■
はじめに聞こえたのは、冷たい雨の音だった。
「………………」
鬱陶しく降りしきる雨の中、私は勝負服を着て、傘を差したまま立っている。
足元の水たまりから変る泥水が、スニーカーのつま先を汚していた。
目の前に広がっているのは、森だった。木々の隙間から、雨の雫が葉に当たって、跳ね返る音が鮮明に聞こえてくる。夢とは思えないほど、鮮明に。
……知らない、景色だった。来たこともなければ、どこかで見た覚えも、ない。それはまるで、別の世界へと迷い込んでしまったような、そんな感覚で。
だけど、どうしてか心の――魂のどこかが、懐かしさを感じていた。
「ここ、は……」
呟きながら振り返った、その先には。
寂れた教会が、まるで私のことを見下ろすように佇んでいた。
「よォ」
声のする方へと視線を向けると、そこには私と同じように、勝負服を着たままのシャカールさんが、傘を差しながら立っていて。
「……無事に、来られたんですね」
「帰りはどうなるか知らねェけどな」
肩をすくめるシャカールさんが、そのまま教会の方へと目を向ける。
「それで? どこなンだよ、ココは」
「私にも分かりません。だけど……どこか、懐かしいような」
「……オマエもかよ」
答えてから、シャカールさんは吐き捨てるように舌打ちをした。
「とにかくあそこに入りましょう。あの子もきっと、それを望んでいるはず」
「はいはい。分かりましたよ、専門家サマ」
私が脚を踏み出すと、シャカールさんも溜息を吐いてから後ろをついてきた。
階段をゆっくり昇って、大きな扉の前に立つ。薄汚れた木の扉は、けれど何者も立ち入らせないような、そんな重厚感を放っていた。
試しに手をかけてみたけれど、やっぱり扉は動かないまま。
「無駄足か?」
扉に背を預けながら呟くシャカールさんに、私は。
「……合言葉」
「あァ?」
「二人で合言葉を唱えれば、もしかしたら……」
そこまで口にしたところで、シャカールさんが呆れたように笑って。
「おいおい、ゲームじゃねェんだぞ? そんな都合よく開くわけねェだろ」
「でも、他にできることがないのも事実です。それに……」
「……それに?」
「こういう子供っぽいイタズラは、いかにもあの子がしそうなことですから」
答えると、シャカールさんは短い沈黙のあとに、小さく息をついてから。
隣にいる私にすら、かろうじて聞こえるほどのかすれた声で、呟いた。
「1、9、8……6」
そうして唱えられた数列に、私も続いて。
「0、3、2、5」
タキオンさんから渡されたメモ帳に記された数列を、一つずつ口にした。
……やっぱり、分からない。この八つの数字が、どんな意味を持っているのか。それに、どうしてタキオンさんがこの数字を私たちに渡してきたのか。そもそも、この合言葉は本当に正しいのか。何も、私たちには分からない。
考え出したらきりのない疑問ばかりが、頭の中を埋め尽くしていく。
そうして、思考の濁流に吞まれそうになった私の意識を引き上げたのは。
『……アイツの入れ知恵か?』
あの子の、声だった。
「今のは――」
驚いたようなシャカールさんの声を遮るように、扉がゆっくりと開かれる。
「……合ってた」
思わず漏れた私の独り言に、シャカールさんは頭を掻きながら。
「マジかよ。オマエのダチ、相当なガキなんだな」
からかうような口調のシャカールさんを置いて、開かれた扉の先へ入っていく。
教会の中は、ひどく荒れ果てていた。天井のステンドグラスは割れて床に落ち、その隙間から降り注ぐ雨が、大きな水たまりを作っている。左右に並ぶ長椅子は、倒れたり壊れたりしていて、とても座れたものではなかった。
奥にある祭壇には十字架が掲げられているけれど、それも半ばから折れていて、見る影もない。崩れ落ちた十字架の欠片が、鈍く床下で輝いていた。
そんな廃教会の中で唯一、まともに形を保っているのは。
祭壇の上に置かれた、古びたラジオだけだった。
「あれ、は……」
そうやって、私が呟きを漏らしたその瞬間。
『言いつけ通り、ちゃんと連れてきたじゃねェか』
耳障りなノイズに紛れるように、あの子の声が聞こえてきた。
「だって、それがアナタとの約束だから」
『ハッ、相変わらずいい子ぶってンなァ。だからオマエはオレになれねェんだよ』
「……教えて。一体、シャカールさんまで巻き込んで、何をするつもり?」
『この前も言ッただろ。今のオマエに必要なことを、教えてやる』
その意図を質す前に割り込んできたのは、シャカールさんで。
「オマエか? カフェのダチってのは」
『あ? あァ……そういやオマエとこうして話すのは初めてだッたな。まァいい。今は黙って、オレの言う通りにしてりゃいいんだよ』
「……テメエのツラすら見せねえヤツの言う事なんざ、聞けるワケねェだろ」
『ツラ? そんなモン、オマエの後ろにあるだろ』
あの子が答えるのと同時、シャカールさんと二人で背後に振り返る。
私たちの視線の先にあったのは、雨に打たれる一枚の窓ガラスで。
そこに映っていたのは、驚いたようなシャカールさんの姿と、私――じゃ、ない。
「よォ」
あの子だ。
私の代わりに、顔が黒い何かに塗り潰されたあの子が、そこに立っていた。
「っ……!」
窓から離れて、思わず自分の顔に手を這わす。
……いつも通りだ。私は……私の、まま。
『当たり前だろ。オマエは、オレにはなれない』
どよめく思考に、ラジオから答えが返ってくる。
『それにしても、ヒデェ話だよな。こんなに声も顔も似てるのに、オマエはオレになれねェなんて。……オマエを憐れんでンじゃねェ。オレを憐れんでンだ』
「……アナタは、顔も見せてくれないくせに」
『見てえのか? あァ、そうだッたな。そういえばお前は、オレの顔が見てえから走ッてンだった。……くだらねェ。クソみてェな理由だよ。それだからオマエは、オレにはなれない。一生、オマエはオマエのままなんだ』
窓に映るあの子の影が、ゆらゆらと揺れて、それから消える。
「……どうなッてンだよ、コレ」
「どうもこうもねェよ。ここはオレたちの夢の中なんだから」
シャカールさんの言葉に返ってきたのは、背後から聞こえるあの子の声で。
「いや、夢ッつーのも微妙に違うな。言うなれば、ここは……」
だけど、振り向いた先には何もなかった。そこにはさっきと同じ、廃れた教会の景色と、降りしきる雨の音だけが、私たちを包み込んで……。
……違う。
「おい、カフェ!」
引き留めるようなシャカールさんの声も無視して、私は祭壇を降りていく。
床に落ちたガラスの破片を踏みしめて、汚れた絨毯の上を歩いて行って。
そうして私は、教会の中央にある大きな水溜まりの前で立ち止まった。
「――あァ、そうだ。魂の交わる処だ」
揺らぐ水面から覗いているのは、やっぱり私じゃなく、あの子の姿で。
それだけじゃない。その向こうに映っている景色は……。
「……レース場、か?」
私の隣に駆け寄ってきたシャカールさんが、そう呟いた直後。
「来いよ」
水溜まりの中から伸びてくる何本もの腕が、私たちの脚に絡みついた。
「なッ……!」
「……っ!」
抵抗しようとしても、私たちの脚は既に水溜まりの中に呑み込まれていて。
向こう側から伸びる無数の腕が、私たちの身体を繭のように包んでいく。
一瞬の暗転があったあと、気が付いた時には、もう――。
「ようこそ」
私とシャカールさんは、あの夢と同じような、雨の降るレース場に佇んでいた。
「……ここも、アナタの夢?」
「そうだ。オレの……オレたちの、そして今、オマエが見ている夢だ」
誰もいない、からっぽの観客席を背にしながら、両腕を広げてあの子が叫ぶ。
「さあ、此度も門は開かれた! あの時と同じように、凱旋を齎す仏蘭西の門が! だが、同じ筋書きであるものか! 同じ結末になど、断じてさせるものか!」
手のひらを天に掲げ、高らかに謳うあの子の声が、雨音と共に響き渡る。
「歴史なんて捻じ曲げてやれ! 運命さえも蹴り伏せてしまえ! オマエの魂は今、この世界で生きている! ならばその生き様を強く、ここに叫んでみせろ!」
そうして彼女は、掲げた手のひらを力強く握りしめて、
「――魂が震えるほどの、
荒々しい雄叫びをあげた、その直後だった。
彼女の顔を覆う黒い何かが、どろどろと溶けるように剥がれ落ちていく。
こちらを覗くのは、私と同じ黄色いひとみ。
だけど、その中心には――星を象った瞳孔が、ぼんやりと浮かんでいた。
……あれが、いくら走っても見ることのできなかった、あの子の顔。
だけど、これじゃあ、まるで。
「私と同じ……」
「あァ、そうだ。何度も言ッてるだろ。オマエはオレに似てる」
「ンなことあり得るはずねェだろ……」
「オマエは言葉遣いが似てるなァ」
シャカールさんのことを指さしながら、あの子はからかうように笑う。
「アナタは、一体……誰なんですか?」
「亡霊。あるいは、オマエらの魂の中に潜むモノ」
長い間、私の心にあった疑問に、ようやく明確な答えが返ってきた瞬間だった。
彼女が指を鳴らすと、レース場に発バ機が滲むように現れる。
ゲートの数は、三つ。私と、シャカールさんと……そして、あの子のぶん。
「俺の顔も見せた。舞台も用意してやった。お膳立てとしては十分だ。さて……」
普段のそれより一段と深い芝を踏みしめて、あの子が私の目の前へやってくる。
「オマエは一体、何のために走るんだ?」
……答えをすぐに返すことは、できなかった。
だって、私は今まで、彼女の顔を見るために走っていたんだから。
独りよがりな理由かもしれないけど、それが今まで私の脚を動かしていたんだ。
星の形を象った瞳孔が、私のことを深く見つめてくる。
……こんなにも、綺麗なひとみをしていたなんて。今まで、知らなかった。
ああ、そうだ。考えてみれば、答えが出てこないのも当然だった。
だってこうして、あの子の顔を見ることができたんだから。
私はもう、走らなくてもいいんだ。その願いはもう、叶えられたから。
……それなのに、どうして。
私の脚は、こんなにも卑しく疼いているんだろう?
「このレースは、その答えを見つけるためのモンだ」
思考に囚われたままの私の額を、あの子が指で弾く。
それと同時に、三つのゲートが一斉に開かれた。
「結局、オレまで巻き込む理由は何なンだよ」
「面倒だからサービスしてやってンだよ。分かったらさっさとゲートに入りな」
「……クソが」
苛立ちのこもった呟きを吐き捨てて、シャカールさんがゲートに入っていく。
それを見て、私も続くようにゆっくりとゲートに入っていった。
……あの子に言われるまでもなく、一人で。
「そうだ、それでいい。それこそが、今のオマエに必要なモノだ」
私とシャカールさんの間にあるゲートに脚を踏み入れたあの子が、呟く。
「さァ、始めようか」
言葉と共に、発バ機のランプが灯る。雨の重みが、全身に伝わってくる。
呼吸を整えて、右脚を後ろに。視線はコーナーよりもずっと向こうに。
……このレースを走り切った先に、何があるのかは知らない。
それが私にとって良いことなのか悪いことなのかの判別も、つかない。
そもそも、どうして走らなければいけないのか、その理由すらも分からない。
だけど、それでも。
私は――走らなければ、いけないんだ。
きっとそれが、今の私にできる、たった一つのことだから。
「ッ!」
思考が鮮明になるのと、ゲートが開くのはほとんど同時だった。
その瞬間、地面を蹴って走り出す。だけど、二人の影は既に私より先にあった。
……出遅れた? いや、違う。これでいいんだ。焦る必要なんて、どこにもない。
普段通りに走れば、いい。いつもみたく、あの子の影を追って……。
「本当に、オマエはそれで満足できンのか?」
あの子の囁きが、聞こえる。その声は泥になって、私の両脚に絡みつく。
……また、これか。ああもう、本当に鬱陶しい……!
大地を踏みしめる感覚は歪になって、身体がじわりじわりと沈んでいく。
第一コーナーに入った時には既に、二人とは三バ身ほどの差が開いていた。
「……っ」
歯を食いしばって、両脚に力を込める。無理やりにでも、前へ、前へ……!
だけど、いくら力を振り絞っても、私とあの子の距離が縮まることはなくて。
むしろあの子の後ろ姿は、段々と話されていく一方だった。
……やっぱり、同じだ。いつも見ている夢と、何も変わらない。
このまま私は、またあの子に負けてしまうんだろう。
でも……それで、いいじゃないか。
だって私は、こうしてあの子の顔を見ることができたんだから。
それなら、私の走る理由なんて、もう何も――
「ッ、クソ……!」
滲むような叫びに、意識が現実へと引き戻される。
向けた視線の先には、あの子を追いかけるシャカールさんの姿があって。
……ひどい、顔。眼を見開いて、口も大きく開けて、感情も剥き出しになって。
あんな乱暴な走り方、きっと私には一生、できないんだと思う。
でも……だから、なんだろうか。
彼女の乱暴なところも、言葉遣いも、私は好きになれないけど。
ただこの時だけは、彼女の姿が、これ以上にないほど――綺麗に見えて。
「……私、は」
ともすればそれは、憧れにも似た感覚なのかもしれない。
息を整えて――いや、違う。整えていた息を、無理やり荒らして。
これまで保っていたフォームも、意図的に崩して。
閉じていた口を少しずつ、開いて……開い、て……!
「っ、は……!」
一気に息を吸い込むと、肺に乾上がるような痛みが走る。
それに構わず脚を動かせば、視界がぐっと広くなった。
感覚が研ぎ澄まされて、音がどこか遠くから聞こえるようになって。
今の私なら、降り注ぐ雨の雫すらも目で追えるような、そんな気がした。
……こんな走り方、今までしたことがない。
乱暴で、何も考えず……ただひたすらに、全力を尽くして前を狙う。
このままの走りでは、最後まで走り切ることさえ、難しいかもしれない。
だけど――
「それでいいんだよ」
あの子が、そう言ってくれるのなら。
私は……私は!
「……ッ、あぁぁぁあああ!」
声を上げて、身体を前に。一歩を踏み出すごとに、景色が後ろへと流れていく。
コーナーを抜けて直線に入る。あの子との差は、まだ開いたまま。
それでも、いい。いくら差があろうが、構わない。
どれだけあの子との距離が離れていても、私はあの子の影を追いかけて――
――追いかけて? 違う。それだけじゃ、ぜんぜん足りない。
私の内で震える何かに応えるには、もっと、もっと……!
「う……あああぁぁぁああッ!」
――――虹色の星、宵闇の猫、額縁の空。
そして私は、アナタを……アナタを――――!
「アナタを――追い越して!」
視界が白く濁って、電波の悪いテレビみたいに霞む。
頬を伝う汗の感覚が、鮮明に脳へと伝わってくる。
痛みはもう、どこかへ消えていた。私の体はもう、そういう次元を超えていた。
ただ、前へと。あの子の影を追い越して……その先へと、進むんだ。
……そこでふと、気づいた。
私の脚に纏わりついていた泥が、既に消えていたことに。
「いい
あの子の声が、聞こえる。耳元ではなく、私の前を走る彼女の姿から。
「それでこそ、オマエだ! オマエはオレじゃない! オマエはオマエなんだ! だから……オレを越えろ! このオレの影ではなく、マンハッタンカフェとして! オマエが生きているこの世界に、その生きざまを叫んで見せろ!」
……ああ、そうだ。
私はあの子になれない。どうしたって、私はあの子の影を追うことしかできない。
でも、それでよかったんだ。
私は――マンハッタンカフェという、一人のウマ娘なんだから。
だから、私は今ここで、あの子の影を追いかけて……追いついて、追い越して。
刻まなければ。私が私として生きているという、確かな事実を。
叫べ。喉が枯れて、潰れてもいい。それでも、この世界に響き渡らせるんだ。
――魂が震えるほどの、
「あぁぁぁあああああああ!」
視界は殆ど潰れていた。
音もほとんど聞こえなくて、全身の感覚も消えている。
まるで白い泥の中を泳いでいるようだった。
藻掻いて、足掻いて、そして。
その霞んだ視界の中に、ほんの一瞬だけあの子の背中が見えた。
これまで生きていた中で一番近くに、あの子の存在を感じ取ることができる。
だから私は、手を伸ばして――
「っ……あぁあああッッ!」
――あの子の背中を、追い越した。
■
次に気が付いたとき、私の身体は芝の上に横たわっていた。
見上げた空は相変わらず曇天のまま。降り注ぐ雨が、身体を濡らしていく。
だけど、不思議と寒さは感じなかった。
夢だからか、それとも……私の身体に、まだ熱が籠っているからか。
そんな曖昧な身体の感覚に身を任せていると、ふたつの足音が聞こえてくる。
「オマエは逆に冷静さが足りてねェンだよ。そこはもッとカフェを見習いな」
「……うるせェな」
「だが、走りは悪くはねェ。オレ好みで気に入ッた」
「あッそ。そりゃどォーも……」
「たまにはあの薄ッぺらい機械じゃなくて、隣にいるお嬢様に頼ってみな」
「……余計なお世話だッての」
私を挟んで交わされる会話を聴きながら、ゆっくりと身体を起こす。
……頭が、痛い。まるで、風邪を引いている時みたいに、全身が重たい。
そんな思考をぼうっとしたまましていると、ふいにくしゃりと頭を撫でられる。
視線を向けると、そこには私のことを見下ろすあの子の姿があって。
「いい、レースだッた」
ぎらぎらと鈍く輝く歯を見せながら、そう笑っていた。
「ありがとう」
だから私も、あの子と同じように笑って。
「ハハ、ヘタクソな笑顔だな」
「……やっぱり、変?」
「いや、悪くねェ。今のオマエには、最高に似合ッてるよ」
私の問いかけにそう答えて、あの子はまた微笑んだ。
「走る理由は見つかッたか?」
「……うん。アナタのおかげで、見つけられた」
「なら、いい。こうしてわざわざ出向いた甲斐があるッてモンだ」
そう言って、あの子は私の頬を親指で拭った。
……今の私が走る、理由。
きっとそれは、この世界に私が生きた証を刻むことなんだ。
それがどれだけ醜くて、乱雑なものでも構わない。眼を背けてしまうほどに酷く、吐き気を催してしまうほどに不気味なものでも、それでいい。
私は今、この世界にこうして生きている。生きて、走り続けている。
その事実を……一つの哭にして、この世界へ響き渡らせるんだ。
「あァ、上等な理由だ。このクソッタレな世界に、オマエの生き様を証明してやれ」
するとあの子は私の隣に腰を下ろして、地面に茂る芝に手を這わせる。
「いいか?
「うん」
「……よし、良い返事だ。なら――」
そうしてあの子は立ち上がって、こちらを振り返ることなく、告げた。
「叫べ。そして、見せつけろ。運命に抗う、一人のウマ娘の生き様を」
その瞬間、私たちを包むレース場の景色が、絵具みたいになって溶けはじめる。
大地はぼろぼろに崩れ始め、割れた隙間からは夜空が顔を覗かせていた。
星々が瞬くその中へと、落下していく。内臓に感じるのは、強烈な浮遊感。
……夢が、終わる。膨らんで、弾ける泡のように、儚く。
きっとこれが、あの子と走る最初で最後のレースなんだと、直感で理解した。
「……待って!」
だから、手を伸ばした。遠ざかっていくあの子の背中に向かって。
「これから……どこに、行くの?」
絞り出すような問いかけに、あの子は手を振りながら答えた。
「しばらく休む。オマエらの面倒を見るので、少し疲れたからな」
「……そう」
気怠そうに体を伸ばすあの子へ、私は最後に。
「……また、会える?」
「当たり前だろ。友達なんだから」
細々とした問いかけに、あの子は。
「最後に言ッとくけどな、オレはお前の崇拝する存在じゃねェ。オレとオマエは、ただの友達なんだ。それ以上でも、それ以下でもない。つまり……」
そうして最後に一度だけ、あの子は私のことをしっかりと見つめてから。
「……これからもずっと、見守ッといてやるよ」
なんて言葉を最後に残して、消えていった。
■
それから、いくらかの時間が流れた、ある雨の日のこと。
「……アイツは結局、何が言いたかったんだ?」
トレーニングコースへと向かう途中で、偶然シャカールさんと出会って。
そのまま何も言葉を交わさず、二人で傘を差しながら並んで歩いて。
……そういえば、あの日以来、この人とあまり言葉を交わしていない、ような。
なんてことを考えている最中に、ふいに掛けられたのがそんな言葉だった。
「シャカールさんは、何だと思いますか?」
「分かンねェから聞いてンだろ」
「……そうですか」
短く答えると、彼女は差したビニール傘の向こうから、私のことを睨んできて。
「やっぱり、オマエのそのスカした態度は気に入らねェ」
「私も、未だにあなたの乱暴さにはうんざりしていますよ」
言葉を交わした私たちは、その場に立ち止まって睨み合う。
やがてしばらくの沈黙が流れた後、それを断ち切ったのはシャカールさんで。
「……ハハ」
「ふふっ……」
私たちは互いに顔を見合わせてから、笑った。
「前々から思ッてたけどよォ……オマエ、中々ノリいいよな」
「……私もです。あなたがこんなに冗談の通じる人だとは、思っていませんでした」
どうやら私たちはお互いに、相手の知らない一面を知れたことが嬉しくて。
つい先ほどまで感じていた気まずさが、嘘のように霧散していた。
「それで、あの子が何を言いたかったのか、についてですが」
再び歩き出したのと同時に、私はそう話を切り出して。
「きっと、私たちを励ましたかったんだと思います」
「……励ます?」
怪訝そうな表情を浮かべるシャカールさんに、言葉を続ける。
「私たちの身体には、別の世界の魂が宿っているというのは、ご存知のはずですが」
「……あァ。つっても、
「それについて、この前からずっと考えていたんです。……あの子は、運命に抗え、と私たちに告げた。それが何を意味するのか……あの子は、何を伝えたかったのか」
そこまで言葉を並べてから、私は一つだけ間を置いて。
「これは、私の推測に過ぎませんが」
「あァ」
「私たちはおそらく、身体に宿る魂と同じ歴史を辿っているのだと思います」
「……歴史?」
眉をひそめて私の顔を覗き込んでくるシャカールさんに、続ける。
「あるいは、それこそ運命と呼んでもいいのかもしれませんね。私たちの道筋は、この魂が宿ったその瞬間から決まっていて……その通りの筋書きが用意されている」
「……くだらねェな」
「ええ。本当に、くだらない……」
踏みしめた水溜まりに映るのは、他の誰でもない私の姿で。
「だから、あの子は私たちの前に現れたんでしょう。このくだらない運命に抗えと。定められた筋書きなんて、破いて捨ててしまえと。あの子の伝えたかったことは、そういうことなんだと思います」
「だから、励ますッてか。にしても、なんでわざわざオレたちに……」
「これは、タキオンさんの言っていたことなんですが」
気怠そうに首を傾げるシャカールさんに、私は。
「あの子は存外、面倒見がいいみたいで」
「……なんでタキオンがアイツのこと知ッてンだ?」
「知りません」
「そォかよ」
どこか納得のいかない様子で、シャカールさんはそう答えた。
雨は強く降り続けていて、冷たさが傘を持つ手に伝わってくる。
……鬱陶しい、重たい雨。だけど、今はそんなに嫌いじゃなくなった。
だって、こうしていると、あの子と走ったあの時を思い出すから。
「フランスにはいつ出発すンだ?」
「来週には、もう発とうと」
「……早くねェか?」
「向こうの芝に慣れないといけませんので」
「ふーン」
なんて、何でもない会話を交わしている時だった。
「マーベラース!」
私たちの進む道の向こうから、そんな叫び声が聞こえてきたのは。
「……なンだアイツ」
「あの子は、確か……」
マーベラスサンデー。一言で表すなら……色々と不思議な、娘。
関わったことは、ほとんどないけど……向こうがその、とっても目立つから……こちらが一方的に知っているような、そんな娘だった。
そんな彼女は私たちを見つけたかと思うと、すぐさまこちらへ駆け寄ってくる。
……あ。
彼女の瞳の、奥……あの子と同じで、星が瞬いて……
「マーベラス! こんなところで会えるなんて、奇遇だねー!」
「は、はァ……? オマエ何言ってンだ?」
「あっ、もしかして……シャカールも同じなの? ううん、きっとそうだよね! それなら、これから一緒に走ろうよ! 一緒にこの前のリベンジさせて!」
「同じって……オマエ、いったい何の話してンだよ」
「何って、夢の話だよ!」
困惑する私たちを置いて、彼女は両腕を広げながら、
「マーベラス、前にも夢でカフェに似た人と走ったことあるんだ!」
なんて、無邪気な笑顔を浮かべながら、言った。
「……マジかよ」
「うん。あ、口調はシャカールに似てたかな。あとね、目はマーベラスに似てた! ほら、私と同じでキラキラの目! すっごく綺麗だったよ!」
ああ、そうか。疲れた、って……そういうことだったんだ。
……本当、面倒見のいい人なんだから、アナタは。
「あー! いた!」
なんて考えを巡らせていると、そんな誰かの叫び声が向こうから聞こえてくる。
視線を向けると、そこには傘を差してこちらに向かってくる、栗毛の娘――確か、ナイスネイチャさんの姿があって。
「あ、ネイチャ!」
「ごめんなさい、二人とも……この子、急にトレーニングしたいって言いだして」
「……いいぜ、付き合ってやる。カフェ、お前へのリベンジも兼ねてな」
「え?」
「私も構いませんよ。ちょうど走りたい気分でしたから……受けて立ちましょう」
「ちょ、え、ホントにいいんですか? こんな急な話……」
「いいッて言ってるだろ。ホラ、行くぞマーベラス」
「うん!」
「……あー、もう! 私もよろしくしていいですか!?」
戸惑うネイチャさんも、やがて吹っ切れたように二人のあとを追い始めて。
そんな三人の背中を追って、私も歩き始める。
定められた運命に、決められた筋書きに、抗うために。
『……あァ。期待して待ってるぜ、カフェ』
踏みしめた水溜まりから、そんなあの子の声が聞こえた気がした。
■