十二月も半ばになると少し雨が減って、張り詰めた空気の心地良い朝に早起きして学校に向かうのが楽しみになりつつあった。校舎の開く朝六時半に駆け込んで、まだ彩度の低い教室へ踏み入る。着込んでいればさほど気にならないし、ストーブはひとまず後回し。まだ眠っていてもらって、その隣のコンセントにいつものミニアンプを繋いだ。
ギグバッグに入れていたギターを取り出す。足を組んだ拍子に滑ったスカートから出た生足にボディを置くと思ったより冷たくて変な声が漏れた。まだ朝の焼け残る白い空を窓の向こうに眺めながら、湧き上がる気持ちのままギターを弾き始めた。
ハイポジションのタッピングアルペジオ。歪みを掛けていなくても触れ方を変えれば音色は大きく変わる。鉄琴をフェルトマレットで叩くような冷たく丸い音で冬の教室を彩りながら、私は少しずつ目を閉じていった。
──スタジオミュージシャンとしての仕事にはすっかり慣れた。
平日は夕方から終電を越えない程度に遅くまで、土日は休みの時もあるし丸一日スタジオにいるときもある。事務所に所属している作家さんたちのデモ録音が一番多くて、特定のジャンルに尖った音楽性でなければとりあえず私に頼めば問題ない、とまで言ってもらえるようになった。おかげで当初の目的である懐事情の改善もすっかり果たされて、両親の扶養から外れないように気をつけなければいけないくらいには稼げている。ありがたい。
代わりに勉強の時間は削れてしまったけれど、そんなのは前々からわかっていたこと。勉強の仕方を工夫して圧縮を試みたところ上手いやり方を見つけられた。特に暗記系はなにかの機能が解放されたように伸びが著しくて、あまり無理に書き取りなどをしなくてもあれこれ覚えておけるようになった。このあたりの伸びはスタジオで山ほど曲を弾いていたおかげかもしれない。とりあえず、もう天然などと言わせない。
「……おふぁよー」
おや。
「おはようございます、丸山さん」
ダッフルコートに赤いマフラーをぐるぐる巻いてもこもこの丸山さんがやってきた。最近、彼女はなかなか朝が早い。
目を開けて挨拶を返すと「演奏は止めないんだね紗夜ちゃん……」と呆れられた。何がいけないというのか。意地でも手は止めないまま時計を見る。まだまだ他の生徒が来るまで時間はありそうだ。歌の練習には付き合ってあげられるだろう。
「朝ごはんは」
「コンビニのおでん大根! 軽めに済ませたしお腹に息入れても問題ないよ!」
「それは何よりです。一応チョコレートを持ってきているので、どうしてもお腹が空くようなら後でどうぞ」
「ゔっ……いやでも……うぅ……私は弱い……!」
「なんなんですか」
お腹を押さえながらアイドル候補生が死んでもしちゃいけない皺くちゃの顔で呻く丸山さん。詳しく聞いたことはないが、もしかしてバラエティ路線志望なのだろうか。
よく見たらコートのポケットには左右どちらにも未開封のココアが入っていた。合わせて結構なカロリーだし、減量がどうとか言うならもうチョコのひとつくらい焼け石に水だろうが、まあ体重が気になるならば……「いらないなら私がすべて食べますが」「いただきます」「後でと言ったでしょう」話も聞いていないのかこの子は。手のかかる妹ができたような気分だ。溜め息を吐きつつ、差し出された両手をぺしりと払う。
……ああ、演奏を止めてしまった。もう少し冬の空気を堪能していたかったのに。ギターを横たえたギグバッグに入れて、中のフリースクッションでしっかり固定してから閉じた。
「すみません、私も一旦飲み物を買ってきます」
「え? あぁこれあげるよ。そのために買って来たんだし」
「え?」
「なんで驚くの!? そこまで食い意地……食い意地? 飲み意地? 張ってないんだけど!」
「いえ、そこに驚いたわけでは……ありがとうございます、頂きます」
単純に、もののついでとかではなく私のために買って来たというのが意外だっただけだ。
大好きな趣味に打ち込む時間は恋人との逢瀬に等しい。私に限らず誰でもそうだろう。ギターを弾いているときに邪魔して来なければそれ以上求める気はなかった。それを弁えて遊びに誘ってくれる人にはこちらも積極的に応えていたが、自分が基本的にギターのことしか考えていないから、人が自発的に何かしてくれるとはあまり思えていない。
周りに人が増えた。ギターにハマりこんだ同級生への物珍しさだけでなく、たくさんの好意にもきちんと気づけている、つもりだけれど。
ココアに口をつけながら振り返る。コートのポケットでしっかり保温された缶に「あちっ、あちっ……」と指を付けては離しているこの同級生ともそれなりの付き合いになった。学校で最初に挨拶するのは八割がた彼女が相手だし、昼食は大抵彼女と取っている。帰りも私のバイト先が彼女の事務所になってからは一緒になることが増えた。しかし、ギターに関係なく一緒に遊んだのは数えるほど。
ふと、思った。
「丸山さんは、私といて楽しいですか?」
「…………ど、どこまでガチ!?」
「いえすみません、そこまで重く考えなくて大丈夫です」
言葉が悪すぎた。咳払いして「ほら、私はひとと一緒にいるときでもギターばかりですから。気を使わせていたら申し訳ないなと」と続けるが、これはこれでなんだかメンヘラめいている。こんなに国語が苦手だったろうか。いや、会話の経験値不足か。
頭をひねる私に丸山さんはくすくす笑った。
「だいじょーぶ、紗夜ちゃんのこと好きだよ。大好きなものに一途で、でもぐいぐい構ってくる周りのことも受け止めて、不器用なりにちゃんと付き合ってくれるし。それに最近は結構はっちゃけるよね、文化祭の準備とかうきうきでやってたし、メイド服もノリノリで着てたし」
「それはまあ……遠慮したり恥ずかしがったら白ける場面でしょう、ああいうのは」
「そうやって周りにもちゃんと合わせようとしてくれるとこ、優しいなって思ってるよ。別に紗夜ちゃんはギターだけあれば幸せで、周りに染まんなくたって楽しくやっていけるだろうに……なんだっけ、白鳥や……かなしけれ?」
丸山さんが首を傾げながらひねり出した一節は、私の人生が変わった日に思い浮かべていた歌だった。思わず目を見開いた私の様子がどう映ったのか「待って、すぐ思い出すから……! こないだ習ったばっかだもんね、覚えてる覚えてる……ッ!」と慌てだす。
助け舟のつもりではなく、ただなんとなく、答えることにした。
「『白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ』……若山牧水の句です。私の、一番好きな」
「……紗夜ちゃん、俳句まで嗜んでおられる……?」
「牧水だけです、知る機会が偶然あって……丸山さんは、私がその白鳥だと思うんですか?」
「う、うん……だって、広い青の中で悲しまずに白いまま堂々としてるんでしょ? かっこいいじゃん」
言葉を失ってしまった。
ギターを始めて自由になった。ネックを握るたび、コードを鳴らすたびキラキラ弾けるドキドキのまま、好きに生きてきた。欲望のままに遊んでいる毎日はともすれば自堕落ですらあったと思う。成績だけはしっかり維持しているのは免罪符でもある。
『かなしからずや』は反語的用法で、悲しくないはずがないのだと読むのが一般的だ。だから、間違いだ。間違いではあるけれど。
たとえば『こんなよい月を一人で見て寝る』と歌った尾崎放哉の心情を、となりにいるはずの恋人を失った悲しみではなく、たとえ強がりでも名月を独り占めする優越感として読んだとして、もういない人間に尋ねることもできない解釈を間違いだなんて断じることはできない。たとえ九分九厘間違いだとしても、受け取り方だけはこちらの自由だから。
丸山さんにとって、白鳥は高潔さの象徴なのだ。鳥のようだと思って仰いだあの日の月を丸山さんに見せたら、なんと言うのだろうか。
その機会があってほしい。
「丸山さん」
「や、やっぱ違うのこの解釈!? うぅ~、古文苦手だよぅ」
「好きですよ。あなたと友人になれてよかった」
頭を抱えていた丸山さんが硬直した。
秒針がゆっくりゆっくり音を立てる。冬の澄んだ空気に凍り付いて心なしか短い教室のリバーブに耳を澄ませたまま何小節か休符を置いて、なぜか彼女はきょとんとしたまま綺麗な姿勢で椅子に座り直した。
膝に手を置いて背筋をまっすぐ伸ばす。面接?
「……………………ひょぇ」
そのまま顔を真っ赤にして気絶した。
悪いことをしたかもしれない。
「…………そ、それはジブンに話して良い内容なんですか?」
「え、いけないんですか?」
放課後は丸山さんと共に事務所へ向かって、レッスンに行くという彼女と別れてスタジオに入った。
予定の時間まではまだ随分早いので、勝手に使っていいと言われているアンプにマルチエフェクターを繋いで弾きながら、最近入ってきたサポートのドラマーの人と雑談していた。話しながらでもテンポキープや音への意識を割ける様にしているとアドリブの柔軟性が上がるのではないか、という目論見がある。
先程までは備え付けのドラムセットに座った彼女とボリュームを抑えたボサノヴァ的な曲調でセッションしながら話していた(それでも一切テンポが乱れないあたり、流石はリズム隊本職ね)のだけれど、せっかく同い年なのだし機材ネタばかりでもなんだと思って学校でのことを話してみたら演奏が止まってしまった。
なんだと思ったらそれこそ今朝の丸山さんみたいに硬直していた。歪みを踏んで何度かディストーションの音色を浴びせてやっと復旧した彼女は、決まり悪そうにそわそわしながらズレた眼鏡を整える。私は手許を絞ってクリーンのボサノヴァ系フレーズに戻しながら、困惑しきりの彼女の言葉を待った。
「や、だって……え、告白じゃないですか、もう」
「えぇ……? 友人になれてよかったという話をしているんですが」
「シチュエーションと威力が凄まじいですって! あの、本当にわかってないんですか!?」
待たなくてよかったかもしれない。スネアをドパンドパン叩きながらやかましくツッコミを入れてくるので普通はこんなものだと反駁しかけたが、冷静に思い返してみれば丸山さん以外とあそこまで青臭いやり取りをしたことはなかった。なんだか悔しい。
「……なんなら大和さんにも言えますよ私は。ギターにハマって以来、理論や機材の話を深いところまでできたのは大和さんが初めてですからね。いつもギターのパーツやエフェクターの相談に乗っていただいてますし、それを抜きにしても趣味に深くのめり込んでしまうのはシンパシーを覚えますよ、ええ、私と出会ってくださってありがとうございます」
「やめてくださいやめてください本当に! 絶対ヤケになってますよね!?」
「なってますが本心でもありますよ失礼な」
「質が悪い!」
痴漢にでもあったみたいに自らの肩を抱きながら叫ばれた。とても心外なのだけれど自業自得と言われたらその通りすぎて何も言い返せない。
「うぅ……あの氷川日菜のお姉さんがこんな人だったとは……いや真面目ですし大らかですしいい人ではありますけど……」
「……あの、もしかして羽丘の生徒なんですか?」
よく知った名前が出てきた。私が尋ねると「ですです。そういえば制服でここに来たことはありませんでしたね」とあっさり返ってくる。妹がいるとか話した覚えはないけれど、氷川なんて名字はそう多いものでもない。名前のモチーフも日と夜で対だし見た目も似ているのだから気付けるのは当たり前か。
「すごいですよねー妹さん。いつも成績トップで運動神経も抜群で、今なんか生徒会やってますし。それ全部完璧にこなしながら、色々なバンドのサポートとしてライブハウスを渡り歩く凄腕ギタリストでもあるじゃないですか!」
「へぇ……そんなことになってるんですね、あの子」
活動スタイルの違いからか、夏頃からあまり顔も合わせなくなった。テクニックはとうに私を超えていそうだったし、それに昔から才能からか割と一人で平気そうな子だったので、外で何をしていようとあまり気にしていない。大抵の困難はあの子なら切り抜けていけるだろうし、私の心配なんか釈迦に説法だろう。
そう思っていたら、興奮した様子の彼女の口から「ギタリストとしてバンド全体のレベルを一段上げながらどこにも居付かない、人呼んで『孤高の天才ギタリスト』! 職人っぽくてちょっとカッコいいなと……」なんて出てきて面食らった。あの子の人懐っこさならどこだって行けるだろうに、孤高?
「……私の知っている妹と、少し食い違いますね」
「ストイックなイメージありますけど、お姉さん的にはそうでもないんですか?」
「明るくてよく背中に引っ付いてきてたような印象があるわ。ギターを始めた頃はよくセッションをしてたけれど……そういえば、最近はご無沙汰ね」
大和さんに向けてというよりはほとんど独り言の調子だった。最後に家で会話したのはいつだったかと考え込んでいたらギターを弾く手が少し単調になったので、別に後でいいかと放り投げる。そろそろレコーディングの時間が迫っているから、そっちの確認をしておきたい。早く来ているのはそのためでもあるのだし。
「夕食のときにでも話してみます。情報ありがとうございました」
「い、いえいえ……あの、つかぬ事お伺いしますが」
大和さんはきゅっと自分の指を組み合わせて、強張った顔で言う。
「妹さんと、その……仲、悪いんですか?」
「え? ……いえ、別に」
ピッチはブレるし上も下も狭い、挙句に流行りの曲をやりたいって言いながらチャートも把握してない顔だけのボーカル。王道進行で弾いてれば原曲よりかっこよくなるようなダサいポップスを持ってきてリーダー面してるリズムギター。イケイケなふたりに押されて自己主張できない可哀想なベースと、明らかに手抜き仕事で誤魔化してて次はこの子が音信不通になりそうだなって感じのドラマー。まりなさんには悪いけどゴミみたいなバンドだった。一番マシだったのは逃げたギターの子なんじゃないかな。どんな子か知らないけど。
打ち上げとか言ってたけど、どこに連れていかれるかも怪しかったから勝手に帰ってきた。とっくに夕日も沈んで焦げ残る雲の浮かぶ空、横顔みたいな白い月に見下ろされながら、あたしは家路を急いでいた。あんなのに使った時間を練習で取り戻したい。いや、その前にご飯くらい食べなきゃいけないかな。お母さんが……うん、あと、お父さんも、怒りそうだし。
「……ただいまー」
帰るとおねーちゃんのローファーだけが几帳面に揃えられていた。両親は仕事が忙しい時期だと昼夜が逆転するからいつも通りだけど、おねーちゃんがこの時間にいるのは珍しい。顔を合わせるのなんかいつぶりだっけ……なんて考えてて笑っちゃった。おねーちゃんがギターを買って以来、まっすぐ顔を合わせたことなんかほとんどないじゃん。
どうせまた部屋でギターを弾いてるんだろうなと思ったら、リビングの電気がついていた。
「……おねーちゃん、ご飯作ってたんだ」
「あら? お帰りなさい日菜。早かったわね」
美味しそうなすき焼きの匂いがふんわり漂ってきた。あっ、と思う間もなくお腹が鳴る。
おねーちゃんは切れ長の目をまん丸く開くと、おかしそうにくすくす笑って「少し待って頂戴、もうできたから」と微笑む。
「さっき買い出しに行ったら良いお肉をもらったのよ。楽しみにしてて」
おねーちゃんが、あたしの目を見て、優しい顔で、言った。お鍋をミトン越しに掴みながらカウンターから出てきて、そのまま耐熱グラスの鍋敷きにそっと置く。いっぱいの牛肉、春菊……じゃないな、ほうれん草かな。あと白滝に、シイタケに、白菜。つゆ色がちょっと濃くて、疲れた体にはとびきり美味しそうに見えた。
家に帰ってきて、おねーちゃんが出迎えてくれた。夢みたい。
……抓った頬がいたい。
ゆめじゃない。
「……おねーちゃん。おねーちゃん……!」
「わっ……どうしたの?」
エプロンを外したおねーちゃんに抱き着いた。頬を重ねて、長い髪の匂いに包まれる。小さい頃、迷子になったあたしを見つけてくれたときみたいに涙がぼろぼろ出てきて、湿った言葉が胸の奥できゅっと詰まってじくじくした。
言いたいことがあった。今日のサポート大変だったとか、お世話になってる箱の受付さん優しいよとか、こないだ飲んだココアが美味しかったとか……あたし、ギター上手くなったよ、とか。
氾濫する言葉を上手くまとめられなくて、あたしはバカなことを言い出した。
「……おねーちゃん、お願い。セッションしようよ」
「すき焼き、冷めちゃうわよ」
「どうせアツアツだと火傷しちゃうもん。……ね、五分だけ。いいでしょ」
鼻先で髪が動いた。考え事をするときに俯くクセ。「……いいわよ。久しぶりね」と耳をくすぐった言葉を脳が理解した瞬間、あたしは無我夢中で準備を始めた。
ギターを取り出してチューニング。チューナーなんてなくてもできるけど、今だけは耳とメーターの両方で念入りに合わせた。
おねーちゃんのギターには不思議なくらい気持ちが乗っている。弦を押さえるときにかすかに引っ張って上擦らせるだとか、ピックの充てる角度だとか、理屈付けはあたしにだってそれなりにできるけど、おねーちゃんの音はそんな技巧がいくつもいくつも重なって言語化不可能なレベルにまで達していると思う。買ってからずっと思うままに触り続けてるからかな。
だから、ギターでなら会話できると思った。あたしのまとまらない言葉も、おねーちゃんなら汲み取ってくれるかもしれないから。
ソファに移って二人で並んで座る。あたしが鳴らしたのは三つのセブンスコード──十二小節で回すブルースセッションだ。おねーちゃんは薄く微笑んでバッキングに入る。ピックを握らないままの、冷えた手を暖炉で温めるみたいな優しい音。あたしは幼い子供がたどたどしく語りかける調子でフレーズを弾く。
前のあたしからは出てこない音がたくさん出てきた。ピッチを曖昧にして溜めるようなチョーキング、タッピングしたままスライドする高音の合いの手、誤魔化しの利かないピッキングニュアンス剥き出しのマイナーペンタ。こんな名前だって、あの頃はまるでわかってなかった。
ねえ。あたし、上手くなったよ。
おねーちゃんにも負けないよ。すぐにも追い抜いちゃうよ。
あたし、今、おねーちゃんの隣でギターを弾いてるよ。
──目を閉じてないで、こっち、見てよ。
ピッキングが強くなる。アンプもないのに力を込めたストローク。弦のビリ付きと少し荒いパワーコードのリフ。見せつけるように縦横無尽に指板を走った。駄々をこねるみたいな速弾きにも、両手でピアノみたいに弾くボスハンドフレーズも、おねーちゃんは何でもないように受け止めた。
押さえ方に何の変化もない。弾いてるリズムは機械みたいに一定。なのに、荒くなったら諫めるように固い音に、細かい音符は邪魔をしないようにアタックを押さえて。引き立ててくれると言えば聞こえはいいけど、あしらわれてるって感じる方が先だった。
「……なんで」
溜め息にもなれないような声が自分の耳にも届かないまま消えた。何周も好き放題弾いたソロを終わらせて、おねーちゃんのリズムを真似て交代する。
──ぞぶり、心臓が跳ねた。
もともと、楽しそうに弾く人だった。押さえきれない気持ちが溢れるままに大胆なダイナミクスを付けて、華やかな音で弾くのがおねーちゃんの音だ。新しいテクニックを覚えたらついつい使いたがるような可愛いところもあった。
ギタリストとしてのお姉ちゃんからは出てこない音。細かく散らしていた多彩なニュアンス、でも赤ちゃんが泣くように剥き出しだったそれらに、文法的な秩序が付いた。
不特定多数の雑多な影響じゃない。明確に誰かの影。押さえる指で叩くように差し込むゴーストノートのリズムの律動、親指で奏でるアルトのラインに重ねられる伸びやかで、ちょっとピッチや鳴らし方に荒さの見える瑞々しいソプラノの旋律。
おねーちゃんはスタジオミュージシャンになった。いろんな曲を弾くんだって言ってたから、あたしはまあいいやって思った。
──誰かが、おねーちゃんを、盗った!
鮮やかに花開く歌心。今の充実ぶり、浮足立つのを抑えきれない期待に満ちた毎日。ときどき出てくる流れを無視した他ジャンルのフレーズは友達のこと? ……あたしは、どこにもいないの?
さっきのあたしの音は、おねーちゃんに響かなかったの?
「……おねーちゃん」
セッションはそのままおねーちゃんのソロで締めくくられた。約束の五分、きっかり。
ギターを丁寧に拭いてしまうおねーちゃんの手付きは愛おしげだった。
「日菜、すっかり上手くなったじゃない。あちこち回って経験を積んで……私じゃ思いつかないフレーズもたくさんだったわ。双子で全く違う方向性に伸びたのは面白いわね」
それはときに女性の横顔を模すという。帰り道に見た白い月が、おねーちゃんのそれと重なった。
月に見下されてると思った。
そんなわけないじゃん。
横顔が見えるってことは、そっぽ向いてるんだから。
「もう私じゃ追いつけそうにないわ」
「──じゃあ、もっと悔しそうにしてよッ!」
掴みかかった。
ギターを肩に下げたまま、知らない。どうでもいい。
「なんで優しいの、なんでそんな余裕なの──なんでそんなに、どうでも良さそうなの!?」
おねーちゃんは驚いた顔をして、ちょっぴり苦しそうで、なにより、心底、不思議そうだった。
どんな言葉が返ってくるかわからなかった。どんなことをしてきたのかも、どんなことを考えてるのかも。あたしは今のおねーちゃんのことを何も知らない。
湧き上がる寒気の正体に、今、初めて気づいた。
おねーちゃんが決定的に変わっちゃったかもしれないことが──大好きなおねーちゃんがもういないかもしれないことが、怖い。
確かめることが、怖い。
「……ごはん、いらない。夜中になったらお母さんたちも帰ってくるでしょ。そっちにあげて」
「日菜──」
「ついてこないでッ!」
ギターとギグバッグを引っ掴んで自分の部屋に飛び込んだ。ギグバッグを放り出してベッドに倒れ込んで、抱えたままのギターに抱きすがる。
おねーちゃんみたいだと思ったんだ。このギター。だから買ったんだ。
これで自由に弾けるようになったら、おねーちゃんと遊んでるみたいだなって。
「もっと──もっと、上手くならなきゃ」
おねーちゃんみたいなギターを、もっと、もっと、もっと完璧に従えられるように。
大好きなおねーちゃんがそこにまだ、いるはずだから。
部屋の影か夜空の色かも区別のつかない濃紺の中で、あたしはいつの間にか溶けるみたいに眠っていた。