闇夜の貴方に、声と名を。
視界が悪い。足元も悪い。ついでに体調も気分も悪い。ぐずぐずになった山道を、同じくぐずぐずになった心で歩く。涙は出ない。不平も出ない。もう涸れた。
一体どうしてこうなったのか。疑念と疑心は止まないが、それでも疾うに心は病んで、今私は生を辞めようとしている。詳細は省く。思い返すだけで厭になる。
「っ――。」
不意に足元に何か引っかかる。転ぶ、転ぶ。痛くはない。多分ドロドロになっただろうが、暗い夜道だ。誰も気にしない。そもそもこんな山の中に一体誰が来ようというのだ。ああ、けど。どうせ転ぶのならその先が崖であってほしかった。きっと私は最後まで、身を投げることすらうまくいかないだろうから。まさに今、歩くことすらままならないように。
立ち上がる。物語の主人公のように、まさに友のために死せんとするのではなく、ただ己の軟弱さゆえにこの命を放棄するためだけに立ち上がる。なんと滑稽なことであろうか。私にはちょうどいい。
「はへ?」
そして、もう一度転ぶ。なんとも情けない声を上げながら。先程よりもド派手に! 何と惨めで哀れなのだろう。少し物悲しくもある。なんなんだ。なんなんだよ。居場所バレないようにスマホも置いてきたんだから明かりも何も無いんだぞ。こっちは着の身着のままなんだぞ。涸れたはずの不平も不満も零しそうになりながら、月明かりを頼りに足元のそれを凝視する。
「な――。」
腕だ。それは間違いなく腕だった。文字通り足を引っ張っている。腕だけで! なんということだ。身投げにはちょうど良いらしいと聞いた山にまさかこんな……こんな化物がいるとは……いやちょっと思ってはいたけど……。
「出たぁ!!」
必死に掴まれた脚を振り回し、どうにかこうにか腕を振りほどく。二の腕のあたりで切断されているように見受けられたそれは、恐るべきことに空中で完全に静止した。――これ深く考えない方がいい奴? そんな考えが脳裏を過る。良いからさっさと己の目的を果たすべき? うん、そうだ。そうしよう。全く変なものを――。
「――待て。」
「喋ったぁ!?」
何と腕だけで喋っている。怪奇現象だ。腕だけで生きている人間なのか、果たして腕っぽいだけの何か別のものなのか。兎角この場を去らねば危険であろうということだけは理解できた。――が、よく考えれば、そう。よく考えれば、だ。
「いや別にいいのか……。」
そもそもこちらは自殺志願者。危険な腕であろうが何であろうが、よく考えれば怖いものなしだ。だからそう、ほんの僅かな興味でここに留まってみることにした。
「待つのか。」
「えっ……うん。」
何故待てと言った側もそれなりに驚いているのか、何とも奇妙な、有体に言えば気まずい時間が両者の間に流れる。
「あの……。」
「なんだ。言え。」
「なんで腕だけなんです?」
沈黙に耐えかねて一番の疑問を投げかけた。なんというか……もし今ここで死ぬとして、一番尋ねるべき疑問はこれであろうと感じてしまったのだ。仮に死ぬなら正体不明の手の怪物ではなく、正体のわかる何者かに殺されたい。そう感じたのだ。
「これか。」
手が語る。ぐいと、いや、ミシミシと? とにかく奇怪で不快な音を上げながら、ゆっくりと二の腕から肩へ、胴へ、どんどんと、どんどんと人間の体が出来上がる。
どれほどの時間その変貌を眺めていただろうか。いよいよ私の前には、灰色の、長い髪を揺らした少女が現れたのである。
「どうだ?」
少女は得意な笑みを浮かべる。
「どうだ、と言われても。」
私の顔は引き攣っていただろう。なんせ目の前の彼女は恥じることのない全裸で、それを不自然とも何とも思っていないのだから。これは何だ。夢か? 夢ならばどれほどよかったか。転んで打ち付けた膝の痛みがこれが現実だと告げている。
「――何かおかしいか? 我の姿のどこが変だというのだ。申せ。」
一転彼女は不機嫌そうな表情でこちらを見つめる。どうしよう。
「……ふ、服は?」
小声で、周囲を憚るように。
「服? ……ああ、あれか? あの赤い奴。」
「赤以外もあると思いますが……。」
「ふむ。必ず必要なのか?」
「必要です。」
そうかそうか、そうだったのか。などと彼女は何度か頷きながら、闇に紛れて深紅のドレスを纏う。あまりにも現実離れしている。夢であれ。そう願っても叶わない。
「む……。」
唐突に少女が足を縺れさせ、数歩よろめく。そのまま一瞬俯いて、バランスを取り直して――。
「うわぁ!?」
――こちらを向き直した少女の顔は、まるでブラックホールみたいに穴が開いて、奥が見えず、ただ、左目だけが虚空に浮かんでいた。
「えっ、えっ!?」
「……穏便に済ませたかったのだがな。見てしまったか。」
悪行がバレた黒幕のように、ゆっくりと、彼女はこちらに歩み寄る。
「安心しろ。貴様を取って食おうなどとは思っておらぬ。」
「いや、いやいや、いやいやいや! 来ないで!」
一気に頭が冴える。あれが化物だと、腕だけで浮いていた時とは違う。死にに来たはずの私は、恐怖に追われて後ずさる。一歩、二歩三歩。腐葉土の上に積もった枯葉を踏み砕き、あの化物から逃避する。
一瞬の浮遊感。
「あ――?」
踏み外した。そう気づいたときにはもう遅い。引力と、体を支えきれぬ左足。宙に浮いた私は頭部を大地に叩きつける方向へと回転を始める。手を伸ばす。虚空を切る。
「っ――!」
「ぐぇ!?」
――止まった。化物の右腕が解け、まるでワイヤーのように私を空中に固定している。そのまま乱暴に引き上げられた私は、勢いそのまま柔らかい土に叩きつけられる。
「あ、阿呆が!? 貴様の肉体では耐えきれぬ高さだぞ!」
相も変わらず顔面に大穴があいているが、そいつの声色からは明らかな焦りを感じた。
「――なんで助けた?」
口に入った土を吐きながら、私は化け物に問う。意地の悪い質問だった。もし私なら、死ぬためにここに訪れた私を助けない。助ける理由がない。一瞬気の迷いで手を伸ばしたとしても、それは思い通りの死を迎えられないという無念だけ。そうだ、気の迷いだ。私が手を伸ばしたのは気の迷いだ。だからこいつも気の迷いで私を――。
「人というのは、死んでほしくないものを守るのであろう?」
こいつはさも当然に、全く恥じることもなく、そんな戯言を言ってのけた。
「虚飾を騙り、虚言を弄し、虚勢を張って、それでも死んでほしくないものを守るのであろう? 我はそれを知った。愚かなことだと、正しくないことだとも知っているが、我に正しさなど関係ない。我は今、貴様に死なれると困る。」
化け物は右腕を掲げる。穴が開いた顔面と同じように、右腕もまた崩壊し、解けた黒い繊維のようなものがだらしなく垂れ下がっていた。
「な――。」
「驚く必要はない。我に今必要なのは祈りだ。信仰だ。我を生かさんとする意思だ。しかしてこの山中。人の気配は碌に無く、この場にいるのは貴様だけ。貴様が拒めば我は消える。だから貴様に消えられては困る。」
そう言っている間にも、化物の体は焦げて燃え尽きるように消えていく。線香花火のように、ゆっくりと、じりじりと。
「わ、私は――私に、なんでそれをする理由が、あるんです? なんで私は、あなたを助けないといけないんですか! 私は、あなたを助けなくていい――あなたが助けてほしいと願うのは、それは、あなたの、あなたの勝手な都合じゃあないですか!」
「当然よな。これは全て我の勝手。この提案に貴様が乗る理由がない。――故に、我は貴様に利を示さねばならぬ。」
未だ消えぬ左手で、化物は私の顔に手を添える。おそらく、きっと目が合っている。孔の向こうは落ちてしまいそうなほど、この夜空を煮詰めたような漆黒だった。
「貴様が望むなら、我にできる限りのことはしよう。一生掛かっても使いきれぬほどの金か? 吐いてもなお腹に収まらぬ飽食か? 精魂尽き果てても奉仕する女衆か?」
――全部、全部化物の論理だ。化物はなおも、薄っぺらい欲望を満たす言葉ばかり並べる。私はそのどれにも魅力を感じられない。これから命を絶とうと考えたのに、そんなものはどうでもいい。
「どれも要らぬのか? 解らぬ。実に解らぬ。人はこれを望むのではないのか?」
「それは――。」
望む人はいるだろう。それが私でないというだけだ。化物はじりじりと消えていく腕を見ながら、少し考えたような間を空けて、ゆっくりと言った。
「 か?」
「――は。」
「我は貴様に をやろう。貴様は我に を寄越せ。――我から提案できるものはもう総て挙げた。貴様は何を望む?」
。なんと滑稽なことだろうか。今日すら生き延びれないであろうこいつは、あろうことか私に をやると言っているのだ。なんと滑稽で、何と愚かか。
「なんで……? なんで、そんなものを私に――。」
息が詰まる。私は、そう、私が欲しいものは、きっとそうではない、そうではないのに。だというのに、私は問いかけた。目の前の化け物に、言葉を投げかけた。いいや違う。回答だ。こいつの持っている答えが知りたかったのだ。
「知るか。」
――ものの一拍。その一呼吸で私の期待は打ち砕かれた。
「貴様の望みも、その理由も、貴様が勝手に決めるが良い。我の提示できるものは、我の思いつく限りの総ては提示した。選べ。」
あまりにも傲慢な回答であった。じりじりと燃え尽きていくあいつの体を見つめながら、私の口は答えを探すように漫然と開閉している。
「わ、私は……。」
解らない。どうするべきだろう。何を望むのか、見捨てるのか、逃げてしまおうか。いくつもの選択肢が脳内に浮かんでは、採用も棄却もできずに積もっていく。息が上がる。頭がおかしくなりそうだ。虚ろなあいつの顔面が、私を見透かしているようだ。
「私の欲しいものは――」
「何を望むのだ。」
「―― ……。」
消え入りそうな声。いや、声になったのかすらわからない。喉の奥で掠れて消えてしまいそうな、そんな音。それをあいつが聞こえたのかどうか、ただ、そう、私は一瞬だけ俯いて、もう一度向き直すと、そこにはあのボロボロの、今にも燃え尽きそうな化物ではなく、私があの時見た、長い銀髪の、かわいらしい少女が闇の中に立っていた。
「それが貴様の望みか。ふむ。まぁ何でもいい。とにかく貴様はそれが欲しいのであろう?」
「あ、え。えっと。」
彼女は得意な笑みを浮かべる。
「では、そうだな。まず……。」
――そしてそのままフリーズした。永遠にも思える数秒。あまりの気まずさに私が口を開こうとしたその時、突然こいつは動き出した。
「まず……貴様の名前だ。名はなんという。」
……そういえば名乗ってなかった。拍子抜けしたように、きょとんとした笑みを浮かべるこいつに、私はわざとらしく咳払いをした。
「名前? 遥。上井 遥。」
「遥、ハルカ。そうか。」
「……そういえば、あなたは?」
「我?」
「あなたの名前、訊いてなかった。」
いい加減、「こいつ」とかで呼ぶのも面倒だ。そう考えて、私は問いかけた。するとこいつは、なんとなく神妙な顔をして、深刻そうに口を開いた。
「……無い。」
「無い?」
「我に名前は無い。」
こいつはばつの悪そうな表情でそう言った。そしてそれきり押し黙ってしまった。
「えっと……。じゃあ、えっと……。そうだ、なんで子供の姿してるの? ほら、それ、誰かに頼まれたりしたんじゃないの? その時に――。」
「これは我に用意された器だ。そいつの名前は43号。……名前というよりは識別子だな。しかし結局中途半端な状態で終わってしまってな。我に残ったのはただの腕と瞳のみ。名前も養分も与えられず、此処で干からびる寸前だったという訳よ。」
43号のものらしい左腕を眺めながらため息交じりに語る姿に、最早同情すら覚えてしまいそうになる。が、わざとらしく得意な表情を作って、こいつは朗々と語りだした。
「が、貴様が来た。感謝してるぞ、遥。」
「……ヨミ。」
「よみ?」
「ヨミ。あなたの名前。ないんだったら誰かが付けるべきだよ。だから私が付ける。あなたはヨミ。」
「……ヨミ、ヨミか。ああ、そうだな。良い名前だ。ヨミ、ヨミというのだな――。」
ヨミは何度も何度も、確かめるようにその名を呟いていた。