異世界でもイレギュラーはつきもの   作:プロッター

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第9話:白い淫魔姫

 グランドタイガーどころか普通の虎の生態さえ分からなかったゲンマだが、1週間ほどして分かったのは「身体の大きな猫」ということだった。

 まず食事は、肉でも野菜でも普通に食べる。ただし、普通の犬や猫同様に油を使ったものや辛いものはマズいだろうということで、軽く湯がいたものをあげるに留まっている。また、1食あたりの食事量が、ゲンマたち4人分とほぼ同じぐらいと、かなり多い。それでも、1日3食ではなくお腹が空いた時に食べるぐらいで、1日2食ほどだ。

 グランドタイガーは夜行性ではなく、夜には普通に眠る。どこで眠るのかと言えば、誰かの部屋だったりギルドハウスのリビングだったりだ。ゲンマの部屋で寝ることがあれば、アルナやウィーネの部屋で眠ることもある。ただし、明け方早い時間に活動を開始するので、同じ部屋で眠った日には惰眠を貪ることができず、健康的な朝を迎えざるを得ない。

 

「21、22、23…」

 

 そしてゲンマが日課の筋トレとして腕立て伏せを行っていると。

 

「にじゅ…うっ!?」

 

 突然背中に重量が加わり、床に突っ伏す。振り返ってみれば、そのグランドタイガーが「あそんで」と言いたげにゲンマの背中に前足を置いていた。

 

「ほーら、腕が止まってるよー。再開しなきゃ」

「できるか、こんな状況で!」

 

 トレーニングを見ていたウィーネが手を叩いて続きを促すが、数十キロもの負荷を背中に乗せたまま腕立て伏せができるほど、ゲンマの身体もまだできていない。グランドタイガーは今なお「あそんで」と訴えかけていてどこうとしない。

 このグランドタイガーは、甘えん坊だ。いつも誰かの後ろをついていき、こんな感じで誰かが集中しているとそれを乱すように近づいてくる。アルナが読物をしていた時は、足元に寝転がってお腹を見せていた。クラカが銃の調整をしていた時は、作業中は危険な雰囲気を察したのか近づこうとはしなかったが、作業が終わるとすぐに飛びついていたものだ。ウィーネが「アルティクス」で遊んでいた時も、横から覗き込んでいた(流石にボードゲームは理解できていないようだったが)。

 しかしながら、ゲンマはこうしてグランドタイガーと一緒に暮らしていると、どうにも心が安らぐ気がする。ここで暮らすようになってから、自然溢れる匂いから穏やかな匂いがするようになったし、その温かさや触れる身体の一定の律動が自分をリラックスさせてくれる気がするのだ。これがアニマルセラピーというやつか、とゲンマは考えている。

 そんなグランドタイガーの名前は、アルナが「ティグリー」と名付けた。曰く、「ティグリー」はこの世界における「虎」の別の読み方らしい。安直な気がしなくもないが、あまり凝った名前にすると覚えにくいし、センスの無さを自白してしまいそうだから乗っかっておく。

 満場一致で、グランドタイガー改めてティグリーが、仲間になった。

 

 

◆ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「グランドタイガーを仲間にしたと聞いた時は大層驚きましたよ」

 

 ルスターが苦笑する。自分がこの世界に転生してから、彼女には色々な意味で苦労を掛けてばかりだ。ゲンマもそろそろ、罪悪感が無視できないものになってきている。

 

「まぁ、成り行きでと言いますか…」

「けれど、前例がないわけではなりませんから。小型のドラゴンを駆る人もいらっしゃいましたし」

 

 この世界ではまだ遭遇していないが、ドラゴンというものも存在するようだ。子供のころから、カードゲームやアニメ、漫画で見ることが多かったそれだが、実際見るとどんな感じなのだろうか。期待する一方で、もしかしたらあっという間に殺されてしまうかもしれないと不安にもなる。

 

「とすると、ゲンマさんも調教師(テイマー)に転向する感じですか?」

「いや…こいつは…」

 

 ルスターが聞くと、そばに控えていたティグリーがゲンマの膝の上に前足をかけてくる。ルスターと話をしていたから構ってほしいのだろうか。そのルスターだが、ティグリーを見て冷や汗をかいている。何百年生きるエルフとて怖いものは怖いらしい。

 さて、ゲンマは未だに剣士や銃士、格闘家などのどの役職かがまだ判明せず「不明」のままだ。ここでティグリーを使役して戦うようになれば調教師扱いになる。

 

「俺はテイマーとかそういう柄じゃないですから。この子は一緒に連れていきますけど、戦わせるっていうのは避けたいです」

 

 ティグリーの頭を撫でる。

 彼を迎えて何日か後、ゲンマたちは4人でクエストに出ようとしたが、置いて行かれるのが不安だったのかティグリーは吠えるわ抱き着いてくるわで中々出発できず、結果連れて行ったのだ。そのクエスト中はアルナのそばにいて離れず、戦いに巻き込まれることはなかった。

 なのでクエストにはティグリーを連れて行くが、危ない目に遭わせたくはない。何せこの仔はまだ子供だし、怪我をしていたのを引き取ったのだから。自分たちが戦わせてまた怪我をさせて、挙句死んでしまっては合わせる顔もなくなる。

 それと、動物を調教して戦わせるというのがゲンマにはイメージがつかないし、何より自分に代わって戦わせるということにプレッシャーがかかる。正直、後ろめたい。

 

「…なるほど」

 

 ふっと、ルスターから力が抜けるような笑みがこぼれる。呆れたという様子ではなく、安心したというような感じの。

 そこで、ゲンマの隣に座るウィーネが咳払いをしてきた。

 

「で、こんなとこに呼び出しなんてどうしたわけ?」

 

 今、ゲンマたちのギルドがいるのは、ギルド管理本部の会議室のような部屋だ。ゲンマが最初に冒険者として登録した際に通された部屋とは少し違う。

 

「も、もしかして問題行動を起こして解散しろとかですかあ…!? すみません、ごめんなさい! 私なんかがいるせいで皆さんに迷惑が…!」

「どうどう…」

 

 まだ本題を聞いてもいないのに泣き出すはす向かいのクラカを、その横に座るアルナが背中を撫でて落ち着かせる。

 とはいえ、クラカの言葉も間違ってはいないかもしれない、とゲンマは考えていた。ここで冒険者として登録してから、問題行動というべきかは微妙だが、それなりに異端な行動――クエストでの可能な限りでの不殺、家の譲渡等――を起こしている自覚はある。解散とまではいわずとも、行動を自粛しろ、と言われるかもしれないとはゲンマも考えていた。隣に座るウィーネも、心なしか少し緊張している風に思える。

 

「皆さんをどうこうするというわけではありません。むしろ、私たちからのお願いと言いますか…」

 

 お誕生日席に座るルスターは、クラカに向けて手を横に振り、懐から用紙を取り出してテーブルに置く。

 ゲンマたち4人が覗き込んだそれは、表の掲示板に貼り出されているのと同じクエスト用紙だ。内容は北方にある屋敷の調査と簡単そうに見えるものだが、難易度と賞金の部分が何度も修正されている。

 

「このクエストを最初に貼り出したのは、2週間前です」

 

 神妙な面持ちでルスターが話し出す。只事ではないようなので、自然とゲンマの背筋も伸びた。

 

「内容はこちらに書かれている通り、『北方にある屋敷の調査』。元はとある貴族が住んでいた場所でしたが、住人が全員消息を絶ち、それからこの近くを通る人も行方不明になるという事態が多発しています」

 

 ひええ、とクラカが怯えるように声を出す。

 

「最初はこちらで『難易度は3が妥当』と判断し、その際はすぐ5人組のギルドが受け取って調査に向かいました」

「「「「……」」」」

「ですが、その日の夕方。そのギルドの登録用紙に『全員死亡』の表記が出たんです」

 

 ひっ、とクラカが甲高く短い悲鳴を上げる。ゲンマも唾を飲み込んだし、アルナとウィーネも緊張した様子が顔に出ている。知らなかったが、ギルド登録用紙の仕様として、メンバーが死亡したりした場合はそれが反映されるようになっているらしい。名前も知らない人の死でその仕様を知ってしまうとは、とゲンマは一度目を閉じる。

 

「私たちはそれから、難易度を2つ上げました。普通の調査任務であれば、ギルドの方が傷ついたり1人亡くなるということであればよくありましたが、5人もの方がなくなるというのは異常と判断したのです」

 

 けれど、とルスターが続ける辺りうまい具合に話は進んでいないらしい。

 

「今度は6人組のギルドが出ましたが、原因の究明には至りませんでした。さらに難易度を上げても状況は改善せず…一度このクエストは回収という形を取りました」

 

 どうやら、何度もクエストが失敗すると一度検討するために取り下げることがあるようだ。経験者のウィーネもそれは知らなかったらしく、興味深そうにうなずいていた。

 そして今、テーブルの上に置かれているこのクエストこそ、その回収されたもの。難易度は3から8に、賞金は15ベルガから100ベルガにまで跳ね上がっていた。

 

「今なお、あの屋敷の脅威は去っていません。かといって、このまま放置するわけにもいかず…」

「私たちに調べてほしい、と?」

 

 要点を先にウィーネが告げると、ルスターは重々しく頷いた。ゲンマは、天を仰ぐ。

 

「無、無理ですう! 私たちなんかに、そ、そんなギルドをいくつも全滅させた何かの調査なんてぇ…!」

 

 もぎれそうな勢いでクラカが首を横に振る。だが、ゲンマも同じ気持ちだし、アルナもウィーネも口にこそ出さないが同じ気持ちだろう。難易度8のクエストはまだ経験したことがないし、それに見合った経験もあるとは言い難い。何より、聞くからにその屋敷に潜んでいる「何か」は危険だ。そんなところへ行って、むざむざ全員死んではただの犬死にだ。

 

「どうして、俺たちに頼もうとしたんです?」

 

 一番の疑問はそれだ。なぜ、ギルド管理本部の方から依頼をしてくるのか。希望的観測でしかないが、放っておけば自分たちより強いギルドが攻略してくれるだろう。3つのギルドが犠牲になったのは残念なことだし、ゲンマとしても何も思わないわけではない。それでも、態々自分たちが危険を冒すこともないだろう。

 

「最後にこのクエストに挑戦したギルドは5人組でしたが、内3人は亡くなり、2人の()()()()()()は命からがらこちらまで戻ってきて、状況を教えてくださいました」

「その人たちはなんて?」

「仲間の()()()()()()が突然攻撃を仕掛けてきた、と」

 

 ウィーネが、「なるほど」と何かに気づいたように呟く。ゲンマにはまだどういうことか分からず、アルナたちも同じらしい。

 

「『濃い紫の霧が急に立ち込めてきたと思ったら襲ってきた』…彼女たちはそう話しています」

「……」

「そして『その冒険者たちの後ろにはぼんやりと女の姿が見えた』とも仰ってました」

 

 ルスターが、別の用紙をテーブルの上に置く。それは、何かの論文と思しきものだった。

 

「我々が考察するに、その屋敷にいる『何か』は淫魔(サキュバス)と考えられます。それも強い力を持っている」

 

 その生物の名前を聞いて、ゲンマは息を吐く。アルナとクラカも合点がいったようだ。

 サキュバス。聞いたことはあるし、この世界をベースとした「マテリアワールド」でも敵として登場していた。前の世界で軽くネットで調べたら、男に卑猥な夢を見せてその間に精気を奪う、という力を持つ悪魔の一種だったはずだ。そんな存在を相手にしろというのか。

 

「あー、ルスター? 何か忘れてるようだから言っておくけど、ウチのギルドにも男はいるのよ?」

 

 ウィーネが、ゲンマを指差しながら言う。その通りで、ゲンマは男だ。そのサキュバスの格好の狙いにしかならないだろう。しかし、ルスターもそれは当然分かっているようで、頷きながら話を続ける。

 

「この世界に生息する生き物は、必ず何かしらの自然エネルギーの属性を持っています。それは、サキュバスとて例外ではありませんし、サキュバスは基本的に『火』属性であるとされています」

 

 レポートのような用紙を指差しながらルスターが話す。そこをゲンマが凝視すると、「サキュバスの属性について」という小題が書かれていた。

 

「サキュバスの狙いは男性であり、女性は基本的に対象とはしません。そしてゲンマさんは、唯一でもある『無』属性であるため、みなさんであれば可能性があるかと」

 

 「火」属性に劣る属性は「土」。これまでそのサキュバスの手にかかった男の冒険者たちがどのぐらいいてどの属性だったのかは知らないが、全員が全員「土」属性とは考えにくい。だとすると、そう言った属性の優劣を無視できるほどの力を持っているのだろう。ルスターも、それは理解しているはずだ。

 

「それなら、女性だけのギルドを編成すればいいのでは?」

「女性の冒険者は男性と比べると少なく、また急ごしらえのギルドですと連携があまり望めません。これ以上、一般の方や他のギルドに被害が広がる前に、連携の取れている皆さんに受けてもらえれば…」

 

 自然エネルギーの4つの属性には優劣関係が存在する。だが、ゲンマの「無」属性はそのどれにも当てはまらない。だから、サキュバスに対抗できるかもしれない。加えて、このギルドは4人中3人が女性であり、場数をそれなりに踏んでいる故息の合った連携ができるだろう。それに万が一、ゲンマが敵の手に落ちたとしても、3人であれば奪回は十分可能だ。

 そこまで言ったところで、ルスターは珍しくため息を吐いた。

 

「…と、いうのが()の判断です」

「上?」

「ギルド管理本部の上、セントラルタウン議会です。議会ではこういった特異なクエストについても議論することがあり、今回は『無』属性のゲンマさんがいるギルドに任せてみる、という結論に至ったんです」

 

 ブレードディールの討伐任務も話しましたよ、とルスターは苦笑交じりに言う。

 自分がこの世界におけるイレギュラーな存在であることは、ルスターの上司やさらに上も知っているということか。いよいよもって、目立った行動ができなくなりそうだ。別に他の国に寝返ったり情報を流したりなどするつもりはないが、自分の存在が認知されているというだけで縮こまりたくなる。

 とはいえ、お上からそう言われてしまっては、ここで断るのも難しい。

 

「ち、ちなみにぃ…ルスターさんはぁ、どうお考えなんでしょうか…?」

「…私個人の気持ちとしては、皆さんを行かせたくはないですね。議会が下した結論と指示も、あくまで可能性の話でしかありませんから」

 

 控えめにクラカが質問すると、ルスターの視線は下に落とされた。彼女もまた、無理を言っている自覚があるのだろう。それでも、自分たちの心配をしてくれているというのは嬉しい。

 

「あとは余計な話になりますが、議会はこのクエストを成功させたら倍の賞金を用意する、と言ってましたね」

「金の問題じゃないと思うんですけど…」

「私もそう思います」

 

 最終段階でのクエストの賞金は100ベルガ。つまり、そのサキュバスを倒せば200ベルガが手元に入ってくることになる。しかしながら、アルナの言う通りで金を積めばいいという話ではない。金に目がくらんでほいほいクエストを受けて、死んでしまったら元も子もないではないか。ルスターも同じく、と頷いている。彼女は自分たちのことをよく考えて、心配してくれていた。

 

「…ここで、俺たちが『断る』と言ったらどうなりますか?」

「そうなると…またほかのギルドの方々に解決してもらうのを待たねばならなくなります」

 

 念のためにゲンマが聞くが、それは予想通りの答えだ。

 しかし、ここに来るまでにもう何人もの冒険者が命を落としており、ここで自分たちが受けなければまた何人もが命を落としかねない。しかしここで自分たちが行けば、被害を食い止められるかもしれないし、仮に自分がサキュバスの手に落ちたとしてもウィーネたちなら上手くやってくれるはずだ。その上自分たちは、既に議会に目をつけられている。ここで断ってしまうと、後々の活動に支障が出る恐れがある。

 

「…分かりました」

 

 自分たちが通用するかは分からない。かといって誰かに任せて成功するとも限らない。しかも自分たちは何の変哲もないただの一ギルドというわけでもない。

 打つ手がなくて、仕方なく、このクエストを受けるしかなかった。

 

 

◇ ◆ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 目的の屋敷へと向かう間、ゲンマを含め皆の口は重かった。無謀と分かっていても受けなければならないクエストを受けて、しかも場合によってはゲンマが死ぬかもしれないのだ。周りのことを考慮した結果受けざるを得なかったのだから、気は進まないのも分かる。

 特にゲンマは、周りの環境によって心身を壊した前の人生を思い出してしまい、胃の中が綯い交ぜになっている感覚だ。以前は、生きている間は自分の心が徐々に溶け落ちていくような感覚に悩まされていたが、今回はそれどころではない。何せ、本当に自分の生死がかかっているのだから。

 

「あまり心配するなって」

 

 消沈して歩くゲンマの肩を、ウィーネが叩く。にこっと笑ってくれたが、今は少々効果が薄い。というのも、ウィーネ自身も緊張しているようだったからだ。さらに、隣を歩いていたティグリーも、ゲンマを安心させようと脚に擦り寄ってくる。彼はオスで、もしかしたらサキュバスの対象になるのではないかと不安だったが、ルスター曰く「標的とするのは人間の男だけ」らしい。

 

「…みんなに、ひとつだけ言っておきたいことがある」

 

 歩きながら、前を向いたまま口を開く。全員がこちらに意識を向けるのを感じ取ってから、続けた。

 

「もし、俺がサキュバスに操られて皆を攻撃するようなことになったら、俺ごとサキュバスを殺してくれ」

 

 ルスターから聞いた事例のひとつ。5人組のギルドでサキュバスに操られた男3人が、女性のメンバー2人を攻撃したという話だ。ゲンマが「無」属性であっても、サキュバスはゲンマを落としてウィーネたちに差し向けるかもしれない。というか、その可能性が高かった。しかし、3人いればゲンマ1人を押さえることができる。それでも、ゲンマの持つこの黒い武器を前にガードなどは一切通用しない。だから、止めるよりも殺した方が自分たちの被害を抑えられるはずだし、自分を止めようとしてサキュバスが逃げたりなどしたら、ここまで来た意味もなくなる。

 

「そ、それは聞けません!」

 

 そこで声を大にして言ったのは、驚いたことにクラカだった。思わず、足を止めて振り向いてしまう。そこにいたクラカは、不安ではなく決意に満ちた目で、ゲンマを見ていた。銃は手にしていない。

 

「わ、私たちの今があるのは、ゲンマさんの優しさのおかげなんです。私みたいなへっぽこを仲間に迎えてくださって、リエスさんたちを助けて今暮らしている家があって、ブレードディールの任務でもティグリーさんを助けようって言って…」

「……」

「そんな、ゲンマさんを助けずに殺してしまうなんて…私にはできません!」

 

 最後には目を瞑って、半分叫んだ。

 辺りが、水を打ったように静まり返る。

 

「…そう、ですよ。その通りです」

 

 次いで口を開いたのはアルナだった。

 

「私たちにとってゲンマさんはかけがえのない仲間で、大切な人です。そんなあなたが敵の手に落ちた時、何もできずに殺してしまうということは、今までの私たちを否定してしまうようなものですから」

「……」

「たとえあなたが敵に操られたとしても、私たちはあなたを助けます」

 

 アルナもまた、強い力の籠った眼差しをゲンマに向けている。

 そんな2人を前に何も言えないでいると、ウィーネが背中を軽く叩いた。

 

「今までさんざんあたしたちに『殺すな』『助けよう』って言っておいて、自分のことは『殺せ』っていうのはちょっと自分勝手だと、あたしは思うね」

 

 言われて、口が引き締まる。

 

「あんたのそういう情を捨てきれないところとか、残酷になれないところは長所とも短所とも言える。けど2人の言う通り、その言葉と行動のおかげであたしたちの今があるのよ」

「……」

「あたしたちは、そう言うあんたと一緒にいることを選んでるんだから。他でもないあんたが否定するんじゃないわよ。あたしたちは、たとえあんたがサキュバスにどうこうされようても、絶対に取り返してやるわ」

 

 今度こそ、ウィーネの笑みからは緊張が消えていた。その言葉通り、何としてもゲンマを救って見せる、という意思が込められている。虚勢を張っているのではない、本心だ。クラカも、アルナも、笑っている。言葉に偽りはないと、その笑顔が語っていた。

 ゲンマは、地面に視線が落ちる。狙ったように、ティグリーが自分と目を合わせてきた。

 自然と、ゲンマは笑ってしまう。

 

「…ありがとう」

 

 皮肉でも何でもない、嬉しさからくる感謝の言葉。

 ゲンマは告げ終えてから、目線を上げる。

 

「行こう」

 

 もうその言葉にも顔にも、心にさえも不安はなく、目的地へと向かう足取りは誰もが力強いものとなる。

 

 

◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◇

 

 

 辿り着いた屋敷は、ゲンマたちが暮らしている家の倍ぐらいの広さを誇る規模だ。見るからに2階建てで、外壁はほとんど白一色、屋根の上にはドラゴンなどの動物を象った像が据えられている。屋敷というよりも「洋館」と言った方がしっくりくる。

 

「ティグリーは…」

「がうっ」

「連れてってあげた方がいいわね」

 

 その屋敷に入る前に、ティグリーを外で待たせるか一瞬悩んだが、自信満々に吠えてきた。ここはウィーネの言葉に従い、連れていくことにする。

 鍵が掛かっていない両開きの扉を開ける。外は晴れているし、この屋敷の周囲は木々も伐採されているのだが、嫌に中は暗かった。全く光がないわけではないが、注意深く歩かなければ躓いてしまいそうなほどだ。

 

「どうする?」

「屋敷の中がどうなってるのかも分からないですし、まとまって動くしかないですね」

 

 方針を考えたが、自分たちにはここに強いサキュバスが出るという以外の情報がない。屋敷の間取りも分からないので、ここはアルナの言う通り固まって行動したほうがよさそうだ。

 中を歩いていると、どこかの窓が割れているのか、隙間風とその音が滑り込んでくる。サキュバスを化け物と分類すれば、ここは文字通りのお化け屋敷だ。ホラー映画の類が苦手だったゲンマには、正直言ってサキュバスという存在よりもこの状況の方が恐ろしい。

 そうして屋敷を歩いていると、扉が開いている部屋が1つあった。先にウィーネが警戒しながら、その部屋の中を覗き見る。脅威はなかったようで、皆を招き入れた。

 

「ここは、客間か?」

 

 広々とした部屋を見回す。随分と広い部屋で、中央には応接用のソファとローテーブルが1対据えられている。正面の壁はボロボロのカーテンがかかった窓、右の壁には暖炉があり、左側の壁には豪勢な装飾が施された鏡がかけられていた。壁際のコンソールテーブルには花瓶が置いてあったが、花は挿されていない。

 

「そう言えば、ここは昔貴族が住んでたって言ってましたね…」

 

 部屋を見回しながらアルナが言う。ルスターからは確かにそう聞いていた。今でこそ寂れてしまっているが、人が普通に暮らしていた頃は豪華絢爛な設えだったに違いない。

 

「で、でも…な、なにもなさそうですねぇ…」

 

 クラカの言葉に頷いて、一行はその部屋を出て今度は2階へと上がる。

 そして階段を上がって、すぐ左手にある部屋も扉が開いていた。同じようにウィーネが先導して入ったそこは、誰かの私室と思しき広さの部屋だ。しかし、部屋の広さはなかなかのもので、自分たちが暮らすギルドハウスのリビングほどの広さがある。壁際には布団の無いベッド。窓のすぐそばには机が据えられており、そこには何かのボードが立てかけられた小さなイーゼルがあった。

 それが気になったゲンマは、イーゼルの向きを変えてボードに何が描かれているかを見る。埃を払ってみると、そこに描かれていたのは1人の少女だった。少々色褪せてしまっているが、どこかの草原で、白いドレスを着ている灰色の髪の少女。赤いリボンと薄桃色の瞳、穏やかな目つきが特徴的で、色が抜けかけていても分かるほどの美貌だ。絵の隅を見てみると、名前なのか「マイリー」と書かれている。

 

「なあ、これって――」

 

 その絵を他の皆に見てもらうとしたところで、足元の感覚がなくなった。

 

 

「ゲンマさん!」

 

 アルナが手を伸ばす。だが、ゲンマは床に突然空いた穴に落ちてしまっていた。彼が直前まで持っていたと思しき小さなイーゼルと何かのボードが、音を立てて床に落ちるが気にならない。それよりも、アルナはゲンマを助けるために自分も下りようとしたが、すぐに穴は閉じられてしまう。さっきまでそこには何もなかったのに、魔術的な気配もなかったのに、落とし穴が仕掛けられていた。床がそのまま開いたような形だったから、魔術を伴わないものだったのか。

 

「この下はあの広い部屋だ!」

 

 ウィーネが叫ぶと、クラカとアルナ、そしてティグリーは急いで1階へと駆け降りる。そして、先ほど見た客間のような広い部屋へと突入した。

 

「…?」

 

 だが、その部屋には誰もいなかった。間取り的に、あの部屋の真下にあるのはこの部屋だ。なのに、その部屋には誰もいない。あるのは寂れた応接セットと、ボロボロのカーテン、火のついていない暖炉、花の無い花瓶。

 つかつかと窓際に歩いていくウィーネが、苛立たし気にカーテンを開けるが、誰もいない。その先に広がっているのは草が生えまくった庭だ。

 

「げ、ゲンマさぁん!?」

 

 不安に耐えかねて、クラカが名を叫ぶ。けれど返事はない。

 するとクラカはホルスターから銃を引き抜くと。

 

「ダンナァ! 近くにいるなら返事しろォ!!」

 

 さらに声を張り上げて名を呼んだ。銃を持った方が声が通るのだろうか。しかしなおも、ゲンマの反応はない。

 ティグリーは、床の匂いをくまなく嗅いでいる。恐らくは飼い主の、主人の匂いを探しているのだろうが、それも時間がかかるだろう。

 そこでアルナは、異空間から杖を取り出した。

 

「アルナ、探知魔術でゲンマを――」

「今やってます!」

 

 我ながら、他人の話を聞く前に返事をするというのは初めてだ。

 だが、それぐらいには、アルナもゲンマがいなくなったことに焦り、そして不安を抱いていた。

 意識を集中させて、探知魔術を発動させる。何度もクエストをこなしたことで経験が重なり、かなり広い範囲まで探知することはできる。

 一刻も早くゲンマを探さなくてはならない。

 何せここは、サキュバスが住まう屋敷なのだ。

 

 

◇ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇

 

 

 頭に鈍い痛みが留まり続けているが、ゲンマは何とか起き上がった。落ちる途中、何度も角にぶつかって身体のあちこちを打ったせいか、起き上がってもなお痛みが引かない。身体を鍛えるようになっても、痛いものは痛い。しかし幸いにも、黒い杖は手放していなかった。

 辺りを見回す。どこに落ちたのかは分からないが、周りは埃が舞っていてほとんど何も見えない。視界の悪さは上の階よりもひどかった。

 いや、よく目を凝らしてみると、その埃は紫色っぽい。

 そして思い出すのは、ルスターの話していたこと。

 

――「濃い紫の霧が急に立ち込めてきたと思ったら襲ってきた」…彼女たちはそう話しています

――そして『その冒険者たちの後ろにはぼんやりと女の姿が見えた』とも仰ってました

 

 すぐさま黒い杖を構える。

 これは恐らく、そのサキュバスが襲ってくる前兆だ。どんな方法で操ってくるのかは知らないが、この黒い武器があればどうにかなるだろう。

 とにかく、これから起きることに十分に警戒しなければ。

 

「…ど…ですか…ゲンマ…ん!」

 

 声が聞こえてきた。

 その出所は、後ろ。振り返って、目を凝らしてみると。

 

「ゲンマさん!」

「アルナ…」

 

 埃の合間を縫って、アルナが姿を見せた。向こうもこちらの姿を認識したのか、表情に安堵の色が滲み出る。

 するとアルナは、涙を滲ませながら駆け寄ると、抱き着いてくる。初めてのことに驚くが、それだけ心配をかけてしまったか、とゲンマは自分の不甲斐なさを恥じる。それでも、アルナの背中に手を回しはしなかった。

 

「よかった…無事じゃなかったら、どうしようかと…」

「心配させてごめん。でも、俺は大丈夫だから…」

「本当ですか…?」

 

 本当のところ、身体に鈍い痛みがあるが、活動に支障が出ないほどではない。なので、無理にでも元気に振舞って見せると、アルナは涙を滲ませながら小首を傾げる。頭にかぶっていた白い帽子が落ちた。

 

「でも、私不安だったんです。ゲンマさんがいなくなって…」

「ああ。他の皆は…」

「だから…」

 

 ゲンマの言葉に答えずに、アルナは一度ゲンマから離れる。

 すると、アルナは自らの上着の裾を持つと、上へ持ちあげて服を脱ぎ始めた。白い素肌が見えた瞬間に、ゲンマの理性が発動して目を閉じた。

 

「おい、アルナ…!?」

「不安だったんです。だから、ゲンマさんにこの不安を、埋めてほしいです…」

 

 思わず名を呼ぶが、衣擦れの音が続いている。まさか、この場で服を全部脱ぐつもりだろうか。敵の本拠地でそんなことをする余裕などあるものか。

 そこで気付いたのは、これがサキュバスの能力という可能性だ。

 

「ウィーネ、クラカ、ティグリー! 近くにいないか! いるんならアルナを…」

「ここにいるわよ」

 

 確証が持てないまま、みんなの名を叫ぶ。

 その直後、背後からウィーネの声が聞こえたかと思うと、背中から誰かが抱き着いてきた。今なお目は開けられないが、恐らく声からして抱き着いたのはウィーネだ。それも、服を着ていないのが感覚で分かる。

 

「ダメじゃない。すぐにいなくなっちゃうなんて…ちゃんとしなさいよ? それとも、まだあたしたちのことが信じられない? それなら、違った方法であなたを信じてるって気持ちを伝えてあげましょうか…」

 

 耳元で、ゼロ距離でウィーネが話しかけてくる。吐息までかかってきて、身体全体が震えた。

 同時に自分の中で、炎のような何かが燻り始める。

 

「ご、ごめんなさい…ゲンマさぁん…」

 

 左側からクラカの声がしたかと思うと、自分の左手が握られた。彼女は普段からグローブをつけていたはずだが、その感触がない。そして左腕が引っ張られたかと思うと、柔らかく程よい温かさの何かに触れた。今なお目は開けられないが、それが女性の身体だということが理解できてしまう。きっと彼女も、裸だ。

 

「私あんなこと言って、それなのにゲンマさんを守れなくてぇ…やっぱり私には、自信がないんです。なので、私にもを、自信をくださいぃ…」

 

 そう告げるクラカはどんどん自分に近づいてきているのが気配と声量で分かった。そして今、自分の目の前にはアルナもいるのだろう。それも、一糸まとわない姿でいると、分かってしまった。

 歯を食いしばり、息が荒くなる。瞼を接着剤で貼り付けたかのように、死んでも目は開けないと自分に言い聞かせる。それでも自分の中で雄の本能が頭をもたげ始めていた。だが、目を空けたら「終わり」だ。

 もう分かっている。これはサキュバスが作り出した幻覚だ。

 そう判断した理由は2つ。まずはじめに、彼女たちはこんな場所のクエストの途中という状況で、そんなことはしないと信頼しているから。そんな性格ではないと、日々のクエストや生活で理解しているから。

 もうひとつは、自分はそんな身体を差し出されるような魅力を持っているはずがないと、信じているから。自分の容姿がこの世界でどれ程のレベルかは知らない。だがアルナたちは、自分のことを信じているし、自分の姿勢に共感を示してくれている。それでもやはり、ゲンマは自分に自信が持てず、自分は強いとは信じていないし、皆から好意を抱かれているとは夢にも思っていない。だから、アルナたちがこんな行動を自分にするはずがない、という後ろ向きながらも確かな自信があるのだ。

 そう思ったところで、自分の中の情欲が静まってきた。

 ただ、これが幻覚と分かっても、どうやって目覚めればいいのか分からない。

 

「ゲンマさん」

 

 自分の両頬に手が当てられる。手の大きさと位置関係からして、アルナだ。自分の鼻や口に吐息がかかり、頭をおかしくさせるような匂いが鼻孔を貫く。

 

「目を開けてください…」

「あたしたちに…」

「あなたの全てを見せてくださいぃ…」

 

 脳を揺さぶるような、三方向からの声。ぶるぶると瞼が震えはじめ、自分の中で欲望が沸点を越えようとしている。さっき感じた鈍い身体の痛みなど、忘れていた。

 痛み、という言葉でゲンマは思いつく。自分にダメージを与えれば、この幻覚は醒めるのではないか。自分の中にある本能を、理性という名の槍で串刺しにしてどうにか堪え、どうすればいいかを考えた。

 だがその答えは、最初から手の中にあったではないか。

 

「さあ、目を開けて…」

 

 アルナの唇が迫ってくるのが分かる。ウィーネの手が、自分の下腹部へと下がっているのが分かる。自分の左手が、クラカのへその辺りに触れているのが分かる。もう時間は残されていないと、ゲンマは理解していた。

 右手を無事にしてくれたことに感謝して、ゲンマは黒い杖を剣へと変形させる。ここで幻覚のアルナたちを斬るという選択肢もあったが、如何に幻覚と言えど仲間を斬るのは心苦しくてできない。

 それに、夢や幻から覚醒するには自分の身体にダメージを与えることと、相場は決まっている。

 だからゲンマは。

 

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

 

 叫び、自分の腿に黒い剣を突き刺した。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◆ ◇

 

 

 寂れた客間で探知魔術を使っていたアルナは、確かにそれを聞いた。

 

「今の声、ゲンマさん…?」

「ゲンマ、どこ!?」

「返事しろォ!!」

 

 同じようにその叫び声が聞こえたウィーネとクラカも呼びかけるが、返事はない。

 アルナは焦る気持ちを制御しながらも、探知魔術を発動する。

 すると、この下でゲンマの「無」の自然エネルギーを探知することができた。だが、そのすぐ近くには強大な「火」の自然エネルギーも感じる。ゲンマは怪我を負っているのか動かず、「火」の自然エネルギーの持ち主もゲンマから距離を置いている。恐らくは、その「火」の自然エネルギーの持ち主こそ、この屋敷に住まうサキュバスだ。

 

「この真下にいます!」

「真下つってもどうやって行きゃあいい!?」

 

 皆に伝えるが、クラカは地団太を踏む。下にいると分かっていても、その下へどうやって行くのか分からない。先ほど声が聞こえたということは、どこかに通路があるはずだ。けれど、この屋敷を最初に見て回った時、下へ行く階段なんて見当たらなかった。ウィーネも視線を部屋中に巡らせて、どこかに下へ行く道がないかを調べている。

 探知できるゲンマの自然エネルギーは、あまり安定していない。怪我をしているのか、それとも既にサキュバスの手にかかってしまっているのか。それを確かめることはできなかった。しかし、一刻の猶予もないことだけは分かる。

 アルナもどこかに何か手がかりがないかと辺りを見回すと、壁際の床の匂いを嗅いでいるティグリーがいた。しかも、そこを掘るようにガリガリと床を引っ掻いている。

 

「……」

 

 気になったアルナが、一旦探知魔術を止めてそちらへ向かう。そして、ティグリーが引っ搔いていた部分を軽く叩いてみると、そこだけ空洞になっているようだった。その周囲の床をくまなく調べると、壁際に取っ手がついている。その取っ手を引っ張ると、蓋のように床が開いた。

 

「ウィーネさん、クラカさん! こっちです!」

 

 手がかりを見つけてくれたティグリーの頭を撫でながら2人を呼ぶ。ウィーネたちが駆け付けると、下を指差す。穴の中には梯子があり、下の階へとつながっている。下の方は紫色っぽい埃が溜まっているが、それはサキュバスが出現した時の条件に酷似している。

 すぐにアルナは、梯子を辿って下へと急ぐ。その上からウィーネとクラカもついてきたが、ティグリーは流石に下りられないのでその場で待ってもらうほかない。

 20秒ほどで降りると、細い通路が続いている。そこを行こうとすると、後ろからクラカが銃をホルスターから抜きながら追い越す。梯子を下りるのに銃が邪魔だったから、一度戻したようだ。

 

「あわわごめんなさいぃ…待ってろやダンナァ…!」

 

 通路をかけるクラカの後を、ウィーネと一緒に追う。こういう時、彼女の前へ出る行動力と、自分たちを鼓舞するような声がとても力強い。

 アルナたちは、通路を駆けた。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◆

 

 

 自分にまとわりついていた感覚が霧散して、周囲の空気が澄んだような気がした。

 閉じていた目を思い切り開く。剣を突き刺した痛みで、額からぶわっと脂汗が浮かび、目元にまで垂れてきた。呼吸を荒げ、改めて周りを見ると、紫の埃はない。アルナたちもいない。自分がいるのは、床と壁、天井が石で囲まれた低い天井の部屋だった。広さは、先ほど見た客間とほぼ同じぐらいだが、光源は壁にある小さな窓ひとつだけ。すぐそばの壁には、ダストシュートのような穴がある。ここから自分は落ちてきたのだろうか。

 そして、壁際には、十何人ほどの男が横たわっていた。服には目立った汚れはないが、頬はこけて目は光を失い、手足も骨と皮だけになっている。生きているかどうかの確認は不要だろう。

 

「驚いたわねぇ」

 

 女性の声がした。

 そちらを見れば、窓を背に女が立っている。身長は160センチほどの灰色の長い髪の女性で、サキュバスの生態は詳しく知らないが見た目の年齢は20代前半ぐらいだろうか。肌が恐ろしいほどに白く、腰の裏からは黒く細長い尻尾と、蝙蝠のような黒い翼が生えている。着ているのはネグリジェのように透過性のある服だが、肝心な部分は見えないようになっている。髪にはリボンをつけており、穏やかな目つきと薄桃色の瞳、ほっそりとした輪郭の顔だ。端的に言って、とても美人だ。

 しかしなぜか、その顔には見覚えがある。

 

「まさか、自分を刺すなんて思わなかった。みんな大体、ああいう幻覚を見せるとすぐに落ちちゃうんだけど…」

 

 この女性こそ、この屋敷に住まうサキュバスだ。ゲンマはそれが分かっていたが、動けない。腿に黒い剣を突き刺したままで、動けないのだ。引き抜けば、無視できないほどの出血になる。

 彼女の言う「落ちる」とは、欲望に負けて幻覚の女性を相手にし、その間に精力を抜き取られて死んでしまうということだろう。

 

「親しい人、愛し合っている恋人、行き別れた妻、想いを告げられなかった意中の人、理想の人…そういう人を幻覚で見せてしまえばあっという間に囚われる。ずっとそうだったのに…」

 

 サキュバスがこちらへ歩み寄ってくる。痛みで脂汗が止まらず呼吸も荒いが、敵意だけは感じ取れた。

 

「あなたは、かからなかった。よほど、お仲間を信じていたのかしら?」

「……」

「それとも、自分なんかがって自信がなかった?」

 

 まさにその通りだ、という気持ちが抑えられず、歪な笑みを無意識に浮かべてしまう。

 すると、そのサキュバスはゲンマの前でしゃがむ。甘い香りが漂ってくるが、そのサキュバスは剣が刺さったゲンマの腿を優しく撫でてくる。剣を刺したままなので出血は若干で済んでいるが、近くを触られるだけで激痛が走る。呻くと、サキュバスは笑みを深めた。

 

「自信がない人っていうのは、今までたくさんいたわ。でも、時間が経てば経つほど、自分の中で大きくなる欲望を抑えきれなくて、皆…ね?」

「……」

「でもあなたは、耐えた。耐えて、その上私の幻覚を破った。手順はちょっと拙いけど…初めてのことよ。褒めてあげる」

 

 サキュバスの両手が、頬を優しく包むように触れてくる。目の前に、穏やかな薄桃色の瞳が迫ってきた。

 しかしなぜだろう。このサキュバスは、今ここで初めて会ったような気がしない。

 

「こうするのは初めてだけど…直接あなたの精気を全て吸収してあげる」

 

 今なお、剣が刺さった脚が痛くて動くことができない。振りほどこうにも、このサキュバスの能力なのか、鉄の枷でも嵌められているかのように腕が上がらない。

 サキュバスの顔が迫ってくる。口を半開きにしているそれは、恐らくは口から精気を吸い出すということなのだろうか。

 

「大丈夫、痛くなんてないから――」

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