キングダム 回帰する者 作:李牧
俺の名前は項燕。楚国で代々優秀な武官を排出する名門項家の次期当主であり、家柄、美貌、才覚、頭脳、肉体、生まれもって全てを天に与えられた、人生の春が約束された筈の漢である。そんな俺の人生が暗雲に飲まれたのはつい昨日の話だ。
俺はその日、汗明とか言う熊を素手で殺す大男の噂を聞き、部下にしてやろうと思い、この地方都市までやって来た。それが悲劇の始まりだと知らずに。
何が起こったのかと言うと、唐突に女になってしまったのだ。いや、意味分からないだろうが、一番意味不明なのは俺だ。何せ気付いたら女になっていたのだ。何が理由で、どうゆう原理でそうなったのか未だに分からない。しかし、現実は現実として受け止めねばならない。俺は取り敢えず現状を部下と共有し解決策を探るべく、俺の子供の頃からの育ての親である爺に話をした。爺なら俺の姿形が変わっても分かってくれると信じて
「貴様ァ!項燕様の名を騙るとは何たる不敬かァ!」
全然ダメだった。いや、マジでコイツ人の話聞かねえ。俺が項燕だって言った瞬間に烈火のごとく怒りだし、口を挟む暇もない。いつからそんな短気になったんだ爺。てか、もう年なんだからあんまり怒ると血管切れるぞ………なんて、言ってる場合じゃねえな。爺の声がでかすぎて見物客が集まり始めた。このままだと憲兵が出張ってきかねない。
俺は手っ取り早く爺に真実だと気付かせるべく、俺と爺しか知らない話をする。子供の頃の話だ。他の人間が知る筈のない話だ。流石にこれで爺も分かってくれるだろう、少なくとも疑いくらいは持ってくれるだろうと思ったら、スパイだと勘違いされ、刀を振り回しながら追いかけ回された。
「死ねェ!!!」
流石は俺の育て役を任されるだけあり、爺の剣戟は老年にも関わらず、そこらの現役の武官よりも余程鋭い。半端な強者なら一太刀の元で切り捨てられるだろう。だが、俺は項燕。天より五才を与えられた天才の中の天才である。
「ほっ!」
俺は迫り来る全ての剣劇を最小限の動きで紙一重で避け、そのままの流れで近くにあった樽を転がし障害物にする。
「ぬう!」
そうして、爺が樽を避けるために出来た一瞬の隙で、人混みに紛れて逃げ去ろうと試みる。しかし、爺もそう甘くはないようで、迫り来る樽を刀で両断し、その内の一つを蹴り上げて俺の足を止めようとする。
「甘いわァ!」
迫り来る酒樽。中に入っていた酒が宙にぶちまかれ、周囲にいた人間はとっさに目を塞ぐ。間に合わなかった者達がアルコールでひりつく目に苦悶の声を上げる。項燕は回りの惨状には目もくれず、酒樽を蹴り返して爺の視界を塞ぐと、隣にいた目を閉じている女の服を脱がし、胸を露にさせて叫んだ。
「痴漢だァ!あの刀を持った爺だァ!」
「な!」
一瞬の出来事だった。声を上げた瞬間には項燕は脱兎のごとく逃げ去っていた。飛び散る酒から目を反らしていた周囲の人間達は誰が声を発したのかすら分からなかっただろう。ただ、視界を再度確保して彼等が見たのは、あまりの事態の急変に足を止めてしまった刀を持った爺と胸を露にした女だった。
「ふう、撒いたか………」
俺は周囲を見回し、撒いたのを確認し、一息つく。爺があの後どうなったのか気になるが、仮に捕まったとしても尊い犠牲として割り切るしかなかろう。往生してくれ爺。
「ん?」
俺は、そこでようやく冷静になったことで、ふとある異変に気が付き、顔を青くさせながら視線を腰に移す。そこには路銀を入れてあったはず袋がある筈だったが、根本から紐が切られて無くなっていた。恐らく紙一重で避けた時に紐が切れて、袋が落ちたのだろう。小さい頃から最小限の動きで避ける癖が出来ていたことが災いして起きた不幸である。
「うそ、だろ……」
俺は唖然と立ち尽くした。
女になったってだけでも意味が分からない凶事なのに、腹心の部下には追い回されるは、帰る家も部下もなくして、おまけに路銀まで。途方に暮れるとは正にこの事である。
しかし、途方に暮れてばかりもいられない。宿を取るにも食べ物を買うにも金が必要であり、俺は今は無一文。おまけに外見まで変わってしまって、自身の身元を証明する物はない。つまり、奴隷身分と同じ状況になってしまったわけだ。これでは戦争に志願兵として出ることすら叶わない。出来るとすれば身分を気にしない誰かの用心棒にでもなり、日金を稼ぐことだが、その場合は「天下の大将軍になる」と言う俺の夢は捨てなければならない。
夢を捨てるくらい簡単だろうと言いたいところだが、俺にとって大将軍の夢はそんな軽いものではないのだ。しかし、どう強がろうと現実として選択肢がないのは否めない。唯一夢を叶える可能性があるとすれば、俺が汗明を誘おうとしたように、武家出身の他の誰かに誘ってもらうのを待つくらいだ。しかし、それも自分が女と言うのがネックになる。戦場は男社会であり、女はほとんどいない。いくら強いと噂が立ったとしても、女をわざわざ誘う奴は中々いないだろうし、プライドが高ければなおの事だ。仮に誘いがあっとしてもそれは恐らく戦士としてではなく、情婦として。そんなのは後免だ。
「くそっ、どうすりゃいいんだ?」
それから二三日、野ウサギや野鳥などを狩りながら、ふらふらと宛もなく考えていたが、結局良い案は浮かばない。かつての部下が俺の事に気付くこともない。寄ってくるものと言えば、酔っぱらいや現在俺に話し掛けてくる下心丸出しの男達くらいだ。
「お前昨日からふらふらしてるけどよぉ、帰る宛がねえなら俺達のところに来るかぁ?歓迎するぜぃ、色々となぁ」
普段だったら軽く流せるような言葉でもイラついてるときはそうではない。俺は肩を無遠慮に触ろうとする男の手首を掴み投げ飛ばした。
「なっ!」
「てめぇ!」
「女の分際で何しやがんだ!」
男達は一瞬何が起こったか分からず唖然としたが、すぐに見た目通りの沸点の低さを発揮し、俺に襲い掛かる。俺はそれを軽く捻って投げ飛ばしたり、殴る飛ばす。ちょっとだけスカッとした俺は、くるくると空を舞う男達に目をくれることもなく、その場を立ち去ろうとするが
「強いですね。もし行く宛が決まってないなら私と一緒に来ますせんか?」
一人の少年と出会うのだった。
それが俺、項燕と李牧と言う男との出会いだった。