来る姉妹校交流会が一ヶ月後に迫ったある日の夕暮れ、学生寮の共同スペースに虎杖を除いた一二年生は集っていた。格別の理由はなく、虎杖が公的に故人となり逸が授業はおろか高専の敷地から行方を晦ましてからは両の手にも満たない校友の存在を確かめるべく、知らず識らず無言の点呼を取る機会を求めていたのだ。彼等は顛末を知らない。否、知らされてないと謂った方が正しい。刑務所での特級呪霊との戦闘で肉体の制御権を奪った宿儺に心臓を抉り取られ死亡した筈の虎杖のその後も、一月程前に忽然と居なくなった逸の行先も。何も教えられていない。
唯、逸が消えてからは堰き止められていたダムが決壊したかのように騒めき始めた高専内の空気…殊教職員、出入する見慣れぬ顔ぶれの呪術師らの面輪に揃って宣戦布告を得て北爆された北越南の官吏もかくやの只ならぬ緊迫感を携えているものだから、高専側が芳しくない状況に陥っていると推察するのは容易であった。だというのに少なからず関係者であろう己らに対して未成年という今更な境界線を引き、大人達の誰一人として貝のように口を閉ざしていることが不快で不安だった。
「お疲れサマンサー!いやあ、今日も暑いねぇ」
剽軽な足取りで廊下を通りがかった五条が腕弛い空間を刷新するのと、場の重苦しさに耐えられなくなったパンダが空調の不具合の所為にして窓を全開にするのとは同時だった。折角の涼感がここぞとばかりに外に逃避し、代わりに雪崩れ込んできた炎熱もかくやの蒸し暑さがぐるりと部屋を一周した。
「うわあっつ」
「っつ」
窓際に掛けていた釘崎と伏黒が一足先に肌を撫で上げる温風に眉を顰めたが、パンダを非難したりはしなかった。集まって、ともすれば重量を増してしまう空間を夏の湿気やら素っ頓狂な声やらでその都度造り替えるのはボランティア制であり、今回は事情を存知せぬ五条とパンダが挙手しただけのことである。
共同スペースに礼節も協調制もなく現れた五条は早々に学生らの双眸に宿る陰鬱が近頃の己の不眠症と同質のものであることを察知した。
実をいうとこの最強は恐れていた。呪術師らの間では周知の事実を自身の教え子に伝えることによって、彼等が自身に失望し逸に嫌悪を抱くことよりも、言語化することでとうに現実化した悲劇が更なる不幸へと拍車をかけてしまいはせぬかと危ぶんでいたのだ。然すれば空気を読まない男が密かに空気を読み、颯と踵を返すのは当然の流れであった。
「待てよ悟。」
口にしようとした別れの挨拶を真希が妨げた。どこを見ているか分からない目隠しが真希を向く。いつになく不貞腐れた面相の四級術師は彼を真っ直ぐに見据えて逃さなかった。
「私らに、言うことあんだろ。」
蝉しぐれが不吉な予感を代弁していた。冴え冴えとしているべき新緑も暁の光芒も誰か悼むように蝉の鎮魂歌に耳を傾けていた。それはもう後戻りの叶わぬ自分達の青く瑞々しい春の日々だったのかもしれない。
五条はこれ以上のつんぼ桟敷は意味を成さないばかりか両者間に亀裂を走らせることを悟った。
ぐわんぐわんと冷房に打ち勝ち室内を巡回せんとする暑気を断ち切るべく彼は窓を閉めた。静寂が煩くなった。
「そうだね。良い加減に皆にも話さないと。」
普段より一オクターブも下がった声音に、それを何よりも望んだはずの真希の胸を後悔が過ぎった。真摯な口元を引き締め五条は一人掛けのソファに腰を下ろす。
…誰もが発言の時を待っていた。
「逸は離反した。」
引き攣った喉から悲鳴ともつかぬ音を漏らしたのは誰だったか。言葉を呑み込めぬ一同を前に、己が発した言霊がずしりと胸に伸し掛ってきたのを五条は感じた。それでも一度放った言葉は滝の如く流れ出してきた。
「二週間前の夜、僕と学長は高専の機密を外部に洩らしてる補助監督が呪詛師と密会するという情報を掴んで現場を見張っていた。こちらの予想通りに男は現れた…逸と共に。」
歳若くも現実社会というものの辛苦を身をもって味わい傷心する教え子を護ろうと誓った矢先の出来事に、二人が虚をつかれる間に逸は会合の場を去った。急ぎ後を追った先の図書館、立入り禁止の階層で敵意剥き出しの蛇に庇われて、月光に翳った諦観の微笑が目に焼き付いて離れない。
——この世から猿を消し去る術式があるみたいで、それを実践してみようかなって。
一週間後の梔子家で相対した逸は親に叱られることを恐れる子供のように縮こまっていた。夏油と同じ苦悶する者としての眼は、しかしまだ狂気に染まっていなかった。だから五条は繊細に扱うべき青年に掛ける言葉を間違えた。
——最後に聞かせてほしい、本当に逸は独りで抱え込むつもりなの?
そんな切実な哀願は悲痛な拒絶となり跳ね除けられた。
——先生は、俺だけが悪いと思ってるんですか。
「傑、そう呼んだんだな?」
「ッ、そうだったみたい。」
天与呪縛の申し子は今夜も遺憾無くその慧眼をもって五条の弱点を突いた。真希の問いには全ての災難が濃縮していた。
五条が邪魔な呪霊を祓除し終えて戻ってくると、そこに逸はいなかった。到頭彼との訣別を悟らざるを得なくなり、負傷した虎杖を連れて高専に帰還した際にあらましを報告した夜蛾に告げられた無自覚の事実に彼は仰天した。逸と傑、生徒と親友、五条は問題が発覚する以前から己の喪失を意図せずして逸で癒そうとしていたのだ。逸が高専ではなく呪詛師という険しい道を択んだ理由は彼が抱える心のトラウマだけにあらず、最も信を置く五条の裏切りにも等しい死者の投影にもあったのだ。
——僕が俺自身を乗り越えられていないのに、どうして逸を救えると思ったのだろう。救われる覚悟が何だというんだ、最初に救っておくべきは自分の過去じゃないか。内面の整えられてない人間に手を伸ばすなんて僕にだってできやしない。
よりにもよって早期の段階で己が逸の傷口に塩を塗っていただなんて露ほども自覚していなかった。愕然とし、今にも膝から崩れ落ちそうな五条に夜蛾は今一度諦めるように云い聞かせた。だからといって「すぐる」を見捨てることができようか。もはや彼の存在そのものが五条の捨てきれぬ青春、諦めきれぬ平和な未来を如実に表しているのだから。
「結果的に僕が追い詰めちゃったんだ。」
「殺したのか?」
最強の稀有な悔恨を無視してパンダが問うた。その意図は容易く察せられた。逸が非術師を殺したのか、それだけが現状彼等が最も着目すべき憂慮だった。
五条はやおら首を横に振った。まだ、という二文字付きで。三回分の瞬きばかりの安堵が心許なく彼等を包んだ。
「高菜…」
「四日前、へみの君が君命を下した。」
刹那、空気が変貌した。束の間の緊張緩和は立ち所に引き締まり、頭から伸し掛かった冷ややかな圧が氷瀑と化し身動ぐことさえできない緊迫感に衷心を冷やした。真希達は数日前から敷地内の雰囲気を薄氷の上の城の如く硬化させていた所以を理会した。唯一、京学したてで呪術社会に今一疎い野薔薇が小首を傾げていた。
「へみの君?」
「呪術界の頂点に居るお方だ。」
「その前に天元様は知ってるよね?」
「まあ、少しくらいなら。凄く長生きしてるお偉いさんでしょ。」
「凄く長生き、それがどれくらいの認識かで大分印象が変わるな。」
天元、日本国内における遍く結界の確固たる基底を一人で担う呪術師。
「天元様が呪術界の最深部で日本を支える礎石なら、へみの君はその中心に聳える柱のようなものだよ。盾と矛、両者があらねばならない存在なんだ。」
へみの君は天元よりも幾許か先に奈良の世に誕生し、天元の育て親として、また気の置ける友人として日本呪術史を築んできた傑物とされている。魑魅魍魎の跋扈せし呪術全盛平安時代を潜り抜け世の荒波の先登で数多の呪術師を先導してきた手腕は確かなもので、嘗ては天元を拉致し国家転覆を企てんとした六眼と無下限術式の抱き合わせである五条家の若頭を彼の豊富な経験値をもって打ち負かしたこともあり、五条にすら右に出る者がいないと謂わしめる真正の最強である。
「へみの君も治世に関しての基本的なスタンスは僕達現代の呪術師に任せるって感じだから、滅多に表には顔を見せない。…いんや、見せないって言ったら語弊があるかな。あの方はいつも人知れず暗躍してる。だから余程のことがない限りは呪術界の方針に口出ししないし、大抵の問題はご自分で解決されるんだ。」
総監部が夏油を特級呪詛師に認定し、五条がどれ程懇願しても返答の代わりに憐憫のみを差し向けたように。天元の無事に関わる星漿体任務ですら傍観を貫いた存在が、この期に及んで公言した訳とは…
「「平成三十年八月二十九日をもって東京高専所属、一級術師梔子逸を特級呪詛師に認定。但し、呪術規定九条に則った処刑は一時停止とする。凡ての呪術師は追っての処分言い渡しを待ち、罪人と接触次第捕縛し東京高専に連行せよ。」っていうのが命令。」
「ってことは即処刑は免れたんですよね。」
「吉報とは限らないぜ。」
「しゃけ、こんぶ」
最悪の呪術師加茂憲倫以来、夏油が呪詛師として高専の敷地に侵入しようが無干渉を貫いた人物が逸の離反に重い腰をあげたという事実は手軽ではない。
よもや逸が五条家の黒歴史や最悪の呪詛師に並ぶ逆賊として我々呪術師の前に立ちはだかるのではあるまいか、近頃はそのような話で持ちきりだった。挙句の果てにその大御心を窺わんとした五条派の呪術師の謁見を拒否したとなれば悪風は勢いを増すばかりである。
「幸い、来週にも九十九さんがへみの君の御意向を承りに行くことになってる。」
「九十九由基が?」
「うん、駄目元だったけど呼び掛けに応じてくれてね、若しも大御心が芳しくない方角に向いてるのなら説得も試みてくれるって。ただ、期待はしない方が良い。」
語勢に反して一人一人と目を合わせる五条の眸に観念を見取ることはできなかった。彼の口から次々と放たれる言葉がどれ程突飛であるかを理解しているが故に、特に二年の面々は愕きを隠せなかった。
放浪癖のある変人と煙たがられる九十九が、幾ら此度の天の声に関心を惹かれたとしても五条派を代表して拝謁に参るなど有り得ようはずもない。学生時代の五条にも引けを取らぬ放恣な呪術師を態々列島に連れ戻し、お上の翻意を図る容易ならざる企みに彼がどれ程の自己犠牲を払ったのか想像も及ばなかった。
五条は諦めてなどいない。たとえ己の失言が教え子を横道に逸らしたのならば…であればこそ、彼を日向に連れ戻してあげたかった。優しい人間が損をするこの世界で、苦労の結実と悲嘆の消化所を失った青年をもう一度掬い上げる方法はきっとあるはずだから。
「仲直り、したいんだ。」
溢れ出た赤心が正確にいつ頃からのものであるかは分からなかった。それで善い。まだ過去を顧みているだけでも、これから皆で乗り越えていけば善いのだ。
痺れるほどの願いを彼の教え子達は正しく受け止めた。
「ま、三発も殴りゃ目ぇ醒ますだろ。」
「じゃあ真希先輩は最後にして下さい。先輩が殴ったら死んじゃうんで。」
「結局殺す気かよ。」
伏黒が失笑した。狗巻も覆面の下で笑った。
切り替えの儀式とでもいうように、今度は真希が窓を開け放つ。日没からたった半刻ほどで芯から茹だるような熱は些かばかり和らいでいた。輪郭の霞んだ宵闇に充ちる遠い明日の気配を、見目良くなくとも穏やかな未来を思い描いて五条は思った。
今夜は、今夜だけは深く眠れそうだ。