「聞いた? あの子の話」
「305A号室の子でしょ? 聞いた聞いた、家族がみんな死んじゃって可哀想だよね」
「そうじゃなくて! あの子、誰もいないところに向かって喋ってるみたいなの」
「……尚更可哀想。だって四歳だもの、心が傷ついてても不思議じゃない」
「今度、カウンセリング呼ぶみたいよ」
長い夢を見ていた気がする。
目が覚めたら、良く思い出せないような――
当たり前でごく普通の日常。
そして、目が覚めても、絶対忘れられないような――
未知で未体験のあり得ない非日常。
意識が浮上する感覚がする。
願わくは、凡庸で退屈な日常だけを抱いて目が覚めますように。
そんな祈りを最後に眠りから目が覚めた。
――どこだろ、ここ?
疑問をトリガーに五感のスイッチを押す。身体は身のまわりの情報を受信し始めた。
白いベッドに少し硬い枕。
カーテンがゆらゆらと揺れている。
窓から流れる外の匂い。
静かな白い病室。
わかったのは――
病院であるだろうということ。
そして、凡庸で退屈な日常ではないだろうということ。
――そっか。あの非日常は……。
……残念ながら、最後の祈りは儚く散ってしまったようだ。
「凜く~ん、起きてますか~、ってほんとに起きてない~?」
ナースコールを押すまでもなく看護師がやってきて、ボクが起きたことに気づいた。
どうやらボクの名前は凜、というらしい。
その看護師は、医者を呼ぶために病室の外へと駆けだした。
パタパタパタパタ――
急ぐのはわかるけど、病院を走ってはいけません。
窓の外を見る。
流れ込んでくる外の空気が少し気持ちいい。
自分にどんなことがあったのか、思い出してみる。
やはり、あれは恐ろしい夢ではなく、現実なのだと。少しずつ実感してきた。
けれど、なにか。
かけがえのない、当たり前の日常をいくつも忘れてしまった気がして、思い出そうとして窓の外を眺め続けた。
しばらくそうしていると、医者がやってきた。
丸い眼鏡をかけた医者はベッドの横に立って、ボクに向かって手を差し出してきた。
「おはよう
医者は握手を求めながらそう言った。
優しげな笑顔で、口調も穏やか。
白衣がよく似合う、若い大人の男性といった印象。
「凜くん? 先生の言っていることが分かるかい?」
「……はい」
「よかった。私は
君、田んぼの近くで倒れているところを発見されたんだ。
外傷はあまりなかったんだけどね、倒れた拍子に強く頭を打ったようで、数日間気を失っていたんだよ」
藍沢先生は笑顔のまま、ボクに発見時の説明をする。
数日間も気を失っていたらしい。
それから先生は笑顔を消して、深刻そうに話を切り出した。
「君のお婆さんのことだけど。
残念ながら、発見したときにはもう……」
「……そうですか」
先生の言っていること事実に視界が揺らぐ。
吐き気がする。
お婆ちゃんが死んじゃったのなら――この世界にボクの家族はもういない。
この世界の家族のことはよく知らない。
けれど、自分と一緒に暮らしていたのはお婆ちゃんだけだと何故か知っている。
この肉体が覚えているようだ。
どうやら、この世界に自分の帰る場所はないらしい。
ベッドに座っているのにも関わらず、足下が揺らぐ――
あぁ、自分の知っている前の両親もこの世界にはいない。
そして自分が忘れてしまったものに気づく。
――あれ?
――お父さんとお母さんの名前。なんだっけ?
――前のボクの名前。なんだっけ?
前世の記憶が虫食いにあったように……穴だらけだ――
両親の名前が思い出せない。
自分の名前が思い出せない。
兄弟はいたんだっけ?
友達は?
どこの高校へ進学できたんだっけ?
自分を構成していた要素が抜け落ちてしまった感覚。
今度こそ、ほんとうに足がなくなってしまったような錯覚を起こす――
「……すまない。助けられなかった」
「え?」
謝る先生。
どうやらボクは涙を流していたようだ。
違うんだ――
ボクが泣いていたのはお婆ちゃんが死んでしまったからではない。
この世界に、たった独りぼっちであるということに気づいてしまったからで――
前世の記憶すら穴だらけで、頼りどころなどない。自分という存在が今にも崩れ落ちてしまいそうな想像をした。
たまらなく寂しい、孤独感。
それが、ボクが涙を流している理由だった――
「……起きたばかりにこんな話をするべきではなかったか。
今は、ゆっくり休みなさい」
先生が何かを言っている。
独りぼっちの世界に迷い込んだようだ。
色彩が抜け落ちた。冷たい世界。
先生の声がずいぶん遠くにあるように――言葉が耳に届かない。
――独りは寂しいな。
そんな寂しい世界ではっきりと。
ボクの耳に吹き込む、声があった。
「大丈夫? 少年」
独りぼっちの世界にこだまする。
色彩のない世界が色づくような、綺麗な声を聞いた――
女の人の心配する声が、確かにボクの鼓膜を揺らした――
そして、意識は病室に帰還する。
病室の中にはボクと先生しかいないはず。
キョロキョロと、見回してみると。
先生が立っているベッドの横とは逆の方。空をのぞかせていた窓の前に、少女が立って、こちらをじっと見ていた。
涙を拭いながらよく見る。
黒髪に紐のような赤いリボン。そして、学校の制服。
きっと高校生くらいの少女は儚げに。ボクのことをどこか懇願するような瞳で見ていた。
「あなたは、誰ですか……?」
「……え、嘘!? 私が見えてるの!?」
その少女はギョエー! と、両腕を上げて大げさなリアクションを取りながら、驚いている。
――なんだ、この人……?
そんなボクの様子を見て先生は驚き、椅子から立ち上がっていた。
そして、“少し失礼” と言いカツカツと床をならして、病室から出てドアの向こうで看護師と話し始めた。
「……どうやらカウンセリングが必要なようだ。
誰もいない場所に向かって話している。心理カウンセラーに連絡を入れてくれ。」
「あーわかりましたー。では直ぐに電話してきますねー」
病室の中からでも先生と看護師の声が聞こえた。
どうやらボクは傷心の身寄りのない子、として認知されたようだ。
先生の深刻そうにため息が聞こえる。
そして再び病室のドアが開き、顔をのぞかせた。
「凜くん。私はお仕事があるから行きますね。
君の検査は明日からです。今日は安静にしていなさい。」
そう言って、今度こそ病室から離れていった。
聞こえてしまった先生の話から察するに。
先生には、未だに驚いて固まっている、この少女が見えていないようだ。
――どうしよう。幽霊……だよね?
人を襲うバケモノや超能力がある世界では、この少女が何者かなのかは察するに余りあった。
決心して、話しかけてみる。
「あのッ、もしかして幽霊さん、ですか?」
「……えぇッ!? ほんとに見えてる!? すごいすごーい!
あははははは!!」
――なんだそれ……。
――そんなこと、こっちが言いたい。
――幽霊ってそんな大きく口を開けて笑うんだ……。
さっきから驚いたり、笑ったり。
コロコロとよく表情が変わる、幽霊らしくない少女。
なんかぴょんぴょんと跳ねながら笑っている。
こんなに明るい幽霊は他にはいないのではと思うほどだ。
気づくと、いつの間にか涙は止まっていた。
「お? 泣き止んだみたいだね、少年!
私の名前はカエデ! 幽霊歴三年、
まるで友達みたいな気軽さで――少女は手を差し伸べてきた。
握り返してくれるのが、さも当然のように満面の笑顔で――。
毒気を抜かれたボクはそんな幽霊の手を握り返す。
「ボクは
「おお、触れることもできるのかー! すっごーい!」
「……聞いてます?」
両手で上下にブンブンとボクの手を振っている暢気な姿にあきれていると、窓から心地よい風が流れてくる。
ボクの頬を撫で、カーテンはゆらゆらと。
しかし、幽霊さんの髪の毛は揺れることはなかった。
改めてよく見ると、身体も少し透けている。
――あッ、ほんとうに幽霊なんだ。
幽霊だということを今更ながら実感する。
それがなんだか少し面白く感じて、ちょっと笑ってしまった。
すると、ボクの手が引っ張られて顔と顔が近づく。
「わッ」
「ねぇお願い! 三年間ずっと暇だったの! 私の話し相手になってよ、凜!」
「……わっつ?」
そんなこんなで、ボクと幽霊さんのおしゃべりの毎日が始まった。
死んだことがある人間と幽霊――
不思議な経験を持つもの同士の、世にも不思議な関係性が構築されたのだった――
どうも<(_ _)>
N島ジュン太郎です。
読了、ありがとうございました。