完璧で究極なアイドル様に執着されて 作:肉ぶっかけわかめうどん
苺プロのオフィスがどこにあるのか今まで興味もなかったし調べもしていなかったが、実際に足を運んでみると意外と距離がある事が分かった。
主要な駅からも離れているし、建物も小さい。お金無いんだろうなきっと。旧B小町、相当な稼ぎ頭だっただろうし。ぴえヨン氏がいなくなったら本気で経営危うくなるんじゃなかろうか。
まあ徒歩通勤も運動には良いかもしれない。そう思う事にして、私はオフィスのある階へと向かうべく年季の入ったエレベーターに乗り込んだ。
アクアはまだ動き始めてはいないようだ。カントクこと五反田監督は年中ヒマしているのでいつでも会えるが、鏑木プロデューサーは今日今すぐという訳にはいかない。まず彼とアポイントメントを取り、話をしてからでなければ何も始められない。
そちらが済んでから撮影開始、私の仕事もそれからだと思っていたのだが、連絡先を教えたミヤコさんが早くも出社の可否を尋ねてきたのだ。いや昨日の今日じゃん。焼肉店から戻って超特急で書類の準備したのか。
初めて足を踏み入れた苺プロのオフィスはピリピリしていた。日曜日だというのにご苦労な事に出社している社員が数名、皆思い思いの私服姿でパソコンを睨んでいたり、隅っこで電話を掛けていたりしていた。
突然やってきた学生服姿の異物に視線が突き刺さるのを感じながら、私は思った。そういえばここ私服OKの会社だったわ。じゃあ私も別に制服で来る必要なかったのか。休日の朝一から制服でどこ行くんだって親と問答しなくて済んだじゃん。
「あ、黒川さん」
「おはようございます」
一番奥、見紛うこともない一番偉い人のイスから立ち上がってきたミヤコさんが茶封筒を抱えて走り寄ってきた。
「朝早くからごめんなさいね。さ、こっちへ」
うっすらと化粧で隠しきれていないクマを目の下に付けたミヤコさんに応接室へと通された私は、言われるがままに出される書類へサインを繰り返した。
「ねえ黒川さん。何か資格とか持ってる?」
「資格ですか……これぐらいですかね」
私はミヤコさんに免許証を差し出した。そう、免許証である。
前回の地方買い出しで移動の足の重要性を改めて認識させられた私は、独り暮らしになってからの予定だったのを前倒ししてもう免許を取得してしまう事にした。
夏休みを利用して免許を取りに来る学生でごった返す上に金がかかり、かつ入校時に親と学校の同意がある事を確認される自動車学校には通わず、直接免許センターへ乗り込んで試験を受けたので親にはバレてないはず。
実は私、前世でも免許は持ってたんだよね。車とバイクの両方。生まれは田舎だったから車が無いと何もできない。
上京してくる時にどうせ置き場所に困るだろうから、と車を手放したが、つい先日そうなったようにたまに地方に出なきゃいけない時に困る事が分かったので新たに二輪免許も取得したのだ。とは言ってもバイク本体は買わず、必要な時にスクーターをレンタルして済ますつもりだったが。
どうせレンタルで済ますなら二輪である必要ないじゃん、車でも良いんじゃないか、と思うだろう。でも小さい方が楽なんだよ。
前世での初めてのお買い物の時、某酷道趣味の人らが大喜びしそうな道路を延々と走った昔の思い出が未だに消えない。なんならこの間もそうだった。ガードレールの無い普通車一台分の幅の道路を行くよう客たる私に指示されたタクシーの運転手さんの引きつった顔は記憶に新しい。
何であの同業者のお婆さんはあんな所に居を構えてたんだよ。子どもがろくに会いに来てくれないと愚痴を聞かされたが、だろうね、としか思わなかった。孫とふれ合いたいならもっと町に近い場所に住みなよ。
そんなこんなで二輪免許を取り、いざ使おうとレンタルバイクの料金を調べたのだが、そこで私は知った。実はバイクのレンタル料は車のそれより高いのだと。二輪は車より安くてお手軽だというのは私だけの勝手なイメージだったらしい。
だったら軽自動車で良いやとなって結局、二輪免許は数えるほどしか使わなかったが。
前世で持ってたから技能自体は何とかなるもあの教習特有のお作法を思い出しきれず一度は失敗したが、何とか中型二輪免許取得までこぎ着けた。これで後は何とか親を説得するだけだ。実際に買うかどうかはまだ分からないけれど。
やはり免許は早いに越したことはない。早く取ればその分ゴールド化するのも早くなるし。
「あら、バイク乗れるの?」
ミヤコさんは若葉を表すグリーンの免許証に目を輝かせている。いや、自分で出しといて何だが、二輪免許の出番なんてあるとは思えないんだが。これが普通免許なら社用車の運転手とかあるから分かるが。
「まあ、あっても仕事には関係ないとは思いますが」
「あるけど?」
あるんかい。
「ちょっとした用事とかで出る時に便利だからって壱護が原付を一台買ったのよ。あ、壱護ってのは」
「前社長で旦那さんでしたよね。存じ上げております」
「そう? で、車出すほどでもない用事って結構あってね。維持費安いし、どこでも停めれるしで重宝してるわ。うちに配信者部門が出来てからは一層」
配信者部門とは読んで字のごとく苺プロと契約関係にあるネット配信者を管轄する部門だ。彼らは会社に税金関連などの面倒極まる業務の処理、必要な機材の調達などについてサポートを受ける代わりに会社に配信の利益の一部を差し出している。
そんな配信者達のほとんどは自宅から配信を行っている。彼らとの連絡は基本的には電話とメールだが、書類のやり取り等はそうはいかない。こういった時は社員が直接配信者の自宅に出向くという。
「郵便じゃダメなんですか」
「それだとね、ダメなのよ。締め切りに遅れるとか、間違いだらけで書き直しぐらいならまだ可愛いもの。いつまで経っても返してこないから電話したら、忘れてた、しかも書類失くしたとかもうザラで。役所に出さなきゃいけない書類とかでそれやられたらホント大変なのよ」
昔に何かあったのだろうか、その時の怒りを思い出したようにミヤコさんが額に青筋を浮かべる。
「だからね、直接行ってその場で書かせるのよ。それなら忘れも失くしもしないから」
「な、なるほど……それなら確実ですね」
「これで売れてないなら契約破棄してやるところだけど、そういうのに限って数字は出すから切るに切れなくて……いや、皆が皆じゃないのよ。ちゃんとしてる人もたくさんいるんだけどね。こんなヤツでもウチには必要なんだって何度涙を呑んだことか」
確かに良く言えば個性的、悪く言えば頭がアレなやつの方が画面越しに見る分には面白可笑しいかもね。
配信者に必要なものは一にも二にもインパクト。動画タイトルとサムネイル、そして冒頭一分でどれだけ個性を見せつけられるかが勝負の世界。平凡な配信者の平凡なゲーム配信では初見さんは皆帰ってしまう。
「あー、今はそんな話は関係無かったわね、ごめんなさい。もしかしたら、あのバイクで買い出しとかお使い頼む事もあるかも。行ける?」
「お任せください」
「ありがとう。頼もしいわ」
外回りも私的には割と歓迎。今は業務用の支給の携帯電話に仕込んだGPSで社員の動向監視しているところもあるが、そうでないなら実質自由時間だしね。古き昭和の時代には、業務開始と同時に外回りへ出発、と見せかけて喫茶店へ直行とか普通だったらしいし。
GPSが普及した今の時代でも、よっぽど露骨にサボらなければ何も言われない。定められた休憩時間以外は絶対に休憩禁止、なんてしたら回り回って自分の首を絞める結果に繋がるだけ。最低限やる事やってるなら、トイレでも水分補給でもたばこ休憩でも好きにするが良い。グレーゾーンにしておくのが皆ハッピーなのだ。
ミヤコさんに言われるがままに各種書類への記入を進めていると、ここからが本題だと言わんばかりに目を輝かせたミヤコさんにそっと手を掴まれた。
「それで早速なんだけど……今日から入れる?」
おおう、即日働くことになるのか。今日は何も予定ないからそれ自体は別にいいけどさ。
「できますよ」
「よし、じゃあ早く書類済ませて仕事に入りましょう!」
ミヤコさんは私が書き終えた書類を流し読みしつつ、次々とハンコを叩きつける。最後の一枚は身元保証書だ。私の身元保証人はミヤコさん自身になっていた。保証人と社長、二つの欄に捺印し、これで手続きは終了となる。
全ての書類を鞄に押し込み、雇用契約成立となった私はそのまま数少ない今日出社している社員へと紹介された。ちゃんとした紹介と挨拶は全社員が集まる月曜日の朝という事で、名乗って頭を下げただけの本当に簡単なものだ。今日出社しているのは主に配信部門の人たちのようだ。笹野と寺林という二人の女性社員に紹介された。
そして最初の仕事としてミヤコさんに再び案内された先は、掃除用具入れ。
「10時からお客さんが来る事になってるから、応接室と会議室掃除しておいて。お客さんが来たらコーヒーの用意もね。道具は給湯室に揃ってるから。その後はさっき紹介した笹野と寺林の手伝い。何したら良いかは当人らに聞いて。何かあればまた指示する。OK?」
「分かりました」
初日、それも15分前に雇ったばかりの人間だというのに全く遠慮がない。しかし文句を言う余裕はない。もう8時は過ぎているから、10時まで残り二時間を切っているのだ。本当に遠慮がない。
大急ぎで借りたエプロンに首を通し、ハタキに掃除機、雑巾数枚とバケツを抱えて掃除にかかる。客はまず応接室に通されるだろうからまずはここから。ハタキで高いところの埃を落とし、雑巾で拭く。床に落ちている物をまとめて掃除機で吸い取り、ついさっきまで自分が使っていた机を拭く。ソファーは見た感じゴミや汚れはないので軽く拭くだけ。合皮は頻繁に掃除機掛けると逆に傷むからね。
会議室も同様に。本当は細かいところまで丁寧にやりたいがそんな時間はない。
何とか時間までに片付け、手を洗っていたタイミングでお客さんらしき複数人の男性の声が聞こえたのでコーヒーの支度。応接室に入っていく所を盗み見て人数を確認し、必要数のカップをコーヒーマシンに放り込む。
先ほど紹介された二人の社員がそれとなくこちらを気にしている視線を感じながら、出来上がったコーヒーと砂糖とミルク、スプーンを揃えて応接室に突撃。
そこらのコンビニとかならともかく、芸能事務所に高校生のアルバイトがいるのは珍しいのか、お客さんに色々話しかけられたので当たり障りのない対応を心がけて退出。お客さんが会議室に移ったのを確認したら空いたカップを回収して洗う。
これでミヤコさんから言いつけられていたタスクは完了。さて次は他の人たちの手伝いをしていろと言われたので仕事を貰いに行こうかと布巾を片付けたところで、その他の人たちが向こうから話しかけてきた。
「あ、終わった?」
明るい髪色の笹野さんと、黒髪の寺林さん。いずれも若い女性だ。二人とも苺プロの配信者部門担当との事だが具体的な仕事の内容は知らない。
「終わりました。次は何をしましょう」
「いやいや、一回休憩してからでいいよ。私らもだらだらやってるし」
「では、お言葉に甘えて少し休みます。お二人は今は何の作業をされてるんですか?」
「朝からひたすらネットで動画見てる」
事務所と契約してる全ての配信者の配信動画やSNSを開いて、問題ある言動が無いかチェックしているらしい。
それは仕事なのか、と聞いた当初は思ったが、よくよく聞いてみるとちゃんと仕事だった。
「今日のはまだ見れるやつだったからマシ。つっまんないのに当たると地獄よ」
「そっちはいいよね、ぴえヨンさんが担当にいて。まじめで優しいし動画面白いしで。こっちは変人ばっかり」
日曜の朝から会社に来て、面白くもない動画を早送りで再生する。監視の仕事なので聞き流すわけにもいかない。自分の趣味と合わない内容の動画だったら確かに辛いだろう。
「という訳で、疲れたんでちょっと休憩。社長もいないし、鬼の居ぬ間にってね。多分あと三時間はゆっくりできる」
「あれ、そこまで会議長引く予定なんですか?」
「会議はすぐ終わるだろうけど、その後近くのレストランで接待しつつお昼ご飯らしいから、しばらく帰ってこないでしょ。私らもコーヒー貰っていい?」
すぐにご用意させていただきますとも。暇そうにしてるのを初日から見咎められたくはないし。
休憩も兼ねて雑談しに来た二人と話していたが、特に共通点もない初対面では話題はすぐに尽きる。必然的に、残る安定の話題である仕事の話が始まった。向こうとしても、私が何ができるのか知らない事には雑用も頼めないだろう。
最初はプリンター、ファックス、シュレッダーといったどこのオフィスにもある常連機器の操作から始まり、次はパソコンに話題が移った。
「で、黒川さん。パソコン使える?」
お、出たな定番の困る質問。質問者がどの程度を想定しているのかが分からないので迂闊に答えられない。
手足の如く使いこなす人から、そもそも電源の入れ方切り方から教えないといけない人まで千差万別。
「パソコン使える、の基準はどこに?」
「そりゃ勿論、office使えるかどうか、よ」
ワード、エクセル、パワーポイントといった定番のソフトウェアを一まとめにしたアレか。それなら齧った程度の知識はある。こちとら元OL。使う機会はそれなりにあった。
それホントにエクセル? と疑いたくなるような芸術作品は無理だが、簡単な資料作成ぐらいで良いなら昔取った杵柄と胸を張れる。
「いけます」
「まじでか。じゃあちょっとこれやってみてよ」
笹野さんのパソコンを借り、いくつか適当な数字を打ち込み、指示されるがままに計算と処理を進める。
「こんな感じでどうでしょうか?」
「……うん。普通にできてるわ」
よかった。エクセル弄るなんて17年ぶりだけどまだ何とか使えた。関数なんてもう一つも覚えてなかったけれど、入力支援機能の呼び出し方だけは頭に残ってた。
「んー、何してもらおうか悩むなぁ」
笹野さんはイスの背もたれにもたれかかりながら大きく伸びをした。ついでに欠伸もしながら考え込み、何も思いつかなかったのかぐったりと手足をだらけさせた。
「……とりあえず、一緒に動画見よっか」
まだまだあるんだよね、と笹野さんはうんざりした声で言った。
「無駄に耐久配信しやがって。見る側の気持ちにもなれっての」
人気配信者が節目や何かの記念にやるならともかく、不人気配信者の長時間配信とか敬遠されるだけだって、と天井に向けて愚痴る。
その後は指定された動画を見ながら、気になるポイントがあればその時間をメモするだけの仕事を夕方まで続けた。まさか今日からいきなり仕事とは思っていなかったので一度近くのコンビニで昼食を確保し、ちまちま齧りながら動画を垂れ流しつつ時折三人で再生回数改善の為の意見を出し合うのんびりとした一日を過ごした。体はともかく目が疲れた。
星野アクアは昼時のイタリアンレストランで交際中の彼女と共にのんびりと羽を伸ばしていた。昨日はようやくアポイントメントを取れたスポンサー候補に出資をお願いしに行き、夜遅くまで接待をしていた。その甲斐あってか前向きな返答をもらえたのは大きな成果だ。
少ない睡眠時間でも肉体的な疲労は殆ど残っていないのは流石の若い身体だが、精神的な疲労はそうはいかない。次のアポイントメントはまだ先なので今日は一日のんびりする日と決めて、黒川あかねを食事に誘う事にした。撮影が始まればしばらくは二人の時間も取れなくなるであろうし。
「……あおいの様子はどう? 迷惑かけてない?」
きのこを用いた秋らしさたっぷりの創作パスタに舌鼓を打ちながら何気ない話に興じていると、あかねから妹の様子に関する話題が出だ。
黒川あおいがアルバイトとして働きに来るようになって一週間。まさか話をした翌日に採用と聞いた時はアクアも驚いた。忙しいのは知っていたつもりだったが、そこまで人手に飢えていたとは。
「よくやってると聞いた。ミヤコさんにもずいぶんと気に入られてたな」
本人の前ではおくびにも出さず、アクアにしかその話はしなかったが、斉藤ミヤコは黒川あおいの仕事の実力を不安に思っていた。見た目の印象と社会の歯車としての能力は全くの別物だからだ。
試験や面接では非常に好印象だった鳴り物入りの新人が仕事ではまるで使えなかったり、逆にどうせすぐ辞めるだろうと思われていたのが意外な成長と活躍を見せる。人事の難しい部分である。
学業は平凡、所属する部活は帰宅部で、アルバイト等の経験一切なし。どれだけやれるか不安もいいところだった。夏の心霊ロケで垣間見た霊能者としての一面から、金を貰う事に対する責任感はありそうな事ぐらいが期待できるポイントか。
アクアは黒川あおいもまた前世持ちと知っているため、何かしらやれる仕事はあるだろうと信じていたが、それをミヤコに言うわけにもいかず楽観論で言葉を濁すしかなかった。
「最初はただの雑用だけだったが、もう他の仕事も手伝うようになっているらしい」
一昨日事務所に顔を出した際に見た時は、数か月前に転職でいなくなった社員の物だった空きデスクを引き継ぎ、支給のPCのキーボードをせっせと叩いていた。雑用担当アルバイトがどうして資料作成してるんだと問いたくなるが、一応雑用も雑用でこなしていた。
平日は夕方、土曜日は朝から来て雑用に励み、それが終われば正社員に交じって事務作業。さすがに重要度の高い書類は回されないが、そうでないものはどんどん投げられる。さらに人脈が命の芸能事務所に欠かせない取引先との接待飲みにも気の進まぬ先輩達に代わって参加する。
というか先日のスポンサー候補との接待の場にも当然のように居た。グラスが空けば注いでやり、煙草を取り出せばライターを構え、くだらない話が始まれば笑顔で聞いてやる。現役女子高生のやたら手慣れた接待ぶりに相手はすっかり気をよくしていた。前向きな返答を得られたのには少なからず彼女の貢献もあっただろう。
面倒な作業を代わりに抱えてくれるこのアルバイトはたった一週間で早くも職場に受け入れられつつあった。誘った側が言うのも何だが、正直アルバイト、それもほぼ最低賃金にやらせる仕事ではない気がする。映画が成功に終わったなら、礼としてそれなりの額を包むとしよう。
「そう……昔から、あおいは何やらせてもそつなくこなしてたし、仕事だってやろうと思えばできるよね。私なんかが心配するまでもなかったか」
安心したように、だが嬉しくはなさそうなあかねの態度にアクアはどこか引っかかりを覚えた。が、そこにアクアが触れるべきか逡巡している間にあかねは次の話題に進んでいた。
「あ、そうだ。映画の方は順調?」
「あ、ああ、順調に進んでる。ここまで調子よく進むなんて思ってなかったよ」
「じゃあ来月にはもう予定通り撮影始めるんだ」
「そのつもり」
迂闊に指でつついたら崩れてしまいそうな柔らかいあかねの笑みに何も言えなくなったアクアは、問われるがままに答えるのみだった。
「ふーん。で、映画の主役って誰がするかもう決まった?」
「……あー、主役か。それなんだけど」
しかし、次の問いには言い淀まざるをえなかった。
当初、主役たるアイ役には黒川あかねを充てるつもりでいた。他に務まる人間はいないとアクアは考えていたのだ。そしてあかねもその役は自分がするものだと思っていたに違いない。
だが今のところ、候補は四人にまで増えてしまっている。
「今交渉してるスポンサー候補のうちの一つが、不知火フリルを主役にする事を希望してるんだ。それと、鏑木プロデューサーからは神木プロの片寄ゆらを使いたいとも言われた」
「あおいの言ってた通りになってるのね」
「……そうなるな」
不知火フリルと片寄ゆら。先週の焼肉店で話した通りに未来が展開されていると言える。
しかしこの二人は一応候補に入っているだけだ。オファーは出したものの、二人とも人気のある女優であるため出演してくれるかどうかは不明である。こんな映画よりもっと割の良い仕事が二人にはいくらでもあるだろう。
仮にオファー先がルビーで、自分が社長の立場だったら間違いなく断っているだろう。どこの馬の骨とも知れない弱小の企画する炎上の危険のある映画の主役などというハイリスクローリターンな仕事なんて絶対に認めない。自分で言ってて少し悲しくなるが。
問題は最後の一人だ。
「他には?」
「その、ルビーが、自分がやりたいって……」
映画の話が始まった時からずっと、ルビーは自分がアイ役をやりたいと言っていた。何度も。
言い辛そうにお出しされた妹の名前に、あかねの目が細まった。
「アクア君」
「あくまで候補だ。やりたいと立候補した以上は候補には入れる。最終的に誰にするか決めるのはまだ先なんだ」
「ねぇ、私、あの子の事嫌いじゃないし、冷たい言い方したくないけどさ……できると思う?」
「……」
プライベートでの好き嫌いと、仕事のそれは別。ろくに経験の無い星野ルビーにその役目を遂行しきる実力があるかはかなり怪しい。それが黒川あかねの正直な意見だった。
経験者のアクアとてそれが分からないほど、あるいは分かった上でそれでも推すほどの身内贔屓はさすがにしないだろうとも信じている。
「アクア君が妹に甘いのはよく知ってるけどさ、それでも可愛い妹だからって理由だけでそんな配役する人だなんて思ってない。何か理由があるんでしょ。アクア君から見てどうなの? 役者としての『星野ルビー』は」
「……はっきり言って、厳しいだろうな」
盆の心霊特集の再現ドラマでよく分かった。ルビーは何の役をやってもルビーだ。
自分の色を徹底して消し役に染まるあかねと対極。自分が周囲に合わせるのでなく、自分に周囲を合わさせる有馬かなに近いタイプだ。これで彼女並みの実力があればその強烈な色も個性として受け入れられるのであろうが、現状ではただの三流役者扱いにしかならないだろう。
「じゃあ何で……あっ」
あかねの細められた目が、突如何かを思いついたかのように見開かれた。
「もしやとは思うけど……あおいに何か吹き込まれた?」
どうしてこう鋭いのか。
「……そうだ」
アクアは素直に認めた。ルビーが主役で良いんじゃないか、という意見があった事を。
数日前に事務所で遭遇した際に、軽い気持ちで映画の主役の話を振ったアクアに、黒川あおいはそう返したのだ。
世間のイメージに引っ張られない、本当の彼女の姿を描きたいならルビーもまた有力な候補。
持たざる者の苦しみは、持たざる者にしか理解できない。
誰かを愛したり、誰かに愛されたり。ただ普通でありたかっただけの星野アイの苦しみ。これを真に理解できるのは寝たきりの孤独な闘病生活を過ごした、同じく普通の人生を送れなかったルビーだけだろう。
誰でも普通にできる事、誰にとっても常識。普通を共有できない苦しみをルビーは知っているが、黒川あかねは想像するしかない。
黒川あおいの意見の全容をあかねに伝える事はできない。言えるのはただ、彼女はあかねよりルビーの方が相応しいと考えているらしいという点だけだ。
「そう」
そう伝えた時のあかねの表情から、アクアはあかねが何を思っているのか読み取る事は叶わなかった。