あたしの目覚めが太陽より早くなった。ろくに眠れないっていうよりは、長いお昼寝でもして夜の睡眠がちょっとで済んじゃったような感覚。早起きしたとき特有のかすかな頭痛にも慣れて、頭をゆらゆらしながら洗面所に向かう。なんだかこうしてると血が巡る気がする。プラシーボかもだけど。
一旦寄り道。こっそりとおねーちゃんの部屋のドアを開けて覗き見ると、流石にまだぐっすりだった。大口あんぐり開けたままのカーテンとダークブルーを従える月。静謐な藍の真ん中で目を閉じるおねーちゃんはただただ綺麗で、それだけならあたしの知っているおねーちゃんだった。
部屋の真ん中に、ギターさえなければ。
──夢のような毎日は続いた。
日が暮れて下校して、おねーちゃんと顔を合わせるところから始まる素敵な夢。一緒にご飯食べておいしいねって笑い合える。コーヒーを淹れる横顔を側で見られる。宿題に取り組むおねーちゃんの背中に構って構ってってのしかかってみたら「仕方無いわね、もう……」なんて言われて、チョーシ乗りすぎたかと思ったら優しく寝かされて「それで、どうしたの」と受け入れられてしまった。多分意識的に甘やかそうとしてくれてるんだろうけど、お陰で頭がどうにかなってしまいそう。
以前のあたしが知ったら刃物を持ち出しそうなくらい、甘い喜びの春は四月を折り返しても爛漫だった。
ちょっと長めのシャワーで寝汗を流したら丁寧に髪を乾かす。保湿も念入りに。それから普段着……と言うにはちょっとお洒落な可愛いパーカーを着込んだ。どうせ後で制服に着替えるんだけど、まあ、見栄くらい張りたい。おねーちゃんの前では綺麗でいたいもん。襟の裏にシトラスの香水も薄っすら吹き込んだら、爽やかモーニング日菜ちゃんの出来上がりだ。
どうせなら朝ごはんも作ってあげたいけど、それとなく聞いてみたらどうでも良さそうに「別に、そんな手間かけなくても大丈夫よ。食パン一切れとコーヒーで十分だし」と言ってたから控えている。なんとも思われない分には勝手に尽くすからいいんだけど、ちょっとでもウザがる素振りをみせられたら立ち直れる自信はまったくない。かぐや姫に手が届いちゃった今、夢から覚めるのが何より怖い。
前のおねーちゃんなら、誰かの親切を嫌がるとは思えない。掛けた手間を理解して、自分の浮いた時間や相手のコストを考慮して、それを使ってくれたことにきちんと感謝しただろう。
でも──
「……あ、起きたかな」
開けっ放しの廊下の向こうから擦れるような高い音、それから少し大きくなった早朝の喧噪。窓を開けたみたい。どうしてるんだろう。風を浴びて伸びでもしてるのかな。案外ぼんやり俯いてたりして。寝ぼけ眼でカーテンを開けたついでに、無意識に窓まで開けちゃって首を傾げるおねーちゃんがいるかもしれない。
しばらくして、ギターの音。浅い彩度の朝によく似合う、ゆったりと歩くように昇ってほろほろ歌うチルフレーズ。音楽のことは詳しくないあたしの耳にさえほんの半月前よりずっと垢抜けて聞こえる。しばらく聞き入っていると突然止んだ。喧噪も籠って消える。窓を開けてたことを忘れてたとか、かな。
か細い蝶番の鳴き声。スリッパの軽く擦れて一歩、二歩。
あたしの夜が終わって、優しい夢が近づく足音。
「……あたしも飲みたいし、ついでにおねーちゃんの分も淹れたげよーっと」
──今のおねーちゃんならどうするか、あたしにはまるで推し量れない。
だから、怯えるようにきゅっと幸せを噛み締めて、食いちぎらないように口を開いた。
「あ、おねーちゃんおはよー!」
「……おはよう、日菜。朝から元気ね」
制服はしっかり着込んでもちょっぴり眠そうなままの、おっとりと幸せそうな顔の女性が──ううん。
あたしのおねーちゃんが微笑んだ。
青いギターを片手に。
「おねーちゃんも玉子焼き食べる? 甘いのだけど」
フライパンを片手に振り向くと、お姉ちゃんは両手で持ったカフェラテにすまし顔で口をつけながら中空に視線を浮かべていた。テレビ、はつけてないし、ソファ? まさかさっきそこに置いたギターかな。どこへともなく虚空をぼんやり眺めているおねーちゃんは猫っぽい。
「今ならまだスクランブルエッグにできるし、パンにも乗っけられるよ」
「……じゃあ、もらおうかしら」
はっ、と目を見開いて姿勢を正した。なんだかちょっぴり幼くなったような感じがするのは気のせいかな。おねーちゃんがこっちまでお皿を持ってこようとして、それからゆるゆる頭を振ると「ごめんなさい、お願いね」とカウンターに置いて、そのまま席に戻らず凭れ掛かる。寝ぼけてるだけなのかも。あたしは尋ねる。
「おねーちゃん、ちゃんと寝てる?」
「寝てるわよ、今まで通りの時間に」
ぷいっと拗ねるおねーちゃんの言葉が嘘じゃないのは一応わかってる。一緒に宿題やってるんだもん。その後は大抵おねーちゃんが先にお風呂に入って、次にあたし。上がっておねーちゃんの部屋に戻ると決まってギターを弾いている。あたしはいつも、特になにかリクエストするでもなく隣で眺めている。近寄ることもできなかったこれまでを思うと至福のひとときだ。
でもさ、ゆっくりテレビを見たり本を読んだりしてからリラックスしてベッドに入るのと、直前まですごくワクワクした顔でギターの教則本を追いかけてるのじゃ睡眠の質はまるっきり変わるでしょ。あたしは「ちゃんと」とは言わなかったおねーちゃんをじっとり睨んだ。ちょっと決まり悪そうに目を逸らしながら、おねーちゃんはカウンターに肘を置いて指を組む。
「つい楽しくて、体力の切れる寸前まで夢中で弾きこんじゃうから、結果的にぐっすり眠れてるのよ。だから心配されなくても平気だわ」
ちらりと見えた指先は剥けた皮の下も更に剥けて、慎重に慎重を重ねた補修でも庇い切れずに歪な丸さを伴っていた。痛んだりしないのかな。おねーちゃんは相変わらずほのかに眠たげな目付きのままで「これでも切り替えは早い方なのよ」と言ってのけた。
「それならいいけど……そんなに?」
「ええ。知る前の人生が夢だったんじゃないかってくらい」
「それは……」
あたしとの思い出も?
「……そっか。あたしもやろっかなー」
「いいじゃない。セッションとか、少し興味があったのよ」
知らない人みたいな朗らかさで口元をほころばせるおねーちゃんに、今度はあたしがびっくりした。ジャンキーもかくやといったのめり込み方をしておいて人と合わせるのに興味があったなんて。
ギターを始めたとしておねーちゃんは辞めないでいてくれるだろうか。あたしに真似されるのが嫌なんだろうなっていうのはわかってるけど、放り出すのはいつもあたしが追い付いた頃だから、タイミング悪いなーって思ってたんだよね。「じゃあ今度、一緒に楽器店いこ!」なーんて。明日休みだし、適当に見に行って直感で選ぼっかな。
「いいわよ」
「……へ?」
「? ……だから、いいわよ。明日は休みだし、風紀委員の仕事なんかは特にないから今日だって構わないわ。……日菜? どうしたの?」
あたし、ばかになっちゃったかも。あ、玉子焼けた。食べちゃお。
「……あっつい!?」
「えっなにやってるの!? まったくもう……ほら、お水……!」
舌も上顎もじりじり熱い。喉が焼けそうでせき込みかけたのを、おねーちゃんからひったくるように受け取ったお水でどうにか流し込む。
苦しかった。痛かった。突然のダメージに心臓が暴れている。心配げに窺うおねーちゃんにあたしは、なにより、まず。
「ほんと? ほんとに、一緒に、いいの?」
「なにが……ああ、楽器店? いいって言ってるじゃない。それより口は大丈夫? 火傷は?」
「……うん、へーき。……よかったぁ」
たとえば、前髪を切りすぎたかもって言いながら友達にきっちり整えた顔を見せるとか、できて当たり前のテストの点を全然できなかったーって保険かけながら伝え合うとか。
聞くまでもないことを聞いて安心する浅ましさを、あたしは理解できないでいたけど。
「……おねーちゃん」
「なに?」
「一緒にいこーね。今日の放課後、駅前集合で」
「ここでいいじゃないの」
「だーめー! デートするの!」
「デートってあなた……」
駄々をこねると、おねーちゃんは「本当に、仕方ないわね……」って笑った。笑ってくれた。
ゆびきり。やくそく。胸の奥がむずむずして、小さな緑が芽生えたみたい。
「……わかったわ。放課後ね」
「うん!」
しなやかな指と触れ合うだけでなんだかドキドキして、視界がぱっと明るくなっていく。
そんなあたしの気も知らない結び目はあっさり解けてしまった。
「……あぁ、もうあんまり時間もないわね。食べたらもう出るわ」
「あれ、もう?」
「朝は風紀委員で服装チェックがあって。玉子焼き、もらっちゃうわね」
おねーちゃんはフライパンを掴むと菜箸で卵をパンに流し乗せて、半分残ったままあたしに返した。立ったままさっさと食べて、丁寧に指を拭いたおねーちゃんはギターをソフトケースに収めた。置いていくのかと思いきや背負ったままリビングを出ていく。
「じゃあ、行ってくるわね」
「……うん。いってらっしゃーい」
手を振るあたしに──違う。背中のギターを愛おしげに振り返って、おねーちゃんは出ていった。
その背中に視界の色が吸い取られて、青い月の後ろ髪を残してぜんぶが色褪せる。
「はー……学校、めんどくさいなー」
夢から覚めて、あたしの朝が来た。
高校生活を半月消化してもあたしはなんら積極的な活動を出来ないでいた。退屈を穿つ銀弾を探すことも、青々と広がる世間の海に溶け込むことも。あの日、余りの飴玉みたいにひょいと渡された許しと愛情の反芻を、口を開けて待つばかり。
とっくに覚え尽くした教科書をなぞるだけの授業をろくに口も開かず過ごして、ホームルームをすっぽかして駆け足で帰る。信号ひとつ、自分の足すらもどかしい。細い三日月がしらじら笑っていた。
二度目のシャワー。今朝より断然時間を掛けて本気でメイク。髪型も整え直す。おねーちゃんの隣で見栄えするのはパンツスタイルかな。春らしい明るいアイボリーの七分丈を引っ張り出して、エメラルドグリーンのインナーの上から深い藍色のシャツチュニック。本気っぽく見えたら引かれるかもと思って全力で頭を回したカジュアルコーデ。来るのを待ってあげたいからあえて連絡もしないまま、ドクターマーチンでアスファルトを踏み鳴らしながら駅前に向かった。
制服姿のおねーちゃんが、ベンチでギターを弾いていた。
「……え?」
いつもまっすぐ帰ってくるおねーちゃんにしては遅いなーって、思わないわけじゃなかった。ギターを持っていくなんて珍しいとも、考えなくはなかった。
簡単な話。ギターを弾いていたいから持っていって、ギターを弾いていたいから帰ってこなかったんだ。
路上ライブって風でもない小さな生音で思う様ギターに耽るおねーちゃん。目を閉じていて、周囲の注目には全然気づいてないみたいだった。弦の上をするりと泳ぐ白魚、鋭く柔く表情を変える音色。静けさが街の隙間に染みて満たしていく。
派手な爆音でなくても耳を引く確かな技巧と恋する少女みたいな赤い頬に人垣がたかりだす。
たまらず走り出した。
「────おねーちゃん、おまたせ!」
「……え?」
目を開けて、顔も上げてから更に少し間を置いて、おねーちゃんは演奏の手を止めた。
「日菜? 早いのね」
「なんで演奏なんてしてるの」
「時間の指定をされていなかったからよ。漫然と時間を潰すだけではもったいないでしょう」
……うん。
前のおねーちゃんも、きっと同じことを言う。でも、きっとギターは弾いてなかったよ。
おねーちゃんは困ったように寄った眉をすぐに解いて、取り出したクロスで名残惜しそうにギターを拭き上げる。
「もう少しゆっくり来てもよかったのに」
皮肉でも嫌味でもない、ほんとになんの気なしにそう言ったおねーちゃんは、あたしのことなんて欠片も意識していなかった。
ずっとギクシャクしてた双子の妹だよ。久しぶりにお揃いのことを始めるんだよ。……あたしに真似されるの、嫌だったでしょ。
──あたしより、ギターを弾く方が大事なの?
「……だって楽しみだったんだもん! てゆーかおねーちゃん、制服のまんまだし! おめかししようよ!」
「嫌よ面倒くさい」
ケースにしまって背負い直しながらばっさりと両断されて、先に歩き出すおねーちゃんについていきたい頭とは裏腹に、首から下がビクともしなかった。
「楽器を買うくらいなら、格好なんてなんでも大丈夫よ。試奏するならともかく……私はもうこの子があるもの、気にする必要もないじゃない」
肩に掛けたソフトケースを軽く持ち上げるおねーちゃんは呆れ顔だった。
「一緒に弾いたらどんな感じでしょうね。思えば……幼稚園とかそれくらいぶりかしら、なにかを一緒にするのは」
「……そうだと思う。おねーちゃん、あたしがなんか後追いで始めたら逃げちゃうし」
「そうだったわね。……ふふ、どんな音で弾いたらいいかしら。ハムバッカーでもシングルでもいいけれど、どうせならはっきり違いがあった方が弾き応えもありそうね──」
前のおねーちゃんなら絶対にありえない、スキップでもしそうなくらい楽しげな姿。
この半月、ずっとおねーちゃんといた。一緒にご飯食べておいしいねって言い合いながら、音楽番組のギタリストに釘付けなおねーちゃんと。コーヒーを淹れながら左手がそわそわ落ち着かなくて、ときどきカップに口付けながらギターを爪弾くおねーちゃんと。宿題中のおねーちゃんに構ってもらう合間合間に──逆だ。ギターを楽しむ合間、やるべきことの片手間に甘やかしてくれるおねーちゃんと。
「日菜──楽しみね」
目がキラキラして、熱に浮かされたようにうっとりしてて、虜だった。
デート、って言ったのに。おねーちゃんは楽器のことしか考えてない。それを買うあたしのことも、一切。
「おねーちゃん、変わったね」
「……そうね、自覚してるわ。ギターに出会って、生まれ変わった気がするくらいだもの」
誰だかわからないくらい素敵な笑顔でそう言った。
信者の目だ。
おねーちゃん。
あたしの、おんなじお母さんから生まれた、あたしだけのおねーちゃん。つまんない世界の中に沈みも染まりもしないかぐや姫が、悪い神様に捕まっちゃった。
月に手を伸ばしたってダメだ。同じ地平に立たなくちゃ届かない、なら。
「じゃあ、あたしも本気で始めるよ。ギター」
「そう。末永く楽しめるといいわね」
飛ぼう。スプートニクでもアポロでもいい。同じところまで──
──ううん。
飛び越えて、見下ろして、踏みつけて、その神様もあたしが自在にして見せつけたら。
そうしたらもう一度、あたしを見てくれるよね。
あたしを疎んで、憎んで、真後ろまで追いついたあたしを忌々しく、鋭く、とびきり強い感情で睨んでくれた、前のおねーちゃんみたいに。
「おねーちゃん。手、繋ごーよ」
「いいけれど……歩きづらくないかしら」
なんの抵抗もなく攫った手は握り返してくれなくて、あたしばっかり熱かった。