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「他人と同じ夢を見られるか、ねえ」
その日は雨だった。
あの夢と同じ、鬱陶しく降るような雨だというのは、私の考えすぎだと思う。
午後の授業が終わってから、いつもの理科準備室へと足を運んで。
相変わらず、奇妙な薬品を手にしたタキオンさんに夢のことを一通り伝えたあと。
しばらくの時間が経ってから、溜息と共に伝えられたのがそんな言葉だった。
「教えてください。科学的に可能なんですか?」
「何とも」
「……それだけ、ですか?」
「夢に科学的な根拠を求めることはやめておいた方がいい、とだけ伝えておくよ」
つまらなさそうに答えてから、タキオンさんが試験管をビーカーへ傾ける。
……他人が真面目な話をしているというのに、この人は。
「いいから、はっきり答えてください。可能なんですか? それとも……」
「……今日はやけに食いつきが良いじゃないか、カフェ」
向けられる視線には、少しだけ苛立ちが混じっている気がした。
「いつもは私のことを邪険にするくせに、こういう時だけ私を頼ってくるなんて。カフェ……君は少し、都合が良すぎると自分で思わないのかい?」
「……アナタだって、私のことを都合のいい人だと思っているでしょう」
「そんなことはないさ。私は君のことをかけがえのない友人だと思っているよ」
「また、そんな見え透いた嘘を……」
「本心だよ。信じられないようなら、何だ。今ここで、君を口説いてみようか?」
「……結構です。気味が悪いので」
「おや、そうなのかい? それなら、仕方ないか……」
くすくすと笑いながら、タキオンさんがそう答える。
……揶揄われているということだけは、理解できた。
「とにかく、夢に対して科学的なアプローチを試みるのはやめておいた方がいい。君がどれだけ努力しようと、くだらない徒労に終わるのがオチさ」
「それでも構いません。このまま何もしないよりは、ずっとマシです」
「……前々から思っていたが、たまに君はひどく意固地になる時があるねぇ」
「いけませんか?」
「いいや? むしろ、君のそういうところが私は好きなんだ」
「……口説かないでください、と言ったはずですが」
「ふふ」
薄ら笑いを浮かべながら、タキオンさんが私の方へ向き直る。それから私の顎へ手を伸ばそうとしたから、急いでその手を強く振り払った。
……こういう時のタキオンさんは、どこまで本気なのか分からないから、困る。
「つれないじゃないか、カフェ」
「いい加減、質問に答えてください。くだらない遊びに付き合わせないで……」
「くだらないだなんて、酷いなあ。私はいつだって本気なのに」
不満そうに息をついてから、タキオンさんが空になった試験管を机に戻す。
「まあ、そこまで君が言うなら答えてあげよう。今の私は気分がいいからね」
「……私はずっと、気分が悪いままなんですが」
「おや? それなら慰めを先にした方がいいかい? 例えば……そうだな。以前、スイープくんから聞いたんだが……ハグをすると人はいくらか気分が」
「どうして私の気分を余計に悪くさせようとするんですか?」
「純粋な厚意のつもりだったんがね」
にやにやと厭らしい笑みを浮かべながら、タキオンさんは話を始めた。
「夢に対する言説は、主に二つある。その一つは、夢とは脳が見せるものである、という説だ。つまり夢とは、睡眠中に脳で行われている記憶の整理現象を、単なる映像として出力したものに過ぎない……ということさ。ここまではいいかな?」
「……はい。続けてください」
「それではこの説が正しいと仮定した上で、他人と同じ夢を見ることができるか、という命題について考えてみよう。結論から言えば、理論的には可能だ。ある日、全く同じ物事や景色を記憶した、別々の人物が居たとしよう。そしてその日の夜、偶然にもそれぞれの脳が同じように働き、全く同じ夢を見せる――そんな可能性も、ないとは言えない」
「……それが起きる確率は?」
「目隠しをした猿にタイプライターを渡した方が、また現実的かもしれないね」
何の話かは分からないけど、それがゼロに近い確率であることは理解できた。
それからタキオンさんは、指をひとつ立ててから、言葉を続ける。
「もう一つは、夢とは脳が見せるものではなく、脳が見るものであるという説だ」
「……見る?」
「そう。夢とは我々の脳が出力する映像ではなく、何らかの電気信号や、あるいはそれ以外の何かによって生成される、我々が今住んでいる基底現実には存在しない、どこか別の現実に存在する空間そのものである、というわけだ」
「……言っている意味が、よく分からないのですが」
「分かりやすく言えば、一人で映画を観ているようなものさ。我々が見る夢とは、スクリーンに映し出されるただの映像なのだよ。そこに我々の記憶や精神などは、一切関連しない。全ては、スクリーンの向こうで実際に起きている現実だからね。唯一の違いは、流れる映像が我々の現実とはまた別の現実であること……」
「……ということは、その映画を誰かと一緒に観ることもできる、と?」
「理解が早いじゃないか、カフェ」
……おかしな話だけど、言われてみると妙に納得できる気がする。
「もっとも、ここまで来ると
肩をすくめてから、タキオンさんは私にそうやって笑いかけた。
「ただまあ、もう一つの説――ここでは同期説、とでも呼ぼうか。それに比べればこちらの説――映画説の方が遙かに現実味があるだろう。些細な差ではあるが」
「……タキオンさんは、どちらを信じているんですか?」
「私は……そうだな。前までは、同期説の方が有力だと思っていたよ」
「前まで? ……今は、違うんですか?」
「君と一緒にいると、科学では説明できない事象とよく遭遇するからね」
……嫌味らしく聞こえるのは、さすがに私の気のせいだと思いたい。
「望む答えは得られたかい?」
「まだ、何とも」
「だろうね。だから、夢に科学的な根拠を求めない方がいい、と言ったのに」
「……ですが、手がかりは掴めたかもしれません」
「そうなのかい? なら、よかった」
するとタキオンさんは一度、窓の向こうで降り続ける雨を眺めてから、
「慣れない話ばかりで疲れただろう。気晴らしに散歩なんかどうだい?」
「……外は雨ですけど」
「心配しなくていいさ。傘は私が差してあげようじゃないか」
「誰かに見られたらどうするんですか?」
「私は別に構わないけどねえ」
「……………………」
「ほら。いつまでも部屋に閉じこもっていては、体に毒だよ」
どの口がそれを、なんて悪態を吐く前に。
タキオンさんは強引に手を引いて、そのまま私を雨の中に連れだした。
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「それにしても、君のお友達とやらも随分、世話焼きなんだねえ」
外に出てからすぐ、私の隣で傘を差すタキオンさんが、そんな言葉をかけてくる。
「世話焼き、ですか?」
「ああ。だって、わざわざ君の夢に現れて、必要なことを教えてくれるんだろう?」
「こちらからすれば、いい迷惑ですよ」
「……驚いた。君が彼女のことをそんなに邪険にするなんて」
宥めるような視線が鬱陶しい。私の気も知らないで、この人は……。
「彼女にも彼女なりの考えがあるだろうに。それを無下にするとは」
「アナタに、あの子の何が分かるんですか」
「さあね。しかし、それは君も同じなんじゃないかい?」
「……それは、どういう」
「君だって、今までに彼女のことを理解したことなんて一度もないだろうに」
「それ、は……」
何も、言い返せなかった。
そうだ。結局、私はあの子のことを何も知らない。はじめは、それでよかった。私と一緒にいてくれれば、一緒に走ってくれれば、それだけで充分だったから。
でも、今は違う。何も知らないままでは、いられない。
だけど……どうすればいいのかすら、今の私には分からない。
「図星だったかい?」
「……ええ。だから、余計に腹立たしいんです」
そこで一度、会話が途切れた。雨音がより一層、強く聞こえた。
きっと、変わってしまったのだと思う。理由も、原因も分からないけど。私と、あの子とを繋げる何かが、今までのものとはまるで別の、何かに。
受け入れるべきなの? それとも、元に戻すべき?
……分からない。何も。
結局、私は何も知らないままなんだ。
「……私のような奴が言うのも、少しおかしな話ではあるが」
思考の奔流から私を掬い上げたのは、タキオンさんのそんな言葉で。
「友人なんて、所詮はそんなものさ。すれ違うこともある。衝突することだって避けられないだろう。ただ……それでも、付き合いを続けたいと思う人のことを、我々はひとえに友と呼ぶんじゃないのかい?」
「……励ましてくれているんですか?」
「もちろん。だって、君は私の数少ない友人だからね」
私の顔を覗き込みながら、タキオンさんはそう微笑んだ。
……まさかこの人に、友達について助言されるなんて、思ってもいなかったけど。
でも、タキオンさんの言っていることに、間違いはないと思う。
それは、崇拝とか、そういうのに近いかもしれない感情だけど。
私はまだ、あの子のことを嫌いになりたくないから。
「……ありがとうございます」
「礼なんていらないさ。今度また、実験に付き合ってくれるのなら」
「それが嫌だから、今お礼を伝えているんです」
「つれないねえ、君は」
肩をすくめるタキオンさんは、それからこう続けた。
「仲直りがしたければ、力になってあげよう」
「……どうして、そこまで」
「言っただろう? 君は、数少ない友人だからさ。それに――」
そこで言葉を切ると、タキオンさんは私のひとみを覗き込んで、
「――色々と、彼女には面白いモノを見せてもらったからね」
二人の足音が聞こえてきたのは、そう告げられた直後だった。
「そんなに気分の悪くなるような夢だったの?」
「別に、悪ィ気分ではねェよ。ただ、奇妙ッつーか……上手く説明できねェ」
「……珍しいね。シャカールがそんなに言葉に詰まるなんて」
「自分でもそう思うよ。……あァ、イラつくぜホント」
聞こえてくる足音は、ふたつ。それは雨音に紛れながら、寄り添い合うもので。
「しかし、君たちの関係性は面白いね。特に彼女の方は、実に興味深い」
「……………………」
「可能ならば、やはりデータをいくつか取らせてほしいよ。科学的見地の及ばない、夢という世界での競走。……いいじゃないか、まさに『夢』のある研究内容さ」
隣で長々と言葉を並べるタキオンのことなんて、気にする余裕もなくて。
「気分が悪いのなら、今日は休む? ここ最近、ろくに睡眠も取ってないでしょ? そのせいで、ほら。目の下のおっきなクマ、できてるよ?」
「……別に、いつもこんなモンだろ」
「今日は特にひどいよ。……本当に、よくない夢だったの?」
「あァもう、うるせェなァ! いちいち聞いて来るン、じゃ……」
視線が合ったのは、そうやって彼女が声を張り上げた瞬間だった。
「………………」
「………………」
言葉は交わさなかった。けれど、何が言いたいのかはお互いに分かっていた。
……違う。正確には、何も分かっていなかった。だから、言葉も出なかったんだ。ただ、私たちの間には……得体の知れない何かに対する疑問と不可解、そして……あの夢が本当だったんだ、という実感。それが、じんわりと浮かび上がっていた。
「……シャカール?」
「……カフェ?」
首を傾げる二人のことも、今は見えなくて。
「……今度は、さかさまではないんですね」
そう問いかけると、彼女――エアシャカールさんは、ただ。
「オマエ……どっちだ?」
睨みつけるような、あるいは疑うような視線を、私に向けていた。
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