自分の人生は、どこで間違えてしまったのだろう。そう思うことは、何度もある。
そう思う理由は、今の自分が思い描いていた風に生きていないからだ。別に、億万長者になりたいとか、権力を手にして人を支配したいとか、世界征服を企んでいるとか、そんな大それた夢も荒唐無稽な野望を持っていたわけでもない。自分はそんな器ではないから。望んでいたのは、自分がなりたかった仕事に就いて、穏やかな生活をひっそりささやかに送ることだ。
しかし、現実は違う。なりたい仕事には就けず、妥協して就職した職場は激務で身体を酷使せざるを得なかった。それでも家族からは期待という名の重圧を強いられ、恋人もおらず、空気を吸うように疲労とストレスが身体に蓄積され、身体はボロボロ、心はヤジロベエよろしく危なっかしいバランスで成り立っている。
「世の中にはつらい人が他にたくさんいるんだから頑張れ」
「未来のためにも今は耐えるべきよ」
時折、1人暮らしの自分の下を訪ねる両親はそんな自分の身を案じているものの、こういうことばかり言う。
言いたいことは分かる。こうして生きているだけで、自分はまだ恵まれている方なのだろう。小さいながらも帰る家があるだけ、自分は幸せな方なのだろう。それでも今の現状をどうにかするには、やはり次の目標に向けて耐え忍ぶしかない。
だけど、その言葉で自分が元気づけられるかと問われれば、答えは「ノー」だ。家族の言葉は、自分の心に手を添えて支えてくれるというよりも、自分の心に鞭打って無理矢理立たせている感じでしかない。泣き言や弱音を吐くのは悪いことだろうけど、寄り添ってくれる風には聞こえなかった。
なら、この環境から脱するには何をすればいいのか。なりたかった仕事をもう一度目指すために転職とかスキルアップとか、手段は頭で分かっている。けれど、それをする気力すら残されていない日が続いていた。睡眠も満足に摂れず、鉛のように重い身体をカフェインとエナジードリンクで無理矢理動かして仕事に出向くのが日常と化している。
それでも、周りからの期待と任せられる仕事を裏切ることが自分でできなくて、今の状況を受け入れざるを得なかった。その中で自分は、亀の歩みの如く前へ前へと生きていた。
ただ、まったく癒しがないわけではない。犬猫動画を見るとか、面白いバラエティを見るとか、そう言うもののに加えて特にハマっているものがある。
「マテリアワールド」と呼ばれるゲームだ。
ゲームなんて、と人は言うかもしれない。だけど、自分がプレイしているこのゲームは他のものとは一味違う。壮大な世界観と、温かくも熱くもある人々。敵を倒して強くなり、キャラクターのレベルアップも容易で、強大なボスに立ち向かうというシンプルなストーリーとシステム。
ネットでは「やることが単純すぎてつまらない」「複雑なシステム希望」などと叩かれることもある。確かに最近、色々なゲームが世に出て、様々なシステムが蔓延っている中でそういう意見は一理程度あるかもしれない。だが、それなら他のゲームをやればいいだけのことだ。わざわざ叩く必要はない。それに自分としては、日常生活で忙殺されているのだから、せめて趣味のゲームぐらいはシンプルなのがいい。「ガチ勢」と呼ばれるプレイヤーも中にはいるが、自分にとってそういう人は雲の上の存在だ。
そんな好きなゲームはあるものの、天然のダイヤモンド並みに貴重な休息の時間にそのゲームをプレイする程度に留まっている。休日は全てそのゲームに費やす、なんてことはなく、ちょっとずつでも資格の勉強をしたり、気晴らしに散歩に出かけたりもしていた。そのわずかなプレイ時間も身体を休めれば身体は多少マシになるだろう、とは思わなくもない。しかし、そうすると数少ない趣味を失って、正真正銘の「空気を吸って吐いて働くだけの人間」に成り果てる。
そう危機感を抱いていた頃だ。
日中活動している間、どうにも身体の奥で棘の生えたボールが転がり回っているような痛みに悩まされるようになった。加えて、何故だか気分の冴えない日々が続き、普通よりもプラスの気分になれる日が減って、逆にマイナスの気分になる日が増えた。寝ても覚めても、ご飯を食べても、趣味の「マテリアワールド」を遊んでも、その状況が改善しない。
「全体的にあなたの身体を診てみましたが…正直な話、このままだと早逝してしまうかと」
そうして会社の健康診断とストレスチェックで引っかかり、ちゃんとした医療機関を受診するよう言われた。貴重な休みを削ってまで総合病院に出向き、医者に診てもらったらこれだ。身体の臓器や血液などがまぁまぁマズい感覚は例の痛みであったものの、精神系の病まで患っているとは思わなかった。心療内科で、ニュース番組でよく耳にする「こころの病」の診断を受けた時は、凹んだ。
いくら自分が限界ギリギリで働いていても、心の支えである趣味のゲームさえあれば大丈夫だと思ったのだが、医師曰くそれでも罹る人は罹るとのことだ。特に、自分のように真面目で色々抱え込みやすい性格だとなお罹りやすいとも。
社会人と言えど病気に関してはぺーぺーなので、診断書を受け取るほかなかった。家族に話して理解を得て、会社にも話をして、心身を休める時間を作るしかない、とも言われた。
だが、電話でその話を親にしたら。
「あなたがそんな心の病気だって言うんなら、世の中みんなそうだ」
その言葉は、過去イチで自分の心を抉った。身体の不調は理解してくれても、心の病気は理解してくれなかった。受け入れなかった。
両親の目には、たまに会う自分はぐったりしながらもちゃんと働いていて、趣味の「マテリアワールド」を楽しんで、それなりに人生を謳歌しているようにしか見えなかったのだろう。これに関しては自分でも、まさか自分がその病に罹っているとは思わなかったから、仕方ないと言えば仕方ない。
なのに、診断書まで出されて、医者からそう言われて。それなのに親はその事実を受け入れない。そして結局、その日は話をした後、「食生活に気を付けること」「もっと違う趣味を見つけること」という結論になってお開きになった。
その日、自分は「マテリアワールド」を始めて以来、初めてログインしなかった。
その日、自分は人生で初めて枕を涙で濡らした。
翌日、陽も昇らない内から自分はまたスーツに着替えて家を出た。親には分かってもらえなかったが、会社に何も言わないのは非常識だと思ったし、健康診断のこともある。それに、家に残ったところで何をしているのかと責め立てられるのは目に見えた。
ただ、親にすら拒絶されたとなれば、会社に理解してもらうことも絶望的だろう。胸糞悪い中年の上司たちに笑って一蹴される様子が脳裏に浮かぶ。
何度吐いたかもわからない溜息を吐く。このまま自分は、社会の歯車の一つとして、病気に罹っていることを自覚しながらもどうにもできず、死んでいくしかないのか。というか自分は、ちゃんと来年を迎えられるのか。それ以前に今日という1日を生きられるのか。
打つ手なし、八方塞がり、真っ暗だ。そんな字余り五七五まで頭に浮かんでくるぐらいには、ネガティブになっていると。
「危ない!!」
遠くから、そんな声が急に聞こえた。まさか自分に向けられたものではないだろうと思って周りを見てみる。
横合いから、大型のトレーラーが迫っていた。
それを認識した瞬間に、時間の流れが非常に遅くなった気がして、今の自分の状況をなぜか冷静に分析で来た。
自分は、交差点の横断歩道を渡っていた。しかし、自分の方が赤信号に気付かないでそのまま渡っていた。しかもこの道路は、数キロ先の工業地帯まで伸びる幹線道路。夜明け前のこの時間は、トレーラーやらダンプカーやらの大型車がよく走る時間帯。しかも人通りがほとんどないからスピードを上げて走る輩が多い。さっきの声は、犬の散歩をしていたどこぞのおじいさんの声だった。
自分を取り巻く現状、自分の病気に気を取られて、「赤信号は渡ってはいけない」なんて幼稚園児でも知っているような単純なことを見落とした。
目の前に、トレーラーが迫ってくる。今なら、前に転がるか後ろに引き下がるかすれば、ギリギリ助かる位置にいる。
でも、自分は脚が動かなかった。
恐怖に竦んで、というのもある。
だけど何より、
趣味の「マテリアワールド」のこととか、この先やりたいこととか、病気のこととか、家族のこととか、会社のこととか。それらすべてがどうでもよくなった。生きたいと願う気持ちすら、浮かばなかった。
トレーラーのエンブレムが目の前に迫る。もうちょっと長生きするかも、なんて少し前までは思っていたけど、どうやらそれは違っていたらしい。
クラクションの音がけたたましく鳴り響く。トレーラーの運転手には申し訳ないが、自分はもう限界だ。
全くもって。
本当に自分の人生は、どこで間違ってしまったのだろう。
あれ?
「ごきげんよう」
誰?
というか、何?
「随分戸惑っているようだ。果たして君には、私はどう見えているのだろうかね?」
球だよ。白くてデカい球。白玉ぜんざいみたいだよ。
「ははは、なかなか面白い例えだ」
あなたはなんだ?
「そうだな…。君たちの世界で言うならば、『神様』と表現するのが一番良いかもしれない」
神様、ね。
「驚かないか」
多神教の国生まれなものでね。八百万の神様がいるって話だから。
「なるほど、八百万。まぁ、実際はそれ以上の神がいるがね。まあそれより、初対面の挨拶はこれくらいにして本題に入ろうか」
本題?
「君はさっき死んだ。トレーラーに撥ねられてね」
……。
「原因は君の信号無視。家族と職場の人には話が通っているよ」
そう。
「その態度、何の感慨もないようだな。家族と職場の人たちは悲しんでいるよ。両親は滂沱のように涙を流していたが」
今更知ったところで。死んだんだからどうしようもないし、どうでもいいから。
「随分と冷めているな。今の若者はこうなのか」
俺が「今の若者」の枠に嵌るかは微妙だけど、とにかくもう過ぎたことだ。
で、ここはどこ?
「魂だけが生きられる境界の空間。彼岸と此岸、天国と地獄、現世とあの世。そのどちらでもない場所だ」
なんでここに?
「ここに来られるのは選ばれた者だけだ。生きている間に理不尽な扱いを受けたり、自分の力だけではどうにもできない因果律によって早逝を余儀なくされたりと、要するに不当な生き方を送る以外に道がなかった、善良な人間だけが呼ばれる」
理不尽。
不当。
善良?
「君は周りの環境によって心身に不調をきたし、その不調を周囲に理解されず、寿命の大半を残して死んだ。そこには自分自身の不注意も多少含まれているが、君は周りの環境を理由に暴力をふるったり事件を起こしたり、そうした負の方向の活動はしていない。私
…俺が、善良?
「自分が善良とは思わないか。いや、君は自分がそんなはずはないと思い込んでいるようだね」
俺程度が善良なら、世の中全員善良だよ。
「面白いことを言う。だが君は、我々『神』から見れば善良な人間だ。だからこうしてここにいる」
……。
「そんな君には、生まれ変わって第二の人生を送る権利が与えられる」
いらない。
「即答か。それはまたどうしてだ?」
もう生きているのがつらかったんだよ。毎日毎日疲れとストレスに押し潰されそうになって、病気になっても受け入れられなくて。だから轢かれそうになった時、どうでもよくなって逃げなかった。それで死んだんだ。
「相当だな」
だから、天国でも地獄でもいいから、さっさと俺をそこへ行かせてくれ。
「まあ待ちたまえよ。結論を出すのは早急かもしれない」
いいや、決まってる。
第二の人生なんか、送らなくたってこれまでと同じ人生になるって分かってる。
「確かにそうかもしれない」
だったら――
「だがそれは、君が今までと同じ世界に生まれ変わったらの話だろう」
…何?
「君が生きていた世界の他にも、並行して様々な次元、世界が存在する。『パラレルワールド』という言葉の方が馴染み深いか。とにかく、私たちの力があれば、君をそれらの世界へ転生させることができる」
……。
「落ち着いて話が訊けるようだね。まぁ、私には君の希望をある程度受け入れて、その世界へ転生させるぐらいの権利がある。例えば、そうだな。君が生前プレイしていたゲームの世界へ転生させる、ということも可能だ」
ゲームの世界に? ゲームが異世界として存在するとでも?
「君たちが生きる世界で、ゲームを作るためにはまず着想が必要だろう。その着想とは、個々人の頭の中で生まれた独自のものももちろんある。しかし稀に、確実に存在する異世界から漏れ出る特殊なエネルギーが、この空間を通じて偶然に君たちの世界に届いた結果の産物のものもある。つまりここは、君たちの世界とその様々な異世界へとつながる分岐点と言ってもいい」
信じがたいな。
「信じるかどうかは君次第だ」
…ゲームの世界の他には、どういう世界が?
「興味が湧いてきたな?」
そう言うこと言われると無性に興味を無くすな。
「そう腐るな。まぁ教えられる範囲だと、水中で文明を築く世界、逆に天空で人々が生きる世界。宇宙を自由にさまよい続ける世界、ロボットをはじめとした機械化が進んだ近未来的な世界、他にもいろいろ」
なるほど。
「先に言っておくが、あまりにその人の欲望を反映した世界への転生はさせられない。過去に、『若くてピッチピチの女性だけの世界にただ一人の男として生まれ変わりたい』なんて言ってきた人もいたが却下した」
…その世界に転生したいとは言わないが、断ったのはどうしてだ? 希望は受け入れると言ってたはずだけど。
「まず第一に、そんな世界は存在しない」
辛辣。
「第二に、私たちが希望を受け入れるのはあくまで『ある程度』だ。何より我々が君たちに転生を促すのは、元の人生で経験できなかった『真っ当な人生』を送るチャンスを与えることにある。快楽に溺れること、堕落することを良しとするわけではないのだよ」
そういうことか。
「そういうことだ。で、君はどうする? 君に転生の意思があるというのであれば、君が生前遊んでいたゲームの世界へ転生させようかと、私は思うが」
そのゲームの世界に行くのがほぼ確定なのはどうしてだ? ほかにも世界があるって言ってたのに。
「その世界は、文化や風俗をはじめとして様々なものが君たちの世界とは違う。しかし、君はその世界がどういうものかをゲームである程度知っている。であれば、君も転生してから順応するまでが容易だと思ってね」
……。
「逆に、知識がほとんどない世界へ転生してしまうと、順応する前に死亡してしまうことが多々ある。そうなってしまうと、我々も手間をかけて転生させた意味がない。転生というのは、相応に大変なのでね」
…ひとついいか。
「答えられるものでよければ」
あなたたち神様は、生きていた俺たち1人1人の人生を、ずっと見てきたのか?
「全人類を1人ずつつぶさに見ていたわけではない。その中で、先ほど私が述べたような基準に引っ掛かりそうな者に注目していたのだ」
だったら…神様の力で、そういう人たちの人生を少しでもいい方向に変えることはできないのか? 生きていた時は考えもしなかった異世界に転生させるほどの力があるのなら、それぐらいできてもおかしくないだろ?
「君の憤りは分かるし、そういうことを訴える人も前にいた。しかし我々の絶対的なルールとして、『生きている人間には干渉しない』というものが存在する」
何?
「生きている人間それぞれには、気付いていないかもしれないが、自分自身で人生を変えられる力と意思が存在する。その意思を捨てず、力を上手く扱えば、人の人生は良い方向へと変えられる。それを我々は理解したうえで、行く末を見極めるために、人の人生には手を加えないのだ」
それができなかった俺は無能、と。
「そういうことじゃない。先ほど私が言った基準に引っ掛かりながらも、人生を良い方向へと変えられた人はそれなりにいた。それは破滅的な人生へと向かい始める前かその途中で、自分自身の中にある力に気づき、どうにか持ち直した人だよ」
……。
「しかし君は、その力に気づけなかった。というよりも、周りの環境がそれに気づくのを阻んだ。他の例を挙げると、力を持っているのを理解していても病や不慮の事故で生涯を閉じざるを得なかった者など。我々がこうして迎えるのはそういう人だ」
…そうか。
「さて、ここまで話せば、多少飲み込めたと思う」
…ああ。
「改めて、君には別の世界で新しく人生を送る権利がある。さて、どうだろう?」
ここで「いやだ」と言ったら?
「であれば、私はもう止めない。君をあの世へ送り届ける」
なるほど。
「最後にひとつ考えてほしいのは、新しい世界で君がこれまでと同じような人生を送る可能性は低い、ということだ」
ない、とは言わないのか。
「当然ながら、新しい世界でどう生きるかは君の自由だ。ただしその世界は元の世界とは違う。そして、君は自分の中にも人生を変えられるほどの力と意思がある、という話を聞いた。であれば、より良き人生を送ることも容易だろう」
…俺がそのゲームの…「マテリアワールド」の世界に転生できるという保証は?
「提示できる証拠はない。だが、我々は嘘が吐けない。できるのは約束だけだ」
約束は破られるものだと、嫌でも前の人生で学んだんだけどな。
「一介の人間と神の約束を同じにしないで欲しいところだ。それで、どうするかね」
…分かった。
「了承、と受け取らせてもらうが、よろしいかな?」
ああ。
俺をその「マテリアワールド」の世界に生まれ変わらせてほしい。
「よろしい。では転生の前にいくつか補足させてもらうよ。簡単にだが」
頼む。
「転生する世界の言語は君たちの世界には存在しない。だが、転生に当たってその言語を使うに不自由しないよう君にその知識をインプットさせる。また、君は同じ人間として生まれ変わるため、生きるために必要なエネルギーの補給や活動、身体構造や骨格もこれまでとは
ありがたいよ。
「そして、君がその世界を生きていくうえで必要なアイテムを君に与える」
どんなアイテムを?
「それは君の深層心理を具現化したものだ。よって、ここでは言えない。もっと言えば、私もどのようなアイテムが出来上がるかは分からないんだ」
なるほど、不安だ。
「まぁ、損になるものを渡しはしない。他に質問は何かあるかね」
いいや、ない。
「ではこれより、君を転生させる。最後に何か、言いたいことがあれば聞こう」
…どうなるかはわからないし、上手くいくことなんてあまりないだろうとは思う。もしかしたら死ぬかもしれない。
「確かにその通りだね。人生は、何が起こるか分からない」
けど、死ぬならどうせ、別の世界を見てから死ぬことにするよ。
「いい心積もりだ。それでは、良き人生を」
陽の光に当てられて、目が醒めた。
「うっ…」
頭上にあるのは、透き通るような青い空と、太陽と思しき光源。次いで耳に入ってくるのは木々のざわめきや鳥の鳴き声など、自然の音。身体を起こせば、周囲は木々に囲まれた林か森なのが分かった。
自分の身体を見下ろす。着ているのは紺色のコート。その下に着ているのは、見覚えのある村人のような服だ。
「ここは本当に…?」
着ている服に見覚えがあるのは、確かに以前この服を見たのだ。
「マテリアワールド」で、モブの村人が着ていた服。だとすれば、本当に自分はあのゲームの世界に転生したのだろうか。いや、こういう服は他の異世界系の作品何かで目にするので、まだ確証が持てない。
身体に触れてみる。生前、起きている間は感じていた怠さや、何かしらの痛みはない。見る限り、怪我もしていなさそうだ。
「これは…?」
その時、左手に何かが当たった。金属質のもののようだが、手に取ったそれは黒い棒だ。立ち上がってそれを改めて見てみるが、自分の身長とほぼ同じ長さがある。見た目や触れた感触の割に、そこまで重くはない。これが、あの神様とやらが言っていた、自分の深層心理をイメージして作られたアイテムなのだろうか。
そこであることに疑問を抱き、近くにあった池を除きこむ。
「背格好はほぼ同じ、か…」
水面に映る自分の顔を見て、一瞬だが眩暈が生じた。自分の顔は鏡で何度も見てきたが、生まれ変わっても同じということに認識のズレが生じた。
床屋のセンスに任せていた黒髪はそのままだが、目の下の隈はなく、血色がよくなっている気がする。生きる世界が違えば容姿も変わるのだろうか、とも思ったが、そんなことはないらしい。別にイケメンに生まれ変わりたかったという願望はないし、見た目が同じなら大分気が楽だ。
「っていうか、すごい綺麗な水だ…」
覗き込んでいた池は、透明度が非常に高い。水底まで目視できるし、鮮やかな色合いの水草や、輝く銀色の鱗の魚が悠々と泳ぐのがくっきり見える。都心部でこんな上等な自然な池などないだろうし、見たこともない。
しかし、いつまでも池の鑑賞などしている場合ではなかった。
「さて、どうする…」
もう一度立ち上がって、周囲を確認する。
ここは森か林のど真ん中だ。耳を澄ませても、周囲に集落のような生活音はしない。手にあるのは、何に使うかも分からない黒い棒だけ。
「マテリアワールド」は、世界全体が「土」「水」「火」「風」の4つの自然のエネルギーで満ちている設定だ。その世界に生きる人々は、誰もがいずれかのエネルギーを大なり小なり身体に宿している。中にはエネルギーを扱って「魔術」を操ったり、自分の持つ武器にエネルギーを注いで攻撃力や防御力を上げたりする人もいる。そういう人たちが冒険者となる、という設定だったはずだ。
改めて、黒い棒を確かめる。手触りは鉄に近いが、だとすればこれは「土」のエネルギーを持つものだろうか。確かめる方法はない。あのゲームには剣や弓、鎧や盾と言った武器も実装されていて、それぞれにエネルギーの属性が設定されていたが、この武器はゲーム内でも見たことがない。ランカーだけが手にできる幻のアイテムだったりしたらそれまでだが、本当に分からない。
というか、自分の深層心理をイメージしたアイテムが鉄パイプなど悲しいにもほどがある。もしや、破壊願望が強いのだろうか。
「です…本当に…ません…」
「だから…それは…だろ?」
悶々と考えつつ木々の間を歩いていると、話し声が聞こえてきた。それも、穏やかではなさそうな。注意深く、そちらへ歩いてみることにした。
「いいじゃねぇか。お嬢ちゃんもメンバーを探してるところなんだろ?」
「探してるというか、私まだ登録すら…」
「大丈夫だって。後でちゃんとしてやるから、な? 俺たちと冒険行こうぜ?」
見るからに、柄の悪い男が2人と少女が1人。ナンパか何かだろうか。そしてそこで初めて、自分はこの世界の言語を理解できていることを知った。
柄の悪い男たちは、自分がコートの下に着ているのと同じ系統の服を着ている。前の世界でもそうだったが、私服が他人と被った時というのは中々気まずい。相手が明らかにワルっぽいのなら猶更。
反対に、絡まれている少女の方は白を基調とした服だった。背後からなのでよく分からないが、修道服に近い気がする。頭に被っている帽子は大きなベレー帽で、髪は薄い水色で腰まで伸びていた。
「あの子は…」
その少女は、見覚えがあった。確か、「マテリアワールド」でプレイヤーのサポート兼最初の仲間として出会うキャラクター。いや、他人の空似という可能性もあるが。
ただ、彼女がそうだったとして、今の状況で話しかけるのは空気が読めなさすぎる。しかも相手は不良っぽい男2人組で、片や自分はこの世界で目覚めてからまだ数分も経っていない新米。向こうが手にしているのは剣と斧、こちらの手には鉄パイプ(仮)。
そっと、その場を去ることにする。仮にもし、ここで割って入ったとして、同じように絡まれれば勝てる気がしない。ここは大人しく距離を置くべきだ。もしも彼女が本当にあのサポートキャラクターだとすれば、貴重なサポートを失うことになる。それでも、この世界の設定はある程度把握しているので何とかなるはずだ。
前からずっとこうしてきたのだ。先のこと先のことを考えて、明らかに避けられないリスクがある時はさっと身を引く。そうすれば自分への被害は最小限に留まるから。そうして、できる限り自分の負担を軽減させて生きていた。
――自分自身で人生を変えられる力と意思が…
不意に、頭に言葉がよぎった。踏み出そうとした足が止まる。
それを言ったのは確か。
「ちょっと、やめてください!」
「うるせぇな、いいから来いって」
後方から聞こえてくる話し声に、棘が含まれてきた。どうやらあの2人組は、少女に手を出したらしい。
ああもう、と思いながら踵を返して、早足にそこへ向かう。
「あの、すみません」
「「あぁ?」」
声をかけて、少し後悔した。
男たちの背丈は自分よりも高い。筋肉もそれなりについている。図体のデカい男というのはそれだけで威圧感があるし、そんな2人に後先考えずに歯向いたのは自殺行為だったかもしれない。
「その子…嫌がってるじゃないですか。離してあげてください」
それでも、一方の男が少女を掴む手を指差す。少女の顔はこの位置からでは分からないが、何も言ってこない。ただし、息がほんの少し上がっている。やはり怖かったのだろうか。
「誰だテメェ、こいつのなんだ?」
「俺は、この子の…何でもないですが放っておけなくて」
もっとマシな言い訳を考えておけばよかった。
案の定癪に障ったらしく、襟首を掴んで持ち上げられる。
「チョーシこいてんじゃねぇぞガキが!」
どうやら自分は、他人から見ればガキと思われる年齢らしい。一つ学んだ。
そしてこうして締め上げられる感覚、懐かしい気がした。中学の時、席替えでクラス一の不良の隣になった時、何の他意もなく溜息をついたら同じことをされたものだ。あの時は先生が止めてくれたが、今ここにその先生はいない。
「やめてください! この人は関係ありません!」
「オメェも黙ってろ!」
「きゃっ!」
少女が声を上げるが、もう一方の男が腕を振って少女を地面に倒す。
それを横目に見て、自分の中で何かのスイッチが押された気がした。
「やめろって、言ってるだろ…!」
この筋肉には無駄だろうと思ったが、右手に持っていた鉄パイプ(仮)で、襟首を掴む腕を叩く。
すると、あっさりと男は離してくれた。
「え?」
いや、違う。男の腕は、自分の襟首を掴んだままだ。
視線を落とすと、男の腕が切れていた。足元にぼたぼたと血が落ちて、自分のコートにも血の滴が垂れている。やがて、自分の襟首を掴んでいた、というよりくっついていた腕も地面に落ちた。
男の方を見る。先ほどまでの威勢はどこへやら、恐怖にまみれ、完全に青ざめた顔で腕を押さえている。その押さえている腕からも血が流れていた。腕が切断されている部分は、ついさっき自分が鉄パイプ(仮)で叩いたところだ。
「あ、ああ…!」
「兄貴!! テメェよくも…!」
もう一方の男が上着を脱いで切れた腕を縛り、止血を試みながら睨みつけてくる。
だが、自分にも何が起きたのか全く分からない。だから、ただ茫然と鉄パイプ(仮)を構えるしかなかった。それだけで、もう1人の男も恐怖にたじろいだ。
「ち、ちくしょう!!」
そして、男2人は逃げ出した。先ほどのような威圧感はもうない。
辺りには、また自然の音が流れ始めた。
「……」
地面に視線を落とす。落とされた腕と、血だまりが残っていた。漂ってくるのは、鉄のような血の香り。ゲームの中では描写がなかったが、血の成分はこちらの世界も同じなのか、と的外れな感想が頭に浮かんできた。
「だ、大丈夫ですか…?」
やがて、少女が話しかけてきた。
ただ、その少女の方を見る前に、答えようとする前に、胃の中身が食道を通って逆流してきて、世界が横になった。
◇ ◇ ◇
口元に、湿った何かを当てられた。
「う…」
「あ、お気づきになりましたか」
重い瞼を開けると、やはり目に映ったのは澄み切った青い空。
視線を横に移せば、白い帽子と水色の長い髪、黄金色の瞳の少女が不安そうにこちらを覗き込んでいる。さっきの少女だ。手には、水で湿らせたハンカチがある。
「君は…」
「あ、つらいようでしたら起きなくて大丈夫ですよ」
「いや、大丈夫…」
身体を起こすが、少女は柔らかい笑みを浮かべて手で制しようとする。吐いたことによる怠さは確かに残っているが、大した問題はない。
そこで、改めて少女の顔を見る。その容姿はやはり見覚えがあったし、見紛うはずもなかった。
「君は…」
「私はアルナといいます」
確認のために名前を聞いてみるが、やはりそうだった。ゲームプレイヤーのサポートをする少女。属性は確か「風」で、傷病を癒す力を持つ「ヒーラー」だったはずだ。
「あなたのお名前は?」
「…ゲンマ」
咄嗟にこの名前が出てきたのはファインプレーと自分で褒めたい。自分のかつての本名とは1文字も合ってないが、昔調べた星の名前で格好いいと思い、このゲームのプレイヤー名として設定したものだ。
「ゲンマさん。さっきは助けてくださりありがとうございます」
「助けた…か」
居住まいを正すアルナだが、自分としては助けたという気持ちがあまりない。
「助けたって言っていいのかな…あんなことして」
脳裏に浮かぶ、血だまりと、切れた腕、血の気が引いた表情。
思い出すと、またしても胃が押し潰されるような感覚がしてきた。
「あのお2人なら、大丈夫だと思いますよ」
「え、どうして? あんなことになって…」
「えっと、貴方が倒れた後で私が腕を持って行って、繋げてあげましたから。でも、『悪かったから二度と関わらないでくれ!』ってひどく怯えてましたね」
さらっと怖ろしい事実が判明した。ゲームでは全く描写がなかったが、この世界では切れた腕も医療魔法でつなぎ直せるのか。前の世界では、四肢どころか指が切れたらもうおしまいなのに。そして何より、アルナがそんな生々しいことを平然と話しているのが怖い。
「あ、私は医療魔法が使えるんです。なので、ちょっとしたケガはすぐ治せるんですよ」
「へ、へぇ…」
腕の切断という、前の世界だったら警察沙汰のケガでさえ「ちょっとしたケガ」に当たるらしい。この世界で生き延びる自信が若干薄れてきた。
「あなたのことも医療魔法で診てました」
「診たって、俺は勝手に吐いて気絶しただけで…」
「それでももしかしたら何かの病気に罹っているのかもしれませんから。具合が悪そうな人は放っておけない性分で」
アルナからすれば、本当に何でもないことなのだろう。語る表情には真剣さよりも、当然のことをしたという誠実さが見て取れる。
そのちょっとしたことが、ゲンマの琴線に触れた。前の世界では、そう言う小さな気遣いさえも享受する機会がほとんどなくて、優しくされることへの耐性がほとんどない。目の奥が熱くなってくる。
「…ありがとう。優しいんだな」
「いいえ、私なんてまだまだです。村の皆さんに比べれば」
聞けば、アルナは山間の集落の出身で、その集落のしきたりとして15歳を迎えると世界を見て回るために冒険に出るとのことだ。その道中で、ああして絡まれてしまったらしい。
男に絡まれた点を除けば、アルナの生い立ちはやはり「マテリアワールド」で見たものと同じだ。どうやら、この世界はあのゲームと同じと考えていいだろう。
「あなたの方こそ、見ず知らずの私を助けてくださってありがとうございます。あんな、危険を冒してまで」
見ず知らず、というのは違う。だが、あの場に割って入ったのは、そうしなければならない気持ちが生まれたから。
「…あの時、助けなかったら後悔しそうな気がして」
「え?」
「今までみたいな生き方しかできなくなる、と思って」
誰もが自分の人生を変える力と意思を持っている。
その言葉が頭を過った。言葉の主は、腐っていた自分をこの世界に転生させた神様とやら。傲岸不遜な物言いが気になったけれど、力は本物だと嫌でも思い知ったし、その言葉の通りだとも思ったから。
あの場で知らんぷりをしていたら、やはり生前と同じような
「…あなたの身体を診ている時、胸を突き刺されるような気持ちになったんです」
「?」
「私って、人の身体を治す時、その人の記憶もほんの少しだけ読めてしまうんです。でも、あなたのこれまでの記憶は靄がかかったように上手く見えなくて…それでもなぜか、私まで悲しくなってしまったんです」
その設定は、ゲーム内で描かれたような記憶はない。だが、それはともかく自分の前世の記憶をアルナは見ることができなかった。つまり、あの神様の力で、前世の記憶はゲンマしか分からないということだ。
「…俺は家族に、周りに、突き放されて。心にも傷を負って、耐えられなくてすべてを投げ出してここまで来たんです」
前世の記憶を洗いざらい吐き出すことはできない。だから、大づかみに自分のことを明かした。要約してしまえば、自分の前世はそういうものだ。
「そう言う風に生きるのが嫌で、この先後悔したまま生きたくなくて。あなたを助けた。あんな形になってしまったけれど、あなたが無事なようならよかった」
今の自分にできる、「優しい笑顔」を作ってアルナに向ける。
そんな自分の顔を見て、アルナは微笑んだ。
「ありがとう、ゲンマさん」
風が吹いて、木々のざわめきがほんの少し声高になる。だけど、それが深いとも耳障りとも感じずに、気持ちを穏やかにしてくれた。
「…ところでなんですけど」
「はい?」
「ゲンマさんは、これからどうなさるおつもりだったんですか?」
「俺は…とりあえず色々冒険に出てみようかと思いまして」
この世界にはまだ来たばかりだ。あのゲームでは、順当にステージをクリアしてレベルアップを続け強敵と戦うのが大きな流れだったが、これはゲンマにとっての現実だ。この世界で何ができるのかはまだ分からないが、まずは「マテリアワールド」と同じように冒険でもしてみようかと思う。というより、冒険者として過ごす以外の生き方がいまいち想像できないし、いきなり別のことをやるのは勇気が要る。まずは、冒険に出て自分がどれだけやれるのかを試すと共に、この世界で何ができるのかを知りたかった。
「でしたら、私と一緒に行きませんか? 私も1人で、少し心細かったので…」
「え、いいんですか? あんなことした、俺なんかで…」
手元にある黒い棒を見る。これが明らかにただの鉄パイプでないことはさっき分かったが、何なのかも未だによく分からない。攻撃系の武器らしいが、そんな単純なものには見えないのが今の感想だ。
だからもしかしたら、また誰かを傷つけてしまうかもしれない。アルナを無意識に傷つけてしまう可能性だってあるのだ。故に、同じく独り身のゲンマにとってアルナの申し出はありがたくも不安でもある。
しかしアルナは、首を横に振った。
「さっきのあなたのお話を聞いて、あなたのことを信じたいと思うんです」
「え…」
「あなたとならこの先、大丈夫だって」
信じたい。
随分と聞きなれなかった言葉だ。またしても涙腺が緩みそうになるが、唇をぎゅっと引き締めて堪える。
涙が引っ込むのを待ってから、ゲンマは手を差し出す。
「それでは…これからよろしく。アルナさん」
「こちらこそ、ゲンマさん」
差し出した右手を、アルナは両手で優しく包み込んでくれる。
とても温かくて、心が安らいだ。
初めましての方は初めまして。
別作品を読んでくださっている方はいつもありがとうございます。
Twitterで開催された「架空原作杯」に合わせて投稿いたしました、
初めての異世界転生物語でございます。
初めて書くジャンル故に色々とお見苦しい点があるかとは思いますが、応援していただけますと幸いです。