「マテリアワールド」の世界に転生して、1カ月が経つ。
最初は文化や価値観の違いに戸惑い、それなりに悩み傷ついたゲンマだったが、大分この世界に順応してきたと思う。そして今は譲渡された家を拠点にし、仲間とクエストをこなす日々が続いていた。
「これで全員か?」
「そうね。数は4体、情報とは合ってる」
「だー、疲れたァ…」
倒れ伏すオークたちを見下ろし、ゲンマが尋ねるとウィーネが答える。クラカは肩をコキコキと鳴らしながら回している。そして彼女がホルスターに銃を戻すと。
「あ、わわ! そ、そうだぁ…さっき巻き込まれていた方はぁ…!?」
「大丈夫ですよ、皆さん無事です」
あわあわと怪我人たちの様子を案じる。最初こそ困惑するほかなかったクラカの二面性についても、今ではもう慣れてしまった。初見の民間人の頭には疑問符が浮かんでいるのが目に見える。
今回のクエストは、いつぞやのようにまた民間人を襲うオークの討伐。場所はあの時とは違って険しい山道だったが、それでも戦闘を伴う命がけのクエストであることは同じだ。それでも、ゲンマたちに怪我はなかったし、巻き込まれた民間人も、保護したアルナの言葉通り怪我はなかった。
そして今回、オークたちは殺していない。ゲンマ、ウィーネ、クラカの3人でオーク4体と戦い、オークたちの動きを止めて意識を奪うことに成功した。1か月経ってなお、ゲンマは無暗に命を奪うことを良しとすることができず、不殺を貫いている。ウィーネやクラカから疑問に思われていたその姿勢も、今ではこのギルドの暗黙のルールのようになっていた。
「ではこの先も、お気をつけて」
「ありがとうございます…」
アルナが手当てした一般人は、怪我が大したことがなかったため、オークが動かないのを確認してからその場をすぐに立ち去った。ゲンマたちは、それを見送ってから再度周囲を確認する。
今回のクエストの難易度は4だったが、他にもいくつかクエストをこなしていった結果、難易度6程度であれば難なく成功させることはできるようになった。それは皆が経験を積み重ねて強くなったからだろう。
「意外と早く片付いたし、帰りに買い物しましょうか」
「そうだな。確か食材がちょっと足りなかったと思うし」
「で、でしたら今日はわ、私が作りましょうかぁ…? いつも皆さんに作ってもらうことが多いから…」
「うーん…それじゃ、お願いしようかしら」
後処理係のディスパーチャを待つ間、この後のことを話す。クエストの場所と内容からして、もう少し時間がかかるものかと思ったのだが、到着した時点で既にオークたちが姿を見せていたので探す手間が省けた。
少し前までは、クエストが終わった後も周囲を警戒し続けて、「この後どうする?」なんて話はゲンマにはできなかった。しかし、何度かクエストを経験し肝がそれなりに鍛えられた今となっては、それぐらいの余裕はある。というよりも、少しでも早く戦いの緊張と興奮から心を落ち着かせるために、普通の話をしたかった。他の3人はどうかは知らないが、皆勇敢だからゲンマとは違って本当に余裕があるのだろう。
拠点で暮らすようになってからは、食事を自分たちで用意する機会が圧倒的に増えた。作る頻度としては、アルナが一番多く、次いでウィーネ、それからゲンマとクラカという順だ。中でもアルナが率先的に作ろうとしてくれるが、ゲンマはただ作ってもらってばかりでいることに耐えられなくて、自分がと申し出ることが多い。ウィーネとクラカも大体同じような理由かもしれなかった。
「きょ、今日はソニックラビットが安かったので、煮込んでみましたぁ…」
「「「おー…」」」
ギルド管理本部で賞金を受け取り、それから買い物をして拠点に戻り、宣言した通りクラカが今日の夕食当番だった。彼女がテーブルに運んできた鍋は、具材と汁がぐつぐつと音を立てている。立ち上る湯気からは実に美味しそうな匂いが漂っていた。
全員が席に着くと、「いただきます」と声を揃えて和気あいあいとした食事の時間が始まる。クラカお手製の煮込みソニックラビットはとても美味しく、ウィーネやアルナもうんうんと頷いて食べ進めている。
ゲンマが以前いた世界と比べて、この世界の食材は全然違った。
クラカの言った「ソニックラビット」は非常に俊敏な動きをするウサギらしいが、体の大きさが犬と同じぐらいで、引き締まった肉が美味だと、肉屋の主人は言っていた。ゲンマからすれば、ウサギの肉など食べる機会は非常に限られている認識だが、この世界でウサギ肉は結構食べられているものらしい。
さらには、目の前にある鍋の中に一緒に入っている野菜類。こうして調理済みの見た目こそ、前の世界で食べることがよくあったほうれん草やキャベツに似ているが、店先に並んでいるものときたら見た目がまるで全然違った。縄で縛られていたそれらはなぜかもぞもぞと動いていて、しかも葉や根の部分が手足のように蠢き、本当に生きているかのようだった。
その時の光景が頭に過りつつも、ゲンマは口に運ぶ。悔しいことに、美味しかった。
「美味いな、これ」
「えへへ…よかったですぅ」
素直な感想を呟くと、無邪気にクラカが笑う。誰が料理を作るかは特に決まっていないが、クラカが今まで作ることがあまりなかったのは、恐らく自信がなかったからだろう。
ゲンマも同じだ。自分の作った料理が皆の口に合わなかったらどうしよう、不味いと言われたらどうしよう、と不安だった。加えて、異世界の食材を調理するということに躊躇し、自信が持てず、中々作ることができなかったのだ。
ゲンマが料理を作らないことについて、アルナたちが何か言ったりすることはなかった。しかし、一緒に暮らしているにもかかわらず彼女たちに料理を作ってもらうだけ、という状況にゲンマ自身が耐え切れず、自分の不安や自信のなさを一旦棚上げして作った次第だ。その時作った
何よりも一番自分で驚いているのが、まさかかつてプレイしていたゲームの世界で自分が料理を振舞うことになるとは、という点だ。
「かーっ、美味い! 疲れた身体に染みるわぁ…!」
酒を呷って、気持ちよさそうに息を吐くウィーネ。彼女は必ずと言っていいほど夕食に酒を用意する。飲むのは彼女1人だが、この場で酒が飲めるのは他にはゲンマだけである。そのゲンマも、普段酒はあまり飲まない。なので実質、この家にある酒はウィーネのものだ。それを買う金はクエストの賞金を4人で割って、ウィーネの取り分から出されたものだし、これまでのギルドを追放された経験からか金欠になるほど酒を買い込んだりもしていないので、特に問題はなかった。
そんな酒を美味そうに飲むウィーネを見ていると、酒を飲まないゲンマも何だか笑えてくるので、箸が進む。
「んでー、明日はどうする?」
「わ、私ちょっと銃の調整がしたいので…休みにしてもらえたらと…」
「確かに…おととい、昨日、今日って戦闘系のクエストが続いているし…休みにしておくか」
「分かりました」
ほろ酔い気分のウィーネが食卓を囲みながら尋ねてくる。このギルドでは誰がリーダーとは決まっていないものの、大抵ゲンマかウィーネがその役目を負っている。今なお、自分はリーダーの器ではないと思っているゲンマだが、それでも成り行きで皆に指示を伝えたり方針を決めたりする機会が多くなってしまっていた。それについて不満は今のところ聞いていないが、不満があったら素直に改善するし、役割を降りるつもりでもあった。
そしてこのギルドは、いつを休みにするかというものを明確に決めていない。クエストが極端に少ない日があるのと、命がけで戦うことが多いために不慮の怪我などでクエストに出るのが難しくなる可能性が高いこと、そして絶対に無理はしないという方針の下、1日の終わりに明日はどうするかを皆で話し合って決めている。
家を持つようになるからと言って怠けはしない、とゲンマは自分で決めていたし、ルスターにもそう伝えている。しかもありがたいことに、アルナもウィーネもクラカも決して怠惰な性格ではないため、出られる時はクエストに出ようという体制になっていた。生活費を稼ぐ、という切実な問題もあるが。
収入を安定させるために「決まった日以外は休まない」やり方を取るべきか、とゲンマは最初に考えていた。だが、それからすぐに思い出したのは前の世界で自分が週5日勤務だったということだ。日曜が終わる時の絶望感は凄まじく、月曜から木曜にかけては憂鬱で、やっとこさ華の金曜を迎えたかと思えば土曜に仕事を捻じ込まれることも多々あった。人より心が弱かったゲンマは、とりわけそのサイクルで精神的に疲弊することが多かったため、この世界で命がけで戦うのであればそのスタンスはやめようと決めたのだ。
「じゃあさ、ウィーネ。明日ちょっと、鍛錬に付き合ってくれるか?」
「分かったわー。晩酌も期待していいわよね?」
「勿論だとも」
そして以前に頼んだ、ウィーネに稽古をつけてもらうことも続いている。
ゲンマの黒い武器を持っていれば身体能力が幾分か上昇するとはいえ、それは仮初のものでしかない。これから先、万が一あの武器が使えなくなってしまえば、自分はただの貧弱な一般人だ。だから、自分の身体を鍛えるために協力をお願いしている。
以降、時間がある時にゲンマはウィーネに稽古をつけてもらっていた。だが、ゲンマは元々運動不足だったうえに筋肉も最低限しかついていなかったため、ウィーネのようになるまでの道のりは険しく、今なお同じレベルには達していない。そんなゲンマを、ウィーネは根気よく指導してくれているので、本当に頭が上がらなかった。
ただし、インターネットやゲームなど前の世界では豊富にあった娯楽が、この世界では「アルティクス」と読物を除けばほとんどないため、空いた時間を筋トレに充てている。その甲斐あってか、無駄な脂肪はほとんどついておらず、筋肉もこの世界に最初に転生した時と比べてそれなりについてきていた。
そして、ウィーネがそんな自分に時間と手間をかけてくれることに、ゲンマは深く感謝し、同時に申し訳なくも思っていた。なので、そのお礼と言ってはささやかすぎるが、彼女のために酒とつまみを用意し、晩酌に付き合うことが多い。食べ物で女性の機嫌を取ろうとするのはナンセンスだと頭で理解しているが、ウィーネがお返しとしてこれを希望してきたので勘弁願いたい。
そうして、この世界での生活を送るゲンマは、前の人生と比べると大分穏やかになったと思っている。かつては心身に病を患って、社会の奴隷として闇の中を彷徨うような暗澹たるものだったが、今の方が充実しているという自信はあった。
勿論楽しいことばかりではないし、むしろ辛いことの方が多い。些細なことで深刻に悩みがちなところも、ちょっとしたことで傷つきやすい点も、物事を深く真面目に捉えすぎてしまう性格も治ってはいない。それでも自分がここまでできているのは、周りに自分を支えてくれる仲間がいることと、あの神様とやらから聞いた言葉のおかげだ。
――生きている人間それぞれには、気付いていないかもしれないが、自分自身で人生を変えられる力と意思が存在する。その意思を捨てず、力を上手く扱えば、人の人生は良い方向へと変えられる
その言葉を胸に、前の人生とは違うものになるよう選択を繰り返した結果、どうにかここまで来ることができた。
だからこそゲンマは、その仲間と言葉を大切に思う気持ちを忘れずに、今を生きている。
◆ ◇ ◇ ◇
気温が高くなり始めたある日の朝だった。
「何だこれ?」
ギルド管理本部のクエスト掲示板の前には、他のギルドがどのクエストを受けようかと屯っている。ゲンマたちも例に漏れずクエストを探していたのだが、そのほとんどが内容の同じ難易度6のクエストだ。
「あー、そっか。この時期か」
「え?」
アルナとクラカも何が起きているのか分からないようだったが、ウィーネだけは今の状況を理解しているらしい。ゲンマたちがそちらを見ると、ウィーネは貼り出されているクエストを指差した。
「この時期って、あの辺のクエストに載ってる『
ウィーネの説明に、ゲンマは頷き、アルナとクラカも「へぇ~…」と感心したように言う。
ふとゲンマが思ったのは、「マテリアワールド」でもたまに開催されていた、ボーナスミッションというやつだ。定期的に開催されるそれは、追加されるミッションをクリアすれば報酬が割り増しで貰えるというもので、今の状況もそれに近い。流石に、動物を駆除するミッションではなかったし、ブレードディールという動物も初めて聞く。
「動物でも殺すのか…」
「まぁ、ブレードディール自体に罪はないけど、周りへの被害が大きすぎるからね」
ひとつ気がかりなのは、動物を殺してしまうということだ。
繁殖という行為は、全ての生物が種を存続させるために行っている自然な行為であり、人間だって行っている。その過程で発生する被害を食い止めるため、という大義名分の下に動物を殺すというのは、些か気が引けた。
ただ、猪や熊が住宅地に下りてきて被害が出る、というニュースは前の世界で何度も耳にしている。原因は自然環境の変化に伴う餌の減少等とは聞いているものの、それで動物たちが殺されてしまうのを見た時は、可哀想だけど人間の生活を守るためには仕方がないとほとんど他人事のように思っていた。それが今、自分は害獣駆除をする側に立とうとしている。他人事ではなくなってしまったのだ。
「ちなみにこのクエスト、成功条件はブレードディールを2頭以上討伐なんだけど、倒した数だけ報酬も累積されるのよね」
「で、でしたらぁ、すぐにでも行った方がいいのではぁ…? もしかしたら、私たちが行く前に皆さんが狩り尽くしちゃう、なんてことも…」
「まあ流石にすぐそうなることはないでしょうけど、その可能性も有りますね…」
クラカが不安そうに提案すると、ウィーネとアルナは頷いていた。
ブレードディールがどれだけの数いるのかは知らないが、湯水のごとく無尽蔵に沸いて出るわけではないだろう。今もまた、他のギルドがクエストを受けようと受付まで行っているので、早くしなければクエストがなくなってしまう。これ以外のクエストも、難易度が高すぎたり、報酬が少なかったりという状態で、難易度と報酬のバランスを鑑みてより有益なクエストは他になかった。
「ちなみにゲンマ。今回ばかりは『殺さないで』って言うのは無理に近いわよ」
「どうして?」
これ以外に割のいいクエストがない以上、このブレードディール駆除クエストを受けるほかない。それでもできる限り殺したくないとゲンマは思っていたのだが、ウィーネはそれを理解しているかのように、掲示板の端を指差す。そこには、A3サイズほどの絵が貼られていた。この世界に写真という技術は存在しないらしい。
その絵に描かれているのは、身体と脚、頭部は前の世界にもいたのとほぼ同じ鹿のような動物。けれど、その頭から生えている角は剣の刃になっていて、それこそ鹿の角と同じく左右に、さらには上下前後にも
「こんなの生け捕りにした方がよっぽど危険よ」
ゲンマは肩を落として、腹をくくった。
◇ ◆ ◇ ◇
ブレードディール駆除のクエストはどれも難易度が6、成功条件は最低2頭駆除で報酬が60ベルガだが、以降は1頭駆除するごとに20ベルガが加算されていく。鹿2頭駆除と考えればかなり奮発していると思わなくもないが、あの見た目で凶暴な性格の鹿を駆除するというのは中々に大変だから、危険手当込みなのだろう。クエストを受理してくれたルスター曰く、戦い慣れた人でも油断すれば大怪我は免れないらしい。
「う、ウィーネさんも前にこのクエストを受けたこと、あるんですかぁ…?」
「ああ、あるよ。その時は1回2頭だけだったかな」
「被害はどのぐらいでしたか?」
「そうね…うちの弓士が左腕失くしちゃったかしら。ヒーラーがすぐに腕くっつけたけど、しばらく魘されてたわね」
アルナの質問にあっけらかんと答えるウィーネ。絵を見た時にも思ったが、やはりそれぐらいの怪我をすることもあるのだろう。クラカは既に脚が小鹿のように震えていた。
「…不安にさせるつもりはないんだけど、ブレードディールと戦う時は、ウィーネは前に出ない方がいいな。だから基本、クラカと俺で駆除するしかない」
「あああああぁぁぁぁ…」
前置いて話をしても、クラカには相当きついらしく、苦悶とも恐怖とも取れる声を上げた。だがゲンマ自身、不安で仕方ないがそれしか方法がないのだ。何せ、格闘家のウィーネは自分の身体ひとつで戦うのだが、あのブレードディール相手に格闘戦など自殺行為でしかない。だから、自由に形を変えられて物理法則を無視できるゲンマの黒い杖と、遠距離から攻撃ができる銃士のクラカで今回は何とかするしかないのだ。加えて、ブレードディールは基本「土」属性の自然エネルギーを持っているため、優位な関係にあるクラカの「火」属性の攻撃は有効だ。
「けど、あまり見かけませんね…」
アルナが周囲を見回しながら呟く。今いる場所は、ギルド管理本部から得た情報で、ブレードディールが移動するであろう森に入って少しのところだ。セントラルタウンを出てから1時間ほどでここに来たものの、ブレードディールはおろか鳥の1羽さえ見当たらない。
アルナが探知魔術を使ってブレードディールを探すが見つからないようだ。ゲンマも能力拡張魔術を使って、アルナの探知範囲を広げるが、それでも見つけられないらしい。
静かすぎた。
「何か、これだけ静かだと逆に今からものすごいことが起きそうな…」
「まぁ何も起きないと逆に困るのよねぇ。報酬も貰えないし」
周囲を警戒しながらのゲンマの言葉に、ウィーネは軽口で返す。実際、ブレードディールを2頭は仕留めなければ報酬が貰えない。1頭も見つからないのはもちろん、1頭だけでも足りないのだ。
「で、でもぉ…確かブレードディールは群れで行動する…ってルスターさん仰ってましたよねぇ…?」
「ああ。だから、群れを見つけさえすれば何とか…」
「あっ、反応があり、ました…けど…」
クラカの言葉に頷いたところで、アルナが声を上げる。そこでゲンマは言葉を切ったが、アルナは何か不穏なものを探知したのか言葉が途切れてしまう。
それと同時に、ゲンマも異変に気付く。
相変わらず、周囲からは風が吹いて木の葉がこすれる音しか聞こえてくる。だが、自分たち以外の生き物が発する音は、不思議なことに全く聞こえない。
その中に混じるように、地響きのような音が聞こえてきた。
「あの、ブレードディールの群れが…こちらに向かってきてます…」
「よし、構えよう」
「それと、何か別の気配も…」
アルナが森の奥を指差す。だが、見えるのは木々だけだ。すると、自分たちのすぐ近くで自生していたオレンジの花(名前は知らない)が小刻みに揺れていた。
「ま、まさかぁ…」
クラカは怯えながら、ホルスターの銃を引き抜く。
「おいでなすったってかァ?」
不敵に笑って森の奥を見るクラカ。ゲンマも黒い杖を構えて、ウィーネとアルナに後ろに控えるよう手で合図する。
地響きの音は今なお続いており、むしろ音はだんだんと大きくなってきている。地面から生える草花の揺れも次第に激しくなっていた。
そして。
「ヤッベェな、こいつはァ…」
前を見るクラカが、呟いた。
前方およそ100メートルぐらいから、こちらに向かって何かが走ってきている。よく目を凝らしてみると、それは前の世界で言う虎に似た動物だった。こちらは、鋭い牙としなやかながらもがっしりとした体躯、4本の脚と尻尾は、まさに虎だ。違う点があるとすれば、毛の色が完全な黒色であることぐらいか。
そして、その虎に似た動物は何頭もいて、そのさらに後ろから別の動物が迫ってきている。木漏れ日に照らされてキラキラと光っているそれは、幾重にも分かれた枝のような刃。それを頭から生やしているほっそりとした身体のシルエット。そして蹄と背中から生える刃。ブレードディールの群れだ。
「逃げろォ!!」
クラカが叫んだ直後、ゲンマとアルナ、ウィーネは一目散に回れ右をして逃げ出した。
自分たちはもちろんあのブレードディールを駆除するためにここまでやって来たのだが、まさか虎までいるとは思わなかった。何より、逃げながらでは真正面から迫ってくるブレードディールを狙うのはクラカでも難しい。何せ、頭を狙ってもその大半が刃の角で隠されているのだから決定打を与えるのは非常に難しい。
「このッ! このォ!!」
逃げつつ振り向いて、ブレードディールに向かって何発か発砲するクラカ。だが、金属に弾かれるような音が聞こえてくるあたり、やはり難しいのだろう。
「あっちの丘に逃げよう!」
先頭を走るウィーネが、斜め右前方を指差す。背後からは今なお虎とブレードディールが迫ってきているが、一直線に走っていては速力が違う人間は逃げ切れない。一か八か、進路を変えて逃げた方がまだ生存確率が上がるかもしれないと踏んだのだ。
ウィーネの言葉に従って、進路を変えて走り続けると森を抜けて草原に出る。ゲンマたちは、さらに小高い丘に向かって、虎とブレードディールに見つからないように体勢を低くしながら走る。幸い、虎とブレードディールはゲンマたちを追ったりはせず、進路を真っ直ぐにとったままだった。どうやら、虎は逃げるのに必死で、ブレードディールは虎に夢中でゲンマたちに気づいていないらしい。
「あれは…
一先ずの危機が去って落ち着いたウィーネが、逃げ続ける虎を見ながら呟く。
ブレードディールに追われている、そのグランドタイガーとやらは全部で6頭。先頭を駆ける個体が一番大きく、しんがりの虎が一番小さい。ウィーネの言う通り、家族なのかもしれなかった。
「虎が鹿から逃げるのか…」
「まぁ、あんなの相手じゃ近づくのもままならないだろうしね…」
丘を登り、グランドタイガーとブレードディールの様子を眺めながら、ゲンマは恐ろしさを抱く。ウィーネにとっては特に珍しくないらしいが、前の世界で虎と言えば気性の粗い猛獣で、逆に鹿はそこまで脅威ではないというイメージがゲンマの中では強かった。だがこの世界ではその立場が見事に逆転している。この世界は、かつての世界の常識が通用しないと既に理解していたが、まだまだ知らないことが多い。
すると。
「あっ…!」
アルナが声を上げた。
というのも、その追われているグランドタイガーの群れの一番後ろにいた小さい個体の身体に、迫ってくるブレードディールの角が刺さってしまったのだ。ぷしゅっ、と赤い血が飛んだのがゲンマにも見えた。その小さな虎は、刺されたことで俊敏さが若干落ち、失速してブレードディールの群れに吞まれそうになっている。
あれも、この世界で言う生存競争なのだろう。前の世界ではテレビで見ることしかなかったが、自然界ではああいうことが起きているのだ。たとえ子供であっても弱ければ淘汰されてしまう。それをゲンマは再認識したが、それでも子供のグランドタイガーが吞まれそうになっているのを見ていると、胸が詰まる思いになる。
不意に、アルナがゲンマのコートの袖を握る。まるで、あのグランドタイガーの子供を案じているかのように。
それで、ゲンマはクラカに目を向けた。
「クラカ、捕獲銃であのグランドタイガーの子供をこっちに連れてこられる!?」
「アレを助けるって言いてェのかァ!?」
「できないか!?」
「やってみらァ!!」
ゲンマが頼むと、クラカは腰の裏側のホルスターから捕獲用の大きな銃を取り出し、今まさにブレードディールの群れに巻き込まれようとしていたグランドタイガーの子供に向けて撃つ。銃口から伸びる、魔術が施されたロープは一直線にそのグランドタイガーへと伸び、その胴に巻き付く。それから間一髪で、グランドタイガーは救出された。いや、救出の際にブレードディールの角が引っ掛かって浅い傷が増えている。
「アルナ、治療魔術を準備して」
「…っ、はい!」
捕獲用のロープで縛られたグランドタイガーがこちらへ向かってくるのを見ながら、横にいるアルナに指示をする。アルナは、一瞬呆けたようだが、すぐに持っていた杖を異空間に収納して両手を空ける。
やがて、捕獲用のロープが巻き付いたグランドタイガーが、地面にゆっくりと降ろされた。グランドタイガーは興奮しているのか、警戒しているのか、あるいは痛みのせいか、牙を剥き出してこちらを見ている。大人しくはしてくれなかった。
「アルナ、お願い」
「はい!」
「ほーら、安心しなって。あたしらは敵じゃないからさ」
ゲンマとウィーネで、グランドタイガーの子供を落ち着かせるように、しかし傷口には触れずバタバタと暴れる脚で皆が傷つかないよう身体を押さえる。その隙に、アルナが傷を治療魔術で治し、ウィーネは通じないと分かっていてもグランドタイガーに言葉をかける。
押さえながら、初めて虎に触れたという興奮もすぐに収まり、ゲンマは内心で自分自身に疑問を抱く。
この判断は果たして正しかったのだろうか。
グランドタイガーがブレードディールに淘汰されるのが普通であれば、自分は自然界の生存競争、食物連鎖に手を加えてしまったことになる。本来なら手を出すべきではなかったかもしれない。だが、まだ子供のグランドタイガーがあえなく死んでしまうことに胸が痛んだのと、アルナが不安そうに袖を掴んできたことで、こうして行動に出てしまった。
「ダンナァ!」
だが、頭の中で考えがぐずぐずと煮崩れ始めたところで、クラカの声が現実に意識を引き戻した。
「ちっと面倒なことになっちまったぞォ」
立ち上がり、クラカが親指で示す方を見て、「げっ」と洩らさざるを得なかった。
ブレードディールが2頭ほどこちらに向かってきていた。恐らくは、さっき捕獲用のロープでグランドタイガーをこちらに引き寄せたことで、自然と追ってきてしまったのだろう。ただ、他のグランドタイガーはこちらに来る様子はない。
後ろを見る。アルナを見るに、グランドタイガーの治療にはまだ時間がかかるだろう。かといって、ここでまた放って逃げては助けた意味もなくなるし、自分が手を出した以上すぐに投げ出すのも嫌だった。
「クラカ、後ろに下がれ!」
「下がれってェ、ダンナはどうすんだよォ!」
後ろに下がるように伝えて、ゲンマは前に出る。困惑するクラカだが、ゲンマは持っていた黒い杖を、皆を守るように横に長い長方形へと姿を変えさせる。さながらベニヤ板のようなものだ。
それを、自分の前に立てて、姿勢を低くする。ブレードディールの足音と地響きが徐々に大きくなってきているのを如実に感じ、確実に自分の方へと迫っているのが見なくても分かる。
「クソッ…!」
クラカは毒づいて後ろへ下がる。ちゃんと自分の言葉を聞いてくれて、とても嬉しい。
そして足音が鼓膜を叩いてきた直後、黒い盾の向こう側から何かがひしゃげる音と、潰れる音が聞こえた。黒い盾が反動を感じずとも音は聞こえてしまうので、反射的に目を閉じてしまう。
足音と地響きがしなくなったのを確認して、黒い盾の向こう側を覗き見る。
「おぅ…」
胃の中身がこみあげてきそうになるのを必死に堪えた。
ゲンマの黒い武器は、自分が扱っている時だけ、触れた敵を法則を無視して破壊する。それは動物であっても例外ではなく、黒い盾に突っ込んだブレードディールは頭部が完全に潰れており、刃の角も粉々に砕けていた。おかげで周囲の緑の草は赤い血で染まってしまっている。あまり直視したくはないが、潰れた頭部の近くには目玉や脳と思しき物体も落ちていて、スプラッター系に耐性の無いゲンマには来るものがあった。
気分を変えようと、視線を丘の下の方へ向けると。
「マジか…」
そう言わざるを得ない。
新たなブレードディールがこちらへ向かってきていた。数にして6頭。あの数は、先ほどのように黒い盾では防ぎきれない。
「だーっ、うっとーしいィ!」
後ろでクラカが声を上げたのを聞いて振り返る。
するとそこには、足元に煙が立つ巻物、さらには両手でガトリングガンのような銃器を携えるクラカがいた。
「ダンナァ、離れろォ!」
「え?」
「新しい銃の試験にゃイイ的だぜェ!」
言われてゲンマは、黒い盾を杖に戻してクラカの射線に入らないよう後ろに下がる。
直後、クラカはガトリングガンをブレードディールの群れに向けて連射し始めた。これまでの銃とは比べ物にならないほどの音が響き渡り、鮮烈なマズルフラッシュと硝煙の香りが容赦なくゲンマの聴覚、視覚、嗅覚に叩きこまれる。その中でブレードディールの方をよく目を凝らしてみると、最初は刃の角に防がれていた弾が、何度も何度も撃たれる内に貫通しはじめ、ブレードディールの頭を撃ち抜いていく。
そうして数十秒ほど連射を続けて、迫ってきていた6頭は全て倒れていた。
「あー、スッキリしたァ」
連射するのを止めたクラカが、乱暴に息を吐いてガトリングガンを地面に下ろすと、それは異空間へと自動で転送された。
「って、げ、ゲンマさぁん! 大丈夫ですかぁ!? あ、あんな無茶してぇ…!」
「あ、ああ。俺は大丈夫…」
そうして元の性格に戻ったクラカがゲンマに駆け寄るが、ゲンマは怪我はしていない。さっきのブレードディールのひしゃげた頭部を見て精神にちょっとしたダメージを負ったぐらいだ。
立ち上がり、改めてグランドタイガーの方へと駆け寄る。アルナの治療のおかげでほぼ傷は塞がっており、興奮していたグランドタイガーも今は落ち着いている。
「また、突飛なこと言ったもんだねぇあんたも」
グランドタイガーの首元を撫でながら、ウィーネが話しかけてくる。そこには安心とも呆れとも言える笑顔があった。何のことかと言えば、それは当然このグランドタイガーを助けようと言ったゲンマのことに他ならない。
「…助けたいと思ったんだ。これが、いいことなのかどうかは分からないけど…そうせずにはいられなくて」
「でも、私だって助けたいと思いましたから…私は嬉しいです」
横で治療を続けるアルナが、ゲンマを見て笑う。ウィーネとクラカを見ると、2人とも笑って頷いていた。考えていること、思っていることは、感じたことは誰しも同じだったらしい。
ゲンマは、少し安心してグランドタイガーの子供の額を撫でる。抵抗してこなかったその額は、とてもふかふかだった。
◇ ◇ ◆ ◇
殺してしまったブレードディールに手を合わせて弔った後、ディスパーチャを通信魔法で呼ぶ。今回やって来た後処理係は、オークや犯罪者を連行する鎧の剣士のとはまた違った風体の人たちで、狩人というべき暗めの服を着ていた。どうやら、害獣をはじめとした動物の後始末を専門とする部隊のようで、仕留めたブレードディール8頭を彼らは転移魔術を使ってブレードディールを別の場所へと転送する。それから、ゲンマたちのクエスト用紙に遂行のサインをし、撤退していった。
「さて、後はお前だけだね」
そう告げるウィーネの目の前にいるのは、傷を治したグランドタイガーの子供だ。
「子供」と表現したのは、先ほど見た群れの中で一番小さな個体だったからだが、大きさは成体に近い。最初は暴れていたが、傷が治った今はとても大人しく、おすわりの姿勢でゲンマたちを見ている。口を半開きにしていて、舌を出していた。こうしてみると、虎というより犬の方が近いようにゲンマには思う。
「もう怪我は治しましたから、急いで行って家族の皆と合流してくださいね」
腰をかがめて、優しく告げるアルナ。彼女の医療魔術のおかげで、このグランドタイガーも命が助かった。ゲンマは心の中で彼女に感謝し、後でお礼を言っておこうと思う。
「そ、それじゃあ…元気でいてくださいねぇ…」
クラカが手を振りってそう言う。ゲンマも何も言わずに小さく手を振り、踵を返して帰路に就くことにした。
だが、それから歩き始めると、すぐ後ろから何かの足音が聞こえてくる。
「「「「……」」」」
4人で、一斉に、無言で振り返る。
ブレードタイガーの子供が、まだそこにいた。別れ際と同じ、ゲンマたちの目の前におすわりをしている。
だが、ゲンマたちはまたセントラルタウンへ戻ろうと、回れ右をして歩き始める。
それでもやはり、後ろから足音は聞こえてきた。
「「「「……」」」」
案の定、振り向くとグランドタイガーの子供がいた。
今度は、そのグランドタイガーと目を合わせたまま、全員で後ろ向きに歩き始める。やはり、グランドタイガーは自分たちに付き従う様に歩いてくる。
「どうしますか…?」
「どうするって言っても…」
アルナに問われるが、足を止めたゲンマは姿勢を低くしてグランドタイガーと視線を合わせる。
「お前の家族は、森の向こうだ。早く追いかけるんだ」
そう言って森を指差すも、グランドタイガーは180度向きを変えて森の向こうへ、とはならない。むしろ、視線を合わせたゲンマに歩み寄り、顔を摺り寄せてくるではないか。ふかふかの毛の感触に力が抜けそうになるが、そんな場合ではない。
「あーあ…懐かれちゃったわね」
「か、かわいいですぅ…」
降参、という風に腰に手をやるウィーネ。クラカはゲンマに擦り寄るグランドタイガーの子供を、温かいものを見る目で見つめていた。そしておずおずとグランドタイガーの頭に手を近づけるが、そのグランドタイガーは自分からクラカの手に頭を擦りつけてくる。「ほわぁあ…!」と心地よさそうな声がクラカの口から洩れた。
「…この子、私たちで引き取ることはできませんか?」
「それは…」
アルナがグランドタイガーの背中を撫でながら、ゲンマたちに提案する。
ゲンマは、グランドタイガーの子供を改めて見る。物欲しげに見つめてくるので、あごの下を指で掻いてやると、ゴロゴロと低く鳴き始めた。虎は確か猫の仲間と前の世界で知っていたが、こんなところまで似ているとは。
それよりも、このグランドタイガーを引き取るという決断に至るには、二の足を踏んでしまう。この子はれっきとした野生の動物で、家族もいるのだ。それを、懐いているからと言って引き取ってしまうと後々厄介なことになってしまいかねない。保護、という名目で連れて行っても、グランドタイガーの下へ返す際に心が痛む。
「ゲンマさぁん…」
悲し気に名を呼ぶクラカ。涙目で、グランドタイガーのお腹に抱き着いていて、このグランドタイガーのさわり心地と温かさに絆されてしまっている。再びアルナを見るが、彼女は彼女で首元に抱き着いている。それでもグランドタイガーは特に怒っている様子はない。
いやいや、とゲンマは首を横に振る。引き取ったとして、いずれ同じような状況になってしまったら、今回が前例となりまた引き取ってしまうことになる。グランドタイガーが「きゅぅん…」と悲しそうに細く鳴いた、愛らしい。家にスペースはあるので別に飼っても問題はないが、クエストに出る時はどうする。一緒に連れていくのか、それとも家に残すのか。グランドタイガーが顔を摺り寄せてきて、得も言われぬ触り心地に包まれて心地よい。考えがまとまらなくなってきた。
「…引き取る?」
見かねたウィーネが告げると、アルナとクラカの表情が明るくなった。ゲンマも、考えが取っ散らかってしまったので、半ば諦めるようにグランドタイガーの頭を撫でる。とてもふかふかのさわり心地だ。
このグランドタイガーは、死ぬまで自分たちと暮らすのか、それとも成長したら自然に帰すのかはまだ決められない。だが、アルナたちの離れたくないと言いたげな表情と、懐いたグランドタイガーの円らな瞳を目の当たりにして、今ここで自然に帰すという判断が出来なかった。軟弱だな、と自分で思う。
「それじゃ、帰るわよ」
「…そうだな」
「あとアルナとクラカも、抱き着いてるとその子が苦しいんじゃない?」
立ち上がって、帰路に就こうとする。今なお、アルナとクラカがグランドタイガーに抱き着いており、完全にグランドタイガーのさわり心地にしてやられている風だ。ウィーネが言っても、アルナは「えー…?」と嫌そうにする。年相応とも言える、アルナの緩んだ表情と緩い喋り方は初めてのものだ。
「だってこの子の触り心地すごくいいんですよ?」
「そうですよぉ…ウィーネさんも、いかがですかぁ…?」
身体を撫でながら誘うアルナとクラカ。これだけされてもグランドタイガーは全く嫌そうにしていないので、大人しい性格なのだろう。
しかし、ウィーネは首を横に振った。それを見て、ゲンマは一番考慮すべきだったことを失念していたことに気づく。
「もしかして、ウィーネって動物が苦手だったとか…?」
「ううん。そうじゃないわ、別に…」
否定しつつも、グランドタイガーをちらちらと見ているウィーネ。いや、よく見ると彼女が気にしているのは、そのさわり心地を堪能しているアルナとクラカだ。
「…ウィーネも触りたい?」
「い、いいえ!? 誰も別に、そんなの全然気にしてないけど!?」
随分気になっているらしい。アルナたちも同じく汲み取ったようで、手招きをする。
「この子すごいふかふかですよ~?」
「あぁぁ程よい温かさで眠くなっちゃいますぅ…」
首を撫でるアルナと、お腹に顔を埋めるクラカ。お前も堕落しないか、と2人が誘っているようにゲンマには見えた。というか実際、ウィーネにもこのグランドタイガーの心地よさを堪能してほしいのだろう。おまけに、当のグランドタイガーまでもがウィーネを見上げていた。
しかしウィーネは、より強く首を横に振り、意固地になって反論してきた。
「いいから! あたしは全然、そういうのに興味とかないし! そんな抱きついたり撫でたりなんて、絶対しないから!!」
◇ ◇ ◇ ◆
「ウィーネさぁん、お家に着きましたよぉ…?」
「やだ、もうあたしこの子の背中に住む」
ギルドハウスに到着したが、ウィーネはグランドタイガーの背中に跨って顔を埋めて降りようとしない。ものの見事に陥落している彼女に、ゲンマもアルナも苦笑せざるを得なかった。
この子供のグランドタイガーは、親との体格差で「子供」と判断した。しかし、それなりに上背のあるウィーネをいとも軽々と背中に載せてここまで帰ってきたのだから、それだけ力もあると見える。
「さあ、ここが今日からあなたのお家ですよ」
アルナがそう言いながら、グランドタイガーをの頭を撫でる。恐らくは疲れただろうと思い、ゲンマとクラカで協力してウィーネを背中から引きはがし、地面に下ろして家の戸を開ける。
家の中で靴を脱ぐという概念が存在しないため、ゲンマたちは中に入ってすぐにあるラグマットのような絨毯で土や汚れを落とす。グランドタイガーは外で寝泊まりさせるかどうか悩んだが、帰り道でひとまずは家の中に住まわせようという結論になっていた。なので、先んじてタオルを取ってきたアルナが、グランドタイガーの足裏を丁寧に拭いていく。
「念のため、体を洗ってあげましょうか」
「で、でしたら私、お湯を沸かしますね…!」
「じゃあ私はお風呂場に水を…」
言いながら、クラカとアルナがてきぱきと行動を開始する。ペットを飼い始めて心躍っているようにしか見えない。
「全くはしゃいじゃって…」
そしてようやく立ち直ったウィーネが、一歩引いた立ち位置でそう告げる。ゲンマとほぼ同じことを思っていたようだが、当人はさっきまでグランドタイガーのモフモフっぷりに打ちのめされていたところだ。現に、そのグランドタイガーがウィーネの脚に擦り寄ると、表情がだらしなくなってしまっている。
そうしてアルナとクラカが風呂に水を溜めて湯を沸かした後、身体を洗う役目は助けることを決めた当人のゲンマが負うことにした。人間用の石鹸を使っていいものか悩んだが、ただお湯で洗い流すだけだと衛生など色々な面が不安だったので、害がないことを信じて石鹸で全身をくまなく洗っていく。
「…お前オスか」
そして洗っている最中に、お腹側にその
「これでよし、と」
最後にお湯で石鹸と身体をもう一度洗い流し、風呂場から出てタオルでごしごしと丹念に拭いていく。テレビでタレントが動物のトリミングをしていたのを何度か見たことから、ドライヤーの重要性をここで痛感する。だが、拭いている間も全く暴れたり抵抗したりしないので、余程穏やかな性格なのか、それとも自分たちに気を許しているのだろう。
やがて拭き終えて、艶やかになった黒い毛並みを何の気なしに撫でてみる。一層その毛並みの柔らかさが際立っていた。
それからリビングに移動すると、流石に疲れたかグランドタイガーが横になる。思えば、自分たちが助けた時はブレードディールに追われていたし、あそこからこの家に帰るまでのほとんどの道のりでウィーネを背負っていたのだ。疲れないはずもないだろう。
そこでゲンマは、誰も周りにいないのを確認してから、クラカがさっきやっていたように、お腹に腕を回して抱き着いてみる。
「…温かいな」
さっき浴びたばかりのお湯と、グランドタイガーの体温が合わさって、心地よい温かさに包まれるようだ。それに、一度石鹸で洗ったことでいい香りもする。さらにはその柔らかい腹部の律動が、ゲンマに安心感を与えてくれた。
そろそろ夕食の準備をしなければならない時間だ。
クエストから戻って少し自室で休んでいたアルナは、部屋を出て1階へと向かう。
今日の食事当番が誰、とは決まっていないが、アルナは率先して自分が作ろうと思っていた。自分が一番年下ということもあるが、普段のクエストで自分はあまり活躍していないような気がするからだ。クエストだとアルナは基本探知や治療、そして扱えるようになってきた「風」の自然エネルギーを使ったサポートを後方から行う。なので、常に前に出て戦うゲンマやウィーネ、クラカと比べると戦う機会は少ない。だからこそ、命を張っている皆の負担を少しでも減らせるよう、アルナが炊事など進んで行っている。
それをゲンマたちに言えば、きっと彼はお礼を言ってくれると同時に「気にしなくていい」とも言うだろうから、これに関しては誰にも言う気はない。
さて、食料庫にまだ食材は残っていたはずなので、それらで何かを作ろう。そして、新しい家族であるあのグランドタイガーの分も今日から作っていかなければならない。何を食べるのかは分からないけど、油とかは使わない方がいいだろう。
だが、1階へ降りる階段の途中で、ウィーネとクラカが脚を止めていた。リビングの様子を隠れて窺っているようで、階段の陰から身を乗り出している。アルナが近づくと、2人はリビングを無言で指差す。アルナもそれに倣って、ゆっくりと慎重にリビングの様子を窺と。
「…あ」
リビングの真ん中で、ゲンマとグランドタイガーが眠っていた。しかも、ゲンマはグランドタイガーのお腹に抱き着き、実に心地よさそうな穏やかな表情で眠っている。
「…あいつ、あんな感じで寝ることあるのね」
「き、気持ちよさそうですね…羨ましいですぅ…」
宿暮らしをしていた頃はゲンマと同室で泊ることがあったアルナも、その寝顔を見たことはない。いつも寝るのは自分の方が早く、起きるのは自分の方が遅かった。この家で暮らすようになってからも、部屋がバラバラなので寝顔を目にする機会はない。
初めて目にするゲンマの寝顔は、普段の自信がなさげとも、肩肘張っているとも言える顔つきからは想像できないほどに穏やかだ。ウィーネとクラカの感想も分かる気がする。
「…起こすのも悪いですね」
「いや、起こさないと晩飯の支度もできないし」
そう言うとウィーネは、ゲンマもとへ向かうとその頭を小突いて起こした。そして、起きたゲンマは寝顔を皆に見られたということで、恥ずかしいのか顔を押さえている。
そんな初めて見るゲンマの仕草に、アルナは自然と笑みをこぼした。