジオで、私は練習手伝いの名目で付き合わせていた大和さんの眼鏡を奪って壁際に追い込んでいた。互いに制服姿のままの犯行である。
「眼鏡があっても知的で純朴さのある印象でしたが、外すと和らいでいた雰囲気が一気に華やかになりますね。この二面性のある顔立ちの良さに、スタジオミュージシャンとしての確かな腕……アイドルバンドにはうってつけでしょう」
「紗夜さん、もっとこう、多少天然でもクールな方だったじゃないですか! どこに隠してたんですかその情熱的な口説き文句、メンバー欲しさにテキトー言ってませんか!?」
「そんなに不誠実になった覚えはありませんよ」
大和さんのドラムの腕を買っているのも、容姿が整っていると感じているのも本心だ。機材に対するいわゆるオタク的な情熱はそれだけでキャラ付けとして強いだろうし、それに裏打ちされた知識量はきっと助けになってくれる。人間的にも謙虚で優しい。これ以上はないだろう。
なにより、このスタジオで半年ほど一緒にやってきた仲間として、乞う。
「私のギターをあなたに支えてほしい。……引き受けてもらえませんか?」
「……ず、ずるいですよ……」
勝った。
小さくガッツポーズをして大和さんに眼鏡をかけてあげる私に、後ろからぽつんと声がかけられた。
「……紗夜ちゃん、思ったよりパッションある子なのね」
「普段はそれなりに大人しくしているつもりですが、今はなりふり構っていられませんから」
コントロールルームの後ろのソファに座った白鷺さんの呆れたような言葉に振り返りながら、私はギターを手に向かう。
彼女の膝には、クリーム色のベースが乗せられていた。
「……さて、進捗はどうですか」
「紗夜ちゃんのマニュアルのおかげで、当初の予定よりはずっと順調ね」
おかげで、という割にちょっと恨めし気な口ぶりだった。ベースを抱えて立ち上がる彼女の構え姿はすっかり堂に入っていて、指先にはクリームの予防では追いつかなかったのか水ぶくれができていた。それを見て頷く。
「お忙しいでしょうに、しっかり練習してくれているのですね」
「……あのタイミング以外で、あなた以外に言われていたら適当に流していたでしょうね」
どことなく自嘲的な響き。白鷺さんは大袈裟な溜め息を吐いてベースのネックを握り直した。
「ギターを始めて一年と少しって言っていたでしょう?」
「ええ。高校生になってから始めましたから」
「ごめんなさい、流石に信じられなくて……学校やここであなたのことを尋ねてみたの」
「それは……まあ、そうでしょうね」
さもあらん。知らないところでどう思われようと困りはしないので「構いませんよ、別に」と流した。彼女は続ける。
「そうしたら成績優秀だとか人当たりが良いとか完璧超人みたいな評判に付随して、必ず『大のギター好き』って言われていたから。同級生に爪の保護の仕方を聞いてたとか、吹奏楽部の子に音楽理論を教わっていたとか……あと、彩ちゃんと一緒によく朝練をしてて、流行りのポップスをリクエストすると弾いてくれたとか」
「あぁ……よくやっていましたね」
初めの頃はコード弾きがせいぜいで細かいオカズだの飾りを入れる余裕がなかったから、音楽そのものに触れた経験も浅く引き出しが少なかったのもあって拙い出来だった。とはいえ、面白がって色々弾かせてきた同級生たちは決して茶化したり馬鹿にしたりもしなかった。それも上手くなれた要因のひとつだろうなと思っている。
懐かしむ私に「慕われてるのね、周りから」と微笑む白鷺さん。
「このスタジオでもかなり進んだ仕事をしてて信頼されてるみたいだし……篤実な人だってわかったから、あなたの無茶に付き合おうと決めたのよ」
「ちなみに、お眼鏡に適わなかった場合はどうしていましたか」
「後日何食わぬ顔で『ごめんなさい、時間がなくて……』って返していたでしょうけど……あの会議室でファイルは受け取ってしまったから、あなたの立場を悪くしない程度の働きかけはどうにかしていたかもしれないわ」
あのとき駆け出して正解だった。私のギター歴の浅さに驚いていたから、スタジオミュージシャンになったほどの練習内容を即座に提示すればとりあえず関心は引けるはずだと踏んでの行動だった。
今更ながら胸を撫で下ろしつつ、譲れないところだけは触れておく。
「私はギターさえ弾ければ立場なんてどうでもいいので、丸山さんの進退がままならないのであれば断っていたでしょうね」
「じゃあ、これでよかったんだわ」
「それじゃあ、今日もレッスンお願いね」と部屋を出ていく白鷺さん。ベースアンプが向こうのブースにあるからそっちへ向かったのだろう。すれ違いざまの横顔は、どことなく憑き物が落ちたようだった。
「……ジブン、白鷺千聖と言ったらもっと怖いというか近づきがたいイメージだったんですが、案外気さくですね。いや、言ってることは全然シビアでしたけど」
「奇遇ですね、大体同じ印象です」
処世術なのだと思う。生き馬の目を抜く芸能界に幼い頃から身を置いて、彼女なりに譲れるものと譲れないものを見極めながら折り合いをつけてきたのだろう。
少し、覚えがある。ギターの楽しさと天秤にかけて日菜へのコンプレックスを割り切ってから、色々なものを許せるようになった私と、もしかしたら似ているのかもしれなかった。
昔の真綿で首を絞めるような苦しみを思い出して、静かに深呼吸した。
「……どうせなら、ベースを楽しんでくれるといいのだけれど。音楽は素敵なものだから」
「ですねぇ。……でも、意外と言えば紗夜さんもですよ」
「はい?」
「丸山さん……でしたか。あのご友人のために、ギターを弾けなくなるかもしれない状況に身を投じてるわけですよね。なんだかジブン、ちょっと安心しましたよ。流石に人間性まるごとギターに捧げてるわけじゃなかったんだなーって」
「……そうですね」
そんなに高尚な理由じゃない。
丸山さんを見捨てても、私はきっと楽しくギターを弾けるだろう。弾いているうちに一旦は忘れてしまうだろう。そしてギターを爪弾くたびに「ああ、あのとき私は友人を捨ててギターを選んだのね」と苦々しさが去来するだろう。
妹に同じことをしておいて、今更だけれど。
本番までにクリアしなくてはならない障害はいくつもあるけれど、こんな終わっている企画に付き合う義理のない白鷺さんを最初に繋ぎ留められたお陰でかなり話が早い。大和さんも無事に捕まえて、あとは生演奏のメリットをどうにかプレゼンするのみ。
そのためにもまず、この一週間は練習漬けにしていた。
「──じゃあ、ここは簡略化してしまいましょう。管楽器のメロディのところを私がこう……こうやって弾きます」
「へ、ヘンゲンジザイ……! サヨさん、とてもギターが上手なんですね……!」
「ありがとうございます。それで、若宮さんにはこのパートでコードをやってほしいのですが」
「……はっ! マニュアルに書いてありました! えーと……」
いつものスタジオではなくリハーサル用のダンススタジオで、若宮さんは譜面台に置いていたファイル──私の練習日誌のコピーを取ってパラパラとめくる。「あっ、これです!」と空に翳すみたいに掲げて、それからはしゃぎすぎたのを恥ずかしがるように縮こまっていそいそ確認。愛嬌の塊みたいな女の子だった。
それを微笑ましげに見ていた丸山さんが後ろからのぞき込んでくる。
「紗夜ちゃんのそれ、私はもらってないんだけどどんなこと書いてあるの?」
「初心者の頃に調べたいろいろな用語であったり、自分なりのフィンガリングや暗譜のコツだったり……そういった諸々の備忘録をまとめたものですね」
正直見苦しいものだと思う。メモ書きのままではあんまりだからファイリングの前に毎度整理してはいたけれど、冊子にすることは考えてなかったし、まして人に見せるだなんて完全に思慮の外だった。そのせいでところどころにしょうもない雑感なども残されている。
添削する余裕があればしてしまいたかったけれど、受け取って実際に使っている白鷺さんはどうしてか遠い目をした。
「……膨大なんだけど、不思議なくらい読みやすいのよね。知識をつけるためにお仕事の合間に目を通しているんだけど……これに書いてあるストレッチや楽器本体が無くてもできる練習をスキマ時間にやっていたら、みるみる内に上達というか、手が楽器に適応していって……」
「そんなにわかりやすいものでしょうか? 自分にとっては試行錯誤の過程でしかないので、あまり実感が湧かないのですが」
「魔法でもかけられているんじゃないかってくらいよ」
「サヨさんのコメント、面白くてわかりやすいです!」
若宮さんが開いて見せたページには「スケール、覚えるのが面倒」「音を丸暗記するより音程の間隔と響きで覚えた方が楽」「ペンタは適当に弾いても様になるからだいたいうま味調味料」なんて雑感にしても雑すぎるコメントが踊っていた。奪って破り捨てたい衝動をギターを弾いて抑え「あ、うま味調味料のスケールですね!」死んでしまいたい。
丸山さんに背中をさすられながら慰められる私に苦笑いしながら、大和さんもマニュアルを覗き込んで「おや」と声を上げる。
「ジブンとの機材談義のことも書いてくれてるんですね」
「あぁ……トランジスタの種類や電気系については詳しくなかったので。そうですね、特に電圧の話は面白かったです」
「デンアツ……?」
丸山さんはまあ知らなくていいと思う。肩から下げるショルダーシンセをぽろぽろ鳴らしてコードの確認をする若宮さんを窺いつつ「それより」咳払いして佇まいを整えた。
「若宮さんの確認が終わったらもう一度合わせたいのですが……この際です、他に確認しておきたいことは」
「……そうね。じゃあ、演奏には関係ないことだけれど」
白鷺さんがピックを譜面台に置いて手を挙げる。
「……このあと来る営業や音響スタッフ、マネージャーに見せる演奏如何によって、本番で生演奏できるかが決まるのよね」
「反故にされなければ、ですが」
レッスンスタジオをぐるりと見まわす。鏡張りの広々とした空間は、今だけ私たち専用に整えられていた。
大和さんご自身と馴染みの音響さんに持ち込んでもらったマイクが最低限とはいえドラムに立てられ、私の自前の高性能マルチエフェクターやスタジオで借りてきたベース用のプリアンプ、若宮さんのキーボードもラインでミキサーに繋いである。音量バランス自体は既にとってあり、いつでも演奏できる状態。
準備万端……いや、臨戦態勢。
「紗夜ちゃんのおかげで、たった一週間しか準備できなかったとは思えないくらい演奏レベルは底上げされた。企画をもらった段階では沈むのが目に見えていたけれど、今はひとまず、価値も見出せるわ」
ベースのネックに添えた指でとんとんと叩く。ここしばらくで付いたらしい考え事をするときの彼女の癖で──
「……でも、将来の確約はされていない」
──おそらく、苛立ちの表れ。
見慣れた穏やかな仮面に小さな罅を走らせながら、彼女は続ける。
「アテフリになるにしても、生演奏できるにしても、リスクは大きいわ。だからせめて動機を知っておきたいのよ。この『ひとまず』の価値のために心中する羽目になるかもしれない仲間が、どうしてここに来たのか」
仲間、と言いながら──彼女が視線で射竦める先にいるのは、丸山さんだった。
「麻弥ちゃんは勧誘の様子を見ていたわ。イヴちゃんは異国の地でひとりきりの仕事から脱して人と関わりたかったって話してくれた。紗夜ちゃんはそもそもこの事務所に執着なんかないでしょうけど……極論、彩ちゃんのためよね」
「……そうですね」
「あとは彩ちゃんだけよ。……あなたは、どうしてアイドルになりたいの?」
ルーツに踏み込むにはきっと、まだ早い。お互いのことなんてろくにわからないし、白鷺さんだって自分のことをそれほど明かす気はないだろう。芸能界という夢のある場所で現実的に生きてきたであろう白鷺さんから、これから夢を持って飛び込もうとしている丸山さんへの、ある種の挑発だった。
丸山さんは自らの胸に問うように手を添えて、目を閉じた。
「……憧れてるアイドルがいるの。キラキラして、歌もダンスも一生懸命で、見てるだけで元気がもらえるような、ほんとに素敵なアイドル。その人を見て私も、人を元気づけられるような素敵な──」
──彼女は、ちらりと私を見て。
「──違う。
そう言い切った。
「私の歌やダンスで喜んでもらえたら、応援してもらえたら、元気をもらったって言われたら……きっと嬉しいと思う。でも、目指したのは
大きな声で宣言して、それからふにゃりと微笑む。朝の教室で何度も見た、夢に向かって歌う横顔にそっくりな表情で。
「……私にとってのアイドルは、キラキラして、ドキドキして、素敵な歌とダンスと一生懸命さで、見る人すべてに元気を与える人だから。そんな私になるための道が目の前にあるなら、走るよ」
「……そう。それだけ強く求めるなら、生半可で投げ出すこともないわね」
白鷺さんが一歩進み出た。マメのできたぼろぼろの手を差し出して微笑む。それを、丸山さんは両手で掴んだ。
「一蓮托生ね。頑張りましょうか」
「うん!」
……白鷺さんは納得してくれた。メンバーも足りた。技量も最低限は確保して、その他色々な懸念もどうにかできる当てはある。
あとは。
「若宮さん、演奏は」
「ちょっとドキドキしましたけど……でも、大丈夫です! すぐにでも本番できます!」
「頼もしいですねぇ……ジブンもいけますよ」
「大和さんは最初から心配いらないでしょうに」
チューニングを再確認。曲は頭に入っている。使い慣れたピックで軽くストロークすれば、ミキサーを通してスピーカーから深いオーバードライブサウンドが飛び出した。白鷺さんのベースも若宮さんのシンセも問題なし。
レッスン室の扉が開いてスタッフたちが入ってくるのを横目に振り返って、私は丸山さんに拳を向ける。
「あなたなら大丈夫です。ずっと、一緒に練習していたんですから」
「えへへ……やろう!」
格好つけて拳を合わせて。
生演奏の検討を頼みながら、私たちは今出せる最高の演奏をして。
唯一の持ち歌、本番でもお披露目する予定の曲を合わせた私たちに向けられたのは音響スタッフの歓声と、マネージャーの驚いた顔と──召集の場にも居たスタッフの男の、迷惑そうな文句。
「いや、困りますよ勝手な事されちゃ。当初の予定通りやりますから、変なことしてこっちの段取り崩さないでください!」
……聞く耳も持たず去っていく男の背を止めることもできないまま、私たちは取り残された。
口も開けず茫然と立ち尽くす他のメンバーの間を縫って、いつもお世話になっているサウンドエンジニアさんが頬をかきながら近づいてくる。
「……氷川さん、これは……」
「……はい。仕方ありませんね──」
──最終手段に踏み切ろう。