葦原天理は巫覡である 作:氷桜
腐臭。
枯れ草。
暗闇。
互いと互いを結ぶ手の温もりと。
互いに話す声だけが、其処にいることを示している。
「……ちょっと、驚いたわ」
「何が?」
「さっきの言葉」
指文字――――指と指を絡めて意志を伝える。
血で塗れて、俺の手までを湿らし始めた生温い液体。
流れ続けているのも、どれだけ流れても影響がないのも。
恐らくはおねえちゃんの意思と、精神の傷が繋がり続けているからだろう。
「……将来、女の子泣かせそうよね」
「酷くない? 誰にでもは言わないよ?」
「でも、もう三人には言ってるじゃない」
既に周囲は何も見えない。
けれど、歩き続けろと誰かが言っている。
後ろを向かず。
意識の続く限りに進み続けろ、と背中を押されている。
『それくらいやってみせなさい。 貴方が、私の血を継ぐのなら』
分かっている、とは何に言ったのか。
口にしたけれど、良く分からずに。
おねえちゃんも訝しむ気配が伝わってきていた。
「……見てた?」
「自分で言ったんでしょ。 ずっと見てたわよ……一回此処に来るまでは」
くすくすと笑い声。
手と手の間に血が流れ込み、けれどそれに塗れながら握り直す。
指と指を絡めて、離れないようにと願いながら。
「だけど」
――――ぬるり、と。
足元の固さが急に途切れ、水辺に踏み込んだように沈んでいく。
俺に連れられ、彼女も落ちて。
けれどその手は外れないまま、確かに前へと進んでいく。
「……あんな事言ってもらえたのは、初めてよ」
「……そっか」
「……だから、
冗談――――混じりであると願いつつ。
言葉だけで分かる喜び。
情動の揺れが、確かに伝わって。
語尾が少しだけ上がって、それを聞いたおねえちゃんの手が一度強く握られる。
「いちばん大事な友達……彼女にも、会いたいけれど」
彼女だけは、私だけではどうにもならない。
そんな言葉が、腕の血と合わせて水を朱に染めていく。
水。
全身を洗う清水。
黄泉路から戻る最中の。
けれど、前回は体感しなかったもの。
(……ひょっとして、これ……前、ヒメが言ってたやつか?)
遥か昔。
神が産まれた黄泉路戻りの話。
『黄泉路から戻った■■■は顔を洗うことで穢れを落とし、神を産んだ……と伝わっていますね。
それだけ、
あの時戻ったのは俺だけ。
元の肉体へと繋がっていたし、押し出されて戻されたというのが正しい筈で。
それに対し、今回はおねえちゃん……半分死人を冥府より連れ戻そうとしている。
故に、その部分を押し流そうとしているのかもしれない。
(……もしかすると、あの人が助けてくれたのかもしれないけど)
少なからず縁を持っていそうな、近くで見ることは叶わなかった人。
きっと、背中を押し続けてくれていた人。
恐らくは俺の先祖に当たる人……多分、送り出そうとしてくれているのはその人だ。
「ねえ、天理君」
「どうかしたの、おねえちゃん」
身を清め、口を濯ぎ、その上で元の世界へと戻る。
足掻こうと水の中で泳いでいけば、誰かに引っ張られる感覚があった。
知っている相手。
知っている声。
『■■、■■■■』
『■■■、■■■■■■■■■』
そんな誰かが、俺の空いた腕を引っ張ろうとする。
「その声に従っちゃ駄目よ」
「へ?」
そのまま引き寄せられそうになるところを逆に引っ張られる。
迂闊に顔を見そうになって、咄嗟に目を閉じれば。
舌打ちのような音と共に力は抜け、胸元に抱き留められたのが分かった。
「良く考えて。 神樹様に認められる子が――――。
或いは、それを信じる人が
「ぁ」
「勿論、私や……
胸元で囁かれる言葉。
同級生達に抱き締められる時にも似た。
けれど何かが違う、安心感が強く耳元から脳裏までを支配する。
「乃木さん……そのちゃんじゃなくて、だよね?」
見ては駄目よ、とこの段階に入っての指摘。
無論見る気はないが、彼女に抱かれたまま動くのは妙に恥ずかしい。
「ええ。 私達の時代の代表……乃木若葉さん。
「やらかし?」
後で教えるわよ、と。
私のこと、私の全部。 あの時代から取り残された全部を。
酷く当たり前のような口調で答える彼女へ、指で頷いて答える。
視界を閉じた暗闇。
恐らく、外を覆う暗闇。
その二重の漆黒の中を、水辺を漂うぱちゃぱちゃという音だけが木霊する。
「……それと」
そんな空白が、そんな物音だけが心地良かったのだけれど。
互いの肌が接しているのもあって、緊張感も同時にあって。
見えないけれど、照れているんだろうな――――そんな事を感じる声で。
「おねえちゃん、って呼び方……やめない?」
「え、駄目?」
「駄目っていうか……昔は良かったけど、今はちょっと……」
見た目の問題、なのだろうか。
首を捻りつつも、彼女の受け答えへは肯定し。
少しだけホッとしたような雰囲気を感じ。
同時に、少し先で頭上からなにかの暖かさを感じ取った。
「ああ、そろそろね」
「……出口?」
「根堅洲国、或いは黄泉路から葦原中国へ繋がる道。
……美佳さんに聞いていた通り」
……多分、その名前が俺の先祖で。
彼女を長きの間眠らせた巫女で。
今、送り出そうとする人の名前か。
「穢れを外に持ち出すのでなく、その手前で押し流すことで外へと出さない場所。
……死者だけが知る、隠し通路」
穢れそのものとなっては通れない道。
半分だけ、で済んだから――――血、という形でそれをこの地へと捧げたから。
彼女は、禁を破らなかった俺と共に現世へと戻れる。
「……行きましょう……え、っと……その…………ま、
え、という言葉は外に出たのかどうなのか。
ただ、今の俺に分かったのは。
誰かから囁かれる、『幸福にしなければ祟り殺す』という呪詛と。
引き込まれる中で薄れる意識と。
握った手と…………暗闇の中でも映える、彼女という存在そのものだけだった。