ぴーすぴーす
「……はぁ……はぁ……」
暗い夜の中、アズサは街灯一つ灯らぬ道を抜け、全く人の気配がない路地裏のゴミ捨て場で倒れ込んだ。ぜぇぜぇと肩で息をしながら体育座りになって、膝に顔を埋める。降りしきる雨が、髪を濡らした。
「……ごめん……ヒフミ……ごめん……」
彼女が仕組んだ最大のトラップ、それは『ヘイローを壊す爆弾』をヒフミとの友情の証……即ちペロロのぬいぐるみに隠すこと。「アズサにはそんな覚悟は無い」と高をくくっていたサオリには絶対に気付かれないと踏んでの策略だった。彼女の悲痛な覚悟はサオリの想定を遥かに凌いでいたのだ。けれど、それは或る意味ではアズサの全てを懸けた切り札だった。自分の補習授業部での日々の象徴であるヒフミからのプレゼントを利用する、そんなことをしたら、自分の居場所はもうこの世のどこにもなくなってしまう。それでも尚、彼女は一人で背負い切ることを選んだ。
「……うっ……うぅ……うああぁぁぁっ!!」
その慟哭を、雨音は無慈悲に、あるいは慈悲深く掻き消した。
ああ、世界というのはいつもこうだ。明晰夢の中でティーパーティー、百合園セイアは呟いた。予知夢という極めて特異的な能力を持つ彼女は、夢の中でありながら現実の全てを見通していた。そして彼女は、いつも諦観したように呟く。結末に、救いなどないのだと。
「香りだけはやたら甘く、味は吐き気を催すほどに不味く、後味は延々と酷く苦い……それがこの世界、この物語の真相、正体だ。そうだろう?先生」
「……」
明晰夢に迷い込んだ先生に、セイアは語りかけた。現実の彼女は錠前サオリに撃たれたまま意識を失い、今も生死の境目を彷徨い歩いているところだった。
「先生、五つ目の古則の話をしたのを覚えているだろう?……君はこう言ったんだ。「楽園があると、信じるしかない」と。……まあ、信じた結果がこれだ。……最初から「憎むのをやめよう」なんて、エデン条約なんて不可能な話だったんだ。全く、そんな話に『
「……」
「結局のところ、エデン条約で明るみになったのは『恨み』だ。トリニティ、ゲヘナ、アリウスにそれぞれ積もった恨み、それが積もり切った果てにエデン条約は歪みに歪んで完成を迎えた。……なんとも酷な話だ。それぞれがすれ違い、壊し合い、最悪の形で心を揃え、それが波及して全てが瓦解する……趣味が悪い人間が書いたシナリオ、傍から見れば滑稽なエンターテイメントだろうね」
「……セイアはさ」
黙って話を聞いていた先生が、初めて口を開いた。
「その先は、もう見たの?」
「……見る必要があるとでも?哀れな物語のエンディングなど、その悲壮感を持て囃すだけ。……そんなことを聞いてどうするんだい?」
「確かに、悲しい話の続きを見るのは怖いよ。今よりもっと、悲しくなるかもしれないから」
「……」
「だから、見なくて済むように、こうして夢の中でずっと隠れてた」
「……先生……?一体何を……?」
「……ごめんね、セイア。もう少しだけ、私もやることがあるから」
明晰夢の舞台となっているバルコニー、そこに置かれた椅子から、彼女はスッと立ち上がった。
「……戻る気なのかい?その身体で?……それに、君が動いたところで何も変わらない……!それが『七つの古則』が示すこの世界の本質、真実だ……!」
「私、そんな真面目な人間じゃないの。そんなこと、気にしていられない」
「……七つの古則を無視するつもりか?楽園の存在証明は私達に課せられた最大の問題、至上命題だろう?……それを……いや、まさか……信じるだけだと?その証明など関係なく盲目的に……?」
「「楽園に辿り着きし者の真実を、証明することはできるのか」……あるって信じ続ければ、いつか辿り着けそうじゃない?……って、そんな真面目な話ですらなくてね。私、一度見た物語はスタッフロールまで見ないと気がすまないんだ」
「……待ってくれ、先生。信じることに、信じるだけの行為に何の意味があると……?!」
「「水着じゃなくて下着だと思えば、それは下着だから」」
「し、下着?!一体何の話なんだい?!」
「じゃあね、セイア!あっちでまた!」
そう言って、彼女はバルコニーから姿を消した。彼女が消えたのを見届けてから、セイアはふと空を見上げた。現実と違い、星がよく見えた。
「……先生の言う通りなのかもしれない。この先の物語、エピローグ、スタッフロール……最後まで見届けるのが私の……傍観者の責務か……」
その長い金髪と大きな獣耳が夜風に靡く。
「……怖かろうと、辛かろうと……それが最後まで苦く、悲しく、後味の悪い話であろうと……そうだね。この物語の結末も、懸命な演者達と、悪趣味なシナリオライターのスタッフロールまで見届けるとしよう」
「正義実現委員会、ツルギ委員長、ハスミ副委員長が共に搬入されました!ツルギ委員長が重傷、ハスミ副委員長が重体とのこと!」
「一部指揮系統が混乱してます!大聖堂への侵入を試みた正義実現委員会と一部シスターが衝突しました!」
「っ?!一部のパテル分派の過激派がゲヘナへの宣戦布告を企んでいるという情報が!」
「……私が向かいます!戻って来るまでに他の問題をよろしくお願いします!」
ハナコは本館、ティーパーティー執務室へ向けて全速力で走り出した。時刻は22時手前、事件発生からは間もなく10時間が経過しようとしている。それでも未だ混乱は収まらず、古聖堂周辺ではまだリエがアリウスに抗戦している最中。ここでの内部の分断は間違いなくトリニティの崩壊への決め手になりかねない。
「宣戦布告の文章は?!」
「はい、準備できています!」
「お待ち下さい!」
ハナコが執務室の扉を開けたのは、宣戦布告のなされるほんの僅か前であった。
「……何故、ここに?……浦和ハナコさん」
「現在宣戦布告を行う権限はティーパーティーに残されていないはずでは?
「……」
「映像をご覧になりましたよね?あれはゲヘナなどではなくアリウスが……!」
ハナコがそう訴えると、パテル分派の行政官はため息を吐いた。
「……この状況です。古聖堂、アリウス、それらの情報を考えると、シスターフッドがアリウスと共謀していたという可能性は否定できません。ですので、パテルはこの事態に対し迅速な対応を決定しました。既に反対したフィリウスとサンクトゥスも拘束しています。……浦和ハナコさんを捕らえて下さい」
「っ?!……クーデター……ですか……?!」
「いえ、違います。そもそも
「聖園ミカさん、こちらへ」
「……ふうん?」
一週間ぶりに、ミカは檻の外へ出た。また面倒なことでも考えてるんだろうなぁ、と考えながら。
「お待たせしました、ミカ様!もう自由です!」
「準備は出来ています!ご命令があればすぐ……!」
「あー、そういうこと?」
少し目を瞑って考えた後に、ミカは明るい調子で口を開いた。
「こんなところまで追っかけが来ちゃうとは、人気者は辛いなぁ。今ペンとか色紙とかないし……握手とかで大丈夫?」
「そ、そうではなく現在トリニティは……」
「え?大体知ってるよ?……それでさ、あなた達は何をしに来たのかな?まさか、ゲヘナに宣戦布告とか?」
「その通りです!憎きゲヘナを滅ぼす時が来たんです!ミカ様の望んでいた通りに今すぐにでも……!」
深刻な雰囲気の中、ミカの笑い声が響く。彼女を迎えに来た行政官の纏う空気は一層張り詰めた。
「あっはっは!みんなよくそんなこと覚えてるね!……うん、あなた達の言う通り、私はゲヘナが大っ嫌いだよ。……それで?勝手にやればいいじゃん。実力行使って奴」
「し、しかしミカ様の命令が……」
「そんなの必要ある?今、私そういう気分じゃないんだよね。あなた達もゲヘナが嫌いなら、勝手にやればよくない?今の私にそんな力無いしさ。……いや、あなた達もなかったね?」
「……どういうことですか?」
「え、違うの?リエちゃんがシスターフッドに任せたんだから、ティーパーティーのあなた達に出来ることなんて何もなくない?何の権限も残ってないでしょ?」
「そ、それは……」
「まさかだけどさ、
「所詮ミカ様達の幼馴染というだけでオブザーバーになったあの女の言うことなど……!」
琥珀のような綺麗な瞳から放たれる視線が、三人を冷ややかに貫いた。
「……あはっ。あなた達すごいね」
「……?」
「あなた達よりずっと強くて、あなた達よりずっと賢くて、あなた達よりずっと可愛くて、あなた達よりずっと慕われてて、あなた達よりずっと良い生まれで、その上私の幼馴染。……なんでそんなリエちゃんより自分達の方が優先してもらえるとか考えたの?すっごい自信だよね」
「言わせておけば……っ!!」
先に手を出したのは、行政官だった。至近距離で放たれた弾丸は、その肩を貫いた。
「……あっは、痛いなぁ」
「立場を弁えろこの罪人が!」
「わざわざ解放してあげたのにそれを……!」
殴る、蹴る、撃つ。ただただミカは倒れて無抵抗にそれを受けていた。けれど、一人の生徒が声を荒げる。
「あんた達何やってんのっ!」
「誰だお前は?!」
「い、いじめなんて駄目に決まってるでしょ!ティーパーティーが何やってんのよ?!わ、私がそんなの絶対許さないんだからっ!!」
「……コハルちゃん……?」
「リーダー……」
「……ひ、姫ちゃん……?」
アズサの『ヘイローを破壊する爆弾』の直撃を受けたアツコ。そのマスクによって致命傷は避けられたものの、重傷であることに代わりはなかった。
「今すぐトリニティを叩き潰す!その上でアズサを……!」
「……その前に、古聖堂に戻らないと」
「は、はい……姫ちゃんの怪我で『ユスティナ聖徒会』にも問題が……多分、戒律を更新しないと……」
「……アリウススクワッド、古聖堂へ出撃する!」
「……違う……まだこんなところで、止まっている暇なんか……!」
次は、次はどうすれば、そんなことは思い付かないのに、何かがアズサの身体を突き動かす。まだ止まるなと、沸々と何かが湧き上がる。
「まだ、『ユスティナ』が残ってる……サオリも、アツコも、まだ……」
傷だらけの肌を雨粒が伝う。冷たいコンクリートに触れた手に力を込めて、アズサはゆっくりと立ち上がった。
「……これは、私の戦い……だから……」
壊れる寸前の身体に鞭を打ち、アズサは再び街を走り出した。
先生は目を開けた。見知らぬ天井だった。身体を起こして辺りを見回すと、何となく分かる。救護騎士団の部室だ。彼女はゆっくりと、その身を起こした。
「せ、先生?!まだ無理したら……!」
「そうですよ!どこへ行くつもりなんですか?!」
側に付いていた救護騎士団のセリナが声を掛ける。同じく救護騎士団のハナエも、同じように。けれど、彼女はいつものように明るく笑う。
「まだ、何も終わってないからね!」
そして止める二人にそう答えて、傍らに置いてあるタブレット……『シッテムの箱』を先生は手に取った。曇天に覆われ、雨の止まぬ空の端が、ほんの僅かに白み始めていた。
先生、ちょっと残りも読んでいただけますか?