「セイア、いる?……それとも、寝てる?」
先生は、頑丈に閉ざされた扉をなんとか開き、パチンと部屋の電気を入れた。真っ暗だった部屋の真ん中にはオーロラを思わせるかのような天幕の掛かった大きなベッド。明かりがついたことに気がついたセイアは半分くらい夢現になりながら天幕を捲った。
「……先生?」
「大丈夫?顔、真っ青だよ?お茶とか飲む?」
「……先生は、無事……ならこれも……私の夢、幻、或いは、虚ろな現実……?……いや、今となっては──痛っ?!」
「正解は現実でした!」
ぼーっと呟いたセイアの頬を抓り、先生はニコッと笑った。「全く、荒療治だね」とセイアも少し微笑んで、それから少しずつ話し始めた。
「……申し訳ない。最近は以前にも増して境界が曖昧でね……過去、現在、未来、その全てが同時に川のように流れ続け、それに身を浸しているような……いや沈められてるような……でも、気に留めるほどのことじゃない。おかげさまで、少し目が覚めたよ」
「そっか。……みんな心配してたよ。何かあった?」
「何かあった……まあ、そうだね。有り体に言えば、そうなると思う。……信じてもらえるかは分からないが、先生、君になら打ち明けても良い」
「大丈夫、生徒の言うことを疑ったりしないよ」
そう言って、先生はは彼女の手をギュッと握る。その温かみにここが現実であることを再確認して、彼女は意を決して打ち明けた。
「……キヴォトスの、終わりを見た」
「キヴォトスの……終わり……?」
「ああ、それが終焉の先なのか、或いはそれを迎える最中なのかは分からないが……それは『終わり』と言って差し支えない光景だった。真っ赤に、まさしく血のように染まった空からは幾つもの黒い柱が飛来し、この世界を抉り、その破片は嵐のように宙を舞いそして真っ黒な光が降って……そして全ては虚空へ消えた。何一つ、誰一人残ることなく」
「……」
「これが悪夢か、未来の脅威か、過去の惨劇か……私には何も分からない。だけれども、一度知ってしまったからには目を逸らす訳にも行かず……私は真相を求めて、明晰夢を渡り歩いた。それが現実を犠牲にすることは重々承知の上でね。……その結果が、今の私と言う訳だ」
「えっと……大丈夫?かなり危なくない?」
「……少なくとも、否定をすれば偽ることになるんだろうね。それでも、逃げたくはないんだ。……君に教えられたからね。……あれは、キヴォトスの中の脅威じゃない。外部より齎された、理解も、推測さえ及ばぬ異物……あれを招いたのは、おそらく『ゲマトリア』。彼らが、終末というエンディングを望んだのだと私は考えている。……だけど、一つくらい方法が──」
「セイア」
話し続けるセイアを、彼女は遮った。
「……そんなところ、一人で踏み込んじゃダメだよ」
「ああ、確かにあの集団と関わるのは……」
「だから、
「……?先生……?」
「それに、セイアはそんなことよりも先に、向き合うべき問題が残ってるんじゃないの?」
しばし目を瞑ってセイアは考える。そして、小さく息を溢した後に言った。
「……そうだね、優先順位を履き違えていたよ。これ以上、浅はかな友人に間違いを重ねさせる訳にも行かない。彼女は……ミカは、人生のどん底の真っ最中だ。彼女は何を望んでも与えられ、何をしても褒め称えられ、何を言っても取り巻きが集まる……まさしく、童話の中のお姫様のような人生を送ってきた。それが、唐突に世界の敵になった。無論、彼女に落ち度があるのは間違い無い。だけど、その運命は彼女一人に負わせるには些か過酷過ぎる。……ありがとう、先生。改めて、目が覚めたよ。私は、彼女を救わなければならない」
「ありがとね、セイア。それと、ミカが謝りたがってたよ」
「謝る……そうか、それは夢で……こちらでは、まだだったか。……まだ、ミカは私に許しを求めてるのか……」
セイアはまた、思い返すように目を瞑った。
「……敵役の一人に過ぎない、傲慢で、生意気で、分別のつかない悪役令嬢がお似合いだったのに。君は……童話の主人公のお姫様に憧れて……その果てに、童話ではなく寓話の存在へと落ちてしまった。だけど、彼女はそれだけは失わなかった。……私を殺し、『人殺し』という業を背負うまでは至らなかった。……もしかしたら、それだけが、君の救いなのかい?お互いに半分大人の世界へ踏み込んでなお「ごめんね」とさえ言えないとは……どうやら、寓話の存在は、君だけじゃなかったみたいだ」
「大丈夫だよ。きっと、また物語のような、輝かしい……夢のような日々に戻れる。そしたら、また四人でお茶でも飲みなよ」
「……そうだね。そこが、私達のゴールなんだろう。……分かった。今すぐミカと会おう。それで、私も明日の聴聞会に同行する。おそらく、ミカの罪状の中で最も重いのは私へ危害を加えたこと。なら、被害者である私がいたら、リエも少しは軽い判決を下せるだろう」
そう言って、セイアは手元の鈴を鳴らす。コンコン、と部屋のドアがノックされ、サンクトゥスの行政官が姿を現した。
「お呼びでしょうか、セイア様」
「ああ、至急ミカを連れてきてくれたまえ。二人きりだとなお良い。……あまり、人に聞かせる話でもないからね」
「承知しました。リエ様は……現在外出中ですので、ナギサ様へ確認を取ってきます」
「ああ、よろしく頼む」
一礼した後、彼女は早歩きで本館の方へ戻って行った。それを見て、先生も椅子から立ち上がる。
「……じゃあ、私もこれで。ナギサに報告しないとだからね!」
「ああ、聴聞会でまた会おう、先生」
セイアに別れを告げ、ティーパーティーの執務室へ向かう先生。丁度その時、彼女のスマートフォンに見知らぬアドレスからの連絡が届いていた。差出人は『錠前サオリ』、そう記されていた。
「──それでは、次の議題について」
「そういうこった!」
「その前に一つ」
ミカが来る前に、少しだけ休もうとベッドに戻ったセイアが次に見たのは真っ暗な部屋の会議だった。「また明晰夢か」とセイアはため息を吐いた。
「どうかしましたか?マエストロ」
「……ああ……」
僅かに見えた彼らの姿に、セイアは気がついた。真っ黒なスーツに、ひび割れたマスク。タキシードを身に纏った双頭の木偶人形。「そういうこった!」と繰り返す、コートを来た首無しの男。彼が抱える絵画の中で後ろを向く、帽子を被った肖像。頭部に無数の目を携え、白いドレスを纏った赤肌の貴婦人。
「ベアトリーチェに質問がある」
「……はい、何でしょう?」
ゲマトリアだった。夢の中だと分かっていても尚、彼女は息を呑まずにはいられなかった。
「貴下の要請で私が作品を貸し出したのは忘れているまいな?戒律の守護者達を複製し、助け舟とした件だ」
「もちろん、忘れることなどありません。あなたのおかげで、私は私の領地内での力をより強固なものに出来ましたから」
「そのような利用、私は許可した覚えがない。作品のそのような利用は認めていないはずだ」
「あら、あの『現象』の所有を主張するのですか。マエストロ」
「不躾だな。それは──」
「不躾?この私に不躾と?」
「お二人共、少し落ち着いて下さい。事を荒立てるのは賢明とは言い難いです」
「そういうこった!」
「それで、おそらくマエストロはありふれた現象から有り難い解釈を導くことを自らの表現だと考えているのでしょう」
「……」
「しかし、マダムはそれを考えるつもりはない。当然です。私達はそれぞれ違うアプローチでこの世界を紐解こうとしているのですから」
「……つまりは、マエストロは私に武器を奪われたと考え、それが気に食わないと?」
「否、芸術は武器たり得るかもしれないが、武器は芸術たり得ない」
「仰る通りです。それが何か?それに、あなただけではありません。黒服の
「……」
「……」
「私はあなた達の芸術に興味はない、それは『ゲマトリア』に加わる始めから主張し続けているはずですが」
「クックックッ……その通りです。それはそれで構わない、それが私の考えです。身内の争いこそ生産性がないかと。……彼女の持つ『領地』こそこの計画に必要不可欠なものですから」
「『アリウス』、その全てを自らの支配下とする……それは、成し難い偉業と言って差し支えないでしょう」
セイアは目を見開いた。「アリウスはゲマトリアに支配されている」……その事実が、脳の隅々まで一瞬で行き渡る。
「黒服のアビドスは残念でしたが……いえ、皮肉のつもりはありません」
「ククッ……結構です。それなりに良い所までは進めたと思ったのですが……『先生』は計算外でした」
「……『先生』……?ああ、例の方ですか。私達の敵対者」
「そういうこった!」
「いえ、あの者と対敵する必要はないでしょう。むしろ私達の仲間として引き入れた方がメリットは大きくなる」
「ああ、私としても大変素晴らしいものを感じる。きっと彼女こそ……私達の芸術を理解するに足る者に違いない……」
「私はまだ保留とさせていただきたいですが……もし彼女が仲間として加わってくれるのならば──」
「愚かで怠惰、それでいて浅はかという他ありませんね。彼女は必ず排除すべき存在です。……分からないのならば、一からご説明しましょう」
「……」
「まず、聖園ミカがアリウスを訪れて以降、彼女は非常に良い働きをしてくれました。そう、私に大きなインスピレーションを与えてくれる……ミューズと言っても良いでしょう。エデン条約を利用することも、『預言の大天使』の殺害も、全て彼女のおかげです。そのための力を貸してくださったデカルコマニー……いえ、ゴルコンダにも感謝を」
「そういうこった!」
「私はテクストを提供したのみです。実現に至らせたのはマダムですよ。むしろ、これは失敗に至る一ピースでもあったのですから」
「そうかもしれません。ですが、生贄に備えた防御システムのおかげで九死に一生を得ました。黒服にも感謝致します」
「クックックッ……無名の司祭の技術が役立って何よりです」
「そして、彼女が私に与えた最後のインスピレーション……それが、彼女……『シャーレ』の『先生』です。彼女がトリニティに招かれたおかげで、私はその存在について考察する余地を得た。……私がアリウスを狙った理由、それは秘匿性の高さに他なりません。満ちていた『怒り』『恨み』『憎悪』など取るに足りないもの。全て、アリウスの全ては私にとって道具でしかないのです。……しかし、あの者が介入した瞬間、全ては意味を持ってしまう。私の持つ全ての意味が塗り替わる。……最大の危険要素を無視することなど誰が出来ましょうか」
「……」
「ですので、私の最初にして最大の目的、それこそが『先生』を消すことです」
「……なる程、まさしく敵対者と言ったところですね……」
「ふむ……」
「私の計画が気に入らなくても、あなた達に関係はないでしょう?私達は各々の目的を共にいるのみなのですから」
「……ええ、その通りです。思うがままに為すと良いでしょう、ベアトリーチェ」
「……」
「……」
「ですが、結局あなたが計画について語ることはありませんでした。……あなたは、アリウスで何を為そうとしているのですか?」
「……『祭壇』を用意致しました」
「……祭壇……」
「あなたがアビドスで為そうとしたこと、それと大差はありません。私は契約などという手には拘りませんが」
「……なるほど、契約ではなく儀式を……本来、その二つに明確な境界など無いとも言えます。……その上で、先生はあなたの邪魔になると?」
「はい、その通りです。……ですがご安心を。既に手は打ってありますので。あとは、『スクワッド』にお任せ致します。「先生を殺せば全て許す」と提案しましたから」
「先生が──?!」
ベアトリーチェの言葉に反応し、セイアは思わず声を出した。「あなたが深淵を覗く時、深淵もまたあなたを覗いているのだ」、その言葉の通り、セイアがそれを観測しているということは、それもセイアを観測できるということ。セイアの額を汗が伝った。
「……どうやら、ネズミが紛れていたようです」
「……?!」
「ここに?ここには我々以外……」
「長話が過ぎました、私はこれで失礼します」
真っ暗闇から目を覚ます。意識がふわふわと原型を保たぬ中、セイアは情報を必死で結びつける。アリウスに残されていた謎、その全てに。
(……もしスクワッドが……先生を狙っているなら……誰かに……誰かに早く……!)
ゴホゴホと咽て余った袖で口元を押さえると、そこにはベッタリと真っ赤な血痰が。それでも彼女は必死に解決策を探して思考を回す。
(私が狙われて……エデン条約が崩壊して……みんなが怪我をして……先生に危機が迫ってるのも……全て……全て……)
「えっと……その……こ、こんにちは……セイアちゃん……」
「君のせいで……君のせいで、先生が……スクワッドに……!君が、先生を連れてきたから……!」
訪れた彼女を見て、セイアは反射的にそう言ってしまった。
(……いや、違う……そうじゃない……そうじゃない……!私は、君に……!)
綱渡りを踏み外したような感覚に気が付き、訂正したのは身体が言うことを聞かなくなってから。暗くなっていく視界の中、最後にセイアが目にしたのは、光を失った、自分が光を失わせたミカの綺麗な瞳だった。
ちょっと長い文章も楽しい