魂哭   作:宇宮 祐樹

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魂哭

 

 はじめに聞こえたのは、冷たい雨の音だった。

 

「………………」

 

 鬱陶しく降りしきる雨の中、私は勝負服を着て、傘を差したまま立っている。

 足元の水たまりから変る泥水が、スニーカーのつま先を汚していた。

 目の前に広がっているのは、森だった。木々の隙間から、雨の雫が葉に当たって、跳ね返る音が鮮明に聞こえてくる。夢とは思えないほど、鮮明に。

 ……知らない、景色だった。来たこともなければ、どこかで見た覚えも、ない。それはまるで、別の世界へと迷い込んでしまったような、そんな感覚で。

 だけど、どうしてか心の――魂のどこかが、懐かしさを感じていた。

 

「ここ、は……」

 

 呟きながら振り返った、その先には。

 寂れた教会が、まるで私のことを見下ろすように佇んでいた。

 

「よォ」

 

 声のする方へと視線を向けると、そこには私と同じように、勝負服を着たままのシャカールさんが、傘を差しながら立っていて。

 

「……無事に、来られたんですね」

「帰りはどうなるか知らねェけどな」

 

 肩をすくめるシャカールさんが、そのまま教会の方へと目を向ける。

 

「それで? どこなンだよ、ココは」

「私にも分かりません。だけど……どこか、懐かしいような」

「……オマエもかよ」

 

 答えてから、シャカールさんは吐き捨てるように舌打ちをした。

 

「とにかくあそこに入りましょう。あの子もきっと、それを望んでいるはず」

「はいはい。分かりましたよ、専門家サマ」

 

 私が脚を踏み出すと、シャカールさんも溜息を吐いてから後ろをついてきた。

 階段をゆっくり昇って、大きな扉の前に立つ。薄汚れた木の扉は、けれど何者も立ち入らせないような、そんな重厚感を放っていた。

 試しに手をかけてみたけれど、やっぱり扉は動かないまま。

 

「無駄足か?」

 

 扉に背を預けながら呟くシャカールさんに、私は。

 

「……合言葉」

「あァ?」

「二人で合言葉を唱えれば、もしかしたら……」

 

 そこまで口にしたところで、シャカールさんが呆れたように笑って。

 

「おいおい、ゲームじゃねェんだぞ? そんな都合よく開くわけねェだろ」

「でも、他にできることがないのも事実です。それに……」

「……それに?」

「こういう子供っぽいイタズラは、いかにもあの子がしそうなことですから」

 

 答えると、シャカールさんは短い沈黙のあとに、小さく息をついてから。

 隣にいる私にすら、かろうじて聞こえるほどのかすれた声で、呟いた。

 

「1、9、8……6」

 

 そうして唱えられた数列に、私も続いて。

 

「0、3、2、5」

 

 タキオンさんから渡されたメモ帳に記された数列を、一つずつ口にした。

 ……やっぱり、分からない。この八つの数字が、どんな意味を持っているのか。それに、どうしてタキオンさんがこの数字を私たちに渡してきたのか。そもそも、この合言葉は本当に正しいのか。何も、私たちには分からない。

 考え出したらきりのない疑問ばかりが、頭の中を埋め尽くしていく。

 そうして、思考の濁流に吞まれそうになった私の意識を引き上げたのは。

 

『……アイツの入れ知恵か?』

 

 あの子の、声だった。

 

「今のは――」

 

 驚いたようなシャカールさんの声を遮るように、扉がゆっくりと開かれる。

 

「……合ってた」

 

 思わず漏れた私の独り言に、シャカールさんは頭を掻きながら。

 

「マジかよ。オマエのダチ、相当なガキなんだな」

 

 からかうような口調のシャカールさんを置いて、開かれた扉の先へ入っていく。

 教会の中は、ひどく荒れ果てていた。天井のステンドグラスは割れて床に落ち、その隙間から降り注ぐ雨が、大きな水たまりを作っている。左右に並ぶ長椅子は、倒れたり壊れたりしていて、とても座れたものではなかった。

 奥にある祭壇には十字架が掲げられているけれど、それも半ばから折れていて、見る影もない。崩れ落ちた十字架の欠片が、鈍く床下で輝いていた。

 そんな廃教会の中で唯一、まともに形を保っているのは。

 祭壇の上に置かれた、古びたラジオだけだった。

 

「あれ、は……」

 

 そうやって、私が呟きを漏らしたその瞬間。

 

『言いつけ通り、ちゃんと連れてきたじゃねェか』

 

 耳障りなノイズに紛れるように、あの子の声が聞こえてきた。

 

「だって、それがアナタとの約束だから」

『ハッ、相変わらずいい子ぶってンなァ。だからオマエはオレになれねェんだよ』

「……教えて。一体、シャカールさんまで巻き込んで、何をするつもり?」

『この前も言ッただろ。今のオマエに必要なことを、教えてやる』

 

 その意図を質す前に割り込んできたのは、シャカールさんで。

 

「オマエか? カフェのダチってのは」

『あ? あァ……そういやオマエとこうして話すのは初めてだッたな。まァいい。今は黙って、オレの言う通りにしてりゃいいんだよ』

「……テメエのツラすら見せねえヤツの言う事なんざ、聞けるワケねェだろ」

『ツラ? そんなモン、オマエの後ろにあるだろ』

 

 あの子が答えるのと同時、シャカールさんと二人で背後に振り返る。

 私たちの視線の先にあったのは、雨に打たれる一枚の窓ガラスで。

 そこに映っていたのは、驚いたようなシャカールさんの姿と、私――じゃ、ない。

 

「よォ」

 

 あの子だ。

 私の代わりに、顔が黒い何かに塗り潰されたあの子が、そこに立っていた。

 

「っ……!」

 

 窓から離れて、思わず自分の顔に手を這わす。

 ……いつも通りだ。私は……私の、まま。

『当たり前だろ。オマエは、オレにはなれない』

 

 どよめく思考に、ラジオから答えが返ってくる。

 

『それにしても、ヒデェ話だよな。こんなに声も顔も似てるのに、オマエはオレになれねェなんて。……オマエを憐れんでンじゃねェ。オレを憐れんでンだ』

「……アナタは、顔も見せてくれないくせに」

『見てえのか? あァ、そうだッたな。そういえばお前は、オレの顔が見てえから走ッてンだった。……くだらねェ。クソみてェな理由だよ。それだからオマエは、オレにはなれない。一生、オマエはオマエのままなんだ』

 

 窓に映るあの子の影が、ゆらゆらと揺れて、それから消える。

 

「……どうなッてンだよ、コレ」

「どうもこうもねェよ。ここはオレたちの夢の中なんだから」

 

 シャカールさんの言葉に返ってきたのは、背後から聞こえるあの子の声で。

 

「いや、夢ッつーのも微妙に違うな。言うなれば、ここは……」

 

 だけど、振り向いた先には何もなかった。そこにはさっきと同じ、廃れた教会の景色と、降りしきる雨の音だけが、私たちを包み込んで……。

 ……違う。

 

「おい、カフェ!」

 

 引き留めるようなシャカールさんの声も無視して、私は祭壇を降りていく。

 床に落ちたガラスの破片を踏みしめて、汚れた絨毯の上を歩いて行って。

 そうして私は、教会の中央にある大きな水溜まりの前で立ち止まった。

 

「――あァ、そうだ。魂の交わる処だ」

 

 揺らぐ水面から覗いているのは、やっぱり私じゃなく、あの子の姿で。

 それだけじゃない。その向こうに映っている景色は……。

 

「……レース場、か?」

 

 私の隣に駆け寄ってきたシャカールさんが、そう呟いた直後。

 

「来いよ」

 

 水溜まりの中から伸びてくる何本もの腕が、私たちの脚に絡みついた。

 

「なッ……!」

「……っ!」

 

 抵抗しようとしても、私たちの脚は既に水溜まりの中に呑み込まれていて。

 向こう側から伸びる無数の腕が、私たちの身体を繭のように包んでいく。

 一瞬の暗転があったあと、気が付いた時には、もう――。

 

「ようこそ」

 

 私とシャカールさんは、あの夢と同じような、雨の降るレース場に佇んでいた。

 

「……ここも、アナタの夢?」

「そうだ。オレの……オレたちの、そして今、オマエが見ている夢だ」

 

 誰もいない、からっぽの観客席を背にしながら、両腕を広げてあの子が叫ぶ。

 

「さあ、此度も門は開かれた! あの時と同じように、凱旋を齎す仏蘭西の門が! だが、同じ筋書きであるものか! 同じ結末になど、断じてさせるものか!」

 

 手のひらを天に掲げ、高らかに謳うあの子の声が、雨音と共に響き渡る。

 

「歴史なんて捻じ曲げてやれ! 運命さえも蹴り伏せてしまえ! オマエの魂は今、この世界で生きている! ならばその生き様を強く、ここに叫んでみせろ!」

 

 そうして彼女は、掲げた手のひらを力強く握りしめて、

 

「――魂が震えるほどの、(こえ)を!」

 

 荒々しい雄叫びをあげた、その直後だった。

 彼女の顔を覆う黒い何かが、どろどろと溶けるように剥がれ落ちていく。

 こちらを覗くのは、私と同じ黄色いひとみ。

 だけど、その中心には――星を象った瞳孔が、ぼんやりと浮かんでいた。

 ……あれが、いくら走っても見ることのできなかった、あの子の顔。

 だけど、これじゃあ、まるで。

 

「私と同じ……」

「あァ、そうだ。何度も言ッてるだろ。オマエはオレに似てる」

「ンなことあり得るはずねェだろ……」

「オマエは言葉遣いが似てるなァ」

 

 シャカールさんのことを指さしながら、あの子はからかうように笑う。

 

「アナタは、一体……誰なんですか?」

「亡霊。あるいは、オマエらの魂の中に潜むモノ」

 

 長い間、私の心にあった疑問に、ようやく明確な答えが返ってきた瞬間だった。

 彼女が指を鳴らすと、レース場に発バ機が滲むように現れる。

 ゲートの数は、三つ。私と、シャカールさんと……そして、あの子のぶん。

 

「俺の顔も見せた。舞台も用意してやった。お膳立てとしては十分だ。さて……」

 

 普段のそれより一段と深い芝を踏みしめて、あの子が私の目の前へやってくる。

 

「オマエは一体、何のために走るんだ?」

 

 ……答えをすぐに返すことは、できなかった。

 だって、私は今まで、彼女の顔を見るために走っていたんだから。

 独りよがりな理由かもしれないけど、それが今まで私の脚を動かしていたんだ。

 星の形を象った瞳孔が、私のことを深く見つめてくる。

 ……こんなにも、綺麗なひとみをしていたなんて。今まで、知らなかった。

 ああ、そうだ。考えてみれば、答えが出てこないのも当然だった。

 だってこうして、あの子の顔を見ることができたんだから。

 私はもう、走らなくてもいいんだ。その願いはもう、叶えられたから。

 ……それなのに、どうして。

 私の脚は、こんなにも卑しく疼いているんだろう?

 

「このレースは、その答えを見つけるためのモンだ」

 

 思考に囚われたままの私の額を、あの子が指で弾く。

 それと同時に、三つのゲートが一斉に開かれた。

 

「結局、オレまで巻き込む理由は何なンだよ」

「面倒だからサービスしてやってンだよ。分かったらさっさとゲートに入りな」

「……クソが」

 

 苛立ちのこもった呟きを吐き捨てて、シャカールさんがゲートに入っていく。

 それを見て、私も続くようにゆっくりとゲートに入っていった。

 ……あの子に言われるまでもなく、一人で。

 

「そうだ、それでいい。それこそが、今のオマエに必要なモノだ」

 

 私とシャカールさんの間にあるゲートに脚を踏み入れたあの子が、呟く。

 

「さァ、始めようか」

 

 言葉と共に、発バ機のランプが灯る。雨の重みが、全身に伝わってくる。

 呼吸を整えて、右脚を後ろに。視線はコーナーよりもずっと向こうに。

 ……このレースを走り切った先に、何があるのかは知らない。

 それが私にとって良いことなのか悪いことなのかの判別も、つかない。

 そもそも、どうして走らなければいけないのか、その理由すらも分からない。

 だけど、それでも。

 私は――走らなければ、いけないんだ。

 きっとそれが、今の私にできる、たった一つのことだから。

 

「ッ!」

 

 思考が鮮明になるのと、ゲートが開くのはほとんど同時だった。

 その瞬間、地面を蹴って走り出す。だけど、二人の影は既に私より先にあった。

 ……出遅れた? いや、違う。これでいいんだ。焦る必要なんて、どこにもない。

 普段通りに走れば、いい。いつもみたく、あの子の影を追って……。

 

「本当に、オマエはそれで満足できンのか?」

 

 あの子の囁きが、聞こえる。その声は泥になって、私の両脚に絡みつく。

 ……また、これか。ああもう、本当に鬱陶しい……!

 大地を踏みしめる感覚は歪になって、身体がじわりじわりと沈んでいく。

 第一コーナーに入った時には既に、二人とは三バ身ほどの差が開いていた。

 

「……っ」

 

 歯を食いしばって、両脚に力を込める。無理やりにでも、前へ、前へ……!

 だけど、いくら力を振り絞っても、私とあの子の距離が縮まることはなくて。

 むしろあの子の後ろ姿は、段々と話されていく一方だった。

 ……やっぱり、同じだ。いつも見ている夢と、何も変わらない。

 このまま私は、またあの子に負けてしまうんだろう。

 でも……それで、いいじゃないか。

 だって私は、こうしてあの子の顔を見ることができたんだから。

 それなら、私の走る理由なんて、もう何も――

 

「ッ、クソ……!」

 

 滲むような叫びに、意識が現実へと引き戻される。

 向けた視線の先には、あの子を追いかけるシャカールさんの姿があって。

 ……ひどい、顔。眼を見開いて、口も大きく開けて、感情も剥き出しになって。

 あんな乱暴な走り方、きっと私には一生、できないんだと思う。

 でも……だから、なんだろうか。

 彼女の乱暴なところも、言葉遣いも、私は好きになれないけど。

 ただこの時だけは、彼女の姿が、これ以上にないほど――綺麗に見えて。

 

「……私、は」

 

 ともすればそれは、憧れにも似た感覚なのかもしれない。

 息を整えて――いや、違う。整えていた息を、無理やり荒らして。

 これまで保っていたフォームも、意図的に崩して。

 閉じていた口を少しずつ、開いて……開い、て……!

 

「っ、は……!」

 

 一気に息を吸い込むと、肺に乾上がるような痛みが走る。

 それに構わず脚を動かせば、視界がぐっと広くなった。

 感覚が研ぎ澄まされて、音がどこか遠くから聞こえるようになって。

 今の私なら、降り注ぐ雨の雫すらも目で追えるような、そんな気がした。

 ……こんな走り方、今までしたことがない。

 乱暴で、何も考えず……ただひたすらに、全力を尽くして前を狙う。

 このままの走りでは、最後まで走り切ることさえ、難しいかもしれない。

 だけど――

 

「それでいいんだよ」

 

 あの子が、そう言ってくれるのなら。

 私は……私は!

 

「……ッ、あぁぁぁあああ!」

 

 声を上げて、身体を前に。一歩を踏み出すごとに、景色が後ろへと流れていく。

 コーナーを抜けて直線に入る。あの子との差は、まだ開いたまま。

 それでも、いい。いくら差があろうが、構わない。

 どれだけあの子との距離が離れていても、私はあの子の影を追いかけて――

 ――追いかけて? 違う。それだけじゃ、ぜんぜん足りない。

 私の内で震える何かに応えるには、もっと、もっと……!

 

「う……あああぁぁぁああッ!」

 

 ――――虹色の星、宵闇の猫、額縁の空。

 そして私は、アナタを……アナタを――――!

 

「アナタを――追い越して!」

 

 視界が白く濁って、電波の悪いテレビみたいに霞む。

 頬を伝う汗の感覚が、鮮明に脳へと伝わってくる。

 痛みはもう、どこかへ消えていた。私の体はもう、そういう次元を超えていた。

 ただ、前へと。あの子の影を追い越して……その先へと、進むんだ。

 ……そこでふと、気づいた。

 私の脚に纏わりついていた泥が、既に消えていたことに。

 

「いい表情(ツラ)するようになったじゃねェか、マンハッタンカフェ!」

 

 あの子の声が、聞こえる。耳元ではなく、私の前を走る彼女の姿から。

 

「それでこそ、オマエだ! オマエはオレじゃない! オマエはオマエなんだ! だから……オレを越えろ! このオレの影ではなく、マンハッタンカフェとして! オマエが生きているこの世界に、その生きざまを叫んで見せろ!」

 

 ……ああ、そうだ。

 私はあの子になれない。どうしたって、私はあの子の影を追うことしかできない。

 でも、それでよかったんだ。

 私は――マンハッタンカフェという、一人のウマ娘なんだから。

 だから、私は今ここで、あの子の影を追いかけて……追いついて、追い越して。

 刻まなければ。私が私として生きているという、確かな事実を。

 叫べ。喉が枯れて、潰れてもいい。それでも、この世界に響き渡らせるんだ。

 ――魂が震えるほどの、(こえ)を!

 

「あぁぁぁあああああああ!」

 

 視界は殆ど潰れていた。

 音もほとんど聞こえなくて、全身の感覚も消えている。

 まるで白い泥の中を泳いでいるようだった。

 藻掻いて、足掻いて、そして。

 その霞んだ視界の中に、ほんの一瞬だけあの子の背中が見えた。

 これまで生きていた中で一番近くに、あの子の存在を感じ取ることができる。

 だから私は、手を伸ばして――

 

「っ……あぁあああッッ!」

 

 ――あの子の背中を、追い越した。

 

 

 次に気が付いたとき、私の身体は芝の上に横たわっていた。

 見上げた空は相変わらず曇天のまま。降り注ぐ雨が、身体を濡らしていく。

 だけど、不思議と寒さは感じなかった。

 夢だからか、それとも……私の身体に、まだ熱が籠っているからか。

 そんな曖昧な身体の感覚に身を任せていると、ふたつの足音が聞こえてくる。

 

「オマエは逆に冷静さが足りてねェンだよ。そこはもッとカフェを見習いな」

「……うるせェな」

「だが、走りは悪くはねェ。オレ好みで気に入ッた」

「あッそ。そりゃどォーも……」

「たまにはあの薄ッぺらい機械じゃなくて、隣にいるお嬢様に頼ってみな」

「……余計なお世話だッての」

 

 私を挟んで交わされる会話を聴きながら、ゆっくりと身体を起こす。

 ……頭が、痛い。まるで、風邪を引いている時みたいに、全身が重たい。

 そんな思考をぼうっとしたまましていると、ふいにくしゃりと頭を撫でられる。

 視線を向けると、そこには私のことを見下ろすあの子の姿があって。

 

「いい、レースだッた」

 

 ぎらぎらと鈍く輝く歯を見せながら、そう笑っていた。

 

「ありがとう」

 

 だから私も、あの子と同じように笑って。

 

「ハハ、ヘタクソな笑顔だな」

「……やっぱり、変?」

「いや、悪くねェ。今のオマエには、最高に似合ッてるよ」

 

 私の問いかけにそう答えて、あの子はまた微笑んだ。

 

「走る理由は見つかッたか?」

「……うん。アナタのおかげで、見つけられた」

「なら、いい。こうしてわざわざ出向いた甲斐があるッてモンだ」

 

 そう言って、あの子は私の頬を親指で拭った。

 ……今の私が走る、理由。

 きっとそれは、この世界に私が生きた証を刻むことなんだ。

 それがどれだけ醜くて、乱雑なものでも構わない。眼を背けてしまうほどに酷く、吐き気を催してしまうほどに不気味なものでも、それでいい。

 私は今、この世界にこうして生きている。生きて、走り続けている。

 その事実を……一つの哭にして、この世界へ響き渡らせるんだ。

 

「あァ、上等な理由だ。このクソッタレな世界に、オマエの生き様を証明してやれ」

 

 するとあの子は私の隣に腰を下ろして、地面に茂る芝に手を這わせる。

 

「いいか? 仏蘭西(むこう)の芝は普段オマエらが走ッてるモンより、遥かに深い。だから、脚を取られるンじゃねェ。……死ぬ気で連中に食らいつけ」

「うん」

「……よし、良い返事だ。なら――」

 

 そうしてあの子は立ち上がって、こちらを振り返ることなく、告げた。

 

「叫べ。そして、見せつけろ。運命に抗う、一人のウマ娘の生き様を」

 

 その瞬間、私たちを包むレース場の景色が、絵具みたいになって溶けはじめる。

 大地はぼろぼろに崩れ始め、割れた隙間からは夜空が顔を覗かせていた。

 星々が瞬くその中へと、落下していく。内臓に感じるのは、強烈な浮遊感。

 ……夢が、終わる。膨らんで、弾ける泡のように、儚く。

 きっとこれが、あの子と走る最初で最後のレースなんだと、直感で理解した。

 

「……待って!」

 

 だから、手を伸ばした。遠ざかっていくあの子の背中に向かって。

 

「これから……どこに、行くの?」

 

 絞り出すような問いかけに、あの子は手を振りながら答えた。

 

「しばらく休む。オマエらの面倒を見るので、少し疲れたからな」

「……そう」

 

 気怠そうに体を伸ばすあの子へ、私は最後に。

「……また、会える?」

「当たり前だろ。友達なんだから」

 

 細々とした問いかけに、あの子は。

 

「最後に言ッとくけどな、オレはお前の崇拝する存在じゃねェ。オレとオマエは、ただの友達なんだ。それ以上でも、それ以下でもない。つまり……」

 

 そうして最後に一度だけ、あの子は私のことをしっかりと見つめてから。

 

「……これからもずっと、見守ッといてやるよ」

 

 なんて言葉を最後に残して、消えていった。

 

 

 それから、いくらかの時間が流れた、ある雨の日のこと。

 

「……アイツは結局、何が言いたかったんだ?」

 

 トレーニングコースへと向かう途中で、偶然シャカールさんと出会って。

 そのまま何も言葉を交わさず、二人で傘を差しながら並んで歩いて。

 ……そういえば、あの日以来、この人とあまり言葉を交わしていない、ような。

 なんてことを考えている最中に、ふいに掛けられたのがそんな言葉だった。

 

「シャカールさんは、何だと思いますか?」

「分かンねェから聞いてンだろ」

「……そうですか」

 

 短く答えると、彼女は差したビニール傘の向こうから、私のことを睨んできて。

 

「やっぱり、オマエのそのスカした態度は気に入らねェ」

「私も、未だにあなたの乱暴さにはうんざりしていますよ」

 

 言葉を交わした私たちは、その場に立ち止まって睨み合う。

 やがてしばらくの沈黙が流れた後、それを断ち切ったのはシャカールさんで。

 

「……ハハ」

「ふふっ……」

 

 私たちは互いに顔を見合わせてから、笑った。

 

「前々から思ッてたけどよォ……オマエ、中々ノリいいよな」

「……私もです。あなたがこんなに冗談の通じる人だとは、思っていませんでした」

 

 どうやら私たちはお互いに、相手の知らない一面を知れたことが嬉しくて。

 つい先ほどまで感じていた気まずさが、嘘のように霧散していた。

 

「それで、あの子が何を言いたかったのか、についてですが」

 

 再び歩き出したのと同時に、私はそう話を切り出して。

 

「きっと、私たちを励ましたかったんだと思います」

「……励ます?」

 

 怪訝そうな表情を浮かべるシャカールさんに、言葉を続ける。

 

「私たちの身体には、別の世界の魂が宿っているというのは、ご存知のはずですが」

「……あァ。つっても、オマエ専門(オカルト)の話だけどな」

「それについて、この前からずっと考えていたんです。……あの子は、運命に抗え、と私たちに告げた。それが何を意味するのか……あの子は、何を伝えたかったのか」

 

 そこまで言葉を並べてから、私は一つだけ間を置いて。

 

「これは、私の推測に過ぎませんが」

「あァ」

「私たちはおそらく、身体に宿る魂と同じ歴史を辿っているのだと思います」

「……歴史?」

 

 眉をひそめて私の顔を覗き込んでくるシャカールさんに、続ける。

 

「あるいは、それこそ運命と呼んでもいいのかもしれませんね。私たちの道筋は、この魂が宿ったその瞬間から決まっていて……その通りの筋書きが用意されている」

「……くだらねェな」

「ええ。本当に、くだらない……」

 

 踏みしめた水溜まりに映るのは、他の誰でもない私の姿で。

 

「だから、あの子は私たちの前に現れたんでしょう。このくだらない運命に抗えと。定められた筋書きなんて、破いて捨ててしまえと。あの子の伝えたかったことは、そういうことなんだと思います」

「だから、励ますッてか。にしても、なんでわざわざオレたちに……」

「これは、タキオンさんの言っていたことなんですが」

 

 気怠そうに首を傾げるシャカールさんに、私は。

 

「あの子は存外、面倒見がいいみたいで」

「……なんでタキオンがアイツのこと知ッてンだ?」

「知りません」

「そォかよ」

 

 どこか納得のいかない様子で、シャカールさんはそう答えた。

 雨は強く降り続けていて、冷たさが傘を持つ手に伝わってくる。

 ……鬱陶しい、重たい雨。だけど、今はそんなに嫌いじゃなくなった。

 だって、こうしていると、あの子と走ったあの時を思い出すから。

 

「フランスにはいつ出発すンだ?」

「来週には、もう発とうと」

「……早くねェか?」

「向こうの芝に慣れないといけませんので」

「ふーン」

 

 なんて、何でもない会話を交わしている時だった。

 

「マーベラース!」

 

 私たちの進む道の向こうから、そんな叫び声が聞こえてきたのは。

 

「……なンだアイツ」

「あの子は、確か……」

 

 マーベラスサンデー。一言で表すなら……色々と不思議な、娘。

 関わったことは、ほとんどないけど……向こうがその、とっても目立つから……こちらが一方的に知っているような、そんな娘だった。

 そんな彼女は私たちを見つけたかと思うと、すぐさまこちらへ駆け寄ってくる。

 ……あ。

 彼女の瞳の、奥……あの子と同じで、星が瞬いて……

 

「マーベラス! こんなところで会えるなんて、奇遇だねー!」

「は、はァ……? オマエ何言ってンだ?」

「あっ、もしかして……シャカールも同じなの? ううん、きっとそうだよね! それなら、これから一緒に走ろうよ! 一緒にこの前のリベンジさせて!」

「同じって……オマエ、いったい何の話してンだよ」

「何って、夢の話だよ!」

 

 困惑する私たちを置いて、彼女は両腕を広げながら、

 

「マーベラス、前にも夢でカフェに似た人と走ったことあるんだ!」

 

 なんて、無邪気な笑顔を浮かべながら、言った。

 

「……マジかよ」

「うん。あ、口調はシャカールに似てたかな。あとね、目はマーベラスに似てた! ほら、私と同じでキラキラの目! すっごく綺麗だったよ!」

 

 ああ、そうか。疲れた、って……そういうことだったんだ。

 ……本当、面倒見のいい人なんだから、アナタは。

 

「あー! いた!」

 

 なんて考えを巡らせていると、そんな誰かの叫び声が向こうから聞こえてくる。

 視線を向けると、そこには傘を差してこちらに向かってくる、栗毛の娘――確か、ナイスネイチャさんの姿があって。

 

「あ、ネイチャ!」

「ごめんなさい、二人とも……この子、急にトレーニングしたいって言いだして」

「……いいぜ、付き合ってやる。カフェ、お前へのリベンジも兼ねてな」

「え?」

「私も構いませんよ。ちょうど走りたい気分でしたから……受けて立ちましょう」

「ちょ、え、ホントにいいんですか? こんな急な話……」

「いいッて言ってるだろ。ホラ、行くぞマーベラス」

「うん!」

「……あー、もう! 私もよろしくしていいですか!?」

 

 戸惑うネイチャさんも、やがて吹っ切れたように二人のあとを追い始めて。

 そんな三人の背中を追って、私も歩き始める。

 定められた運命に、決められた筋書きに、抗うために。

 

『……あァ。期待して待ってるぜ、カフェ』

 

 踏みしめた水溜まりから、そんなあの子の声が聞こえた気がした。

 

 

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