唇が触れそうになった瞬間に、銃声が響いた。
直後、サキュバスが姿を消し、目の前を熱風が通り過ぎていく。
「ダンナ!」
威勢のいい声が聞こえたのは、部屋の右手側だった。細い通路から身を乗り出したクラカの手には、硝煙が上る銃が握られている。寸でのところで、助けてくれたのだ。それだけでなく、やっと
「このやろ…ッ!」
「アルナ、ゲンマを…!」
「はい!」
そしてクラカは、部屋の隅へと避難したサキュバスへ向けて銃を連射し、アルナがゲンマの下へ駆け寄って傷を診る。ウィーネはそのゲンマの前に立って、サキュバスが近づかないように警戒をしてくれた。
アルナは、腿を貫通している黒い剣をゆっくりと引き抜きつつも、傷口を医療魔術で覆う。刺した剣がミリでも動けば強烈な痛みが走るのだが、アルナは真剣に、患部を見つめてゆっくりと剣を引き抜きつつ止血している。やがて剣が抜けると、無意識のうちに溜め込んでいた空気が口から出る。
「めっちゃくちゃ痛い…」
「すみません、助けに来るのが遅れてしまって…」
「いや、大丈夫だ…」
アルナは、剣によってできた2つの傷を両手でそれぞれ治療する。治療魔術というものを自分がされるのは最初に出会った時以外だが、その魔術によって灯る両手の灯りは見ていて安らぐような優しい光で、伝わってくる間隔は綿で包まれているかのように柔らかい。
だが、痛みが引いてきたことで、周りの環境に注意を向けられるようになる。
いつの間にか、銃声が止んでいた。
「クラカ、ウィーネ!」
前を見ると、クラカは銃を構えたままだ。ウィーネは、サキュバスからゲンマを守るような位置で、拳を構えている。
そしてサキュバスは、驚いたことに両手を挙げて立っていた。刑事ドラマや映画なんかで、銃を向けられた一般人がそうするように。そして銃を向けるクラカは、そんな彼女を「ハァン」と鼻で笑う。
「天下のサキュバス様が、随分と殊勝な態度じゃねェか」
「私は『ディザー』よ。サキュバスって呼ばないで、ちゃんと名前があるの」
ディザー、と名乗ったサキュバスは、銃を向けられていてもなお声にも表情にも怯えはない。4対1、しかも男はゲンマだけというこの状況でも、ディザーからは敵意や悪意、そして威圧感が抜けていない。
前に立つウィーネが、ゲンマを振り返る。
「ゲンマ、あんたは少し休んでなさい。脚の傷、結構深かったでしょ」
「ああ、まぁ自分でつけた傷だが…」
「自分で?」
傷をつけた経緯に、アルナが驚いたようにゲンマを見る。それでも治療魔術は止めていないので、彼女の腕は中々だ。
しかし、そこでディザーが小さく笑う。
「そう、彼の脚の傷は自分でつけたものよ。そこに転がってる黒い剣でね。今まで押しかけてきた冒険者とか、書物でも見たことのない感じの武器だけど、かなり貴重なものなのかしら?」
蠱惑的に小首を傾げるディザーだが、この場には彼女の魅力にかかる人間がいない。ゲンマの武器が貴重かどうかと言えば、それは貴重に決まってる。何せ、この世界にはふたつとない一点ものだ。
クラカが、ディザーに銃を向けながらもゲンマを見る。
「何だってまた自分で脚なんて刺したんだァ?」
「私が見せた幻覚から覚めるためよ」
「幻覚だァ?」
「ええ。あなたたち3人に裸で迫られる幻をね、見せたの。そいつに」
若干、空気がひりつくのをゲンマは感じ取った。
胃が押し潰されそうな気分だ。信頼している仲間のあられもない姿を幻覚であっても見たとなれば、心にほんの少しでも邪推を植え付けられる。さては、ゲンマたちの信頼関係に皹を入れるのがディザーの狙いか。
「…残念だったわね」
最初に言葉を発したのは、言い返したのは、ウィーネだった。そしてその言葉を向けたのは、ディザーに対してだ。
「彼にそんな手が通じるわけないでしょう。彼は底抜けにお人好しだけど、命を大切にしてる。私たちのことも、大切にしてくれている。何より、真面目過ぎるのよ。だから、あたしたちがいきなり素っ裸で迫ったところで、その状況を受け入れるわけないじゃない」
「…よくお分かりで」
自信をもって答えるウィーネに、アルナもクラカも頷いている。ゲンマも肩を竦めて笑った。自分の性格は、全く持って彼女の言う通りだ。だからこそ、ディザーが見せた幻覚にすぐ気づけた。
「…へぇ」
ディザーが、興味を示したかのように、唇を歪める。空気が僅かに震えはじめた。
「そんなに信頼されるなんてねぇ」
「羨ましいかしら?」
「まぁ、そうね。羨ましいと言えば羨ましいわ」
挑発するウィーネの言葉を、ディザーはあっさりと受け入れた。言った当人のウィーネはおろか、ゲンマも驚いている。
「信頼できる男がいるっていう、貴女たち
ディザーの笑みがより深まる。その顔立ちはとても綺麗だけれど、浮かべた笑みが獰猛だからこそ、その印象は吹き飛び代わりに恐怖心が前へと出てきた。ウィーネは、指にはめたナックルダスターを強く握り、クラカはもう一丁の銃に手をかける。
「…1つ、提案があるの。とても平和的な案がね」
「平和的…?」
治療を続けるアルナが問い返す。彼女の医療魔術をもってしても、この傷を治すにはかなりの時間を要するようだ。一応止血は終わっているが、まだ傷は完全に塞がっていない。
「その男を、置いていきなさい。そうすれば、貴女たち3人と上にいる仔猫ちゃんは見逃してあげる」
「寝言は寝て言うんだなァ、ボケェ」
一段声を低くしながら、クラカが撃鉄を起こす。アルナもウィーネも、頷いたり言葉で否定したりはしないが、クラカに賛同しているのがその表情で分かる。ゲンマだって、仲間の命が助かるのならとは思っても、その提案を簡単には飲めない。
「ゲンマさんは私たちにとって大切な方です。そんな人を置いて自分たちだけ逃げると、考えているんですか?」
「貴女たちにとって大切かどうか、なんてどうでもいいの。私は、その男に興味があるのよ」
「そりゃ、サキュバスだしね。男の精力が活力源だもの」
「それだけではないわ」
力強くアルナが反発し、ウィーネも加勢するが、ディザーには全く響いていないようだ。
ディザーは、ゲンマを指差してくる。
「私はね、知りたいの。純粋に興味があるのよ、貴女たちにこれほどまで信頼されるゲンマという男がどういう人なのか。ただ生きるために必要な栄養源だけじゃない、その『中身』がどんなものか実に興味深い」
「…それは、俺としても同じだな」
「…なんですって?」
痛みがかなり引いてきて、舌も回るようになってきた。
自分に興味を持ってもらえるというのは、敵ながら嬉しいことだが、そんなことを言っている場合ではない。それに、ゲンマもディザーには「ある点」で興味があった。ウィーネが後ろ目にこちらを見る。
「あのサキュバスの何が気になるって?」
「…さっき、上の階で絵を見たんだがね」
「絵?」
絵、と言ったところでディザーの尻尾がぴくんと震えた。隣にいるアルナは、医療魔術を続けながらも聞き返し、ゲンマは頷く。
「その絵には人間の女性が1人描かれていた。灰色の髪に赤いリボン、薄桃色の瞳と整った顔立ちの人で…」
言いながら、ゲンマはディザーを指差す。
「丁度、君みたいな感じの子だった」
全員が、ディザーの顔を見る。ゲンマ以外にその絵をちゃんと見た人はいないから本当かどうかは分からないが、人間が描かれた絵画とほぼ同じサキュバスがいるというのは考えられない。
当のディザーは、小さく笑う。
「その絵の女と私が似ているからって、何だって言うの? 同じ顔の他人がコロコロいたって何の不思議もないし、何より私はサキュバスよ? そんな人間と私が――」
「『マイリー』って名前に心当たりは?」
「…っ」
滔々と話していたディザーの言葉が、ゲンマが挟んだ質問で途切れる。思い当たる節がなければあり得ない反応だ。
「…君は、もともと人間だったんじゃないのか?」
瞬間、ずんと空気が重くなった。まるで大岩を落とされたかのように、その空気の重さで身体が押し潰されそうになる。視線が安定しなくなり、身体の内側で内臓が悲鳴を上げている。そう感じているのはゲンマだけではないようで、アルナも医療魔術を維持できず、ウィーネは跪き、クラカは銃を持つ腕が震えていた。
そして、この空気を支配しているディザー。風も吹いていないのに、彼女の髪はゆらゆらと揺らめき、薄桃色の瞳には妖しい光が宿っている。これが、力をつけたサキュバスの力なのか。
「…私がかつて人間だったとして、それが何?」
瞬きをひとつすると、眼前にディザーがいた。あまりにも速すぎるせいで、アルナも「え?」と何が起きたか分からないような声を出している。ウィーネとクラカも、一瞬遅れて振り返っていた。
ディザーの声には、怒りが含まれている。逆鱗に触れてしまったのが分かる。
だが、その言葉と、変わった空気こそ、先のゲンマの予想は当たっていたということの証明になる。
「それ以上ふざけたこと言ってみなさい。あんたの精力を今すぐ根こそぎ吸い取るわよ」
ゲンマの顎に手をかけて、睨むディザー。薄桃色の瞳が妖しい光を放っていて、鼻の頭が触れそうになっている。目の前にある唇は艶やかだが、触れたら死ぬと本能で分かった。
「そしたらオレたちで…」
「あんたの頭を潰してやるわよ」
そのディザーの左右の蟀谷に、銃とナックルダスターが突き付けられる。重圧から立ち直ったウィーネとクラカだ。ここでどちらも余計な真似をすれば、ゲンマは精力を吸い取られて死に、ディザーはウィーネとクラカに殺される。
先ほどクラカが最初に発砲した時、ディザーは普通に避けていた。あれは、直前までゲンマから精力を吸い取ろうとしていたから咄嗟に、とも考えられるが、その後もディザーはクラカの銃弾を避けていた。だとすれば、恐らく彼女には物理的攻撃が効く。一方で、精力を吸われる恐れがゲンマにもあるため、どちらも少しでもアクションを起こせばただでは済まない。
膠着状態に陥った。
「…アルナ。知ってたらでいいんだけど、人間がサキュバスになるってことは、珍しくないの?」
「え…? ええと、どうでしょう…少なくとも私は聞いたことがありませんけど…」
ディザーから視線逸らさずに、アルナに尋ねる。この身体全体にのしかかる空気に加え、目の前のディザーが放つ重圧に耐えながら。アルナも、この重圧の影響は受けているようだが、それでも答えてくれた。
次に口を開いたのは、ウィーネだ。
「悪魔界からサキュバスを召喚して、何らかの契約を結べばサキュバスとしての力を得られるってことも、できなくはないわ」
「召喚していいものなのか?」
「あまり褒められたものではないけどね。たまに召喚に失敗して術者が死んだりすることもあるから」
前にそれ関連のクエスト受けたし、とウィーネは続ける。そんな彼女を一瞥するディザー。
悪魔界というものは、確かに「マテリアワールド」にも登場していた。そこは、クエストを続けることで到達できる別ステージという設定だったが、この世界ではどういう扱いなのだろうか。前の世界で言う「地獄」みたいなものか。
それよりも。ウィーネの言葉が正しければ、方法さえ分かれば悪魔界から魔物を召喚することもできる。契約して存在を同化することだって可能。だとすれば、今目の前にいるディザーも、マイリーという人間だった頃にサキュバスを召喚して契約し、同じ魔物になったということか。
「…どうして、サキュバスなんかに?」
「だからそれを聞いてどうするわけ? この私を改心でもさせるつもり?」
ぐいっと、顎に添えられた手の力が強まる。なおも、怒気を孕むディザーの声。もはや、その声ひとつでゲンマの身体を押し潰せるほどのプレッシャーを放っていた。少女漫画なんかでよく見る「顎クイ」と構図的には同じだが、状況はロマンの欠片もない。
しかしながら、そのディザーの言葉に反応したのはクラカだった。
「そうかもなァ」
「は?」
「ウチのダンナはァ、ただ遊び半分でテメェの昔をほじりたいんじゃねェ。テメェのことを理解し、どうにかしたいってことよォ」
代弁してくれたクラカの言葉に、ゲンマは頷こうとする。だが、顎を掴まれているので、代わりに瞬きをゆっくりして「その通りだ」と伝えた。
ゲンマは何も、興味本位でディザーが、マイリーが何故サキュバスになったのかを知りたいのではない。なろうと思えばなれるサキュバスに、禁を犯してまでなったというのなら、それには何かしらの理由があるはずだ。その理由を知って、どうするべきかを考えたい。戦うべきか、それとも別の道を探るべきか。
しかしながら、ディザーは嘲笑うかのように口の端を上げた。
「正気?」
「無論だ」
「ゲンマはそういう男なのよ。それを分かったうえで、あたしたちは一緒に行く。あなたが興味を持ったこいつはそういう男なのよ」
拳を構えながら話すウィーネ。そばにいるアルナも、頷いている。そこには怯えや気圧された様子はない。
ディザーは、じっとゲンマの目を見ている。揺らぎも何もなく、まったく動かさずに、自分の目を見ている。そんな彼女の目を、ゲンマは見つめ返す。正直、曲りなりにも女性とこうして長いこと目を合わせることなどなかった。しかし、ここで目を逸らしてしまえば、自分の本心が伝わらない。気まぐれではなく、本当に理解したいのだ。
やがて、折れたのは。
「…はぁ」
顎にかけていた手が外れ、ディザーが離れる。呼吸がしやすくなって息を整えながら、ウィーネとクラカに構えを解くように手で伝える。
「話してくれるんだな」
「言ったでしょう、興味があると」
壁際まで下がったディザーは、壁にもたれかかる。
「そこの3人が信頼するあなたが、私の話を聞いてどう思い、どう考え、私にどんな言葉をかけてくれるのか。とても興味深いわ」
ゲンマに向けて、笑うディザー。しかしその笑みは、決して安らぎを与えるものではない。自分のことを試す笑みだ。
「…ありがとう」
ただ、こうして話の場を与えてくれたことには感謝したい。その言葉に対してディザーは、肩を少し上げるにとどまった。
「あなたたちも知っていると思うけど、サキュバスは男の精力を吸収して力をつけていく」
ゲンマにだけ聞かせるのではなく、そこにいる全員に聞かせるような話し方。自然と、そこにいる全員が話を聞く態度をとる。
「サキュバスという存在を知った時、私はこう思ったの」
目を伏せるディザー。その時の感情を、自らの中から呼び起こし、再現させるかのように。
「
◆ ◇ ◇
父には妻が2人いた。一夫多妻制が認められているから、何人妻がいてもおかしくはない。何らかの書物で、妻を複数娶る人はかなり少ないという統計があったが、私はその「かなり少ない」家に生まれたわけだ。つまりは、家がお金持ちだったのだ。
私を生んだ母は、後から父と結婚した2人目の妻だ。最初に結婚した妻とも子作りはしていたけれど、生まれたのは後にも先にも私だけだ。
そうして生まれ落ちた私と、生んでくれた母に、父は一層の愛を与えてくれた。
それは、1人目の妻からすれば面白くないだろう。自分の方が最初に結婚したのに、後から結婚した人が子供を産んだら、夫の愛情がそちらに傾いているように見えるのだから。
嫉妬というやつだ。
けれど、その時は父は非情ではなかったから、同じぐらいの愛を1人目の妻にも注いでいた。それでも1人目の妻は満たされなくて、私を生んだ母を憎み、私までも憎み始めた。父のいないところで、1人目の妻は私の母をいびり、蔑み、追い込んで。私の眠るゆりかごを乱暴に揺らしたり、大きな音をたてたりして、私に害を与えてきた。
そうして母は、心に病を患ってしまい、私が5つになる頃には亡くなってしまった。
――彼女の想いは、無駄にできない
それから父は、私に厳しい教育を課すようになった。私を生んでくれた母がいなくなったから、親としての役目をより全うしようという思いで。日中は休む暇を食事とトイレ以外で与えられず、寝る時間も削られて。何度も泣いてしまったものだ。
そうして疲弊する私のことを、継母はにやにやと意地の悪い笑みを浮かべて陰からこそこそ見ていたものだ。大方、私が苦労しているのをいい気味だとでも思っていたのだろう。
そして13歳を超えたころに、私は自分の容姿がどういうものなのかを改めて理解した。
貴重な休みの日。街へ出て歩いていたら、道行く人々が私の方を振り返ってきたのだ。男の人も、女の人も、老人も、子供も。
――とても可愛らしいお嬢さんだ。何を着せても似合ってしまう
服屋の主人が、穏やかな笑みでそんなことを言ってくれた。
私は、他の誰よりも容姿が優れている。だから、皆がこちらを見てくれたのだ。
それを知った私は、純粋に嬉しかった。父は厳しかったし、継母は忌々しいし、ずっと勉強や稽古事ばかりで気持ちが落ち込んでいたから。そんな自分にも秀でた部分があるというのは、とても喜ばしいことだったから。
けれど私は、この容姿を15歳になった頃に恨んだ。
――ぜひ、私と結婚してください
――その美しい瞳に魅了されてしまい、寝ても覚めてもあなたのことが僕の頭から離れません
――あなたのような方と、生涯を共にしたい
結婚の申し出が、後を絶たなくなったのだ。
街を歩けば不躾に近づいてきてはそんな言葉を言ってきて、一方的に手紙を押し付けてきて、私の好みなど全く考えない贈り物を携えて屋敷にまで出張ってくる始末だ。
そんな彼らが口を揃えて言うのは、私の容姿についてだけ。私が今までどんな過去を辿ったか、どんな思いを抱えていたか、彼らはそこに興味を示さない。彼らが私の姿を映している目に「欲望」が浮かんでいた。私の見た目「しか」、彼らは見ていないのだ。中には、私と会って話をしたいと言う人もいたが、結局は誰もが私の見た目からしか興味を抱かない。欲望交じりの視線に晒されて、反吐が出そうだった。
そんな幾多もの空虚な求婚に加えて、加速した継母の嫉妬もあって、私の心は危なっかしい針に支えられているような感じだった。
それでも父は、そんな彼らの求婚を断っていた。見え透いた欲に気づいて、危険だと判断してくれたのだと、私は思っていた。厳しかった父が、私のことを考えてくれている。それだけが、私にとっての支えだった。
けれど。
――私の娘は、渡さない
偶然聞いてしまった、書斎で側近に話していた父の言葉。その意味は、時間はかかったけれど理解することができた。
父は、私を嫁に行かせようとしない。可愛い娘を、自分の下に置いておきたいのだ。それは決して、娘を思う親心ではなくて、独占したいという欲だ。
私は、自分の生に希望を見出せなくなった。
こうしてこの屋敷に生まれたことも、この容姿に育ったことも、自分で望んだものではない。にもかかわらず、私はこうして絶望の淵に立たされている。何故だろう。
どうして、こんなことになってしまったんだろう。
それを考えると、お腹の中心が熱くなり、頭が変になりそうなぐらいに痛む。
たまりかねて、本棚を叩いた。
すると、ばさばさと音を立てて本が落ちてくる。片づける気も起きなかったけれど、ふと床に落ちた本を見た。
紫色の装幀の本。表題は「悪魔界に生息する魔物についての考察」。
なぜこんな本を持っているんだっけ。少しだけ記憶を辿ると、それは私が街に出た時に本屋の息子だかが気を引くために渡してきた本だ。女性に贈る本としては思慮を欠いているが、逆にそれで印象に残ろうという魂胆だったのだろう。
そんな本に、私は何かにとりつかれたように手を伸ばして、ページを捲る。
そして、「サキュバス」のページに辿り着き、その能力を読んで。
随分と久しぶりに、笑えた気がした。
◇ ◆ ◇
「サキュバスを召喚するための方法を調べて、私は召喚に成功した。そして…」
「…契約をした、と」
付け足すようにゲンマが言うと、ディザーは笑みを深めた。
なおも、ディザーは続ける。
「私の美しさに目がくらんで、虚しい愛を告げてくる男たちが鬱陶しかった。だから私は、美しさが言葉通り『武器』になるサキュバスになることを選んだ。そうして愚かな男たちから精力を吸収して、力がついた時、私はそれまでにない満足感を得たわ」
両手の拳を握るディザー。表情には、嬉しさが滲み出ていた。そこからゲンマは、アルナたちは目を逸らさない。
「馬鹿な男たちを操って、私を、母を追い込んだ継母を…そして私を独占しようとした父を――」
「殺したのね。育ての親を」
ウィーネが言うと、ディザーは視線をそちらへと向けた。ウィーネの表情には、怒りとも悲しみとも取れないものが浮かんでいる。それに対するディザーは、目を伏せて笑うのみだ。
「父が愛していたのは私ではなくて、私を抱いていた母。私はおまけだった。だから、母が亡くなった後で私に厳しくなった。そして、成長して私の美しさが顕著になってから、独占したいと欲するようになった…」
「…だからって――」
「殺すことはないだろう、って?」
アルナが何かを言おうとするが、ディザーは冷たい瞳を向けてくる。それでアルナは口を噤んでしまった。
「あのままでいれば、私はずっとこの屋敷で飼い潰されるだけだった。見世物として、薄っぺらい愛の言葉を投げつけられて、継母にいびられて、父に支配されるままだった。あの時、あの本を読んでいなければ、私は先に自分で死を選んでたでしょうね」
「……」
「こうするほか、なかったのよ」
ディザーの右の拳は、握られている。悔しさと、悲しさと、辛さがそこに集約されているかのようだ。
「…私の話を聞かせたわ。さあ、ゲンマとやら?」
再び、歩み寄ってくるディザー。先んじて、ウィーネとクラカがゲンマの前に出てくるが、ディザーが鋭く睨みつける。空気が震える中で、ディザーは素知らぬ顔でゲンマの前で立ち止まり、視線を合わせてくる。
「あなたは、今の話を聞いてどうする? 私を殺す?」
試すように耳元で囁いてくる。脳が揺さぶられるようだ。
けれどゲンマは、今の話を聞いて、彼女をどうするべきかは決めていた。そのうえでゲンマは、口を開く。
「…君は、サキュバスになる以外に道はなかった、と言ったな」
「ええ。まさか、他の魔物になるべきだったとでも? ああ、それも良かったかもしれないわねぇ。悍ましい姿のケダモノになれば、もう自分の姿で誰かに疎まれることもなくて、好きに生きることもできたでしょうから――」
「そうじゃない」
ゲンマは意を決して、ディザーの肩に触れた。伝わる体温は、人間と何ら変わらない。びくっと、ディザーの方が震え、腰から生えた尻尾が直線状になる。
「魔物と契約する以外の道もあったと思う」
「…あの生き地獄みたいな状況で、どうするべきだったと?」
再び、顎に手を添えてくるディザー。呼応するかのように、ウィーネとクラカがナックルダスターと銃を構え、いつでもディザーを攻撃できる位置につく。
「…聞かせてほしいんだ」
「この期に及んで何を?」
「君は、何か得意なことはなかった?」
「はぁ?」
何を馬鹿なことを、と声と表情で問うてくる。だが、ゲンマは臆さない。
「何か1つでも…好きだってものはなかった? 打ち込めるものや、気になるもの…好きな食べ物だっていい。何でもいいから…自分が興味を持つものは、なかった?」
「それがあったからって、何の関係があるのよ?」
「その、1つのことを突き詰めれば、それが新しい道になったかもしれない」
顎にかかる手の力が強くなっている。これでは精力を吸い尽くされる前に骨を砕かれそうだ。ウィーネがナックルダスターを、クラカが銃口をディザーの蟀谷に密着させる。
「知ったような口利かないで」
「分かるよ。俺も同じようなものだったからさ…」
「……」
手の力が、少しだけ弱まった。
前の世界の自分は、なりたい仕事につけなくて、妥協した人生を送っていた。打ち込めるものも、まったくと言っていいほどなかった。この世界をモチーフにした「マテリアワールド」が好きだったことから、ゲーマーやゲームの製作者を目指すという道も、今では考えられた。けれど生きている間は、そこまでしたくはないという諦めもあったし、自分には無理だろうと諦めていたから、あの人生に甘んじていたのだ。なりたい仕事に就けるよう勉強はしていたけれど、それも環境のせいで思うようにいかなかった。結果、身体を壊し、心は疲弊して、その人生の幕を自ら引いた。
ディザーの身の上話を聞いた時、世界観や性別はもとより、歩んできた人生も確かに違ったし、ゲンマよりも壮絶だ。だけど、周りによって追いつめられ、自分の置かれている状況に絶望し、自ら命を絶つことさえも視野に入れていたという点は似ていた。
だから、ディザーの過去を聞いて感じたものは、共感だ。
「周りがあれやこれやと負担をかけてきて、自分はなんでこんなことになったんだろうって思い悩んで。自分にはもう未来はない、道は残されていない。だから…って」
「…じゃあ、なんであなたはまだこうして生きてるのよ」
「ある人から、言葉をかけてもらったんだ。その言葉を頭に置いて、生きようと思った」
自分をこの世界に転生させた神様のような存在に、と言ったらまた命の危険に晒されるだろう。それは言わないでおく。
「人には、自分の人生を変えられる意思と力がある。それさえ失わなければ、良い方向へと変えられる、ってね」
「……」
「それができなかった君が悪いってわけじゃない。君は自分で、サキュバスになるって決めた。俺は、その助言をしてくれた人の言葉に従って今があるわけだから、自分で道を選んだ君にはその『意思』と『力』があったんだと思うよ」
サキュバスのディザーは、多くの人の精力を奪い取って殺してきた。だから、褒めるなんてご法度だろう。だけれども、自分と同じように境遇に悩まされ、苦悶していたことを知った今では、彼女に対する気持ちは憎しみや怒りではない、悲しさだ。そして、選んだ道が邪道だったとはいえ、そうして自分で道を選ぶということは自分にできなかったから、すごいと思う。
「…あなた、底抜けのバカね?」
「そうだな。俺は、周りから見れば大バカなんだろうな」
「賢い大バカね」
「まったくだよ」
ディザーに軽蔑の笑みを向けられて、ゲンマは自嘲する。それに乗っかるようにウィーネが言うが、まさしくその通りだと可笑しくなった。
「でも、そうして君が好きだったことを突き詰めれば、今とは違った未来があったのかもしれない。あるいは、俺たちみたいに冒険者になるってこともあったかもしれない」
冒険者になることに、条件はなかったはずだ。現に、こうして出生も怪しいゲンマが冒険者になっているのだから。境遇こそひどくても、出自がはっきりしているこのディザーであれば、冒険者になれただろう。
しかしディザーは首を横に振る。
「…無理な話ね、それは。父は厳しかったから、私が冒険者になるって言ったら…大反対だったでしょうし」
「言ってみたのか?」
ゲンマが問うと、ディザーは視線を再びゲンマに合わせる。けれど、泣き叫びそうになるほどの重圧はもう感じない。
「君は何か、『こうしたい』『ああしたい』という希望を、お父さんに言ったりしなかった?」
「…そう、ね」
目を閉じるディザー。過去を思い出すようなその仕草は、もはや普通の人間と相違ない。
次第に、俯いてしまう。
「…言わなかった」
声にも、鋭さも重みもない。
幼い少女のように、穏やかな声だ。
「…あんな状況でも、興味のあるもの、好きな食べもの、やってみたいこと。今にしてみれば、色々あった。本で読んだ剣術、美しい海、温かいパン…そんな、他愛もないものでも、道になっていたかもって言うの?」
「ああ」
それを突き詰めるという意思があれば、できるはずだ。当然無学では難しいだろうけれど、その道を歩く中で学んでいければ十分だ。その道を踏み出すのに躊躇しては、届くはずの未来さえ失ってしまう。
「君のお父さんは、君を独り占めにしようとしていた、と言っていた。俺たちはその場にいなかったから、どうだったのかは分からない」
「……」
「けれど本当に、そのお父さんはそうだったのかな。君を独り占めにしたいと、そう思っていたのかな」
ディザーが、目を見開いた。
忘れてしまっていた。周りへの怒りや憎しみで埋もれていた、思い出。
16歳の誕生日の夜、父は私を書斎に呼び出していた。普段父のそばにいる側近も、あの鬱陶しい継母もいない。私と父の2人きりだ。
「…なんですか、お父様」
血の繋がった親子なのに、改まった言葉遣いになる。これも、父の教育によるものだ。
誕生日だからと言って、特別なことは何もなかった。朝早くに使用人は「おめでとうございます」と言ってくれたけど、出される料理は特に変わり映えもない。育ての親であるはずの父は何も言ってくれない。継母なんて論外だ。
いつものように、最低限の休憩が許された勉強と稽古だけの日。加えて、山のような求婚の手紙を見て辟易している。そんな中、こうして呼び出された。滅多にないことで、まさかと思って少しだけ期待していたけれど、父は私に背中を向けたままだ。
「…マイリー。毎日、勉強や稽古をよく頑張っているそうだな。皆が口を揃えて言っている」
「言われたことですから」
父がつける教師、指導者の徹底した教育で私は疲れていた。だから、父が褒めてくれても「誰のせいで」と言う気持ちが強い。抗議したところで無駄なのは知っている。昔、あまりの厳しさに泣いたら「甘えるな」と一喝されたのだから。
「君の姿を見初めて、お近づきになりたいと思っている人も多くいる」
「そうですね」
手紙の山は父も目にしたのだろう。あれを見て、父は何を考えて、何を聞かせるのか。
「私は正直、ああいう手合いには呆れている。マイリーのことを上辺だけしか見ていない。姿に目がくらんで結婚するなど同じ男として――」
「それで、何か御用が?」
このまま続くと、碌な話にならないと考えて、言葉を強くする。反抗的すぎたか、と一瞬だけ後悔するが、父はほんの少し唸るにとどまる。
「…マイリー。君は今、何か好きなことはあるか?」
「好きなこととは何ですか?」
「何でもいい。興味を持つものでも、気になるものでも、構わない」
この父は、何を言っているのだろう。急に、こんな夜に呼び出して、そんな質問をするなど。こちとらどこかの誰かがけしかけた教師陣の指導のせいで疲れて仕方がないのに。
「ありません、特に」
その答えは、この場をすぐ終わらせるためのもの、というだけではない。
実を言えば、そういった類のものはある。前に本で読んだ剣術の絵は美しくて興味があったし、教本で読んだ白い砂浜と青く澄んだ海にも行ってみたい。毎朝調理人が用意してくれる焼き立てのパンは美味しくて、自分でも作ってみたいと思うことは何度もあった。父が言っているものに合うのはそれぐらいだ。
だが、そう言ったところで、この厳しい父は何というだろう。もっとマシなものに興味を持てと言うはずだ。その冷徹な言葉で、自分が気になるものを否定されたら、立ち直れない。だから特になしと言った。
「…そうか、分かった」
父は、それだけ言って、何も続けない。
それから少しの間次の言葉を待っていたが、父は何も言ってこなかった。
「…ご用事が他にないようでしたら、お休みをさせていただきます」
「…ああ」
しびれを切らして、踵を返して部屋を出る。最低限の言葉は並べたし、父も頷いた。文句はあるまい。
「マイリー」
だが、扉を開けようとしたところで、名を呼ばれた。
そちらを見ると、父はこちらに目を向けている。
「もし何かやりたいことができた時は、遠慮なく言いなさい」
「……」
「小さなことでも、何でもいい。その時は、力になろう」
そう告げる父の言葉は、優しかった。父の瞳は、穏やかだった。父の視線は、まっすぐだった。
だけど私には、それが素直に受け取れなかった。私の興味を持っていること、やりたいことは取るに足らないことだし、それを言ってこの厳しい父がそれを背中を押してくれるとも思えない。
だから私は、何も言わずに部屋を出た。
ディザーが、自分の手のひらを見て震える。
「あれが、
ぽつりぽつりと、途切れながらも話してくれた、16歳の思い出。その時の父の言葉は、ディザーを思っていたことの証と言っても過言ではないだろう。
「だって、あんなにも厳しかったのに…」
「…私の父も、祖父も、厳しい人だったんですよ」
混乱しているディザーに話しかけたのは、アルナだった。その顔をゲンマが見ると、アルナは優しい笑顔をディザーに向けている。
「小さな村で育った私ですけど、私が魔術を勉強したいって言ったら徹底的に叩きこむ様になって。ビシバシと、泣いてしまうほどに厳しかったんです。あなたの父のように」
「え…?」
「でも、私が勉強と修業を続けて、成長して、治癒の魔術を習得できた時。父も祖父も、私を抱きしめてくれました。『よく頑張った』『誇りに思う』って」
アルナは、かたかたと震えているディザーの手をそっと握った。怯えも、恐れもなく、相手を対等な立場だと認識しての行動。
「あなたのお父様も、同じだったんだと思います。言葉にしなかっただけで、大切に思っていた…愛していた」
「分かんないじゃない、だって、父は何にも…」
「君を抱いていたお母さんに愛を注いでいて、君を愛してはいなかった、と君は言った。けれど、お父さんは『お母さんの想いは無駄にできない』って言ってたんだろう?」
ゲンマが改めて問う。ディザーは、何も言わずに小さく頷くだけだ。
「お父さんは、君のお母さんが君を愛していたのを理解していた。だから君に、厳しくし、婚約を申し出てきた人たちには『渡さない』って言った。それは決して君が憎かったからでも、君を独占したいと思ったのでもなくて。お父さんも、君を愛そうとしてのことだったんだ」
「……」
「君のお父さんは、君を愛していた」
俯き、唇を噛むディザー。ぎゅっと閉じられた目には、小さな滴が浮かび始めていた。
「…きっと、お父さんは不器用な人だったんだ。だから直接、愛してるとは言えなくて、君は愛されていないと思い込んでしまった。それでも16歳の誕生日に、君に歩み寄ろうとしていた」
「…私が、何かを父に言っていれば、変わってたのかもしれない…?」
「そうかもしれないな」
ディザーにも、何か気になることや好きなもの、気を惹かれるものはあった。それを父に言っていれば、それを極めたいと言っていれば、今とは違った未来があったのかもしれない。全て可能性に過ぎないけれど、ディザーの様子を見る限りそれは十分あり得るものだった。
そしてそれを断ち切ってしまったのも、他ならないディザー本人だ。
「…そんな…そんな、ぁ…あぁ…」
呻き、跪き、床に手をついてしまうディザー。ウィーネとクラカは、拳と銃をそれぞれ下ろした。2人にも、もうこのディザーからは敵意などを感じなくなったのだろう。
「…私は…どうすれば、いいの…?」
「……」
「こんな姿になって、バカみたいに人を殺して…どうすればいいの?」
ディザーは床に視線を落としたまま、呟く。その声は、まるで雨に濡れているかのようだ。
けれどゲンマは、その答えを僅かな時間も挟まずに告げる。
「俺たちと、一緒に来ないか?」
迷いなくそう言う。その直後、ウィーネとクラカは、笑いながら息を吐く。「そう言うと思った」とでも言いたげに。そして隣にいるアルナも、頷いていた。
「一緒に…?」
「君は今までに多くの人の命を奪った。それは、償わなければならないことだ。その償いとして、俺たちと一緒に、人の助けになることをする」
現状、ギルド管理本部に届くクエストの大半は困りごとの解決だ。お年寄りの手伝いから平和を脅かす因子の排除まで幅広く、それらをこなせば人々を助けられる。そんなクエストにゲンマと共に向かい、人助けに従事すること。それが、ディザーの償いだ。
「償わせるって言っておいて、本当はダンナが助けてェだけなんだろォ?」
「まあ…そうだな」
クラカに指摘され、ゲンマも頷く。ただ、そう告げたクラカの表情には憎しみや怒りはない。ゲンマの意見には賛成している、と言うのが分かった。
彼女の真意を知った今、ゲンマの中で殺すという選択肢はもうない。それに彼女からはもう、敵意や憎しみは感じられなくなった。だからこそ、ゲンマは自分たちの下へ彼女を迎えてあげたいと思っている。償いを、というのは建前にも近かった。
「愛されていたことを知って、罪を自覚しているディザーはもう、大丈夫だ。だから、助けたい」
「…私も、それでいいと思います」
「あたしも。けど、ひとつ問題があるわ」
アルナとウィーネが賛同するが、そこで手を挙げたのはウィーネだ。
「『上』の連中が絶対に納得しないってことよ」
そう、今回のクエストはセントラルタウン議会から直々に下されたものだ。内容は「調査」だったけれど、このサキュバスであるディザーの討伐を議会は求めているだろう。であれば、ゲンマたちの判断は間違っていることになるし、何よりそんな危険な存在を連れていくことをよしとするとは到底思えない。
「…ディザーが人間に戻れれば、大丈夫かもしれない」
「そりゃァつまり…」
「サキュバスから人間に戻って、危険な能力を放棄すれば、害を与える心配もなくなるから、ってことですか?」
「ああ」
議会が危険視しているのは、ディザーというサキュバスの危険性とその能力だ。だが、それらはサキュバスの力によって成り立っているもの。彼女から怒りや憎しみが失せた今、残された「サキュバス」と「能力」という要素を取り除いてしまえば、脅威度はなくなるも同然だ。後は、愚直に説得していくほかないが。
アルナの説明にウィーネとクラカ、そしてゲンマは頷く。けれど、ウィーネは「でも」と続けた。
「そんな都合のいい方法なんてあるのかしら? 召喚失敗の後始末をしたときも、そんな方法は…」
「…ひとつだけ、あるわ」
俯き、黙りこくっていたディザーが口を開く。全員が、そちらを見た。
ディザーは、ゆっくりと顔を上げてゲンマと今一度視線を合わせる。薄桃色の瞳は、潤んでいた。
「その方法はゲンマ…ここではあなたにしかできない」
「…どうすればいい?」
ディザーを助けてあげたい。その方法はひとつだけ、しかもそれができるのはゲンマだけ。であれば、協力しない手はない。同じように膝をついて、ディザーと視線の高さを合わせる。
そしてディザーは、口を開いた。
「私に口づけをして」
「「「「え?」」」」
その方法に、全員が驚いた。
キスをすること。それが、サキュバスから人間に戻る方法?
「…そうすれば…本当に?」
「サキュバスの
「原理…なら、どうして俺が?」
「…それは言えない。言ってしまったら、この方法は使えなくなるから」
そう言って、ディザーはゲンマと正対したまま、瞳を閉じる。
「だから…お願い」
「ちょい待ち」
そこで横槍を入れてきたのは、クラカだった。彼女は、再び銃口をディザーの蟀谷に向けている。
「まさかとは思うがァ、これを期にダンナの精力を奪い取ってやろうとか考えちゃいねえよなァ?」
「よせ、クラカ」
何度も、口から直接精力を吸い取られそうになった。方法は恐らく、これからすることと同じ。だから、もしかしたら皆を欺いてゲンマの精力を奪い取る可能性も有る。クラカの不安は尤もと言えばそうだが、その可能性をゲンマは考えていない。
「…信用されてないのね」
「用心に越したこたァねェだろォ?」
片目を開けたディザーが、残念そうに言う。そうされることは当然だ、という風に抗おうとはしない。
それでもディザーは、また瞳を閉じて、「待ち」の態勢に入る。
そんな場合ではないと思っていても、ゲンマは迷う。
人間に戻るための方法はキス。おとぎ話じゃあるまいし、と思わずにはいられなかったが、ここは前の世界とは違うファンタジーに近い世界だ。そういうのが罷り通っても不思議ではないだろう。
だがそれでも、キスをするという行為には少々抵抗がった。何せ、そういうことをした経験がないから。
アルナたちに視線を配る。けれど全員が、頷いていた。それ以外に方法はないし、彼女たちも全員ディザーを助けたいと願っているから、ゲンマの背中を押してくれている。
そうだ、助けたいと言ったのは自分だ。その方法がひとつだけ、それが自分にしかできないのであれば、やらねばなるまい。
「…ちょっと、ごめん」
ただ、自分の自信の無さとはいつまでも拭えないもので、自分なんかとするのは申し訳ないだろうということは思ってしまう。
だからゲンマは、先に謝った。
そしてゆっくりと、無意識に瞳を閉じて、ディザーと唇を重ねる。柔らかくて、仄かに温かくて、花のような香りが仄かに漂ってきた。
「…ありがとう」
数秒の後、唇を離すと、ディザーは自分の唇に小指をそっと触れた。まるで、温もりを確かめるかのように。汚れを拭うような仕草をされないだけ、ゲンマにとってはありがたかったが、自分も同じように唇に指をあてようとは思わない。何だか気持ち悪いものを見る目で見られそうな気がしたから。
アルナもウィーネもクラカも、ゲンマに対しては何か言いたげな視線を向けてはいない。特にクラカは、ゲンマが無事なことを確認したためか、銃を下ろした。
「…うまくいったみたい」
ディザーがそう告げると、彼女の身体が淡い光を放ち始めた。穏やかなオレンジ色のそれは、見ているだけで、浴びるだけで温かく感じる。正直、今なお初めてのことによる緊張で心臓が跳ねているゲンマだったが、無駄にならなかったようで何よりだ。だから、その緊張を払いのけるために質問をする。
「さっきの…アレはどういう原理だ?」
「サキュバスは、精力を奪って力をつける。精力とは『性愛』の源であるから、愛の一種でもあるの。そのサキュバスの力を放棄するには、誰かから愛を受け取らなければならない。『性愛』以外の愛をね」
「じゃあ、俺は…」
「あなたから受け取ったのは、『慈愛』よ」
ディザーは、微笑む。妖しさのない、年頃の少女のように晴れやかな笑みだ。こんな状況だが、町行く人々が振り返るのも頷けてしまう。
「3人が、ゲンマに惹かれた理由が今なら分かる…。唇が触れている間、あなたの心には悲しみと愛情、ふたつの相反する気持ちが宿っているのが分かった。その愛情が、『慈愛』の心が、私を解放してくれたのよ」
「…そうか」
確かに、その原理をあらかじめ言われていたら、「愛さなければ」と義務感を抱くようになってしまって、成功するかどうかも怪しかっただろう。言わなかったのは、正解だ。
「でもひとつ、話しておくことがあるの」
ディザーの微笑みが、崩れる。眉が八の字に垂れたのだ。どういうことか、と思っていると、彼女が放つオレンジの光がほんの少し強まり、その身体の輪郭がぼやけ始める。
「サキュバスが人間に戻る方法なんて、無いの」
「…え?」
告げられた言葉に、脳が止まる。他の全員も、驚愕に表情が染まっていた。
呆然と、ゲンマはディザーを指さす。
「じゃあ、これは…」
「言った通り、サキュバスの力を放棄するものよ。そして…」
ディザーは、自らの胸に手を置く。だがよく見ると、その指先の輪郭が消失していた。
身体が消え始めている。
「サキュバスが力を棄てることは、その存在を失くすということ。それが、契約したサキュバスに教えてもらった方法なの」
「…なんだよ、それ…」
眼球が熱くなってきた。
今なお消え始めているディザーの身体、そしてディザーの言葉。
彼女はもうじき、消えてなくなる。ゲンマたちと一緒に過ごすことなど、不可能だ。
「あなたの言葉は…あなたたちが示してくれた希望は、とても温かくて、嬉しかった」
「じゃあ…」
「けれど私は、今までしてきたことが、愚かだった自分が許せない。あなたたちが許してくれても、認めてくれても、償うことで報われると言ってくれても、私自身がそれに折り合いをつけられない…だから…」
脚が消えていく。腕ももうじき全て消えてなくなる。
叶わないと分かっていても、ゲンマは右手を伸ばす。
その手のひらに、ディザーは自らの頬を差し出した。触れている感覚はあるけれど、熱さも冷たさも感じられない。
「そんなの…ふざけるなよ…おい…!」
「ゲンマ」
涙を抑えきれなくなって言葉が荒くなる。が、そこでディザーが名を呼んでくれた。
目を向けたくないけれど、ディザーを見る。胸のあたりまで消失が進み、二の腕も間もなく消えてなくなってしまうところだ。
「最後にあなたと話せてよかった。あなたから、愛を注いでもらって嬉しかった…こんな私に愛を与えて、愛を与えられることの温かさを教えてくれて、ありがとう…」
首から下が消え去った。
「人間だった時、あなたみたいに優しい人に会えていたら…違った今が、あったのかしら…」
首から顎にかけて消えていく。ゲンマの手が触れている頬も消えはじめ、それにつれて感触も消えていく。視界がいよいよもって潤んできたが、ディザーもまた閉じた瞳から一筋だけ涙を流していた。
「ディザー!!」
名前を叫ぶ。
すると、ディザーの目が、笑うように閉じた。
「さようなら…。最初で最後の、私の愛し――」
その涙は、床に落ちることはなく、顔が消えていくのに合わせて途中で消え去る。
ついに、ディザーは消えてしまった。跡形もなく、汗や涙の一滴、髪の毛一本さえ残さず。ディザーを包んでいたオレンジの光は収まり、光源が窓以外にない薄暗い空間に戻り、静まり返る。壁際にある死体はそのままに、最初からディザーなどいなかったかのような状態だ。
アルナも、ウィーネも、クラカも自失としている。目の前でいなくなってしまったディザーのことが頭から離れないようで。
そしてゲンマは。
今まで自分が出したこともないほどの声で、哭いた。
◇ ◇ ◆
夜。
眠れなかったアルナは、調理場でお湯を沸かしていた。村に住んでいた時によく飲んでいた、気持ちを落ち着かせる効能があるお茶を作るために。
「…はぁ」
柄にもなく、溜息をついてしまう。けれど、今日は色々なことが起きすぎたから、仕方がないのだ。
結局、屋敷を出て町へ戻ってきたのは日没間際。クエストが「完了した」ことをルスターに伝えて、賞金を受け取った後、ギルドハウスへ戻ってきた。それから夕食を摂って各自風呂に入って就寝を迎えたが、そこに至るまで自分たちの間に会話は最低限しかなかった。
無理もない。自分たちで救おうとしたディザーは、自らの業に耐えかねて自分で生きることを棄てたのだ。
中でもゲンマがどれだけ凹んでいるかは、想像に難くない。彼女を人間に戻せると信じての行動が、逆に彼女の命を奪う結果になったのだから。元から生き物を殺すことを極力避けている彼が、救いたい人を殺してしまったのだから。
「あっと…」
湧いたお湯が鍋の蓋をかたかたと揺らしているのに遅れて気付き、急いで鍋を火から外す。それから、燃えている薪をそばにある火消し壺に移して、蓋を閉めて密閉させる。そして、あらかじめ用意しておいた茶葉をお湯につけて、時間をかけて抽出。それを2つのカップに注いだ。
1つは自分用で、もう1つはゲンマのものだ。彼がまだ起きていることは、調理場に下りる前にドアの下から漏れる光で分かっている。なのでアルナは、お盆に2つのカップを載せて、慎重に2階へと上がり、ゲンマの部屋のドアを軽く叩いた。
『…誰?』
「アルナです。あの、今よろしいですか…?」
『…どうぞ』
余計なお世話かもしれないけれど、今のゲンマを放っておけない。その一心で行動を起こしたが、彼は無下にしなかった。彼が優しいことは分かっているので、予想はある程度していたけれど。
慎重に扉を開けて、中に入る。
ゲンマは、寝間着でベッドに腰かけていた。その足元には、ティグリーが横になっている。入ってきたアルナを少しだけ見たティグリーは、またすぐさま横になった。
「…今日のクエストで、俺が怪我をしたり離れたりしたせいか、こんな調子で」
「甘えん坊さんですからね…この子は」
帰り道、脚の傷も心配だったので、ゲンマはティグリーの背に乗って帰った。それで十分触れ合えただろうに、ティグリーはまだ足りないらしい。困ってしまうほどに甘えん坊だ。
ティグリーの頭を撫でるゲンマの表情は、一見すれば穏やかだ。けれど、その裏には「アルナの前で不甲斐ない表情は見せたくない」という考えがあるのに、アルナはもう気付いている。
「…お茶を淹れました。私の育った村でよく飲んでいたものですけど…いかがです?」
「ああ、ありがとう」
差し出すと、ゲンマはカップを手に取って一口飲む。温かいそれを飲み込んだゲンマは、アルナに向けて笑いかけてくれた。
「美味しい」
「ありがとうございます。隣、失礼しますね」
アルナは、断りを入れてからゲンマの右隣に腰かける。ティグリーを踏んづけないように、慎重に。それから自分でもお茶を飲むが、やはり美味しい。そして温かい飲み物は、気持ちを落ち着かせてくれる。
「…大丈夫ですか?」
不安げに、慎重に聞く。
するとゲンマは、自分の腿に手を当てて答えた。
「アルナの魔術のおかげだよ。ちょっとひりひりするけど、歩けないって程じゃない。大丈夫だ」
その怪我もアルナは心配と言えば心配だったが、先の言葉はそれを気にしてのものではない。それをゲンマは勘違いしたのか、敢えてそう言ったのか。
「…ディザーさんのこと、残念でしたね」
残酷だと分かっていても、今のゲンマを知るためにはそうやって切り出すしかないし、決して他人事でそう言ったのではない。表情を窺うと、ゲンマの顔から笑みは引っ込んでいた。
「…俺は、何のために」
カップを握る両手に力が籠っている。
「助けられなかった…いや、助けようとしたのに俺は自分で…」
「ゲンマさん…」
「ディザーは、もう憎しみや怒りに振り回されて、周りに追いつめられることもなく、生きることができたのに…」
あの時聞いた、耳を劈くようなゲンマの慟哭を、今なおアルナは思い出せる。あれほど悲しみに塗れたゲンマの声は、初めて聞いた。自分自身に対する怒りと無念、後悔が奔流の如くアルナの耳に入ってきたものだ。
「他に、やりようはあったはずのに…! 俺は、俺が…!」
コップを持つ手が震え、茶の水面が波打っている。自分の不甲斐なさに打ちのめされて、後悔に押し潰されそうになっている。
屋敷を出てから今に至るまで、ずっとゲンマはそれを抱えていた。周りに聞かせまいと、自責の念を仲間には決して聞かせるわけにはいかないと、ずっと今まで我慢していた。その堰を切らせたのは他でもないアルナだから、自分が最後までそれを受け止めるつもりでいる。
「俺は、間違っていたのか…? ディザーの話を聞きたいって思ったことも、助けたいって思ったことも、ディザーを助けるためにああしたのも、間違いだったのか…?」
「…私にも、分からないです」
「じゃあ…」
アルナは、お茶をまた一口飲む。ゲンマも、それをただ真似るように、同じようにお茶を飲んだ。
「けれどゲンマさんが話を聞かなければ、ディザーさんが本当はお父様に愛されていたことに気づけませんでしたし、敵としてディザーさんと戦うことになっていたでしょう」
「……」
「あなたが助けたいと願わなければ、共存の道だって示せなかった」
結果は、ディザーが人間に戻ってゲンマたちと冒険に出る、なんてことはあり得なかったわけだ。
「そして敵対する気持ちをディザーさんが失ったところで、ゲンマさんがディザーさんに愛を与えなければ、あの人は『サキュバスとして』処刑されていたでしょう。それほどまでに、あの人が犯した罪は重いですから」
茶の水面に自分の顔が映っている。それを見落としながら、アルナはさらに言葉を紡いでいく。自分の気持ちを、思ったことを、正直に伝えるのが今は一番だ。
「そしてあなたが愛を与えたことで、ディザーさんはあのような形で最期を迎えた。生きて救えなかったことは私も辛いですけれど、ディザーさんは愛の温かさや愛を与えられることの嬉しさを知ることができた」
アルナは、ゲンマの顔を見る。悲しみと悔いが、入り混じったような顔だ。
「ディザーさんを生かして救うことはできなかった。けれど、ゲンマさんは間違いなくディザーさんを助けたんですよ」
もちろん、生かして救うことができればどれだけよかっただろう。けれど、ディザーはサキュバスになった時点でもう人間に戻れなくなった。自分たちが何も知らなかったからこそのあの結末だが、どんな形であれゲンマはディザーを救ったのだ。
それを聞いたゲンマの呼吸が、乱れ始める。自分のしたことが正しいのか間違っているのか、アルナの言葉を聞いてなお確信が持てていないようだ。
「…ゲンマさん」
「……」
そんなゲンマの顔を、自分に向けさせる。
そして、アルナはゲンマに口づけをした。ゲンマがディザーにそうした時のように。消沈するゲンマが猫背だったおかげで、座っていたアルナでも唇が届いた。
飲んで間もないお茶の温度と、ゲンマの温もりが、唇を介してアルナに伝わってくる。荒れていたゲンマの呼吸が、落ち着き始める。
アルナだって、こんなことをするのは初めてだ。正直、頭の中が熱で満ちている。眼前にゲンマがいるという状況もあって、どうにかなってしまいそうだ。けれど、心が崩れかけているゲンマを放っておくこともできない。アルナにとっての彼は、とても大切な存在だ。だから、唇を深く重ねて、散ってしまいそうなゲンマの心を支えたい。
「…落ち着きましたか?」
唇を離す。時間にして、数十秒では済まなかった。
けれど、今のアルナには恥ずかしさはない。
「…ああ」
そしてゲンマは、先ほどよりも少しだけ持ち直したかのように、翳りが薄れている。
「私たちは、やれるだけのことをやった。それでも、望んだ形で救うことはできなかった。でも、ディザーさんを助けることはできた…それが今回の私たちにできた限界、精一杯だったんです」
自分たちが望む最良の結果は、最初から得られなかった。その中で自分たちがあがいた結果が、今日の全てだ。
「一番の結果を出せなかったのは、誰のせいでもありません。それをゲンマさんが気に病んでも、何も変わりませんから…それ以上、抱え込まないでください」
ゲンマの身体に寄り掛かる。お茶をこぼして、足元で眠るティグリーを火傷させたりなどはせずに。
もはや、悩んだところで結果は変わらない。ディザーが戻ってくるわけでもない。
だからアルナにできることは、自分たちの行動が間違っていたのではなく、その時点で自分たちにできる最良の選択だったと伝えることだけだ。
「……」
ゲンマは何も言わない。けれど、カップを左手に持ち変えると、アルナの頭をそっと撫でてくれた。
彼は真面目な性分で、独りであれこれ抱え込みやすい。だからアルナの言葉を聞いて、綺麗さっぱり万事解決、とはいかないのも理解している。それでもゲンマの穏やかな顔を見て、折り合いをつけられたのだと分かった。
「…アルナ、ありがとう」
「…いいえ」
「気を遣わせて、ごめん」
「…いいえ」
「…こんな俺だけど、これからもよろしく頼むよ」
「…はい」
悲しみは消えないけれど、少しでも癒してあげたい。そんなアルナの思いは、ゲンマに届いたようだ。
2人で一緒に、お茶を飲む。
温かくて、美味しくて、少しだけしょっぱかった。
戦った敵を仲間にできるシステム実装してほしいな
雑魚敵は兎も角、章ボスとかは性格とか生い立ちとかすごく設定が凝ってて仲間にしたいキャラクターが多いんだもの