「莠コ髢馴ヲャ鮖ソ!」
「ッ呪霊!」
突然俺の前に立ちはだかったのは呪霊だった。それも唯の呪霊じゃない。
「キキ、莠コ髢捺?縺」
眠る母さんの上で反復横跳びをするその毛むくじゃらな脚、その人間じみた手。人面犬のような不気味で奇怪な顔面。ソイツは猿の姿を模った呪霊だった。キーキーと本物の猿のように傍迷惑な鳴き声を響かせて、醜いつら構えに嘲笑を湛えて呪霊は嗤っている。
「っこの、」
猿の平爪らしからぬ、アイスピックのように鋭利な爪で母さんの首元に振り下ろされそうになって、俺は咄嗟に伸ばした掌で受け止めた。
最初に穿通が、次にぽたぽたと生温い感触が己の手首を伝って布団に落ちた。
キキキ。猿は一層嗤うと一旦壁際に退いた。
「くそ、一級か!?」
ザルティスはバルト神話の蛇神様だ。バルト地方で根強く信仰された蛇の神であるザルティスは呪霊で例えると一級相当、それがいくら奇襲とはいえ呆気なく顕現を解かれてしまうなんて。おまけに猿は知能が高い。
ベッドの端で尚も飛び跳ねる猿の呪霊は愉んでいるように見えて、俺の動きを注視している。如何にも猿らしい狡猾さだ。だけど人間様を舐めてもらっては困る。
「…ホヤウカムイ、レヴィアタン。」
名を呼べば、二匹の神様は心得ていると肥大化した。目にも止まらぬ速さでレヴィアタンが眠る母さんを確保した。とぐろの裡から顔だけを覗かせる母さんを真横に、ホヤウカムイが突進する。
「騾溘>逍セ縺」
「させるかよっ!」
猿が避けた。壁が抉れた。
俺の保護対象を正確に見破った呪霊はレヴィアタンに攻撃を仕掛けようとする。それを俺は見越していた。ホヤウカムイの追撃を小柄な体躯を利用して軽々と避けながら迫ってくるソイツに、俺はバジリスクの毒牙を懐から取り出すと猿の胸に突き刺した。
「縺翫…繧御、ココ髢」
猿の呪霊は甲高い雄叫びをあげながら消滅していった。
「ッち、また猿の匂いが染みついた…」
激しい厭わしさが募って髪を掻き上げた。何だってこんなところに一級呪霊が現れたんだ。まさか昨日の合戦で早くも猿の怨念が…?
兎も角、脅威は去った。実家が呪霊の襲撃に遭うタイミングに偶然居合わせられて良かったと心底胸を撫で下ろして。顔を向ければ、母さんは捕食される寸前の獲物のようにレヴィアタンの体の渦の中心で眠りに耽っている。
「…いったいどんだけ睡眠薬飲んだんだよ。」
昔から変なところで大雑把だったことを思い出して苦笑を滲ませた。口にかかった髪を退けてあげようと右手を伸ばして、先程の猿の所為で抉れているのを思い出して母さんの顔が汚れないようにバジリスクの牙を持つ手を持っていく。
「止めろッ!」
「は…ッ!?」
そんな時、何処からともなく破裂音とともに眼前に現れた拳に俺は吹っ飛ばされた。
「かはっ、」
即座に身体を起こす。口内に広まる気持ちの悪い感触を吐き出せば、どろりと粘ついた血がフローリングに吐き出された。敵意を曝け出す二匹を制止すると正面を見据える。特徴的な声から相手はすぐに判った。
「何なんだよ虎杖…」
「何なんだよって、お前自分が何してるか判ってんのか!?」
「猿祓っただけだろ」
「梔子!」
虎杖はいつの間にかレヴィアタンから奪った母さんの首元に指を添えて脈を測っている。本来なら宿儺や真人達に対するような剣幕で虎杖は俺を睨め付ける。約一週間ぶりの再会だというのに、何故俺が由ない憤激の矛先にされなければならないのか。腹が立って睥睨し返すと同級生はより一層目付きを強めた。
「お前の母さんに、」
「問題ないよ。まだ眠ってるだけだ、後少しで永遠の眠りについてただろうな。」
そう、後少し俺が遅ければ彼女は忌まわしい猿の呪霊の標的となって吉野順平の母親のように還らぬ人となっていただろう。本当にタイミングが良かった。
けれどもつくづく人心地になっている俺に反して、人一倍温厚な筈の虎杖は怒鳴った。
「お前、それでも人間かよ…!」
「何で赤の他人のお前にとやかく言われなきゃならない。」
何故虎杖が怒っているのかなんて分からない。そんなのどうだって良い。第一、明らかに不当な鬱憤ばらしに付き合わされている俺からすればたまったもんじゃない。
元通りベッドに母さんを寝かせてくれたのは有難いが、今にも俺に殴りかかってきそうな凄みに俺も無意識のうちに身構えた。
刹那のこと、何処からか馴染みのある低音が届いた。
「悠仁ナイス!」
「先生!」
虎杖が割った人様の窓から五条先生が長い脚から走り高跳びのように侵入してきた。いつもの目隠しを外して美貌を惜しげもなく晒す担任は数日前の夜の図書館と何ら変わっていない。
「っ、五条先生…」
途端にあの日の確執が蘇って、罰が悪くなって視線を彷徨わせれば五条先生は「逸」と俺を呼んだ。心臓が跳ね上がった。彼の声音はひやりとするほど淡白で、まるで自己紹介したての相手の名前を呼んでいるかのようで。
「結局、こうなったか」次いで俺と母さん、蛇と虎杖を順繰り見遣って独り言を呟いた。情の一切も感じられない、現実を淡々と受け入れる涼しげな風鈴のような音色だった。
「最後に聞かせてほしい、」
最後という不穏な単語に心臓が喚いた。
声が遠ざかる。聞かずとも察せられた。俺の家出がいつしか自主退学に方向転換していたのだと。そうすると全てが腑に落ちた。誰も俺を追って来なかったのは、度重なって面倒事を生み出す俺に誰もが嫌気が差していたから。退学が検討されていたからに違いない。
「俺は、俺は…」
だって、仕方ないじゃないか。色々と一杯一杯だったんだよ。ああそうだ、突然降って降りた天与呪縛で人が猿に見えるようになって、色んな葛藤を乗り越えて。それでも矢っ張り現実と上手く向き合えなくて紆余曲折した先で見出した解決法、悲痛なばかりの生徒を追い込む担任。たった一度の校則違反だった。
「先生は、俺だけが悪いと思ってるんですか。」
口を突いて出た言葉は自分でも驚くほどに冷淡だった。質が悪いのは重々承知だ。逆恨みする前に、己が謝罪を口にするべきだとも。けれども二度目の人生にもなって、碌に精神の成長を遂げていない俺は学生相応の反抗を言葉にしてしまった。
「逸」
「やめて下さい。」
そんな憐憫の籠った眼差しを送って、身勝手に人の不幸を労ったつもりでいるなよ。口元を拭って先生と虎杖と向き合う。レヴィアタンとホヤウカムイが俺に寄り添ってくれた。俺は正面切って啖呵を切ろうと五条先生を注視した。その海を映し出した空のような双眸を。そんな矢先…
「キャアアア!」
何処からか絹を裂くような悲鳴が鼓膜を揺さぶった。全員が咄嗟に視線を走らせる。向かいの家々から黒煙が立ち昇っているのが窓の外に見えた。次々と絶叫が聞こえてくる。排気ガスが炎上しているような臭いのなかに僅かばかりの呪霊の気配を感じ取ると先生は舌打ちを零した。
「悠仁、逸逃さないで。」
「うっす!」
「はぁ?」
五条先生は瞬きの隙に騒動の方角へと飛んでいってしまった。先生の指示を受けて警戒の眼差しで虎杖は、さも俺が起訴を待つ容疑者かの如く見詰めてくる。苛立ちはいつしかぐつぐつと煮えたぎり、抑制できない憤怒へと昇華していた。わけのわからない状況で、意味不明な激情に呑み込まれてしまう前に一刻も早く此処から立ち去らなければならなかった。
「虎杖、退けよ。」
「退かねェ、お前いっぺん頭冷やせよ。」
「…そうか、よく分かった。」
単純な等級と呪力を鑑みれば虎杖はまだ俺の足元にも及ばない。それでも彼の逸脱した反射神経と純粋な戦闘センスに打ち当たれば、体術戦が弱点の俺は地に伏させられるだろう。俺は思い巡らす。虎杖の総合的な戦闘能力に対応した蛇は…。
そうして一匹の蛇を召喚しようとして、
ゴォン!と凄まじい破壊音をたてて何かが壁を突き破った。土埃を立てて現れたのは…
「だからぁ何なんだよ一体!」
鬱陶しそうに訴えた虎杖に、今回ばかりは俺も全力で同意した。
莠コ髢薙r貎ー縺。迯イ迚ゥ豐「螻ア。
俺達の間に劇的な姿現をしたのは二体の呪霊だった。大雑把に値踏みして二級かそれ以上の。背中合わせに俺達と対峙する呪霊、俺側の一体の方が若干大柄だ。
次の瞬間、虎杖が路上に投げ出された。
「虎っ…ガ」
思わず助けに入ろうとして、言葉は続かなかった。俺が視線を逸らした隙に瞬間的に呪霊がよりにもよって強烈な頭突きを放ったのだ。
世界がグラグラと揺れている。蛇たちが威嚇しているのは感覚的に伝わってきた。何とか視界を凝らそうとして、続け様に呪霊の蹴りが間近に迫っていた。
ドゴォン!まともにパウンドを食らって、気付けば市街地の道路に放り出されていた。
「ぅぁ…く、ソ」
持ち前の忍耐で辛うじて脳震盪から抜け出すとふらつく体を塀で支えた。咄嗟に巨大化したレヴィアタンが下敷きになってくれなければ今度こそノックアウトしていただろう。
「菫コ縺?∪縺!キケケ」
首を三百六十度カチチ、と壊れた人形みたいに回転させて薄気味悪く爆笑する呪霊は、打って変わってヘビー級ボクサー並みの鋼の肉体を見せつけている。何だって一日に二回も一級と交戦しなきゃならないんだ…!
さっさと祓除してしまおうと新たに黒蛇を喚ぼうとして、肩に触れた感触に思考が停止した。
「あれ、おかしいな。」
視界に飛び込んできた人物に俺はこれでもかと瞠目した。胸を、肩を、額にも触れて奇妙だと首を傾げるソイツは…特級呪霊の真人だった。
「なッ」
「はい遅い。」
文字通り魂を掴まれるような恐怖に反射的に蹴りで距離を置こうとして、阻止するように突進してきた一級呪霊に俺はまたもや塀と電柱と仲良くドミノ倒しになった。脳震盪から回復しきってなかったせいだ。ホヤウカムイの気配がしないということはきっと真人にやられたのだろう。一級呪霊の下半身を喰ったレヴィアタンが本来の大きさに戻ろうとするのを俺は召喚を取り消すことで止めた。間一髪で、真人の指先がレヴィアタンに触れることはなかった。代わりにブラックマンバを数十匹召喚する。まるでモビールで遊ぶ赤ちゃんのように、真人が内一匹に触れるとマンバはぐにゃりと形を変えた。
「うーん、やっぱ俺は普通だよね。」
「なんで、こんなとこに」
けれど真人は答えない。俺の問いには答えずに、意想外な質問をぶつけてきた。
「ねェ、ちょっと変なこと訊くけど。」
——もしかして君、一回死んだりした?
「は?」
出し抜けの問いかけに、素っ頓狂な混迷が洩れたのは仕方がないだろう。真人と俺を、織姫と彦星を分つ天の川のように隔てるブラックマンバの群れに仮初の安心感を抱いて、俺は脳漿を絞る。一回死んだ、それは真人が本質的に二度目の生に勘付いたということにほかならないが。
「………」
「え、無視?おーい。」
どうしてだが前世の最期に焦点を当てようとして、スポットライトが壊れたみたいに脳内が靄で埋め尽くされてしまう。
死んでこの世界に転生したのか、この世界に来て一度死んだのか、将又別の特異な死を経験しているのか。そもそもいつ、如何やって、何故俺はこの世界にいるのだろう。
当たり前のように過ごしていた日々が、根幹に迫った真人の台詞によってぐらついた。思い出そうと意識を過去に送ろうとすればするほど、地震に遭ったかのように足元が覚束なくなる。
いつの間にか真人がブラックマンバを潰して目前に立っていた。手をひらひらと振って顔を覗いているけれど、何を言ってるのかが分からない。強制的に五感が閉ざされていくようだった。
つと、別の気配がして目線だけを動かせばアイツが佇んでいた。額に雑な外科的手術を施した、俺も実際に過去で対面したことがある反逆者が。
「————」
その本名を無意識に紡ぐと、ソイツは稀有な間抜け面を見せた。それを見届けてからすぐに視界が闇に誘われた。