慣れないサイドポニーの髪、商売的にあつらえたイメージカラーの衣装、シールドの繋がっていないギター。何の意味もないリハーサルも終えて全身を嘘で塗り固め、とうとう楽屋を出てステージに上がろうとしていた。
「……紗夜ちゃん、本当にやるのね?」
「はい。
楽器を携えて私の少し後ろをついてくる白鷺さんは、場慣れした役者らしくない固い顔で問いかけてくる。私もなんら気の利いたことは言えず、張り詰めた空気が舞台袖に落ちる。
観客は大入り、キャパシティをきっちり埋めて謳い文句通りに一万人を超えているらしい。私たちのためだけのライブでもないから、観客たちは私たちより遥かに完成度の高いショーをいくつも浴びてすっかり目の肥えた状態で待ち構えているわけだ。こんな場でアテフリなんて返す返す馬鹿げているけれど、当初の予定よりもっと馬鹿げたことをしようとしているのが今の私たちだった。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ……どうしよ、この大勢の前で本当に……?」
「いえあの、パターン次第では彩さんは本当にやれることがなくなっちゃうので、あんまり気負わなくても……」
「手持ち無沙汰が一番怖い! ど、どうしよ、ポーズでも取る!? ……そうだ、いざとなったら私には伝家の宝刀彩ポーズが……!」
「やめましょうあれは」
「アヤポーズ……? そ、それはどんなポーズですか……!?」
視界の先、ステージの袖際から観客席を窺う丸山さんたちには緊張感なんて欠片もなさそうだけれど。
白鷺さんは「はー……でも緊張しすぎるよりはいいのかしら……」と頭を抱えている。
……前々から疑問に思ってはいたけれど、彼女は『白鷺千聖』という仮面を頻繁に外している気がする。こんな泥船に乗り合っただけの間柄、適当に上辺だけで受け流してしまった方が後腐れなく別れられるだろうに。
私の怪訝を察したのか、白鷺さんは拗ねたような面持ちで「紗夜ちゃん、結構鈍いわよね」と溜め息を吐いた。
「……私はね、紗夜ちゃん。作り物の態度で得られる有象無象からの好感度より、まずあなたの信頼が欲しかったのよ」
「……はぁ?」
素っ頓狂な声が漏れた。白鷺さんがますます呆れた顔をする。
「当然でしょう? 厚い人望、高いモチベーション、ギター歴一年でスタジオミュージシャンとして指名の仕事が入るほどの能力とそれを支える勤勉さ。培ってきたものが無能共の愚行で台無しになってしまうかもしれない状況で、普通は部外秘として残しておくレベルの精緻なマニュアルを友人のために迷わず開示した行動力と、情の深さ。加えて事務所に未練もないと来れば、いなくなってしまう前に繋がりを得ておきたいと思うのは不自然じゃないでしょう?」
「……正直買い被りだと言いたいですが、褒められているなら素直に受け取ります」
「ええ、受け取って頂戴」
口元に手を当ててくすくす笑う姿はどことなく意地悪だった。それをすぐに引っ込めて、すぅと細めた目で客席を睨む。
「……実を言うとね。あのミーティングでアテフリをしろと言われた段階でほとんど見切りをつけていたのよ。どう考えても上手くいくはずがないのだから、下手に真面目にやろうとするよりは状況に流されながら『事務所の無茶振りに巻き込まれた可哀想な女優』として次へ繋げた方がベターよね。もし彩ちゃんあたりがちゃんと練習しようだとか言い出していたら……そうね、『アイドルの魅力は演奏の技術じゃなくて一生懸命やってる姿だと思う』とか言って、事務所の方針に沿うよう推し進めていたんじゃないかしら」
「逆効果では……?」
「キャリアの立て直しのことを考えたら破滅のタイミングがわからなくなる方が困るもの。さっさと終わらせてしまった方が話は早いわ。……あなたがいなければ、このライブのために楽器を練習することだってなかったでしょうね」
「私のせいですか?」
「あなたのおかげよ。打算の面でも、これだけの努力をして苦境を打ち破ろうとした、って美談は用意できたし……」
白鷺さんはクリーム色のベースをネックに添えた手で愛おしげに撫でて、「……いえ、無粋ね」と仕方なさそうに微笑んだ。肩に下げたギターに触れて作った笑みをどうにか返す。見抜かれているだろうか、こんな素人演技。
……私は、本当に大層な人間ではない。
ギターが好きで寝食も忘れて没頭したし、情熱は少しも薄れていない。すべて放り捨てて家に帰って思う様ギターを弾いていたい。それしか取り柄のない人間だ。そのギターだって妹に勝てそうもなく、それを悔しがりもしないで自己満足のために弾いている。
ギターが楽しい。
ギターを愛している。
ギターさえ弾ければ人生は幸せだ。
でも、ギターを取り上げた私には何もない。
失うものがないからこんな博打に踏み切ろうとしているし……人生が変わりかねないほどのリスクを友人や知り合って間もない他人に背負わせるのに躊躇しなかった。
「Pastel*Palettesのみなさん、出の準備をお願いしまーす!」
「はーい! 紗夜ちゃん千聖ちゃん、準備できてる?」
丸山さんがこちらへ近づいてくる。アイドルらしいピンク色の衣装。ふわりと揺れるふたつ結び。溌溂とした笑み。これから、少なくとも一度は人を欺いて怒りの波に曝されるとわかっていて、膝の震えを押し殺して普段通りの振る舞いを見せている彼女に。
彼女だけじゃない。初めての楽器演奏でこんな大舞台に立たされて必死に緊張を落ち着けている若宮さんにも、ただ半年ばかりの付き合いを頼りにこんなところまで連れてきてしまった大和さんにも。胸の内を明かして覚悟を決めてくれた白鷺さんにも。
私はこれから、自分の我儘を背負わせ──
「ええ、できています」
──ああ、ドキドキしてきた。
ギターが弾きたい。アテフリでも何でもいい。どんな肩書でもいい。人への迷惑だって知ったことじゃない。あとのことなんかどうだっていいから。
友人の未来のためだと言い訳しながら、私は結局──ただ、ギターが弾きたい。
照明が落ちて、五色の光で照らされて、こんなにも退屈。
チューニングのためにギターを爪弾いても手に伝わる振動までしか感じ取れない。私はどうも弦の煌びやかな音色が特に好きなのだけれど、強めにストロークしてもイヤモニで塞がってろくに聞こえない。気分は萎えていく一方だった。
ギターに取りつけられたワイヤレスシステムの端末は、ステージ上のアンプについているダミーではなく裏のシステムに繋がっている。一応立ててあるマイクもボリュームは落とし切ってあり、素人の下手くそな演奏なんて絶対に客席に流れない仕様だった。
「本日お披露目のアイドルバンド、『Pastel*Palettes』の生演奏によるパフォーマンスです──!」
ありきたりな紹介と共に大和さんのカウント、流れ出すバックトラックが既に遅れかけていて笑ってしまいそうだった。
以前に大和さんと一緒に収録した『しゅわ☆しゅわ☆Dreamin’!』……改め、『しゅわりん☆どり~みん』。タイトル通りのキャッチーなフレーズが印象的なのに、それすら口パクでやれというのだから深謀遠慮恐れ入る。
凝った曲調もなにもかもお構いなし。私に至ってはそもそも自分がギターを入れた曲なのもあってまともに合わせる気すらなかった。イヤモニから流れてくる曲に釣られるまま奏でて、ろくに没入もできず作り笑いで観客席を眺める。せめてもっと疑うような顔でもしていればいいのに、誰も彼も普通に楽しんでいそうだった。
──別に、誰も音なんか聞いていないのなら。
──私が好きに弾いたって構わないんじゃないかしら。
演技すら諦めて棒立ちにでもなってやろうかと考えるも、丸山さんが真剣に歌っている以上は許されない。流れているのは前録りした音源で、マイクに拒絶された肉声はドラムにかき消されてしまっているとしても、彼女は全霊を込めて歌っているのだから。
アイドルになりたいと言っていた。キラキラドキドキを届ける素敵なアイドルになりたいと。
誰の耳にも届かない歌を歌って、自分なりの本気を口パクだと切って捨てられることを承知のまま声を張り上げる彼女は今、なにを思って──
「──あ」
ばつん、と音がして。
ああ、案の定、結局、やっぱり、本当に──万に一つを引き当てた。
「……え、音止まった?」
「でもあの子たち手動いてるけど」
「まさか口パク?」
音が止まった瞬間、動揺した丸山さんの声が出なくなっていた。蒼褪めた表情が客からどう見えるかなんてわかりきっている。一生懸命取り組んだ挑戦がくじけた顔ではなく──隠し事が暴かれた浅ましさ。
「──生演奏とか、嘘っぱちじゃん!」
嚆矢が飛んで、それから矢継ぎ早に怒号が溢れかえった。
「ふざけんな、今日S席だったんだぞ!?」
「他のユニット超良かったのにトリがこれって、最悪じゃん!」
「おい、これ返金沙汰だろ……」
「誰だよ今あそこいんの……は!? 白鷺千聖!?」
白鷺さんが唇を噛んで俯く。丸山さんを挟んで反対にいても気付ける態度。若宮さんが前のふたりに駆け寄ろうにも駆け寄れずおろおろして……大和さんだけは、私を見ていた。
ギターを下げたままヘッドを流して背中に回す。右手で後ろに回したネックを弦ごと握りながら、私は彼女の隣を過ぎてアンプに近づいた。
「……本当になっちゃいましたね。声が出なくなっただけでマイクは生きてるみたいですし、PCが落ちたっぽいですが、PAシステムの再接続にはちょっとかかりそうですねぇ」
「……まさかとは、思っていました。まさかそこまで杜撰ではあるまいと。最低限の仕事はしているだろうと。──でもこうなったからには、現場の判断で頑張るしかありませんよね」
「この際、とことんお供しますよ」
「ありがとうございます」
ステージ上のアンプだけ、客席用スピーカーとは別の独立した電源を取ってもらっていた。ワイヤレス端末はダミー、引っこ抜いたとしてもちろん何の影響もない。アンプの下に勝手に用意していた自前のケーブルを繋いで、セッティングを──あれ。
今、この状況は。
事務所の不祥事で、誰も彼もが罵詈雑言を飛ばしていて。
スタジオミュージシャンとしてやってきた私の実績だって風前の灯火か、あるいはもうおしまいで。
これからやること次第では友人の夢も閉ざされてしまう……どころか、こんな騒ぎになった時点で先はないかもしれなくて。
大嵐の中に立ち竦んでいるはずなのに。
なんて、身軽な。
「──は、っはは、あははははっ」
ああ、もう、笑うしかない。
Blueチャンネル、プレキシモード。ボリューム最大。大袈裟に掲げたピックを稲妻一閃、振り下ろして──
──ドキドキが、キラキラ、はじけた。
弦を押さえつける指先の痺れるような熱さ。太い木材から腕まで伝うギター本体の振動。音が観念や些細な心理効果ではない物理現象であることを突きつけてくるこれは、体を通じて、魂を揺さぶって──ああ、どうしよう。
指先が走り出す。開放弦も織り交ぜて、独特のハイミッドが鮮やかに弾けるコード。絶え間ない音の奔流が飽和して飽和して飽和して、心臓にはち切れそうなほど注がれていく。鼓動のたび、星の煌めくような高揚感が指先を更に軽く、熱くさせていく。
大和さんが前に教えてくれた。このアンプには「Ecstasy」という名前がついているらしい──なるほど、仰る通り。
会場いっぱいに轟き渡る旋律。速弾きは使わない、口ずさむような調子でギターに触れる喜びの随に歌い上げるペンタトニック。瞼の裏に光が溢れてチカチカ瞬いた。一音拾い上げて打ち鳴らすたびに弦を滑る指先の摩擦熱から甘さすら感じる気がする。
頬が熱くなる。恋をしている。いけない、丸山さんのためだったのに、Pastel*Palettesを困難に向かわせないためだと建前を掲げていたのに──もう、どうでもよくなってしまいそうで。
このまま、好きなだけ──
「──マイクチェックワンツー、シ、ハ、ハー、シィ、ハー」
アイドルらしくない硬く芯の通った声。
「……ごめんなさい、さっきまではアテフリでした。マイクに声入ってなかったし、他の楽器も音が出ないようになってました」
決然とした色を纏った丸山さんの声。
「……でも、もう大丈夫。聞こえてるよね。見えてるよね」
高鳴るクラッシュシンバル。大和さんの実直なバスドラの引力に耳と手が吸い寄せられていく。少し早まるBPM、ハーフテンポに落ちて自然に馴染んでいくアルペジオ。
「これからが本番です。これからが私たちです。まだ付け焼刃だし、上手い子もいれば始めたばっかの子もいるけど……だけど!」
滑り込む低音。ドラムの上で慎重に、しかし一週間の素人とは思えないほど堂々と仕事をこなす名優のベースラインに、ギターもグルーヴが寄り添ってうねり上がる。
「私たちの色で、一生懸命彩ります! ──私たちは、Pastel*Palettes!」
迸るシンセサイザー。コードの切れ目もふわりと繋いでアンサンブルを優しくラッピングする音色に合わせて、私はアルペジオを止めてパワーコードのリズムへ移る。
キラキラドキドキはいつの間にか、バンド隊の楽器を通じて大きな輝きとして重なっていて。
閉じた目の中で、眩しくて、白熱して。
「これからやるのは可愛い感じの曲でコールとかいっぱいあって、できたらみんなで盛り上ぎゃ──あーもう嚙んじゃった! カッコ付けはナシ!」
光に耐えかねて目を開けると、マイクを握った丸山さんと目が合った。
「とにかく、聞いてください──『しゅわりん☆どり~みん』!」
煌めくクランチトーンのコードで頷いて即座に手元のボリュームを跳ねる。イントロの入り、若宮さんの代わりにオクターブのリフを奏でながら私は、顔から火が出そうな思いをしていた。
ギターだけでいいと思っていたのに。ひとりで、この素敵な音を突き詰めていられたら満足だったのに。
自分とまったく違う音。違う楽器。違う思想。違う存在の中で鳴らすギターが──こんなに、楽しいなんて。
白鷺さんの音は私よりも、曲をよく理解して溶け込むような明るさと大胆さを持っていて。
若宮さんの音は私よりも、周りの楽器に一歩近く寄り添うような人懐っこさがあって。
大和さんの音は私よりも、土台として俯瞰的に道を作ろうとする自信と謙虚さが同居していて。
丸山さんの音は私より──まっすぐ、力強く、誰かに手を差し伸べるような温かさと優しさがあって。
四人の中で『私の音』が浮き彫りになっていく。気の抜けたような愛らしいアイドルソングへの気恥ずかしさも、可愛い衣装への密かな喜びも、全員で重ねる合いの手の楽しさも。ポップな曲調に愛だの恋だのを乗せる不慣れなときめきも。
絶対に知ることなんてなかったはずの世界が、さっきまでめちゃくちゃに荒れ散らかっていたはずの場所に広がっていて。
こんな喜びを知らないままでいたなんて、なんてもったいないことを。
ギターソロ。サウンドチームのサムズアップに、調子に乗ってウィンクなんて返して。長い嵐を抜けて青空を仰いだような胸のすく気持ちが弦から滲み落ちる。
はしゃぐあまり持てる技巧のすべてをつぎ込んだ全力を叩き出しながら──ええ、やっぱり、そうなのね。
「──私にはギターしかないの」
新しい世界を開いてくれた彩り豊かなパレットで、五人の色を描きながら。
私は、きっと、微笑んでいた。
あたしは思い知った。
「ヒナのお姉さん……すごいね」
「……うん。あたしの、自慢のおねーちゃん」
もう、あたしじゃ届かない。どんなに追いすがっても、走っても、空を飛べないあたしじゃ、永遠に届かない。
月は満ちた。光を浴びて。
──あたしのおねーちゃんは、もういない。
青にも黒にも染まらない月輪より滴り落ちるものが、あたしの頬を濡らしていた。
次回最終回です。もう少しだけお付き合いください