完璧で究極なアイドル様に執着されて   作:肉ぶっかけわかめうどん

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毒を以て毒を

 

 突如鳴り響いた破砕音と、突然突き飛ばされたルビー。物音に誰もがそちらを振り向き、そして誰もが状況を理解できず立ち尽くしていた。

 完全な無音の空間と化した部屋の中で、宙を舞ったヘッドライトが床に落ちた音と、絞り出すような稲垣の声が嫌に大きく響いた。

 

「皆さん、き、緊急事態です」

 

 アクアは兎にも角にもルビーの元に駆け寄り、助け起こそうと手を伸ばした。

 

 何が緊急事態だ。少なくとも自分は何も見えていないし、聞こえてもいない。何の異変も感じていない。そんな事よりも今の暴行の理由について納得のいく説明と謝罪を……と血が上った頭に浮かぶ怒りを声に乗せて吐き出すべく息を大きく吸い込む。

 しかし、たった今の自身の呼吸音と空気の温度に言いようのない違和感を抱いたアクアは出かけた言葉をいったん飲み込み周囲を一度見渡した。ルビーが突き飛ばされる前と後で、何か変わったものは無いだろうか。

 

 未だ全員が固まったままで、何の音も聞こえない。自身のものどころか、全員の息づかいまで感じ取れそうなほど、他に何も無い。やはり、異変らしきものは何も感じられなかった。

 ただの気のせいだったのだろうか。そう結論付け、稲垣への要求を再開しようと息を吸い込みなおしたところで、ようやくアクアは違和感の正体に思い至った。

 

(待て……なぜ何も聞こえない?)

 

 先ほどまで壁越しでもうるさいほど聞こえる大合唱に励んでいた虫やカエル達はどこへ消えた?

 

 一つ気が付けば、そこから次々と違和感が湧いて出る。

 今は夏。今日も今日とて熱帯夜であり、そんな日に風も入らぬ屋内で動き回っていれば当然暑い。しかし今はまるで冷房が効いた部屋の中のように全く不快ではなくなっている。こんな短時間で気温がここまで変動するはずがないというのに。

 

 何も感じない事こそが異変だったのだ。彼の言う通り、明らかに異常な事態が発生している。

 

「すぐにここから出てください。早く!」

 

 そうと分かったならばやることは一つ。この場で唯一そうした問題に対応できそうな人物が避難を指示しているのだから、速やかにそれに従う。

 まだ医療の世界にいた頃にも似たような経験がある。説明してほしい、安心させてほしいと縋りつく患者やその家族を半ば力づくで振り払わねばならないような場面だ。決して蔑ろにする気はないが、しかし今は一刻を争う状況。説明する時間すら惜しい、とにかく黙って従ってほしい、そんな状況。素人は何もせず、ただ大人しく言いなりになっておく。それが専門家にとって一番助かるのだ。

 謎の通話も気になるところだが、それもすべてが終わってからだ。

 

「お兄ちゃん……」

「ルビー、立てるか?」

 

 幸いルビーも突き飛ばしによる怪我等はなさそうだ。抱き寄せるように手をとって立たせると、ルビーも不安そうにしながらも手を握り返してくる。握った手を引けばされるがままについてくる。

 カメラマンは既に稲垣の指示に従う構えを見せているし、片寄はまだ状況は分からずとも自分以外の全員が逃げるつもりの空気になっているのは読めたらしく、ここに一人で残されるのは勘弁と呟いていた。

 

 

 方針が決まり、かつ全員が方針を受け入れたとなれば残るは実行あるのみ。

 

 最初はまだこそこそとやっていたが、今はもう隠しもせず、あるいは隠す余裕もなく口元のマイクを握りしめるように掴む稲垣を先頭に、一丸となって足早に廊下を進む。

 足音だけが嫌に大きい静寂すぎる廊下を過ぎ、多人数での迅速な移動の際の鬼門、階段へともう少しで差し掛かるという時に、突如稲垣は後方を振り返って呟いた。

 

 出てきた、と。

 

 

 

 方針がまとまり、移動を開始した一行がモニターに映し出されている。大して揉めることなく避難に移行してくれたのは私にとって有難い話である。

 

「つまるところ、あれは何なんですか?」

 

 そのモニターから目を離すことなく、カミキがこちらに話を投げた。

 

「あれは御霊信仰の一種ですね」

 

 御霊信仰、とは神道における概念の一つだ。ざっくりと言ってしまえば、人々を祟る悪い存在を敢えて神様として祭り崇め、加護を授ける良い存在へと変えてしまおうというものだ。

 

「菅原道真公のような?」

「そうですね。まさしく代表例です。あれのスケールをもっと小さくしたようなものです」

 

 この手法を応用し、人造の神様を創り出して家を守り繁盛させてもらおうとする呪術。それがあの最奥の部屋にあった謎の柱と仏壇の正体だろう。

 もっとも、あれは正しいやり方で作られてはいない。

 本来は家の中でも出来る限り空気の綺麗な場所、玄関や縁側近くに建てるものだ。四方は全て通路と面していなければならず、そして最低でも二か所はドアなり襖なりの出入り口を設ける。当然だが、この出入り口は絶対に開けてはならない。

 他にも色々とルールはあるが、これらは術を正しく、そして長く作用させるために必要なものである。

 

 それはともかく、この用意した空間の中に神様の素体となる悪霊を閉じ込める訳だが、考えなくとも分かる通りそう都合よく捕獲できそうな悪霊が付近をうろついていたりなどしていない。

 核となる素材が手に入らない。ではどうすればよいのか。そう、自分で作るのだ。あの老人らしきものは自然か故意か不明だが、丁度良いタイミングで死んでくれたからこれに使われることになったのだろう。

 

「悪霊を閉じ込めて、それを神と崇めて世話する事で利益を得ようとする術です。ですが、これは失敗作ですね。プロの仕事じゃない。おそらく、素人が聞きかじった情報だけで作ったものでしょう」

「どういった点が問題なのですか?」

「多々ありますが、一番の問題点はやはり安全装置が付いていない点ですかね」

「安全装置?」

 

 ここでカミキがこちらを横目で見据えた。細い瞼の中で大きな黒目がぎょろりと泳ぐ。

 

「グローリーホールってご存知です? ダムの水位が上がり過ぎた時に水を抜くための穴です」

 

 グローリーホールとはダムの上部に設けられる大きな円筒であり、上から見るとアサガオの花のように見える事からその名がついた緊急放流用の設備である。その円筒の下部はダムの外に繋がっていて、大雨などの要因でダムの水位が穴の淵以上の高さまで来ると自動的にここから溜まり過ぎた水が下流へ吐き出される仕組みとなっている。

 ダム最上部から底部まで続く巨大な縦穴という、維持コストがとにかく嵩む上に万が一の落下事故が起きたら大惨事となるこのタイプの放流設備を備えるダムは今はもう作られないが、その恐怖をあおる独特の見た目が物好きに人気である。

 

「イメージはまさしくあれです。怨霊を閉じ込める、霊道を塞ぐといったいわゆる『封印』処置をとる際には必ず設けられます。通常であれば霊が発する邪気は外気に溶けて希釈されますが、封印により密封されると逃げ場が無いので溜まり続けていきます」

 

 ダムに無限に水はためられない。邪気という水は無限に流入するのに、ダム本体の側に放流機能が備わっていなければどうなるか。

 

「そしていつか、封印は増し続ける内圧に負けて壊れます。あの柱が崩れていたのはそれが理由でしょうね」

 

 封印は壊れ、中に幽閉されていた怨霊は今また自由の身となった。それに気付いた一家はとるものもとりあえず逃げ出す事にしたのだろう。

 

「では、あれは神様なのでしょうか」

「神格を得るまでには至ってないようです。なので守り神になったつもりの強力な怨霊、というところですね」

 

 立場が人を作り、信仰が神を造る。

 そう在れ、と周囲に願われ続ける内にその気になってしまったのだろう。元々それが狙いの術だし。問題なのは安全装置の不備で早々に決壊した事と、設置場所に空気のよどんだ場所を選んだ事だ。

 不浄な場所にはよくないものが集まりやすい。もしかしたら設置者はこの術式の原理だけは知っていて、むしろそういうものを呼び寄せた方が効率的だと勘違いでもしていたか。不純物混ぜたらダメなんだからむしろ逆なのに。

 

「稲垣さん」

 

 マイクで向こうへ呼びかけつつ、傍らに置いた鞄の中身をチェックする。ここに詰まっているのは本当は対アイさん用に準備していた代物だが、思いもよらぬ形で出番が来る事になろうとは。

 

「今から私もそっちに行きます」

 

 双子を守るアイさんに他の面々も守ってもらう。

 稲垣さんへ伝えた当面のプランにはとある問題がある。それはアイさんが健在で、かつかの老人とは膠着状態なのを想定したプランである事だ。

 ただにらみ合っている状態と、既にバチバチに戦り合っている状態とでは稼げる時間に大きな違いが出るだろう。そしてアイさんが健在でなくなれば双子の周囲に居ようが居まいが関係なくなる。

 永遠に冷戦が続いていてほしかったのに、現実は冷戦のれの字もない全面戦争だ。娘を守る。無礼の代償を支払わせる。お互いに後の事は度外視で何が何でも殺しに行く理由が出来てしまっている。

 

 はあ、嫌だ嫌だ。ある程度格のある神様となると人間ごときの多少の非礼は相手にもされない事が大半。下位のやつほど些細なことに目くじら立てる。人も神も、他に取り柄のない奴ほど権威に拘る。

 

「皆さんが間に合いそうならそれで良し。そうでないなら私の方でも足止めを試みます。状況に変化があればすぐに知らせてください。撮影前に渡した巾着はまだ持ってますよね?」

 

 この鞄の中身とあの巾着があればある程度はやれるだろう。本当はどこかのタイミングで稲垣さんに使わせるつもりだったが予定変更。あれはこっちで使う。彼を立ち向かわせるのはあまりよろしくない。ルビーを突き飛ばすという形で直接的に妨害した稲垣さんもまた優先目標とされている可能性が高いからだ。

 

「では、また連絡しますのでそれまで……」

 

 稲垣さん達の方は既に最奥の部屋を出て二階廊下を足早に移動中らしい。

 引き続き逃げるよう、と言おうとしたところでスピーカー越しに息をのむ音が聞こえた。

 

「どうしました?」

『出てきた……』

 

 出てきたって、え、もう?

 

 予想よりも遥かに早い……いや、私の予想はあくまでも睨み合い。戦いは始まるまでが長いもの。構えて向き合うまでは永遠のようで、しかし勝負そのものは一瞬で終わる熟練の剣客の如く。お互い怒りに身を任せたノーガードの殴り合いでもしていたなら、決着そのものは短時間でついても不思議ではないか。

 

 これは急いだほうがよさそうだ。鞄のチャックを閉め、バンから出る。

 

「こっちも急ぎます。もし追い付かれそうなら、その時は近くの部屋に入ってください。あの巾着の中にお札とセロハンテープが入ってますから、それだけ抜いて袋は廊下に投げ出してください。部屋に入ったら、扉の上にそのお札を張って、もし鍵付きだったら施錠も。それで少しはもつでしょう」

 

 部屋に閉じこもる。これは単純だが意外と効果のある行動だ。建物、あるいは部屋。四方の壁によって外界から区切られた空間というのはそれ自体が簡易的な結界にもなる。

 その空間の主から招待されているかどうか、というのは霊的には非常に重要。だから無理矢理入ってくるのではなく、中の人間に自発的に扉を開けさせようとするのだ。

 今回のように家そのものに憑いている、最初から内側にいる霊には効果は薄いが、それでも内に閉じこもって明確に拒絶の意思を示せば時間は稼げる。

 

「黒川さん!」

 

 バンを出て移動する際中、本部を兼ねるもう一台のバンからスタッフが駆け寄ってきた。

 

「こ、これはどういう事ですか! 稲垣も応答しませんし、あなたの指示ですか!?」

 

 ああ、なるほど。稲垣さんとカメラマン、現場のスタッフ二人が突如勝手な行動を始めたのは私の指示と疑っているのか。実際そうである。

 

「説明は落ち着いてからします。それより皆さんも機材をまとめて撤収の準備を。あちらのカミキさんと斉藤さんも連れてあの門より向こう、この家の敷地外まで出てください。では、時間もありませんのでこれで!」

「ちょっと、ちょっと待ってください!」

 

 まだまだ何か言いたそうにしているスタッフから目をそらし、開きっぱなしにしてある扉から家に入る。

 

 ああ、近くにいるな。

 熱いとも寒いとも、痛いとも苦しいとも違う、何とも言えない特有の感覚が肌を刺す。経験者同士でしか通じないこの気持ち悪い感じ。

 とはいってもその霊能者ですら一人一人感じ方が違うので、必ずしも同業者なら分かってもらえるわけではないが。目で見るタイプ、肌に感じるタイプ、耳で聞くタイプ、変わり種だが鼻で探知するタイプというのもいたりする。

 

「稲垣さん、今どこまで」

 

 戻ってきてますか、と確認を取ろうとしたところで、耳元で鳴った音に思わず顔をしかめる。勢いよくドアを閉めた音が耳元と、廊下の少し先の方で同時に聞こえた。

 取り敢えず、どこにいるかは今のでだいたい分かった。

 

『あ、あれに先回りされました……今は一階の』

「大丈夫です。こちらでも確認しました」

 

 先回りされたか。やはりこの家の中は向こうの土俵らしい。廊下の角から頭を出して様子を窺ってみる。

 

 いた。ドアの前で固まっている赤黒い影が見える。

 腰の曲がった老人のように見えなくもない赤黒い塊が、ドアノブに手をかけているような姿勢をとっている。その足元から少し離れたところに転がっている巾着袋も見えた。袋の口が開いており、中身が少し見えている。

 遠目にこそ一人の人間に見えるが、よくのぞき込めば複数人の集合体のようにも感じる。見ていると江戸時代の浮世絵に複数の人間で顔や体が構成されている男という作品を思い出す。尤もあちらと違い人間だけでなく動物の鼻や昆虫の足みたいなものも混ざっているようだ。手あたり次第にそこらの命や霊を取り込みまくったか。

 不浄な不純物が多く混ざれば力そのものは大きくなるが、目指すべき神格からは逆に遠のいていく。ここの一家、多分まともに術の恩恵受けられてないと思う。ろくに利益を得ることなくただ単に強めの怨霊一体生み出しただけに終わったのだろう。

 

「では、後はこっちでやります。気配が離れたら直ぐに出てきてください。家の敷地外まで逃げれば一安心できるかと。外に出たらそのまま街中まで移動を」

『く、黒川さんは……』

「私も適当なところで逃げます。立場上、あなた方より先に逃げるわけにはいかないのでさっさと出てくれると助かります」

 

 角から飛び出し、廊下を走る。床に落ちていた巾着袋を拾い上げ、老人の後ろを走り抜ける。老人が一瞬こちらに意識を向けたが、すぐにドアの向こうに戻したのが背中越しに分かった。逃げた獲物によっぽど御執心らしい。

 

 つい先ほど一行が下りてきたであろう二階への階段前まで走り、老人から少し距離をとれたところで私は巾着の中から四角形のプラスチック容器を取り出す。

 主に食品の保存のために使われる、一般にタッパーとも呼ばれる保存容器のフタを剥ぎ、日本酒で満たされた容器の中に手を入れて小さな木箱を取る。さらに箱を固めるように張り付けてあったふやけたお札を千切って箱の蓋を開け、それを老人に向けた。

 

 随分獲物に御執心だった老人の首がぐるりとこちらを向いた。

 そうだよね。家を守るという役割を自負しているつもりでいるのなら、家を絶やすという真逆の目的で作られたこいつを無視などできまい。幼子の母を求める声を利用する、子供を材料に作られる呪物。知らずに家に置けば、家中の女子供に不幸が訪れ、お家の存続を不可能にしてしまうという。

 

 昇抜天閲感如来雲明再憎。

 捨てずにとっておいて良かったよこの箱。こんな形で再利用の機会が来るなんて。

 

 視界に入れたくないからと塩とお札でガチガチにして押入れの奥にしまい込んで置いたら、そのまま存在ごと忘却していたなんて事は決してないぞ。

 

 もしもの時にこれ使えるんじゃないかと思い出して一晩掛けて可能な限り力を込め直す作業に励んだ結果、開けた箱の近くに長時間いたら死ぬほど吐き気に襲われる程度には力が回復してくれた。物理的距離を取るために庭で作業したから家族にはほとんど影響出てないはず。

 

 

 さあ、こっちへ来い。そんなにお供え物が欲しいならくれてやろうじゃないか。そっちを連れて行こうとされるのは困るが、こっちなら食べてもいいぞ。今はかなり弱まっているが、それでも一説には源平合戦の時代にまで遡れるという歴史ある呪物だ。食いではそれなりにあると思うからこっちで我慢してほしい。

 

 ダメ押しにタッパーごと投げつけて酒を頭から浴びせてやると、足先と思しき部分が向きを変え、とても緩慢な動きで一歩踏み出した。そうだ、こっちへ来い。

 私は階段を駆け上がると、神棚が置いてあった最奥の部屋を目指して走り出した。

 

 

 

 爽やかで甘酸っぱい柑橘の味わいのジュースを片手に事態を眺めていた闇色の少女は反対の手に持っていたペットボトルのキャップを取り落としながら素っ頓狂な声を上げた。

 

「は?」

 

 宙を舞うキャップを素晴らしい反射神経でキャッチしたカラスに目もくれず、引きつった口角から誰にも聞こえない呟きを漏らす。

 

「あれ私があげたやつだよね。まだ捨ててなかったの?」

 

 箱を手にした者で、払おうとするやつ、嫌いな相手に送りつけようとするやつは何人も見てきたが、中身を詰め直そうとする馬鹿なんて初めて見た。

 その困惑は、何にも届くことなく闇に溶けていった。

 

 

 

 慎重かつ出来る限り迅速に階段を下りたアクア達であったが、下りた直後に腰元につけていたポーチから巾着袋を取り出して突如廊下に投げ出し、たまたま左手側にあったドアを開けて飛び込んだ稲垣の行動に呆気にとられてしまった。

 しかしきっと何か意味のある行動と判断しルビーを引っ張りながら自分も飛び込めば、さらに後ろの片寄とカメラマンも後に続く。

 

 たまたま飛び込んだ先となった浴室、その脱衣所に全員が入ってきたことを確認すると、稲垣はたたきつけるような勢いで扉を閉めた。

 

「どうしました?」

 

 震える手つきで鍵を閉め、読めない達筆な文字が書かれたお札らしきものをベタベタと張り付ける彼はこちらの声など聞こえてもいないようにまたどこかと通話している。

 

「先回りされました……」

 

 通話の内容までは聞き取れないが、聞こえてきた単語から、後方にいたはずのその何かが前方に現れたので咄嗟に手近な部屋に逃げたというところだろうか。

 しかし逃げたところでどうなる。浴室にも窓はあったが、大人が通るには難のある大きさだった。逃げ場のないところに立て籠もっても事態は好転しない。

 とはいえこんな素人でもすぐ思いつくような内容など専門家は当然対策済みだろう。余計な事はせず、ただいつでも動けるようにだけ備えておけば良い。

 

「く、黒川さんは……」

 

 どこかで聞き覚えのある名字が聞こえたような気がするが、きっと偶然だろう。ありふれてはいないが、特段珍しいわけでもない。何よりあの姉妹がこの現場にいる理由が無い。

 

「皆さん、あれが動いたら、すぐに逃げます」

 

 鍵のつまみに指をかけた稲垣が顔だけをこちらに向けて、小声で言った。動いたらとは言うが、動いてくれるのだろうか。相手の居場所が分かっているのだから、強引に押し入るか、ひたすら出待ちかの二択しかないように思えるのだが。

 何か動かす策でもあるのか、と繋いだルビーの手をもう一度握り直しつつ推移を見守る。

 

 相変わらず夏と思えないほど静かでよく冷えた空気の中、稲垣の一挙手一投足に注目が集まっていたその時。何も聞こえなかった外から突然足音が聞こえた。

 

「ひっ」

 

 誰のものかもわからない息を吞む音がした。今まで何も感じられなかったのに、これだけは全員がはっきり聞き取れた。扉の向こうまで来たときはアクアも体が強張るのを自覚したほどだ。

 足音はこちらに近づいてきた……と思ったら通り過ぎ、少しの間立ち止まっていたが、その後二階へと消えていった。

 

「行きましょう」

 

 固まった面々を引き戻したのは鍵の開く音であった。一人が走り出すと、ダチョウのように後に全員が続いて走る。邪魔者がいなければ、出口はもうすぐそこだ。

 

 

 

 扉をくぐると、そこは猟奇事件の現場であった。

 血とも泥ともつかない謎の液体が床から壁から天井までを赤黒く汚し、そこかしこに砕けた木片や布切れのようなものが落ちている。足の裏に妙な感触を感じたので足の下を見てみると、よく分からないぶよぶよの肉片のようなものをいつの間にか踏んでしまっていた。

 

 落ち着こう。これは現実の光景じゃない。

 

 強く目をつむって深呼吸をする。そしてもう一度目を開けば、そこにあったのは争いの痕跡など何も無い元通りの物置部屋。今のは私の霊感が見せた幻覚だ。それだけの戦いがさっきまでここで起きてたんだ。

 

 

 落ちていた神棚を拾い、そこに箱と日本酒のワンカップを乗せる。後は老人がここまで来ないうちに別の部屋に移動してやり過ごし、ここに入ったのを確認したら私も逃げる。その頃には一行も逃げ終わっているだろうし、これで任務達成だ。

 さあさっさとこんなところからおさらばしよう、と顔を上げた私の視界の隅に、何か白いものが映った。

 

 それはぐったりと垂れ下がる真っ白い手だった。腕をたどっていくと柱の穴にまで繋がっている。柱の中にうっすらと感じた気配は不本意にももうすっかり慣れ親しんだ彼女のもの。もう抵抗もできなくなった無力な相手より逃げた獲物を追う方を優先したようだ。見上げた執念である。後で母娘まとめて食べるつもりでとりあえずここにねじ込んだといった感じだろうか。

 捕らえた餌を巣穴に入れるとか行動がもう人間じゃなくて獣や虫のそれじゃないか。不純物混ざり過ぎで人間らしさすら消えかけてる。

 

 時間に余裕があるなら救助を試みてもいいが、今は私も早くここから出ねばならない。

 我が子の代わりになれたのなら母として本望だろう。もたもたしてたらあれがここまで来てしま……あれ、来ないぞ。

 

 追ってきてたはずの気配が近寄ってこない。それどころか離れていっている。まさかここまで来てまたルビーたちの方優先に切り替えた? どこまで執着する気なんだ。クマか何かかお前は。

 これは不味い。今すぐに再度気を引く手段が必要だ。何かないかと周囲を見渡した私の目に入ったのは、やはり真っ白い手だった。

 

 そうだ。この人にもうひと働きしてもらおう。

 

 元はと言えば私が原作に関わらざるを得なくなっているのはこの人のせいなのだ。しかし私はこの人から一銭も受け取っていない。金が無いなら体で払え、と要求しても許されるよね?

 

 そら、まだ逝くには早いぞ。娘はまだ危機的状況にある。人間でいえば重体レベルのダメージ受けてるだろうけど、もう一戦頼むぞ星野アイ。いや、もう死んでるから逝くも還るもないが、とにかく起きてくれ。

 

 

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