これが私の性癖です。暇な方はどうぞ。
これは、歪みきって尚美しい「愛と救いの物語」である。
ーーー
夜が、在った。
群れを成す街灯、窓から漏れる明かり、道路をなぞるヘッドライト。そのどれもが闇を退けようと輝きつつも、決して街と人の頭上から消える事は無い、そんな夜が在った。未だ途絶えぬ人の往来、道を行く彼らがもし空を見上げれば、冷たい満月と喧騒を吸い込むような深い漆黒を目にすることができるだろう。
そう、今宵は満月。ひと月に一度訪れる、最も不気味で美しい夜。なればこそ必然だったのかもしれない。虚無の底から滲み出るように、暗夜の陰から湧き出るように……死と絶望と鉄錆の匂いを纏った『彼女』が、獲物を求めて現れたことは。
「……」
それは廃墟の中。街はずれで埃を被っていた小さなコンクリートビル。雑に放棄され人が去り、鼠と浮浪者の住みかとなったハズのそこが、今夜の惨劇の舞台だった。
廃墟の中にあったのは、赤。見渡す限りの赤色。糞と臓物が灰色の床を汚し、砕けた骨とそれに纏わりついた肉片がゴミみたいに転がって、何よりおびただしい量の血液が床も壁も天井も汚している。そしてそれらの持ち主だったのであろう人間の死体達が、ある者は細切れで、ある者は下半身を無くし、ある者は生首だけとなって、廃墟を地獄に彩っていた。
そんな阿鼻叫喚の中心に佇むは、この場で唯一息をするひとりの少女。彼女こそがこの大量殺戮の下手人にして、血の饗宴の主賓にして、今宵の惨劇の立役者。月光を跳ね返す白銀の髪、死蝋よりも白き肌……しかして誰よりも
『吸血鬼』、ガブリエラ・ヴァン・テラーナイト。彼女の名前はそれだった。
「……さい、あく」
ぽつり。若い女の声で吐き出された呟きと共に、闇の中で真紅が揺れる。それは「翼」。彼女の背中、白い少女の肌を裂いて咲く、燃えるような紅の翼。蝙蝠のそれに似た形の、けれど大きさも色もまるで違う肉の羽根を揺らし、彼女は自らの頬を拭う。
「ひどいにおい……」
それは
ガブリエラは周囲を見渡す。頭蓋からこぼれた脳漿、ピンク色の断面を晒す肉片、死体の腹から伸びた
床に転がる死体には共通点があった。いや、死体と成り果てるまでの彼等には……と言ったほうが妥当か。背格好も性別も壊れ方もバラバラな彼らは皆一様に、銀の武器を持ち首に十字架を下げ、そして万が一挑んだ吸血鬼に敗北しても彼らの糧とならぬよう日常的に大蒜を摂取していたのだ。そんな彼らの成れの果てのひとつ、未だ血の滴る生首をしゃがみこんでそっと持ち上げ、その顔を見つめながら吸血鬼は呟く。
「そっか……あなたたちも、私に喰べられるのは嫌、なんだ」
死体は返事をしなかった。ただ吸血鬼にとっての悪臭を振り撒くだけだった。だから彼女は生首を捨て立ち上がる。彼等から目を背けるように背後を振り返れば、窓の外、埃と罅だらけのガラスの向こうで、眩しい月が眼下を嘲笑うように輝いていた。
「……おなか、すいたな」
刺すようでいて滲むような深い空腹が、彼女の内に巣食っていた。戦闘器官である『翼』を使ってしまったからか、いつもよりも哀しく腹が啼く。血を吸いたい、血が足りないと喉が渇きを訴え、肉の感触が恋しいと牙が疼く。辺りに転がる『台無しになった御馳走』が、そんな彼女の空腹をより強く搔き立てた。
――こんなときに彼女が思い浮かべるのは、いつも決まって『彼』のこと。こちらを見つめる目、柔らかい声、誘うような首筋と、何よりも優しい笑顔。
「……帰ろう」
吸血鬼はどこか眩しそうな表情をして、そのまま言葉通りにこの場を去った。食べられるものが無いのだから、それは捕食者として当たり前のこと。
だから彼女が去った後には、沢山の人間の死体が、まるで塵みたいに残された。いや、実際に塵と扱われて捨てられた。
肺を犯すような鉄錆の臭いと目を腐らせるような赤一色の光景の中で、死体となった彼らの無念、怨嗟、悔恨、執着、辛苦、絶望、そして涙……もはや無意味となったそれらが、血と命と共に流れ消えて逝く。死が、廃墟に、夜に満ちる。窓ガラス越しに月が照らすのは、勝者にも糧にも成れず、永遠に黙して地を舐めるだけの無残で無価値な死者の群れ。
その光景はきっと、地獄と呼ぶに相応しかった。
ーーー
ふと、首の裏に冷たいものが触れた気がした。
「……?」
俺は反射的に窓の方を見る。けれどそれはすぐに無駄なことだと悟った。なぜならこの屋敷では、「窓が開く」という現象は起こらない。屋敷中にあるすべての窓が、木板と鉄釘で塞がれているからだ。光を一筋も室内に入れぬように、あるいは鼠一匹出入りできぬように。そんな偏執と狂気をありありと感じさせる窓からは、冷たい夜風など流れ込むはずもない。
「なんか寒気がした気がするが……気のせいか」
呟き首筋をさすりながら、柔らかいソファに体を沈める。心地よい感触をより強く味わおうと横たわれば、視界に広がるのは豪奢なシャンデリアの煌めき。眩しくなって目を細め、上ではなく横を見ればそこにも、目がくらむような調度品の数々。
「(しかし改めて見ても……豪華な部屋だな、まったく)」
呆れ混じりの嘆息と共に室内を見渡す。目に入ってくる景色は『貴族の部屋』と言ったところか。重厚感のある飴色の木を金細工で飾った家具たちに、磨かれた大理石を嵌め込んだ机。広い空間を少し暗めに照らすシャンデリアは巨大で、床には幾何学模様が編み込まれた絨毯が数枚敷いてある。部屋の隅にある
「(こんな屋敷、本来なら俺なんか逆立ちしたって住めないだろうな。そんな部屋でのんびりくつろげるとは……我がことながら慣れって恐ろしい)」
赤い革張りのソファを撫でながら、そんなことを思う。こんな浮世離れした空間に馴染むには、俺は余りにも下賤だ。漫画を読んでゲームをして、飯食って糞して寝て……たったそれだけの自分がこんな上等な屋敷に住んでいる現実を嗤いながら、俺はより深くソファに身を沈めた。そうしないと、なんだか耐えられなくなりそうだったのだ。身を低くして目を閉じなければ、目立たないように縮こまっていなければ、神か悪魔みたいなのが薄ら笑いでやってきて、俺に与えられた不相応な幸せを全て奪っていくような、そんな妄想をしてしまったから。
「幸せ、か」
思わず、俺の口はそう言った。口の端をつりあげて、皮肉気に言葉を吐いていた。
――俺はこの半年間、屋敷を一度も出たことがない。軟禁とか監禁というのだろうか、そんな仕打ちを『同居者』から受けていて、俺自身もそれに甘んじている。結果、日の光を浴びていない体は不健康に痩せ、持て余した時間と孤独はさほど強くない精神を確実に病ませた。それでも俺は幸せだと、そう自然と思ってしまったのだ。
「ほんと、つくづくまともじゃないな、俺は」
自嘲の言葉もずいぶんと口に馴染んだものだ。まともじゃないとか、狂ってるとか、人としてどうかしている、なんてのは、この半年間ですっかり自己評価として定着してしまった。まるで質の悪い中二病だ。18にもなって恥ずかしい。だが……完全に的外れってわけでも無いかもな、とも思う。不幸な自分に酔い、現実から目を逸らし、言い訳を巧みに操って、そうしてなんとか今日をやり過ごす。努力と正直は避け、無責任の奴隷に甘んじて、死ぬまでずっと騙し騙し生きていく……それがきっと、俺が殉じる『人間』という生き物なんだろうから。
……と、意図せず耳が捉えた音が、暗い思考の渦に沈んだ俺の意識を引き上げた。重い扉と床が擦れる、鈍く軋むような音。屋敷の正面玄関の扉が開く音だ。どうやら『家主』のお帰りらしい。ソファの柔らかさを名残惜しく思いつつも、俺は家主である彼女を迎えるために立ち上がった。そのまま部屋の扉へと向かう。家具と同じで黒樫に金装飾の両開きの扉、これに威圧感を憶えてしまうのは、数か月前まで出られぬように鎖と鍵がついていたからだろうか。
ちょっとしたトラウマを思い出して苦笑いをしつつ、冷たい金メッキのドアノブに手をかける。
そして力を込めようとして――重たいはずの扉はひとりでに開いた。理由は簡単。俺より早く、向こう側から『彼女』が扉を開けたのだ。
「おわっ」
予想外の事態に驚きの声が漏れ、思わず距離をとるように一歩飛びのく。そんな俺の目の前でゆっくりと開いていく扉。
その隙間から現れたのは、果たして――。
流れるような白銀の髪、新雪のように白い肌……しかして誰よりも
俺は彼女を知っている。彼女が生き血と命を啜り永劫を生きる人ならざる者、すなわち『吸血鬼』であると知っている。そんな彼女が口を開けるのが、本能が命の危機を感じ取ったのだろう、時間が引き伸ばされたように遅く見えた。
「――ァ」
開かれた桜色の唇、その裏から覗く長い
「ただいま、アクタっ」
笑顔だった。へにゃりとした柔らかい表情で、弾むような可愛らしい口調で。熱に浮かされたように、あるいは普通の少女みたいに、血みどろの吸血鬼はそう言った。
はあ、と小さな溜息がひとつ、俺の口からこぼれた。血塗れとはいえ見慣れきった顔に怯えてしまった自分が馬鹿らしかったから。そうして俺は誤魔化すみたいに頭を掻き……我知らず笑って、人喰いの吸血鬼へと言葉を返す。
「……おかえり、ガブ」
その馴れ馴れしい
――ああ、自己紹介がまだだったな。
俺の名前は
「アクタっ」
恐ろしい腕力で重いはずの扉を勢いよく開け放ち、ガブリエラは俺に向かって両手を広げる。ん、という催促の声と共になされたポーズは一言で表すと……ハグ待ち、だろうか。小柄な少女の姿である彼女がやる分には可愛らしい動作のはずのそれは、返り血まみれというあまりに奇抜な格好のせいで恐怖感を助長させるだけだった。
予想外の展開にしばらく逡巡していると、俺の困惑と躊躇を感じ取ったのか、彼女は蚊の鳴くような声でこちらに問う。
「だめ……?」
甘く手繰るような声音。上目遣いの表情を描く、幼さの残る美貌。一挙手一投足が心の柔い部分を撫で、魂の最奥を舐る。そんな、一瞬でどんな人間も虜にできるであろう魔性の仕草は……しかしやはり、全身を汚す返り血のせいで台無しだった。
「だめだ。シャワー浴びてこい」
俺の言葉に「がーん」という擬音が聞こえてきそうな勢いで後ずさるガブリエラ。人間風情に無碍にされたことで吸血鬼としてのプライドが傷ついたのだろうか。ふらりとよろめいた彼女はなんとか踏みとどまり、なおもこちらの決定を覆そうと言葉を紡ぐ。
「で、でも、人間の夫婦はこういうことをするって……」
「それは相手が血塗れじゃない場合に成立する行為だ。そもそも俺たちは夫婦でもない」
「ア、アクタは、その。私とくっつくの、イヤ……?」
「そういう話じゃないだろ。まずは体を洗えって話だ。そのままでこっち来たら部屋中汚れちまうんだよ」
「……私がイヤなわけじゃ、ないの?」
「はいはいその通りでございます。いいからシャワー行ってこい」
俺のぞんざいな言葉に容易く言いくるめられ、「うん!」と廊下を走り去るガブリエラ。なんというか、それでいいのか吸血鬼。多少の呆れを抱きつつ、俺は部屋の奥に戻りソファに荒く身を投げた。ワインレッドの滑らかな革を指でなぞりつつ、呟く。
「吸血鬼、ねえ……」
それは何だったのだろう。自問か訓戒か想起か。ただ何となく、今のガブリエラとかの存在についての知識がうまく嚙み合わなくて、俺はぼやくようにそう言ったのだ。
――吸血鬼。人の血を吸って生きる怪物。陽光と大蒜と銀を嫌い、人ならざる力と牙を持ち、夜を永遠に統べるその存在は、決して空想の産物ではない。彼らは『居る』のだ。文明の隙間、社会の影、歴史の裏に潜み、じっとこちらを見つめている。そして夜闇と共に現れ、哀れで矮小な人間を『吸い殺して』、そうしてまた暗がりへと去っていく……。
美しく凶悪で、悍ましく綺麗で、華々しく最悪な夜の王。人喰いの、吸血鬼。
……とまあ大仰に説明したが、実は吸血鬼というのはそこまで大層な存在ではない。そりゃあ危険であることは確かだ。人間が決して及ばぬ高い身体能力と戦闘能力、獲物はヒト種だけという悪質さ、それでいてほとんど人と見分けがつかない外見的特徴。けれどそれがそのまま『人間社会への脅威度』に繋がるかというと、決してそうではない。
分かりやすい例を挙げよう。例えば獅子や熊などの猛獣。彼等は確かに脅威だが、だからと言って人を滅ぼせるほどでは無いだろう。個体数の差、生息地の違い、高い知性の有無、場所や武器などの条件等……最終的な優位はやはり、万能の霊長たる我々にある。『人が襲われた』というニュースは偶に目にするが、所詮はその程度。そしてこのような認識は、そっくりそのまま吸血鬼という一見恐ろしげな存在に代用できるのだ。
34件。これは日本における去年に立件された『吸血鬼の仕業と確定した事件の数』である。原因の分からない行方不明や死因不透明な変死体なども含めるとその被害は10倍とも100倍とも叫ばれているが、まあ眉唾だ。例え100倍だったとしても、彼等の存在はこの社会を強く脅かすには至らない。逆に日本の殺人事件発生数は約1000件、交通事故なんか30万件を優に超える。
吸血鬼が人を殺す数よりも人が人を殺す数の方が圧倒的に多いのだ、この社会は。俺にとってはそっちのがよっぽど恐ろしい。
ま、所詮はそんなもんだ。対吸血鬼戦争も、魔女狩りならぬ吸血鬼狩りも、公安の吸血鬼対策本部も、そんなファンタジーは影も形も存在しない。「暗いから車に気をつけなさい」という母親は全国にごまんといるだろうが「暗いから吸血鬼に気をつけなさい」なんて母親はいない。実体あれど影はなく、恐怖どころか興味も抱かれない、強くて怖くてされど哀れな、不相応にも現実に迷い込んでしまった
「……ま、それでも怖いもんは怖いけどな」
けれどそれはあくまで種としての意見であって、その70億分の1たる個人の感覚ではない。
思い出す。血みどろの
あんなものを一度見てしまえば、世間の中で培った不鮮明な吸血鬼像など一瞬で塗り替えられてしまう。否応が無く思い知らされる。たとえ人を滅ぼすほどの力はなくとも、彼女らはどうしようもなく恐ろしく、徹頭徹尾人殺しで、そして狂えるほどに美しいのだと――。
そんな感じで俺がただの少女に見えるガブリエラへの認識を戒めていると、部屋の扉が勢いよく開け放たれた。そこにいたのはもちろん件の吸血鬼。彼女は言う。
「アクタ、私水苦手だった。いっしょにきてっ」
そして彼女は全裸であった。あっぴろげであった。堂々とすっぽんぽんだった。羞恥心も無さそうだし威厳はもっと無いのであった。
床を濡らすほど体を湿らせ返り血の汚れが多少落ちているのを見ると、おそらくシャワーを浴びたはいいものの一人では上手く体を洗えず慌てて助けを求めに来た、といった所だろう。吸血鬼は流水が苦手らしいし、そこはまあいい。まだ納得できる。だが人間の前でそのざまはいいのかよ吸血鬼。まるで分別のつかない子供だぞお前。
……俺は思わず頭を抱える。それは彼女の一糸まとわぬ姿を直視しないためでもあり、単にこの怖さなど微塵も感じさせてこないこの吸血鬼サマに眩暈を覚えたからでもあった。なにが「狂えるほどに美しいのだと――」だよ。俺の畏怖を返せ。そんなことを思いつつ、溜息混じりになんとか答える。
「……わかったよ。わかったからせめて体を隠せ。羞恥心を持ってくれ」
手で中途半端に視界を覆ったまま立ち上がり、嬉しそうに手招きする彼女の方へ向けて歩き出す。そう、俺は人間。何の力もない下位者。どれだけ呆れたって、彼女が「来い」と望むならそうする。さっきの扉前でのやりとりのような『答えを委ねられたとき』は別だが、相手が下した決定には二つ返事で従うのみ。なんせ俺は彼女にとって、同居人である前に非常食なのだから。怒らせて痛い死に方をするなんて、そんなのは絶対に御免だ。
俺は全裸の吸血鬼に着ていた上着を羽織らせながら、なんとか彼女に人間の文化を憶えてもらおうと長い説明を始めるのだった。
ーーー
「――つまり、好きあってても簡単に裸を見せちゃだめってこと?」
「そういうことだ。見るほうも照れるし……いやまあ、とにかく裸でうろつくな」
「わかった。アクタが言うなら、そうする」
「ほんとに分かってんのかそれ……」
シャワーを浴びた、いや浴びさせた後、俺とガブリエラはソファの上で隣り合っていた。肩が触れ合うくらいの距離で――と言いたいが、実際はがっつり触れ合っている。肩どころではなく、腕とか足とか、これでもかというくらいにべったりと。
……誓ってこの状況は俺が望んだことではない。それだけは分かってほしい。
「んふふ。あったかいねアクタは」
「俺はそれになんて返せばいいんだ……」
気恥ずかしさから少し身を引きつつそう問うと、彼女はその倍くらい距離を詰めてくる。
「なんでもいいよ。なんにも言わなくてもいいよ。私からはなれないでくれるなら、それだけでいいから……」
「……わかったよ。観念するさ」
潔く諦めて体の力を抜き背を沈めると、抵抗を止めた俺の腕が細腕に絡めとられた。
ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトは……例えるなら、凄く懐いた犬猫である。俺がソファでじっとしてたら喜んでくっついてきて、そのまま「私に構え」と主張してくる。その身勝手さ傲慢さは実に吸血鬼らしくて結構だが、外見や感触はまごうことなきオンナノコであるため、その……まあ一応健全な男児としては少々困るわけで。ただ彼女の側にこういう振る舞いをやめる意思が無いことはこの半年間で分かりきっているので、もう俺からは止めないのだが。
俺の内心の苦悩など知りもせず、ぷらぷらと足を揺らし、俺の腕をもてあそびながら、心底上機嫌そうにガブリエラは言う。
「アクター」
「……なんだよ」
「えへへ。呼んでみただけー」
ぐいぐいと強く抱かれる腕。コテン、と肩に倒れる小さな頭。外から見れば和やかだろうが、内心「気まぐれで腕もがれたりしないよな」と戦々恐々である。吸血鬼のパワーであれば人体など紙屑同然、その気になれば俺の命など数秒ともたない。先ほどまであったえもいえぬ柔らかさへの照れは、今は恐怖ですっかり萎んでしまった。そんな俺の心境など微塵も気にしていないだろうガブリエラは、同じような調子で話しかけてくる。
「ねえアクタっ」
「……今度は何だ?」
「”吸う”と”ちゅー”ってちょっと似てるよね」
「いや何の話だよ……」
「あと”血を吸う”と”ちゅーする”もちょっとだけ似てるよね」
「なあマジで何の話? なんか変な番組でも見たのか?」
あまりにも要領を得ない会話に困惑していると、ガブリエラは体を倒して俺の胸へとその頭をくっつけた。そのまま髪を擦り付けるみたいに俺に頭を押し付けてくる。位置的に彼女の表情は影になってしまってこちらからは見えない。
虫を誘う花を思わせる甘ったるい香りが鼻腔を撫ぜ、サラサラとした銀の髪が布越しに体を擽ってくる。背筋を熱が駆け登って肌を炙り、熱くなった脳味噌の奥が小さく痺れて。どくりと胸の中心で心臓が跳ねたのが、どこか他人事みたいに思えた。
流石に咎めようと思い、ゆっくりと唾を飲み込んで口を開く――まるでそれを感じ取ったみたいに、一瞬早く放たれたガブリエラの言葉が俺の声を遮った。
「ねえ、アクタ」
「……今度はなんだよ」
俺の問いから数拍開けて、彼女が顔を上げる。その小さな口で息を浅く吸って吐いて……そしてゆっくりと絞り出すように、しっかりと噛み締めるように、言う。
「――血。吸って、いい?」
紅い瞳が、俺を覗き込んでいた。
血色のそれは爛々と輝き、熱に濡れたように鈍く光る。開かれた口からは長い
ぎしり。ソファが軋む音がやけに遠く聞こえる。
荒い呼吸が、紅潮した頬が、上下する肩が、俺を掴む腕が、痛いくらいに伝えてくる。血が飲みたいと、お前の血を寄越せと、彼女の全てが叫んでいる。
荒れ狂う情欲の気配を鼻先から感じながら、俺は鈍い思考でただ一つだけを悟った。
――今眼前にあるのは、紛れもなく『死の
理解した途端に襲ってくる、血が凍るような錯覚。肺を押しつぶされるような感覚。彼女の口から伸びる牙、そこから目が離せない。指の一本一本、筋肉の一筋一筋が鉛のように重く、頭の中では心臓の音がガンガンと反響している。これが、この逃れようのない恐怖こそが『死』。俺を終わらせる、その終焉が纏う気配。
……それでも、この問いに対してだけは、俺の答えは決まっていた。
「――いいよ。好きにしてくれ」
言い終わるや否や、飢えた吸血鬼は俺に向かって勢いよくとびかかってきた。ぼすん、とソファに押し倒される形になる。俺は反射的に彼女のことを受け止めながら、この小さな体のどこにそんな力があるのだろうか、なんて、少し現実逃避気味にそんなことを思った。
ぶちり。ボタンの千切れる音と感触。乱暴に露出させられた首筋を、荒く熱っぽい吐息が炙る。少し擽ったいような感覚は、すぐに次のものへと変化した。
皮膚を嬲る、ぬるりとした感触。ぞわぞわと背筋を泡立たせながら首の肌の上を滑るのは、舌。ぴちゃぴちゃという水音と時折漏れる少女の息遣いだけが部屋に響く。
「れぅ、ちゅ……ふぅっ……はむ、れろ……」
甘く煽情的な、少女の口が生み出す音。肌の上を這いまわる、柔らかく濡れた感触。襲い来る羞恥と背徳感に耐えるうち、舐られた首筋の感覚が薄くなっていくのが分かった。吸血鬼の唾液に含まれる鎮痛作用が、皮膚麻酔の役割を果たしているのだ。
舌だけでなく唇も使い出し予測のつかなくなった刺激と、激しさを増す濡れた音の群れ。しばらく続いたそれらの支配は、彼女の欲望が加速したことで終わりを迎えた。
「そろそろ、噛むね……」
耳元で囁かれた、融けた砂糖のような声。その宣言通り、唾液でふやけた首筋に硬い牙が押し付けられる。肉を浅く含み、緩く啄むように動く歯と歯。その隙間から、まるで燃えているのではないかと思えるほど熱い息が吐き出されて肌を焼いた。
「ぁぐ、はぁっ……はむ、はぐ……」
少しずつ移っていく互いの熱。最早別のナニカになってしまったのではないかと疑ってしまうほど熱を帯びた首筋と、そこに絶え間なく食い込む牙の硬質な感触。けれどこれは甘噛みだ。牙が刺さっても痛くはないかを相手に確認する、吸血鬼のせめてもの慈悲。
「……ぁ、ぷはっ。痛く、なかった?」
顔を上げたガブリエラが、口の端から光る糸を伸ばしながら聞いてくる。こちらを見つめる紅い瞳に彩られたその表情はやはり、匂い立つほどの欲望で濡れていた。
「……ああ。大丈夫そうだ」
「そっか」
俺の答えに安心したように細められた目もやはり、どこか肉食獣を想起させる。彼女の幼さの残る顔立ちと振る舞いも、今は煽情と背徳のスパイスとしか映らなかった。
「それならもう、いいよね。ベッド、いこ」
ギラギラと欲望を湛えた瞳。耐えきれずに涎を溢す唇と、平時より余裕のない表情。吸血鬼は既に限界だった。けれどいつものように、残った最後の理性でベッドへの移動を提言してくる。しかし今日の俺はいつもと違い、その言葉に黙って従わなかった。
それは慣れゆえの余裕だったのか何だったのか……長い間わだかまっていた疑問が、つい口をついて出てしまったのだ。
「ずっと気になってたんだが……なんで血を吸うのは決まってベッドの上なんだ?」
数秒の沈黙。きょとんとした表情になったガブリエラは、その頬を再び朱に染めた。
「……わ、私だって乙女だよ、アクタ」
「?」
その素っ頓狂な答えに疑問は残ったが、なんとなく踏み込んではいけない気がして、それ以上深くは訊かなかった。かわりに頬を膨らませたまま「ん」と手を広げたガブリエラを、何も言わずに抱き上げた。御機嫌取りのために選んだこの抱き方を世間一般で『お姫様抱っこ』と呼ぶことは、恥ずかしいのでガブリエラには内緒だ。
そのままよろめきながらも立ち上がり、ソファから数メートルはなれた部屋の隅のベッドへと向かう。その間に考えるのは、腕の中の吸血鬼のこと。やせっぱちの俺よりはるかに軽い彼女は、少女の形をしたこの生き物は、これから俺の血を吸おうとしている。
死ぬかもしれない。今夜こそ命を落とすかもしれない。一歩進むたびに、そんな不安が、恐怖が、俺の中で強くなっていくのを感じる。それは絞首台へと向かう死刑囚の歩みか、それとも十字架を背負わされた殉教者の行進か。そのどちらもが余りに自分に似合っていて、我が事ながら思わず笑ってしまいそうになった。
そうこうしているうちにベッドに到着。俺はガブリエラを柔らかいシーツの上へそっと降ろす。そして首に回った彼女の腕を解かぬように、俺自身もベッドの上に座った。
ぎゅう、と不意に強く抱きしめられる。少し苦しいくらいに、彼女は俺を抱きしめる。
「……ごめんね。私、今日もうまくできなくて。めいわく、だよね」
その言葉の意味は俺にはよく分からなかった。けれどその声があまりにも苦しそうで、消え入りそうで、俺は思わず彼女の背中を支えるように抱き返す。
「よく分かんねえけど、いいよ。俺はお前になら何されたっていいんだから」
恥ずかしいのと痛いのは別だけどな、と付け足しつつ、俺は少しだけ腕に力を込めた。それは不器用な言葉だったけれど、自分の偽りのない本心だと、言った後でも確かにそう思えた。
「……ありがと」
抱き合っているから、彼女の表情は分からない。けれどその声には確かに喜色が混じっているのだけはなんとなく分かった。
静寂が空気を流れる。互いの息遣い、触れ合った体から伝わる鼓動、布と肌と髪の擦れる小さな音だけが響く。居心地のいいような悪いような、そんな静寂。首に回った腕が動くたび、背に回した腕に力が入るたび、より強くお互いを意識する。それはまるで、この世界に二人だけで取り残されてしまったような、そんな奇妙な感覚だった。
永遠に思われたそんな時間も、しかしすぐに終わりを迎える。するりと細腕が首から外れ、今度は脇から背に回された。ぎゅっと堪えるように俺の服を握りしめながら、彼女は言う。
「アクタ、そのっ……私、もう……」
そのガブリエラの声はやはり、匂い立つような欲望で濡れていた。
「ああ。いつでもどうぞ」
その言葉は、俺が内包する恐怖とは裏腹に、するりと口からこぼれ落ちて。
だから、一秒後の出来事は必然だった。
「っ、いただき、ます……ッ」
ぞぶり、と。
俺の首筋に、牙が沈む。肌を貫き血管を刺し、俺の体に深々と埋まる。
それは、何度味わおうとも決して慣れることのない衝撃だった。マヒしたはずの痛覚が、それでも僅かに痛みを拾う。体に穴を開ける不気味な異物感が容赦なく襲いかかってくる。
それに驚く暇もなく、吸血は始まった。
こく、こくと、俺の体に刺さった
俺の血が、命が、美しい吸血鬼に
くらり。意識が少し瞬いて。こくり。体から少し力が抜けた。
ぐらり。意識が再び明滅して。ごくり。体からまた力が抜ける。
徐々に徐々に、おちていく。下のほうへ、暗いほうへ、俺という存在が薄れていく。
これが、死。
俺は少しずつ死に逝きながら――それでも、嗤った。
それは醜い笑顔だった。それは利己主義者の表情だった。それはきっと、笑顔の形をとってはいけないハズの感情だった。
死にゆく前だからか、色々なことを思いだす。家族のこと、過去のこと。薄れゆく意識が、頭にこびりついた記憶という汚れをなぞっていく。そのどれもがいつも通りに、吐き気がするくらい最悪だった。
そう。俺がガブリエラ・ヴァン・テラーナイトと――吸血鬼と一緒に住んでいる理由。脱走も自死も企てず、彼女の吸血を受け入れる理由。それはいたってシンプルだ。愛でも恋でも、憐憫でも同情でも、自己犠牲でも彼女のためでも断じてない。
――俺は彼女に
……別に大それたことじゃない。誰だって「死にたい」と思ったことくらいあるだろう。ほとんどの人間はそんな一過性の絶望など簡単に払いのけるだろうが、俺は残念ながらそうではなかった。それだけの話だ。
変わらない悪環境。出会いと成功体験の少なさ。挫折まみれの幼少期と、劣等感を拭えない青年期。たったそれだけで、人は生きる気力など簡単に失えるのだ。
半年前。龍川芥という人間には『生きる理由』がなかった。いや、それは今も持っていない。好きなアーティスト、毎日顔を合わせる友人、続きが気になる小説。そのどれもが「まあいっか」の一言で捨てられる。今日を捧げられる夢もなく明日を待つための希望もない。まだ死んでないから、生きている。そんな抜け殻みたいな人間こそ、俺の半年前の姿だった。
そんなとき、出逢った。出逢ってしまったのだ。
笑えるほどに悍ましく、狂えるほどに美しい吸血鬼――ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトという、最高の『死ぬ理由』に。その出会いが『生きる理由』の無い俺を救ってくれた。
俺は耐えられなかったんだ。この先何年も何十年も無為に生きて、空虚な人生を歩んで、そして老いと病魔に殺されて、腐って焼かれて灰になって……そんなのに何の意味がある。無才無気力無感動、劣等感だけは人一倍の凡人の身は、いっそう将来を悲観させた。何も遺さず、何も成せず、誰からも必要とされないまま生きていくという自らの未来予想図。そんなのはただの拷問だ。無意味な命であることは、無意味な死に抱かれることは、俺の最大の絶望で。
だから俺は、
美しい吸血鬼に喰い殺され、彼女の命の糧となる。そして彼女の中で永遠に生き続ける。ガブリエラの美しい命を、俺の安い命が支える。それは俺のクソみたいな人生を捧げるには、俺の生きた意味を託すには、充分すぎる
嗚呼、酔っていく。この感覚に、美しい死に、俺の全てが飲まれていく。
そうして俺は――死に惹かれた人間の失敗作は、どこまでも陰惨に嗤った。
「なあ、ガブリエラ」
自分のものとは思えない、ぞっとするほど優しい声。熟れた果実から蜜が漏れるように、抑えきれない願望が喉を這い出てきた。彼女の長い銀の髪を手のひらで弄びながら、俺は熱に浮かれた男の声を出す。
「お願いだ。どうか俺のことを――」
けれどその言葉は最後まで続かなかった。
ぱ、と首から牙が離れる。吸血鬼が吸血を終了させる。永遠に離れないのではないかと思っていた熱が遠ざかり、思わず俺の舌は動きを止めた。
「……おいしかった。ありがとう、アクタ」
ぺろりと口元に付いた血を舐めとって、ガブリエラはそう言った。それは彼女の吸血行為が終了したという事と、今晩も俺が死ななかったということを意味していた。
けれどガブリエラの顔を見ても、とても彼女が満足しているとは思えなくて。万全とは程遠い意識が、思わずといった風に疑問を溢す。
「もう、いいのか?」
「だいじょうぶ。これ以上は、その……」
歯切れの悪い彼女を見て、往生際の悪い自分が顔を出した。遠慮などすることは無いと、お前が満足するまで吸えと、そう伝えようとして……。
「ううん、なんでもない」
ふるふると首を振った彼女は、そんな俺の意思を遮るように、あるいはそれから逃げるように俺の腕を取った。
「ほんとにだいじょうぶ。それよりほら、いっしょに寝よう?」
強引に手を引かれ、そのまま共にベッドへ倒れこむ。柔らかいシーツの感触よりも強い、甘い香りとすべすべした肌触りが、彼女への反論の意思を削いでしまった。そしてそんな俺の隣で寝転ぶ吸血鬼は、ただの少女みたいな邪気のない表情に戻っていた。
ぐらり。意識が傾く。吸血直後に頭を揺らしたからだろうか。意識がろくな抵抗もできず、眠りという闇に落ちていく。
「――おやすみ、アクタ」
目を細めてそう囁くガブリエラの顔も、すぐに霞んで。
俺は消えゆく意識の中で、自らの死を渇望する危うい熱が、徐々に冷めていくのを感じた。
「(――今日も、死ななかったか)」
ふと泡のように浮かんだそれが落胆だったのかそれとも安堵だったのか、微睡みに飲み込まれていく俺の意識では、ついぞ判別することは出来なくて。
そうして今日も、龍川芥の一日は終わっていく。往生際悪く明日に向けて進んでいく。
隣に吸血鬼が居る。そんなちょっぴり異常な俺の日常は、まだ終わらないみたいだった。
ーーー
「――おやすみ、アクタ」
ガブリエラは、眠りに落ちた芥を眺めながらそう囁いた。その目元は柔らかく細められ、口元は緩く弧を描く。それはどこまでも優しく穏やかな表情で、まるで恋する乙女のもので、とても人喰いの吸血鬼が食料である人間に向ける顔としては似つかわしくないものだった。
ガブリエラ・ヴァン・テラーナイト。二百年生きた正真正銘の怪物。同族にすら恐れられる絶対強者。美しく凶悪で、悍ましく綺麗で、華々しく最悪な
『吸血鬼の恋人』。吸血鬼は稀に気に入った相手を殺さずに攫い住処で”飼う”のだが、その攫った人間のことを吸血鬼はそう呼ぶのだ。最もこれはそんな酔狂で手間とリスクのかかることをする変わり者の同族を皮肉った言葉なのだが……とある理由で吸血鬼の文化に疎いガブリエラはそのことを知らなかった。むしろ人間の文化の『恋人』と意味を混同し、自分と隣で眠る彼は『恋人』なのだと浮かれたりすらしていた。
「んふふ」
上機嫌そうに笑みをこぼしながら、吸血鬼は隣で眠る青年のことを考える。肉付きの薄い体に腕を這わせ、長めの黒髪に飾られた横顔を見つめるたび、腹の底が甘い疼きを覚えた。
――彼は「おかえり」と言ってくれる。それは私に居場所をくれる言葉。「君は此処にいてもいい」と、こんな私の存在を赦してくれる言葉。
ガブリエラは今日貰った「おかえり」を思い出し、嬉しくなって思わず芥と指を絡めた。自分のより高い体温が、血が流れる脈のリズムが、体の芯をぽかぽかと上気させる。
――彼は私が触れても拒まない。抱き着いても手を握っても、呆れたような顔をして許してくれる。その事実が、触れ合う熱が、私にとってどれだけ救いになることか。
吸血鬼の鋭敏な感覚が、隣で眠る人間の命の証を自然と感じ取る。規則的な呼吸音、血の赤を思わせる鼓動の音、少し硬い肌と手のひらの感触。そのどれもが触れた相手が生きていることを教えてくれて、何とも言えない感情が喉の奥で引っかかって。
――彼は私とおしゃべりをしてくれる。なんでもない会話をしてくれる。敵意も殺意も絡まない言葉たちは、誰かと関わる楽しさを私に教えてくれた。
無意識に、彼の首筋へと視線が伸びた。甘い血の残り香を纏った誘うようなそこには、くっきりと自分の歯型がついている。その恍惚と優越で、さっきまで肌に刺さっていた二本の
――彼は、龍川芥は、私の吸血を拒まない。「いいよ」と、ただそう言って受け入れてくれる。怖いハズなのに、嫌なハズなのに、それでも私を拒まない。そんな人間、今まで一人もいなかった。誰もが私を拒絶した。恨んで、呪って、涙して……私を否定して、死んでいった。だから私は、きっと誰からも望まれない命なのだと、自分以外の全てを不幸にする呪われた存在なのだと、常にそう思わされて。けれどそれは、200年間の絶望は、たった一人の人間に、笑ってしまうくらいあっさりと覆された。
ぎゅう、とガブリエラ強く握るのは、彼の手のひらではなく、服。強く握れば壊してしまうから、彼を傷つける訳にはいかないから、彼女は余裕がなくなるといつもそうしていた。少し物足りない熱、布に残った体温に押されるように、彼女は本音を口にする。
「……ごめんね、アクタ。ほんとうは私、もっとアクタの血を吸いたい。殺しちゃうくらい、おなかいっぱいになれるくらいに吸ってみたい」
懺悔のように吐露し、ガブリエラは自らの腹を撫ぜる。彼女の腹から未だ空腹は去っていなかった。血が足りないと、もっと飲みたいと、腹の奥から声が聞こえる。けれど恐ろしい吸血鬼は、そんな自らの本能に、どうしようもない生理的な欲望に、驚くべき理性で蓋をした。
「でもだいじょうぶだよ。私はアクタを死なせないから」
――ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトは、からっぽの吸血鬼だった。
半年前まで彼女には何も無かった。家族も、友人も、思い出も、『生きる理由』も、そしてきっと心でさえ。
彼女にあったのは力だけ。奪うための暴力と生きるための本能だけ。当然のようにその力は憎しみと孤独を呼び、逆に幸福と愛を遠ざけた。そんな200年間は拷問と呼ぶのすら生ぬるい、正真正銘の地獄だった。一挙手一投足が誰かを傷つけ、生きるための行為を罵倒され、常に他者から自らの死を望まれる。獣の力が他者を傷つけ、人の心が誹りに傷つく。そんな最悪の現実が、ガブリエラの生きる世界の全てで。
けれど出逢った。二世紀におよぶ旅の果てに、彼女はやっと出逢えたのだ。
自分を受け入れてくれる人間——龍川芥という、ちっぽけだけど最高の『生きる理由』に。
ガブリエラは耐えられなかった。もとの孤独に戻ることが。この奇跡のような存在を他と同じように喰い殺して、またからっぽのひとりぼっちになる事が。
ささやかな幸せ。自分の隣に彼が居て、そして離れないでいてくれる。自分のことを否定せず、ただ一緒に暮らしてくれる。その笑顔を、こんな自分に向けてくれる。たったそれだけの日常を守るためなら、どんな苦しみにだって耐えられるとガブリエラは確信していた。
「――たとえ私が死んだって、ぜったいにガマンしてみせるから……っ」
その気高く悲壮な決意はきっと、彼女が獲得した『愛』がさせたものだった。
……ふと、ガブリエラは芥の首筋が露出したままであることに思い至った。さっきまで自分が夢中で喰らいついていたそこが視界に入ってしまうことがなんだか気恥ずかしくて、なにより「事後」の気遣いとして、彼女は毛布を使って彼の首を覆い隠す。
……吸血鬼の文化に疎い彼女でも知っている事がある。それは『首からの吸血行為は性的な意味を含む』という事である。なぜなら吸血鬼の生殖は、首筋を噛むことによる無性生殖で行われる。逆に血を吸うだけなら首からである必要は無い。そしてベースが人間である吸血鬼の感じる快楽は、その全てが吸血行為により満たされるようになっているのだ。
そしてそれに人間の半端な知識が加わることで、彼女はとんでもない勘違いをしていた。
無論それに気づける者など、この世の何処にも居ないのだが。
「だからたまにはアクタから……なんて」
言った後急に恥ずかしくなって、ガブリエラは毛布を頭から被った。そのまま隣の青年に抱き着いていると、その温かさが眠気を呼び覚ます。血液不足で体力の減った彼女には睡魔に抗う気力などなく、抱かれるように眠りへと落ちていった。
「(――今日もいっしょだ。しあわせ、だなあ)」
誰かと共に眠る。愛しいひとが無防備に身を預け、自分もまた相手の隣に身を差し出す。それはきっと、孤独な吸血鬼が血よりも欲したものだった。