魂哭   作:宇宮 祐樹

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執筆:Hr(@hassi5101)


夢刻

 記録一日目。

 

 目が覚めると、私は真夜中のレース場に立っていた。

 星々も月灯りも存在しない、漆黒の空。

 夜間トレーニング用に備え付けられた屋外照明が緑々しい芝生を照らす。

 遠くの方には、どこか見覚えのあるゴール板も確認できた。

 いつものレース場だ。

 風は荒れておらず、気温も適切。

 

「──天候は晴れ、芝状態は良」

 

 立たされたステージをよく観察する暇もなく、背後からの声に振り向かされる。

 

「オマエが実験するには相応しい環境じゃねェか。アグネスタキオン?」

 

 この時点でようやく自分の白衣が普段使いしている物ではなく、耐久性と通気性、そして軽量化に優れた──白衣モデルの勝負服だという事に気がついた。

 彼女は、漆黒の闇からゆったりと芝生を踏みつけながら、その身を顕わにする。

 声の主はカフェの姿に酷似していた。

 だがモデルとなっている本人とは裏腹に、どうやら人格や口調の悪さはそのままシャカールくんを混ぜ込んだようだった。

 これはつまり、あれか。

 

「……ふむ。実に適切な配慮をありがとう、と感謝したいところだが、十中八九これは私の作り出した夢なのだろうね。深層意識の表面化、もしくは無意識化における脳情報をベースとした場の形成……先刻に飲んだ試験薬の影響だろうか? ククッ、随分と特殊な明晰夢ではあるからこそ、興味が尽きないよ」

「……相変わらずだよ、オマエは」

 

 ギロリと、黄金の瞳がこちらを見据える。

 それでいて獣が威嚇する時のように犬歯を見せつけてきた。

 うん?

 彼女のそんな吐き捨てるような態度に、思わず疑問を抱く。

 

「おやおや、そんな鬱陶しい視線を向けてきてどうしたんだい? いやちょっと待ってほしいのだが……私から言うのも酷な話だけども、まさしくキミの存在意義を否定するようなことになってしまうけども──所詮キミは脳によって作り出された夢の一部だろう。いやこの場合だと都合のいい実験相手、と解釈すべきだろうか。ともかく、恨まれるような設定は無い筈だ」

「ああ、恨んではない。少し呆れただけだよ」

 

 まるで分かりきっていたかのように、彼女は笑った。

 

「けどオレはオマエの実験道具でも、生み出された設定でもないぜ。今こうしてオマエの夢に訪れている──来訪者だ」

「……それについては異議を申し立てたいね。私こそ夢についての研究は発展途上だが、所詮夢なんてのは脳の情報を元にした、データ処理の断片映像に過ぎない筈さ。キミがカフェの姿に酷似してるのも、シャカールくんの口調を真似してるのも、結局は根底にある脳情報が私の記憶だからに違いないだろう。つまりキミの存在を結論づけるなら、夢の一部としか成り得ないのだよ」

「だとしてもそれはオマエの理論だろ。現にオレはこうして姿を現して、自由気ままに喋ってるんだぜ?」

「それも私の無意識化、によるものかもしれないだろう」

「おいおいおいおい! オマエの無意識はそんな非合理の塊かよ!」

 

 彼女はレース場に響くように大声を発した。

 それから何が面白かったのか。

 笑って、笑って、笑って、

 ひとしきり笑ってから、

 

「アグネスタキオンは──違うだろ?」

 

 と言った。

 静かで、どこか厳かのある口調だった。

 

「つまりオマエの理論と、オレの理屈は交わらない」

「……では仮に、キミが他人の夢へと往来できる存在だとしようか。それはそれで理解出来ないが、何故私の夢へと出てきて、あまつさえ対話を望むんだい?」

「話が早くて良いねェ。やっぱオマエはアイツと違って、頭が硬すぎないな」

 

 ここまでのやり取りで、私の思考は今までの常識や理論とは別に、新たな定義を構築するよう働いていた。

 夢の世界──来訪者──自分を知るウマ娘。

 目の前の彼女は、理知外の存在と捉えたほうが良いだろう。

 ククッ……まるでカフェの領分じゃないか。

 

「単純な話だ。迷惑料の先払いにきた」

「ふむ……つまりキミが、今後何かしらの弊害になると?」

「そうじゃねェよ。近いうちにオマエの周りで迷惑を掛けるだろうって意味だ。まァ知らずに巻き込むにしては、流石に気が引けるからな」

「どういう迷惑なのかは、教えてもらえないのかね?」

「悪ィいが無理。だがそのうち分かる」

「迷惑の規模について聞いても駄目なのかい? キミは先払いと言ったが、迷惑料ならそれに見合うだけの物を用意できないと、まるで意味がないだろう?」

「おいおい贅沢な奴だ。同じく規模についても、オレからは言えねェな」

 

 ならば──と言いかけたところで、彼女は私の言葉を制した。

 安心しな、と。

 自信気な表情でニヤっと笑みを浮かべる。

 

「迷惑料については、満足させてやるよ」

「……つまりキミは私が望む物を用意できる、という解釈で大丈夫かい」

「ああ、だから最初に言っただろ。アグネスタキオン」

 

 ──オマエが実験するには相応しい環境じゃねェか?

 

 瞬間。

 まるで暴風が吹き荒れるような、錯覚がした。

 まるで大地が震え上がるような、感覚がした。

 

「さァ! 最高のサンプルデータをくれてやるからよ!」

 

 ドガンッと。

 音がしたと同時に瞬きをすれば、いつの間にか発バ機に立たされていた。

 奇妙なことにゲートは二つしかない。

 今すぐ走れと言わんばかりに、彼女は叫ぶ。

 

「オレがサンプル足り得るか不安か! それとも迷惑料に満足できるか不安か! オマエの真に欲する走りが、永遠に来ないかと思うのが不安か!」

 

 彼女を中心に、空気が飲まれていくようだった。

 風が、高熱を帯びていくようにも思えた。

 それだけの圧が、彼女にはあるのだ。

 

「キミは……いったい……」

「安心しな。オマエはオレが産んだなかで、最も聡明なんだぜ」

 

 だから──。

 困惑する私を気にも留めず。

 彼女は、口元を三日月のように吊り上げて、狂犬みたく笑った。

 

「だから──走ればわかる」

 

 

 三秒後、ゲートが開き、私達は駆け出した。

 若干とはいえ致命的なまでに出遅れなかったのは、まさしく反射的に身体が動いたとしか言いようがない。

 幾度のレースによって肉体に染み込んだ癖が、私を重賞ウマ娘へと底上げる。

 

「はっ……キミって、結構粗暴だと言われないかい……っ」

「そういや現役時代は言われてたなァ。いや、現役後もか?」

「アーッハッハッ! とんでもない実験相手だねぇ!」

 

 軽口を叩きながらコーナーを曲がる。

 最初に見たゴール板を目指すとしたら、おおよそ二四〇〇メートル程度だろうか。

 カフェと同様に漆黒のコートは視界で揺らめいている。

 その隙間から覗ける走法は独特で。

 確かに今までレースをしたウマ娘らとは、違う脚運びでもあった。

 ピッチ走法を軸とした細やかで強い走り。

 重く足を絡めとる馬場でも、確実に勝つための走りにも思えた。

 なるほど、トレセン学園では珍しい。

 貴重なサンプルには成り得るだろう。

 だが──。

 

「だが、違うだろうなァ?」

 

 先行している筈なのに。

 暴圧的な声が耳元で囁やかれる。

 

「オマエが見たいのは、これじゃねェだろ?」

 

 彼女はまるで初めから、分かっているかのように。

 

「よォく目に焼き付けときな」

 

 ウマ娘の可能性をまるで最初から、知っているかのように。

 

「──研究者気取りには、少々贅沢過ぎる走りだぜ?」

 

 答えを示すかのように。

 そう言った。

 

「ほら、よッ!」

 

 彼女の纏う空気が、走り方が変わる。

 いや正確には、恐らく走り方が変わったのだろう。

 見せられたのに、解らない。

 

「ハハッ、まったく……キミはなんてウマ娘だ」

 

 嗚呼、好奇心が止まらない!

 未だコーナーというのに突き放されていく。一バ身、二バ身と、最後の直線に至っても手の届かないほど差が生まれてしまった。

 私も負けじと加速する。

 だがそれを嘲笑うかのように、彼女の加速は止まらなかった。

 

「そうだ……それで良い! 研究者の殻被ってねェで、さっさと走ってきな!」

 

 まさに心が震わせられる。

 なんて暴力的で、美しくて、丁寧な走りをするのだろうか!

 気が付くと無我夢中で彼女を追いかけていた。

 あの走りをもっと近くで見たい。

 観測したい。調べたい。実験したい!

 追いかけて、追いかけて、追いかけて。

 ──追いかけて。

 ふと。

 不意に彼女が止まったので、私も首を傾げながら、合わせて立ち止まる。

 そして気が付くと、汗は止まらずに、息は絶え絶えとなっていて。

 

「……えっ」

 

 彼女が無言で指差したほうを向けば、ゴール板は自分の遥か後方に立っていた。

 

「あァ、今日はここまでだな」

「……そうかい? 私としてはここで終われるほど、理解ある性格をしてないのだがね」

「オマエがどう思ってようがもうお終いだ。ほら」

 

 どろり。

 彼女が言うのと同時に、空間が飴細工のように溶けていく。

 どろり。

 芝生も、ゴール板も、観客席も、屋外ライトも。

 どろり。

 全てが夢幻の如く、この舞台から消えていく。

 どろり。

 地面や空といった、概念すらも失われて。

 どろり。

 やがては、私と彼女を包み込む、虚空の闇だけが残っていた。

 闇のなかで彼女は指を三本立てる。

 

「──三日だな」

 

 ハッキリとした声で言った。

 

「今日みたいな走りを、三日見せてやる。つまり残るは二日間だ。これで迷惑料にしては充分だろ」

「もし可能なら、期限の延長は望めないのかい?」

「ハッ、しねェよ。そもそもお前に会うことすら予定外なんだぜ。……アイツらがもう少し賢い奴なら、こうして出向くことすらないんだからな」

「……もうキミが今更何しようと構わないが、いい加減にそろそろ教えてくれないか」

 

 そう、これだけは聞かなければならない。

 

「キミは、いったい誰なんだ?」

「そうだなァ……」

 

 すると彼女は、数瞬考え込む仕草をしてから。

 勿体振るかのように、答えを告げた。

 

「オマエのお友達の、オトモダチさ」

 

 

 記録一日目

【実験対象】

 ──名称:オトモダチ。

 ──外見:カフェに酷似している。

 ──性格:粗暴。

 ──口調:乱暴。

 

 記録二日目。

 

「よォ、二度目と判ってれば慣れたもンだろ?」

 

 乱暴な挨拶が、開幕一番に飛んできた。

 

「そうだねぇ。キミの粗暴さが許されているのにも納得したよ」

 

 彼女──オトモダチは間違いなく、強い。

 例えばシャカールくんのように外見上の個性からして、粗暴や非行的と捉えられるウマ娘はトレセン学園でもよく見られている。

 これは社会で求められるのが規律的模範な人格だとすれば、中央レースで求められるのは残酷なまでに結果しか存在しないからだ。

 実力至上主義というのは時にシステムとして、社会的な人格破綻者を高く持ち上げてしまう。

 ──駆けて、勝つ。

 その単純な一点だけを追求するのなら。

 時に横暴でも、時に破綻していても。

 レースで強ければ殆んど許される世界となっているものだ。

 私のように『実験で多少迷惑かけても許してもらえる』のが良い例だろう。

 つまりその点で言えば、オトモダチほど優秀なウマ娘は滅多に存在しない。

 危険な猛獣でも絶滅危惧種ならば保護されるように。

 希少種とは同格が少なければ少ないほど、大切に扱われるものだから。

 

「ただ私が解せないのは、キミほどの強さがありながら具体的な資料が一つも存在しない事だ。名前や風貌が異なろうとも、昨夜見た走法ならばそれこそ記録されるべき生きた資料だったろうに。まさか当時のトレーナーが、全て節穴だった訳でもないだろう?」

「……ッたく、研究者気取りの小娘が。この際に忠告しといてやるが、そこまで質問するほど許したつもりはねェからな。あくまでオレの迷惑料は、走りを見せることだ。学ぶのも調べるのもオマエが勝手にしやがれ」

「ふむ……それもそうか。気に障ったのならすまないね。こればかりは好奇心によるものと思ってほしい」

 

 時間が限られている以上、口論は無駄だ。

 私は意識を切り替えて丁寧に謝罪すると。

 何かに触れてしまったのか、彼女は考え込むような仕草を取る。

 それからザクッ、ザクッと。

 苛立ちを解消させるように芝生を二回蹴ってから、言った。

 

「……忠告ついでに一つ、アドバイスしてやるよ。オマエの飽くなき好奇心はオレ好みだが、その中途半端さにはガッカリだぜ」

 

 初めて邂逅したときのように、黄金の瞳がギロリと睨みつけてきた。

 中途半端ときたか。

 勿論彼女からの評価に角が立たないと言えば嘘になる。

 だが、今はこれ以上、深掘りしていく余裕もない。

 

「そうか……では時間もないし早速走行を頼めるかな。距離は二〇〇〇メートルを右回りが良い。私は邪魔にならないよう隅で見ていようか」

「おい、オマエは走らねェのか?」

「普段なら観測機器とPCが欲しいところだが、贅沢は望めないからね。今回は手計算に専念したいのだよ」

 

 すると彼女は、また苛立つように大きな溜息を吐いて、

 

「……ま、走るのが契約だからな。気が済むまで計算してろ」

 

 と言った。

 失望させるな、とも吐き捨てながら。

 適当に走りやすそうなスタート地点へ向かう。

 

「……さあ、始めてくれたまえ」

 

 それから三秒後、オトモダチの独走が始まった。

 

 

 土を蹴り、風を切り、空気を裂く。

 

「アグネスタキオン。オマエが望むのはこれか?」

 

 直線を駆けて行き、最初のコーナーに突入する。

 通常、スピード制御が出来ていないウマ娘は、コーナー遠心力に身体を持ち去られることが多い。そのため多くのウマ娘は解消すべく、曲がる直前に僅かながら速度を下げて調整するものだ。

 だが彼女の場合、その本質は速度調整よりも鮮やかな脚捌きで負担を分散している節がある。つまりトップスピードを殺すことなく立ち上がりも最速で迎えられるのが、強さの基盤に思えた。

 

「ふむ、完全な才能によるものだろうか」

 

 その美しいテンポの走法を眺めながら、脳裏では新たな方程式を組み上げていく。地面には幼児の砂場遊びのような落書きで、数多の計算式が積み重ねられていった。

 

「姿勢角度も計算式に、いやそれよりも脚への荷重を推測で加算するべきか……」

 

 即席の計算を続けていくと。

 やがて、走り終わった彼女が大声で叫ぶ。

 

「おい! これで満足したかァ!」

 

 ……満足?

 彼女も面白い冗談を言うものだ。

 

「いいや、まだ足りないね。キミが走ると言ったのだから最後まで付き合ってもらうよ。少し休憩したら、もう一本走ってみてくれ」

「チッ……何度やっても無駄だろうが」

 

 舌打ちを鳴らすと、休憩は不要なのか再びスタート地点で構えを取った。

 彼女はもう一度、二〇〇〇メートルを駆けていく。

 二本目を走る。

 その狭間で、私は机上の計算式に加筆した。

 三本目を走る。

 その最中で、私は再現性の困難に苦悩した。

 四本目を走る。

 その道中で、私は自らの脆弱性に忌々しさを感じた。

 計算という具体的な道筋が立てられていく度に、彼女の異端さはより顕著に浮き上がっていく。

 ウマ娘という可能性を突き詰めた究極の走り。

 その一端が示すのはどこまで行っても私の脚で再現できそうにない事実だ。

 いや……最初からウマ娘の可能性を示すのは、私でなくて良い。

 このデータを記憶して、現実世界でカフェやシャカールくんをモデルに再現させられれば、必ずや大きな進展になるだろう。

 つまり私がすべきことは、観測とデータ収集である。

 プランBにしよう。目的を履き違えるな。

 そうだ。

 私の夢は──

 

「──これで満足か。アグネスタキオン?」

 

 気が付くと獰猛な表情は、すぐ目の前まで迫っていた。

 確かに次走の合図は出していない。だが四本目となれば多少なりともインターバルが必要になるものだろう。

 距離にして八〇〇〇メートルの全力疾走。

 それなのに彼女は汗どころか、呼吸一つ乱していなかった。

 

「ククッ……キミの走りにも興味が湧くが、その底無しのスタミナはどこから来るのだろうか。当初から明らかに未知のメカニズムで成り立っている存在と言ってしまえば、そこまでだけどね。疲れない存在とでも記述しておくべきかい?」

 

 私が軽口を叩くと、針を刺すような視線を向けられた。

 瞬間、胸ぐらをグイッと掴まれる。

 

「茶化してんじゃねェよ。質問に答えな」

 

 彼女は今にも噛みつかんばかりの勢いで。

 そう言った。

 

「……そうだねぇ。確かにキミの言うとおり最高のサンプルデータだった。何かしらの媒体で記録できないのは残念だが、実に有意義な情報が取れたのには違いない。つまりその点で言えば、大いに満足さ」

「こんな無駄の繰り返しに、何の意味がある?」

「無駄だと思うのはあくまでキミの憶測だろう。どんなデータも記録しておけばいつかは役立つ筈さ。それを役立てるのは私でなくても構わないし、キミのお友達でなくても構わない。もしかすれば数年後に名も知らぬ一人の閃きが、私のデータを元に世界を切り開くことさえある。科学とは、そういった長い歴史の積み重ねなんだよ」

「ああもう、違ェんだよ!」

 

 ドガンッ!と。

 私の真横に置かれていた観客席が、暴虐的な脚で蹴り砕かれる。

 

「言った筈だぜ? 失望させンな。オマエは中途半端だってな」

 

 いよいよ彼女の心音が聴き取れるくらい、お互いの距離は近付いていた。

 

「……それが研究者としての技量を指しているのなら訂正したまえ。私ほどウマ娘の可能性を信じて、研究に身を捧げている者はそう居ない」

「ああ、オマエが聡明なのは間違いないさ」

 

 カフェに似た黄金の瞳が、じっくりと私を見つめてくる。

 

「オレの知る限りでは最高の頭脳を持ってるだろうよ」

 

 だがな、と彼女は言葉を続けた。

 

「オマエは──まだウマ娘だろ」

 

 それはまるで、聞き分けのない後輩を諭すような声だった。

 漆黒の髪がゆらゆらと、そよ風に揺られていく。

 強者故の言葉の足りなさか。はたまた感性の違いなのか。

 それでも数秒の戸惑いを、私に植えつけた。

 

「それはつまり」

 

 どういうことだと、言いかけたところで。

 視界が──瞬く間に揺らいだ。

 

「……っ!」

 

 世界がどろどろしたスープのように溶けていく。

 先程まで腰掛けていた観客席は流れていき、天と地は掻き混ざり、漆黒のコートは暗闇の世界へと沈み込んでいく。

 

「ここまでだ……明日が最後だぜ」

 

 やがて見えなくなる彼女の声が、おどろおどろしいくらい地の底から聞こえてきた。

 

「オマエに──」

 

 奇怪な浮遊感が私を持ち上げていって、徐々に夢の世界から遠ざかる。

 レース場は消えていき、残るのは虚空に広がる闇そのもので。

 それでも僅かに見える世界の隙間から。

 呆れたような、覚悟を決めたような。

 そんな、オトモダチの声がした。

 

「オマエに──可能性の果てを見せてやる」

 

 まだ全ては見せてないとでも言うように。

 相変わらず乱暴な声が、闇のなかで轟いていた。

 

■ 

 

 記録二日目。

【実験対象】

 ──名称:オトモダチ。

 ──外見:カフェに酷似している。

 ──性格:粗暴。

 ──口調:乱暴。

 ──備考:彼女は可能性を知っている?

 

 記録三日目。

 

 彼女の言葉が、眠るまで脳裏に反復していた。

 ふと考える事がある。ウマ娘という生物を調べれば調べるほどに。

 現在までの最速値は、到達点よりも程遠いのを感じる瞬間がある。

 極端な話、生物という仕組みを壊す前提であればヒトであろうとウマ娘であろうとその最高速度は遥かに高くなるものだ。

 仮に今後一切は歩けなくなるという制約で取引してしまえば、この私でさえベストタイムを大きく更新するのは可能となる。

 だがあくまでこれは生物という枠組み内での話。

 つまり私が常々思うことは、ウマ娘という種はどうにも現在考えられている枠組みから大きく逸脱しそうな部分があるという点だ。

 心理的効果による実力の底上げ。

 ゾーン状態だけでは考えられない異常なまでの身体向上。

 私にはまだ知らない事が多すぎる。

 しかし彼女ならば、その一端を知るのだろうか。

 可能性の果て、と言った彼女なら。

 

「…………」

 

 目が覚めると、私は真夜中のレース場に立っていた。

 星々も月灯りも最初から存在しない虚空の世界。

 闇のなかにポツンと作られた仮想のレース場。

 立ち入りを許されているのは、私と彼女の二人のみ。

 これ以上のない、最高の舞台だ。

 

「──腹は括ったか。アグネスタキオン?」

 

 訝しげな声と共に、暗闇から、姿を現してくる。

 目の前に立つのは、過去最高クラスに強いウマ娘だろう。

 

「そうだねぇ。起きてからじっくりと、考えさせてもらったよ」

 

 黄金の瞳と漆黒のコートが、芝生の上で待ち構える。

 相変わらず乱暴な口調。それでいて今にも喰い殺そうとする猛獣の如き視線。

 未だ睨みつけてくる彼女を見て、私の頭脳は冴えわたっていく。

 

「折角だし、ここまで考えてきたことを整理しようか。夢の世界に訪れるキミの迷惑料と、昨晩残した可能性という言葉の意味を」

 

 黙ったままの彼女を見つめた。野次を飛ばさない辺り会話を続けて良いらしい。

 

「私はどうにも対人コミニュケーションを得意とする思考をしてないからね。感情やら気持ちやらを汲み取るのは苦手だが、言動や状況証拠からして憶測できるものはある。いやそもそもキミの場合、あまり隠すつもりは無いのだろうか……それにしたって、カフェは厄介な隣人を抱えたものだよ」

 

 やれやれと、手を横に振った。

 

「おいおい自己分析は苦手か? 問題児はオマエも大概だろ」

「ククッ……問題児はあくまで学園の評価に過ぎないさ。それに私としてはカフェと良き友人関係であると願っているよ。彼女といれば、現代科学では解明しきれないことも引き起こるからね。加えてそういった例外を集めて定義化するのも、私の役割だと自負している。寧ろカフェからすればキミという存在証明に向けて私を使う節さえある。ああ見えて、結構強かな性格なのさ」

「友達自慢も甚だしいなァ。いっそ惚気にしか聞こえねェぞ」

「それぐらい仲が良いということさ。もし彼女が離れるくらいなら、一つ口説いてでも止めてみせよう」

 

 そう、私はこれでもカフェのことを気にかけている。

 顔に出ない調子の良し悪しが、すぐ分かるくらいには。

 つまり。

 

「──カフェが何かに悩んでいる程度、前から知っていたさ」

 

 だからこそキミは干渉してきたのだろうと。

 カフェに似た相貌を通り越して、現実の友人を思い浮かべた。

 

「迷惑料と言うくらいなら、どの道キミが行うのは荒療治なんだろうねえ。いやはやカフェだけならまだしも、シャカールくんまで巻き込もうとするつもりだったとは」

「……ッ」

 

 そう告げると、流石にシャカールくんまでは意外だったのか。

 一瞬だけその黄金の瞳が、大きく見開いたように見えた。

 

「ハァ……そうだな」

 

 それから。

 彼女はガシガシと頭を掻きながら、ゆっくりと口を開く。

 

「……オマエは聡明なやつで、いつかは一人で答えを導いてしまう。今は運命的にも好転しているが、挫折や孤独を得ても、どこかで答えにたどり着く可能性が高かった」

「それは質問の答え、だろうか?」

「話の前提だよ。まァだからこそオレとしては、マジで最初からオマエに近付くつもりはなかったんだぜ。答えにたどり着けるなら、その道中が悲劇的だろうと結局中身は同じなんだからな」

 ただ──と、彼女は続けた。

 

「あいつらには、オレが必要になったんだよ。オレという起爆剤がな」

 

 それから何もない虚空を見つめて。

 もう少し物分りが良い奴等なら良かったんだがなと。

 薄く笑いながら言葉を漏らした。

 

「やっぱオマエは聡明だよ、アグネスタキオン。オレが産んだなかでは一番だ」

「ふむ、私の血筋にキミのような存在は認知していないがね」

「そうかァ? 結構似てるとこあるんだけどな」

 

 彼女なりのジョークだろうか。

 ただケラケラと笑うその姿に、運命的な何かを感じる気もした。

 

「それで?」

 

 彼女は言う。

 

「──それで、もう一つの答えはどうだ?」

 

 ぞわぁっと!

 肌の浮きだつ感覚が全身を駆け抜ける。

 この圧力。この視線。この態度!

 一挙一動に油断を許さない厳戒態勢というのが、本能で理解させられる。

 

「オレがこれから成そうとすることは、正直どう思われてもいい」

「……ほう、あれだけ教えようとはしなかったのに?」 

「ああ、今の問いかけに比べたら、何かが大きく変わることもそうないだろ。だから大切なのは今、この瞬間だ」

 

 ──答えを間違えるなと、遠回しに訴えかけてくる。

 嗚呼、そうだ。

 彼女にとって私は尖りすぎている。

 半ば見るだけで理解してしまう私は、ある意味で扱いにくいのだろう。

 それ故に彼女も伝えにくかった。言語化できる領域ではなかった。

 それならばもう私から歩み寄るしかない。本質があるのなら、内側へと入り込むしかない。

 彼女の示す──可能性に近い場所へ。

 品定めするよう睨みつけてくる彼女を見て、反面私はニヤリと笑った。

 答えならもう決まっている。

 堂々と、その意思を、告げる。

 

「──今宵はキミを、負かしてみたい」

 

 そよ風が二人の間を通り抜け、芝生を揺らす。

 彼女は一瞬驚いた表情をしてから、

 

「ああ、良いな……!」

 

 直ぐさま狂犬のように、口元を歪めた。

 

「そう、それだ……最高だねェ! 回答としては満点だぜ!」

 

 アグネスタキオンッ!

 レース場に響くほど巨大な叫び声。

 まるで鳴動するかのようにスタジアムが大きく揺れていく。

 あまりの揺れに思わず大地が砕けるものかと錯覚した。物理法則に反した強風が、私の視界を鈍らせる。

 パチンッ。

 彼女が指を鳴らすと、奇妙な発バ機が現れていた。

 そこに二つしかゲートはない。まさに私達だけのレース場。

 

「満点のご褒美だ! 望むものを見せてやるよ」

 

 嗚呼。

 どくんっどくんと、心臓が波を打つ。

 私の細胞が走れ走れと、騒いでいく。

 拳を強く握りしめて抑えようとするが、両足が卑しいほどに疼いてしまう。

 まるで可能性という餌をぶら下げられて、興奮止まない獣みたいに。

 

「ククッ……レース前に震えるのは久々だね」

 

 私が発バ機へと近寄ると、二つのゲートが招くよう一斉に開かれた。

 

「不安か? 勝負が終わったら慰めてやるよ」

 

 軽快な嘲笑を残しながら、先に彼女がゲートへと入っていく。

 私も続くように、ゆったりとした足取りでゲートに入った。

 何度も繰り返し入った金属の箱。

 鋼色の柵越しに、彼女の宣誓が聞こえた。

 

「さァ、可能性を見に行こうぜ」

 

 発バ機のランプが点灯する。

 待機中の無音が、どこまでも長く感じた。

 空気はねっとりと身体へ纏わりつき、心臓は猛スピードで血液を循環させる。

 利き足に力を込めて、視線は、遥か向こうへと。

 可能性が何を見せてくれるのか、正直分からない。

 ただ昨晩諭すように怒った彼女を見て、私は走るべきだと直感した。

 いや走るだけではない──全力で負かすべきだと。

 それこそ私が導き出した、唯一の答えなのだから。

 

「ッ!」

 

 ガシャコンとゲートが開く。私達が駆けるのは、ほぼ同時だった。

 何度も繰り返したモーションで地面を蹴り飛ばす。

 彼女はギラついた目で先行し、その一バ身後ろで私は追いかけた。

 ドドドドッと芝生の激しく荒れる音がする。

 直線上では未だに影は手中にある。お互いに大きく差が出る事はない。

 

「こっからだ。着いて、来れるんだろ?」

 

 暴圧的な声が、またも耳元で囁やかれる。

 当たり前だろう。今更気が変わることなどない。

 

「ああ、そのつもりさ!」

 

 お互いの位置は変わらずにコーナーへと突入した。

 視界の端で捉えていく彼女の脚が──変わる。

 

「ッ!」

 

 ピッチ走法を軸とした、力強い走りが少し薄まる。

 そして次第に遠心力を分散する、未知の走りへと切り替わった。

 

「さァ、どうするよ。アグネスタキオン?」

 

 保っていた位置関係は崩れ、コーナーなのに私だけが遅れていく。

 一バ身から一バ身半、一バ身半から二バ身へと。

 少しだが確実に、彼女との距離は離されていた。

 

「はっ……ああ!」

 

 ダメだ。これ以上の先行は許さない。

 彼女だけのアドバンテージを無理にでも詰めていく。

 歯を食いしばり、身体をより前方へと傾け。

 諸刃の脚に、力を込めた!

 

「そう、それで良い」

 

 コーナーから直線まで、何とか間隔を戻した瞬間。

 ゾッとするくらい、獰猛な笑みを浮かべて、彼女は言った。

 

「オマエはコーナーで勝てない。だから抜ける直前に多少でも無理に詰める。実に合理的で良い回答だ」

 

 ああ……。

 彼女と現役が重なれば、どれほど幸福だったろうか。

 こんなにも早く、冷静に分析してくれるなんて。

 腹立たしいほどに彼女は、強い。

 

「本来は無理にでも先行したかったろうが、それはオレ自身が許さねェ」

「ククッ、流石にそう、上手く行かないか」

 

 直線上に入って、お互いに加速する。

 地響きのような音を鳴らしながら、土は地中へと飛ばされていく。

 確かに彼女は早い。だがその脅威はコーナーほどではない。

 直線ならまだ私にも余裕がある。

 

「ふっ……はああああ!」

 

 ガラスの脚であり、諸刃の脚であり。

 超光速の、脚がある。

 

「ああ、そうだッ!」

 

 風音に紛れながら、彼女の叫びが聞こえた。

 

「オマエはレースしてる時のが一番良い! 外で数字を睨むよりも、今のオマエが一番オレを理解してる筈だ! だから全力でオレを追いかけろ! 全力でオレに近付きなァ!」

「その、つもり……だよッ!」

 

 まだコースの中盤だと言うのに、見苦しいほどのデッドヒートが始まった。

 追い付けないほど差を生もうとする彼女。

 策の芽を潰そうと距離を詰める私。

 一対一だからこそあり得た、レースの定石もない無茶苦茶な走りだ。

 実に私らしくない。こんな走りが、まだ残っていたのか。

 

「ククッ……アーハッハッハ!」

 

 ペース配分を考慮しない不相応な自分に、思わず笑いがこみ上げる。

 それだけやる価値のある相手だ。私の目的は、彼女に勝つことだから!

 走る、離れる、追いつくを繰り返す。

 最終コーナーを抜けて、やがて最後の直線に突入した。

 どこか見覚えのあるゴール板が、直ぐ先に!

 

「はっ、はっ……はあああっ」

 

 大きく口を開けて、肺のなかを出来るだけ空気で満たす。

 彼女と重ならないように、身体の位置は外側へ。

 より前傾姿勢となり、腕は大きく振ることにした。

 ガラスと言われた両足に、これ以上なく力を込める。

 どうせ夢ならば壊れるくらい全力で駆けてしまおうか。

 これがクラシック時代に超光速を冠した、私の理想形といえる走法だ。

 さあ、勝負の時間だよ。

 ──オトモダチくん!

 

「来たか……アグネスタキオンッ!」

「言っただろう、キミを負かすとね!」

 

 視界に捉えていた背面が、徐々に後ろへと下がっていく。

 やがて彼女の横顔が映り込んできた。

 追い掛けて、追い掛けて、追い掛けて!

 一バ身から半バ身! 半バ身からクビ差へと!

 ──追い越して!

 

「……目まぐるしい進化だな。アグネスタキオン」

 

 今度こそ私の耳元で、彼女は言った。

 その言葉を漏らさないようにと。

 思考が妙に、クリアとなる。

 ふむ。

 何故だろうか。

 同時に、本能的な敗北を感じた。

 まるで周囲がスローモーションのようだ。

 

「これが」

 

 ゴールまでの三〇〇メートルがやけに長く感じる。

 音がしない。

 土を蹴る音も、空気を裂く音も。

 全てが無音となった世界で、私は走る。

 静かで、けれども走りを見るのには心地いい。

 ……ああ。

 横で並んでいた筈の彼女が、遂に動く。

 勢いよく、前方へと、飛び出した。

 

「────可能性の、果てだ」

 

 消える。

 彼女が遠くへと、走り去っていく。

 まるで世界の鏡面を打ち壊し、眩い光へと駆けていくように。

 なるほど。とてもよく理解したよ。

 私やカフェでは再現できないわけだ。

 いやそれどころか、トレセン学園に在籍する誰もが不可能だろう。

 悔しいが、今は無理だ。

 こればかりは諦めるしかない。

 諦める、しか。

 いや、でも。

 

「…………」

 

 例え。

 

「無理でも」

 

 例え。

 

「不可能でも」

 

 例え。

 

「そうだと、しても!」

 

 息を吸った。

 肺が痛くなるほど、大量に。

 

「私もッ…………可能性の、果てにッ!」

 

 視界の先へ、手を伸ばす。

 せめて大きく引き離されないようにと加速する。

 声にならない、叫びを上げた。

 

「─────ッ!」

 

 彼女の両足を、捉えた!

 観測しろ観測しろ観測しろ観測しろ!

 答えがあるのなら、せめて近付けろ!

 脚の振り幅、回転速度、突入角。細かい計算は後回しでいい! 数値も概算で構わない! 科学的に落とし込んでしまえ! 近似値を出せれば上出来だろう!

 灰色の脳細胞がフル稼働していく。

 頭の中でバチバチと火花が散っていくようだ。

 真似ようと加速するたびに、身体のどこかでボロが出る。

 全身の痛覚神経が、とびきりの悲鳴を上げた。

 両足の感覚が、置き去りになるようにも感じた。

 脳液がドロドロと、溢れるような気がした。

 無視しろ。関係ない。

 全部、今は、どうでも良い。

 駆け抜けろ!

 

「──さぁ、可能性を導き出そう──ッ!」

 

 視界は真っ白に染まる。その先に漆黒の彼女が見える。

 まるで私という肉体は、溶け切ってしまったようだ。

 脚があるのかどうかも分からない。

 ただ彼女との距離が近付くのだけが分かる

 

「止まるなッ!」

 

 隣で、叫んでいる。

 

「そのまま走れッ! アグネスタキオン!」

 

 何も聞こえないのに、その直接聴かせるような大声だけが分かった。

 漆黒の影が、後ろへと回る。

 私は……私は!

 

「はああ、ああああ、あああああッ!」

 

 今こそ、可能性の、一端に。

 

 

 目が覚めると、芝生の上で寝転んでいた。

 頭がズキズキと痛む。身体も動かない。

 脚どころか、指一つさえも動かない。

 これはかなり、無茶したようだ。

 暗闇だけの空を見上げていると、黄金の瞳が上から覗き込んできた。

 

「よォ、気分はどうだ?」

「……最高、だ、ねぇ」

 

 彼女はどこか、呆れたような表情をしている。

 

「ッたく、迷惑料にしては払いすぎた」

 

 そんなことを言われても、払ったのはキミだろう。

 流石に反論しようとしたが、口が上手く動かない。まともに話すまで回復するのは難しいようだ。

 これはどうしようかと思ったところ、彼女も察しているのか。

 漆黒のコートから一枚の紙切れを見せつけて、一方的に話し始めた。

 

「過払い分はオマエにも手伝ってもらう。これを覚えとけ」

 

 ──19860325。

 紙には、謎の数字が羅列されていた。

 何かの計算式だろうか。どことなく日付にも見える。

 これは? とアイコンタクトを送った。

 彼女は答える気がないように、紙をぐしゃぐしゃにして押し付けた。

 怪我人なんだから少しは優しくしたまえよ。

 

「もう覚えただろ。戻ったらメモして身に着けとけ。そのうち使うからな」

 

 ……やれやれ、とんだオトモダチときたものだ。

 カフェ曰くずっと見守っていたようだが、それにしても過干渉ではないかね。

 まったくキミは、と思ったところを足で小突かれた。

 それ以上は言うなと、睨みで教えてくる。

 

「……じゃあなアグネスタキオン。もう会うことはないだろうよ」

 

 それからは、ぶっきらぼうに。

 もう教えることはないように。

 いや寧ろ、どこか照れくさそうに。

 

「アイツらを、よろしくな」

 

 消えゆく世界を背にして、彼女は別れを、告げていった。

 

 

 あれから、幾つかの日々が経過した。

 

 放課後、トレセン学園の理科準備室。大量のビーカーが置き並ぶ横で、私は黙々とキーボードを鳴らしている。

 せめて彼女との出来事を忘れぬようにと。

 新たな試験薬を生成しながらも、濃密な夢の出来事をノートパソコンへ記録していくのが日課となっていた。

 最後のレースで触れられた可能性の果て、その一端。

 あれも正常な思考ではないので、結局は分からないままだ。

 しかし存在すると判明しただけでも儲けものと言えるだろう。

 無我夢中だった自分を思い起こしては、当時の走りを数値化していく日々が続く。

 

 いつかこの走りが再現できたとき、彼女は何と言うだろうか。

 くだらないと一喝するだろうか。

 最高だと喜ぶだろうか。

 それとも呆れ顔になるだろうか。

 朧気な記憶と、科学的な推測で、パソコン上の計算式を埋めていく。

 夢とは、いつか忘れてしまうものだから。

 ならばそのときまでに記録しておくのが、正しい姿勢だろう。

 計算式とは別に、夢で見たこと、話したこと。

 オトモダチのことを、詳細に記録していくことにした。

 

「さて、と」

 

 名称はオトモダチ。

 外見はカフェに酷似している。

 性格は粗暴。

 口調は乱暴。

 

「ただし、備考として……」

 

 そのとき、ガラガラと扉の開かれる音がした。

 大はしゃぎする明るい声と共に、一人のウマ娘が近寄ってくる。

 

「マーベラース!」

「おやおや、キミは……」

 

 マーベラスサンデー。少々変わったところがあるウマ娘だと記憶している。

 ふむ、特別何か用事でもあっただろうか?

 

「あっ! やっぱりここがマーベラスな気がしたの! タキオンからとーっても、マーベラスな気配が感じるもんね!」

「ほう……どうやら気付かぬ間に良いことがあったのかな。さてさて思い当たるとすれば、今出来たばかりの新しい栄養ドリンク剤ならあるが……マーベラスくんも一緒に飲むかね?」

 

 ビーカーに溜まった緑色の液体。

 その一部を試験管へと移して、持ってくることにした。

 なあに、ただの飲めば脚力が四割増しになる栄養ドリンクさ。ちょっと副作用として発光する可能性もあるが、微々たるものだろう。

 彼女は黄金の瞳を輝かせながら、栄養ドリンクを見つめていく。

 まるで例の、オトモダチによく似た瞳だ。

 

「ねえねえタキオン、もしかしてタキオンも、最近マーベラスな夢見てるの?」

 

 すると彼女は栄養ドリンクではなく。

 私を見つめて、そう言った。

 

「ふむ……マーベラスな夢、かい?」

「そうそう、最近とーっても親切な人が夢で教えてくれるんだ! レースで悩んでいたことも、マーベラスに解決してくれるんだよっ!」

 

 ああ、なるほど!

 それを聞いて、私は確信する。

 迷惑とやらが一向に起きないのが気になってはいたが。

 どうやら彼女もまた、中々に苦労しているらしい。

 

「そうかそうか、マーベラスくんは良い夢が見れたようだねぇ。お礼に夢の彼女にも、マーベラスについて教えてあげるのはどうかな?」

「……タキオン、それってとってもマーベラスね!」

 

 大喜びでマーベラス、マーベラスと歌いだす彼女。

 やれやれ、どうにも実験はお預けのようだ。

 私は再び、夢の彼女についてデータを纏めることにした。

 

 記録三日目。

【実験対象】

 ──名称:オトモダチ。

 ──外見:カフェに酷似している。

 ──性格:粗暴。

 ──口調:乱暴。

 

「ククッ……だがやっぱり、彼女は」

 

 これしかない、と。

 横で笑っているウマ娘を眺めながら、キーボードを叩いた。

 

 ──備考:面倒見がいい。

 




2022年12月30日に開催されたコミックマーケット101で頒布したものです。
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