全速力で町を走った美空は、画廊歩道橋からだいぶ離れた路地へ身を隠した。
「ここまで来れば大丈夫だよね」
息を切らし、近くにあった低いドラム缶に腰掛ける。
「エトランローに伝えて、か」
先ほどの美術評論家の声がまだ耳に残っている。もしも美空の祖父がエトランローなのだとしたら、その願いは叶わない。
美空は膝を抱え込み、建物のすきまの空を見上げた。相変わらずの灰色だ。
疲れてぼんやりする美空に、急に影が落ちた。ふっと意識を戻すと、目の前に三人の男が立っていた。
顔の半分に入れ墨の入ったスキンヘッドの男、赤い髪をホウキのように立てた男、ワックスでテカった頭にサングラス姿の男。
(・・・・・・世紀末からいらした方ですか?)
美空はぽかんと彼らを見上げ、心の中でつぶやいた。
「おい、本当にこいつがエトランローの孫なんだろうな?」
「間違いねぇ、オレはさっき確かに聞いた。ほら、エトランローの絵を持ってるだろう」
「ああ、確かに」
彼らはニタニタ笑いながら美空をながめる。嫌な予感がして、美空はドラム缶から膝を下ろし、逃げられるように一歩身を引いた。
「何ですか? 私に用事でもあるんですか?」
引きつった声で美空は聞く。
「用があるのはおまえじゃない、その絵だ。おれたちゃその絵が欲しくてね」
ホウキ頭の男は、妙に甲高い声でそう言った。
「この絵?」
美空は震える手で絵を胸元へ抱え込んだ。
「この絵・・・・・・そんなに価値があるものなんですか?」
それを聞いた途端、入れ墨の男が大きな笑い声をあげた。
「ハッハッハ、エトランローの絵の価値を知らねぇ奴がこの世にいるとはな! おまえ相当世の中を知らないらしい。その大きさの絵であっても、五千カロはくだらねぇだろう」
そういわれても、美空はこの世界のお金の単位がわからない。ただ話から察するに、エトランローの絵というものは相当な値打ちがあるのだろうということはわかった。
つまり、彼らは金目的で絵を欲しがる強盗の類だ。
数秒のうちに美空は考えをめぐらせた。祖父の残してくれた大切な絵ではあるが、命には代えられない。
「わかりました・・・・・・絵はあげます。だから何もしないで」
「おっ、物分かりがいいじゃねぇか」
サングラスの男が機嫌よく絵に手を伸ばす。それを入れ墨の男が止めた。
「待て、早まるな。よく考えろよ。こいつはただ絵を持ってるだけじゃない、エトランロー本人の孫なんだぞ。エトランローが持つ資産は五千カロどころじゃない。そうだろ?」
「なるほどなぁ。ヒヒヒ、ほんとにお前はあくどいぜ」
話の流れが悪い方向に傾きだした。美空はとっさに走り出した。
「捕まえろ!」
強盗たちは美空を人質に使い、エトランローから身代金を搾り取る気でいる。そんなことをしても、応じる者は誰もいないのだ。そうなったとき自分がどうなるかを考えると、美空は全身から血の気が引いた。
「無駄な抵抗しやがって」
「やめてよ、離して!」
走り出して三秒で捕まった。情けない心境になりながら、美空は手足を振り回して必死で抵抗する。
「くそっ、めんどくせぇな! 暴れんな!」
グローブのような巨大な手の平で口を覆われて、助けを呼ぶこともできなくなった。絶望で視界が暗くなりかけたそのとき、どこからともなく陽気な歌声が聴こえてきた。
強盗たちもピタリと動きを止めて、辺りを見回す。ウキウキと楽しそうに歌うその声は、徐々にこちらに近づいてくるようだった。
そして、「ヘイ!」と自らへ合いの手を叫んだその瞬間に、その人物は曲がり角の先から美空たちの目の前へと現れた。
一瞬、すべての時が止まった気がした。強盗も美空も、シーンとして歌声の持ち主を見た。
曲に合わせて踏んでいたステップを止め、彼が顔を上げる。
「ん?」
ぱちくりと瞬きするその人は、銀髪に青い瞳―――美空の祖父と同じ訛りで電話をしていた、あの青年だった。
人が来たことで焦ったのだろう、強盗がさっと美空の口から手を離す。ただし、しっかりと腕はつかんだままだ。美空が助けてと叫びかけると、強盗は腕を握る手に力を込め、背中にかくしたもう片方の手でナイフをちらつかせてみせた。
美空が無言で青ざめていると、青年のほうから近づいてきた。
「あっ! 君!」
大きく見開いた目をキラキラさせながらかけよってくる。美空も強盗たちもぎょっとした。
「うわー探したんだぜ、見つかってよかった。江藤美空ちゃんだろ? さっきも声かけようとしたのに、逃げてっちゃうし」
「え・・・・・・・あの・・・・・・」
なんで自分の名前を知っているのか。次々起こる出来事を前に、美空は思考停止しかけていた。
「こちら、お知り合い?」
青年は三人の強盗たちに手のひらを向けて尋ねる。美空は全力で首を左右に振った。
「じゃあちょっといい? 君に聞きたいことがあるんだ」
さらりと何気ない動作で、青年が美空の手を取る。美空は藁にもすがる思いで青年の手を握り返した。とにかくこの場から逃げ出せるならなんでもいい。
「なんだテメェ・・・・・・・」
気まずげに黙っていた強盗のうち、一人がついに口を開いた。このまま美空を連れていかれてはまずいと思ったらしい。なりふり構わず、青年の眼前にナイフを突きつける。
「怪我したくなかったら、女置いて失せな」
美空は悲鳴をあげそうになったが、青年はまったく動じることなく平然としていた。おだやかな笑みを崩しもせず、震える美空の手をぎゅっと握る。
「それはこっちのセリフだぜ」
次の瞬間、青年の姿が美空の視界からスッと消えた。
いや、消えたのではない。ブレイクダンスをするかのように、地面についた腕を軸に脚を大きく回転させ、入れ墨の男を蹴り飛ばしたのだ。
「よっ」
すぐに立ち上がって体制を整えた彼は、美空を抱えあげた。
「あばよーっ!」
笑顔でそう叫んで、青年は長い路地を走り出す。
「待ちやがれ!」
あとからホウキ頭の男とサングラスの男が追いかけてくる。蹴り飛ばされて怒り心頭の入れ墨男も、すぐさま立ち上がって追ってきた。
美空を抱えながらだというのに、青年の走る速度は速かった。ぐんぐん、両脇の薄汚れた壁が後ろへと流れてゆく。
「この野郎!」
背後から大きな音が聞こえた。美空が頭をあげて青年の肩越しにのぞきこむと、強盗たちがドラム缶を蹴飛ばしていた。路地が若干の下り坂になっていたのが悪かった。ドラム缶が三つ、スピードを上げながらこちらへ転がってくる。直撃すればかなりの衝撃がありそうだ。
青年も、ちらりと背後を振り返った。
「ははは、ファミコンのドンキーコングみたい!」
転がってくるドラム缶を見て、のんきに笑い飛ばしている。正気かこの人、と美空は目をむいた。
しかし青年はちゃんとドラム缶をすべて避けた。小さいドラム缶は普通にジャンプしてかわし、やや大きめのドラム缶のときは壁をキックして浮力を上げた。タイミングも完璧だった。
「クリア! よゆーよゆー」
青年の着ている黒のロングベストの裾がふわりと舞い上がって、ほろ苦いタバコの香りがする。
必死に肩にしがみつきながら、美空は再び強盗たちのほうを見やった。
「あっ、ねぇアレ! あれはジャンプじゃ避けられないんじゃない?」
蹴飛ばせるサイズのドラム缶では避けられるのを見て取って、強盗たち三人がかりで一つの巨大なドラム缶を横倒しにしているところだった。狭い路地を埋めるほどの幅があるので、左右に避けるという方法も無理そうだ。かといって、しばらくは一本道の下り坂。曲がり角もない。しかも坂は少しずつ急勾配になっていて、人の走る速度をドラム缶の転がる速度が上回ることは確実である。
「あーらホントだ、あれは避けらんねぇわ」
そう言って青年は辺りを見回した。どうやらここは飲食店か何かの裏らしい。大きなポリバケツや、空っぽの鉢、突っ張り棒などが薄闇にまぎれて置いてある。その中に、大量の空き瓶入りケースが乗った台車もあった。青年は、その古い台車に目をつけた。
青年はいったん美空を下ろし、台車の上から瓶入りケースをどかす。
「ちょいと借りるよーん。はい美空ちゃん、乗って」
「え、乗るって、この台車に?」
美空はちらっと坂に目をやった。この斜面を台車に乗って滑り降りるということか。しかし、強盗たちが押し倒したドラム缶が迫ってくる。背に腹は代えられない。美空はこわごわ、蜘蛛の巣だらけの台車の荷台へあがった。
「じゃ、つかまってて」
美空は決死の覚悟で台車のハンドルにしがみつく。青年が台車を押し、坂を下って少しずつスピードが出てきたところで荷台の上に足先を滑り込ませた。制御がなくなったことで、台車はどんどんスピードを増してゆく。
ゴロゴロ音を鳴らすキャスターの振動が全身に伝わってくる。
「ぎゃあああ」
たまらず美空は悲鳴を上げた。その表情は、楳図かずおのホラー漫画に出てくる叫び顔のようであった。
シートベルトもブレーキもない、生身ひとつで坂を高速で降りる恐怖がどれほどのものか。できることなら一生味わいたくない体験だ。
耳に聴こえてくるのは風のうなる音、自分の悲鳴、青年の笑い声。そして背後に迫っているであろうドラム缶の金属音。
数秒が数時間に感じられた。途中で意識が飛んでいたような気すらする。ハッと気が付くと、路地を抜けた先に池があり、それを囲う柵が目の前に迫っていた。
「止めてぇぇぇ」
自分の声とも思えない金切り声が出た。
青年が、台車と同じところから拝借してきたらしい突っ張り棒を地面にこすりつける。火花が散って、台車が突っ張り棒を軸にドリフトした。その真横スレスレを、激しく回転するドラム缶が疾風のように駆け抜けていく。
ドラム缶は柵に激突して高く跳ね上がり、池へと飛び込んだ。
台車の方は、しばらく突っ張り棒を中心にぐるぐると回転して、ようやく動きを止めた。
「・・・・・・・死ぬかと思った」
美空はがくがくと震える両手をつき、台車の上で丸まった。もう台車が古くて蜘蛛の巣まみれで汚いとか、そんなことはどうでもいい。全身から力が抜けて、このまま地面に大の字で寝転がりたい気持ちだった。
「あははは! はーっ、おもしろかったーっ!」
青年は楽しそうに笑い転げている。
・・・・・・・・・・・・この人も、かなりクレイジーな人間なのでは。
美空はいぶかしんだ。
◆
改めて青年を見る。こうしてじっくりながめてみると、思ったよりも童顔で高校生と言われてもおかしくない見た目だ。しかし、タバコのにおいがしたところから考えると二十歳を超えているのだろうか。
憮然とした表情で台車に座り込んだままの美空に、青年は手を差し伸べた。
「ごめんね。大丈夫? 怪我は?」
「大丈夫です・・・・・・」
そうは言ったが、脚の震えが収まらず、青年の手を借りてもなかなか立ち上がれない。
「・・・・・・生まれたての小鹿?」
「誰のせいだと思ってんだ! ・・・・・・・はっ」
つい、心の声が飛び出した。だいぶ危ない感じの人ではあるが、曲がりなりにも命の恩人だ。お礼を言う前にこの発言は、あまりに失礼だ。
美空はうろたえたが、青年は「はははは!」と大声で笑い飛ばし、話を続けた。
「そういや、最初に会ったとき俺のこと見てたよね? 美空ちゃんも、何か俺に用事だった?」
「あっ、あれは・・・・・・・、喋り方がおじいちゃんと同じだったから気になって」
「ああ」
青年は納得したようにうなずいた。
「せば美空ちゃんさは訛って喋っても大丈夫だな?」
「・・・・・・あんまり訛られるとわからないかも」
急にイントネーションが変わって、美空はふふっと笑った。こっちの喋り方が素のようだ。
この訛りに美空は弱かった。祖父を思い出して、なんとなく気が緩んでしまう。
「美空ちゃんは、どごまで知ってら?」
「どこまでって・・・・・・」
「君のおじいちゃんがエトランローだっていうのは?」
「それは」
美空は息をのんだ。この人は自分のフルネームも知っているし、祖父のことも知っている。どこまで知っているのか。それこそ、美空のほうが聞きたかった。
「私、なんにもわからない。本当に、何も・・・・・・。この世界に来たのだって偶然なの。おじいちゃんがエトランローっていう画家かもしれないことも、全部、たった今知ったばかりで」
「ははーん、なるほどな。それだば異世界のことも初めて知ったわけか。せば、一から説明したほうがよさそうだな」
青年は顎に手を当ててつぶやいた。
「あの、最初にひとつ聞いてもいい? ・・・・・・私、元の世界へ帰れる?」
不安げに見上げた美空に、青年がにっと笑う。
「それは大丈夫! 家さは俺がちゃんと送り届けるから」
美空はホッと胸をなでおろした。なんだかよくわからないが、このまま祖父とエトランローについて何もわからないままというのも気になる。ちゃんと家に帰れるのならば、もう少し彼の話を聞いてみたいと思った。
「俺はバロン。よろしく、美空ちゃん」
かくして美空は、バロンと名乗るこの奇妙な青年とともに、少しの間行動をともにすることになった。
作中の方言で、「せば」は「じゃあ」という意味です。
なるべく方言セリフは伝わる範囲で収める予定ですが、意味のわからない表現がありましたら、コメント等で教えていただけると幸いです。よろしくお願いします。