——目を覚ますと何処かの和室に横たわっていた。お婆ちゃん家の線香みたいな匂いがするのは視覚効果だろうか。竿縁天井の透彫欄間に菊だか牡丹だかの精巧な図柄を彫抜いた格式高さがある。
つと、視線の隅にゆらゆらと何かが映った。首を少しだけ動かしてみる。微妙なカビの臭いを線香が掻き消していた。伝統的な、繊細な澄んだ香りだ。白檀だろうか。
視線を巡らして気付いた。薄らと、幽霊屋敷みたいに密度のある昏がりで目を凝らせば此処が何処かの座敷であることを知った。
次いで目線を下げれば、袖の隙間から指先まで、見える箇所に丁寧に包帯が巻かれていた。高専か?いや、にしても保健室じゃないのは妙だ。おまけに身に纏う衣服は制服じゃなくて男袴だ。
キュ、と兎みたいな鳴き声が聞こえた。
「ツッチー」
種名を囁くと、ツッチーは嬉しそうに目尻を細めて頬に擦り寄った。コイツだけ如何してか勝手に顕現するんだよな。「此処、何処だ?」答えられるはずもないツッチーに手を伸ばして、不意に襖が開かれた。
「俺の屋敷だ。」
活動拠点ともいう。方言を無理矢理隠したような太い声音が、静寂に反響した。その人物は…男は、絹の擦れる音ひとつ立てずに足袋をすっと前に滑らせる。気配すらしないのが却って得体の知れない不気味さを際立たせていた。片手に提げられた角灯が近づくにつれて男の正体が、真夜中に幾つかの灯に照らされて着岸する屋形船の全貌のように浮き上がった。
「貴方は、」
「おう、起きたか。」
男は、いつか補助監督の計らいで座敷宴会で巡り会えた呪術師だった。慌てて体を起こそうとすると、彼は無理をするなと云って俺を布団に逆戻りさせた。
「すみません、状況が把握できてなくて」
「無理もないな。一から説明してやる。」
曰く、俺ん家の近くを偶然通りがかった彼が呪霊の気配を感じて駆けつけたところ俺が倒れていたという。怪我自体は酷くなかったものの頭を打ちつけたようだから大事をとって家に連れ帰った。治療は部下の術師が請け負ってくれたらしい。
「一先ず、助けて下さってありがとうございます。黒宝玉を頂くばかりかこんなことになって面目ないです。」
俺たちにとっては悲願ともいえる術式の試運転はおろか、黒宝玉の効能すら試せていない己が舌先三寸の人間に思えて不甲斐なさで押しつぶされそうだった。けれど俯いて叱責を受け入れる俺に降りかかってきたのは怒号ではなかった。
「ああそんなことか。気にするな!それに感謝をするのは俺の方だ。」
男は語る。俺が図書館から拝借した巻物に彼が最も追求していた術式が記されていたと。気取ったように胸を張って見るからに欣喜する彼に、終わりよければ全て良しと俺も納得する。嬉々と小難しい単語を並べて術式についてを教えてくれようとする彼を遮る。色々と厚い手当を受けたところ申し訳ないが、余計に疑問は募るばかりだった。先ず、あの黒幕と真人と間向かって間も無く気絶した俺が何故生きてるのか、それから虎杖と先生はその後どうしたのか。
「俺がお前を発見した時には誰もいなかった。それと五条悟と虎杖悠仁なら早々に帰ったぞ。」
「っ」
さも当然のことのようにけろりと放たれた言葉に胸が見えない針で刺された気がした。俺は五条先生たちにとって心配するにも値しない、煩悩の種だったのだろうか。答えは直接聞かなければ判らない。けれども独り路上に放置されたという現実が答えなんじゃないだろうか。そう思い至ると、またもやぐるぐると視界が回るような錯覚を覚えた。
キュイ。血が滲むほど拳を握り締めた俺にツッチーが顔色を窺ってきた。硬質な鱗を手の甲で撫でて。
「えっと、」
探るような視線を寄越せば、彼は意を察して「作浪さくろうだ、仮名だがな。」と名乗ってくれた。
「作浪さん、厚かましいのは重々承知なんですがお願いがあります。」
「なんでも言ってみろ、巻物の礼だ。」
作浪さんはすっと眼を細めた。俺は一度唇を噛み締める。脳裏に浮かぶのは高専の皆の姿。俺は彼等が笑顔で過ごせる未来をつくりたい。けれどこの忌々しい天与呪縛がある限りそれは叶わない。五条先生と喧嘩して、虎杖にもきつく当たって…今度は釘咲や伏黒まで、そんなのは御免だ。だから俺はけじめをつける。
「暫くの間、お世話にならせて下さい。」
家事でも呪霊退治でも、求められれば何でもする。だから俺が天与呪縛と向き合って、心の整理がつくまでは。そんな切実な願いを込めて俺は頭を下げた。額を畳に擦り付けて、誠意を頭の先から指先にまで込める。
須臾の間、沈黙が続いた。乾いた唾液を飲み込んだ音を鳴らしたのは何方だったか。
頭を上げろ、俄かに落ち着いた調子が耳朶に触れると俺は上体を起こした。正面に見据えた作浪さんの全てを見透かしたかのような貫禄ある瞳孔とかち合った。
「覚悟は出来たんだな。」
それに深く頷くことで俺は胸襟を表明する。一瞬の間があって、作浪さんは朗らかに大笑した。何処からか女中らしき人が現れて差し出された盃を掲げると、俺たちは親子盃を交わした。理由は不明瞭だったが、それが俺の決意に対する彼の激励なのだろうと結論付けた。
…………。
それからこれから住まうことになる屋敷の広大な敷地を作浪さん本人に案内してもらった。俺が眠っていた寝室で大凡の想像はついていたが、まさか己が日本家屋の豪邸の主にヒモ宣言をしたとなると、厚顔無恥にも程があると下半身が竦む思いだ。まあ呪術師の家系は大抵がこのような由緒正しい家柄なので何らおかしくもないけれど。
それにしても庭園の枯山水で制服を燃やすように促された時は大層驚愕した。これも惰弱な己に対する一つの訣別だと思ってマッチで点火したけれども、炭になっていく制服を眺めていればどうしても背徳感が迫り上がってきた。どちらにせよ連日の任務や洗濯怠慢で所為で買い替えが必要な程に汚れて悪臭を放っていたし、学校に戻った時に新たに新調すれば善いかと自得した。作浪さんは何故か自分事のように満足げに何度も首を縦に振っていた。
夕餉の時刻になると、離れの別邸に案内されて精進料理を頂いた。
「さて、梔子。」
縁側で隣り合って座り、食後に傾けられた徳利を断ると、作浪さんは気に障るでもなく自身のお猪口に注いだ。喉仏が雀斑の指揮詰まった皮膚の下を蠢動していた。
庭師に手入れされた庭木の隙間の彼方此方から、夏虫が己が価値を声高らかに訴えるように大合唱を開催している。
コンッ、鹿威しが共鳴した。天然竹から流れ落ちた清水の溜まった小さな池に黄金や紅の大和柄の金魚が数匹泳いでいる。淡水魚は澄んだ水には棲息しないというのは都市伝説なんだろうか。青白い月光がいっそ鋭いまでに透き通った光の筋で梯子をつくって、池の水面を清冽な銀色雲に仕立て上げていた。神秘性を漂わせる庭園には江戸時代あたりの一場面を切り取ったような、郷愁めいた味わいがあった。
空になったお猪口に再び追加を注ごうとする手から徳利を奪うと、代わりに口を傾けた。熱燗だ。
「早速だがお前には明日から働いてもらう。」
「勿論です。」
働かざる者食うべからず。どんな仕事でも請け負う所存で背筋を正せば、彼はガハハと鷹揚に笑って俺の背を叩いた。地味に痛かった。
「そんなに身構えるな。」
丸い月面のクレーターでも見通そうとしているのだろうか。作浪さんは遥か彼方を眼差してぽつりと呟いた。
「近頃の同胞は同胞とも云えぬ無精者や。金魚の糞や。」
憤懣やるかたないといったふうに、彼は本音を方言に乗せて露わにした。詮無い怒りを滲ませる横顔を呆けて眺めると、作浪さんは態とらしい咳払いをした。
「名家たる俺の威光を笠に着た集団主義的な若人に、権威の転覆を謀る先棒ども。」
猿を滅する志の集いはいつしか貪汚まみれの獣の糞尿にも劣るチンピラ組織へと成り下がった。知らず固唾を飲み込んだ。作浪さんの瞳からは悲痛の色がありありと見てとれた。千々に千切れるほどの苦悩の末に抱いた細やかな願い、それが最も信頼を寄せていた者達によって挫かれる雪辱を俺は痛いほど知っていた。
「けどな、逸」
穏やかな顔で俺を見詰める作浪さんを見詰め返していると、大海原を揺蕩う船にいるような心地になった。若し俺に父さんがいたなら、きっとこんな関係を築けていたんじゃないかって考えても由えないことを夢想した。
「初めてお前を見た時、俺ぁピンと来たんだ。コイツしかいないと。それこそ稲妻が刺さったみてぇにな。」
「恋ですか。」
「そうそう、んなわけあるか。」
試しに呆けてみれば、百点満点のツッコミが返ってくる。俺も作浪さんも白い歯を見せて笑った。暫し屈託のない笑顔を見せ合って、作浪さんは話を戻す。
「俺が思うにな、我ながら人情に重きをおきすぎた。情に棹させば流される、そうだろう?だから俺は同胞たちを今一度纏め上げることにした。」
「纏め上げる。」
「嗚呼。そこでお前の出番だ。お前が新たに組閣する組織に、他でもないお前自身が魂を以て貢献することでかつてない強大な勢力となる。」
「ちょちょ、待って下さい。組織?俺が…?」
突如、人並み事のように告げられる内容に愈々困惑極まって遮れば、作浪さんは言を俟たないといった表情になった。
「言い方は悪いがな、俺は引退してお前を通して摂政政治を行おうと画策しているんだ。我らの大望を叶える為には完璧に機械的に組織を纏め上げる必要がある。…喜べ、全てはお前の革命児たる毅然とした風格を見込んでのことだ。お前は化けるぞ。」
「はあ。」
「内から刷新し、日本ひいては世界に革命を起こす。」
彼の唇が紡いだ作戦は、まるで一つの映画を鑑賞しているように壮大で、雲を掴むような夢物語にも感じられた。けれども、堅く握り締められた拳を宙高く突き上げる作浪さんを見ているとこの人とならどんな不可能も可能にできるんじゃないかと根拠のない自信が、盤石となって俺の衷心を城壁のように固めるのだ。だから俺は彼と手を取り、二人三脚で歩む決意を新たにした。
「ところで組織の名前は如何するんですか。」
「お、よくぞ聞いてくれた。————」
何だか昭和アイドルのグループ名みたいだなと陳腐な感想を抱いた。にしても、来る革命の朝の為に明朝まで演技力の訓練を施されるとは思ってもみなかった。
明天、作浪の大屋敷に三百余の呪詛師が招集された。近年においては夏油傑一派にも優る規模の集会に、風の噂で聞き付けた地方の呪詛師や他組織に潜入中の呪術師までもが戒心、或いは好奇の含意で呪詛師界隈の重鎮の屋敷に足を踏み入れた。
大広間席に案内された者達は家格、役職の格位順に位置付けられた席につき、頭目たる作浪を待ち侘びる。
其処は黒書院と呼ばれる大広間。かねてより作浪への献上品の取次や拝謁の場として用いられる黒書院はその立派な呼称に相応しい豪華絢爛な造りとなっている。家紋の偉大なるを永遠の繁栄を象徴する松や富を呼び寄せる孔雀の優雅な羽を描写した金碧障壁画を目撃して、人々は続いて王座を眼差す。
上段の間にはまだ誰もいない。されど皆々の長たる作浪の背後にひっそりと添えられる昼顔の生花の崇高さといったら、一際荘重を際立たせる者があった。
ある者は呪詛師としての野望も露忘れ権威の上座に魅入り、ある者は威光を虎視眈々と己が強奪する様を思い描き、またある者は呪詛師世界に浸透する作浪の存在感を認めていた。先祖が呪詛師に転落さえしなければ、今日も呪術御三家として誉高い名誉を保持していたであろう一族。
各々の思惑が綯い交じる混沌の間に、遂に二人は登場した。
書生が襖を開けると、最初に作浪が姿を現した。黒紋付袴に帯刀して、泰然とした足取りで上段に向かう。
通常通り平伏する者達は、ついと作浪の背を追う一人の青年に勘付いた。この場にいる一同の中でも一等若いであろう青年は、作浪と同様の鷹司牡丹の家紋が刺繍された黒袴を身に纏っている。
ざわりと空気が波打った。青年の正体を知らぬ多くの者達は、近頃噂の作浪が天塩にかけて育てた隠し子だと信じてやまなかった。極少数の潜入呪術師のみが、最前列についた青年の顔立ちに戦慄を覚えていた。
「皆、よく足を運んでくれた。」
主の量の豊な声が広間に波紋の如く広がった。一同は一世一代やもしれぬ大集会に、主が如何程に深刻な話を言問うのかと耳をそばだてている。作浪は全体を見渡すと、最後に密かに青年に視線を送った。
「態々呼び出してすまない、今日はお前達に吉報を知らせたくて招集したのだ。」
ざわめきの増す広間は、彼が一拍手すると水を打ったように静まり返った。手招きを受けて青年が立ち上がる。
「彼を紹介しよう。後継の梔子逸だ。」
「なんですと!?」
まるで全校集会のようなさんざめきが起こった。誰もが口々に非難の声を上げる。話が違う、婚姻は如何なった。後継は忠臣たる私が。そもそも彼は何者か。身分は、等級は、庶子ではあるまいな。悪口雑言の野次が飛び交い、場は混沌と化していた。だが…
「鎮まれ!」
たった一言、されど雷鳴轟かんばかりの一喝に静寂が舞い戻ってきた。大広間に蝉時雨が洩れ込んでいる。
「逸とは親子の盃を交わしている。今日は継承の儀を執り行う為に呼んだのだ。」
作浪は重鎮たちを見回す。苦虫を噛み潰したような不満がありありと見て取れた。逸に対する何処ぞの馬の骨でも見るかのような視線が多かった。故に作浪は謂う。
「逸は呪術高専にて呪術の何たるかを五条悟による特訓の末に学んだ佳良で未来ある若者だ。俺の見立てでは特級に値する。」
凡ては台本通りに。
「俺はな、皆と笑い合って過ごす日々に満足している。これ迄も、これからもそうありたいと願っている。」
この男は何を云っているのだ。誰もが白い目で作浪を見遣った。長きに渡り、その強力な術式を盾に繭の中で過ごしてきた所為でとんでもない日和見主義者になったに違いない。特に今日は一等の阿呆に堕落している。殆どの者が、作浪に見切りをつけていた。舞台は整った。作浪は続ける。
「この過酷な呪術社会で…」
「ふはっ」
言葉を続けようとして、横から割り込んできた嘲笑に一同は目線を滑らせた。はは、ふはは!作浪の演説を中断したのは他でもない彼が全幅の期待を寄せていた逸だった。
「何か可笑しいか逸。」
「ふふふ…いや、すみません。」
——あまりにも滑稽だと思って。
また、波紋が生まれた。己の好意を踏み躙られた作浪は眉根を潜めた。
「何?」
「だってそうでしょう。…ここにいる同胞の中で、一体誰が貴方の戯言に付き合うと思ってるんですか。」
よりにもよって非難の的が正鵠を射た指摘を主に申したことが、彼等に得体の知れぬ胸騒ぎを与えた。作浪が反論するよりも早く、逸は続ける。
「良いですか、この競争社会で頂点で俯瞰する者、それは即ち勝ち抜いてきた者です。貴方のような惰弱な思想家に先導されては今後未来を担う若者への示しがつきません。」
後継は、呪詛師と一人一人目を合わせる。その眸子には、強力な磁力を発する磁場のように惹きつけるナニカが秘められていた。彼と瞳を交差させた若者達は、年齢を問わず彼の抱える強烈な真黒い雰囲気に魅せられた。縁取られた隈は寝不足ではなく物静かな気迫として映り、天与呪縛に苛まれた面持ちは猿滅徐への切迫感を鬼神の権化へと変貌させた。
「ならばお前には出来ると言うのだな、この曲者衆を俺の言伝なしに束ねることが。」
逸は嗤う。
「ええ、こうすれば良いんですよ。」
一刹那の出来事だった。空間を断絶して現れた巨体が夥しい量の鮮血を咲き散らせた。
召喚されたのは八岐大蛇だった。作浪の立派な屋敷を破壊して、山のように巨大な八つの図体を大浪の如くくねらせて。
「ヒッ」
…作浪の、無くなった上半身が上段から転がり落ちると初老の男が声を飲み込んだ。身の毛がよだつ寒慄が呪詛師達を襲った。作浪の死体に対してでも、八岐大蛇に対してでもない。
特級呪詛師の作浪が、お墨付きとはいえまだ二十路にも満たぬ青年に抵抗の隙もなく無惨に殺されたこと。作浪の恩顧を受けていながら反旗を翻した狂行を。正しく特級相当の実力であることを証明してみせたこと。人格障害者の巣窟ともいうべき呪詛師の中でも抜きん出た人格破綻を披露したことに、呪詛師達は恐れ慄いた。
一方の逸は、作浪の台本通りに形代の作浪が仮初の死を演じてみせたことに内心安堵していた。
「ウズメ。」
偽物の下半身に挿された家宝の刀を己の袴に帯刀すると、逸は傍に控えていたお付きの女中に呼びかける。無論、彼女もこの悪夢のような演劇の演者であった。
「これにて、継承の儀を終了致します。」
これで名実ともに逸は呪詛師御三家の頭目の一角となった。ウズメの声に我に返った一人の呪詛師が大股に踏み出す。
「おい待て、こんな暴挙が」
「大蛇。」
男が何かを言い切る前に、八岐大蛇が呪詛師を持ち上げた。上半身を口内に挟まれて、八岐大蛇は美味しそうに甘噛みをしている。誰もが悲鳴をあげた。まだ頭は七つもある。
頬に付いた作浪の返り血を拭うこともせずに冷淡な視線を男に注ぐ逸は、その実遠い目をして昨夜の作浪との会話に思考を飛ばしていた。
『あまりにも強引じゃないですかね。恐怖政治になりませんか。』
『同胞を殺すのが嫌なら少し脅してやれば善いのだ。なに、ちょっと甘噛みさせれば善い。』
『八岐大蛇に甘噛み、ねぇ。』
果たして古事記に登場する伝説の大蛇が、甘噛み程度に留まれるのだろうか。それは偏に逸と八岐大蛇が培ってきた絆に賭けられた。
赤子のように涎を垂らしながら八岐大蛇に咥えられる男は失神したようで両腕をだらりと脱力させてしまった。その下半身からは丸い染みが広がっている。逸は思った。
——矢っ張り、やり過ぎじゃないですかね。作浪さん。
悲しいかな、本物の作浪は大役を降りた開放感に自室で本物の黒幕とともにわらび餅を味わっているところであった。八岐大蛇に男を離させると、逸はままよと腹を括って最後のひと仕上げに取り掛かる。
「猿、猿、猿…一度街に出れば僕らは類人猿の脅威に苛まれる日々。」
芝居めいた口調で、胸を張って。
「何故正当な人間である僕らが奴らに配慮しなければならない。世捨て人のように身を潜めなければならない。…違うだろ。」
道端の小石でも踏みつけるかのように、血溜まりを踏んで屍体を跨いで、彼は上段に座る。黒い双眸に宿るのは鉄の信念。
「俺たちは、俺たちこそが支配者だ!お前らは人間の住む街に、害獣が跋扈している現状を易々と受け入れるのか!?」
「...ぃぇ」
蚊の鳴くように小さな、されど慥かに士気が鼓舞された。控えめな賛同を叱責するように逸は叫ぶ。
「許していいのか!?」
「いいえ…!」
「そうだ、許しちゃならない…」
「俺達こそが支配者だ!」
「逸様!」
感化された若者を中心に、魂に灯された煮えたぎるような炎が烈しい激情の渦を広げてゆく。
「今一度俺たちは一つになるべきだ!同胞たち、これより我々はこの天災に等しい現実に立ち向かうべく大志を抱いて団結する。よって、この場にいる屈強で有望な呪術師・・・の皆を主戦力とし、回遊組を結党する!!」
「うぉおおおお!!」
天を引き裂かんばかりの歓声が轟いた。趨勢に変化を呼び起こす津波が畝った。
悪鬼の一声により、伝染病の如く感染した狂気は最高潮に達し、禍々しい呪力が周辺一体の空気を震撼させた。集会に潜む正真正銘の呪術師は、最悪の呪詛師の再来を絶望した。
作戦通りの流れに、若干場違いを感じながらも逸はほくそ笑んだのだった。
続きは以上となります。