足元は虚空、何も踏みしめるものがないにも関わらず、五条はその場に立っていた。周囲には曲面状の壁と呼べるものが覆っており、その壁に沿うように無数のリングが張り付いている。
「領域は心象風景の具現化だなんていうけれど、随分インダストリーな景色じゃん?」
ぐるりと周囲を見渡した五条は相対する呪霊にそう感想を述べた。確かに呪霊の外見は如何にも野性味あふれる獣のそれだ。だと言うのに、この領域は些か不自然な組み合わせだった。
そして、六眼越しにその無数のリングから電磁波のように術式が放射されているのも確認できた。
《領域に取り込まれ、くだらぬ感想を並べたてる余裕があるのか?我の領域『餓乱譚禍』はあらゆる分子を振動させ、熱を生み、崩壊を促す…人間ごとき全身の水分が沸騰し、瞬く間にその臓物を晒す事になる》
術式の開示、これにより術式はより強い効果を持って五条を苛むことになる。
獣人とも呼べる上半身に変形した呪霊は、その頭部こそ大きな変化が見られないが、はっきりと牙の生えそろう大口を歪めて嘲笑う。
《早々に貴様も領域を展開するか、脱出せねば二度と外は拝めぬぞ…無論、出来るのなら、と付くがな》
領域内に引き込まれた時点で五条は普段以上に呪力を込めて無限を展開し、自身に浴びせられる術式を防いでいた。
しかし、それも術式開示をされた今となっては術式を中和され、突破されるのも時間の問題だ。
「ご忠告どうも、言われなくてもそのつもりさ。ただその前に色々と聞いておかないといけないことがあるんだ」
《この期に及んで聞きたいことだと?ふん、良かろう今際の願い程度は聞いてやる》
怪訝な表情を浮かべるのも一瞬、不敵に笑みを浮かべながら五条の言葉に耳を傾ける。
「…君、ただの自然発生した呪霊じゃないだろ?」
《…そこに気づくか、若造》
「難しいことじゃないさ。確かにこの旧犬鳴トンネルは心霊スポットとして全国有数の知名度を誇る。けど、それが分かっているからこそ、そうした場所はこっちも常にマークしてるんだよね」
全国に数多ある心霊スポットや自殺の名所といった場所は負のエネルギーが溜まりやすく、その結果として、呪霊の大量発生や力の強い呪霊の温床になる危険が非常に高い。
そのため、総監部は地方の呪術師とも協力し、こういった場所の監視を行っているのだ。
「だけど、その監視の目をすり抜けて君みたいな特級が顕現した…。本来あり得ない話だ。力の強い呪霊ほど身を隠すのは容易じゃなくなる。監視の呪力感知にすぐに引っ掛かるはずだ」
《ほう…それで?》
いつでも殺せるという余裕ゆえか、聞き入りながらも続きを促す。
「考えられる可能性は二つ。その一、ここの担当をしている監視役の術師の誰かがわざと見逃した可能性。その二、そもそも監視役の誰かが君を作った可能性」
そこまで聞いて、呪霊はそれまでの笑みを潜めると、少しの間を開けて大声で笑い出した。
《ふは…ははははっ!若造、やはり貴様は馬鹿ではないらしい。…まぁ良い。答えてやろう、正解は……二つ目だ》
その返答に眉をひそめることになった五条は、間をおかずに突撃を仕掛けてきた呪霊の爪撃を巧みな身のこなしで回避する。
こちらを余計に動かせ、呪力消費を早めるつもりらしい。
(監視役の術師がこいつを作った…いや、より正確には元になる触媒を用意したんだろう。そもそもトンネルに集まる呪力だけでここまでの存在にはなり得ない…となれば)
「土地神か」
《っ!》
五条の溢した言葉に攻撃の手を止めた呪霊。
それを見た五条はさらに続ける。
「犬鳴の由来になった伝承には、哀れな忠犬が飼い主に撃ち殺される話があった。そして名は存在を定義する。このトンネルもそれが存在する峠そのものも…そして、ダムの底に沈んだ犬鳴谷村も…名前そのものが伝承の犬の呪いを被ってるようなもんだ」
《…黙れ》
途端に滲み出す怨嗟を含んだ声。
「そして、君のその姿…当時の村に犬神信仰をしていたなんて記録はなかったけど、密かに犬の祟りを恐れて祀っていた人間もいたんだろう。そうして犬鳴という土地そのものに食い込む土地神の一種が成り立った…紫鶴が最初に言った犬神信仰もあながち間違ってなかったわけだ」
《黙れ!》
呪霊の脳裏には遥か昔、まだ自分が土地神などと呼べるようなものになる前の記憶が過ぎった。
確かに伝承の通り、彼は村に住んでいた猟師の飼っていた猟犬だった。
しかし今に伝わるそれとは実態はいくらか異なっていた。
同じ腹から生まれた弟が二匹、そして、その日はいつものように主人とともに狩りに出ていたのだ。
途中、弟の一匹が何かを察して声を上げた。すぐさま彼ともう一匹も危険な気配を察し、主人にそれを伝えようと吠え立てたのだ。
だが、遅かった。
飼い犬の唯ならぬ様子に恐れた主人が引き返そうと背を向けたその時、薮から飛び出した黒い大蛇のような化け物が主人の首を攫った。すでに主人の息はないと知りながらも兄弟と応戦したが、結局、弟たちも食われてしまった。
命からがら村に逃げ延び村民に助けを求めたが、誰一人として主人を思う猟犬の悲痛な鳴き声の意図を知ることはなく、喧しいと打ちすえたのだ。
そのまま程なくして、負った傷が原因で彼も力尽きた。
(今思えばあの化け物は呪霊だったのだろう。あれと同じ呪霊に成り果てた今でもはっきりと思い出せる。優しかった主人の顔も、賢く共に主人に尽くした兄弟も…そして、我の悲痛な叫びを疎ましいと打ち据えておきながら、祟りを恐れて祭り上げた憎き人間たちの顔が…!)
この男の語る全てが忌まわしい記憶を呼び起こし、神経を逆撫でする。変質してしまった魂が人間が憎いと叫びを上げる。
「村は谷底に消え、祈るものもない。そもそもの成り立ちが祟り神みたいなもんだ。呪力との相性もさぞ良かったんでしょ。土地に纏わる名の呪いは十分、あとは呪力の依代になる核だ。村一帯はダムの底…御神体や祭器の回収なんて現実的じゃない。大方、他所の犬神やら狼信仰に伝わる儀礼用の呪具でも使ったん…」
《黙れといっているっ!!!!》
怒りと憎しみの感情がそのまま呪霊の体から溢れ出す呪力となって吹き荒ぶ。
答え合わせの何かが呪霊の触れられたくない地雷だったのか、負の感情がそのまま存在をより強固にしているのだろう。
(…当たりってところか。まぁ、予想通り今回の件もこっち側の術師が手引きしていたのは掴めた。この呪霊も大方、作られたこと以外は大したことは知らないだろうし…潮時か)
「そう怒るなよワンちゃん、僕は貰った返答を元に予想を組み立てただけで、全部正解ってわけでもないでしょ」
サングラスを外した双眸には透き通る青の輝き。
すらりと伸びた右手の指が掌印を組む。
『━━━━領域展開・無量空…っ!』
しかし、その時だった。
五条の領域が展開される直前、彼の六眼が想像しなかったものを見たのは。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「今、領域展開をすると…そう言ったのですか?」
領域展開は呪術師の最終到達点のようなもの。
それを訳ありとはいえ三級の、それも術式を知覚して4ヶ月程度の彼がやると言ってのけたのだ。
流石に驚きを隠せない様子の彼女だが、こんな時に虚偽を伝えるわけもない。
「はい…信じられないかも知れませんが、今の僕にはそれが出来る確信があるんです。…もちろん、領域を上手く閉じれるかは分かりません。不発に終わるか、あるいは発動しても制御できずに範囲内の味方に術式が当たるかも知れない…。それでもここに残るんですね?」
これは最終確認だと、そう言う意思の感じられる問いかけ。
驚きはしたが疑うわけではないし答えは返すまでもないと、そういった面持ちでただ覚悟を決めた眼差しを返す彼女。
「…分かりました。…奈沙さん」
「なんでしょう」
「僕が貴方に伝えた気持ちは本気です。だから、もし僕の領域が貴方を傷つけるかも知れない時は…」
「━━━━━迷わず、後ろから僕を殺してください」
一か八かの大博打、本来なら付き合わせたくもない。
だが、彼女の責務がそれを許さない。
かといって、自分の手を彼女の血で汚してしまえば、僕は自分がその後もまともでいられるか自信がない。
彼女が信じてくれたから、やると言う覚悟だけは決めたものの、それでも不安が消えたわけじゃない。
だからこその選択だ。
呪力が尽きかけているとはいえ、領域展開中でも背後から僕を殺すくらいは出来るはずだ。
「…分かりました。ですが、もし私にあなたを殺させたのなら…一生恨みます」
それは彼女が告げる精一杯の
『領域展開』
掌印も領域が冠する名もまるで最初から知っていたかのように、魂の奥底から浮かび上がる。
『━━━
狙いは一つ。
呪霊が展開している領域をさらに大きな領域で覆い、比較的脆い外側から破壊することだ。
僕を中心に四方八方へと急速に領域が拡大していく、特級呪霊のものより大きいものを展開するのだから、消費される呪力が尋常ではない。
だが、その点を解決する術が僕にはある。
領域を広げながら同時に術式を使用するのだ。
術式の呪力共有により、無数の並行世界から自分に呪力を持ってくることで消費を上回る回復を行う。
RPG風にいうならば、実質MP消費なしの大魔法だ。
そしてついに周囲の景色を侵食していく領域が呪霊のものを覆い隠し、外の景色が遮断された。
(…閉じることには成功した!領域同士の中和が効いているうちに高火力で叩く!)
「砕けろぉぉ!!!!」
雄叫びとともに渾身の呪力を込めてギャラクシー呪力砲を撃ち込む。
無防備な外殻に膨大な呪力出力を誇る一撃を受け、瞬く間に呪霊の領域にヒビが走り、ついにはガラガラと音を立てて砕け散った。
《馬鹿な!外から我が領域を砕いただとっ…⁉︎》
突然の強襲にこちらを振り向きながら驚愕の声を上げる呪霊、そしてその向こうには、掌印を結んだ状態で目を丸くする先生が見えた。
「まだまだ未完成…それでもこの規模の領域を自力で閉じたなんて、やるじゃない紫鶴」
良いところで出鼻を挫かれたものの、その感情を上回るサプライズに思わず笑みをこぼす先生。
(さっきの妙な様子…自身の生得領域に触れる何かが紫鶴の内で起きたのか?理由は分からない、けど連れてきた甲斐はあったってことか)
生得領域とはすなわち心、領域展開はいわば現実に写された心そのものといえる。
自身の領域を砕かれた呪霊の目にした光景は、まさしく異様と言えるものだった。
《なんだこれはっ!小僧!これが貴様の領域だとでも言うのか⁉︎》
術者である僕と標的である呪霊の足下から、無数に広がり伸びる光の路。それらが縦横無尽に領域内を駆け巡り、大樹の枝の如く絡まりあい、この世のものと思えない空間を形成している。
(これが紫鶴さんの領域展開、何という規模と出力…!)
五条が評したように確かに未熟なものの、それを術式を介した無限の呪力という特権により、力技で強引に成立させている。
おかげで展開に要した時間もかなりのものだった上に、回復できるとはいえ必要以上に呪力を消費してしまったのだが、それはこの際目を瞑ってほしい。
(まだ洗練する必要があるのは自分が一番わかってる…!でも今は形にできただけで十分だ!)
ここまで持ってくれば一先ず暴発はないだろう。
味方を巻き添えにする最悪の事態だけは避けられたことに、僅かながら安堵した。
「…五条先生、すみません。ちょっとうたた寝しちゃったみたいです」
「あははっ、意外と図太いよね紫鶴は。まぁ領域の練度については今後の課題として、短時間でここまで形にしたんだ。今日は及第点つけてあげるよ」
真っ直ぐに僕を見つめる青い双眸。
「……あとは任せても?」
先生が挑戦的な表情で僕に問いかける。
言われるまでもなく、最初からそのつもりだ。
「任せてください」
僕の言葉に表情を和らげた先生は、分かったと呟くなり姿を消した。そして、一瞬で僕の背後にいる奈沙さんを庇うような位置に現れる。
「こっちは気にしなくて良い、君は今できる全力を出しなさい」
「はい!」
この場で最も厄介な相手を領域に引き摺り込み、半ば勝ちを確信していただけに、この強襲は相手の動揺を誘ったらしい。
なぜなら、領域展開直後は術式が焼き切れることにより、しばらく術式が使えなくなるという致命的なデメリットが存在するからだ。
つまり、今の奴は無防備そのものと言える。
《小僧…寸前まで貴様はこの域に届いていなかったはずだ。どういうわけだ…我を謀ったということか?》
確かにさっき迄の僕ならこんな真似は逆立ちしてもできなかったろう。しかし、あの記憶が蘇った時、僕は自身の魂とも呼べるものの輪郭を掴んだ。それが同時に自身の生得領域を朧げながら理解することにつながったのだ。
「騙してはいないよ。ついさっきまでこんなこと確かにできなかったし、やろうとも思っていなかったからね」
《ならば何故だ…何が貴様を短時間でその域に立たせたのだ》
心底解せないといった様子で再度問いかけてくる呪霊。
だが、それを答えるつもりはないし、それより先に僕にも聞きたいことがあった。
「そんなことより、君の心配をすべきだと思うよ。まぁでもその前に、僕にも聞きたいことがあるんだけど」
《貴様もか…良い。どの道この状況、我の詰みだ…答えよう》
呪霊というには随分と潔い。
見た目通りに弱肉強食を理とする野生生物的な本能が強いからかも知れない。
そういうことならば遠慮なく聞かせてもらおう。
「…呪霊を使役、または作り出す力を持った人物に心当たりは?」
《ある、我が顕現するための触媒を用意した術師がいる》
それを聞き、あの日の凄惨な景色が脳裏に浮かび思わず拳を握りしめる。
「…君はその術師に使役されていないのか?」
《我は自らの意思でここに居る。無論、最初は使役するつもりだったようだが、術師一人程度で我を縛ろうなど片腹痛い》
まとめるとこうだ。
この特級呪霊を発生させるために、実行犯の術師が触媒を用意してこの場所に置き、その後に発生したこの特級呪霊を縛るつもりだった。しかし、予想より強い力を持っていた呪霊の前に術式で押さえ込むことができず断念。
結果としてこの呪霊だけが残り、多数の被害を招いたというわけだ。
何とも迷惑な話だ。
「その術師のことを知りたい」
《顔を隠しておったゆえ断言はできん。だが声や仕草、背格好から男であろうな。我には他で作り使役したのだろう呪霊を繰り出してきたが、全て喰ってやったわ》
自身で手のつけられないような呪霊は使役できず、男の可能性が高い、そして、わざわざ触媒を用意して呪霊を作成したあたり、自分で作った呪霊しか使役できないという縛りがある可能性もある。縛りについてはまだ予想だが、可能性は高いだろう。
「…最後に、呪霊を集めている理由について何か知っていることは?」
《手に負えぬと見るなり男がその場を引いたゆえ、それ以上のことは知らぬ》
どうやらこれ以上の情報は期待できそうにないらしい。
《質問とやらは終わりか?》
「…うん、ありがとう」
情報に対する感謝を述べつつ、領域に付与した術式を起動する。
「僕の術式『無窮界交呪法』の能力は並行世界との接続。無数に存在する可能性の自分とオリジナルである僕を接続することで、呪力の共有、肉体状態の上書きを可能にする。つまり、致命傷を負っても生きてさえいれば、無傷の自分がいる世界に接続、状態の上書きを行い復活可能。さらに呪力の共有によって、無数の自分から呪力を譲渡することで、実質的に無限の呪力を手に入れることができる」
そしてそのまま領域展開の術式開示に移る。
「千界毀滅廊…この領域は無窮界交呪法による並行世界との接続が相手に対して必中になる。今まで術式単独ではできなかった相手への干渉が可能になっているんだ。接続する並行世界とそれに伴い共有される呪力量の増減、肉体状態の上書きは僕が指定して行える。結果、僕はあらゆる相手を無力化、もしくは死に至らしめる選択肢を自由に選択可能になる」
《ふん、大層な力だが、無理矢理に形を保っているのが我にも分かる。この程度の相手に裏をかかれて敗北するなど、屈辱の極みだ》
「ごめん。でも、質問に答えてくれたお礼に選択肢をあげるよ」
「━━━━どんな最後がいい?」
《……随分と悪趣味な選択肢だ》
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「紫鶴、お疲れ様」
「……先生」
どうにか自力で払ったものの、直後に僕はその場に倒れ伏した。
視線の先には小刀のようなものが落ちている。
おそらくはあの呪霊の核に使われていた呪物だろう。
「紫鶴さん!」
そんな僕を見て慌てて駆け寄る奈沙さん。
ちょっと泣きそうな顔なのが申し訳なくなる…やはり彼女は優しい人だ。
大丈夫と言って自分で歩きたいところだが、今回ばかりは本当に動けない…。
初の領域展開をぶっつけ本番、しかも通常よりも遥かに大きな規模で展開したのだ。力技で無理矢理形を保ちながらさらに術式を捩じ込むなど、普通の術師なら呪力の容量がマイナスを突っ切って死んでいるレベルだろう。
術式を使う気力がないせいで呪力の回復ができない…完全にすっからかん、これが呪力が尽きる感覚か。
何だか新鮮だった。
「指も動かせないって感じだね」
今の僕は先生の小脇に抱えられて、中山さんとの合流地点に向かう道中だ。
ていうか、荷物みたいに持たないで背負うなりして欲しいのだが…そんな気遣いはこの人には無理そうだ。
「領域なんてぶっつけ本番で使うものじゃないですね…」
そりゃ最終奥義だし、とヘラヘラしながらツッコまれる。
「今後の課題が見つかって何より。紫鶴は呪力切れより気力切れを警戒する必要があるね。呪力が有り余っていても、複雑な君の術式を維持する意識が欠ければ、こうして今みたいに残念な姿になる」
人を残念とは何事だ。
とはいえ、確かに先生の言うとおり、気力が尽きて術式を維持できなくなれば、優秀な術師だろうとただの人間にすぎない。
「僕みたいに呪力を精細に視認できる目があれば、いくらか呪力操作の難易度も下がるんだけどね」
先生の無下限呪術は、五条の家の人間ならば持っている術師は数人いるらしい。ただ術式を最大限に活かすには、人間離れした精密さの呪力操作が要求されるために、使いこなせる術師がほぼいないのだと言う。
先生がそんな術式を使いこなせているのは六眼があるからだ。曰くサーモグラフィーのように呪力が視認できるとのことで、それを利用して無下限呪術に要求される呪力操作をやってのけているらしい。
そして、僕の無窮界交呪法。
先生が言うには術式の複雑さは無下限呪術に匹敵するらしく、僕の術式行使は先の領域と同じく力技で形にしているだけなのだそうだ。
そもそも、僕以外に存在を知覚すらできない並行世界なんてものに人の身で干渉しようと言うのだ。燃費は最悪と言えるそれを、呪力共有による無限のMPで乱用しているだけにすぎない。
流れとしてはこうだ。
術式により並行世界に接続開始→呪力多量消費→ほぼ同時に呪力共有で全回復→以降は接続維持したまま状況に応じて肉体の上書き、呪力共有を行う
デメリットがメリットで帳消しになっている構図だ。
こんな100か0かみたいな呪力の増減を繰り返していれば、先に神経の方がやられるのは当然。領域展開なんていう呪力操作の難易度も跳ね上がる技術をいきなりやろうとすれば尚更だ。
この荒さを少しでも洗練させて無駄を省こうと思えば、先生のように六眼を持つことが一番手っ取り早いのだろうが、残念ながら僕にそんな特別な目はない。他の術師と同様に注意深く見れば、残穢や呪力の痕跡を見ることはできるけど、術式を補助できるレベルには到底届かないのだ。
ゆえに僕がこれから磨き上げなければならないのは、結局のところ、これまで通り呪力操作の技術ということになる。
「呪力操作も突き詰めればバカにできないからね。術式なしでも特級と戦える次元に立てるといったらその凄さも分かるだろ?」
「術式なし…ですか」
あんな化け物連中と術式なし…つまりは基本的な体術と呪力操作のみでやり合うなんて、僕に言わせれば正気の沙汰ではない。
「そ、例えば呪力による肉体強化の強度、速度、精密性が高まるだけでも戦いやすさは段違い!呪力の多い術師ほどその強化の度合いは飛躍的に高まるし、力量次第では相手の術式を完封できる」
「本気で言ってます?」
「本気も本気!特に紫鶴は体を鍛えても意味がないからね。接近戦に持ち込まれた時、呪力操作による強化の完成度が高いほど有利を保ちやすくなる」
先生の言う通り、僕は天与呪縛による縛りで肉体の成長が止まるだけでなく、どれだけ鍛えても筋肉がつくことはない。
単純なフィジカルは小学生相当、実戦においては呪力で強化して無理矢理受けているだけで技術も何もあったものじゃない。
「…なんて言ってるうちに到着〜」
いつの間にか合流地点に着いていたらしい。
先に中山さんと合流し、後始末の段取りをしていた奈沙さんがこちらに気づくなり駆け寄ってきた。
「お待ちしていました。お二人のおかげで今回の一件、どうにか納めることができました。本当にありがとうございました」
そう言って深々とお辞儀をする彼女の表情は柔らかなものだった。自分が守らなければいけないと、当主ゆえの責任に駆られているようだったから、その重圧から少しでも解放されるのなら協力した甲斐もあったと言うものだ。
「感謝なら僕の自慢の生徒にしてあげてよ」
「それはもちろんなのですが…その…」
「…下ろしてください」
「あ…忘れてた」
ようやく下ろしてもらえたが、ずっと小脇に抱えられていたせいで体がくの字に慣れてしまったのか、立った瞬間軽い腰痛がした。
だから背負うなりして欲しかったのだが、まぁそれはいい。
「紫鶴さんもありがとうございました。体の方は大丈夫ですか?」
「はい、まぁただの体力切れなので…。それより、奈沙さんはこの後どうされるんですか?」
「私は後のことを部下たちに引き継ぎ次第、本家に戻ります。今回の件で殉職した術師の葬儀も滞ったままですし、他にも当主として色々と山積みな仕事がありまして…」
なるほど、ちゃんとした名家の当主ともなると今回のように任務に出ることも、基本は部下任せでないのだろう。
その分、多くの事務仕事を抱えることになるわけだが、責任を取るためとはいえ当主自らがしばらく家を空けるとこうなるわけか。
彼女も市民や家の者のために命懸けで戦ったと言うのに、束の間の休息もないなんて酷な話だ。
「そ、そうですか…、その…奈沙さんも今日は疲れてると思うので、どうか無理だけはしないでくれると…僕も安心です、はい」
「ふふふ、心配してくださってありがとうございます。ですが、これも当主の勤め、適度に息抜きをしながら頑張らせていただきますよ」
そうは言いつつも、真面目で責任感の強い彼女のことだ。息抜きなんてしないで頑張るんだろうと漠然と理解してしまう。
「そろそろ呼んでおいた迎えの者が参りますので、お二人はお先に当家にお戻りください。本日は離れにご一泊されるとのことでしたので、色々とおもてなしをさせていただきますね」
呪術界の名家の邸宅…何となく高級な旅館をイメージしてしまった。彼女がこの後も働くと分かっていながら、厳禁な僕の体が休息を求めて想像を膨らませる。
「一泊させてくれるなんて上も気が利くじゃない?いつもならすーぐ次の任務だ!なんてこき使うくせに」
「急に指名で行かせた手前、先生に気を遣ってくれたんじゃないですか?」
「いーや、ご機嫌取りして今後もこき使ってやろうって魂胆が透けて見えるね!」
まったくこのひねくれ教師は…。
「うふふ、あぁ、迎えが着いたようですね。それではお二人とも、また後ほど本家でお会いしましょう」
相変わらず綺麗な所作でお辞儀をした彼女を尻目に、僕たちは迎えの車に乗り込む。
「そういえば先生、あの呪霊の触媒って結局何だったんですか?」
「あぁ、こいつのことね」
そう言って懐から呪物を取り出す先生。
呪霊を払ったとき最後に落ちていた小刀、こうして先生が回収している訳だが、自分にはどういったものなのかは分からないし、そもそも特級を生み出し得る呪物なんて持ち歩いて他の呪霊が寄ってこないか心配だ。
「これは高専に持ち帰って色々調べたら忌庫に保管、封印かな」
「忌庫?」
「うん、こう言う危険な呪物を保管しておく倉庫のことさ」
なんだか聞く限り入りたくもないヤバそうな倉庫だ。
「そして、この小刀はマキリっていう大昔に北海道のアイヌで使われてたものっぽいね。しかも、装飾を見る限り儀礼用。これ自体には大した呪力は籠ってないから安心してOK」
「え、じゃあ何で特級なんて作れたんですか…?」
「今回のはいろんな要素を組み合わせた混ざり物だったんだよ。このマキリは土地神を宿らせる御神体と呪力を留めておくための依代としての器で、呪い自体の強力さは土地やそこに伝わる伝承、怪談が中心だね。そして、あの呪霊はそうした呪いの負のエネルギーを蓄積したことで性質の反転した土地神だったわけ。腐っても神様なんだからそりゃ手強いよね〜」
なるほど、アイヌのマキリを使ったのは犬と狼で要素が近しい。だから御神体として機能したのか。
まさか神様が呪霊に堕ちた存在だったなんて驚きだ。
………うん?
「今、あの呪霊が元は土地神だったって言いました⁉︎」
「言ったよ〜」
「言ったよ、じゃないですよ!僕神様を払っちゃったんですけど⁉︎これ後でバチとか当たりませんか⁉︎」
呪霊ならいざ知らず、闇堕ちしたとはいえ神様を払ってしまうなんて、もうしばらく一人でトイレ行けないかもしれない。
「散々呪霊は払っておいて何言ってるの?それに払ったってことはもう居ないんだし、天罰だって下しようがないでしょ?」
確かにその通りかもしれないが、要するに気分の問題なのだ。
その辺りの機微は自由が服着て歩いている先生には分からないのかもしれないが。
「それに……祈る人が誰も居なくなっても土地に残ってたくらいだ。あの場所が好きだったんでしょ。暴れ回って土地を傷つけ人を襲い続けるより、払われて静かに眠れたんだ。むしろ感謝されてるかもよ?」
今一瞬だったが先生の雰囲気が真面目な話をする時のそれだった。領域の中で対峙した時にあの呪霊と何か話したのだろうか。
「先生?」
「ん?あぁ、何でもないない。それより紫鶴ったら領域展開までできるようになっちゃって、流石僕の見込んだ生徒ってところかな?」
何だか取り繕われた気もしなくはないがまぁいいだろう。
「土壇場でできただけで、完成度は言わずもがなですよ…」
「みんな最初はそんなもんでしょ。帰ったら呪力操作の特訓と格闘技術向上のために死ぬほど組み手させるからそのつもりで!期待出来ない筋力は呪力で強化できるし、技術はフィジカル関係ないからね」
満面の笑みだが恐らくこれまでの数倍キツいやつが待っているのだろう。今から考えるだけで筋肉痛がしてきた。
それに母の件に関わっているだろう相手のことが少しずつ見えてきた。これが今回の任務において最大の収穫。
もちろん、あの呪霊を作った人物と同一かは分からないが、このマイノリティー極まる呪術界に呪霊をわざわざ生み出したり、式神でもないのに使役しようなんて存在はそうそういないだろう。
(……必ず見つけ出して、この僕の手で)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「随分と時間がかかってしまいましたね…戻る頃にはお二人はお食事も終えている頃でしょうか」
「奈沙様、お車のご用意が出来ました。どうぞお乗りください」
「えぇ、中山も遅くまでご苦労様です。帷の外でずっと待機というのも退屈だったのでは?」
今回は高専の補助監督のような役回りだったが、こう言った私の身の回りの世話や雑務をスマートに熟すのが彼の本業。
それだけあって、こうして指示を出すまでもなく車を回してくれた。車の後部座席に乗り込みながら本当に優秀な部下だとつくづく思う。
「いえ、これも私の務めです。それに私などのことよりも奈沙様に大きな怪我がないようで安心いたしました。やはり、現代最強と言われる五条悟のおかげでしょうか…」
「そうですね、確かに五条様は圧倒的な強さを有しておいででした。ですが、今回の特級呪霊を払ったのは五条様ではなく生徒の彼ですよ」
私の発言に耳を疑ったのか、普段冷静な中山の肩が一瞬跳ねたのが後ろから見えた。
「あの子供…いえ、薬袋様がですか?事前に確認した資料では彼は三級とありましたが…」
「ええ。ですが、その等級も何やら訳ありなのだそうで、実際の実力はこの通りということでしょう。それに戦闘の最中に土壇場で領域展開にまで漕ぎつけた…伸び代も抜群です。やはり私の人を見る目は捨てた物じゃないと再確認しました」
「…そうだったのですね」
「中山?どこか具合でも…?」
何やら様子のおかしい彼に心配から声をかける。
特に怪我をするようなことはしていないし、長時間帷の外で待たされて彼も疲れているのだろうかと思い直す。
「え、あぁいえ、申し訳ありません。少し考え事をしていただけですので、どうかお気遣いなく」
「そう、それならいいのですが…」
この山道から本邸まで小一時間ほど、家に帰れば他にも仕事が山積みだ。恐らく二人への挨拶は今日中には難しいかもしれない。
そんなことを考えながらも、車に揺られているうちに睡魔が襲ってきた。
全ての呪力を出し切るほどの戦闘を終えた後ということもあってか、自分もかなり疲れているらしい。
「中山、私は少し仮眠を…。到着する頃に起こしてもらえますか?」
「かしこまりました」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「………様……奈沙様」
「ん…」
何度も呼びかける部下の声に、重たい瞼をゆっくりと上げる。
寝ていたのは体感的に30分程度だと思うのだが、もう着くというのなら余程熟睡していたらしい。
出迎えのものも待っているだろうし、だらしない顔を見せるわけには行かない。
そう思いながら何気なく窓の外に視線を送ろうとした時だった。
「…っ!」
バチッ!と軽い電流が全身を駆け抜けたような感覚を感じた。
何事かと自分の体を確認するが、特に変化は見受けられない。
「随分よくお休みでしたね…仕事の詰め込み過ぎは良くないかと」
彼は特に何も感じなかったらしく、何の気なしにそう語りかけてくる。
疲れが溜まっているところに寝起きなのも相待って、何か一瞬だけ体が不調を来しただけかもしれない。
そう思った時、ふと気がついた。
一瞬見えた窓の外、景色がまだ山の中じゃなかったか?
慌てて再度外に目をやれば、やはりまだ山中…それも明らかに公道から外れた山道だ。
「奈沙様?どうかなさいましたか?」
おかしい…いくら眠っていたとはいえ、まだ山道を抜けていないなんてことはありえない。
「中山…この道はどこへ向かっているのですか?」
「それはもちろん、本邸へ向かっております」
「…このような道に見覚えはないのですが」
「あぁ、それでご不安にさせてしまったのですね。申し訳ありません、街道を通り街明かりで奈沙様の眠りを妨げては行けないと思い、最近見つけた裏道を使用しているのです」
どうかご安心を、と続ける彼の顔は後ろからでは窺い知れない。
だが、一つだけはっきりしたことがある。
今のは『嘘』だ。
私は瀧上家の当主として、この地を呪霊の被害から守るために地理を全て頭に叩き込んでいる。
無論、地図にも載っていないような道は流石に把握していないものもあるだろうが、少なくとも旧犬鳴トンネル周辺から瀧上の邸宅までの区間にこんな道は存在していないと断言できる。
ならばこの状況は何だ?
様子がおかしいといえば、先ほどからの中山もそうだ。
運転中とはいえ、明らかに動揺を見せている主人を前に落ち着き払い、ミラー越しに視線も見えない。
ドクドクと嫌な音を立てて心臓が警鐘を鳴らしている。
途端にキュッとブレーキ音を立てて車が停車した。
先程までより少し開けた地形のようだが、街明かりすら見えない山中であることに変わりは無い。
「…中山、なぜ車を止めたのですか?」
その問いかけに彼は答えない。
明らかな異常自体に急いで車から降りようとするものの、ドアが開く気配はない。
「中山!何のつもりです!悪ふざけならばいい加減にっ…!」
「悪ふざけではありませんよ。車を停めたのも目的地に到着したからです」
「何をおかしなことを……っ⁉︎」
術式でドアを吹き飛ばそうとしたが、どういうわけか呪力が練れない。そこで思い出したのは先ほどの電撃のような感覚。
「まさか……呪力封印の結界っ…!」
その時、バックミラー越しに見えた中山の表情に背筋を戦慄が走り抜けた。
だから気付くのが遅れてしまったのだ。
いつの間にか隣に座る人影が刃を振りかざしていたことに━━━。
最後ありがちなホラー展開ですけど、よく言うよね。
一番怖いのはニンゲンって話。