気がついたら、奇妙な場所に立っていた。
空間知覚が狂いそうなほどの白。
その空間を、透明なベルトコンベアにでも乗っているかのような動きで、家や乗り物、根っこごと引っこ抜かれた樹木などが音もなく宙を流れてゆく。
見上げたら、そこには空ではなく海がさざめいていた。足元を見ると、こちらが空。目に見えない薄いガラスがあるかのように、美空は空の上に立っていた。驚いて後ずさると、まるで水面のように波紋がニ、三広がった。
「また異世界移動したってこと?」
困惑した美空の声がやけに辺りに響く。周囲には人っ子ひとりいない。生き物の気配もない。
美空はその場で大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。焦って動き回るのは禁物だ。さっきもそれで失敗したのだから。
美空はぼんやりと景色をながめた。ふいに頭上から、子どもの笑い声のような声や、クジラの神秘的な咆哮が降ってきた。不気味ではあるが、不思議と懐かしい心地がする。畏れと美しさの入り混じった世界に、美空はしばらくの間見惚れていた。
突然、目の前の空間に裂け目が生じた。その裂け目から黒ズボンの脚が出、腕が出、バロンがひょっこりと現れた。
「あー、良がった。美空ちゃん、すぐ見つかって」
「バロン!」
「遅かったから、ちょっくら様子ば見に行ったんだ。まさかトイレのドアから異世界移動してるとは思わねがった」
安堵してほおが緩みかけたが、すぐに美空はハッとした。
「あんなところにゲートが開いてて大丈夫なの? トイレから出る人みんな異世界に飛んでいっちゃうんじゃない?」
「いや・・・・・・」
バロンは少し考える素振りを見せた。言葉を選びながら、美空をじっと見つめて言う。
「あの店のトイレのドアは、『ゲートになりうる場所』ではあったけど、まだゲートは開いていなかった」
「どういう意味?」
「つまり美空ちゃん、君があのドアをゲートに変化させたんだ。・・・・・・君も、異世界移動能力者だってことだ」
美空はぼけっとバロンの顔を見上げた。
「えっ、でも私・・・・・・・今まで生きてきて、そんなこと一度もなかったよ。何かの間違いじゃ」
「異世界移動能力は生まれつき持ってる場合だけでねく、年齢を重ねてからあるとき突然開花することもある。多分、美空ちゃんが能力を得たのはたった今、この瞬間だ。・・・・・・・あ、ちょっとタンマ。先にこれやっとかないと」
そう言って、バロンは懐から小さな砂時計を取り出した。片側のガラスが透明な赤色、もう片側のガラスは透明な青色。それをさっと振ってから、自分の腕時計に取り付けている。
「それ壊れてない? 全然砂粒落ちてないよ」
キラキラ輝く細かい砂は、赤色のガラスから一切動く気配がない。
「いいんだ、これで。ここはちょっと特殊な場所だんだ。世界と世界のあいだの空間、通称『はざま』と呼ばれるところなんだ」
「はざま?」
「んだ。ここには過去も未来もない。時間も空間もすべてが歪んで入り混じる。目に見えてるものも、本当かどうかわからない。外とは時間の経ちかたが違うから、感覚が狂わないようにこの砂時計を最初につけておくんだ。これが本来の正しい時間。今、元いた世界では時が進んでないってこと」
美空はまじまじと砂時計を見た。
「・・・・・・・それって、なんだか怖いね」
「まあねぇ、下手すりゃ浦島太郎だからね。事故るとこの空間に取り込まれかねないし、好き好んで立ち入るやつはそうそういねぇな。でも、ちゃんと対策さえとれば大丈夫。山や森に、何の準備もなしに入れば危ねぇのと同じようなもんだ。・・・・・・少し歩こうか」
美空はうなずいた。ぞっとするような話を聞かされたのに、妙におだやかだった。この空間に取り込まれるというのがなんとなくわかる気がした。きっと、魅入られるのだ。
◆
「私、これからどうしたらいい?」
並んで歩きながら、美空は相談した。今後の人生、うっかり異世界に飛ばされてばかりになるのは非常に困る。
古代の神殿に使われているような、装飾の彫られた大きな柱が静かに美空の背後を流れてゆく。天に向かって浮き上がってゆくのは、昭和の日本にありそうな古い木造アパートだ。
「んだなぁ、異世界移動能力を持った一般の人たちのほとんどは、異世界管理局に登録するかな。別に登録しなくても、移動能力の使い方ぐらいは教えてくれるだろうけど、今後もいろんな世界へ行ったり来たりしたいっていうなら、登録しとくのが無難だべな」
「おじいちゃんも登録してたんだっけ・・・・・・。登録すると、どうなるの?」
急に目の前が宇宙空間に変わった。惑星が浮かぶ中、どこが地面なのかもわからないまま二人して歩く。バロンが隣にいるなら何とかなるだろうと、美空は平然と足を進めた。
「異世界管理局が運営するサービスを受けられる。基本的に、ゲートってのは、初めて行く世界だとどこにつながるのかわかんねぇんだ。それだと場合によっちゃとんでもねぇとこにつながったりして危ないはんで、異局があらかじめ開設したゲートを通るのが主流になってらな。もしくはガイドをつけるとかね。他の提供サービスでメインなのは・・・・・・保険かな」
「ほ、保険?」
宇宙空間が閉じて、また元通りの白い空間に戻った。今度はそこら中に大きなシャボン玉が流れている。
「ほら、異世界特有の病気になったりしたら、自分の世界じゃ治療できないだろ? そのために専門の異世界医師たちがいるんだけど、医療費って全額自己負担だと目ん玉飛び出るぐらい高ぇんだぜ。そういうのに備えて異局提供の健康保険がある」
「・・・・・・・なんか、異世界に対するファンタジックな憧れが壊れてく」
美空のつぶやきに、バロンは大声で笑った。
「異世界といえども生きる場所はみんな現実だからなぁ。遠くからながめてるぐらいが、夢見るにはちょーどいいのかもな。でも、飛び込んでみた方が楽しいこともたくさんあるぜ」
ふと足を止めて、バロンが近くのシャボン玉を引き寄せた。美空を手招きする。
「見てみへ。これが美空ちゃんの世界だ」
「え?」
美空は巨大なシャボンをのぞきこんだ。オーロラを反射する表面の奥に宇宙が見えた。青い地球が浮かんでいる。そこから徐々に、美空が見たいと思った場所に向かって景色が拡大していった。さながら、ウェブマップの航空写真を見ているようだ。
「あ、日本が見える・・・・・・」
美空はしばしシャボン玉の中の世界に夢中になった。我に返ったのは、急に背中に何か軽い棒のようなものが落ちてきたせいだ。
驚いて振り返ると、真上に、巨大なアナログ時計が浮かんでいた。長針も短針もない。時折、不規則なタイミングで細長い黒い棒が落っこちてくる。
「これ、時計の秒針ね・・・・・・・・」
あんぐりと時計を見上げたが、何が起こってもおかしくないところにいるのだということは、だいぶ理解できていた。降り積もった秒針の山を飛び越えて、二人は再び歩き出す。
美空は少しの間、無言でいた。いろいろなことが一気に起こりすぎて、考えが追いつかなかった。気が付くとうつむいていて、視界に映るのは自分の足元ばかりだ。
だが、バロンが何気なく歌い出したので、美空は顔を上げてちらりと彼を見た。どうやら無意識に口ずさんでいるらしい。
本当にいつも楽しそうな人だな、と美空は思った。ご機嫌な歌声を聞いているうちに、美空までつい顔がほころんだ。バロンが幼く見えるのはきっと表情のせいだ。トムとジェリーのアニメみたいに顔が豊かに動く。それに瞳。まるで小さい子どもがはじめて世界をながめるかのように、キラキラ目を輝かせ、何事にも好奇心に満ちたまなざしを向けるのだ。
バロンは歌がうまかった。左手をズボンのポケットに突っ込み、右腕を振ってリズムを刻みつつ歩いている。それがやたらとリズム感がよいので、美空は感心してながめた。時折聴こえてくる「オンリーウェイ」という力強いフレーズがやけに胸に残る。周りなんて気にせずのびのびと広げるハイトーンボイスが心地よくて、美空は最後まで耳を傾けていた。
「今の、何の曲?」
「ん? 今の? オフザウォール。マイケルジャクソンだよ、知らない?」
「うーん・・・・・私あんまり洋楽に詳しくないから・・・・・・。スリラーとビリージーンぐらいしかわからないな」
それさえも美空にはうろ覚えである。なんとなく、テレビで流れてくるのを聴いたことがある程度だ。
「美空ちゃんは邦楽のほうが好きか」
「そういうわけでも・・・・・・。私、クラシックが好きなの」
言ってしまってから、美空はドキリとした。高校生のとき、友達グループの中で好きなバンドの話になった。そのとき同じ回答をして、「クラシックって何かいいのかわからない」と言われたことを思い出したのだ。相手に悪気がないのはわかっていたが、なんとなく気にかかって、それ以降音楽の話を振られるのが苦手になった。
「クラシックか! いいねぇ、俺も好きだや。どんな作曲家好き?」
「あ、えっと・・・・・・ショパンとか、ドビュッシーとかかな・・・・・・ピアノの曲」
思いがけない反応に、しどろもどろになりながら答える。
「あーわかるわー! 俺もあれ好き、ほら、あの・・・・・・甘栗色の髪の乙女とか」
「亜麻色じゃない?」
「そうそれ、亜麻色亜麻色。どっちも茶色だから問題ない」
雑な訂正に美空は吹き出した。バロンと会話していると、妙に脱力してしまう。肩ひじを張っているのがだんだん馬鹿らしくなってくる。
「あれ、ピアノ?」
すぐそばに、スポットライトを浴びたグランドピアノが鎮座していた。美空は引き寄せられるように近づき、蓋を開いた。一音、押してみると、ポーンと美しい音が響いた。
「まだ覚えてるかな・・・・・・」
椅子に座り、真っ白な鍵盤の上に指を置く。懐かしいこの感覚。
美空は亜麻色の髪の乙女を弾いた。ゆったりとしたメロディーだから、そこまで難易度は高くないが、子どものころの美空にとってはこの曲を弾けるようになるのが夢だった。
「ああ、やっぱり出だししか覚えてないや」
すぐに指が止まってしまう。鍵盤の白さが目にまぶしい。
「私ね、小学生のころピアノ習ってたんだぁ・・・・・・」
鍵盤を愛おしく指先でなぞる。
「そんなに上手なわけじゃなかったけど、ただ楽しくて、もっと続けていたかった。でも両親は、幼少期の脳育のために始めさせただけだって。中学に上がれば勉強が忙しくなるんだし、プロになるわけじゃないんだからって言われて辞めちゃった」
パタンとピアノの蓋を閉じて、美空は肩をすくめた。
「進路もね、美大・・・・・・行ってみたかったんだけど、一握りの才能ある人しかアートの世界では食べていけないんだから、もっと将来に役立つところにしなさいって言われたら、なーんにも言い返せなくて。それで短大に入って簿記を取ったの。おかげで経理事務の仕事に就けた。美大や音大に行った友達は、今就活ですごく苦労してるらしいから、親の言ってたことは正しかったんだと思う。・・・・・・・でも今と同じ暮らしが何年も何十年も続くんだろうかって思ったら、なんか人生って何なんだろうって思えてきちゃって。どれだけ必死で働いたって生活はそうそう楽にならないし、この先やりたいこととかも別にないし」
妙に明るい声で美空は続けた。自分でもなぜこんなことを口走っているのかわからなかった。頭の芯がじんじんとしびれたように熱く、ぼぅっとする。
「・・・・・・・むなしい・・・・・・・」
ピアノの音が一音鳴るように、ポロンと一粒真珠のような涙がほおを転がり落ちた。
その瞬間、頭の熱がひいて一気にクールダウンしていくのがわかった。冷静になると、普段なら絶対にしない自分語りをしてしまったことに後悔の念が湧いてきた。
――会ったばかりのバロンにこれほど本音を漏らしてしまうのは、きっと、非日常世界の高揚感と、祖父の面影が重なる彼の口調のせいだ。
「美空ちゃん」
羞恥で顔を伏せてしまった美空に合わせ、バロンがその場に片膝をつく。目線を合わせてバロンは言った。
「もっと肩の力ば抜いて生きていいんだよ。効率とか、役に立つかじゃなくて、自分が好きなことをやりたいようにやっていいんだ。世の中、有用な人間でねぇば存在せばダメだなんて、そったバカな話はねーんだから」
優しい声色だった。美空の心にあたたかいものが広がっていく。
「セカイガソンナフウナンダバワァミデェナノダバマッサキニマッショウサレデマルヤ」
「え?」
今のは訛りが強すぎて、何を言っているのかひとつもわからなかった。表情や口ぶりからして、冗談めかして言ったらしいということだけは察したが、内容はさっぱりだ。
しかし、美空はその件について聞き返すことはできなかった。
「あ、砂が落ち始めた。タイムリミットだな。戻ろうか」
腕の砂時計を見てバロンがそうつぶやいたからだ。美空がバロンの腕に目をやると、確かにキラキラ光を放つ砂が少しずつ、青いガラスのほうへと移動し始めていた。