夜と黄泉の狭間に、栞と私を。   作:ぴぴけ

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声と刃と、貴方と約束。

 あれから数日。執筆は順調――といいたいところだが。

 

 「眠……。」

 「遥。流石に……流石に無理をし過ぎだぞ。」

 

 原作から必要そうな設定を抽出していたヨミが呆れながら言った。滅茶苦茶眠い。連日睡眠時間を削っているのだから当然だが。

 

 「ヨミ……眠気が覚めるものない……?」

 「貴様が望むなら用意するぞ。」

 

 そういうと彼女は右手を上げる。そしてその指先が解け、ゆっくりと真っ黒な糸状の物体へと――。

 

 「うわぁ!?」

 

 ――目が冴える。ここ数日ずっと少女の姿をしていたから、こいつが元は化物だという認識があまりにも薄れていた。あーびっくりした……。心臓が五月蠅いほど鳴っている。

 

 「これを貴様の脳に直結して少し弄れば――。」

 「いい! それはやらなくていい! というかそんなこと出来るの!?」

 

 ヨミは指から伸ばした糸を弄ぶ。その先が変形し、私の姿を模した指人形が出来上がる。

 

 「43号の腕を取り込んだ時に人間の内部構造は把握しているのでな。」

 

 指人形の周りを取り囲むように色の違う糸が飛び出す。これが神経ということだろうか。

 

 「こうしてやれば貴様を人形の如く動かすことも可能だ。……本調子であれば10は同時に動かせるだろうがな。まだ調子が戻らぬ。」

 

 ヨミは糸を指に戻す。どれほど凝視しても異形のそれと人間の皮膚の区別がつかないほど精巧な変化だ。

 

 「本調子だとどれだけ無茶苦茶出来るのさ……。」

 「遥。貴様が命じるなら一日でこの町を更地にできるぞ。今の調子なら一月はかかるだろうが……。」

 

 そんなヨミの言葉を聞きながら、大きな欠伸を一つ。……やはり眠い。

 

 「眠気覚ましに散歩でもしよっか。ヨミ、行くよ。」

 「む、我も行くのか?」

 

 ここ数日、執筆のために籠りきりであったが、流石に少しは外の空気を吸うべきだろう。……学校? ああ、うん。夏季休暇だから問題なし。引き篭もっていても問題ない期間は有効に使うべきだ。

 

 「うん。あなたが見る街の姿を知りたいし。ついでになんか甘いもの買ってこよ。」

 「要はネタ出しか? 理解した。」

 

 立ち上がって大きく背伸びする。骨が軋む音が聞こえた。ヨミは私の行動を不思議そうな目で見ていた。よく考えればこいつには骨があるのだろうか。さっきの糸――というか触手みたいなやつの集合体なら、恐らく骨はなさそうだが。

 

 「あっつ……。」

 

 久方ぶりに見る太陽は随分と眩しく感じられた。ついでに地球温暖化の進行もすこぶる強く感じられた。

 

 「ヨミ……溶けたりしないでね。」

 「ん? 我はこの程度では溶けないぞ? 熱には強いからな。熱以外にも強いが。」

 

 頑丈だな……。じりじりと夏の日差しが照り付ける中、私たちは道を行く。

 

 「メモとか取らないで大丈夫?」

 「この体で歩きながらの筆記作業は効率が落ちる。我の記憶能力であれば十分24時間分は記録可能だ。」

 「いいねそれ。テスト一夜漬けで満点最高評価じゃん。」

 「遥、レポート課題はどうするつもりだ貴様。」

 

 そんな他愛もないことを話しながら、夏日が照り付ける道を行く。

 

 「……ん?」

 

 公園の木陰のベンチ。どこかで見覚えのある人物が……ギターの弾き語りか? いや、ギターの腕前と歌の腕前があまりにも乖離していて妙な聞き心地になっている。具体的に言えばあまりにも歌が上手すぎて素人に毛が生えたようなギターの音色が完全にノイズになっている。

 ぼんやり眺めていると目が合った。

 

 「やぁ!」

 

 彼女はあまりにもフレンドリーに、手を振りながらこちらに歩み寄ってきた。まるで知己の友人のように。

 

 「こいつ……昨日話していた『エリ』か?」

 

  ヨミは息を潜めて私に耳打ちした。私は声も出ず、彼女をただ見つめ返していた。

 

 「うーん?」

 

 彼女――エリはヨミを眺めて、訝しむ様に首を傾げた。一種の完成した美貌でその表情をすれば、なるほど彼女の虜になる人間が現れるのも当然だと理解できる。他方、人ならざるヨミは別段彼女の外見については意識していないようで、不躾に見つめてくるエリをキッっと睨み返している。

 

 「なんだ貴様。」

 

 ヨミが問う。

 

 「キミ、本当に人間かなぁ?」

 

 場が凍り付く。

 私もヨミも言葉を失った。出会って数秒で問いかける内容ではない。しかし事実としてヨミは人間ではないわけで。

 

 「人間に決まってるじゃあないですか、ねぇ?」

 

 震えそうな声で答える。その瞬間、彼女は冷え切った瞳で私を見つめる。先ほどまでの、人を疑い考え込む目ではない。瀕死の得物を前にした捕食者の目。画面の向こうで笑顔を振りまく彼女が絶対に見せない、攻撃的な目。

 

 「キミさ、ワタシのこと知ってるわけだよね。どこまで見てくれてる? SNSの切り抜き? 歌動画? それとも配信も見てくれてる? ――ああ、そう。配信も見てるんだね。うん、だったら知ってるよね。」

 

 ――会話が行われない。ただそこには意思の疎通だけがあった。彼女は私をまるでガラスか何かのように見透かし、勝手に一方的に会話を続ける。

 

 「ワタシには嘘、通じないよ。」

 

 にぃ、と。画面の向こうにいるときと同じ笑顔を彼女は浮かべる。しかし受ける印象は真逆だ。まるで一時停止した画面のように、私は硬直して身動きが取れない。

 どうする? 誤魔化すか? それとも正直に話すか? 頭の中でぐるぐる浮かぶ選択肢。私は縋る様にヨミの方を見る。

 

 「――。」

 

 ヨミは私の目線を受け取り、エリと向き合う。笑顔で武装したアイドルは見透かすように私を見つめる。

 

 「貴様。鋭いな。」

 

 ヨミは得意に笑みを浮かべる。

 

 「無論、人間ではない。――が、一体貴様に何の関係がある? 貴様に追求する義務も権利もないであろう?」

 

 対するエリは感心したように笑い直した。

 

 「それもそうだね。キミの言うとおりだ。だけどさ、ちょっと見逃せないことがあってさ。」

 

 彼女の表情が険しくなる。

 

 「ここ数日、この辺りで失踪事件が多発している。それに変な蛇みたいな化物を見たって人も。」

 「蛇? 何だそれは。我は知らんぞ。」

 

 ――間違いなく疑っている。当然だ。

 

 「連れ去ってるだけならまだいいんだけどさ、連れ去って殺しているような怪物がいるのなら、流石にどうにかしないといけないでしょう?」

 「ほう。なるほどな。それこそ貴様に関係のない話ではないか? そんなことをしても貴様に利はないだろう。」

 

 それを聴いて、エリはあっけらかんと笑った。

 

 「関係あるよ。だって、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。」

 

 それを聞いて、私は絶句した。それだけの理由で? いや、今の話を総合するとそういうことだ。彼女は、ただそれだけの理由で、人を殺しているかもしれない、いやそれ以前に、本当に実在するかも怪しいような、そんな化物を追っているというのだ。

 

 「え、ええと。とにかく、ヨミは無関係。だと思います。」

 

 エリがこちらを見る。見透かしたような目。そして小さく溜息を吐いた。

 

 「今度は本当、かな。けど、キミはさっき嘘を吐いた。……うーん。一つだけ訊かせて? その子を守ろうとする理由は何?」

 

 見据えている。彼女は、私の答えを待っている。

 

 「え、ええと。」

 

 考える。他ならぬ私自身の言葉で。

 

 「遥――。」

 

 割り込もうとするヨミの口に、エリが人差し指を立てて制止する。

 

 「さぁ、答えて?」

 

 彼女が私の回答を求める。

 

 「理由、は。……その……。」

 「――成程分かったわ! うん、とても言いづらいことなのね。言いづらいことだけれども――」

 

 彼女はまごつく私の口にそっと人差し指を添える。

 

 「――キミには悪意がない。害意がない。世界をどうこうしようだなんて思ってないし、世界が壊れてしまうだなんて思ってもいない。そして何より、なぜかその子を制御できると確信している。何故でしょうね? ……んー、まぁそれはいいや。それを考えるのは私の柄じゃあないし。それにキミが悩んでるのはその子のことでもなさそうだし、うん。そうとわかれば安心だ。疑ってごめんね?」

 

 彼女は再び一方的にまくしたてる。なんというか、ガラスにされたような気分だ。

 

 「貴様。いくら何でも勝手すぎやしないか?」

 「うん。そうだよ? ワタシは結構身勝手だ。キミのことはよくわからないけど、そっちの彼女も大分身勝手な部類だと思うよ? ああ、気を悪くしたらごめんね! 身勝手な、えーと。ドンヨク? 貪欲なことは悪いことじゃないって夭も言ってたし。むしろなんというか、そっちのキミ、ハルカちゃん? キミ、本当は身勝手だけどそう振舞うことに抵抗がある感じだ。なんせ何かを作ってる風なのに悪意も害意も何もないし、それどころか他の人を救おうともしていない。それは決して悪いことではないけれども、キミに自覚がないのは一番の問題だ。……ああ、ごめんごめん。そっちのキミは勝手なワタシに怒ってたんだったね。」

 

 明らかに神経を逆なでされたようで、ヨミの表情が強張る。どうやら相容れないタイプのようだ。というか彼女はどうしてここまで……嘘がわかるというレベルではない。まるで心の中を覗かれているような錯覚さえ覚えてしまう。

 

 「まぁ、アイドルだからね。ファンの顔を見れば何考えてるかくらいわからないと。――おっとごめん! そろそろ行かないと。」

 

 彼女は慌ただしく荷物を掴み、そして数秒動きを止め、鞄の中から二枚の紙きれを取り出し、何かを書き込んで私たちに手渡した。

 

 「それ見せたら夭――ワタシのプロデューサーが入れてくれると思う! キミたち、本書いてるんでしょ? 取材ならいつでも歓迎よ! じゃあまたいつか会いましょう!」

 

 そういうと彼女は放たれた矢のように去ってしまった。

 

 「……嵐みたいな人だったね?」

 「遥。あれ、我の知っている人間と違う。あれ、何?」

 

 ……ヨミが片言になっている。うん。あとで説明しておこう。私は貰った紙切れを見る。……名刺? 随分とシンプルなデザインだ。表には『風音重里』の名前と住所、そして所属事務所の名前らしい、『Greedy Studio』の記載があった。裏面にはペンで走り書きされた「見学チケット」の文字が。

 

 「まぁ、うん。悪い人ではないよ。多分……。」

 「そうか……。そうなのか……。なぁ、遥。こういう時に人間はエクレアが欲しくなるのか?」

 

 ヨミが遠い目をしている。

 

 「うん。こういう時人間は甘いものを食べるんだよ……。」

 

 私が苦笑すると、ヨミもつられて苦笑した。

 何か甘いもの買って帰るか……。

 

 

 ◆

 

 

 「ここ、誤字があるぞ。」

 「あ。ほんとだ。」

 

 数日経った。執筆は順調。まだまだ煮詰まっていない部分もあるが、概ね話の方向性は定まってきた。試しに一話投稿したが、前よりは明らかに良い評価が増えていた。

 

 「ヨミ。」

 「どうした?」

 「ありがとう。ここまでこれたのは貴方のおかげだ。」

 「我は貴様の望みを叶えているに過ぎぬ。その言葉は物語の結末まで取っておけ。」

 

 文章の構成をしながらヨミは言う。結末。結末か……。結局そこはまだ曖昧だ。主人公が竜の牙を武器として打ち直し、邪竜を倒してハッピーエンド……。なんとなく、まだ足りない気もするが、それでもそのうち思いつくだろう。

 

 「それよりも今は武器の名前の案をだな。」

 「ああ、うん。色々考えてるんだけどどうにもしっくりこなくてさ。」

 

 ファング、バイト、ソード、ブレード。適当に名前の案を考えては棄却してをいろいろ繰り返している。何か参考になる作品とか――。

 

 「うん?」

 「どうした?」

 「いや、これ……ヨミの居た山じゃない? でこっちは……蛇?」

 

 スマートフォンの画面にはあの日の山と思しき写真と、もう一枚。どす黒い蛇のような生き物が映っていた。

 

 「……確かにそうだな。だが、これは……。これが蛇か? 我の想像してたのとは随分……いや、これは幼体だな。何故だ?」

 

 幼体。少し前に話していたあれか。エリの言っていた蛇の化け物はどうやらヨミと関係があるらしい。これまでもヨミと会話に齟齬がある場面があったが、これも彼女の知識の偏りゆえだろうか。ともかくとして、今重要なのはそこではない。

 

 「幼体がいるってことは――あなたの言っていた親がいるってこと?」

 「いや、それは……考えづらいな。あれは喚び出されぬ限りこちらには……いや、そうか。なるほど。……遥。」

 

 ヨミは片腕の擬態を解き、糸を体から出す。

 

 「我の半身を取り戻さねばならぬようだ。」

 「……は?」

 

 彼女の表情は険しかった。だがどうにもその意図が読めない。

 

 「我が親が召喚に応じる前に、我はこちらに現れた。そして我はその場のものを食いつくし――。」

 「いや待って待って、急に何言いだしてるのさ。」

 

 ヨミは少し考えて、ゆっくりと話し始めた。

 

 「我がこちらに召喚された日のことだ。本来は我が親がこちらに来る予定だったが、我は偶然巻き込まれる形でこちらに来た。」

 

 あまりに真面目に話す彼女に、口を挟む隙は無かった。彼女は意味もなくこんな嘘を言うタイプではない。

 

 「贄を食らっているところで、43号とやらに封じられそうになった。だが、結局、奴は自身の腕と目を引き換えに、我の肉体の核を抜き去って行ったのだ。……おそらく、奴は我が親をその身に宿すための道具であったのだろう。我程度では不足だったのだ。奴は今もどこかで生きている。そして何より厄介なのは、我が親を身に宿すために作られた奴は、それだけの出力を有することができる可能性がある、ということだ。」

 「要するに、その43号がこの蛇みたいなやつを生み出してる……。って解釈すればいい?」

 

 ヨミは小さく頷く。

 

 「人を攫っているかも、とあの女、エリは言っていたな? 我の核を持って、人に畏れられる存在になっているのであれば、それは間違いなく我らの側の存在になり得るものだ。これ以上放置すれば、人間の悪意を以って化物の力を振るう最悪の存在になりかねん。」

 

 ヨミは玄関の方に向かっていく。私はそれを掴んで止める。

 

 「止めるな。これは貴様の命を保証するためでもある。」

 「いや、うん。それは分かる。危ないってことも分かってる。けど、だからこそさ、私が一緒に居たほうがいいと思う。死にかけた貴方をつなぎとめたのが私の信仰なら、私がいないところで死にかけたら今度こそ本当に危ないんじゃあないの?」

 

 ヨミの表情から葛藤が読み取れる。……確かに危ないのは分かっている。わかっているけど、うん。だからといって彼女だけ行かせるのはなんとなく、なんとなくだけど良くないことのような気がしたのだ。

 

 「……わかった。だが、約束しろ。危なくなったら貴様だけでも逃げろ。我は一人でも離脱できるが、貴様はきっと無理であろう?」

 「うん。約束だ。だからきっと、あなたも無事でいてね。」

 

 二人して戸を開いて山の方へ向かう。日は既に傾きだして、人影も徐々にまばらになっていた。

 

 「これは……。」

 

 山の麓に辿り着く。私の目には見えないが、ヨミには何か見えているらしい。静かに足音を殺して進み、左手を鞭のようにして何かを叩く。

 

 「見ろ。」

 

 彼女が突き刺したものは夜の闇に紛れてよく見えないが、じっくりと目を凝らすとその輪郭が見えてくる。

 

 「……蛇?」

 「そうだ。我らの幼体だ。……この辺りには少ないが、上の方から来ているようだな……。登るぞ。」

 

 あの日のように山道を掻き分け登っていく。今夜は新月らしい。月明かりは何も照らしてはいなかった。

 山を登る。道中、何匹かの蛇を倒し、更に登る。

 

 「この辺り、休憩には――何、これ。」

 

 山中の光景は一変していた。まるでここで嵐でも発生したかのような大規模な破壊の跡。木々はへし折れ、大地には何かを叩きつけたような痕跡が残っている。何か、巨大な生物が暴れたと言われても納得してしまいそうな光景だ。

 

 「誰、ですか。」

 

 倒れた木々の間から声が聞こえる。それはとても聞き覚えがある声で、私はふと、同じ声を持つヨミの方を見据えた。

 

 「43号……!」

 

 ヨミは忌々しそうに言った。その直後、陰から、小さな少女が駆け出してきた。――速い!

 

 「ぐっ……!?」

 

 少女は、正確にヨミの喉を手に持ったナイフで切り裂いた。人間であれば明らかに致命傷だ。ヨミが人外でなければ間違いなく失血死していたであろう。しかし彼女はそのまますれ違うように距離をとり、身構えた。

 

 「そこのあなた。そいつから離れてください。」

 

 少女――43号はヨミと瓜二つな、いや、逆だ。ヨミが彼女に似ているのだ。その上で、二人はあまりに致命的に違っていた。

 彼女は既に満身創痍だ。全身痣と傷跡まみれで、不健康なほど白い肌は青みが勝った内出血の跡が目立っている。左目は不格好な包帯で覆い隠され、そして何より、コートのように羽織っているオーバーサイズのジャケットは既にボロボロで、左腕の部分は肉体ごと千切れている。

 

 私はヨミと出会った時のことを思い出す。あの時の彼女も同じように死にかけだったが、この43号はそれだけではない。明らかにまだまだやれるとでも言いたげな瞳だ。

 

 「遥。離れるなよ。」

 

 ヨミが声を潜めて言う。彼女はどうやらやる気らしく、まっすぐに43号を見つめている。

 

 「……化物。そちらの方も食べるつもりですか?」

 「はっ。化物はどっちだ。」

 

 軽口を叩きながらも、ヨミはひそかに糸を巡らせる。極小の、それこそ視認できないレベルの細さの糸だ。私もそばに居なければ気付かなかったかもしれない。

 数秒の沈黙ののち、無言で43号が飛び掛かってくる。間違いなく糸にかかる。その確信があった。あったはずだった。

 

 「なっ!?」

 

 ――斬られた。痩身の少女のただのナイフの一振りで、人間一人を拘束するに余りある耐久性を誇る糸が、いともたやすく切り刻まれた。

 

 「執行します。」

 

 少女が逆手に持ったナイフが、ヨミの首元に迫る。まずい。私はとっさに、ヨミに手を伸ばし、まだ彼女に繋がっている糸を思いっきり引っ張った。少女のナイフがヨミの真っ赤な服を切り裂き、まるで鮮血のように宙を舞い、どす黒く変色して空中で燃え尽きたように塵になった。

 

 「……貴女。そう、そこのあなたです。刑の執行を妨害することは許されません。」

 

 少女が私の方を向く。その瞬間、彼女の、失ったはずの左腕から、何か、黒いものが伸びた。

 

 「遥!?」

 「え?」

 「少々手荒ですが、勘弁してください。」

 

 ――宙を舞う。投げ飛ばされたと気づくのに数秒。飛び出して私の腕を掴もうとするヨミが視界にいることに更に一秒。そして、彼女が、43号にめった刺しにされていると理解するのよりも先に、私は地面に叩きつけられた。

 

 「ぐっ……。」

 

 頭がぐらぐらする。地面が揺れている気がするし、なんだか妙に叩きつけるような音が――いや、揺れている。間違いなく揺れている。まるでピンボケしたようにはっきり見えないけど、43号の左腕のあたり――何か真っ黒で、巨大な、なんだろう。あれは――触手? どこかで見覚えがあるような気がするそれを、よく観察する。

 

 ヨミの言葉を思い出す。核を奪われている、と。そうだ。あの触手は、ヨミの肉体と同じものだ。だが明らかに太い。そしてまるで血にまみれたように赤黒く光っている。生物的な光だ。まるで返り血を浴びたような――。

 

 「しぶといですね。何故生きているのです?」

 

 43号は呆れたように言った。ヨミは何度も何度も叩きつけられながらも、まだ何とか生きているようで、緩慢な動きで立ち上がろうとする。

 

 「ヨミ!」

 「決まっているだろう。我は生を望まれているのだ……。貴様のような殺すことしかできないものとは違ってな……。」

 

 少女の瞳がこちらを向く。

 

 「……あの女ですか。」

 

 少女の瞳がこちらに向けられる。先程のやり取りで包帯が取れたのだろう。少女の失われた左目、その眼窩は、あの日のヨミの顔面のように、どこまでも落ちていきそうな孔があいていた。その中から、赤黒い、血に染まったような、そんな、てらてらと光る触手が顔を出していた。

 

 「貴女に問います。あれを生かしているのは貴女ですか?」

 

 少女の上背は140cmもない。せいぜい小学生といったところだろう。にもかかわらず、少女の言葉には、恐らく、私なんかが何年生きようが決して籠らないであろう感情が籠っていた。

 

 「私は冤罪が嫌いです。無法が嫌いです。無辜の人間を殺したくはありません。しかしあれは殺さなくてはなりません。あれは人の理の外にいるものです。法の庇護が考慮せぬものです。あれが生きて歩いているということは、この世界の秩序を破壊するということに他なりません。故に、生きているだけで罪であるあれを、生かしている誰かがいるというのならば、私はそいつを処刑しなければなりません。」

 

 それは怒りでも、殺意でも、ましてや哀れみなどでもない。――使命感。ただそれだけの感情が目の前の少女を動かしている。

 

 「答えて。沈黙は肯定と見なします。」

 

 43号は異形の腕で、倒れた丸太を軽々と持ち上げる。一歩、二歩。後ずさりする私を、ヨミは触手で絡み取った。

 

 「……残念です。まとめて執行します。」

 「逃げるぞ!」

 

 体が宙に浮き、ヨミに抱きかかえられた直後、背後から破砕音が鳴り響いた。砕けた木片が腕をかすり、僅かに出血する。

 

 「では改めて。私は水月――水月鏡花。あるべきでない悪を処刑する、ただ一人の悪人です。」

 

 

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