しばらくぶりに帰ってきたキキョウアカデミーは、とっぷりと日が暮れた今も茹だるような熱が滞留し、着いた瞬間もう帰りたくなるほど暑かった。
夏休みに入ったばかりだから、人の数はぐっと少ない。
いま構内を歩いているのは実験や研究に追われ、レポート地獄を味わっている生徒くらいのものである。
俺はゼミより先に、とある学科へと足を向けた。
伽藍の中に最近建てられた煉瓦造りの平屋がある。
ポケモンの進化を研究している進化学科の一角だ。
分厚い鉄扉をノックすると、目の下に濃いクマを刻んだ准教授が現れた。
「やあ、アシタバくん」
「こんにちは、ウツギ先生。お邪魔します」
「どうぞ、入って入って」
いち生徒に過ぎない俺に、にこにこしながらスリッパを差し出してくれる。
誰に対しても腰が低く、丁寧な物言いをするウツギ先生は多くの生徒から好かれ、慕われていた。
「お忙しい中ありがとうございます」
「いやいや。
今日はピカチュウの機嫌がよくなくてね、実験が進まなくてもう休日にしようかと思ってたとこなんだよ」
「大変ですね」
「いやあ。好きでやってることだから。
電気ショックを撃たれるのには参ったけどねえ」
先生は笑ってコーヒーメーカーのスイッチを入れた。
「それで、今日はどうしたのかな?
昨日の電話ではどうしても調べて欲しいものがあるってことだったけど」
「はい。……これ、なんですが」
俺は慎重に、リュックの中から1本のシリンジを取り出した。緑色の液体がこびりついている。
先生は手渡されたそれをしげしげと見つめた。
「これはなにかな?」
俺は逸る心を落ち着け、なるべく冷静な声で告げた。
「ポケモンを、強制的に進化させる薬液です」
「────!?」
ウツギ先生の目が大きく見開かれる。
「強制的、に?」
「はい」
俺は、5日ほど前に
最後まで聞き終えた先生は酷く難しい顔をして押し黙った。
「コイキングがみるみるギャラドスに…………。
それが本当ならこれを作った人は物凄い頭脳の持ち主だ。けど…………」
「けど?」
「研究者としては一流でも、トレーナーとしては最低だ」
先生の声が怒りを帯びた。
「そもそも進化とは、ポケモンに大きな負担のかかる身体的変化だ。
人間だって成長期になると急に背が伸びたりして膝や骨が痛んだりするだろう?
何日も何ヶ月もかけて少しずつ変わっていく生き物すらそれだけの苦痛を伴うのに、一瞬で進化させたらどれほどの激痛に襲われることか。
きっとその子たちは大変な思いをしただろうね」
俺はぞっとした。
13歳になったばかりのころ、毎晩全身の鈍い痛みに苛まれて寝つけなかった。
いわゆる成長痛というやつだが、本当にしんどかったのを覚えている。
あのときのギャラドスやマニューラがどんなに苦しかったか、最早想像もつかない。
「進化の速度やタイミングをコントロールする研究が捗らないのは、そうした苦しみを軽減するメカニズムが構築できていないからなんだ。
こんなものを作る方も使う方も、ポケモンを憐れみ、寄り添おうとしない人間なんだろう。
研究者として、許し難い行いだ」
普段は穏やかな顔つきが憤怒に歪む。
口を噤む俺を見て、先生はぱたぱた手を振った。
「君に憤懣をぶつけたってしようがないね。
すまない。つい熱くなってしまったよ。
ともかく、そんな卑劣漢に君が殺されたりしなくて本当によかった」
熱いコーヒーを淹れてから、先生が胸を叩いた。
「僕に預けてくれてありがとう。
早速分析して、詳しいことが分かり次第しかるべき機関に報告するよ。
こんなものを造れる研究所や会社はそう多くない。
警察が本腰を入れて探せば、ロケット団に協力している悪徳科学者も炙り出せるはずだ」
「よろしくお願いします」
勢いよく頭を下げる。まさにそれを望んでいたのだ。
ただの学生が訴えるよりも、権威ある人間が告発したほうがきっと世間の注目も高い。
何度も礼を言って部屋を出、ゼミの方に急いだ。
扉を開けた瞬間、俺は膝から崩れ落ちた。
覚悟はしていた。
一切片付けない散らかし魔を2人野放しにしたらどうなるか、俺にだって想像力はあるんだから分かっていた。
でもこれはあまりに酷い。酷すぎた。
「たった5日不在にしただけなのに……っ」
俺は血の涙を流しながら大変な苦労をして部屋に入った。
もう、なんというか。
研究室は本の森になっていた。
あっちこっちに俺より高い本のタワーが生成され、天然の迷路に成り果てている。ちょっと肩でも当たろうもんなら脳天に本の雨が降ってくるし、連鎖反応を起こして本が雪崩れる。あの人たちここでどうやって過ごしたの?
てかなんでこんな高さまで積み上げたの? 本棚に仕舞うほうが遥かにラクだろうがっ!
「ちくしょう、ちくしょうっ」
出ていく直前教授と頑張って掃除したのにっ。甲羅磨きで疲れた身体に鞭打って泣きながら片付けること4時間。深夜0時の鐘と同時にレホール先輩が帰ってきた。
「おや。懐かしい顔だな」
「先に言うことがあるでしょぉ」
褐色肌の美人は小首を傾げ、「おかえり?」と言った。違うけどもうそれでいいです。
ようやく床が見えるぐらいにはなったので、改めて先輩に向き合った。
腰のベルトからスノウボールを外し、
「こいつが、今回の発掘で出会ったポケモンです」
「ほぅ……!」
先輩の眼がギンッと力を帯びる。ゴーシェが怯えた顔で後ずさった。ごめんな。目力と行動力が凄いだけで悪い人ではないから。
「ホウエンでヒレの化石を掘り出すとはな……!
想像以上の功績だ、よくやった!
他にはなにか見つかったか?」
「根っこと爪の化石が1つずつ。
いくらゴーシェが聞き分けのいい子でも、年末くらいまで目の離せない時期が続く。とてもじゃないが、更に多くの化石ポケモンを育てる余裕はなかった。
先輩は頷き、賢明な判断だと褒めてくれた。
それからしばらく近況報告を交わしあい、話すネタも出尽くして会話が途切れた。
言うなら、いまだ。
俺は生唾を飲みこみ、おそるおそる切り出した。
「それでその……折り入ってご相談があるのですが」
先輩が片眉を上げる。
「何だ急に?」
「その……実は、休学しようかと思ってまして。旅に出たいなー、なんて、へへ」
「そうか。いいんじゃないか」
「あーやっぱダメですよねそうですよねいや確かに教授の手伝いほっぽりだす無責任さは重々承知してますがどーしても行きたくな…………えっ? 」
俺は馬鹿みたいにぽかんとした。
えっ、いいって言った? マジで?
先輩はあっさり「行くがいい」と笑った。
「何があったか知らんが、貴様やけにスッキリした貌をしてるぞ。いままで背負っていた余計な荷物をブン投げたみたいにな。やりたいことが見つかったんだろう? 貴様の仕事くらい私がいくらでも肩代わりしてやる。行けよ」
たまには連絡してくるんだぞ。微笑む先輩があまりに優しい顔をしているものだから、俺は不覚にも涙が出そうになった。
その後研究室に来た教授にも話してみたら、二つ返事でオーケーされた。
最悪怒られることも覚悟していたので、拍子抜けする気分だった。
「いまは参考文献の翻訳ぐらいしかすることがありませんし、特段人の手を要する案件もありませんからね。好きなだけ旅していらっしゃい」
「ありがとうございます!」
「────ただし」
教授の目が妖しく光る。
「生存確認も兼ねて定期的にレポートを送ること。怠った場合は単位を取り上げますよ?」
「ひいいっ」
俺は怖気を震った。
教授の講義は非常に興味深い内容を取り扱うのだが、ハイレベルな上に難解で、「落単必須科目」として有名なのである。正直俺が単位を取れたのはゼミに入って散々使いっ走りに甘んじたからだ。2回目はその手も使えないからマジで単位が取れなくて詰む危険性がある。
必ずレポートを送ることを固く誓った。
「それで? 最初はどこに行くんです?」
「発掘作業でカントーとホウエンは行きまくってますから、とりあえず化石が採れるガラルを目指そうかなと。その後でカロスとイッシュも巡る予定です」
「シンオウは行かないのか?」
先輩の問いに、俺は力強く首を振った。
「寒いとこ、ダメなんで」
「ふふ。まあ確かに、シンオウに行くのはワタシもお勧めしませんねえ」
「あれ、教授も寒いのダメでしたっけ」
「そうですねえ。
教授がおどけたように肩をすくめる。
俺はふと違和感を覚えた。
なんとなく他意のある物言いな気がするが、考えすぎだろうか?
────まあいい。せっかくお許しも貰えたことだし、さっそく休学手続きを進めよう。昨今はPC上でも簡単に手続きができるようになって本当にありがたい。
「それじゃ、お先に失礼します。ガラルに着いたら電話しますね!」
「達者でな」
「お土産は美味しいものをお願いします」
────翌日。
ガラル最大の都市、シュートシティの空港に降り立った俺は。
「おにいさんポケモントレーナーだよね! オレとバトルしよう! とりあえず10戦くらい!」
蜂蜜色の目をした少年にめちゃくちゃ挑まれました。
…………なんで?
というわけで56話。
ウツギさん初登場。この時はまだ博士ではありませんが、この解析で進化に関する研究が進み、後年一流研究者の仲間入りを果たします。本人はちょっと複雑だったそう。
どーしても書きたいキャラが居るので最初の旅立ちはガラルとなりました。
バトルが盛んな地方なので沢山バトルを書きたいなと思っています。
よければ感想高評価おなしゃす!