CiRCLEのロビーにはまあまあ大きなモニターがあって、動画サイトのおすすめ欄がそのまま垂れ流しになっている。アカウント名こそ「ライブハウス『CiRCLE』」だけど実質的にはまりなさんの趣味チャンネルで、ここ発のバンドのMVや音源のリストより布教リストの方が動画数が多い。二十倍くらい差がある。
そんなチャンネルだから音楽以外の動画が流れてくることはまずなくて、しかも課金してるから広告も挟まらない。練習の予定よりわざわざ一時間くらい早く来たり、なんなら用もないのに朝から居座ったりして、動画の曲に初見で合わせてみるのが最近のあたしの日課だった。
今日も外の併設カフェで買ったカプチーノ片手にロビーの隅っこで練習していると、後ろから手元に影がかかった。まーたまりなさんが怒りに来たかなーと素知らぬ顔で弾き続けるけど一向に声を掛けてこない。どころか頭の影がゆらゆらゆらゆら鬱陶しい。うんざり振り返ると、Roseliaのドラムの子が興味深そうにあたしの手元を覗き込んでいた。
「……なに?」
「日菜さん! こんにちは!」
まだRoseliaで借りた時間よりずっと早いけど、躊躇なくロビーのソファに座りこんだあたり別に間違ったわけじゃなさそう。
ツインテールをぴょこんと弾ませて挨拶する彼女は少し幼い見た目で、見るからに元気印って感じ。叩くドラムもそんな感じで、ポップス系でもいい感じに引っ張りだこだったろうなって練習中に思う。わちゃわちゃ手数を多く突っ込むタイプなんだけど、その割にパワーがあるのが不思議だった。
いやでも、今流れてる曲とか軽やか爽やかな曲調に反してドラムの音が重めだし、トレンドの音色にマッチした叩き方をしてるってだけなのかな。門外漢だからわかんないや。
ラウド・ファンタジーな音作りに反して明るい挨拶に、あたしはちょっと答えあぐねてから「……おはー」と雑に返事した。手元は止めない。この曲、おねーちゃんのいる事務所のアイドルの曲だ。あんまり触れてないジャンルだけどおねーちゃんが強そうな類、弾けなきゃいけない。
「何してるんですか?」
「初見奏。名前の通り、初めて聞く曲にその場で合わせるの」
サポートをやってるときからネタ収集も兼ねて続けてる練習だ。楽譜だけ渡して事前に確認くらいはできるやつとか、確認はさせないけど楽譜は追っていいとか、色々やり方はあるけど。あたしは完全に耳オンリー。
なるべく最初の一小節でキーを探り当ててイントロが終わる前に雰囲気とかも含めて把握、あとはスケール選択だけしくじらないように気を付けながら編んでいくだけだ。慣れてくると耳に入った瞬間に反射で音を取れるようになる。
お、カッティングだ。アイドルソング、ちょこちょこバッキングでファンクみたいなことしてるよね。
……んー。
「あこちゃんもやる? パッドとかでやっても対応力とかリズム感養うのには効くと思うし」
「やります!」
即答してスネア対応らしきパッドを取り出すあこちゃんは、あたしの隣にちょこんと座った。ちょうど弾き終わって次の曲……げ、プログレ!
──リサちーの窓の右上を覗き込んだ日から、あたしはちょっとだけみんなの練習に口を挟むようになった。
まあ、ちょっと。ちょっとね。
人に説明すると自分の身になるっていうのは、あたしにも適応される話だったみたい。自分の感覚を勝手の違う他人にも通じるように言語化すると、自分のそれも言葉を通してちょっと洗練される。
他人に合わせるほど、相手が増えるほど、違いを推し量って輪郭を取る作業は思いのほか楽しい。ミルクパズルの感覚に近いかも。友希那ちゃんが組んだ大枠を手分けして埋めていく他の子たち。あたしは手近なピースを集めて大きな形に整えてはみんなに渡していく。そうして曲が洗練されていく過程は心地いい。
この作業をひとりじゃなくて手分けしてやっているのが、ずっと放浪してきた身としてはホントに不思議な感覚だった。あたしが今までサポートで見てきたのはバンドですらなかった可能性がいよいよ。
「んぎっ……日菜さ、日菜さん! 難しいですこれ!」
流れてる曲は変拍子にポリリズムまで重なって何曲か同時に再生してるみたいな様相を呈してきた。ジェンティーサウンドにマスロックバンドの経験でどうにか対応しつつ、むにむにとしかめっ面で悲鳴を上げながらキック代わりの貧乏ゆすりとパッドで食らいつくあこちゃんのちっちゃい頭に視線を移す。
前の練習とあんまり変わらないリズム感だけど、初見でポリリズムまでぶち込まれてこれならむしろ大躍進かな。この子も上手くなる気がきちんとあるみたい。考える余裕はないとはいえ喋りながらこんだけやれてれば上等でしょ。
「ふー……終わり終わりー、休憩しよ」
「一曲なのに、つ、疲れました……いつもこんなことしてるんですか日菜さん……」
「リサちーにも言われたなあそれ」
練習なんかそれなりに疲れるもんでしょ。それにライブとか散々出てると、体力を減らすこと自体に慣れる。カプチーノの白を崩して啜りながら「普段から絞り切った方がいいよ」って言うと一瞬ヘナりかけて、すぐに「がんばりますっ!」と活を入れ直した。すごいなぁ体育会系。
感心のあまりあたしは、前までなら絶対に気にしなかったことに首を突っ込んだ。
突っ込んでしまった。
「あこちゃんモチベ高いよねぇ。なんで? なんか友希那ちゃんにカッコいいカッコいい言ってたのは覚えてるけど」
人の原動力なんてどうでもよかった。しいて言えばリサちーの目の奥にあった粘度のせい。あるいは、ほんの少し湧いたRoseliaへの情のせい。
あたしは、余計なことを気にした。
「……えへへ。あこ、
ふにゃりと笑う顔に言葉を返せなかった。
青い月明かりがちらつく。
おねーちゃん──姉?
「へぇ……仲、良いんだ」
「はい! ドラムも、おねーちゃんと一緒に始めたんです」
あこちゃんは弾けるように語り出した。
幼い頃に町内会の行事で太鼓を叩く
あたしは体の中がぐちゃぐちゃのバラバラになって、息が止まりそうで、せめて心臓を手放さないでいるのが精一杯で。
「おねーちゃんが世界一カッコいいドラマーだから、あこ、世界で二番目のドラマーになりたいんです! それでそれで、おねーちゃんみたいな──」
「なにそれ」
もう、無理。
「なにがおねーちゃんみたいにさ。バカみたい」
あこちゃんの表情が凍り付いた。
ああ、あたしもおねーちゃんの話をしたいな。あこちゃんみたいに、笑顔で紡げる思い出があったらいいのに。
商店街を並んで歩いたのも、迷子になってふたりで励ましあったのも、イルミネーションを見上げたのも、なにもかも昔の話で──終わった話だからさぁ。
ぐずぐずと込み上げる気持ちのままに表情を歪めながら、あたしはアイスピックを振り上げる。
「……ひ、日菜さ──」
「あたしにもね、おねーちゃんがいたの。真面目で、不器用で。あたしがなにか不思議がるたびに、自分だってわかってないのに一生懸命調べて答えてくれた優しい人でさぁ。あたしも大好きだった」
ギターが滑り落ちてガシャンと泣いた。あたしが立ち上がったせいだ。
「ねえ、なんで
違うや。
教えてあげなきゃ可哀想だ。
下らない勘違いなんかしない方がいいに決まってるんだから。
おねーちゃんが教えてくれたみたいに。
「
考えてみれば当たり前だったんだ。いつでも潰せる羽虫なんか気に留めるわけもない。ちょっと頭の上を飛ぶくらい見逃してあげるよね。
だってさ、明かりにつられたちっちゃい虫が飛んでるからって、人間様は困んないでしょ。
「
「──ヒナ!」
真昼の月がグンとかき消えて。
あたしは、リサちーに抱き竦められていた。
「なにやってんの、あこ真っ青になって……ヒナ? ヒナも大丈夫!? ヒドい顔してるよ……」
「……え」
あこちゃんの顔を見た。オバケにでも遭ったみたいに、日頃エネルギッシュな頬の赤みは真っ白に褪せていた。紫の唇がわななく。
「ぁ……あこ、あこは、ただ……」
「……リサちー、ごめん。今日の練習休むよ。……まだ言いそうだから、頭冷やしてくるね」
「待っ──」
振り払って逃げた。リサちーなら、今のあこちゃんはほっとけないよね。あたしのことは追えない。
家にも帰りづらい。行きつけの喫茶店はおねーちゃんと被ってる可能性がある。学校だって休日に行ったって入るのには手間取る。遮二無二走ってたどり着いたのは近所の公園だった。
「──は、っはは、あははははっ」
笑うしかなかった。
すごいねーとかそうなんだとか、相槌で済ませとけばよかったんだ。なんでマジに反応してんの。ほんと、バカみたい。
……みたい、じゃないか。
ギターを買った日。おねーちゃんと楽器店に行ったあの日から、あたしは取り返しの付かないバカになっちゃったんだ。
天才って称号も、サポートやソロアーティストとして向けられる称賛もまともに受け取ってこなくて、ついには微笑ましいはずの他愛ない家族の話ですら癪に障ってこの始末。力なくベンチに座り込んで項垂れたあたしは、もう、一体なんなんだろう。もう羽虫ですらなくて、次に目覚めたら毒虫かもね。
「あ……」
ぽつぽつ雨が鼻先に落ちてきて、あたしは空を見上げた。どんより立ち込める雲に、青も月も日差しも覆われて──あたしの空にはもう、なんの色も亡いんだ。
おねーちゃんがギターに魅入られちゃったあの日から、青い月明かりに目が眩んだまま。
「……このまま風邪でもひいたら、おねーちゃん、心配してくれるかな」
それとも、他人事みたいに気遣わしげな言葉を吐いて、次の瞬間にはギターでも触ってるかな。
なら、いっそ──
「傘、あるよ。使う?」
「……どう見たってもう手遅れでしょ、リサちー」
どろりと重い雨とむせ返るペトリコールの中、ベンチで死体みたいに座ってたあたしに、他人がバカなことを言いながら微笑みかけた。彼女はあたしの前に佇んだまま、口を開きかけては舌の上で言葉を探している。ちょっとからかうつもりで「ここ空いてるよ」と隣を叩いたら、あろうことか傘を閉じてホントに座られちゃった。流石に絶句。
「……あこちゃんは」
「燐子に任せてきた」
「……リサちー、なにしてるかわかってる?」
「わかんない。なーにやってんだろうね、アタシ」
みるみるずぶ濡れになっていく。ちょっと背伸びしたような肩を出したファッションも、よく手入れされてボリュームたっぷりなアップの茶髪も。いつもなら絶対しないような暴挙──なんて、ろくに知りもしないくせに。
混乱と驚きと自己嫌悪のグリーンスムージーみたいな頭の中で溺れるあたしに、リサちーは雨の滴るまま何でもないように言う。
「わかんないけどさ、するべきことは、走りながらなんとか考えたよ。──ちょっとだけさ、アタシの話を聞いてくんない?」
「……話って、なに」
「なんで友希那と音楽やってるのかーって話」
「…………好きにしなよ」
煙るように白い雨が強くなる。色濃い気配が流れ落ちるどころかまとわりついて窒息しそうな気さえした。春の水圧を帯びたまま、彼女はかぷかぷ紡ぐ。
「友希那のお父さんがね、ミュージシャンだったの。ライブハウス出身の叩き上げで、コアなファンもついて根強い人気があったインディーズバンド。アタシと友希那はあの人に音楽を教わって、小さい頃から一緒にセッションとかしてた」
「……その頃からベース?」
「うん。友希那のお父さんがフロントマンでギターも上手かったから、アタシは被るのがヤでさ? 別の楽器教えてーって駄々こねて」
「ワガママだなー」
本人もその自覚はあるみたいで「アタシも子供だったんだよ」と苦笑いした。つられてあたしも表情を崩すと、彼女はしてやったりの顔をする。
雨はまだ止まない。服が肌に張り付いて気色悪い。
でも、なんだろ。ちょっぴり気分が軽くなっていくのは自覚していた。
「今の友希那だけ見たら信じらんないと思うけど、あの頃はもっと表情豊かでさ? 歌ってるときなんていっつも笑顔だった。声出すだけで楽しい! 幸せ! ってくらい」
「……うっそだぁ、信じらんない──」
あたしはただ相槌を打つだけでいようとした、けど。
「──あたしのおねーちゃんみたい」
精一杯、誠意をもって聞こうと思った。
そっちがホントのことを言うんなら、あたしが心を開く理由になるから。
リサちーは一瞬目を見開いて、でもひとまず、話を続けてくれた。
「友希那のお父さんのバンドは順調に成長して、ついにはメジャーデビューしたんだけど……事務所の都合で方針の転換があってさ。売れ線っぽい曲をたくさんやるようになって。それでファンが増えれば結果オーライだったんだろうけど、むしろどんどん低迷してった。元のファンも少しずつ離れていって。そんなバンドが起死回生を図って出場したのが」
「『FUTURE WORLD FES.』……ってこと?」
頷く。それから、事務所に流されるままやった曲が酷評されてとうとう解散してしまった、と締めくくられた。友希那ちゃんの原動力はその復讐なんだ、とも。
「前の友希那との思い出があるからほっとけない、って話。あれ、ウソじゃないんだ。ただ、ほっとけないだけじゃなくて……アタシも連れて行ってほしかったのに、押し掛けなきゃ手を伸ばしてもくれなかったのが悔しくて、勝手に執着してるのも大きいんだ。それをヒナには黙ったままだった」
「には?」
「……にも。友希那にも、言えてないし」
いつだったか見た、陰気臭い笑み。へらりと滑るように口角を吊り上げた彼女は「アタシや、友希那が音楽やってる理由はこんなとこなんだけどさ」と続けながらあたしの目を覗き込んだ。
「ヒナの理由は、聞いてもいい?」
「大した理由じゃないけどね」
言い訳は湿度でぺしゃんこになって空虚だった。
「……おねーちゃんがいるんだ。美人で、真面目で、頭も良くて。きっちりしてるんだけど変なところで不器用で融通の利かないところがあって。あたしは、そんなおねーちゃんの後ろにくっついていって、なんでも真似するのが好きだった」
「……ヒナが?」
「意外?」
「なんでも自分で決めて責任取ります、みたいな自立したイメージだったかな……」
「もー、誰それー」
思えばどこまでもべったりだった。綺麗なお月さまの周りをくるくるくるくる、情報を拾って集めながらため込んでいくスプートニク。付きまとわれたおねーちゃんにとってはどうだったんだろう。鬱陶しい羽虫だったのかな。……それとも、あこちゃんのおねーちゃんみたいに、愛おしく思ってたのかな。
「なんでも真似してたのがダメだったみたいでね、おねーちゃんはだんだん、あたしのことを嫌いになってった。習い事も趣味も、あたしが真似するとぜーんぶ辞めて他のことを始めるの。高校も別々になっちゃった。家で顔を合わせても無視されちゃったり。でも、そんなおねーちゃんがある日、ギターを買ってきて」
そう、ある日だ。
何かの記念日でもない。入学式自体はもう終わってて、しいて言えば部活の勧誘が始まったばかりのなんでもない春に、前触れもなくやってきたエックスデー。
「……おねーちゃんとね、仲直りしたんだ」
「え」
「ごめんなさい。ずっと、蔑ろにしてばかりだった。あなたは私を慕ってくれただけなのに。突き放すような真似をしてごめんなさい……細かなイントネーションまでそっくりそのまま、一言一句違わず、覚えてる」
あのときのあたしには衝撃的すぎて、頭がパンクしたまま今日まで来てしまった。
「仲直りできちゃったんだ。初めて触ったギターに心を救われて、余裕ができて、冷静に今までの自分を振り返って……
「そんな、適当に水に流すみたいにされたら、ヒナが報われないじゃん……!」
「……一応、メーワクかけてたのはあたしの方だったからさ。そのときは普通に喜んじゃったんだ。だから今更だよ」
雨に濡れそぼった綺麗な目を吊り上げる彼女の怒りに、あたしは少し驚いた。あのとき、この子みたいに怒れてたら違ったかもしれない。もっとちゃんと向き合ってって言えたら、ただの仲良し姉妹になれてたかもしれない。
でも、もう今更。
「その日から、おねーちゃんはどんどんギターにのめり込んでいった。寝ても覚めてもギターを弾いて、学校にも持って行って、今まで無趣味でお小遣いなんて使わなかったのにお金が足らないってバイトまで始めて。しかもね、ギター歴半年で始めたそのバイトがスタジオミュージシャンなんだよ?」
「うわー……流石ヒナのお姉さん」
「表現力だったらあたしは逆立ちしたって敵わないよ。今のあたしが、スタジオミュージシャンになってすぐのおねーちゃんと勝負したらギリ互角かな」
今は、どうだろう。もう背中も見えないだろうか。足跡すら辿れないだろうか。あたしの知っているおねーちゃんすら正確に推し量れていたかはわからない。
「ギターの虜になって、どんどん上手くなって、性格も角が取れたみたいに優しくなって……あたしの気も知らないで綺麗になっていくおねーちゃんの視界に、少しでも映ってたかった。だからあたしもギターを手に取って……初めて、追いかけても届かない絶望感を知った」
弾いても弾いてもまだ足らない、綺麗に奏でられない手をじっと見る。補修を繰り返して蛙のそれみたいに丸みを帯びた指先。努力と、敗北の結晶。
「おねーちゃんを超えたら、おねーちゃんを打ち負かしたらもう一回あたしを見てくれるかもしれない。喧嘩してるなら話は早かったんだよ、仲直りすればいいんだから。でも、憎んですらくれないんだから……もう、刺すしかないんだ。あたしの全身全霊を込めて、おねーちゃんの一番大好きなものを挫いて、無理やりにでも振り向かせるしか──」
「ヒナ」
──リサちーが、あたしの無様な手を取った。
両手で挟んで、祈るみたいに額に当てて。彼女の指先も同じように潰れていた。ともすればあたしよりわかりやすい指先のタコが、どうしてか、きれい。
「……ひとりで、頑張ったね」
「まだ、まだ頑張ってない……! こんなで頑張ったことになったら、どうやってこれ以上──!」
「頑張ったよ。……追いつけないまま背中を見てるのってつらいじゃん。それにひとりで耐え続けたのを頑張ったって言って、なにが悪いの」
リサちーはかすかに震えた声で、聞き分けのない子供に言い聞かせるみたいに清廉に、そう言った。
雨があたしたちの体温を、境界を曖昧にしていく。
「アタシにも、わかるよ。追いつけない自分が悪いんだもん、置いてかないでって言えないよね。背中が遠くなって、自分なんか取るに足らないんじゃないかって思うたびに消えちゃいそうな気持ちになるよね」
「……胸が、じくじくするの。おねーちゃんの横顔を見てるとね、もう、あたしのことを見てくれないんじゃないかって」
「……うん」
「恵まれてるんだよ。あたしが無神経について回ったから嫌われちゃったのに、仲直りできたんだもん。あたしがおかしいだけだから……しょーがないのは、ほんとは、わかってるんだよ」
「……」
「……でも、もう一回だけ。おねーちゃんの綺麗な世界に、あたしも入りたいよ」
引き寄せられて、胸に抱かれて、子供をあやすように頭を撫でられて。
腐りかけていた心の栓が溶かされていくまま、あたしは言葉を止められずにいた。
「寂しかったね。怖かったね。……これが、ヒナなんだね。やっと初めましてだ」
「リサちー……」
「……似た者同士だったね、アタシたち」
ちかりと、瞼に照る白。
まだ少し残る小雨に晴れ間が覗いていた。昇る湿度で蒸す感覚は暑苦しいのに、汗ばむのを雨のせいにして、しばらく抱き合っていた。
「──ぁ、ははっ」
やがて、どちらからともなく笑いだして。あたしたちはようやく仲間になった。
水を吸って重くなった服を億劫そうに引っ張りながら、リサちーは「よいしょー!」と立ち上がる。
「あーあ、どうしよ! 勢いでこんなことしたからずぶ濡れ!」
「やっぱり考えなしだったんだ」
「考えはしたよ! ほっといちゃダメだって思ったらこれしか出てこなかっただけで!」
「他人のためにここまで体張れるの結構ヤバいよねー」
「他人じゃなくて友達じゃん!」
「他人には違いないでしょ」
「うわっひど!」
あたしの服も重い。生地が傷まない程度に絞りながら、あたしはリサちーを見た。
おねーちゃんだけいればいいと思ってた。生きていくのに必要な細々なことと、両親と、ギター。その全部を押しのけてでも、おねーちゃんだけは側にいて、あたしを見てほしかった。
そんなあたしの世界に現れた、おねーちゃんでも家族でもない、初めての他人。
「リサちー」
「これ一旦着替えに戻んないと……ん? どうし──」
「嫌いじゃないよ。リサちーに出会えてよかった」
隙間風が吹くみたいなくすぐったい心から
笑わせたんなら、良いことしたのかも、なんてね。
リサちーの家で体を拭いて、服も貸してもらって。CiRCLEに戻ったあたしはまず謝った。
「……ごめん、あこちゃん! あたしがおねーちゃんと上手くいってないからって酷い八つ当たりした!」
あたしとしてはちょっと強い言葉ぶつけすぎたなーごめんごめんくらいの感覚だったんだけど、リサちーからは威力も威力だし内容も内容だって総ツッコミされたから、やらかした事態に合わせてきちんと考え直した。あたしの気持ちがどうのっていうより、相手に負わせた傷に寄り添う意思を見せるのが誠意らしい。頭に入れておこうと思う。
あこちゃんはと言うとなんだか妙に晴れやかな顔で「大丈夫です! ちょっとびっくりしましたけど……日菜さん、練習とかいっつも見てくれて優しい人なの知ってますから!」と言われて胸が痛い。罪悪感とかちゃんとあったんだ、あたし。燐子ちゃんからも「顔色は……大丈夫そうですね。よかったです……」と微笑まれてどうしよう。彼女とは逃げだしたあたしとすれ違ったかどうかってところじゃなかった? 胸が痛い。うぅ。気を紛らわせがてらきょろきょろ見回すと、友希那ちゃんに「貴女のギターならここよ。はい」とギグバッグを渡される。傷のひとつも付いていない綺麗な状態らしくて「流石、大切にしているのね」と褒められてしまった。うぅぅ。
ふたりの様子を見てなんだか引っかかりを覚えてもいたあたしは、良心の呵責(!)から逃れるためにもリーダーにそれを尋ねた。
「昨日までとなんか雰囲気違うけど……なんかあったの?」
「……そうね。日菜にも後で話すけれど……色々あって、私が『FWF』を目指している理由をふたりに話したのよ。個人的な、私情でしかないけれど……」
「あー……ゴメン友希那、ヒナには喋っちゃった。連れ戻すための説得でちょっと、腹割って話さなきゃと思って……」
「……そう。まあ、遅かれ早かれだわ」
友希那ちゃんは心なしかしょんぼりしていた。自分で言いたかったのかな。こういうとこ、割と音楽だけで生きてきたポンコツって感じで面白い。
「……知っているなら話は早いわね。私は、父の無念を晴らすために『FWF』を目指していて、バンドはそのための手段」
「湊さん」
「……のつもりだったのだけれど。あなたたちとやってきた今日までに愛着も湧いてしまって、ただフェスに出られさえすればいいだなんて思えなくなってしまったのよ。それを伝えただけだわ」
すっごいにこにこの燐子ちゃんに……こう、「めっ」って感じで名前を呼ばれた友希那ちゃんが決まり悪そうに釈明(いや、釈明でしょこれ)を続けるのがおかしくて、あたしとリサちーは込み上げてくる笑いをこらえるので必死だった。
さっきまで、断罪される死刑囚みたいな気分だったのになぁ。
「何があったのさ」
「……今のバンドなんか捨ててすぐにでもデビューさせてやる、なんてスカウトマンに声を掛けられていたところを燐子に見られていたみたいで。CiRCLEの軒先で問い詰められそうになったと思ったら、ヒナが暴言を吐いて出ていくんだもの。取り繕っている場合じゃないでしょう」
「ひぇっ……」
あたしの軽挙妄動がダイレクトにバンド崩壊にリーチをかけていたと知って鳥肌が立った。よかった、多分Roseliaでまでバンドブレイカーしてたらもう音楽辞めてただろうし。
ともかく、夢と天秤にかけて「あなたたちとやりたい」って言われたからご機嫌なんだなと納得した。同時に、今日はもう練習なしだなっていうのも理解。ロビーのテーブルにお菓子広がってるし、カウンターのまりなさんが感動してハンカチで目元拭ってるし。気が抜けて、あたしは溜め息を深々吐いた。
「はー……今日はこのまま親睦会?」
「そうしたわ。そこのモニターで大手アイドル事務所のライブを配信しているそうだから、体裁としては業界研究ね」
「体裁って言っちゃうんだ……あれ? アイドル事務所……?」
モニターの表示は全画面だけど、移されているセットの中に見慣れた文字列が見えた。
「……おねーちゃんの事務所だ」
「え?」
「えっ!? 日菜さんのお姉さんってアイドルなんですか!?」
「いや、スタジオミュージシャンしてるんだけど……あれ、ウソ……」
大手事務所の主宰する一万人規模のライブ、いわゆる感謝祭ってやつらしい。その一枠を使って新人アイドルのお披露目ライブをするらしかった。
映っているのはふわふわのお下げが可愛らしい、わかりやすくアイドルっぽいボーカルの子。ベースを構えているのはドラマでたまに見かける子役上がりの女優。キーボーディストは目を引くスタイルのハーフっぽい子で、ドラマーはなんだかウォーミングアップがとても様になっている。
そしてなにより──イメージカラーらしい爽やかな水色の衣装を纏って、
「なんで……そんな顔してるの?」
頭を埋め尽くす疑問に答えが出るより先に始まる演奏。ポップな歌声から入って、曲名をもじったキャッチ―なフレーズ。重いギターサウンドの合間を滑らかに結ぶ低音の合いの手はおねーちゃんの手癖だけど……違和感が拭えなかった。
「……最近は、こういうバンドっぽいことをするのね」
「結構ノリノリでいいじゃん! ていうか、全員うまっ! うかうかしてらんないなぁ……ヒナ、どうしたの?」
あたしの頭が訴える。
おかしい。
「ギターを弾いているおねーちゃんが、こんなにつまらなそうにしてるなんてありえな──」
演奏の動きと、歓声から裏返っていくどよめきはそのままに──音源だけが、止まった。
「……アテフリ?」
気づいた瞬間──画面から、怒号が溢れた。