かなちゃんが一言、アクア君に囁いた。
「アクア君、もしお母さんが死んじゃったらどうする?」
直後、アクア君が一瞬身構えるように体を硬くして、そのままふらふらとよろめいてその場に倒れ込んだ。
あまりに突然の出来事に周囲がざわつく。貧血か二日酔いかと原因を予想する野次馬達。遠目には転んだようにしか見えていないようで、皆それほど心配していないらしい。
しかし近くで見れば明らかに普通ではない反応だった。刀鬼とブレイドの最後の戦いを熱演し、確かに精神的に疲弊はしていただろう。しかし疲れてはいても気持ちの切り替えは出来ていたはずだし、急激に体調を崩して倒れ込むなんて。
「アクア君! 大丈夫!?」
「アクア!」
同時に駆け寄る私とかなちゃん。
「母さん……嫌だ……死なないで…」
「しっかりしなさい! どうしたの、どこか痛いの!?」
母さん? 死なないで? 何を言っているのだろう。目は虚ろで……今を見てないみたい。以前見たことがある友達のパニック発作に似ているだろうか?
大きな声でアクア君に話しかけるかなちゃんには、その小さなうわ言は聞こえていないらしかった。ただ慌てるだけで、特に何かに気付く様子はない。そんな彼女の様子を見て、私は逆に冷静になっていく。
急激に冴えた頭でアクア君が倒れた理由について考えを巡らせる。
父親はおらず、母親も苗字が違う。恐らくは里親。芸能事務所社長の息子。複雑な家庭環境。姉への絶対的な信頼。『もしお母さんが死んじゃったらどうする』という言葉に対するこの反応。母親を失う事への過度な恐怖。そしてあの臨場感のあるつぶやき。
簡単な推論だった。
アクア君の母親は、すでに亡くなっている。恐らくは、彼の目の前で。
数十秒ほどして、アクア君の様子は少しだけ落ち着いた。切迫した様子で呼吸を荒らげ体も強張っているが、先ほどまでのような虚ろな目はしていない。幾分冷静になったようだ。
折を見て休憩できる場所へ彼を連れて行く。
「アクア君、歩ける? 静かなところで休もう?」
「……助かる。」
別室へと移動し、アクア君を椅子に座らせた。
発汗…ふらつき…パニック発作かな……。であれば数十分程度で症状が治まるはず。それまでここで安静にして、体調が戻ったら家の人に迎えに来てもらうのが良いだろう。アクア君のお母さん……いやルビーちゃんを経由した方が良いかな。
今のアクア君は電話をするのも辛そうだ、私が直接ルビーちゃんに連絡しよう。
「ルビーちゃんに電話するね。」
「やめろ。お姉ちゃんには知られたくない。」
「どうして?」
「お姉ちゃんがこのことを知ったら、俺の感情演技をやめさせようとする。それはダメだ。この舞台は絶対に成功させる。そのためにはあの演技が必要なんだ。」
ルビーちゃんへの連絡は強く拒否された。
舞台を成功させる為、良い演技をする為、自分の身を犠牲にしてでもやり遂げるつもりなんだ。それこそ、大好きなお姉ちゃんに隠し事をしてでも。アクア君の決意は固かった。
心身の健康を取るか、彼の意思を尊重するか。私は難しい決断を迫られる。
アクア君の彼女として私はどうすればいいのだろう。彼の身を案じるべき? 普通に考えればここまで心を追い込んでまでやる事ではない。演技がどうこう言っている場合じゃないと彼を説得するのが正しい。
しかし私の気持ちはむしろその逆。アクア君の気持ちが痛いほど分かってしまう。
私だって役者だ。演技の為に何かを犠牲にした経験だって1度や2度ではない。ここで中途半端な演技をすればアクア君はずっと後悔するだろう。あんなに真に迫った演技が出来る機会をふいにして平気でいられるはずがない。
悩んだ末、私はアクア君の味方をすることにした。
「分かった。ルビーちゃんには言わない。監督の所なら大丈夫?」
「ああ、監督なら分かってくれるはずだ。」
私は五反田監督へ電話し、しばらくしたらそっちに迎えに行くとの返事。慣れた様子でアクア君の症状について尋ねてくる監督の様子から、アクア君の発作がそれほど珍しいものではないのだと推測できる。
母親を失った直後は頻繁に発作が起きていたのだろう。幼いころからアクア君の面倒を見ている監督はそのたびに彼を介抱したんだ。
「1時間もすれば監督が迎えにくるよ。それまでここで安静にしてようね。」
「ああ。」
ふぅ、と一息つく。
一時はどうなるかと思ったけど、事情を良く知る監督が来てくれれば安心かな。
「飲み物買って来ようか? お水で良い?」
「水で。」
「分かった。」
自販機にお水を買いに行こうと、部屋を出る。すると少し廊下を進んだところでちょうどこの部屋を訪ねてくるかなちゃんと鉢合わせた。アクア君をあんな目に合わせておいて、よくその日のうちにまた会いに来ようと思えたものだ。
アクア君のトラウマを引きずり起こした張本人。悪気が無かったとはいえ、一言言っておかないと気が済まない。
思い切りかなちゃんの事を睨みつけ、通り過ぎようとする彼女の目の前に立ちふさがる。
「かなちゃん。」
「何よ。そんなに睨んで、喧嘩でもしたいの?」
相変わらず尊大な態度でこちらを見返してくる。アクア君を心配こそすれ、申し訳ないと思う気持ちは微塵も感じられない。この期に及んでかなちゃんは自分のしたことの重大さを理解していないようだった。
「なんでアクア君にあんなこと言ったの。」
「は? それは、アイツが泣き演技のやり方を聞いてきたから―――」
もう我慢の限界だった
「ふざけないで! かなちゃんの口が悪いことは知ってるけど、これはやっちゃダメだよ! アクア君にはお父さんが居ないしお母さんの苗字も違う。複雑な家庭の事情があるって分かるでしょ!」
「………っ!! それってもしかして…!? アクアのお母さんは本当に……?」
「アクア君の所に行こうとしてたならそれはやめて。あの言葉を思い出してまた発作が起きるかもしれない。今日私もアクア君ももう帰るから。じゃあ。」
驚くかなちゃんの横を速足で通り抜け、自販機で水を買ってすぐに戻り、かなちゃんが居ないことを確認する。もう顔も見たくなかった。
監督が迎えに来るまで、苦しむアクア君と二人きり。辛い時間が続いた。
・・・
監督の家に到着。
ここまで来れば、ひとまず私の役目は果たせたと言っていいかな。
「いや俺はお前のパパじゃねーんだがな。」
「そんなことないわよ泰志。ほとんどパパみたいなものでしょ。さ、アクア君。布団敷いてあるから寝てなさい。お夕飯の時間になったら起こすから。」
「うん……」
私から見ても五反田監督はアクア君のお父さんにしか見えない。というか、アクア君が五反田家の子供にしか見えない。
アクア君の部屋があって、アクア君のお布団が敷いてあって、リビングにはアクア君の椅子と食器が並べられて………。先ほどの監督のお母さんとアクア君の会話といい、どう考えてもここに住んでいる。
「あの、監督。アクア君とは長い付き合いなんですか?」
「あいつが4歳になった頃からだから、もう10年以上になるな。毎日のようにこの家に来てるし泊っていくこともよくある。………こうして改めて考えると確かにパパだな、俺。」
やっぱりパパじゃん。思うだけで口には出さない。
父親代わりの五反田監督とはとても仲が良さそう。それに、ミヤコさんや姉のルビーちゃんからも目一杯可愛がられている。
母親を失った辛い過去も持ちながらもあんなに素直で優しい男の子に育ったのは、いろんな人に愛情たっぷりに育てて貰ったおかげななんだろうな。
「アクア君がその……こうなる事って、よくあるんですか?」
「昔はよくなってたが、最近はほとんどなくなってた。倒れるほどひどいやつを最後に見たのは多分小学生の頃だな。確かあの時は子役として俺の映画に出演してて、その撮影をしてたんだったか。」
「その時の撮影で感情を強く引き出すような演技をしましたか?」
「ああ、してたよ。お前の読み通り、アイツは昔の事を思い出すとこうなることがあるんだ。」
「アクア君のお母さんのことですよね。」
「……まあその通りだが。なぁ、お前はどこまで知ってるんだ?」
意味深な問いだ。
私がお母さんというワードを出した瞬間、監督の顔が少し暗く、引き締まるのが見えた。何を思ってそんな表情になったのだろう。何か守ろうとしている秘密があるのか、あるいは私に話すのをためらう程の凄惨な事件があったとか。
これだけの情報では考えたところで分かりはしない。素直に自分が知りえた情報とそこから推測した内容を話すことにした。
「アクア君が倒れたきっかけは『もしお母さんが死んじゃったらどうする』という言葉です。そこに至る前にも強烈な感情演技をして精神的には疲労していたと思いますけど。そしてアクア君は倒れてこうつぶやいたんです。『母さん……嫌だ……死なないで…』って。多分ですけど、お母さんが、その………亡くなってしまう所を思い出してるんじゃないかと。」
「なるほどね。もう大体全部察してる感じか。」
監督はアクア君の身に何が起きたのかを教えてくれた。
アクア君の母親にはストーカーが付きまとっており、ある日家に押しかけてきてナイフで彼女を刺した。その時まだ幼かったアクア君も現場におり、血まみれの母親が息を引き取るその時もアクア君は母親の腕の中にいたという。
ルビーちゃんも現場にいたが、扉越しに会話を聞いていただけで母親が死ぬ瞬間は見ていないためダメージは少なかったとか。
監督が顔色を変えたのは、どうやら私の事を思いやっての事だった。目の前で母親が亡くなるなど、他人の経験であっても聞きたいとは思わないし、気分を悪くする子もいるだろう。つくづく優しい人だ。
「まぁそりゃ忘れられねえよな。俺ですら多少は引きずってるんだから。そういや一つ聞きたいんだが、早熟は強烈な感情演技をしたと言ったな。それはどんなシーンなんだ?」
「鞘姫がブレイドに切られ、その後息を吹き返すシーンです。」
「なるほどね。早熟が倒れるわけだ。」
監督の話と照らし合わせて考えれば、あのシーンを演じることが彼にとっていかに辛いかが分かる。役者として最善を尽くそうとするアクア君の事だ、きっと私をお母さんに見立てて事件の日の事を思い出しているに違いない。
あの強烈な絶望と喜びはそうして引き出されたものだったという事だ。
「俺は仕事してっから、様子見ててやってくれ。」
「はい。」
子供部屋へ入っていく監督を見届け、私はアクア君が寝ている部屋へと向かう。
苦しそうだ。きっと今も死にゆく母親を夢に見ているに違いない。時折母さんとつぶやいては一層辛そうに身をよじらせている。こんな彼の姿はもう見たくない。
アクア君の助けになろう。君が私を助けてくれたみたいに、私も君を支えたい。
ごめんね、いままで気づいてあげられなくて。きっとものすごく辛かったよね。私は何があってもアクア君の味方だよ。
心の中で誓ったその時、五反田家のインターホンの鳴る音が聞こえた。
玄関の開く音。対応する監督の声。こんな時に来客なんて、一体誰だろう?