目がゆっくりと開いて、しぱしぱと二回程瞬き。いつものように、床に敷いてある灰色のカーペットと座卓が見える。そこにぽつんと人影がある。寝起きで重い身体を起こして目を擦って見ると、向こうにある座卓の前に座っているましろがじっとこちらを見ていた。
「おはようましろ。……いつからいた?」
「ちょ、ちょっと前、かな……」
「起こしてくれても良かったのに」
「気持ちよさそうに寝てたから……。起こさない方がいいかなって……」
合鍵は渡してあるから、こうやってましろが勝手に入ってくることはしばしばある。しかし、いつもと違うのは距離が遠いこと。朝、目を開くと、よく傍に笑顔のましろがいて思わず抱きしめて撫でてしまうことがしばしば。でも、今日はどこかもじもじと落ち着かない様子だ。どうしてだ……?
「どうかした?」
「う、ううん。何でもないよ」
「そっか……」
誤魔化すような不自然な笑い方。俺は何かしてしまっただろうか……。気まずい沈黙が訪れる。時計を見てみると、もう十一時過ぎ。バイトで疲れ果てて、夕飯も食べずにシャワーだけ浴びて寝てしまったから空腹感が顔を出している。ましろの様子が気になるけれど、とりあえず昨日の昼から何も食べていないから何か食べたい。
「ましろ。お昼まだだよな?」
「う、うん」
「作るからちょっとゆっくりしてて」
とりあえず何か作ろう。二人分くらいはどうにかなる……と思う。買い出しは後で行けばいいし。食べながら今日元気がない理由もそれとなく探りを掛けてみよう。思いたった俺は、収納ケースから服を出して洗面所に向かう。顔を洗い着替えて今度は台所へ。冷蔵庫を開けてみる。
「うわぁ……」
思わず声が出てしまった。冷蔵庫はスッカスカ。昨日バイト帰りに買い出しをしようと思ったけれど、疲れ果ててここに直帰したせいで思ったより何もない。あの状態のましろを放っておいて買い出しに行くのは……無しだしなぁ。あるものでどうにかするしかない。あるのは、ケチャップやマヨネーズ、そのほか調味料系。この間
「ごめんよ……。あるもの料理で……」
最早これは料理なのか? 頭の中でもう一人の自分がチクチクと刺してくる。黙れ。
「私が急に押し掛けただけだから気にしないで」
そう言ってましろはトレーの上の皿を取った。
「あっそれ」
「いただきます」
そのままましろはそれを一口。俺は猛烈に感激してしまった。
「……翼君どうしたの?」
「いや、あの、ましろが……ましろが、ピーマン食べられるようになったんだなって……。大きくなったなって……」
感動のあまり、俺はましろの頭を撫でる。
「あ……。ピー……マン……!」
ましろは手元のピザトーストを見ると、生まれたての小鹿のようにプルプルと震え始めた。目には涙を浮かべている。あれ???
「うっ、うう……」
翼君にお水を持ってきてもらって、何とか飲み込んだ。明らかにピーマンの入っていたピザトーストを取っちゃうだなんて……。何してるんだろう……。
「ましろ。今日は本当に一体どうしたんだ?」
翼君がそう言ってこちらを覗き込む。心配かけちゃってる……。どうしよう……。俯いた私の頭の中は罪悪感と逡巡が綯い交ぜになってしまって、何も言い出せなかった。
「ましろ」
翼君の優しい声。気がつくと、私はすでに翼君の左腕の中にいた。翼君の右手は私の後頭部に添えられている。
「翼、くん……?」
私は困惑して顔を上げる。穏やかに微笑む翼君の顔がすぐ目の前にあって、ドキリとする。普段から、この距離感になることはよくある。けれど、こうやって不意にそのタイミングが訪れると、何だか恥ずかしくて顔が火照ってしまう。私がどぎまぎしているのを他所に、翼君は目を閉じて右手で私の頭を撫で始めた。いつも、翼君からされていること。しばらく私は翼君の胸に顔を埋めて、されるがままになっていた。だんだん落ち着いてきた私は、再び顔を上げて翼君の顔を見る。
「悩みがあればいくらでも聞くし、もっと頼って欲しいし、甘えて欲しい。ましろには、ずっと笑顔でいて欲しいから」
翼君の声が、優しげな声音から決意の籠った声音へと変わる。翼君のキリっとした目線が、私を掴んで離さない。私も……覚悟を決めなきゃ。
「翼君。えっとね……。これ、受け取って欲しいんだ」
一度翼から離れた私は、持ってきていた鞄の中から、花柄の包装紙で綺麗に包まれた四角い箱を取り出す。
「これは……?」
「今日、バレンタイン、だから……」
声が上擦って、震えてしまう。鞄から取り出したそれを翼君に差し出す。
「開けても、良い?」
私は小さく首肯する。翼君が包みを開いて、箱の蓋を開けた。
「生チョコだ。もしかして手作り?」
「……うん。その、チョコ手作りするの初めてで。ちょっと形は歪だし、口にあうかわからないけど……」
いざ作ったものを翼君に見られると、一気に不安が押し寄せてくる。思わず早口で御託を並べてしまう。ああ、私の悪いところ。下を向いてしまった私は、唇を嚙みしめ拳をギュッと握りしめる。
「美味しいよ」
私は顔を上げる。目の前で、翼君が美味しそうに生チョコを頬張っていた。
「うん。美味しい。作業してるときに食べたい甘さ」
「やっぱり……甘すぎたかな……?」
「そういうわけじゃないよ。チョコって、甘い方がチョコって感じがするし。それに……」
そこで一旦、翼君が言葉を切った。翼君の顔がさっきより、少し赤い気がした。
「ましろが俺のために作ってくれたチョコだもの。すごく嬉しいし、美味しいに決まってるよ」
……ああ、この人は。ビターチョコの方が好きなのは、あなたのお母さんに聞いて知っているのに。「少し甘すぎるかな」くらい、言ってもいいのに。私のことをずっと甘やかして。
私はずんっと翼君に近づく。驚いた翼君の顔が、目と鼻の先にある。
「翼君。大好きだよ」
とっても甘くて、幸せなチョコの味がした。
Happy Valentine!!!(大遅刻)