部屋の片隅で、ノレア・デュノクは一枚の紙片を手に、呆然と時間を過ごす。
ここはペイル社がいざというときに備えて、学園の倉庫街にこっそり作ったセーフハウスのひとつだ――と、エランが言っていたような気がする。
学園の周辺にドミニコス隊が敷いた警戒網を潜り抜けることは不可能だったから、ソーンを自動操縦で宙域外へと向かわせ、自分たちは学園に戻り、そしてイチかバチかでこのセーフハウスに忍び込んだのだ。そんな説明を受けた気もする。
拍子抜けなことに、学園内にはペイルの関係者は誰も居なかった。どうもプリンスの逮捕劇のドサクサに紛れて主な幹部は全員ベネリットグループを脱出し、宇宙議会連合に寝返ったらしい、なんてことも彼から聞いた。
すべてどうでもいいことだった。
今ノレアの世界の中にあるのは、ソフィが遺してくれた一枚の紙片だけだ。
「ソフィ……」
ぼんやりと、つぶやく。
両親も、友達も、家も。何もかもをスペーシアンに奪われてきた。
そして、そんな自分に誰も寄り添ってくれなかった。踏みにじるか、無視するか、利用するか。そのどれかだった。あの娘を除いて。
この世界の只中を、周囲を振り回しながら意気揚々と行進して、なのに一人ぼっちの自分に笑いながら寄り添ってくれた。ずっとそばにいてくれた。
それなのに。
「どうして死んじゃうの……。なんで私を置いてけぼりにするの……」
結局は、ソフィも自分を置いて行ってしまった。
……自分の命を救うためだと、分かってはいたけれど。
それでもソフィは手の届かないところに行ってしまった。
命を無駄にするな、とか。自分自身を呪うな、とか。幸せに生きろ、とか。
そんな言葉だけを一枚の紙に残して。
「行くのなら、私も連れて行ってよ……。あんたが連れて行ってくれるなら、どこへでも行けたのに……」
もう自分は、何もできない。
ソフィなら、どんな状況でも、どんな場所でも、欲しいものを求めて突き進んだのだろう。でも、自分には欲しいものなんて無い。そもそもソフィの生き方を真似るなんて無理だ。
だったらいっそ自殺するのか。でも死ぬのは怖い。あの娘と一緒なら死ねたかも知れないけど、一人で自分を殺すなんて不可能だ。
自分から奪って奪って奪い続けて、とうとうソフィまで奪っていったスペーシアンには復讐してやりたいけれども、ガンダムはもう手元にはない。個人用の装備で道連れにできる人間なんてせいぜい数人。それでは奪われたものに対してあまりにも足りなすぎる。
自分ができることはもう何もない。ただこの部屋の中にうずくまって、息を潜めて、目をそらして、屍のように生きていくだけだ。
もう一度、相棒の遺した紙片に目を落とす。殴り書きで書いた汚い鉛筆の字が視界に入る。
それらの文字は、どうにかこちらを力づけようとしていたけれど、今のノレアの目にはどれも灰色の、うつろな言葉にしか映らない。
「ソフィ……ひとりぼっちじゃ、生きられないよ……」
「一人じゃないんだけどね、今も」
そう軽口を叩きながら、部屋に男が入ってきた。緑がかった涼やかな瞳の青年だ。ずかずかと部屋の真ん中まで歩いてくると、両手に抱えた食糧や飲料をそのへんに放り投げてから、彼はどっかと床に座りこんだ。
「もう学園内の機能は半分麻痺してたよ。スーパーの倉庫にも警備員がいなかった。取り放題だったよ」
「……そうですか」
ノレアは視線も合わさない。
彼――エラン・ケレスには命を助けてもらったし、こうして匿ってもらってもいる。ソフィの遺書にも、彼を恨むなと書いてあった。
だから彼のことは恨まない。後ろから襲ったりもしない。
だけど、親しくもしない。
だって納得ができないからだ。あのグラスレー寮の一室に閉じ込められていたとき、ソフィが最終的に頼ったのが、自分ではなくて彼だった、ということが。
ソフィの相棒は自分なのに。あいつの背中をずっと守り続けていたのは、彼ではなくてこの自分なのに。
刺々しい感情を隠しもせず、ノレアは下を向いたまま吐き捨てる。
「話はそれだけですか。なら、さっさと出て行ってください。貴方と話すことなんて何もない」
「…………」
エラン・ケレスは動かない。いつもなら憎まれ口を叩いてから割合あっさり出ていくのに、今日はなぜか黙り込んだまま、部屋の真ん中に腰を落ち着けている。
違和感を感じたノレアは、顔をあげた。真剣な表情のエランと目があった。
なんなんですか、とノレアがつぶやいたとき、ようやくエランは口を開いた。
「まず結論から言うよ。ソフィが生きていた。意識不明の重体だけどね。今はジェターク社直営の病院の集中治療室にいる」
「…………っ!?」
言葉が出ない。
ノレアが唖然としていると、エランは更に説明を重ねてきた。
「僕が直接見たわけじゃないけど、地球寮とジェターク寮の人間から直接そう聞いた。スレッタ・マーキュリーやニカ・ナナウラみたいな嘘をつけない連中が揃って生きてると証言してたから、まず間違いない」
「な、なんで……? どうやって、あの状況から」
やっとノレアは聞き返すことができた。
魔女狩り部隊に包囲されて力尽きた魔女の行末はすべて一緒だ。死ぬ以外にはありえない。なのにどうやってソフィは助かって、しかもスペーシアンの病院で治療を受けているというのか。
「経緯の詳細までは分からなかったけど、魔女狩り部隊に止めを刺されるより早く、スレッタ・マーキュリーたちの救助とジェターク寮の搬送が間に合ったってことらしい。
ジェターク社がソフィを匿ってるのはCEO命令なんだそうだ。……なんであの筋肉ゴリラがソフィを匿うのか、その理由もよくわからないけどね」
肩をすくめてから、エランは付け加えた。
「もっとも、ドミニコス隊の所属するカテドラルも、その上層のモビルスーツ開発評議会も、すでに宇宙議会連合に寝返ったそうだ。ベネリットグループ内部ではもう魔女狩りのシステムは機能してない。だからひとまずはソフィが処刑される心配もないはずだよ」
「…………」
ノレアは何も答えられない。
あまりにも急激な状況の変化に、頭がついていけなかった。
プリンスの狙いであるベネリットグループの解体が最終段階を迎えつつあることはわかる。だが、今やソフィの命を繋いでいるのは、自分たちの敵であるはずのベネリットグループだというのだ。
何をすればいいのか、どう動けばいいのか、判断がつかない。
混乱する少女に、眼前の青年が明確な方針を示した。
「いま最優先すべきなのはソフィの命だ。だから僕はこれからベネリットグループへ――スレッタ・マーキュリーたちのやることを助力しに行く。
すでに交換条件として、ソフィの治療の継続と罪状の軽減をあいつらに持ちかけてる。まあ、向こうもだいぶ人手が足りないみたいだし、呑んでもらえるはずさ」
口調は軽く――しかし、そこに込められた感情は重い。
彼はじっとノレアを見つめ、告げた。
すべて上手くいく見込みはあまりない、自分もソフィも帰ってこない可能性が高い、と。
「ここに一週間分の食糧を置いていく。でも3日たっても僕が帰ってこなかったら、君はここを出て密航できそうな船を見つけろ。
なに、もうすぐベネリットと宇宙議会連合の戦争の噂を聞きつけて、ここから逃げ出そうって連中で宇宙港は大混乱になるはずさ。密航する隙は必ずできる。君が地球に逃げ帰ることもきっと可能だよ」
彼は立ち上がり、こちらに背を向けた。
まるで永遠の別れを宣言するかのように。
「じゃあな、ノレア。……せいぜい、生き抜いてみせろ」
そして青年が一歩を踏み出しかけた瞬間、ノレアは跳ねるように立ち上がった。
逃がさないとばかりに、エランの右手首を鷲掴みにして。
「何を言ってるんですが、貴方は」
「えっ」
驚いた青年がこちらに振り向く。
ノレアはその瞳を睨みつけた。
「なんで貴方がソフィを助けに行くんですか。
私を差し置いて。
ソフィと出会って一ヶ月も経っていない貴方が、何の理由で、何の資格があって行くっていうんですか」
「……理由って、君なあ……」
ずっと真剣だった青年の顔が崩れる。
彼は呆れたような表情を浮かべると、手首を掴まれたままの状態で、ノレアに身体ごと向き直った。
「僕は君のため……あ、いや、じゃなくて、ソフィをこのままにしておいたら寝覚めが悪そうだから行くんだ。
それに資格というなら、僕はあいつから君の身の安全を託されたんだぜ? それくらいあいつから信頼されたんだ。なら、助けに行く資格だってあるだろう」
「何ですかそれは。その程度のことで何を勝ち誇っているんですか。
あいつの相棒は私。貴方じゃない。だから、私を差し置いてあいつを助けに行くなんて許さない」
ノレアの声がますます刺々しくなる。
エランの呆れはさらに深まった。
「ちょっと待て。君、状況を理解してないんじゃないか?
君はテロリストとして指名手配されてるんだぞ? 君がのこのこ表に出ていったら捕まるだけだろう。
そもそもあのときソフィが囮になったのは、君が魔女狩り部隊やフロント管理局に捕まらないようにするためなんだぞ?」
青年からそう指摘され、ノレアは一瞬口ごもる。
確かにそうだ。ソフィは自分を自由にするためにあんな無茶をした。
自分がこれからしようとすることは、あいつのそんな思いを無下にすることかも知れない。
でも、だとしても。
「私の気持ちを無視しないでっ……!
勝手に私のことを思いやって、私を除け者にしないでっ!」
左手でソフィの手紙を胸元に引き寄せ、
右手でエランの右手首を強く引き寄せ、
ソフィは目の前の青年に食って掛かる。
「ソフィがっ、あんたがっ、私を守るために色々やってくれたんだってのは判ってる。
でも、私の気持ちを無視して、勝手に私を放り出そうとしたのは許さないっ。
私一人だけでどこかに逃げ延びて、それで私が独りで生きていけるわけ無いじゃない!」
両親をスペーシアンに殺されて。友人たちからも引き離されて、孤児院に入れられて。
どこにも馴染めず、どこにも自分の居場所を見つけられず、たらい回しにされて、行き着いた果てがオックスアースのパイロット兼モルモットだった。周囲の人間は次々に死んでいき、最後に残ったのがソフィだった。
……そして、自分に寄り添ってくれた最後の人間も、ソフィだった。
彼女を失えば、自分にはもう何も残らない。
けれど今ならまだ間に合う。まだ自分はソフィの命を救うことができる。
誰かの力じゃなく、自分自身の手で。
「私がソフィを救う。あいつは私の友達だから。
大事なものを奪われ続けたけれど、今度こそ私は、大事なものを取り戻せるかも知れない。
なら、危険だろうが何だろうが構わない。私は私の手で大事なものを取り戻すっ!」
「……そのためには、スペーシアンと協力しなきゃならないんだぜ? 君が心底から憎んでる連中と」
そう指摘されても、もはやノレアに迷いはなかった。
「大事なものを取り戻せるなら、恨みなんて我慢できる。飲み込んでみせる」
そして少女は、決然と青年を見据えた。その手首を握りしめながら。
「エラン、私をスペーシアンたちのもとに連れて行って。私もそいつらと交渉する。取引を持ちかけて減刑を認めさせる。
あいつらにソフィを治療させて、そして私とあいつと二人して、晴れて自由の身になってみせる」
「……取引が上手く行かなかったら、どうするんだ?」
「そのときは、私一人で一生牢獄に繋がれるだけ。でもそうなっても構わない。
この手を伸ばせないまま離れ離れになるくらいなら、手を伸ばして私だけ地獄に落ちる方がいい」
「…………」
完全に面食らった顔で、エランが黙り込む。
何やら口の中でぶつぶつと、僕の配慮は完全に無意味じゃないか、なんてボヤいている。
たっぷり5秒ほど嘆いた後、ようやく諦めがついたのか、彼は穏やかな表情でノレアを見つめた。
「……それなら、僕と協力するつもりもある?」
「当たり前でしょ。あんたは臆病で軽薄で優柔不断でいい加減だけど、白兵戦は私より上だもの。なら、その腕を使わせてもらう」
ノレアがきっぱりと断言すると、エランはようやく相好を崩した。
手首を捻り、ノレアの手から自分の右手を解放する。そのまま彼は、ノレアの右手を握り直した。
「じゃ、一時的にバディ結成だな。君と僕とで」
「ええ、いいわ。ソフィがまた元気になるまでは、あんたが私の相棒」
ノレアはエランから手を離す。
ソフィの手紙を服の内ポケットに入れると、彼と肩を並べるように前へと踏み出した。
欲しいものなんて無い。目的なんて見つからない。未来なんて見当たらない。自分から奪っていくだけのこの世界は嫌いだ。
それでも、大好きな人はいる。死なせたくない人はいる。
ならば今は、恨みも憎しみも飲み込んで、その人を救うためにあらゆる手を尽くす。
「行くよ、エラン。ソフィを助けに」
「了解したよ、ノレア。君の背中は僕が守る」
そして二人は、部屋の外へと歩き出したのだった。