この世界で、潮の香りから逃げられる場所は非常に少ない。
背伸びをして、深呼吸するといい。波の音が聞こえなくとも、あらゆる場所で宙に残滓が漂っている。
たとえその羊水に漂う胎児でなくても、あの母なる水溜まりと共にあるのだ。
きっと海に郷愁を覚える人は、ずっと寂しい気持ちのままになる。
海から離れることなどできない。
私はそれが、不気味でならない。
「……ココも変わらないなぁ」
「何がだよ」
「んー、気にしないで」
宿のロビーにいるのは、私とスーシェだけだった。引率の先生も、宿の従業員もいない。夕飯が近いから 、忙しいのだろう。
レコードから流れる音楽に浸りながら、木製の長椅子に腰掛けている。
想定外にシロが突如気絶したとしても、わざわざ彼女のために遠足がストップするということはない。
遠足一行に着いてきていた医者が診て、原因不明だが身体に異常がないと判明したからには彼女を寝かせたまま次の予定に移ることになるのだ。
とはいえ、次の予定とは宿で夕食を待機したり、風呂に入ったりすることだけなのだが。
「どーすんだよこのあと」
「シーアにはシロを見といてっていって、部屋に置いてきた。原因を探さないことにはどうしようもないからね……幸いまだ夕方になるかならないかくらいだし、玄関に先生もいない。
スーシェは?」
「たしかめに行く」
「ここの信徒たちに?」
「……」
彼は引き戸を開けて、出ていってしまった。
うーん。ショタっ子スーシェくんから私は一体どのように見えているのか、謎である。
ちょいちょい踏み込んだワードを突っ込んではみているが、反応してくれないしホントなんなの……こわいよ……。
私は全身を預けるようにして座り込んでいた長椅子から、怠惰な欲望を振り切って立ち上がる。
「…………ん、く」
まだ体が固まるほど年齢を重ねてはいないが、背伸びをするといくらか体が軽くなるような気がした。
しかしそれ以上に重くのしかかる事柄が、私の呼吸を苦しくしている。
現状、私が抱えている大きな問題は三つある。
まずシロと恋占い。
私が完全に知らないところから出てきた、完全初見の問題だ。どういう状態にあるのかわからないが、シロは今なんらかの怪異から干渉を受けている可能性が高く、そしてついには気絶した。
悪いことばかりが起こって解決の「か」の字も見つかっていない現状としては、割と早急に解決すべき事柄だ。
次にシーア。
これまた知らないルートに突入する可能性の高い問題だ。そもそも原作『ターニング ターニン』のシーア=ピュセーテの両の瞳はしっかりと輝いている。
ただでさえ原作のあらゆるルートであらゆる結末を迎えるシーアだ。
あの栗色の瞳が片方失われたことが今後一体どのような影響をもたらすのかわかったもんじゃない。それにあの子は色々気づきつつある。本来まだ知るべきでないことを知ってしまったというべきか。
スーシェのこと、神々のこと。察しのいいあの子の頭の中で今すでにどこまでたどり着いているのか私には全くわからない。
実は大してわかっていないのかもしれないし、私も知りえないことに気づいているのかもしれない。
もとより、不確定要素が多すぎる。
最後に私と邪悪な信徒。
本来発生すべきじゃない問題だったというか私のガバが原因だったというか。記憶違いでスーシェがすでに邪悪な信徒だったり、私を狙ってきた信徒だったり。
私は今、彼らのなんなのだ。なんと思われていて、今後どのように干渉される。
いい加減スーシェを介して渡りをつけるなりして敵対なり非干渉なり直接立場を明確にしにいったほうがいいような気がする。
……が、肝心のスーシェと私が今どういう関係なのかわからない。マージでわからん。仲良く会話できる間柄ってわけじゃないし、かとあまり会話する関係でもない。
どちらも相手方を探っているような感じだが向こうはまだちびっ子だし、私はそんな頭良くないしでどっちも何も得られてないみたいな会話になる。虚無じゃん。
ガキってもっと、こう……単純じゃないの?
女の子と話せてハッピー、いえい。みたいな。違うの? もっと情報漏らしてくれていいのよ??
さっき出てったスーシェが、何を目的に行動してるのかわかってないしね。邪悪な信徒的にあの恋占いはどうやらなにかが違うらしいし、シロひいては私に利する行動をとってくれることを願うばかりだ。
「あ゛ー。行くかぁ」
スーシェも宿から無断で出ていって少し経ったことだし、私も行くとしますか。
ちなみに彼が出ていってからしばらく時間をずらしたのは、別に先生たちに気づかれないようにとかじゃない。そんな考えなら玄関近くのロビーで待機していない。
ではなぜか、簡単だ。疲れて椅子から離れたくなかっただけだ。
いくら元気な子供でも、精神がこれじゃ気力が湧かないのよ。
しかし日が暮れるのは早い。今日できることは今日しておきたいのでとっとと行動に移すべきだ。
私は玄関の引き戸に手をかけて力を込めようと……。
「あれ、ツキさん……スーシェのやつしらない? さっきからどこにもいないんだけど……てかなにしてるの?」
「ひょぴぇっ!?」
めっちゃビビった。
私は飛び跳ねて玄関から手を離すと、近くの壁に背を預けて声の主を睨む。
「…………なんだ、コルか」
コル=コロル、スーシェの友人だ。
彼は右手で後頭部を掻きながら、キラキラした瞳で私を見ていた。
「あーえと、ちょっとね。なんでもないよ。スーシェは知らない」
「ふーん……で、なにしてたの?」
彼はコツコツと寄ってきて、私に触れそうな距離まで近づいてくる。
そっと伸ばした手を私の背後の壁に添え、逃げられないようにしてくる。壁ドンか??
興味深そうに私を覗き込んだ。
やめろ、こんなところで原作乙女ゲーの風格を出すんじゃない。
尋問に使うな。
私は心からそう思った。
「もしかしてこっそりぬけ出そうとしてたり?」
「……」
「いわないなら、先生にいっちゃおうかな」
「…………抜け出そうとしてました。あとスーシェも外行きました」
私はアイツを生贄に差し出した。私一人が犠牲になるの良くない。
するとコルは小動物のような目をぱちくりとさせて、私から離れた。
「スーシェが?」
「うん」
「俺もさそってくれたらよかったのに……」
その不満そうな顔をしたかと思えば、すぐに私に向き直った。
嫌な予感がする。
「ね、ツキさん。俺もついてっていい?」
「……いや、今回はご縁がなかったということで」
「ダメなら先生にいうけど」
「どうぞついてきてください」
「やった!」
私はすぐそこにある天井を仰いで、額を手で抑えた。
この子もこわい……。
◆
ぴぃ。ぴぃ。
傾いた夕日が、窓から強く強く差し込んでくる。
赤とそれ以外、実に簡素な区別が最も似合う。
その部屋は、そんな場所だった。
普段とは違う、慣れない樹木の香りが充満するここは 、エリーナ総合学園初等部の遠足中の生徒たちが泊まっている個室のひとつだ。
三から四人が寝泊まりできるよう家具が備え付けられているはずだが、今部屋の中にいるのは二人だけだった。
ひとりはこの部屋で泊まるスズメの子、もうひとりはそのスズメに会いに来たクジラの子。他のここに泊まる子たちは、それぞれ用事があっていなかった。
スズメの子……シロは少し前、ここに連れられてきたときからずっと目を閉じて、眉間に皺を寄せながら横になっている。
その焦げ茶色の髪をシーアに撫でられながら、あの気絶の以降一度たりとも目を覚ましてはいない。
「みんなはおきてほしいみたいだけど、もっとねててもいいからね」
心配した友人が部屋に押しかけてきても、シーアが絶えることなく頭を撫で続けていても、換気のために開いた窓枠に小さな鳥が一羽止まっても。
その騒々しさや小動物の小さな歌、どんなものでも彼女を起こすに至らなかった。
残り気軽に試せるものがあったとしたら、王子様のキスか気付け薬くらいなものだろう。
「シロちゃんがおきるまで、わたしはずっととなりにいるから。きっとおきるまでに神さまにイタズラをやめてもらうから」
撫でる手を止めることなく、シーアは顔を覗き込んだ。
シロは眉間に皺を寄せ、呻きのような声を漏らしている。
ぴぃ。ぴぃ。ぴぃ。
窓枠で羽を休める小鳥は、シロを心配するように呼びかけた。
◆
物事を解決するのに現場と呼べる場所が存在するのなら、そこほど手がかりのありかとしてあげられる候補地はないだろう。
今回のその現場とは、神殿の祭祀場であり、泥の神を祀る場所だ。
「……けどそれじゃ、おとなに見つかっちゃうんじゃないの?」
「もちろん。こっそり宿から抜け出してきた私たちは人に見つかるだけでリスクになりうる」
よくいえば好奇心旺盛とも取れるコルを今回の事件に巻き込むのは気が引けた。なにせ、それは猫をも殺すものだ。これ以上問題が増えるのは勘弁なのだ。
とはいえ、彼がついてきてしまった以上はいくらか事情は話さねばならない。
だからこう言ったのだ。
「シロちゃんがああなったのは不自然だから、泥の神様がなにかしたのかもしれない。だから見に行くの」と。
ふふん、これで彼がついてくるのもこの一件だけになるだろう。今回だけちょっと楽しい程度に手伝わせて後に続かないようにする。我ながら惚れ惚れしてしまうほど完璧な計画だ。
「でもね今回の場合、現場と呼べる場所は他にもあるんだよ」
「どういうこと?」
「忘れた? みんながやったあの儀式はどういうものだったか」
「えーと、この島のいいつたえをまねしてて」
「そうそう」
「ぬまにすんでる神さまの家にまよいこんだ男の子が……もしかして」
「そう、沼に、神さまの住処に向かってるんだよ」
「えぇ……ほんとになにか見つかるの……?」
私は痛い指摘を無視しつつ、島の地図を広げて現在地を照らし合わせた。
私たちは今、山を少し登りかけた森の中にいる。あと少しここを進めば、沼地に着くはず……たぶん。
「ぬまについたらどうするの……?」
「沼に着いたら……えと、うーん」
考えてなかった。しかしここでそのままを伝えるのも癪だ。
「なんかきっとわかるから」
「……ふーん」
「あ、ほら、見えてきた」
途端に樹木の数が減るなどということはない。ただ地面がべちょべちょとしてきて、たまに大きなベージュ色の水溜まりがあるだけだ。
「ほんとになにか、見つかるの?」
「たぶん……ほら、なんか置いてあるし!」
「あれはたぶんここの人が来たあとだとおもう」
木の樽と釣竿、あとはいくつかの靴跡に二人分の視線が向けられた。
「えーと、あれとかどうかな!」
「んー?」
「ほら、あそこの黒い沼……あれ?」
「あそこの大きな木のかげだよね」
一瞬真っ黒な沼に見えたものは、ただ薄い影がかかっているだけで、黒くも何ともなかった。
「……もしかしてほんとに来てみただけ?」
「……………………あ、ほら!」
「えーこんどはなにがあったの」
一瞬何かが動いたような気がした所を指差すと、ただの沼が広がっているだけだった。
少し広い水溜まりのようになっているところで、縁以外は影が差していることもない。
「ただのぬまじゃん」
「なんか動いた気がしたんだけど」
「いよいよ信用できなくなってきたんだけどなぁ」
二人してそこを見つめていると、ごぽっと大きな泡が浮き上がってきた。
「……」
「……あれじゃない?」
「かもしれないね」
するとすかさずごぽごぽと大量の泡が湧き出てくる。
大小関わらず、絶え間なく、ごぽごぽと。
「……」
「待って、一人だけ逃げないで。怖いの?」
「ツキさんこそにげようとしてるよね、こわいの?」
「だ、だって明らかに怪しいじゃん、怖い怖くない以前の問題だと思うなぁ!」
「こういう手がかりがほしかったんでしょ! 見てきなよ、おうえんしてるよ!!」
「…………」
「…………」
私は離れようとするコルをぐいと抑えて引く。
コルも私を掴んで沼の方へ押す。
そうしてる間にも泡は湧き続けて、濁り切っているはずの水面に、黒い影が見え始めた。
「わっわっわっわっ」
「でてきてるね、なんか来てるよねこれ!」
互いを掴んでいた手は、次第に力が強くなってきて離さない。
そう! 私もコルも、ふたりで逃げるという考えを忘れているのだ!
次の瞬間、ざばぁと大きな水しぶきが上がる。
その濁った水柱の中に、黒い大きな影が見えて。
「ひぃぃいいいっ!!」
「ぴゃぁああああああ!!!」
この状況か互いの声に驚いているのかすらわからない。
混乱を極めた私たちの前に現れたのは、果たして。
「げこ」
沼の縁に着地して、喉を強く鳴らした。
「…………カ、カエル?」
デカイ。
大人のすねほどまである大きさの丸っこいカエルが、醜い人の子らを嘲笑するように跳ねてどこかへ消えていった。
「…………」
「…………」
互いに顔を見合わせて私たちはようやく状況を理解する。
そうして同時に、ため息を吐きながら崩れ落ちた。
ふと思いつきで、作品のタイトル変えようかなと思ったり思わなかったり。