「ありがとうございます。一応、今日までですが、よろしくお願いいたします」
雨宮吾郎は警備部の連絡と報告書を片手に担当者に頭を下げる。
自分が不審者と思われる人物から声をかけられてはや二週間。毎日のように周囲を警備している警備部に不審者の情報がないかを確認しているが、無事に退院となる本日まで不審者の情報がないことに吾郎は安堵していた。
アイの出産日から数えて二週間。あの日に起きたことを今考えても肝が冷える出来事だった。
突然、フードを被った人物からアイの名前を告げられて主治医かどうか確認された日。奇しくもアイの出産日とかぶったのだが。ここにアイがいることは極秘であるはずなのに、その情報を知っていた彼を悪質なストーカーではないか、と念のため追おうとしたのだが、彼を追跡するために一歩を踏み出した段階で、なぜか烏に突撃されて怯んでしまい、そのまま彼を追うことをやめてしまった。
代わりに警備部にはその不審者については伝えており、翌日から巡回を強化してもらったのだが。
出産という事象については当然のように非常にデリケートなものである。女性であれば誰でもありうる事象であり、場合によっては極秘にする必要がある。
例えば、あってはならない妊娠だったり、極秘にしなければならない妊娠だったり、などである。今回のアイのケースとてそうである。そのため、極秘に個室にしたし、偽名まで使う配慮を見せた。それでも彼女の名前を呼ぶ人物が現れてしまった。
この段階で警備レベルを上げるのは通常の判断といえるだろう。アイの陣痛で呼び出された吾郎が併せて警備部に報告し、警備レベルを上げてもらったのも、無理がないことだ。
なお、このド田舎(宮崎)に地元でない人間が妊娠で入院するなどということは非常に高度なレベルの非常事態たり得るので警備部そのもののレベルは高いといえる。その分、料金が割高だったり、行動範囲が制限されたりするのだが、致し方ないことである。
しかし、その甲斐もあって、吾郎が警備部に不審者の報告をしてから巡回の警備員にも不審者が引っかかることもなく、今日を迎えることができた。
「先生、ありがとうございました」
今までのことがあまりに感慨深く頭を下げる社長に気づかなかった吾郎は慌てる。
ただ、言い訳させてもらうのであれば、今まで推しだったアイドルが妊婦として目の前に登場し、さらに出産日当日にそれを嗅ぎつけてきたストーカーと対峙し、そこから退院まで気を張っていた身としては、この一瞬だけでも感慨に浸るのも許してほしいとも思う。
「いえいえ、僕の仕事をしただけですから………」
慌てて両手を左右に振る。
その言葉に嘘はないつもりだ。産婦人科の医師にとっては母親と子供の両方が健康で退院するということがどれだけ嬉しいことか。この瞬間は何度味わっても達成感があるものだ、と吾郎は思う。ただ、この場合は懸念点については社長にちゃんと説明する必要があることも間違いではない。
吾郎は挨拶のために外に出ている斉藤社長に耳打ちするように顔を寄せる。それを理解しているように斉藤も顔を寄せる。
「先日、報告させていただきましたが、星野さんの事情を知っている不審者が僕の前に現れました」
「はい」
耳打ちされるように小声で会話される内容については機微な情報が多すぎるためお互いに敏感になっている。そもそも、不審者がアイの情報をもって近づいてきたことはすでに関係者である斉藤社長は重々しく頷く。彼にとってもこれがアイにとっての重大なスキャンダルであり、彼の事務所の存続さえも左右する重大なことと理解しているからであろう。
見えない敵がいるかいないか、で議論することは心の安寧には不要だが、明確に敵がいるという段階で警戒を疎かにすることは愚か者の所業である。ならば、この吾郎からの警告は芸能プロダクションの社長である斉藤としても重く受け取らなければならない。明確な敵がいるという証拠として。
「気を付けてください、としか僕からは言えませんが‥‥‥‥」
「はい、こちらとしても警備は厳重に行いたいと思います」
吾郎としては推しが狙われているとわかっているのに、助言することしかできない現状が歯がゆい。しかし、ただの産婦人科の医師としては、不審者に出会った情報共有することで精一杯。それ以上を願うのであれば、生まれ変わるというようなことを行うほかないのである。
推しの子とその子供について心配する気持ちはドルオタ、および産婦人科の医師としてある。だが、それでもできることは忠告するということが彼の精一杯。それ以上のことができない自分を悔やむのみである。
そんな保護者の心配を他所に能天気な発言をするものもいるのである。
「佐川社長! いつまで待ってるの!?」「おしい! 斉藤だ!」
いつものやり取りだなぁ、と吾郎は笑う。彼女が正確に名前を覚えられない、というのはある種の発達障害というのはある程度の医師であればなんとなく分かる。日常生活に支障はないが、コミュニケーションという分野ではやや支障があるレベルだ。だが、それも許容すれば特に問題ない。だが、そもそも、発達障害の患者の特徴として興味を持たれれば逆に一生忘れられないほどに覚えるというのに、名前を覚えられないというのは逆張りを狙っているのか。
それは吾郎にも理解できないことであった。殊更この分野は研究や現実の認識が整ってきたこともあり、表立って助言することが難しいのである。
苦笑を浮かべながらVIPしか使えない地下駐車場で斉藤社長を待っていた彼の推しであるアイが助手席から顔を出して運転手である斉藤社長を呼び出している場所へ吾郎も移動する。斉藤社長への忠告は終わった。今日で退院する彼らにはこれ以上の医師の倫理規定としてもアドバイスはできない。
誰が乗車したかわからないように設置された地下駐車場でアイとその子供である双子を乗せた車がアイドリング状態で停止し、アイに急かされて慌てて運転席に乗り込む斉藤社長。その様子を苦笑しながら吾郎は見ていた。これでは、どちらがアイドルで、どちらが社長かわからない。普通の会社と異なるのが芸能界なのだろうか、と吾郎は思う。
慌てて運転席に座る斉藤社長を知ってか知らずか、助手席に座ったアイが吾郎に窓を開けて顔を合わせる。
「センセ、ありがとう。センセのおかげで無事に子供産めたよ!」
「いや、君や、子供たちが頑張ったからだ」
世話をした、という意識はない。彼女が頑張ったからだ、と普通の妊婦には彼は言う。当たり前だ。彼は医師であり、当事者ではない。そもそも、不審者対策でやや遅れてアイの出産現場に到着しており、素直に賞賛を受けるのは心苦しいものがあった。だからこその返答だ。
「そんなことないよ~。だって、ルビーなんてセンセのこと大好きだし!」
やや不満げにアイは吾郎へ返事する。吾郎としてもアイの主張はわかるつもりだ。ただし、なぜ、そうなったのかについては理解できないままだが。
その傾向がみられなかった、といえば嘘になる。ルビーは常にアイか、吾郎に抱っこされることが大好きだったからだ。現に退院時にこれから東京に向かうといった時のルビーの泣き叫びようと言ったら、死ぬまで離れない、といった風に吾郎の白衣にしがみつく姿は看護師の間で英雄譚(笑)となるほどである。現に今でも泣きつかれたルビーを無理やりベビーシートに乗せて移動しようとしているのだから。
なお、おなじ双子の兄妹であるアクアマリンは、無表情で感慨深げに彼らの挙動を観察していたことを追記する。
「だからこれは保険だ」
吾郎は助手席の窓越しに一枚のメモをアイに渡していた。それは、ガチオタならば許されざる行為。吾郎の個人携帯の電話番号、およびメールアドレスの記載だった。
「え……?」
目の前に突き出された吾郎の連絡先に困惑するアイ。ただの医師からこのような待遇は受けたことはない。ならば、ファンとしての行動か? と訝しがるアイだったが、今の吾郎は医師としての態度だった。それが今さらファンのような態度をとられても‥‥と思ったのだが、どうやら本心が異なることは彼の言葉からもわかった。
「ただでさえ秘密が多い状態だ。子育ても斉藤夫妻の協力もあるとはいえ、彼らも実子はいない状況。初めての子供だ、相談先は多いほうが良いに決まっている。何より僕は産婦人科の医師だからね。これでも産後のケアもやってるんだ」
その言葉に嘘はない。このまま、はいサヨナラという線も考えられた。だが、ファンとしても、なによりも産婦人科の医師としてもこのままアイという患者を放置することはできない。宮崎の地から東京に移るとしても何らかの連絡ルートを残しても罰は当たらないだろう。初めての出産を経験した未成年と、結婚はしているが子供はいない夫妻に双子の育児というのはいささか経験の面から考えても不安が残るのも本音である。
ならば、本職である自分が連絡先を渡すのは不思議なことはないであろう。
「何か不安なこと、雑談でもなんでもいい。気軽にメッセージでもなんでも送ってくれ。これは君のファンとしての言葉じゃない。医師としての矜持であり、遠慮でも嘘でもない。ただのアフターサービスさ」
メモに書かれた電話番号、メールアドレス、その他もろもろのアプリの連絡先をまじまじ見つめて、メモと吾郎の顔を何度も行き来して―――なお、その際にまじまじと見つめられる吾郎の精神状態は考慮しないものとする―――何かを納得したのか、メモを持っていた携帯に挟み込み、アイは助手席越しに改めて吾郎に視線を向けた。
「ありがと、センセ。大事にするね」
それが嘘なのか、本当なのか吾郎は見分けがつかない。
――――嘘はとびきりの愛なんだよ、とそう告げた少女の横顔が忘れられない吾郎への少女の言葉。それが本当に嘘か、あるいは本心か、確かめる術はないのであった。
ただ、これだけはわかる。彼女は純粋なのだ、と。嘘は愛であると信じる一方、その逆への確信は持てていない。その嘘が愛であることを願って彼は、地下に存在するVIP駐車場から願うのであった。
「(‥‥…ああ、さりなちゃん、君が推していたアイドルはとても純粋な嘘つきだよ)」
願わくば彼女の嘘が本当であると確信する日が来ますように。
雨宮吾郎は、それを生前に同士であった彼女と共に、祈り、願うしかないのであった。なお、その同志が彼女の娘として転生していることは当然、知らないのである。
生き残ったゴロー先生の状況でした。退院直後の状況ですね。なお、吾郎先生がリョースケを追わなかった理由は下記に記載しておりますが、走り出す直前に烏が襲撃したからです。
いや、烏から上から襲われるとガチで重かったです(経験あり)
雨宮吾郎
・原作の通りの不審者を発見し、追跡しようとした際に烏に襲撃され、断念する。
・その後の対応として、病院の警備部に報告し、巡回の強化を依頼する(同様の事象があるため、対応は早い。不審者の対応はパパラッチ含む)
・10月(神無月)に森の中の社を掃除する役割を祖母から受け継いでおり、面倒だな、と思いながらも実行していた。
・連絡先(携帯番号、メール、SMS)を斉藤夫妻とアイに渡している。
・さりなから渡されたキーホルダーは常に持っている。
・さりなの命日に東京の墓へ墓参りに行っている。
・なぜか日次の検診でルビーとアクアの検診をする際にルビーだけはやたら離れる際に泣き叫んでいるのか理由はわかっていない。
・16年後に地獄と天国を経験することになるのだが、今の彼は推しが問題なくアイドルを続けられるかのみに注力している。