速足で病室から出た
『アクアを返して!』
お姉ちゃんの言葉が頭から離れない。
星野アクアがルビーお姉ちゃんにどれほど可愛がってもらっていたか、僕は知っている。星野アクアにとってのお姉ちゃんはこの世の全てに優先する大事な存在だが、それはお姉ちゃんにとってのアクアも同じことだ。
もはや自分一人では人間として完結しないと言っても良い程、この姉弟は密接につながっている。
僕が、雨宮吾郎が星野アクアの人格を押しのけて表に出て来た結果、お姉ちゃんが大事に守り育てて来た大切な弟を彼女から奪う事となった。それは彼女にとってどれほど辛いことだろう。
不可抗力とはいえ、その恐怖を彼女に植え付けてしまった。
こうなってしまった原因は明確だ。
今はお互いが生まれ変わっているとはいえ、紛れもなくさりなちゃんと雨宮吾郎だ。さりなちゃんが入院していてそこに一人で面会に向かうとなれば当時の記憶が蘇るのも当然だった。
「アクアを返して………か。まるで僕はアクアじゃないみたいな言い方だな。」
僕は転生した。ある時僕は雨宮吾郎ではなく赤ん坊として生きて行く決心をしたのだが、最初の数か月は確かに星野アクアとしての生を謳歌していた。そして、小学生になる頃には完全に僕の人格は眠りに就き、星野アクアとして生きていたんだったか。………確か、
一応僕だって今は星野アクアのつもりだ。お姉ちゃんの言うアクアとは別人かもしれないが、スイッチが切り替わるように入れ替わったりするわけでもない。僕とアクアの境界はかなり曖昧だ。
今の僕はどっちだろうと悩むくらいには。
さて、病院を出るとしよう。それで僕は星野アクアに戻れるはずだ。
ベンチから立ち上がり、出口に向かって歩いていく。エレベーターに乗り込み、一階へ降りる。
……まだ、雨宮吾郎だ。
エントランスを通って出入口を抜け、少し歩いて病院の敷地の外へ出た瞬間。期待していた変化が訪れた。それも、かなり情けない方向で。人格が切り替わったことで、あの病室で起こった出来事に対する反応もがらりと変わる。
「お゛ね゛え゛ぢゃん゛………」
間違いない。人目も憚らず姉を想って涙を流す少年は
今すぐお姉ちゃんの所へ戻りたい。俺はここに居るって言ってあげたい。思いっきり抱き着いて、心配させてごめんって謝りたい。
しかしそれは出来ない。一度病院に足を踏み入れてしまえば俺はまた
お姉ちゃんを想えばこそ、会いに行ってはいけないのだ。
かといって二人以上でお見舞いに行くのは意味がない。俺は俺のままお姉ちゃんに会えるだろうが、転生者であることは絶対の秘密である以上、肝心の雨宮吾郎についての話が出来ないからだ。
つまりはどうしようもない。
病院の前で泣いていたら、道を歩く見知らぬおばあちゃんが心配そうに話しかけてきた。年は80は超えているだろうか。腰は大きく曲がり、手押し車に体重を預けてよぼよぼと歩いている。しかしどこか品のある女性だ。
「どうしました? お姉ちゃんが病気ですか?」
「え? ……ああ、はい。そうなんです。もうすぐ退院なんすけどね。」
「あら、良くなったんですか。なら泣くことも無いでしょうに。」
「いや………ちょっと喧嘩しちゃって。」
いつもならこのおばあちゃんの優しさに心が救われるところだ。
しかし俺が前世の記憶を持っていて、お姉ちゃんに会いに行ったら人格が入れ替わってしまうなどという話をしたところで信じては貰えない。そもそもこの秘密を明かすつもりもない。
これは俺とお姉ちゃんだけの秘密。誰にも相談は出来ないのだ。
「ウチの爺さんはもうボケてしまってお話しも出来ませんからね。言いたい事いっぱいあるんですけど、もうこのままお別れするしかありません。でもお姉ちゃんは元気になったんでしょう? 喧嘩したなら仲直りすれば良いだけの話ですよ。」
「それは……そうですね。」
「そんなに気を落とさないでくださいね。生きてればきっと良いこともありますから。では。」
ゆっくりと遠ざかっていく背中を見つめながら、俺はおばあちゃんの言葉を頭の中で反芻する。
『喧嘩したなら仲直りすれば良いだけ』
『生きてればきっと良いこともあります』
流石は人生の大先輩だ。俺達の事情など全く知らなくとも、人の生き方全体に通底する考え方を示してくれる。ともすれば中身のない薄っぺらいお説教になりがちな言葉も、長い人生経験によって裏打ちされた説得力があった。
しかし、それが分かったところでそんな簡単に解決する話でもない。
仲直りしようにも、お姉ちゃんと直接話すことも出来ない。生きていればというが、俺たちは一度死んだ身だ。アイドルを夢見ながら12歳で死んだ少女と、大切な患者の出産に立ち会えずに殺害されてしまった産科医の生まれ変わり。
そんな俺たちにアドバイスをくれる人間など、存在するはずがないのだ。
「どうせ誰にも分かんねぇよ。」
とうとう不貞腐れてしまった俺は、お姉ちゃんが居ない我が家へと帰るのだった。
・・・
自室のベッドに寝転がりながら、どうやってお姉ちゃんと仲直りするべきか考える。
「どうしろってんだよ……。誰にも相談できない。病院に行ってもお姉ちゃんを悲しませるだけ。退院するまで待つのか? こんな気持ちを抱えたまま? お姉ちゃんだって今頃アクアが消えたって悲しんでるはずなのに。いや待てよ?」
電話はどうかとスマートフォンを取り出してみる。
電話帳からお姉ちゃんの番号を確認し、通話ボタンをタップ……しようとした瞬間にあの感覚が蘇ってくる。
―――さりなちゃん、元気してるか? 今日はちょっと忙しくてなぁ。電話で我慢してくれ。
駄目だ!
俺は反射的に通話アプリを閉じた。電話でも同じことか。そりゃそうだ。雨宮さんはさりなちゃんに頻繁に電話をかけていたからな。これもトリガーになってしまう。
ならばメッセージを送るのはどうかと思案するが、そもそも文字だけではお姉ちゃんが俺の事を信用しないだろう。それにお姉ちゃんに謝るならやっぱり面と向かって直接話をするべきだ。
八方ふさがりだった。お姉ちゃんが病室にいる以上、どんな方法であれ雨宮さんの人格を呼び起こすトリガーとなってしまうらしい。
それが分かった途端、全身から力が抜けた。
「どうしようもねぇじゃん。」
そのまま俺は眠りに就いた。
次の日も同じことの繰り返し。朝から憂鬱な気分でお姉ちゃんとどうすれば仲直り出来るか考え続け、やっぱり答えが出なくて落ち込んでしまう。朝はミヤコさんに、学校で有馬に、放課後の事務所でMEMちょに心配されるも、事実は言えない。
一人で悶々と悩み続ける。俺はお姉ちゃんに釈明も出来ないまま退院まで待ち続けるしかない。何も出来ない。
結局その日はお見舞いには行かなかった。電話も、メッセージもしない。完全にお姉ちゃんとのつながりを断った。
昨日と同じようにけだるい体をベッドに投げ出し、ぐるぐると考えを巡らせる。
不安そうな顔で『アクアを返して!』と言ったお姉ちゃんの姿が頭から離れない。
もっと上手く星野アクアとして振る舞っていれば良かっただろうか? いやそれは駄目だ。お姉ちゃん相手に嘘を吐いたところですぐにばれてしまう。そんなことをすれば余計に傷つけてしまうだけだ。
じゃあ雨宮さんの人格を抑える必要があるのだろうか? しかしそれこそどうすれば良いか分からない。状況に応じて勝手に出てきてしまうのだから。
宮崎に行った時だって記憶が溢れて止まらなくなって………
「ちょっと待てよ? あの時はどうやって元に戻ったんだ?」
大きな気づきを得て、ベッドから跳ね起きる。
何かヒントがあるはずだ。宮崎というトリガーが常にありながら、彼の記憶が出てこない状況は確かにあったのだから。
宮崎ではあかねと雨宮さんゆかりの場所を巡り、その先々で彼の記憶が溢れて止まらなくなった。しかし最終的にはそれも収まっていた。たしか、1日目の終わりごろにはすっきりした気分でお姉ちゃん達のPV撮影を見学していたんだ。
翌日もあかねと高千穂の街でランチ、それからいくつかパワースポットを巡った。その時も雨宮さんの記憶は出てきたがすぐに収まったんだったな。
特に意識はしていなかったし、抑えようとも引き出そうともしていなかった。
それらの状況を細かく思い出して整理してみれば、意外にも簡単な法則が浮かび上がってくる。
「なんだ、簡単なことじゃん。雨宮さんの気持ちを全部吐き出してスッキリすればいいんだ。思いが強ければ吐き出す量も増えるってことだな。」
彼の生家で記憶が溢れた時が、一番落ち着くまでに長い時間を要していた。それはやはり生家と言うだけあって思い出す記憶も多かったという事だろう。反対に、各地のパワースポットには大した思い入れも無かったという事だ。
ここまで分かればやるべきことは明らか。
俺が俺でいるためには雨宮さんの思い残したことを消化してやれば良い。雨宮さんがさりなちゃんに対して何を想い残しているかまでは分からないが、それも会ってみれば分かることだ。とにかく、彼とさりなちゃんが二人きりで心行くまでじっくりと話し合う必要がある。
「そうと決まればお姉ちゃんに連絡だ!」
俺は意気揚々と、実に2日ぶりとなるメッセージをお姉ちゃんに送ったのだった。