まさか本当にギターを買ってしまうとは。
数時間前の私があの弾けた鼓動の衝撃を知る由もなかったのはもちろんだけれど、まさかと思っていたのは母も同じらしい。日も暮れないうちに帰ってきたと思ったら青いソフトケースを背負っている堅物娘を見た母の驚きようと来たら、申し訳ないを通り越して笑うしかなかった。とりあえず、溢したカフェオレは私が責任をもって淹れ直してあげよう。
自室に丁寧にギターを置き(スタンドも買わなくては)、お湯を沸かし直して豆を挽いてドリップさせてカップに注いでミルクを足して、とどめに黒角砂糖まで沈めたところで母はようやく再起動した。さっきまでギターを背負っていた私の左肩をおずおず指差す母。
「そ……それ……ていうかあれ、買って来たの?」
「ええ」
「……いくら?」
「本体で十万。税込みでもう少しするはずだったのだけど、店員の女性がなんだか、すごく気に入ってくれたみたいで……税抜き価格で売ってくれたわ。しかも交換用の弦とチューナーは奢ってくれて」
「私が出したかった!」
「……私の趣味だからいいのよこれで」
それより気にするところがあるだろうと思うけれど、母は聞きたそうにしながらそこには突っ込んでこなかった。
……あの店員さんはどうやら、ギターを弾いた瞬間の私の表情を気に入ってくれたらしい。運命の一瞬を見ちゃった気がしてね、とは会計のときにしみじみ言われた言葉だ。一生楽しんでくれることを祈る、とも。そうなれたらいいと私も思う。
自分の分のコーヒーも少しもらって啜る。指先が熱いのは、頬が火照るのは、きっとこの一口のせいばかりじゃない。これまでの人生は夢だったのかもしれないと思うほど浮足立つのを自覚していた。起き抜けのふわふわした気持ち。目覚めたばかりの、人生の朝が来たような。時計はすっかり午後の四時で、夜明けどころか夕方だけれど。
まだ弦の痺れが残る指先がカップにそわそわ触れる。つるりとした感触をどう押さえたって和音は鳴らない。私の微睡みを、長い夢を撃ち抜いた音は。
「……母さん、あの……」
「なに!? アンプ買いたい!? いいわよ車よりは安いだろうし」
「いや、そこまではいいわ……流石に少し重いというか……」
「うっ」
妙に張り切る母はどうしたのだろうか。もしかすると、私の無趣味ぶりは存外に母の親としての自尊心をきつく苛んでいたのかもしれない。だとすれば無下にもしづらいが、今の私に高価なアンプは過ぎたものだからひとまずいらない。安い練習用くらいはねだるとして、それよりまずは。
「……夕食まで、練習したいわ。せっかく買ったもの。あのね、母さん。初めてギターを鳴らしたとき、私、雷に打たれたみたいに固まっちゃったのよ────」
落ち着かない気持ちを静める方法はわかっていても、コーヒーで湿らせた口からはたどたどしい思いの丈がこぼれるばかりで、それを私は止めたくなかった。これでも学業優秀で通っていて……いえ、ずっと妹に、日菜には適わないままだったけれど。それすら見る影もないほど拙い言葉をありのまま。
同じ成績。同じ能力。同じ容姿。努力で積み上げるしかなかった私と、大きな才能があるがまま輝くあの子。どちらが影法師かわからない陰陽魚。なのに今、剥き出しの幼い感情の束が彼女の国語にずっと劣ることを、私はなんてことないように認めて、そのまま流していた。
教則本くらいは流石に自腹で買ってきたけれど、それよりもう一度だけあの感覚を味わいたかった。まだ暮れない窓の青が照り返す自室に戻ると、私は明かりも点けないでソフトケースからギターを取り出した。椅子だと背もたれが少し邪魔に感じてベッドに腰掛ける。足を組んで乗せる重みが、なんだか嬉しい。
弦に挟んであったピックを抜いて、入念に握り心地を確かめる。サービスだからと一緒に付けられたそれは海のような深い青色をしていた。樹脂製の少し分厚いタイプ、らしい。他に比べていないからわからないけれど、厚さと、滑り止めになっているらしい中央のくぼみがしっくり来るのは確かだった。
つまり、弦に押し負けて取り落とすようなことはきっとない。
入念に確認するコードフォーム。今度はCより簡単そうなDのコード。指先は立て、フレットの真上を無駄のない力加減で。チューニングは店で合わせてくれていた。お陰でもどかしい思いもしないで済む。
外の青に透けるピックを、きらりと滑らせ──
──あぁ、これよ。
ストロークと共に体に響く音、ゾクゾクと走る稲妻。アンプを通さない細い音でも私の魂を掴んで離さない魔力。ギターを買ったのは間違いじゃなかった。
楽器としての性能の証明なのか、弦に込めた情念に共鳴しながらも押し負けず、強く叫んでくれる。中学の頃にあった合唱の授業を思い出した。付け焼き刃なりに上手く腹式呼吸で息を入れてロングトーンを出したときの、音を全身で支えるあの感覚だ。Dの和音自体もなんだか爽やかで心地良い。
もっと、もっと、もっとと求めて、高い音も低い音も澄んだ音も濁った音も、思うまま手探りで鳴らしてみる。顔がニヤけるのを押さえきれない、それ自体もおかしくて一層笑えてしまう。
「……音を出してるだけで楽しいなんて、まるで小さな子供ね」
一般論と言うか、私にそんな覚えはないからイメージでしかないけれど。
幼い頃はどうだったかと思い返しながらギターを拙く鳴らしていると、ふと、妹の顔が過ぎった。
幼い頃はまだ妹への隔意もなかった。コンプレックスどころか、何にでも興味津津な彼女の手を自分が引かなくてはと、姉として責任感をしっかり抱いていた気がする。
遠い思い出だ。七夕も。クリスマスも。彼女に優しい言葉をかけることができていた無垢さも。繋いだ手の温もりも。
センチメンタルになってきた気分にピックの鋭い音は似合わない気がして、空いている中指で引っ張るように弾いてみる。弦にピックを当てたときのようなインパクトのない丸い音。竹馬の友を得た気持ちだった。心にそっと寄り添ってくれるギターにちっぽけな黒薔薇の棘が解されていく。ほろり、ほろり、弦に触れる。ピックとギターの音を吸い上げて青く晴れていく。胸の内に穏やかな花が綻んでいくほど、明るく無邪気に私を慕ってくれた妹への自らの仕打ちが苦々しく思い起こされた。
「……ただ後ろを付いてきてくれただけだったのに。随分邪険にしたわね」
気付いてしまえば捨てたい重荷だ。せっかく良い趣味を見つけたのに、こんな下らないわだかまりが付いて回ったら鬱陶しい。
手を止めて深呼吸。あのときみたいなCコードを鳴らしてみる。部屋に光が響く。心の奥の栓が揺さぶられて、とうとう抜ける。「あっ」と声が漏れた。広い広い海になにかが流れ出して、それは瞬く間にバラバラになって、海に溶け消えた──気が、した。した、気がするけれど。
「……どうして、こんなことにこだわっていたのかしら」
ギターを鳴らす。ドキドキする。誘えば日菜も始めるだろうか。私なんかでは影も形も捉えられない高みへ、また飛び立ってしまうだろうか。
ギターを鳴らす。ドキドキする。星に鼓動があればこうだろうか。神様の心臓はこんな形だろうか。それに触れるだけでこんなにもときめく。
ギターを鳴らす。ドキドキする。ただ弾いているだけで、こんなにも。
それなら。
「日菜がどうしていようと、この気持ちには特に関係ないのね」
すとんと落ちた言葉が、流れ出したものの隙間を埋めた。
さっさと仲直りしてしまおう。もう外も暗くなってきたし、いい加減あの子も帰ってくるだろう。夕食のときは、大体きちんといたはずだから。
「…………」
出ようとした部屋の明かりをつけてUターンした。
もう少し弾こう。
学校の課題とかは終わらせてあるのだし。
灰色の空に青い月が浮いてるって言ったら、誰か信じてくれるんだろうか。嘘だから信じなくていいけど。
夕色の滲んだ青紫の空をぼんやり見上げながら、あたしは入学初日を退屈なまま終わらせないために頭を回して、回して、そのままくるくるぱーになっちゃえばいいのにって思ったりしていた。結局無駄に遠回りしながら下校中。
入試であたしに負けた人が新入生代表を名乗る入学式を真剣に聞いた。薄っぺらい個性をなんとか主張したがる同級生の挨拶もちゃんと聞いた。代わりにあたしは自分が打診されたものを押し付けられた彼女に余計なちょっかいはかけなかったし、自己紹介でも「面白いこと、たっくさん探したいなー」くらいの当たり障りないアピールで済ませた。これにしたって似たようなこと言ってる子はそれなりにいて、進学校のそこそこランクの高い女子高だからって頭のネジのトんだ面白い人が出てくるわけじゃないんだなーなんて思う。
おねーちゃんが同じ学校にいたらどうしただろう。上っ面くらいは整えなさいって叱られるかな。それとも、忌々しげに睨まれて距離を置かれるだけかな。構ってもらえるならなんでもいいかもしれない。全部の部活を巡ってもなんにも興味が湧かないで、最後に見つけた天文部室に至っては結局覗きもせずに帰るなんていう虚無の時間より、おねーちゃんがあたしを見てくれる方が万倍嬉しい。
空に怜悧な横顔が浮かぶ。青なもんか、空に浮かんでるのは
あたしには大好きなおねーちゃんがいる。あたしと違って長い髪。あたしと違って凛とした顔立ち。あたしと違ってちょっと高い背。あたしと違って真面目で、あたしと違って面倒見が良い。真面目で面倒見がいいのは小さい頃からそうで、あたしが何かに付けてどうしてどうしてって尋ねるたびに一生懸命答えてくれた。適当に流さないできちんと考えてくれるのが嬉しかったから、後ろを付いて回っていっぱいいっぱい質問したのを覚えている。なんでかいっつもおどおどしてて、あたしがこれなんでーって聞くと都度都度びっくりするの。すごく可愛かった。
双子なのに違うところがたっくさんあるから、あたしはおねーちゃんの真似ばかりした。鉛筆も消しゴムも洋服もお揃いの水色だった。可愛い写真入りよりシンプルな大学ノートを手に取ったし、中学受験をすると言ったら同じところを受けた。おねーちゃんの望んだものをあたしも望んで、おねーちゃんの好きなものはあたしも好きになろうとした。お揃いじゃなくなっていったのは、進路が分かれたところからだったと思う。
あたしに真似されるのが嫌だったんだね、おねーちゃんは。
そう気づいてからは、少し、ちょっぴり、ほんのちょっとだけ真似することにした。淡い空色より暗めのアウターを手に取ったし、月のモチーフだけじゃなくて天体全般に広げてみたりしたし、新しく始めるものもおねーちゃんを理由にはしなかった。代わりにキーカラーはいつも青にしたし、あたしの月は一人だけだから名前になぞらえて太陽を選んだし、おねーちゃんが辞めたものを辞めるために同じことを始めて、その過程はいつもどれも違うものにしようと努めた。
太陽に照らされない、影を湛える月の海に浮かぶのはなんだろう。あたしに見せた憎悪の色の裏に広がっているはずの海には、どんな思いが沈んでいるんだろう。
あたしは自分だけのものなんて要らなかった。ただ、おねーちゃんのいろんな顔が見たい。
怒った顔はたくさん見ちゃった。悲しい顔もたくさんさせちゃった。笑った顔も見たいなら、どうしよっかな。
月を手中に収めたら、ためつすがめつ眺められるのかな。
翳した手をそのまま下ろして目元をふさぐ。あんなちっぽけな月も掴めない手を、どうやっておねーちゃんに伸ばそう。
「たっだいまーっ! あっお母さん、今日ムニエルでしょ! バターの匂いするし昨日シャケ見つけた!」
「おかえり日菜。うーん、娘たち揃って文芸レーベル開けるわね……」
「なに言ってるの?」
そこは探偵とかじゃない?
お母さんはバリバリのキャリアウーマンのはずなのにちょっと変な人だ。あたしたちは見た目こそお母さんに似てるけど、こりゃ中身はお父さんに似たんだろうね。間違いない。不自由ないくらい小遣いもらってるし、めいっぱい褒めて慈しんで愛してくれてるのは伝わってるし、尊敬はしてるけど。
テーブルは綺麗に片付いているけど椅子が引けてる。コーヒーメーカーのドリッパーの向きが今朝と違うし、なにより流し場におねーちゃん用の白いカップが伏せてある。靴も見とけばよかったかな。まあでも十中八九おねーちゃんと一緒にお夕飯だ。嬉しい。
「さてはおねーちゃんとお茶してたでしょ。ずるーい!」
「ほんとに鋭いわね……羨ましい?」
「羨ましい!」
「ふふーん、お母さん紗夜に手ずからカフェオレ作ってもらっちゃったんだからね! どう、羨ましい?」
「なんで追撃するの……?」
どうせうっかり溢したのをおねーちゃんが見てたとかでしょ。むすーっと頬を膨らませて睨むと、なんだか意味深に微笑んだお母さんは「そうだ、紗夜のこと呼んできてくれない? そろそろ夕飯できるから」と頼まれた。
「えー……や、別にいいけど……おねーちゃんなら時間で勉強切り上げるだろうしそろそろ来るんじゃない?」
突撃する口実はありがたいけど、一応は嫌われてる自覚だってある。あんまり下手に顔合わせて好感度が底値割ってもやだなーと思いながらそんなことを言うあたしに、お母さんはなぜか勝ち誇った顔を見せた。あれだ、昨日お父さんに「いいでしょー、明日娘たちを出迎えて顔見てお帰りって言えるのは私だけだもんね!」って言ってた顔! ムカつく!
「おねーちゃーん! お母さんがいじめる!」
「ふふ、いってらっしゃーい」
余裕たっぷりなお母さんの声と美味しそうな匂いを背にリビングを出た。
おねーちゃんの部屋に近づくことはたくさんあるし、正直勝手に入ることもたまにあるけど、おねーちゃんがいるときに入ることは小学生以来ほとんどない。小さい頃はおてて繋いで一緒にお昼寝したことだってあるのに、今は寝ても覚めても別の部屋。この扉一枚隔てた向こうにあるおねーちゃんの姿が、今のあたしには想像もつかない。
ちょっと控えめにノック。「おねーちゃん、ご飯だってー」と声をかけてみるけど返事がない。それなりに厚い扉だし集中してて聞こえてないのかな。もっかい、今度は強く……と扉をねめつけた拍子にちらりと魔が差した。向こう開きのドアだし、急に開いてもあたしが転ぶだけで済む。ぴたっと耳を当てた。独りごとでも聞こえないかな。
「……あれ?」
ちゃきちゃき、なにかを擦る音。金属的な響き。ノイズじゃなくて綺麗な和音。楽器? ……思い当たるとすれば、ギター?
……ギター!? おねーちゃんが!?
「……え、もしかして夢──うわぁ!?」
「なにしてるのよ……」
がちゃっとドアが開いて呆れ顔のおねーちゃんが現れた。淡い水色のデニムワンピはお姉ちゃんのお気に入りのひとつだ。どっか出かけてた……いや、ベッド脇に見慣れない物体の存在感。あのギターを買いに行ってたのかな。
何度も見てるはずの部屋。何度も入ったはずの部屋。おねーちゃんの表情だって、悲しいけど見慣れた顰めっ面。なのに、重力で光が曲がるみたいにぐにゃりと歪んで見える。起点はあのギターだった。
あたしの知らないおねーちゃんが現れた。
「え、えと……もうご飯だって、お母さんが」
「え……あぁ、もうそんな時間だったのね。いつの間に」
気の抜けた言葉に「ありがとう、呼びに来てくれて」なんて付け足されて、頭が痛くなりそうだ。ここ、あたしの家だよね。おねーちゃんは、あたしのおねーちゃん、だよね。
するりと隣を抜けてリビングへ向かう背中が、空を滑る月みたいに遠い。
「待っ……行かな──」
「そうだ、日菜。これはきちんと言っておかなくちゃいけないわね」
くるりと振り返ったおねーちゃんは、子供の頃にあたしの手を引いてくれたときより優しく、すれ違って遠目に見ていたときより綺麗に、微笑を浮かべた。
「ごめんなさい。ずっと、蔑ろにしてばかりだった」
あなたは私を慕ってくれただけなのに。突き放すような真似をしてごめんなさい。
そう聞こえた気がするけど、どう答えたのか、答えることができたのか、痺れた頭には何も残っていない。
ただ──あたしの返事に嬉しそうに目を細めたおねーちゃんの頬紅が鮮やかで、華やかで、無邪気で。
踵を返してリビングへ戻っていった後ろ姿をバカみたいに見つめたまま、あたしはLEDのほの暗い廊下に立ち尽くして、頬を抓った。
「……ゆめ?」
爪を立てた。
夢じゃなかった。
夢じゃなかった。
夢じゃ、ない。
「……噓」
軽すぎていっそ質の悪い夢であってほしいくらい、長い姉妹の不和がどこかへ飛んで行った。