二人ははざまからレストランへと戻って来た。中央の時計に目を向けると、美空がトイレに向かったときから五分も経っていなかった。
会計を済ませて外へ出る。
町がずっと凪いでいることに美空は気が付いた。シェルターに覆われているから、ここには風が吹くこともないのだ。
「さて、せば美空ちゃんの世界さ行こうか」
伸びをして、バロンが言った。
そのとき、バロンの懐からゴットファーザー・愛のテーマが聴こえてきた。何かと思ったら、携帯の着信音だった。
「ちょっとごめん。待ってて」
携帯を片手に、バロンが小走りに去っていく。美空はうなずいて、手持ち無沙汰に腕を背中で組んだ。さっき、ピアノの前で言われた言葉を思い返しながら、灰色の天を見上げる。
「嬉しかったな・・・・・・・。でもバロン、今の社会じゃ役に立たない人間は必要としてもらえないんだよ。煙たがられるのが現実・・・・・・」
美空は小さくつぶやいた。
思い出すのは就活のときに何度も書いたPRシート。長所、取柄、持っているスキル・・・・・・・絞り出すたびに、自分が本当にここに書いたとおりの人間なのかわからなくなった。それでも、体裁を取り繕わなければならない。社会で生きていくためには、周囲の人間に受け入れられることが大前提なのだ。
「そこの方」
物思いにふけっていると、背後から声をかけられた。振り返るとちょび髭の中年男が立っていた。ブラウンスーツの胸元に、金色のブローチが光っている。アイビーでぐるりと丸く縁どられたカエルという、めずらしいデザインのものだ。
「江藤美空さんですね? あなたを探していたんですよ」
「私を?」
目を細めて男はうなずいた。
「はい、わたくしは異世界管理局という機関の者です。エトランロー氏・・・・・・・もとい、江藤蘭太郎氏のご自宅にあるゲートにて、登録者以外の出入が確認されましたので、誰か非能力者の方が迷っているのではと捜索していたのです。この周辺で、エトランロー氏の孫を名乗る人物が現れたという話を聞いて、ひょっとしてそれは江藤美空さん、あなたのことではないかと思いまして」
「ああ・・・・・・! ごめんなさい、ご迷惑をおかけしたみたいで」
男の口から異世界管理局の名が出るのを聞いて、本当に異世界間の管理を行う人たちが実在するのだなと美空は感心した。
「いえいえ、それが我々の仕事ですから。さあ行きましょう」
「あっ、でも大丈夫です。異世界移動能力者の方で、助けてくださった方がいて。今から送ってもらうところなんです。お手数おかけしたのにすみません」
「そうでしたか・・・・・・・しかしわたくしには送り届ける義務がありましてね」
異局の男はひげをなで、眉をひそめた。
美空は考えた。それなら、確かに局員に送ってもらうのが筋なのかもしれない。バロンの手もわずらわせずに済む。
「わかりました。じゃあ、お願いします。でも少しだけ待っててもらえますか? その人に事情を説明してきます。ちゃんとお礼も言いたいし」
そう言って、美空はくるりと男に背を向けた。そこで美空の記憶は途切れた。
◆
次に目を覚ましたとき、美空はふかふかのロッキングチェアに横たわっていた。
がばっと体を起こすと、その勢いでチェアがぐらぐら揺れる。
「ここどこ・・・・・・? っていうか私、なんでこんなところにいるんだっけ?」
天井から吊り下げられたシャンデリア、豪華な装飾の赤い絨毯、金色の壁紙に大きな出窓と房飾りつきのカーテン。ヨーロッパの貴族が住んでいそうな部屋だ。
頭が妙にぼーっとする。夢かと思ってしばらく椅子の上で揺れていたが、隣からぼそぼそ聞こえてくる話声が気になり、美空は静かに立ち上がった。
隣につながる大きな扉は、閉め切られずにわずかにすき間が開いていた。忍び足で近づき、美空はすき間に目を近づけた。
隣は書斎のようだった。同じくアンティーク調の広い部屋。美空からは背中しか見えないが、ライティングデスクの前に立っているのは、先ほどの男だ。そして、デスクをはさんで向かい合う形で座っている、もう一人の男。二人はよく似ているが、座っているほうがいくらか年上に見えた。
「あの小娘は本当にエトランローの孫なんだな?」
座っているほうの男が尋ねると、立っているほうの男がうなずいた。
「ああ兄貴、間違いない。本人に確認したが否定しなかった。それに非能力者で間違いないだろう」
どうやら二人は兄弟のようだ。
「そうか。それならいい。非能力者なら、異世界のことなんぞ何も知らないはずだ。文化の保護などと称して絵を回収すると告げれば、納得してすぐに祖父の隠しアトリエの場所を吐くだろう。あとは元の世界へ送り届けてやれば、それきり。もう関わることもなくなる」
「ふっ、さすが兄貴だな。上層部には単に迷子を送り届けたとだけ報告すればいい。そうすれば我々は、誰に知られることもなく、大金を得られるってわけか。まったく異局の仕事なんざ、こういう旨味がなけりゃやってられないぜ」
ぼんやりとしていた頭が、冷たい水をかぶせられたかのごとく覚醒した。彼らは異世界管理局員でありながら、祖父の絵を手に入れて私腹を肥やす気でいる。
「で、その連れてきた娘はどこにやった?」
「今は薬で寝ている。もうじき目を覚ますだろう」
兄のほうが目を上げた。
「薬? なんでまたそんなものを使った」
「小娘を元の世界まで送り届けると言った、おせっかいな異世界移動能力者の連れがいたらしい。ちょうどその場にはいなくて幸いだったぜ。そいつにオレの顔を知られて、あとでいろいろと疑られても面倒なんでね、厄介ごとになる前にちょっと強引に連れてきちまった」
「そうか・・・・・・・。まあ、いち能力者にそう大したことはできんだろう。顔も見られてないなら、あとは放っておけばいい」
「ああ。そろそろ目を覚ますころだろう。様子を見てくる」
美空は小さく飛び上がった。音を立てないよう走り、急いでロッキングチェアまで戻る。
揺れないよう細心の注意を払って寄りかかったが、少しは揺れた。心臓をバクバクさせながら、早く収まってくれと祈る。
男が部屋に入って来たギリギリのタイミングで、チェアの揺れは止まった。
「お嬢さん、お加減はいかがですかな?」
先ほどとは打って変わった猫なで声で男は言った。やってきたのは弟のほうだ。
「・・・・・・・ここはどこですか?」
いかにも今目を覚ましましたといった演技をしながら、美空は言った。震えそうになるのをこらえて、平静を装う。
「我々の別荘です。ちょっとあなたに聞きたいことがあったので、連れて来たんですよ。疲れていたのか、あなたが途中で眠ってしまったものですからね」
慇懃な笑顔が恐ろしい。
「それは、ご迷惑おかけしました。・・・・・・・あの、すみません。なんだか頭がぼーっとして。もう少し休んでもいいですか?」
「・・・・・・・ええ、どうぞ」
男は一瞬顔をひきつらせたが、うなずいてすぐにいなくなった。ほーっと胸をなでおろし、再びドアの向こうへ意識を集中させると、小さな舌打ちと「薬が効きすぎたか」というイラだったささやきが聞こえた。
美空は焦っていた。祖父のアトリエの場所なんか知らないし、今の美空はもう異世界移動能力者なのだ。それを知られたとき、あの兄弟がどう出るのかまるで予測がつかない。
「ともかく、ここから逃げないと」
決意を固めたのはいいものの、この部屋に扉はひとつしかない。他に出られそうな場所といえば窓だけだ。
「うわ・・・・・・」
窓から外をのぞき込み、美空はため息をついた。ここは屋敷の三階らしい。しかも地上には、ちょうど槍のような形をした柵がある。そこに着地したらどんなことになるかを想像して、美空は身震いした。だが、真下には二階から突き出たバルコニーがある。ここになら、まだなんとか降りられるかもしれない。
「漫画とかドラマでよく見るやつ、まさか本当にやるはめになるなんて」
苦々しくつぶやいて、美空は近くのカーテンを引っ張った。結構な長さがあり、生地もしっかりしている。これをロープにするより他ない。
椅子を脚立代わりにレールからカーテンを取り外す。右と左、両方の布をつなぎ合わせると、バルコニーまで届きそうな長さになった。途中でほどけたりしたら大変なので、固く結び合わせて、何度も引っ張り強度を確認した。
さて、これをどこにつなごうか? 部屋の中を見回して、美空は青ざめた。ロープは完成したが、それを繋ぎとめておく場所がない。椅子では不安定すぎるし、美空の体重に引っ張られて動いたとき、音がすればすぐに見つかってしまう。そのほか、安定した支柱になりそうな場所はどれも遠すぎる。
「どうしよう・・・・・・・」
あまり時間が経てば、彼らが来てしまう。そうなったら終わりだ。
「もう、こうするしかない」
美空は腹をくくった。せっかく完成させたカーテン・ロープだが、眼下のバルコニーに向かって放り投げる。
「よし」
うまくカーテンはバルコニーの中に着地した。美空はサンダルを脱いで出窓に上がり、窓枠をつかんで縁へ立った。
手が震える・・・・・・足が震える。屋敷を取り囲む森の木々が揺れていた。樹木に飛び移れればなぁ、とも思ったが、それには距離がありすぎた。
ぎゅっと目をつぶって、開いて、美空は深呼吸をした。
「ヤー!」
小さく掛け声を上げて、美空は出窓から飛び降りた。心臓が痛いぐらい高鳴る。しかし一瞬だった。美空の体はうまくバルコニーに敷いたカーテンの中に着地した。豊かな生地が衝撃をやわらげてくれたおかげで、どこも怪我はしなかった。
「はぁ・・・・・・・」
とてつもない脱力感に襲われたが、まだ安心している場合ではない。ここから誰にも見つからずに外まで出なければ。
幸い、バルコニーの扉に鍵はかかっていなかった。
ガラス戸を押し開けると、そこはダンスホール。体育館に似たツルツルの板張りの床を、裸足でひたひたと美空は走る。
出口の扉に耳をつけて外の様子をうかがおうとしたが、扉が厚すぎてなんの音も聞こえない。しかたなく、細くすきまを開きダンスホールの外をのぞきこんだ。
長い廊下を、一人のメイドが銀色のティーワゴンを押しながら歩いていた。美空はあわてて扉を閉める。しばらく間を置いてから再びのぞいてみると、今度は廊下には誰もいなかった。
足音を立てないように気を付けながら、美空は小走りで廊下を進んだ。
やたらと長い廊下だった。左側には高い窓、右側には木製の扉がえんえんと続く。角を曲がっても似た景色ばかり見えるので、同じところをぐるぐる回っているような気さえした。
途中で執事が歩いてくるのが見えたときは肝が冷えた。誰もいない浴室がすぐそばにあったことに救われた。足裏にタイルの冷たさを感じながらどうにか執事が通り過ぎるまでやり過ごした。
一階へ向かいたいのに、階段はなかなか見つからない。走り回っているうちに、廊下の突き当りにたどり着いてしまった。突き当りには大きな姿見が一枚だけ。
そのとき突如として、美空は気が付いた。それは言葉にするのは難しい感覚だった。だが一目この鏡を見た瞬間に確信した。この姿見は、ゲートにできる。
美空は鏡に手をのばした。触れた指先から青白い光が波紋のように鏡全体に広がった。指先がゆっくりと鏡の向こうへ呑みこまれてゆく。
行ける。
美空は緊張で呼吸が浅くなるのを感じた。
まだ、異世界移動の正しいやり方を知らない。この先がどこへつながっているのかもわからない。だが、この屋敷からは逃げ出せる。
階段を探し続けるか。イチかバチか、異世界へ飛ぶか。迷いながらも、すでに美空の右手首は鏡の向こう側へ吸い込まれつつあった。
そのときだった。
「こいつ!」
いきなり左腕をひねりあげられて、異世界へ飛びかけていた右腕もこちら側へ戻って来た。
振り返ると、ちょび髭の異局員が鬼のような剣幕でそこに立っていた。