青春100% 作:完結の陽炎
合宿を終えた淳平は東城家へ向かった。
東城家の両親へ謝りに行くためである。
綾の傍にいながら助けられなかった。
正太郎に頼まれたのに信用を裏切ってしまった。
映画作りも自分が描く夢とは違ったものになった。
悔やんでも悔やみきれない。
既に起きてしまったことは元に戻せない。
せめて今からでも挽回ができるように動くしかない。
当事者である綾の罪悪感は計り知れない。
脚本の理想を押し付けて、演技をする淳平に無理をさせた。
挙句の果てに、自分のドジで淳平だけでなく周りの部員にも迷惑をかけた。
代役を立てることになり、脚本もほとんど変えてしまった。
過去に戻れるものなら戻ってやり直しをしたい。
だが現実と向き合っていかなければならない。
それが綾に課せられた試練といえるだろう。
両親は淳平を許した。むしろ逆に謝り返した。
いつ来るか分からない綾のドジを防ぐことは困難。
あまりに酷な話である。
正太郎のような直感的に察知できる人のほうが異常といえる。
優しさは時として残酷だ。
淳平に罪悪感が溜まって精神的に苦しみを与える。
だから今度は正太郎へお詫びに向かった。
綾も一緒に正太郎の部屋に行ってくれる。
「正太郎」
「ねーちゃん、あとカントクもいるんだろ? 入ってくれ」
淳平が先に入室して綾が続く。
あえて正太郎は用件を尋ねた。
淳平が立ったまま腰を曲げて頭を下げる。
「ごめん、オレはあの時は変に照れたりして東城を見れなかった!! 近くにいたのに何もできなかった!!」
「真中くんのせいじゃないよ!! 勝手に転んだ私が悪いから!!」
「それでもオレにできることはあった!! 手汗を気にして繋がなかったけど、手を拭き取ってでも繋ぐべきだったんだ!!」
改善できる所はあるのに実行が伴っていない。
それが淳平の心をより苦しめさせた。
正太郎は何も言わない。
目を閉じて聞くことに集中をしている。
「次からはこうならないようにしたい!! 同じ失敗を繰り返すことはしたくない!!」
淳平の心の内を存分に吐き出してもらう。
言いたいことを言わせたほうがいい。
タイミングを見計らって正太郎が目を開けた。
ここで先に宣言をする。
今は後輩口調の気分になれないので普通に話すと。
そして思っていることをありのまま伝える。
「あの時のオレはカッとなってしまった。天さんが止めてくれなかったら正直ヤバかった。そこがオレの反省点であり、次の改善に繋げたいと思う。冷静に考えれば、ねーちゃん自身が気を付けないと根本的な解決にならないことだ。それでも傍にいる間だけでいい。できる範囲でいい。カントクにねーちゃんを支えてほしいと今も思っている」
二人の幸せを願っている。
そこに嘘偽りはない。
次で頑張ってくれたら今回の失敗も無駄ではなくなる。
少しでも前向きになって進むのが遥かに建設的だ。
「ねーちゃんがケガをしてしまったことは仕方ない。防げなかったことも次に活かせばいい。ただな、オレがそれ以上に残念に思うことがある」
「そ、それは一体?」
淳平に促されて正太郎は再び間を置く。
部屋の空気が重くなって息苦しさを覚えるぐらいだ。
それでも淳平は逃げることなく耳を傾ける。
正太郎は姉に向かって言った。
「ねーちゃん、脚本のラスト変えた?」
「……うん」
「そうか……やはり変えてしまったのか」
「……」
「譲れない領域まで捻じ曲げたんだな。同じ創作家として残念に思う」
「仕方なかったんだ!! 向井がどうしても悲劇な展開は嫌だって!!」
「知ってるよカントク。悲しいお話は人を選ぶんだ。その個人の感性を否定するつもりはない。でもカントクは感動したんだろ、あの悲恋の物語を。それを台無しにされて何とも思っていないのか?」
「うっ……」
「確かにあの物語は悲しすぎる。だから多少の変更はあってもいい。でもあのラストだけは変えちゃいけない。それが創作家にとって最大の見せ場であり、最も強く表現される所、すなわち譲れない領域だ。少なくともオレはそう思っている」
それすらも曲げてしまっては自分の作品といえなくなる。
仮にそれで評価をされたとしても素直に喜べるのか?
後々になって虚しくなるのではないか?
映画が完成したのに、二人が全然嬉しそうでないことが証明をしている。
「今回の合宿でお互いに学べるところがあった。来年オレたち映制は、そちらの映研に勝負を挑む。それまでに精進することだ」
「東城弟……もちろんだ!! 来年は絶対にいい映画が作れるように約束するよ!!」
「ま、真中くん、今年の映画がまだ発表されてないのに、それは……」
「も、もちろん今の映画だって別に蔑ろにはしないよ!! ただまあ……その……」
「ううん、あれは私も後悔が残る映画になってるから。いつでも反省ができるように逆に残すべきだと思うの」
戒めるための映画として受け止める。
そんな綾の考え方に正太郎も共感を覚えて頷く。
これで来年は同じ失態をすることは二度とないだろう。
………………。
…………。
……。
泉坂高校の嵐泉祭。
校内の上映室へ集まった映制の美鈴たち。
私服でも別に問題はないが、今回は無難に中学の制服で行くことにした。
指定の時間に映研が作った映画を見せてもらう。
そして見終わった後の感想を話すために場所を変えたい。
だが模擬店はどこも混雑している。
落ち着いて話ができる場所を正太郎が提案する。
「動画部という名目上、映研と映制はどちらも同じ部室で共用となる。つまり今の映研が使っている部室が、来年のオレたちの部室にもなるってことだ。これを機会に実際に見ておこうかと思う。異論はあるか?」
「唯はさんせー。部室って古い物置小屋だって聞いてるから見てみたい」
「えらいボロ小屋らしいけど、どんだけボロいか、逆に興味あるで」
「わたしも一度は見ておきたいな。でも部外者のわたしたちで部室を見せてくれるのかな?」
「どうせアンタのことだから、黒川先生の許可をもらってるんでしょ?」
「ああ、抜かりはない。事前に連絡を入れてある。職員室に行けば鍵を開けてもらえるぞ」
反対者がいないので全員で職員室に向かう。
黒川先生が対応をして、グラウンドの隅っこにある物置小屋の鍵を開けてもらった。
終わったら再び職員室に声を掛けてくれたらいい。
それで戸締りをしてくれる。
しかし……。
「うわぁー、なんか中に入るとジメジメしてるぅー」
「湿気が蔓延しとるな。換気するための窓がひとつもないで」
「こんなところで部活してるの!? 信じられなーい!!」
「最悪な環境ね。映画の中身だけでは飽き足らず、部室までこの有様だなんて」
部室の劣悪な環境に唯・内場・ちなみ・美鈴からの批判。
部を存続するための抜け道としてやむを得ないといった印象だ。
正太郎は小屋の戸を開放したままで空気を入れ替える。
「想像以上にヤバいな。エアコンがないから夏や冬は無理だし、コンセントがないからパソコンも使えない。窓もないから入口を開けるしかない。物を仮置きするぐらいしか用途が思いつかん」
ここで毎週の定例会議をして掃除はされている。
資材が適当に保管されている。
一応は使われているという印象だ。
「ヒロシ兄さんの話によると、今回の映画で賞を取るなり、部のランキングで上位で評価されるなりすれば、今よりも遥かにまともな部室を得られるらしい」
「ねえーしょーたろ。もし映画がダメだったらどうなるの?」
「その時は今のボロい部室のままの活動だろう。オレら映制も共用という形でここを使うことになると思うが」
「えぇー、こんなカビ臭い部室ってなんかヤダよぉー。お化けとか出そうだもん」
「東城、ここはどう見ても部活動するには向いとらんで。映制で活動するなら今まで通りに美鈴の部屋でええやろ」
「わたしも内場くんに賛成。5人だけなら美鈴の部屋で出来るよ。勝負している間はそれでいこう」
「部活で使う機材や書類、消耗品などはできるだけ一か所で管理しておきたい。美鈴の部屋で全部管理できるかな? 部屋を圧迫させてしまうと思うが?」
「物によるけど、あまり得策とは言えないわね」
「あとで天さんに相談してみるか。最悪、各自で保管するしかないかもしれん。正直この部室で保管は、映研も使っている以上は厳しいと思う。これ以上モノを置いてスペースを狭くしたくはないしな」
これは追々決めようということで今回は割愛とする。
ひとまずここなら誰も邪魔は入らない。
少しだけ映画の感想を話す程度なら我慢はできる。
早速、映研の感想についての一言。
「問題外」
美鈴が呆気なく切り捨てた。
正太郎も内容が目に余るため頷いてしまう。
「僕はカメラワーク良かったと思うで。さすがヒロシさんや」
「唯はね、舞台が綺麗で本物みたいな感じが良かったよ」
「演技は……なんか自分たちだけで勝手に盛り上がっている感じ? あれはわたしたちも気を付けないとって思ったかな」
内場・唯・ちなみからのコメントで、良い点に関してはカメラマンや設営の裏方が頑張ったからである。
演技は独りよがりではあってはいけないと、ちなみは反面教師として受け止めた。
「なあ皆、あの映画の内容は面白かったか? 何か一つでも感動できる所はあったか?」
正太郎が率直に尋ねる。
誰からも反応がない。
それが答えになっていた。
「美鈴、いかに脚本が重要であるかがよく分かったよ。他が良くても、肝心の内容が悪いとああなってしまうんだな」
「それが分かっただけでもココに来た意味はあるわね」
「同時に監督としての重責を感じたよ。トップの決断は映画作りにおいて、果てしなく影響力を与えるんだなって」
「別に大した事ないわよ。映画はあたしだけで作るものじゃない。皆で一丸となって取り組むものだから」
監督としてのプレッシャーをものともせず堂々としている。
おかげで脚本担当の正太郎は余計な緊張をしなくて済む。
美鈴がトップなら何とでもなると思わせてくれるから。
「唯、コピーして渡した脚本を参考にピアノよろしくな。受験勉強も大事だからその辺りのバランスに気を付けてくれ」
「うん任せて。冬休みになったら勉強教えてね」
「そこはオレと美鈴に任せろ。助手のちなみも頼りにしてるぞ」
「えへへ、サポートはわたしにお任せだよ」
「内場も勉強で分からない所があったら頼ってくれ。このメンバーで全員合格しないといけないからな」
「おう、美鈴に教わっとるから大丈夫やで」
「よし、これで話は終いだな」
正太郎は拍手をして気持ちを切り替える。
それによってメンバーの注目を集めた。
「あとは嵐泉祭を楽しもう。唯はこの後、他の人と回る予定だったっけ?」
「うん。つかさ先輩と交代の時間に合わせて一緒に回る予定なんだ」
「了解。内場は美鈴と、オレはちなみとそれぞれ自由行動ってことでOKだな?」
「オーケーや。あ、職員室は僕と美鈴で行くから、東城たちはそのまま行ってええで」
「ありがとう。お言葉に甘えるぜ。行こうかちなみ」
「うん。行こうしょーくん」
ちなみが積極的に正太郎の左腕を組んで歩く。
自由な利き腕で心理的にちなみを守る正太郎。
歩くペースはちなみに合わせている。
すっかり慣れているようで動きがスムーズだ。
「けん制してくれて助かる。状況からして必要なことだと分かるぜ」
「しょーくん、モテるって自覚あるよね?」
「天さんの苦労話を聞いて、オレも他人事じゃないと思ってるからな」
「そうだよ。わたしがいないと、しょーくん逆ナンされちゃうからね」
「逆ナンの意味は、女子から男子への声掛けだったな?」
「うん合ってるよ」
「そういうちなみこそ、オレがいないとナンパされるんじゃねーか?」
「そうだよ。だからしょーくんがいてくれることがけん制になるんだ」
「なるほど。腕組みはオレだけでなく、ちなみの助けにもなっているからウィンウィンだな」
お互いの利害一致もあって腕組みを歓迎する。
身体の密着で歩くペースが自然と分かる。
心が通い合っているような感覚だ。
――ちなみがお腹空いてそうな気配? 顔?
毎日観察しているから彼女の変化が感じ取れる。
それでも確証はないので言葉に出してみた。
「ちなみが空腹を感じてると直感したが当たってる?」
「……当たってる」
「恥ずかしがることはない。食欲は自然現象であり、健康な証拠だからいいことだ」
「しょーくんこそ、お腹空いてるよね?」
「割と減ってるが、そういうのって隠してても分かるものなのか?」
「わたしは分かるよ。しょーくんのことを一番よく見ているから」
「ちなみは確証を得ているが、オレはまだ推定止まりのレベル。察知能力はちなみのほうが上か。もうちょっと修行を積めば互角になれそうな気がする」
「修行って……しょーくん何をするつもりなの?」
「ちなみの全身を細かく詳細に観察する訓練とか?」
「は、恥ずかしいからダメ。しょーくんに見られすぎるとわたしの頭が茹で上がっちゃう」
「今の感じは昔のあーちゃんに近いな。素のほうが強く出てる感が――」
「ああもうーしょーくん!! あまり意地悪すると置いて行くからね!!」
「それは双方ともに困ることになるからおススメしないぞ。オレのほうが困るから先に折れるけど」
演技に優れるちなみも正太郎の前では素が出やすい
それだけ正太郎の言動や態度が直球すぎる。
小細工なしで回りくどいことはしないストレートタイプだ。
色々な出店と回った結果、たい焼きを食べることにする。
「しょーくんは頭から食べる派だね」
「尻尾が持ちやすいからな」
「わたしも頭から食べちゃう。理由もしょーくんと同じ」
「ほとんどの人が頭食べる派じゃね? 尻尾から食べる人はいるのかな?」
「きっといると思うよ」
些細なことでも好きな人と同じであることが嬉しい。
ちなみが機嫌よく間食を済ませて次へ向かう。
腕を組まれているちなみの柔らかさに正太郎は思う。
――以前よりも胸が大きくなっている。成長期か。
少し前まではつかさと同じぐらいのサイズだった。
制服の上で見るだけだと分かりにくいが、くっついていると大きさが伝わる。
このまま大きくなれば、こずえと同じぐらいになるかもしれない。
「高校生になっても成長するのかな?」
「しょーくん、どこ見て言ってるの?」
「胸だけど何か?」
「正直だね。全然いやらしく聞こえないのがしょーくんらしい」
「男は女みたいに胸なんて大きくならないからな。鍛えてもぺったんこで筋肉がつくだけだし」
「男の子って大きい胸が好みだってよく聞くけどホント?」
「それ言われる理由はおそらく、女性特有の身体的特徴ということで、男にはない変化に興味を持たれやすいからだと思うぜ。好み云々は人それぞれとしか言いようがない」
「しょーくんは大きいほうが好み? 北大路さんとかお姉様とか向井さんとか」
「過去・現在・未来のすべてを含めて、ありのままのちなみを好みだと言ったら?」
あの頃のちなみも可愛かった、今のちなみも可愛い、未来も可愛くなるだろう。
微塵も照れたりせずにハッキリと口にできるのが正太郎。
そのダイレクトな言葉をまともに食らったちなみ。
プシューと効果音が出てもおかしくないほどに赤面をしてしまう。
「もぉー、彼女のわたしをこれ以上口説いてどうするの。なんかくやちぃー」
「褒めてるんだから悔しがることはないと思うぞ。そしてこれからもよろしく」
「う、うん……」
外向きの演技が内向きの素になってしおらしくなる。
これ以上好きになってしまったら心臓が爆発をするかもしれない。
それぐらいに胸の鼓動が高まってしまう。
決してイヤではない。
このひと時を大切にしていきたいと願う。
「ちなみ、前世占いコーナーがあるぞ」
「へえー。しょーくん、ちょっと見てもらわない?」
「ああ、別にいいぜ」
占い研究部で相手は女子生徒の魔法使いスタイル。
オカルトのような怪しげな内装をしている。
椅子とテーブル、水晶玉とイメージが似合っていた。
早速、正太郎とちなみの前世を調べてもらう。
水晶玉で何かやるのかと思いきや、それはただのインテリアだ。
実際はマニュアルの質問をして答えてもらい、その結果を出すだけである。
そして占いコーナーをあとにした。
「ちなみが夢魔の生まれ変わり。人の生気を吸い取る悪魔か。ひとつ心当たりがあるから解釈としてありかもしれない」
「しょーくん、その心当たりってなに?」
正太郎がちなみの唇に向けて指を差す。
それで意味が通じたのか。
小悪魔のような笑みを見せた。
「ふーん。あとでしょーくん生気、食べちゃおうかな」
「演技やめい。妙にハマりすぎだ。それにしてもオレの前世がな……」
「文武両道の硬派な男子学生の生まれ変わりだってね。今もそうだから受け継いでるんじゃない?」
「潜在能力が前世の名残という解釈ならそうかもしれないな」
二人は腕を組んで歩き出す。
他の出店を自由に見て回っていく。
こうして二人のデートは続いていった。
………………。
…………。
……。
校内の上映室では閑古鳥が鳴いている。
どれだけ映画を流しても誰も来なくなった。
脚本を変えさせたこずえは自責の念に駆られる。
それを綾が慰めてから力也にフォローをしてもらう。
「ここは僕一人で充分だよ。皆は気晴らしに行ってくるといい」
「へえー気が利くねえ。でもアンタはいいのかい?」
「最近、カメラの調子が悪くてね。来年までには新調しておきたいものだよ」
さつきに返答をするヒロシのテンションが低い。
愛用のカメラを修理に出しているせいだ。
周りからは冷静なヒロシとして印象が変わって見える。
「外村くんってカメラがないと、意外にまともな人なんだね」
「つかさ、そんなハッキリ言ったら失礼だよ」
「でも綾だってそう思ってるでしょ?」
「……ちょっとだけ」
「ひどいなキミたち。普段の僕は至ってまともじゃないか」
どの口が言うかと部員一同からのツッコミが入る。
でもヒロシの珍しい厚意に甘えることにした。
皆が上映室が去ってしばらくすると黒川先生が顔を出しに来る。
「いらっしゃいませ黒川先生」
「フッ、一人で寂しく映画鑑賞か外村」
「とんでもない。先生が来てくれたので寂しくないですよ」
「やけに落ち着いているな。いつものハイテンションなお前とは別人だ」
「カメラを修理に出していますからね。写真に残せないのが残念極まりないです」
「それで他のメンバーを出させて一人寂しくか。普段からそうしていれば、お前の評判はもっと上がるだろうな」
黒川先生はヒロシを気に入っている。
ただの変態だけではない別の側面も見抜いているから。
数々の生徒を見てきたキャリアは伊達ではない。
「……先生」
「なんだ?」
「僕には妹がいます。一つ下の」
「来年に入学して映制部長となる自慢の妹か?」
「そうです。兄弟姉妹って割とよく比較されちゃうんですよね。どっちが優れてどっちが劣っているかなんてよくある話。結構そういう所、当人たちは見ているものなんですよ」
美鈴がトップクラスの成績を叩き出しているのは兄の影響だ。
ヒロシが常に学年トップを維持しているから。
美鈴に兄への対抗意識がないといえば嘘になるだろう。
そういう意味では正太郎と本質的に同じ。
だから二人の相性が良いのかもしれない。
「美鈴は美鈴のいい所がある。無理して僕を追いかけようとしなくていい。そんなことに価値を置くぐらいなら、もっと他に磨く所があるでしょう」
「妹のために変態を装って自分の価値を下げたか?」
「先生までひどいですね。僕にはちなみ様――もといちなみちゃんのマネはできませんよ」
「貴様のそれはわざとか?」
「滅相もない。黒川先生が一番です」
「たわけ。お酒を吞める歳にもならない小童が先生を口説こうとするな」
「成人して吞める歳になったら、先生のお酌をしてもいいですか?」
「教え子と酒を酌み交わすか。それはそれで楽しみだな」
「夢があっていいでしょう。夢といえば映研部長の真中です。来年は面白い事になりますよ」
ヒロシは今までにない獰猛な笑みをこぼす。
美鈴たちとの対決を心待ちにしてしまう。
黒川先生は意外な面を見せるヒロシに感心を寄せた。
「お前にもそういう本性があったのだな」
「おっと僕としたことが不覚。美鈴に悪影響なので見せないようにしているんですけどね」
「前髪で目を隠しているのもそのためであろう」
「否定はしません。生まれつきの目付きで美鈴を怖がらせても困りますから」
ヒロシの根源は妹に集約される。
妹のためならばという極度のシスコンだ。
そんな妹と対決ができるなんて夢のようである。
「正太郎くんには心から感謝するよ。彼がいなかったらこれほどの現実はなかったからね。僕の理想以上だよ」
こらえきれずにヒロシが笑い出す。
大人の対応をしてくれる黒川先生の前なら問題はない。
どんな顔があっても受け流してくれるから。
一方、空手部の道場でさつきと天地が道着姿で組み手をしている。
互いの攻防が周囲に息を呑ませた。
手に汗を握るほどの重圧である。
さつきの激しい攻めに天地は粘り強く耐える。
反撃ができない防戦一方に追い込まれていく。
不意にタイミングを外しての中段蹴り。
かろうじてガードをする天地だが、吸収しきれない衝撃で重心が乱れてしまう。
すかさずに下段廻し蹴りが叩き込まれて姿勢が崩れ、正拳突きの寸止めが決まった。
さつきは残心で構え直してから姿勢を正しての一礼を取る。
同じく天地に応じて礼儀正しく一礼を交わした。
「あたしを振り向かせたいならもっと強くなりな」
「もちろんです!! 必ず強くなってみせます!!」
空手部から凄まじく勧誘をされてもさつきは飄々とかわす。
空手だけが人生の全てではない。
それだけに視野を狭くするつもりはない。
まるで冒険をするかのごとく未知なる道を求めている。
お互いにシャワーを済ませてから肩を並べて歩く。
「アンタは変わったヤツだね。あたしみたいな女らしくない女を好きになってさ」
「さつきさんはさつきさんの望むままでいいのです。そんな貴女に僕は惚れています」
「最初会った時、かなりムカつく感じだったのにな。その性根を叩き直そうと稽古つけてやったのが始まりだったね」
「確かに。当時の僕は傲慢で虚勢を張り、そうしないと自分が保てないような情けない男でした」
「今は違うって言いたいのかい?」
「そう自信を持って言えるように行動で示しています。言葉だけだと何とでも言えますからね」
「あたしもそっちのほうが性に合ってるよ」
途中、子どもの迷子を見つけたので二人で生徒会室まで連れて行く。
迷子の不安を取り除くため、天地が適当な紙を使って折り紙にする。
数々の動物を作って迷子を喜ばせていた。
それらを紙袋に入れてプレゼントとして、そこに保護者が来たので笑顔で見送った。
「器用だな天地」
「天地財閥の息子として色々やってきているからね。おかげで多趣味になったよ」
「困っている人がいたら助ける。その当たり前のことができる人は少なくなったね」
「面倒事を嫌い、見て見ぬふりが増えたことは実に嘆かわしいことだよ」
「実際、さっきの迷子も誰かが何とかしてくれる感じでスルーしたヤツらがいたな」
「そういう人間も一定数はいるのでしょう。しかし僕やさつきさんのような人だっているのです。人は人、自分は自分です」
「全くもって同感。なんだい気が合うじゃないか」
「ありがとうございます」
天地にしてみればこれ以上にないほどの喜びである。
好きな人に好意的に受け止めてくれているのだから無理もない。
表面上はポーカーフェイスを気取っても、心の中では大いに舞い上がった。
一方、落ち込んでいたこずえは力也のおかげで立ち直っている。
お姫様抱っこされて妄想が爆発してしまっている。
このまま攫われてどこまでも遠くに行ってしまいたいほどだ。
「俺はこずえちゃんがいれば他に何もいらねえ。誰が何と言おうと、俺はこずえちゃんを守る」
「り、力也さん」
「俺はこずえちゃんの笑った顔が好きだ。頭が悪いからそれ以上のことは上手く言えない」
周りからバカップルな扱いをされようとも構わない。
そんな力也の一途さにこずえは惹かれたのだろう。
二人っきりになりたいから力也の部屋に行きたいとワガママを言う。
好きな人の頼みとあらばと、後々の片付けをサボって家へ連れ込んだ。
その後どうなったのかは二人のみが知ることである。
なお、つかさと一緒している唯は食べ歩きをしている。
祭りの雰囲気に当てられて食べ物が美味しく感じるのだ。
チョコバナナ・たこ焼き・フライドポテトなど様々である。
「あとの体重計が怖い。でも美味しいから仕方ないよね。お祭りで特別だもん」
「そうだよね。お祭りだから仕方ないよ」
「つかさ先輩は食べても平気そうですね。唯なんて毎日カロリー計算をして、大きくなれるように牛乳呑んで、運動もして、色々頑張ってるけど効果が今一つなんだ」
「いやいや、あたしだって食事に気を遣ってるよ。食べても太らない体質じゃないからね。そもそもそんな人がいるならお目にかかりたいよ」
「あ、そうだ。つかさ先輩に食べても太らないお菓子作ってもらったら解決だよ」
「そんな都合のいいお菓子なんてないから」
「ないのかー。ざんねーん、むねーんだよ」
「……いま、なんであたしの胸を見たのか教えてくれない唯ちゃん?」
「唯より大きいのが羨ましいからだよ」
「唯ちゃんはまだこれから成長するよ。それにあたしだってそんなに大きくないから」
「皆の中で唯が一番小さいって分かってるもん。別に好きで幼児体型してる訳じゃないのに」
唯のやけ食いに付き合わされるつかさ。
後の体重計で泣きを見るはめになってしまう。
それでも美味しい食べ物の誘惑には勝てなかった。
そんな食いしん坊な唯を遠巻きで目撃したのは内場と美鈴。
ウインドウショッピングをするかの如く出店を見て回った。
必要以上のお金を出さないように気を付けつつも祭りの雰囲気を味わう。
「ああなった唯はもう止まらないわね。あとで泣きを見ても知らないんだから」
「女の子って大変やな。僕ら男には縁のない話やで」
「あら、男女問わずに食べ過ぎは体に毒よ。特に運動が苦手な貴方は気を付けたほうがいいわ」
「ご忠告どうもや。それはそうと美鈴にちょい質問や」
「なによ?」
「ヒロシさんがあれだけ前髪を長くしとる理由って知っとるか?」
「……知ってるわよ」
美鈴が真剣な面持ちで答える。
そこには複雑な思いが込められていた。
内場はそっかと相槌を打って深入りはしない。
「踏み込んでおいてアッサリ流すのね」
「人の家庭事情に首を突っ込むのは野暮かと思うてな」
「別に。あたしのことをもっと知りたいって気持ちがあってのことでしょう」
「せやで。合宿の温泉でヒロシさんが目を見せてもろうてな。僕なりに理由は察したで」
「へえー、兄貴は見せたんだ」
「東城が羨ましい言うとったわ。自分たちは外見が全然似とらんからって」
「一時期、血の繋がりがない姉弟って根も葉もない噂を耳にしたわ。アイツにとってはどうでもいいことでしょうけど」
「せやな。東城にとって姉を超える野望には何の支障もないし、どうでもええ事やな。美鈴はヒロシさんにそういう超えたい感情とかは持っとらんのか?」
「兄貴は兄貴、あたしはあたしよ。マネをしたところであたしが兄になれる訳でもないし逆も然りよ。だからあたしが超えるとしたらあたし自身。過去のあたしよりも今のあたし、今のあたしよりも未来のあたしよ」
自己実現に向かっていく美鈴。
その純然たる言動と行動に内場は心酔する。
だからこそ映制の監督に相応しい。
「……ねえ貴方」
「なんや?」
「袖、つまんでもいい?」
「ああええで。人混みではぐれんようしっかり握ってな」
制服の袖をつまんで内場にリードしてもらう。
内場の包容力に甘えたくなる時がある。
そんな不器用なところに愛しさを感じる内場であった。
淳平と綾は泉坂高校の階段を上がっていた。
中学みたいに屋上が立ち寄れないかを確認するために。
しっかりと鍵が掛かっている。
どうやっても立ち入ることは不可能だ。
「やっぱダメだったな」
「うん。それが普通なんだと思う」
これが現実である。
中学の時が異常だったのだ。
どうしてもと言うのであれば、映画の撮影で許可をもらえば可能かもしれない。
そこまでする必要があるかどうかは今の時点では不明だが。
――ただの思いつきで屋上行けるか試したけど、あとはどうしよう?
今までの不甲斐ない自分がイヤでたまらない。
だから淳平は変わろうとしている。
変わりたいという強い思いで動いていきたい。
もしかしたら失敗をするかもしれない。
だが恐れていては、いつまでも何もできないまま変われない。
――とにかく何かやっていかないと。
分からないなりにやるしかない。
ちゃんと言うべきことを言ったか?
動くべき所でちゃんと動けたか?
何もかもが中途半端で後悔をしてきた。
そんなことは繰り返したくない。
――そうだ。転ばないように手を繋ごう。もう合宿の時みたいなミスはしないように。
焦った様子で綾の手を掴み、無意識に弾いてしまう綾。
拒否されたことにショックを受ける淳平。
すぐに綾が我に返って言い訳をした。
いきなりだったから心の準備ができなくて怖かったと。
不意に掴んでしまったのが良くなかった。
焦ったことで乱暴な動作になったのもマイナスである。
「ご、ごめん東城」
「私こそごめんなさい」
お互いに謝り合って中々先へ進めない。
顔色を窺いすぎると進展がしない。
だが無理に進もうとすれば拒絶で心に傷がつく。
一体どうすればいいのか?
淳平の苦悩は避けられない。
そんな彼氏を見て切なくなったのだろう。
ここで綾は弟のことを思い出した。
やられたらやり返す。
そんな正太郎のやり方が浮かんできたのだ。
もはや恥ずかしいとかそんな事は言っていられない。
拒絶をして淳平の心に傷をつけたのだから。
その埋め合わせをしなければ彼女として失格である。
「と、東城?」
淳平の左手に綾の両手が包み込むようにして握る。
動揺する淳平にまともに相手の顔が見れない綾。
それでも握った手を離さないように精一杯の力をこめる。
しばらく固まっていた二人だが、綾からこう切り出す。
「手を繋ぎたい。好きな人と」
これに淳平が即時に反応。
もう片方の手を使って綾の手を包み、お互いの両手が握り合う形となる。
「オレも繋ぎたい。付き合ってる東城と」
「は、はい」
お互いに気持ちを伝えたが問題はここからである。
両手を握ったままどうするのか?
このまま歩く訳にもいかない。
どっちか片方ずつ繋がないと一緒に歩けない。
右と左、どちらにすればいいのか分からない。
「オレ付き合うの初めてだから、こういう時どっちで繋ぐのが正解か分からない」
「わ、私も初めてだけど、別に正解はないと思う。どっちでもいいんじゃないかなって」
「うーん。東城はどっちの手がいい?」
「私は真中くんの繋ぎたいほうでいい」
そう言われて利き腕じゃないほうの左手で握る。
ここまで遠回りをしてしまった。
焦れったい関係ながらも二人が手を繋いで歩く。
歩くペースが淳平のほうが早い。
追いつこうと焦って転びそうになる綾。
淳平の体にもたれて反射的に謝ってしまう。
――いつコケるか分からないからヒヤヒヤするって。
淳平には原因を探るまでの余裕がない。
照れ隠しで無意識にスタスタと早歩きになる。
周りに見られるのが恥ずかしい男心もあるのだろう。
そのせいで運動能力に乏しい綾がついていけないのに。
さすがに三回目もなれば鈍感な淳平でも気にしてしまう。
「東城、もしかして歩き疲れた?」
「そ、そうかも」
「ごめんな気付かなくて」
「ううん、心配してくれてありがとう真中くん」
淳平の歩きが早すぎると正直に言えないのが綾である。
だから優しい嘘をついてしまう。
あながち疲れていない訳でもないからと思いながら。
「それじゃあ適当にカフェでも行こうか」
「うん」
手を離すことになるのは仕方がない。
下手に歩くよりも座って大人しくしたほうが無難だ。
そういう時間を過ごすことで互いにボロが出ないから。
混雑をして待ち時間があっても構わない。
その間は手を繋いでいられるし、立ち止まっていたら転ぶこともない。
むしろ綾にとってはこのひと時が幸せなことである。
待っている間に淳平の頭の中で思い出すことがあった。
夏祭りで正太郎から歩き方のアドバイスをされたことを。
――たしか、歩くスピードはゆっくりで。あまり早いと彼女を転ばせてケガさせる危険がある……だったよな? あ、ヤバい。今までのオレって早すぎたかも。
綾が転びそうになったのはそのせいかと思い至る。
素直に謝るべきだろうか?
それをしても逆に謝られてしまいそうな気がする。
カフェを出たときに手を繋いでゆっくりと歩いてみよう。
お詫びの言葉ではなく、改善という行動にするほうがいい。
「オレはコーヒーで。東城は?」
「わ、私も同じので」
学生の店員に注文をしてドリンクのコーヒーを頂く。
簡単にできる粉末のインスタントコーヒーだ。
コンセプトは付け耳や尻尾による動物系。
衣装よりも店の内装を頑張った印象である。
淳平は何かしらの話題を振るかで悩んでしまう。
失敗をした映画作りを蒸し返す訳にもいかない。
だからといって楽しいことを話せるほど淳平は物知りでもない。
――こういう時は東城弟!!
もはや定番といってもいい。
淳平にとっては頼りの綱である。
便利屋の扱いで内心悪いと思いながらも利用するしかない。
「東城の弟が来てたな。映制の皆を連れて」
「うん。映画を見に来てたね……すごく残念そうにしてた」
地雷を踏んだと思わせるほどに綾が落ち込む。
話題の振り方がマズかった。
何でもかんでも正太郎を出せばいい訳ではない。
「やっぱり良くなかったよね。お姉ちゃんとしても、脚本家としても情けないことしちゃった」
「ら、来年頑張ろう!! 東城弟も精進しろって言ってたしな!!」
「うん……本当に私で大丈夫かな? 私なんかより――」
「大丈夫!! オレは東城の才能に賭けるぜ!!」
たとえ根拠がなくてもごり押しをする。
若さゆえの勢いを乗せてしまう。
それが淳平の持ち味といえる。
「だから頼む。来年こそマジでやらないと映制に勝てない。そしたら夢は終わってしまう。東城の力が絶対に必要なんだよ」
「……私たちで勝てるかな? 正太郎たちすっごく頑張ってるし、私たちよりも団結していて敵いそうにないよ」
「た、確かに東城の弟が色々やっててヤバい。外村の妹もすげぇ頭がいいし、唯は音楽ができるし、内場が気遣い上手でカメラの練習してるって外村から聞いたし、端本の演技は本物で……あれ、もしかしてオレらより遥かに凄くね?」
言っててヤバい所ではないことに気付く。
映制メンバーの結束力も優れているが、個人のスキルや能力も半端ではない。
自分たちにないものを持ち合わせているだけで圧倒的な不利を感じさせる。
「つまりオレらは来年にボロ負けして、アイツらの奴隷になって夢が終わる……終わってしまう」
淳平のネガティブ思考が発動。
テーブルに突っ伏して激しく落ち込んでしまう。
そこへやって来たのが――。
「おいねーちゃん、本当にこんなヤツを部長にして大丈夫か? つーさんかさっちゃんをトップに立たせたほうがいいんじゃねーの?」
「正太郎、なんてこと言うの!! 真中くんに失礼でしょ!!」
「オレに噛みつく余裕があるならカントクを励まして復活させろよ。まったく見苦しい」
「しょーくん、とりあえず飲み物注文しよ」
「だったらミルクティーでよろしく」
「わたしもミルクティーで」
相席として入ってくる正太郎とちなみ。
少しでも利用する客が入れるように気遣っている。
淳平と綾の様子が気になったのもあるのだろう。
「映画の出来については来年頑張れとしか言いようがない。部室がボロボロで酷い有様なのも、映研を立ち上げたばかりで仕方ないと思う。来年オレたちが勝ったら全権もらってカントクたちはオレたちの下で頑張ってもらうことになるから、そうなりたくないなら頑張ってオレたちに勝って見返すことだな」
「あのーお姉様、ちょっといいですか?」
「あ、うん。どうしたのちなみちゃん?」
「お二人は付き合っているのに、どうして名前で呼び合わないのですか? それが少し気になりました」
ちなみの発言に落ち込んでいた淳平が反応した。
顔を上げて照れまくった様子で言い返す。
「オレ、下の名前で呼ぶのに慣れてなくて」
「わたしはお姉様に訊いたのですけどね。お姉様はどうなんですか?」
「えっと……真中くんが嫌がるかなって」
「そうなんですか、真中さん?」
「別にイヤって訳じゃ……」
「もしねーちゃんが名前で呼ぶなら、カントクも名前で呼ばないと不公平だぜ。下の名前で呼び慣れてないって言っても、彼女ぐらいは特別で呼んでもバチは当たらないだろ。つーか、それぐらいは慣れろって話だ」
ちなみと正太郎の発言に二人は名前を意識してしまう。
付き合っているのに苗字のままでは違和感がある。
特に綾と正太郎は姉弟だから同じ苗字では紛らわしい。
それなら姉を綾と呼び、正太郎を東城にしたほうがまだスッキリするだろう。
下の名前で呼ぶのは恋人だけという設定も悪くない。
「……東城の下の名前って何だっけ?」
「あ、綾です。そ、そういう真中くんは?」
「じ、淳平だよ……あ、あ……」
呼ぼうとすると恥ずかしくて呼べない。
顔がトマトみたいに赤くなった。
綾もカァーと燃えるように火照って俯く。
でも呼んでみたい願望はあるのだろう。
自分が待ってるばかりではダメ。
相手任せで受け身というのは単なる責任逃れだ。
その辺りは正太郎からよく指摘されていることである
「じ、じゅ……」
「あ、あ……」
長いから淳平と呼び切るのは難しい。
まだ綾のほうが短いので呼ぶハードルは低い。
それでも照れ屋な淳平は言葉を詰まらせている。
まだ諦めない。
今ここで呼ばなくていつ呼ぶというのか?
そしてついに……。
「じゅんぺ……くん」
「あ……や……」
蚊の鳴くような両者の声。
それでも確かに呼び合った。
カフェの学生スタッフから盛大な拍手で称えられる。
その場の空気を読み正太郎とちなみも拍手を繰り返した。
「これでオレはカントクから東城弟じゃなくて東城だけでスッキリ呼べるよな」
「うんうん。これでいいんだよこれで」
下の名前で呼び合うこと。
淳平と綾の距離を縮める大きな通過点となる。
そうすることで確実に二人の仲は深まっていった。