蛇に睨まれた蛙とはよく言うが、圧倒的上位者を前には気づかれてすらいないのに死を覚悟するものだ。それを実感してしまった。実感したくはなかった。
尊大に、不遜に、あの怪物は山中に立っている。
「怪鳥……クロガミオバナ」
バレないようにと本能的に閉じられたハズの口が、どうしてかその言葉を呟いてしまう。
書斎の本で、あれの絵を見たことがあった。
確か……そう、牛の突進に押し勝つほど力が強く、そして狡猾な気性の鳥だ。しかしあの怪鳥の力はそれだけじゃない、あの尾羽からふりまかれる黒い霧は、周囲を夜へと変えて、獲物を決して逃げられない闇の中に連れて行くのだとか。
あのいくつあるかもわからない瞳で獲物を睥睨し夜を連れて降り立つ様は、冒険家たちから「もっとも気軽に遭える悪夢」として恐れられているそうだ。
人の子など狩りと呼ぶまでもなく、ただのおやつ感覚で捕まえたのかもしれない。うわさに聞くような夜が訪れることはなく、高貴なままにティムらしき少年を捕えていた。
強者の余裕か、周辺を警戒するようすすら見せずにゆるりと巨躯が揺れる。連れ去ろうとしているのか、仕留めようとしているのかはわからない。だが確かなのは、やつが倒れる少年へゆっくりくちばしを近づけていることだ。
「ツキちゃん、あのままだと……」
「そ、そうだね。どうにか」
このままではまずいのは確かだ。だが私にも、シーアにも、どうにかできることなどなにもない。
楽観視しすぎた。いいや、こうなる可能性を十分に理解しながらそんなはずはないと足を運んでしまった私の判断ミスだ。
しかしシーアが、シーアが最大限やりたいことをやれるようにと心に決めたのは私だ。ならば腹をくくるしかない。
周囲に転がっている小石の中から、程よい大きさのものを拾い上げて両手で包む。
「シーア、私が囮になって気を引くから、アイツが私を追って離れたらこっそりあの子を連れ出して逃げて」
「……………………わかった。すぐおとなの人つれてくるから。ごめんね」
逡巡するような間のあとに、頷いてくれた。
シーアは足音を立てないようにゆっくりと別の場所に移動していく。それを確認してから私は深く息を吸い込んだ。
「願わくば……えと」
魔法と聞いてイメージされるものは様々だと思う。おそらく私が想像する限りでは例をあげきれなくて、でもきっと共通しているのは不思議なことが起こるということだろう。
「炉にくべる火」
この世界では、神様に願ってその奇跡を引き起こす。捧げものをして、彼らの権能を借りるのだ。
「赤く、熱い火を与え給え」
炉で熱された鉄のように、掌の中の小石が赤く白く熱を持つ。溶けてしまいそうなほど熱くなった石は、しかしその形状を保ったままだ。
それでも私がやけどしないのは、神様が加護をおまけしてくれたからだろう。略式の儀礼なのに、ずいぶん親切な神様だ。
小石を力強く握りしめ、振りかぶる。
この距離の投擲など子供にできるはずがない? いいや、私はクマの獣人だ。きっと、いける、たぶん、ぜったい。
ぽす。軽い音だった。
絶叫も何も聞こえず、ギョロリと無数の瞳がこちらに動いた。
「…………そりゃそうか、肌に当たらなきゃ熱くても意味ないよね」
放物線を描いて飛んでいった小石はヤツのふかふかな羽毛にあたって落っこちたのだ。地面に転がったあとは目で追えなかった。神様の加護を纏った小石も、使い手を誤れば原っぱの有象無象に早変わりだ。
この世界に生まれて初めての暴力は、あまりに無力なまま終わった。
「ギィァアアア!」
「ひ」
当初の目的は達成した。怪鳥の注意は私に向いたし、私を追ってティムから離れてくれた。
だがそれでも納得いかないことには納得がいかないのだ。地面を踏みしめながら私は涙ながらにそう思った。
◆
今自分がどこにいるのかわからない。
街の方に進んでいるのだとしたらそれは囮として問題だから、山の方へ戻らなければならない。
山奥に向かっているのだとしたら、深みに行くほど大人の助けを期待できなくなるので街の方へ引き返さなければならない。
……けど、このわからないはそれ以前のことだ。
ここが現世かわからない。
「はぁっ……はぁ……く、あ、はぁ……」
クロガミオバナの尾羽が振りまく黒霧は世界を夜に塗り替えるという。
私はただの比喩表現だと思っていた。黒い霧で埋め尽くされることで、まるで夜のようになってしまうのだと。
しかし木々の隙間から見える月がそれを否定する。
私が移動したのか、世界が塗り替えられたのか、昼前の日常が、真夜中の非日常に早変わりしている。
だから、この夜の世界が死後の世界ではないと否定する材料が見つからない。
「……はぁ、くそう。ひぃ、悪、夢だ!! うわっ」
闇の中から不可視に近い攻撃が、私を掠めては吹き飛ばす。今のも直撃させられただろうに、弄ぶように、楽しむように、アイツは直撃を与えてこない。
そんな悠長なことをしていたらあの気絶した少年が起きて逃げるかもしれないのに、きっとそんなことはどうでもいいのだろう。
きっとちょうどいいおもちゃを見つけたと思っているのだ。
獲物を逃がしても気にしない、だっていつでも狩れるから。圧倒的な上位者気取りの不遜なバケモノ、鳥のくせに生意気だ。
でも、正しくそうとしかいえないほどの強者なので、弱点として突くこともできない。もっとも、回避以外の行動をとる勇気などないのだが。
地面に転がってその勢いのまま立ち上がる。人間、案外訓練を積んでいなくてもとっさの動きというのはできるんだな、そんな新発見をしてしまった。
「……い……ッ」
起き上がったばかりでまだふらつく体に激痛が走った。痛みのもとは右腕、だと思う。暗くてよく見えないが、服が裂けている部分から重く鋭い痛みがあふれてくる。
怪鳥の攻撃が当たったのかもしれない、もしかしたら地面を転がった時に鋭い石でも踏んだのかもしれない。
なんにせよ止まっている暇はない。とにかく動き続けなければ。
そう思って、また一歩踏み出そうとして。
気づけば地面が目の前にあった。
「……くは……あ、れ?」
おかしい、数瞬前まで木に寄りかかっていたはずだ。どうして今私は倒れている。
倒れているのか。そうか、倒れているんだな。
どうにか状況を理解しようとして顔を横に向けると、すぐそばにアイツがいた。特に色濃く夜闇を引き連れて、傲岸不遜な捕食者は私のすぐそばまで迫っていた。
「あ…………」
あの無数の瞳は、そのすべてが私を見下ろしていた。
「ひっ」
私を食らうだろう捕食者は、霞んでよく見えない。
痛い。
そういえばこれ、貴人がするべきことだろうか。
……。
どうしてこうなったのだったか。
……。
実力も足りてないのに、私はどうしてこんな。
……。
「…………たすけて、だれか」
視界に、クリーム色の影がよぎったような気がする。
優しいやさしいクリーム色の影が、私と怪鳥の間に割って入って、あの恐ろしい鳥が見えなくなった。
ぼう、とした光景が、映画を見るように流れていく。
「こんどはこっち、私のほうに……」
聞き覚えのある声色だった。
安心する声だ。
「え? これ?」
なにを話しているのかはわからない。
「そう、あげたら帰ってくれるの?」
だってだんだんと、視界が掠れていっているから。
「わかった。あげるね」
破裂音が聞こえた。
同時に、大きなものが倒れる音も。
だけどそれが何か考えることも煩わしかった。
「……ん……ちゃん!」
だけど身体を揺らされて、意識がいくらか引き戻される。
うっすらと目を開けると、見覚えのある顔があった。
必至の表情で私に呼び掛けている彼女は、ときおりなにかお願いするような言葉を口にして、そのたびに私は少し楽になっていった。
「ツキちゃん!」
「シーア?」
「ツキちゃんっ!!」
シーアだ、シーアがそこにいた。
「ごめんね……ごめんね……私がこんなことしたから」
涙目のシーアが、ゆっくりと私から離れていく。
あたりは明るかった。
「……あいつは?」
すでに怪鳥はどこにもいなくて、不気味な夜も明けている。
大人たちが追い払ってくれたのだろうか。
少し離れたシーアの、その顔が少しおかしなことに気づいた。
両目から大粒の涙を流しているように見えていたが、どうも右頬が赤く、右目が開かれていない。
「目、右目。どうしたの?」
「ん? ……あ、これ?」
シーアが私から離れていくにつれ、その後ろの風景があらわになっていく。
その中に、大きな異物が紛れていた。
それは地面に横たわってピクリとも動かない、大きく、不気味な……。
「あげたら帰ってくれるっていわれたの。でも、あげたらたおれちゃって」
怪鳥クロガミオバナの大きな大きな骸だった。
その瞬間、私はあの破裂音と、その次に聞こえた何かが倒れる音を思い出した。
そうだ、その前彼女は何かと話していたような気がする。
「あげ、る? なにを……」
「め」
「……、…………」
どういう経緯かはわからないが、シーアはその右目をクロガミオバナに渡したらしい。記憶が正しければ躊躇いなく。
……私を、守るために?
私は、散々守るだの力になるだのと豪語していた癖して、守りたい相手に命を救われ、挙句の果てに一生モノの欠損まで負わせたの?
「……う」
「ツキちゃん……ツキちゃんどうしたの? まってて、すぐおとながくるからそしたらキズをなおしてもらお?」
私は、私が痛くてたまらないとき、囮になったことを後悔していたというのに?
どうしてシーアは、もう一生片目に光が戻らないのに私を心配していられるのか。残った瞳で涙まで流して。
「……ううん、ごめんね」
六歳だぞ。ここで彼女がわがままを言って泣き叫んで許さない非情な人間がどこにいるというのだ。
だって精神が大人の私でさえ、あの瞬間命乞いをして、生きる理由にしていたものに対してさえ後悔を……。
ああそうか。そうだったのか。そういうことだったのか。
今、この場で大人、子供なんていう概念がなんの役にもたたないことにようやく気づけた。
そんな対比構造に囚われているから傲慢にもシーアを庇護対象として見ていて、自身を大きなものに見せようとしているのだ。
「ごめん……シーア」
私は自分の人生の生きる言い訳を他人に任せているだけのクズだった。
なぜ死んだかもなぜここにいるかもわからない私は、私は大人だと告げる記憶に依存していて、なんの意味もないプライドを抱えていたのだ。そしてその凝り固まった矜持を維持するための材料として、シーアを利用していた。
彼女の性格を踏み台に、守るだの手伝うだの庇護するような言葉を使って自分を大きく見せようとしていたのだ。
彼女……シーアはどこまでいっても優しいお姉ちゃんだった。
初めからわかっているようでわかっていなかった。
ゲームの中で見たように、彼女は彼女なのだ。
ここだけの話、シリアスは終了です。